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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」 今日もマ・ドンソクはヒトを殴る2

 あ〜、コレはもう、呆れるくらい良く出来てますねー、、、
 ほとほと感服した。
 もう、今回はのっけから完敗宣言。

 

 ナニがスゴいってさ、コレ、驚いたことに正確にはゾンビ映画じゃないのね。
 コレは、父と娘、夫と妻、恋人同士などといった家族の絆、さらには極限状況で生まれた男同士の友情、などを描いた人間ドラマです。

 

 イヤイヤイヤ分かってる分かってる。
 分かってるって。
 基本的にゾンビものって全部そうだっていうんでしょ?
 それはそうなの。
 それは分かってるの。

 要はどっちがどっちに奉仕してるかって問題なのよ。

 

 ゾンビってシチュエーションが、人間ドラマに奉仕してるのか、
 人間ドラマがゾンビの恐怖に奉仕してるのか、と。

 

 この映画を作った奴らが、最初から「ゾンビを使って人間ドラマを際立たせよう」と思って作り始めたかどうかは分からない。
 むしろ、最初は「本格的なゾンビものを作ってやろう」と思っていたのだろう。
 「高速列車の中でゾンビウィルス蔓延し始めたら面白くね?」ってなもんだ。
 しかし、作ってるうちに、自然と人間ドラマメインになっちゃう。
 コレが作家性というものだろう。

 

 本作が、ゾンビ映画としては珍しく、やや救いのある(全人類の滅亡を覚悟させない)ラストを用意しているのも、そういうことだろうと思う。

 

 ぞしてここからが真に驚くべきところなのだが、人間ドラマメインであるにもかかわらず。ゾンビものとして驚異的に良く出来ているのだ。

 本作は、ゾンビものであると同時に列車モノでもあるので、「大陸横断超特急」だの「暴走特急」だのの記憶を流用してもいるのだが、アイデア満載の映画なので、そういう流用が気にならない。
 特に、一度下車した挙げ句、命からがら列車に戻ってきた主人公たちが、後部車両からゾンビの蔓延する車両を突破して、家族のいる前部の車両に移動しなければならないシークエンスなど、登場人物達が必死で考えたアイデアで乗り切る有り様が、まるで「隠し砦の三悪人」のようでもある。

 

 脚本もアイデアが豊富だが、演出面でもなかなかアイデア豊富で飽きさせない。
 蹴っつまづいた人間のカットに、一瞬、蹴っつまづいた本人の目線の映像を混ぜる、だの、主人公の印象的な行動を、彼の影だけで見せるだの、さりげなく、「通り一遍の撮り方はしませんよ」と思い知らせてくる。

 

 人間ドラマで泣かせるのは簡単なのだ。愛し合ってる者同士に別れが来れば泣く。
 しかし本作は、中年男のビルドゥングス・ロマン、などという隘路にも挑戦して、驚くべきことに成功している。

 韓国の西島秀俊ことコン・ユは冷徹な証券マンである。ゾンビ列車などという極限状況に置かれても、他人は差し置いて自分と娘だけ生き残ればいいと思っている。
 しかし、マ・ドンソクやその妻、野球部の高校生や、韓国の若き木南晴夏ことアン・ソヒ演ずるその恋人のマネージャー、そしてナニよりも自分の娘と協力して窮地を切り抜けていくうちに、徐々に自分を犠牲にしても他人を助ける人間性に目覚めていく。
 コレを、声高に謳わないでちゃんと描けているのは素晴らしいと思う。

 

 本作は、前にも述べたが、「大陸横断超特急」のような列車モノ、そしてもちろんゾンビもの等、様々な映画の記憶を流用している。
 が、最大の映画的記憶の流用は、本作でも相変わらずヒトを(イヤゾンビだけど)殴りまくっているマ・ドンソクだろう。
 他の仲間がバットだの棒っ切れだのなんとか武器らしきものを手にするのに対し、マ・ドンソクだけはひたすら素手で殴る。

 コレである。

 殴り続けるマ・ドンソクこそ、このような傑作をも生み出す韓国映画界の最大のアイコンなのかもしれない。

JUGEMテーマ:映画

at 00:17, 空中禁煙者, アジア

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「散歩する侵略者」 価値観が演劇

 前にも引用したが、誰が言い出したのか解らない、

 

 「映画は監督のもの、ドラマは脚本家のもの、舞台は役者のもの」

 

と言う考え方がある。

 その意味で、この映画は極めて舞台的であると思う。
 脚本が、舞台じゃないと成立しない論理で成り立っている。

 

 例えば。

 長澤まさみは数日間の行方不明の末に帰ってきた夫が、別人になっていることに気づく。
 気づくどころか、自分から堂々と
「えー、ワタクシ、アナタの旦那さんの体を乗っ取らせていただいた宇宙人で、地球を侵略するために来ました、、、」
と名乗りやがる。

 

 で、ですね。
 いいですか?ココ重要ですよ。

 

 長澤まさみはナント、にもかかわらず、彼を愛しているのである。

エエエエーーーーーーーーーーーーーッつ!!!

