smtwtfs
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< December 2019 >>
profile
recommend
マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
映画検索
カスタム検索
  
 
にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
★の数が意味するところ
★★★★★
生涯のベスト10を塗り替える勢い
★★★★
ブルーレイがでたら買うかも
★★★
観といて損はなかったかも
★★
別に観なくてもよかったかも

金はいいから時間返せ
bk1
new entries
categories
archives
recent comment
  • 「スパイダーマンTM3」  え?え?TMってナニ?
    空中禁煙者 (01/23)
  • 「スパイダーマンTM3」  え?え?TMってナニ?
    nk (01/22)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    空中禁煙者 (07/04)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    台湾人 (07/03)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    空中禁煙者 (07/02)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    台湾人 (07/01)
  • 「ザ・ライト エクソシストの真実」 コレで実話って言われてもなぁ、、、
    空中禁煙者 (06/29)
  • 「ザ・ライト エクソシストの真実」 コレで実話って言われてもなぁ、、、
    通りすがり (06/28)
  • 「ゼロの焦点」 中島みゆきのエンディング・テーマがビックリするくらい浮いている
    通りすがり☆ミ (12/08)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    空中禁煙者 (06/03)
recent trackback
links
mobile
qrcode
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
search this site.

「極大射程 下」 「三大原作のアブリッジが上手な映画」の一つの原作

 本書を読んでもう一つ気付くことは、映画版の「ザ・シューター/極大射程」の映画化に向けてのアブリッジが見事なものである、と言うことだ。
 映画化に向かないエピソードはバッサリ切って、一本の映画として過不足ないようにまとめた手腕は見事。
 原作のボブ・リーに比べ、やや軽い印象のあるマーク・ウォールバーグ主演にも合わせてある。
 原作ではモテモテの二枚目である新相棒のニック・メンフィスがカエルみたいなルックスになっちゃってるのは、多分、二枚目にするとマーク・ウォールバーグが負けるからだろう。

 さらにオレは映画版「ザ・シューター/極大射程」のエントリーで「観客が予想してない時に突然ブシュー。コレがすごく映画的なの。」などと書いているが、コレが実は原作の描写に忠実に演出した結果であることも判った。
 原作にちゃんと

「気をつけろよ、ポニー」といって、トミーが相棒に飛び散る血がかかるのを注意した。
「もう少しで―」
トミー・モントーヤの頭が破裂した。

 などと書いてあるのである。
 この文章の呼吸に忠実に演出したわけだ。

 ハリウッドでは珍しい「白人が主演の映画も撮る黒人監督」アントワーン・フークア、やっぱりタダモンじゃないねぇ、、、

 今のところこの映画は「プレステージ」、「八日目の蝉」と並んで、個人的な「三大原作のアブリッジが上手な映画」の一つと言っていいだろう。

 まあ、「プレステージ」と「八日目の蝉」は「二大原作より面白い映画」なのだが、その一角を担うほどではないが。
JUGEMテーマ:小説全般

at 01:47, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「極大射程 上」 ある意味現代版「南部の唄」

 「ザ・シューター/極大射程」の原作。
 「暗殺者グレイマン」がイマイチで消化不良気味だったので、「真打ち登場!」みたいなつもりで読んでみたが、ナルホドコレは格が違う感じ。
 「暗殺者グレイマン」みたいなイデオット・プロット全くなしで、上下巻突っ走る豪腕には恐れいった。

 主人公ボブ・リー・スワガーは「世界最高クラスのスナイパー」であって、陥れられた苦境を脱するために、スナイパーとしての腕前をフルに活用するが、実は「スナイパーとしての腕前」は、ボブ・リーの手駒の一つにすぎない。
 よく読むと、ボブ・リーが窮地を脱する際に一番重要なのは、いつもボブ・リーの周到さなのだ。スナイパーとしての腕前は、周到な作戦を可能にするためにあるに過ぎない。

 そして、日本人である身ではスティーブン・ハンター氏の叙述を信用するしか無いのだが、この「周到さ」はボブ・リーに代表される「南部人」の特徴として言及される。しつこいくらいにボブ・リーが「頑固で周到でしたたかな典型的な南部人」であることが強調されるのだ。
 どうも、スティーブン・ハンター氏の中では、頑固で周到でしたたかであることと、南部人であることは不可分であるらしい。調べてみると、スティーブン・ハンター氏はミズーリ州生まれイリノイ州育ちであり、あまり南部とは関係がない。
 とすると、逆説的に、南部人が「頑固で周到でしたたか」と言うのは、アメリカ人全体に流布するパブリックイメージなのかもしれない。

 更に、一冊だけ読んで(上下巻だけど)判断するのは早計かも知れないが、意外にボブ・リーの人物像は我々の脳裏に確かな像を結ばない。むしろ相棒のFBI捜査官ニック・メンフィスや、ちょい役の老弁護士サム・ヴィンセント、悪役のジャック・ペインのほうが、イキイキとした人物像を結ぶ。
 主役のボブ・リーは、ただ、現代アメリカ最高の戦士と、頑固で周到でしたたかな南部人のアイコンとしてのみ存在しているようである。

 コレが、シリーズを読み進めるにつれ、どのような人物像を結んでいくかも、楽しみだったりするから、やっぱりスティーブン・ハンター氏、巧いんだろうなぁ、、、

 下巻に続きます。
JUGEMテーマ:小説全般

at 19:25, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「キマイラ 10 鬼骨変」 多神論世界のカエル男

 前にも書いたが、夢枕獏氏はある時期から油が抜けてしまい、昔のとてつもない熱量は取り戻せないのではないか、と言う説がある。
 一方で、夢枕獏氏は延々と終わらない長〜〜〜いハナシばっかり書いているヒトだというイメージもある。
 が、コレは誤解であり、終わった長〜〜〜いハナシもちゃんといっぱいあるのである。
 例えば、「涅槃の王」と「荒野に獣慟哭す」と「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」は見事な大団円を迎えた夢枕獏氏の三大長編であると言いたい。
 この三作品はどれも最後の一行の読んだ時に立ち上がって拍手したいほどの大団円であった(まあ、たいてい電車の中なので立ってはいるんですが)。

 しかし、30年弱に渡って期待した「サイコダイバー・シリーズ」のラストは、「なにコレ、、、」というものであった。
三大長編の内最後に加護に完結した「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」は2004年の完結であり、「サイコダイバー・シリーズ」は2010年だ。
 つまり、この6年の間に、夢枕獏氏は、何かを失ってしまったのだ。

 実際、獏氏のインタビュー等を読んでも、「当初の構想とは違うエンディングになった」と言う発言を複数回しているようである。

 しょうがないのかもしれない。獏氏ももう63歳である。20代30代の頃なら「あと20年30年かけても終わらせる!」と意気込めるだろうが、60代ではとてもそんな勇気は出ないだろう。取り敢えず終わらせよう、、、と思うのも無理は無いのかもしれない。

 割りを食ったのは、20年かけて続けてきてまだ終わっていない大長編である。
 「サイコダイバー・シリーズ」に並んで最初期から獏氏を支えてきた「キマイラ」シリーズも、そんな「終わりそこねた」作品の一つだ。

 獏氏はこの作品に関しても「当初の構想とは違うラストを用意している」と言っている。
 多分、「ま、しょうがないかな、、、」と言うラストを迎えるのだろうな、と思う。

 とは言え、まだ終わってはいない。
 恐らくは迎えるであろうグダグダなラストから逆算されるほど、ひどい巻にはなっていない。

 獏氏の長編の特徴に「やたら回想シーンが長い」と「途中で気になった脇役に入れ込み過ぎる」がある。
 「キマイラ」シリーズはちょっと前に単行本数巻にわたる「やたら長い回想シーン」を終えたところであり、この巻は「気になった脇役に入れ込んでいる」回である。
 しかも、ありとあらゆる小説史上、もっとも主役にふさわしくないオトコ、菊地良二。
 チビで、アバタだらけのカエルのような外見のオトコ。頭も良くなく、ロクに口も聞けず、父親に殴られながら育ったオトコ。ただ、ケンカに勝ちたいという執念だけを頼りに生きているオトコ。獏氏はいま、このオトコに入れ込んで、このオトコを描写している時だけ、筆に熱がこもっている。