あり得る?

 

 例えば「寄生獣」で田宮良子の母親は、一目見るなり娘が「娘じゃなくなっている」「なにか別のものになっている」事に気づき、夫に「早く警察に電話して!!」とか言って田宮良子にアッサリ殺されてしまう。

 コレがリアリティというものではないか。

 

 自分が愛するものが、なにか別のものに乗っ取られている。
 剰え、地球を侵略しようとする凶悪な存在である。
 コレを今まで同様愛する、と言う女性心理に、ワタクシ空中さんは一片のリアリティも感じることができない。

 

 ところが。
 舞台でならコレが可能なのである。

 

 舞台は、演出よりも、なにより「脚本」よりも、まず役者のものなのである。
 観客は、ナニよりもまず役者を見に来ているのである。
 演じている役が、仕事人間の夫だろうと散歩する侵略者だろうと、まず、「○○という役者」なのである。
 脚本なんか関係ない。
 まず、〇〇と言う女優が、〇〇という男優を「愛している」という「夢」を観客に与えている、それだけが大事なのだ。

 

 そう、もう一つ舞台を見に来る客が好きなものがある。
 それは、「愛」である。

 

 舞台では建物が爆破されたり、車が高速でチェイスしたり、ゾンビの首が飛んだりしない。
 あるのは生身の人間だけだ。
 そして生身の人間は「愛」だけは得意である。

 従って、この映画もラストはひとりの女性の「愛」が全てを大きく変えるのである。

 宇宙人侵略モノ映画で、ひとりの女性の「愛」がここまで事態を大きく変える映画があっただろうか。

 

 長澤まさみちゃんは、もう少しで、見知らぬ宇宙人を愛することにリアリティを持たせられそうである。
 が、フィジカルな優位に頼らなくなった長澤まさみちゃんにしても、コレは無理。

 

 長澤まさみちゃんと松田龍平で舞台にしてくれたら、ワタクシ空中さんも素直に感動できたろうな、と思う。

JUGEMテーマ:映画

at 20:48, 空中禁煙者, 邦画

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「ブレードランナー2049」 長い。そしてしつこい。 

 リドリー・スコット監督はひとつのことにこだわり始めると延々とそればっかりやり続けるヒトで、昔は「迷宮に囚われてそこから抜け出そうと努力し続けるヒト」の映画ばっかり撮っていた。
 で、どこで転換期があったのかよく分からなくなってしまったが、最近はまた別のテーマに囚われているらしく、本作は「エイリアン:コヴェナント」と同じテーマである。

 

つまり、

 

「被造物だったものが造物主になる」

 

コレである。

 

 人間はレプリカントを作った。
 コレだけならただ道具を作っただけであり、ハサミや自動車を作ったというのと本質的には変わりはない。
 そこで「ブレードランナー」ではフィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の逆を突いて「レプリカントも人間だ」と言う結論に達していた。

「なぜなら共感能力があるから」。

 

 ディックとしては共感能力の有る無しが人間の条件だ、と言いたかったのだろう。

 

 「アンドロ電気羊」のアンドロイドは人間ではない。
 「なぜなら共感能力が無いから」

 

 「ブレードランナー」のレプリカントは人間である。
 「なぜなら共感能力が有るから」

 

 多分、ディックは周囲の共感能力があるとは思えない、非人間的なヒトたちに悩まされていたのだろう。

 

 今はそんなことはどうでもいい。

 今、コレを書いていて、ン十年前の入ゼミ面接のときにこのハナシをしたことを思い出したけど。

 

 レプリカントには共感能力があった。
 人間は共感能力が有る被造物を作った。
 それはそれでいい。

 だがそれで人間は神になったと言えるのか。
 ただ、とても便利な(高度な)道具を作っただけではないのか。

 

 中学の「科学第二分野」で習ったところによると、それが生命であるためには次に挙げる3つの条件が必要である。

 

1.細胞(自他の区別)がある。
2.呼吸(代謝)している。
3.繁殖(成長)する。

 