 そして、「サイコダイバー・シリーズ」と同じく、登場人物が増えすぎて「多神論世界」のようになっていく作品世界の中で、菊地良二も神の仲間入りしていくようである。

 ソレはまるで、獏氏が影響を受けたと言って憚らない「ウルフガイ」シリーズで、人格低劣残虐無比なCIAの殺し屋、西城恵が多神論世界の神のようなっていったのを思わせる。

 違うのは、西城恵が完成された大人の殺人マシーンであった事に対し、菊地良二はまだ未完成であり、「青春を謳歌することを禁じられた」青春まっただ中の高校生である、ということであり、ソコがまたなんとも夢枕獏らしいなぁ、、、と思うのであった。
JUGEMテーマ:小説全般

at 23:10, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「暗殺者グレイマン」 主人公設定が読者からもグレイ

  「グレイマン」は主人公のニックネーム。身を隠すのが得意で決して居所を知られないことからそう呼ばれている。グレイマンは同時に殺し屋の世界で「おそらく今現在世界最高の殺し屋であろう」と言われる、元CIAの凄腕ヒットマンである。

 冒頭、そのグレイマンがイキナリ「正義のヒト」であることを示す描写があって、たまらなく不安になってしまった。

 アクション小説の主人公が正義の味方であってもいい。ソレはふつうのコトだ。
 一方、世界最高の殺し屋を主人公にした小説があってもいい。コレも過去に例はいくらでもある。
 しかし、世界最高の殺し屋が正義のヒト、と言うのはどうだろう。
 コレは通常われわれ一般市民の職業倫理に照らして著しく無理があると言わざるを得ない。
 ヒトを殺すことを生業にして世界最高にまで上り詰めることと、正義のヒトであることの間には、普通の人間には超えられない心理的障壁がある。

 例えば、ロバート・ラドラムはこの障壁を乗り越えるために、記憶喪失という手を使ったわけだ。洗脳されて殺人ロボットと化しても、記憶を失うことによって、逆にもともとの人間らしさが戻ってくる。
 コレなら納得できる。

 残念がら「暗殺者グレイマン」にはこの工夫が見られず、単に「リアリティがない」で終わりになってしまいかねない。

 前半、主人公の計画が、ことごとく失敗するのは良いと思った。主人公の行動はバカではなく、ナルホド手練の暗殺者だと思わせるものであるにもかかわらず、様々な事情で失敗し、ひどい目に合う。コレがリアリティというものだろう。
 ところが、ひどい目に合わせすぎたせいで、ハナシがたち行かなくなってしまい、後半に入って救世主が二人もあらわれる。ヤレヤレ、、、

 まあ、正直言って第一巻であり、すでに邦訳が後3冊もでている。もしかするとその中で、なぜグレイマンが殺し屋という職業と正義を両立できるのか明かされるのかもしれない。なぜ最優秀であるにもかかわらずCIAをクビになって、あまつさえ「発見し次第射殺」命令が出ているのかも明らかになっていないし。
 が、そもそも次巻を読むつもりにならなければ無意味だ。

 イヤ、二人目の救世主は若く美しい女性で(「ジェイソン・ボーンシリーズ」で言えばマリーみたいなものか)、彼女がまた出てくるのかどうか気になって読んじゃうのかなぁ、、、
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:25, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「聖書の常識」 歯ごたえありすぎの入門書

 なんとなく、「平凡社ライブラリー」あたりを意識したのではないかと思わせつつ、昨年スタートした「文春文芸ライブラリー」の一冊。
 帯には「キリスト教を知るために最良の入門書」とあるが、日本語がちょっと変(「知るために」ではなく、「知るための」ではなかろうか)なのを置くとしても、これはどうもそんな生易しいものではないのではあるまいか。

 読んでみるとどうも、これは旧約・新約両聖書を中東史の中で位置づけ、返す刀で日本文化との比較まで行ってしまうと言う、大胆な試みでさえあるように思える。

 当ブログを読んでいただいている方(いません、、、)はお気づきと思うが、ワタクシ空中さんはここ何年かキリスト教関係の書籍を当ブログで紹介している。
 コレは別にワタクシ空中さんがキリスト教徒だからではなく、「キリスト教ってなんかヘン、、、」と思っているからである。ワタクシ空中さんはなにか一つのことに興味を持つと、何年間かその関連の書籍を読み漁るクセがあり、過去には精神分析だったり進化論だったりしたが、今はキリスト教だというだというだけなのだが、本書を読んで、「コレはキリスト教関連書籍遍歴も終わりかな、、、」と言うくらいん衝撃があった。
 いや、終わらないまでも、今後読むキリスト教関連書籍は、本書を更に深く読み解くためによむ、と言うスタンスにならざるを得ない。

 例えば、本書には(かなり最初のほうで)、「イスラエル人は、『時』と言う意識がはっきりした民族で、全てを歴史的、時間的にとらえており、ある状態を時間を無視して固定させ、永続させることはない」などと書いてある。
 コレはワタクシ空中さんのような浅学非才の徒から見ると、「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」に書いてあった、「ヘブル語には時制という概念がなく、そのせいでへブライズム世界には時制がない。現在も過去も未来もない」と言う指摘と、著しく、真っ向から、鋭角的に対立するのである。

 もちろん、秋吉輝雄氏や山本七平氏本人にお伺いを立てれば、簡単に「ああ、それはこういうことだよ(全く、教養のない人間というものは度し難いねぇ)」などとおっしゃって、この矛盾を晴らしてくれるのであろうが(お二人とも亡くなっていますが)。

 この一点を解決するだけでも、あと何冊のキリスト教関連書籍を手に取らなければならないのか、気も遠くなるほどである。

 アレ?そうするとやっぱり、最良の入門書なのかなぁ、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 19:38, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「天冥の標6 宿怨PART 3.」 罪作りなフラッシュバック

 「天冥の標」シリーズは、第一巻「メニー・メニー・シープ」で西暦2800年を舞台に始まり、第二巻「救世群」でイキナリ現代に戻ってくる。つまり、クライマックス直前で始まり、一旦ハナシの原点に戻る例のフラッシュバックを使っているのだ。
ということはつまり最終巻である10巻は「メニー・メニー・シープ」後の世界であり、9巻で「メニー・メニー・シープ」の世界に追いつく筈である。
 従って、「メニー・メニー・シープ」追いつくまで、あと7・8・9の三巻しかない。
 そして、この、「宿怨」のラストで世界は大きくその有り様を変えてしまう。
 ここからあと三巻であの「メニー・メニー・シープ」の世界にたどり着かなければならないわけだ。
 「宿怨」のラストから「メニー・メニー・シープ」までを逆算して、「え、ひょっとしてそういうことなのかなぁ、、、」という気もする。

 もっとも、「メニー・メニー・シープ」以後の世界が2〜3巻分ある可能性もないではない。だとすると、次でもう、追いつかないとイケないわけだ。それはいくらなんでも無理かなぁ、、、

 しかし、必要な物はある程度出揃っているような気もする。ラヴァーズも、フェロシアンも、メイスンも、ドロテア・ワットも。
 ここからどうやって「メニー・メニー・シープ」の世界にたどり着くのかねぇ、、、
 興味が尽きない小説だねぇ、、、
 (今回のブログ記事は内容が全くありません、、、)
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:28, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「天冥の標6 宿怨PART 2.」 オムニフロラのミスチフとノルルスカインのダダー(なんのこっちゃ)

 遥かな宇宙で遥かな昔から二つの種族が延々と戦いを繰り広げていて、人類は「そうとは知らずに」二組の戦いに巻き込まれていく、、、と言うアイデアは、SF界には昔からある。眉村卓氏の代表作「司政官」シリーズの超大長編「消滅の光輪」も最終的にそんなハナシになっていたような記憶がある(超超超大長編のシリーズ最終巻「引き潮のとき」があの設定を踏まえていたかどうかは知らない。読んでないから)。
 従って、別に「2大勢力に巻き込まれ」モノだからといって駄作であると決めつけることはないのだが、実はこの設定には苦い思い出があるのよ、ワタクシ空中さんは。