 レプリカントは1.と2.はクリアしてそうである。
 問題は3.だ。

 「ブレードランナー2049」は、つまり3.をめぐる映画なのだが、、、

 

 30年前、ブレードランナーのデッカードと逃亡したレプリカントのレイチェルは、どうもデッカードの子供を産んだらしい、、、
 そして本作の主人公、自らもレプリカントであるブレードランナー「K」は「レプリカントの妊娠」ともし事実生まれていたなら子供はどこへ行ったのかを調査し始めるが、、、

と言うハナシ。

 

 レプリカントが繁殖するというのは、スゴいといえばスゴい。
 レイチェルの出産に立ち会ったらしいレプリカントも、「奇跡」と表現している。

 だけどですね、コレが例えば「神の御業」とか、自分たちで踏ん張って繁殖できるように改造したとかなら奇跡だけど、「タイレル社長がそう作った」って言っちゃったら、奇跡でも何でもなくね?
 いやタイレル社長はスゴいけど。

 

 なんかスジとしては「タイレル社長は何故そんなにスゴいのか」を追求すべきな気もするけど、そこはスルー。
 ただ、なんか知らんがスゴいスゴいって言ってるだけ。
 ちょっとピントがズレてる気がするけど、オレがSFマニアだからそう思うだけなのかなぁ、、、

 

 この映画がやたら長い原因は、実はこの映画にはもう一つ焦点があるせいでも有る。

 レプリカントであるブレードランナー「K」と、「市販用」AIであるジョイとの恋愛である。

 

 ジョイはそこらじゅうでCM打ってるフツーのホームインフォメーションシステム(要するにグーグルスマートスピーカーの映像有り型)なのだが、完全にKとお互いに恋愛感情を持っているように描かれている。

 なんだコレは、監督は「エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドだっけ?と思ったが違った。
 「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーブだった。

 

 実はこの、「人造人間とAIの恋愛」だけでも、映画一本撮れるだろう。
 コレを一緒に一本の映画でやろうとしたら、そら長くなるわ。

 

 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は「メッセージ」でもそうだったが、全体的に画面が白っちゃけていて平板な印象。
 極彩色を毎度おなじみの蒸気で隠して陰影の深い映像を作るリドリー・スコットとは真逆の印象でもある。

 

 実はヴィルヌーブ監督の「ボーダーライン」も観ているのだが、三作並べての共通点は

「砂っぽい」

 

コレである。

 

 全部砂漠が舞台になっていて、なんか観ていると口の中がジャリジャリしそう。

 なんでヴィルヌーブに任せたんだろうか。
 いっそ、アレックス・ガーランドに撮らせればよかったのに。

 

 あと納得行かないのは、デッカードの扱いである。
 リドリー・スコットははっきり「リック・デッカードもレプリカントである」と言っていて、そのためのディレクターズ・カットだったはずである。

 しかるに本作のデッカードは30歳分年を取っていて、しかもいやしくも「子供ができた」というのなら、母親ほどではないが父親のヒトとしての機能も問題になる筈であるが、どうもそのへんを気にしている様子がチョットも無い。
 要するに「人間だ」と言う方がハナシが通じやすい作りになっている。

 

 なんだコレは。
 おま、フザケンナよ、と言いたい。

 

 結果としてレプリカントの繁殖のハナシもレプリカントとAIの恋愛のハナシも中途半端で、長い上に退屈な映画になってしまった。

 もう、ジョイ役のクッソ可愛いアナ・デ・アルマスちゃんを眺めている時間しか、映画的な時間じゃなかったような気さえするワタクシ空中さんであった、、、

JUGEMテーマ:映画

at 21:06, 空中禁煙者, 洋画

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「エイリアン:コヴェナント」 願わくば、これ以上ボケる前に続編を作って完結させてほしい、、、

 リドリー・スコットは「エイリアンの起源を描く」と言って前作「プロメテウス」から始まる「前日譚三部作」を始めたそうだが、そもそも「プロメテウス」の段階で全然そうなってない。

 「プロメテウス」はエイリアンどころか人類の起源を探るハナシだったし、今作でもエイリアンの新種がどんどん出てくるが、別に起源なんか探っちゃいない。

 コレで一体全体どうやって「エイリアン」に繋げるつもりなのか、サッパリわからない。
 ていうかどう考えても繋がるわけない。

 

 コレはつまり、そもそもリドリー・スコットはエイリアンの起源なんか描くつもりはチョットも無い、ということだろう。
 最初から出資者を騙す嘘なのだ。
 コレで大予算ぶんどって堂々と自分のやりたいことやっているのだから、大したものである。
 さすが今の映画界を代表する巨匠というしかない。