 みなさん(誰だよ!)は、「チョンクオ風雲録」を憶えているだろうか。1990年から1997年まで、なんと7年の歳月をかけて文藝春秋社から16巻にわたり刊行された、デヴィッド・ウィングローブによるSF超大作である。
 今から何百年後かの世界、世界は漢民族に支配されていた!!
 つか支配されていたどころか、漢民族以外の黄色人種(もちろん日本人も、満州族さえ!)と黒人は絶滅させられており(!)、白人はかろうじて軍人としてのみ生存を許されていた!
 コレだけでも大胆な設定だが、さらに、七つの大陸の殆どの部分は「ICE」と呼ばれる丈夫で軽い謎の新物質で作られた「City」と呼ばれる何百層にも及ぶ巨大建造物に覆い尽くされていた!!
 と言うハナシである。

 実を言うとこの「チョンクオ風雲録」が翻訳刊行されていた7年間、ワタクシ空中さんは、ある意味幸せだった。ワタクシ空中さんはこのブログでもよく「究極のSF」を読みたいと言っているが、「チョンクオ風雲録」はまさに究極のSFだったのだ。ああ、まだまだ何巻も究極のSFを読み続けられるのだ、、、と思えることは、人生のほんの小さな幸福である。これくらいの幸福を味わっても許されるだろう。

 しかし、この幸福はラストで大きく裏切られることになる。
 それまで延々と異常な未来社会を丹念に描き、そこで繰り広げられるリアルな人間模様をコツコツと描いてきた「チョンクオ風雲録」は、全くリアリティのない「宇宙の2大勢力」の訳の分からない戦いに堕して終わる。
 正直、呆然とした。
 読書人生最大の失望と言ってもいい。
 これ以来、ワタクシ空中さんは、「宇宙の2大勢力にそうとは知らぬ間に人類が巻き込まれている」型のSFには、なんとなく警戒心を描いてしまうのだ。

 そして、この「天冥の標」シリーズも、実は「宇宙の2大勢力にそうとは知らぬ間に人類が巻き込まれている」式の構造を持っているのだ。その名も自らの生存範囲を広げることによって宇宙全体のエントロピーを下げてしまう「オムニフロラ」と、オムニフロラの拡大をなんとか防ごうとしている被展開知性体「ノルルスカインのダダー」だ!参ったか!!
 現時点で、ワタクシ空中さんがこのシリーズに持つ懸念は、この一点のみと言ってもいい。

 もちろん小川一水氏はデヴィッド・ウィングローブと同じ愚は犯さないだろう。「天冥の標」シリーズはそんな単純なもんじゃない。

 現時点でスリーズ最長の三分冊を要したこの第六巻「宿怨」はシリーズで最も血なまぐさいハナシだが、ココで戦いを繰り広げているのは、オムニフロラ対ノルルスカインではなく、オムニフロラが数千年前に太陽系侵攻のために放ったものの、上手く行かなかったために打ち捨てられたもののその後人類の中で育っていった勢力と、今現在オムニフロラに操られている勢力なのだ。しかも一度打ち捨てられたオムニフロラの勢力に手を貸しているのは、オムニフロラの存在に気づいてその進行を止めるために遠い宇宙から太陽系にやってきた異星人だ。
 なんとも複雑なことを考えたものだが、現実はいつも複雑で不条理なものである。

 小川一水氏のこととて大丈夫だろうとは思うが、お願いですからデヴィッド・ウィングローブと同じ陥穽にハマらないでくださいね、と祈ってやまない空中さんであった。
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:09, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「天冥の標6 宿怨PART 1」 究極のライトノベルハードSF

 昔からSFの魅力のひとつは文芸ジャンルとして自由であることだとされている。単に現代科学では不可能な(解明されていない)テクノロジーが出てくるというだけでなく、小説のスタイルとしても自由を謳歌してきた(ハーラン・エリスンの「死の鳥」とかね)。
 しかし、今はもっと自由なジャンルがある。
 ライトノベルである。
 ライトノベルの自由さたるや、それはもう「自由」と言う言葉さえ虚しく響くほどで、物理法則やらリアリティはなるべく無視したほうが喜ばれる、というようなもんである。

 恐らく、小川一水氏は、ライトノベルの奔放さにハードSFの裏付けを与えることに成功した今のところ唯一のSF作家だろう。
 もしかすると小川氏本人はいつまでもライトベル絡みで語られることを由としないかもしれないが、宇宙方言丸出しで喋る美少女、喋る羊、クールなオンナ太陽系艦隊指令、などというガジェット(?)を見ると、ライトノベルの「良いトコロ」をちゃんと継承しているなぁ、と思わざるを得ない。
 それら多くの奔放なアイデアに、さらっとハードな裏付けを忍ばせる手腕には、なにか安心感さえ覚える。

 一方今作「宿怨」でも、特殊な境涯の少女とやや恵まれた環境の少年の淡い思い、追い詰められた大臣と圧制者の友情など、人間模様を描いても間然とするところがない。

 恐らく、現存するSF作家の中で最も百科全書的な素養を持つ小川氏が、敢えて百科全書的なSFに挑戦したのが「天冥の標」シリーズであり、つまりは、今最も「究極のSF」を読む快楽に浸れるシリーズなのだ(なんか毎度コレばっか言ってるけど)。
JUGEMテーマ:小説全般

at 01:32, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「逆説の日本史 17 江戸成熟編」 朱子学の毒とエコシティとしての江戸

 第一章はこのシリーズでは初めて本格的にアイヌ社会にスポットが当てられている。この時代に本格的にアイヌと和人との関係が始まったからであろう。
 井沢氏の筆は概ねアイヌに同情的で、和人の非道を糾弾する形で進むが、以外な発見もあるのが本シリーズを止められないところだ。

 例えば有名な「アイヌ勘定」のハナシが出てくる。アイヌ人相手にものを買うときは「はじめ、一、二、三、・・・八、九、十、おわり」と数え、10個分の料金で12個の商品を得る、と言う有名なアレだ。ワタクシ空中さんは確か菅原文太兄イが出てる大河ドラマでコレを見たことがあるが、その時も完全にアイヌ人を食い物にする悪い和人の手、と言う文脈だった。
 しかし本書によると「アイヌ勘定」はサケやマスと言ったナマモノの商売にしか使用されず、「ナマモノだから客先に着くときは2割位は悪くなってしまっているのではないか」と言う危機管理のため、平たく言うと歩留まりを含むための数え方だという。
 何の疑いも持っていなかった概念に突如新しい光が当たる、というのも、通史を読む利点のひとつだろう。なかなかアイヌの歴史に興味を持とう、とは思わない。

 残りの三章は江戸時代編に入ってからの通例通り、時の為政者達を名君と暗君に仕分けしていく。
江戸時代編もそろそろ幕末に入って明らかになってきたことは、井沢氏が名君と暗君を分ける重要な契機は、「朱子学」である、ということだろう。
 名君は比較的朱子学から自由であり、暗君は必ず熱心な朱子学の徒である。
 そして、朱子学のどういう教えが悪いのか、どういう教えのせいで施策を間違うのか、懇切丁寧に解説してくれる。

 ココで疑問に思うのは、なぜ彼らはそこまで朱子学に奉ずるのか、と言うことだ。
 なぜ朱子学は魔物のように彼らの心を掴んで離さないのか。そここそが重要なのではなかろうか。

 井沢氏がここまで熱心に朱子学の毒を説くのは、おそらく今でも朱子学の影響が強い国への危機感も影響しているだろうが、だからこそ、なぜ、朱子学がヒトの心に入り込み、蝕むのか、の分析が重要ではないか、と思う。
JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 02:26, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「11 eleven」 魔術としての言語

 小説という文芸形式は、二つの要素で出来ている。
 ひとつは、映画やコミックなど、他のフィクションジャンルとも共通する、ストーリーやテーマ、キャラクターといった「フィクションドグマ」とでも言えるような要素。
 もうひとつは、言語によってのみ成立している芸術ジャンルである以上、必然的に追求されるべき「言語になにが出来るか」「言語にとっては美とはなにか」という、「文学ドグマ」とでも言えるような要素。
 そしてワタクシ空中さんは、ある小説が文学であるかどうかは、このフィクションドグマと文学ドグマの、「どちらがどちらに奉仕しているか」によって決まると思っている。ある小説のフィクションドグマが、文学ドグマを際だたせるためにあるのなら、その小説は文学作品である。また、ある小説がフィクションドグマのために文学ドグマの成果を利用しているなら、その小説は文学作品ではない(文学作品ではない小説をなんと読んでいいか解らない。「エンターテインメント」では違うような気がするし、、、)。