 

 じゃあ、出資者に嘘ついてまで金集めて一体全体ナニをやっておるのか、と。
 コレが、ですね、

「種の起源と神」

についてやってます。

 「2001年宇宙の旅」が「進化と神」についてやってのとちょっと似ている。

 

 似ているがちょっと違う。

 「2001年」が「進化のトリガーを弾いているのは高度な宇宙人である」と言っているならば、例えば「プロメテウス」は「人類の起源は高度な宇宙人である」というようなハナシをやっていて、「コヴェナント」は「AIは人類の被造物である」というようなハナシになっている。

 

 つまり、「2001年」の「お猿」の部分がないのである。
 進化しないでいきなり出来ちゃって(作っちゃって)る。

 コレってさ、人類はお猿の成れの果てであるって峻厳な現実から目をそらしてるんじゃないの?「2001年」より一歩後退しちゃってるんじゃないの?という気がするが、そこはこの際どうでもいい。

 

 という訳で、順番的に言って次作はAIが造物主になるハナシになるんだろうな、という気がするが、それもどうでもいい。

 

 映画全体の構成として、リ、リメイク?というくらい最初の「エイリアン」に似ている。
 エイリアンもいっぱい出てきて、人間が逃げ惑って、戦って、最初の「エイリアン」と全く同じフォーマットの中で、全く違うことをやっている。

 

 何しろ今回の主役は「プロメテウス」にも出てきたアンドロイドのデヴィッド君である。
 ある意味、これは「エイリアン」に出てきたアッシュが勝つハナシなのかもしれない。

 

 この、「エイリアン」のフォーマットの中で「2001年」をやろうという試みのせいで、映画全体の印象がぼやけていることは否めない。
 どのシーンも面白いのだが、「で、ナニがしたいの?」」と言う思いがどうしてもつきまとう。

 

 そもそも「エイリアン」のフォーマットはリドリー・スコットのものではなく、ダン・オバノンのものである。

 リドリー・スコットも80歳である。黒澤明の昔から、映画監督は歳を取ると映像感覚より、まず、脚本を読む力が衰えるものである。
 リドリー・スコットも脚本で悩んで自分が表現したいテーマを描くのに、昔懐かしいダン・オバノンのフォーマットを利用したのかもしれない。
 ダン・オバノン、もう亡くなってるし(合掌)。

 

 従って、映像感覚は衰えていない。
 デヴィッドくんの部屋のシュールグロテクスな美術など、一見して圧倒される。

 

 お金が使えるんだか使えないんだか、作家性を表現したいんだかしたくないんだか、全てが中途半端なまま、次作「デヴィットくんがエイリアンと人間を合成して造物主ぶるの巻」へとなだれ込んでいくのであった、、、

JUGEMテーマ:映画

at 04:06, 空中禁煙者, 洋画

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「ほんとにあった!呪いのビデオ 71」 新体制は顔をハッキリ映す

 という訳で、演出が変わって一本目。

 

 あたらいしい「構成・演出」のクレジットは、懐かしい福田陽平氏と「監死カメラ」シリーズの寺内康太郎氏。
 二人体制、と言うのがどう機能するのかは興味がある。
 エピソードごとに担当を分けているのだろうか。
 それとも一エピソードを二人で協力して作っているのだろうか。

 

「タクシー」
 一発目からよりによって現代の怪談のド定番である、「乗ったタクシーからいなくなるオンナ」。
 なんか決意表明の・ようなものすら感じる。

 ドライブレコーダーの映像、と言うのが新しいが、ココで記憶しておくべきなのは、件の「オンナ」の顔がハッキリ写っていることだろう。
 事故で亡くなったらしくボコボコで、ハッキリ特定はできないようになっているが、「この世ならざるもの」の顔を描写した、というのは恐らくこのコンビによる「ほん呪」を象徴しているのではないか。

 

「シルエット」
 と、思ったら今度はいきなり「シルエット」である。
 カップルがイチャつきながら歩いていると、屋上からヒトが飛び降りるのである。
 毎度のことながら、すっかりオジサンであるワタクシ空中さんには、何故イチャつきながら道を歩くときに動画を撮るのか理解出来ないが、そんなことはどうでもいい。

 飛び降りを目撃してしまったあと、エライもん見てもうたー!と頭を抱えてしゃがみ込む彼女を映すと、背後に子供が映っている。
 中村氏のナレーションは飛び降りたのはこの子供であるかのように語るが、視聴者にはその根拠は解らない。

 

「シリーズ監視カメラ 老人」
 解体業者がゴミ屋敷から発掘した映像。
 ゴミ屋敷に住む老人が、何故か自分の家の中を映すカメラを設置している。
 そして、案の定カメラにはポルターガイスト現象が映ってしまっている。
 老人は、ポルターガイスト現象の正体を突き止めるためにカメラを設置したのだろうか。
 解体した跡地からは、白骨死体が発見されたという。
 老人は自ら手にかけた女性の霊に悩まされながら、死体の発見を恐れて出ていけなかったのだろうか。

 現代の闇を叩きつけられた感じ。

 

「停電」
 ホームパーティの最中に停電が起きる。
 で、明かりが戻ったときに、隣の部屋になんかいる。
 この「なんか」がシルエットだけなのだが、そのシルエットがあまりにも個性的。
 なんで停電を機に姿を表すのか、いやコイツ絶対霊魂とか呪いとかじゃなくて、なんかこういう存在だろ、とかいろいろ疑問はあるが、あまりにあんまりな造形のせいで、気にならない。
 ちょっと衝撃的な造形のせいで全て持っていかれた感じ。

 

「かくれんぼ」
 祖母の七回忌で親戚が集まる。母親連がそれぞれの子供達も集めて、旧家の広い庭でかくれんぼをする。
 たまたま撮影者が鬼になり、カメラを回しながら、「もーいーよぉ」の声とともに探し始めるが、カメラを通した視界には、子供達ばかりか母親も、ヒトっ子ひとりいなくなっている。
 ふと、視界の隅に物陰に隠れる子供が写り、追いかけるが、、、

 撮影者のカメラを通した視界だけが、異世界に紛れ込む、と言う不思議なハナシ。

 

 「ほん呪」というより、柳田國男の著書に出てくるエピソードのよう。

 

「瑕疵」
 今回の長編。

 発端は単純で、投稿者である22歳の青年は、自分の6歳の誕生日に叔母がお祝いに来てくれたときに撮影したビデオに「不可解なもの」が写っていた事と、更にその直後に母親が亡くなってしまったことの間には、何らかの関係があるのだろうか、という相談であった。

 委員会は二人が住んでいたアパートの一室が、いわゆる「瑕疵物件」なのではないかと調査するが、それらしい形跡は見つからない。

 「瑕疵物件」なのではないか、というのがタイトルの由来なのに、早々に否定されてしまうのはどうかとも思う。

 で、ですね、メンド臭いので大幅にハショリますけどね、要は瑕疵物件云々じゃなくてですね、投稿者の母親がなんか怪しげなセミナーにさんかしてました、と。
 で、その怪しげなセミナーは、ですね、セミナーの結果がうまく出ない受講者には、もう、究極にヤバい対処法を授けていました、と。

 

 この、究極の対処法のVTRがヤヴァい。


 確かにヤヴァい。
 あーあ、ヤヴァい。

 

 それまでの展開を全て否定し去るヤヴァいVTRに確かに覚える。
 このVTR中に行われている行為のヤヴァさに比べると、チラッと写っている「この世ならざるもの」など全然大したことない。

 コレは大々的に「不可解なもの」よりも現実のほうがヤヴァい路線の復活を告げているのだろうか。

 

 ただ、このVTR中に映る「不可解なもの」はハッキリ顔が写っていて、特徴的である。
 なかなかこういう状況で写ってしまった「この世ならざるもの」としては表情も豊かで、ほとんど性格までわかりそうである。

やっぱりこの「顔がハッキリ写っている」というのが、このコンビのとくちょうなのだろう。

 

 全体として、やはり大きく印象が変わったな、と思う。
 「かくれんぼ」のような柳田國男的というかメルヘンチックな方向と、「瑕疵」のような超後味が悪い方向と、二人いる構成・演出のうちどちらがどちらの持ち味の持ち主なのかはわからないが、1巻の中での幅が広がったことは確かだろう。

 

 あとは「不可解なもの」の顔をハッキリ映す傾向が、このあとも継続して行くのか、楽しみでもある。

 

 もうひとつ、いきなり女性演出補が増えているのは、露骨に福田陽平氏の傾向を感じさせる。
 もう、何十巻にも渡って、新人は男性演出補しか新たに入っていなかったのだ。
 そして、それでも川居直美嬢が残っている。

 

 まさか、ほん呪70感を超える歴史の中で最大のコンテンツは川居直美嬢の美貌だ、とでも言うのだろうか、、、

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 01:30, 空中禁煙者, 邦画

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