 注意して欲しいのは、この考え方で、ある小説が文学作品かどうか判定したところで、価値判断を含んではいない、と言うことだ。文学的にもフィクション的にも低レベルに逗まっていても、フィクションドグマが文学ドグマのためにあるのなら、それは低レベルではあるが分類としては文学作品であり、膨大にして精緻な文学ドグマを駆使していても、それがフィクションドグマを際立たせるためにあるのなら、どんなに文学的価値が高くても、やっぱりそれは分類としては文学作品ではない、と思っているのだ。

 そして、今現在、ワタクシ空中さんが考える、「文学とエンターテインメントの境界が曖昧になってしまうほど、あまりにも膨大にして精緻な文学ドグマをフィクションドグマに奉仕させている小説家」が、津原泰水氏なのだ。

 「五色の舟」が入った短篇集を買うのは「NOVA2」、「結晶銀河」に続いて三冊目。
 何回か読み返しているのだが、今回もう一度読み返してみて、相変わらず文章を読んでいるだけで震えが来るような傑作であることを再認識した。
 「五色の舟」の舞台は第二次大戦直前の日本だが、自然にツルツルと読めてしまうので、取り立てて戦前色を醸造する文体で書かれている、とは意識できない。
 ところが、ここに「件(くだん)」という異物がポコンと挿入される。
 そう、「五色の舟」はあの、件(くだん)をめぐる物語なのだ。
 我々の考える件とは、牛の体に人間の顔をして人語を話し、話すどころか未来を正確に予言する、というものであり、「五色の舟」の件もまさにそのような存在である。ただ、ちょっとだけ違うのは、なぜ件が未来を語れるかというと、件という存在は、様々な並行宇宙や時間線の接合点のような存在である、という説明がされている、と言うことだ。つまり、件だけ、作品世界に設定された第二次大戦直前の日本という時空間に属していないのだ。
 この、「件だけこの時空間に属していない」という違和感を、津原泰水氏は、あっさりと件の口からでる言葉だけで表現してみせる。
 特にクセのあるセリフ回しをするわけではない。
 むしろクセのない、理知的で、なおかつ優しさの溢れる口調でしゃべるのだが、これだけで件という存在の、作品世界における途轍もない違和感を表現しきっているのだ。

 正直コレはスゴいと思った。「言語になにが出来るか」を追求するとはこういう事かと思う。

 もう一作、「年間SF傑作選 超弦領域」で読んだことがある「土の枕」も、やはり再読して傑作であることを再認識した。
 戦前戦後を別の人間としてからくも生き抜いたオトコのハナシ、というだけなのだが、あまりに濃密な文章のせいで、「アレ?オレってホントに生まれた時からオレだっけ?」等という不安にかられてしまう。

 ちょっと楽屋落ち的な作品があるのが気になったり、逆に上記二作があまりにも傑作すぎるせいで、津原氏の同傾向の短篇集「綺譚集」に比べるとややバラつきのある作品集かな、という気もするが、全体的なレベルの高さはやはり尋常じゃない。それにどれをとってもどうせあの津原氏の文章力で書かれているのだ。それだけでも、いいじゃないか、と思うが、一応、上記二作に次ぐ傑作として、最後の一行に仕掛けられた言葉のマジックで、くるりと読者を作品世界に閉じ込めてしまう、「琥珀みがき」に戦慄した。もしかすると、オレは琥珀の中に閉じ込められたのかもしれない。

 ところで津原さん。
 あとがき、の最後の一行は余計だと思います。
 そんなことは我々読者は津原さんの作品を通じてイタいほど解っています。
 言わずもがなのことを言われると、ちょっと興ざめしますよ。
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:12, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark