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セブンイレブンはE電に乗って

 セブンイレブンを「セブン」と呼ぶ奴が嫌だ。

 

 ワタクシ空中さんはかねてより、セブンイレブンの略称は

「セビレ」

であると主張してやまないのである。

 

 イヤイヤイヤイヤ、「セビレ」て。

 

「セビレの『ビ』はどっから湧いて出たんだよ、という意見もお有りでしょうが、

 

セブ○・イレ〇〇→セブイレ→セヴィーレ→セヴィレ→セビレ

 

と活用しているのである。

 

 そんなわけでかねてからワタクシ空中さんは、誰かがセブンイレブンのことを「セブン」と呼んだ際は、直ちに「セビレ」と呼ぶよう、提言させていただいている。

 

 そんなある日の、ワタクシ空中さんと、当年とって22歳の若い部下との会話である。

「空中さん、ちょっとセブン寄ってっていいですか?」
「だからセブンって言うんじゃねえ!セビレだっつってんだろーが!!」
「またそのハナシですか、、、もう、セブンでいいじゃないですか、、、」
「じゃ100歩譲ってオマエが今後ファミマを『ファミリー』、スタバを『スター』って呼ぶんなら、セブンって呼ぶことを許す」
「・・・、、、アッ!!ちょっ、ちょっと空中さんアレ見てください!!セブンの入口の上!!『朝セブン』って書いてありますよ!!セブンサイドも『セブン』って言ってほしいんですよ!!」
「ほう、、、じゃなにか?オマエはコカ・コーラのこと『コーク』って呼ぶのか?東京トームのこと『ビッグエッグ』って呼ぶのか?国電のこと『E電』って呼ぶのか?そこに愛はあるのか?」
「・・・なんすかソレ?」

 

 さもありなん。
 どれも当年とって22歳の彼が生まれる前に死語だ。
 知ってるわけがなかった。

 

 しかし、ワタクシ空中さんはこの時点でもっと重要なことに気づいたのである。

 

「こ、国電ってナニ?」

 

 イヤ、ワタクシ空中さんとて国電を知らないわけではない。
 ワタクシ空中さんが子供の頃、大人たちは山手線や中央線のことを「国電」と呼んでいたのだ。ワタクシ空中さんは今も昔も三多摩地区(コレも死語だな、、、)在住なのであまり意識していなかったが、恐らく大人たちは総武線も京浜東北線も国電と呼んでいただろう。

 

 試みにWikipediaを見てみると、

 

>国電(こくでん)とは、日本国有鉄道(国鉄)の電車で、

>大都市周辺で運転された近距離専用電車または近距離専用電車線を指した。

 

とあり、だいたいワタクシ空中さんの記憶と合っている。

 

 しかし、ここには致命的な問題が潜んでいる。
 それは、「そもそもなんで大都市周辺の近距離専用線を長距離線と区別して呼ぶ必要があったのか」という問題である。

 

 ここで注意してほしいのは、「コーク」という愛称はコカ・コーラボトリングの意に反して普及しなかったが、ヒトビトは普通にコカ・コーラと呼んでいる(ワタクシ空中さんの印象では、現状ヒトビトはコカ・コーラを「コーラ」、ペプシ・コーラを「ペプシ」と呼んでいる気がする)し、「ビッグエッグ」も別にフツーに東京ドームと呼んでいることだ。

 

 しかし、E電は?E電という名称が普及しなかったことは有名だが、普及しなかった結果、今なんと呼ばれてるの?
 「国電」?
 そんなはずはない。
 国電でもE電でもない第三の愛称が発明されたの?
 聞いたこと無い。

 コレはどういうことだろう。

 

 「E電」という新愛称が定着せずにスグ廃れた、という話題は当時からよく出ていたが、それではE電の代わりに、イマ、なんと呼ばれているのか。

 

 なんとも呼ばれていない気がする。

 

 て言うか、そもそも、あえて「大都市周辺で運転された近距離専用電車」を総称して呼び表す必要性が何ら見いだせない。

 

 コレは要するに、単に新愛称が人口に膾炙しなかったという問題ではなく、そもそも国電(=E電)という概念自体が無くなってしまったということであり、「コーク」や「ビッグエッグ」とはちょっとレベルの違うのだろう。

 さいわい、コカ・コーラも東京ドームもまだあるし。

 

 当然、ここで気になるのは、なぜ「国電=E電」という概念は無くなってしまったのか、ということだろう。
 イヤ、実は概念としては無くなっていないのだ。
 もともと、国電→E電は、国鉄→JR内部に存在する概念であり、実はJR内部的には有効な概念で、たまに告知文などに登場しては

「JRまだE電って使ってたのかよッつ!!」

などと話題になってたりする。

 

 しかし、一般市民のあいだでは、完全に「死語」のような「死概念」になっている。

 なぜ死概念になってしまったのか、つらつら考えるに、結局、Wikipediaにあった定義のうちの、「大都市周辺」と「近距離線」が問題なのだろう。

 大都市周辺には近距離を走る「JR線では無い」鉄道が存在する。
 そう、私鉄線である。
 もともと国鉄内部でも私鉄と対抗するために「国電」という区別が必要だったのだ。
 「国電」と呼ばれる区間は料金体系も車体番号の付け方のルールもソレ以外とは違っていたらしい。

 

 その昔、国鉄にはどうしても私鉄に対抗しなければならない理由があったのだ。

 そして、私鉄に対抗するべく「国電」という区別を編み出した国鉄ではあったが、世のお父さんたちは、国鉄の思惑とは逆の意味で「国電」という概念を扱っていた。

曰く、

 

「やっぱ、国電は高ぇなあ、、、私鉄で行くか、、、」
「また国電ストだってよ!!バスで私鉄まで出なきゃ!!早く朝メシ!!」

 

等である。

 要するに、「国電」という概念が生きていた頃、お父さんたちの国電に対するイメージは、
「料金がクソ高い(2倍くらい違った)」
「しょっちゅうストライキして停まる」
であり、「国電」という単語もこの文脈でお父さんお母さんたちが口にすることが多かったと言うか、今となってはほとんどこの文脈でしか口にすることはなかったような気さえする。

 

 そんな中、、莫大な赤字を抱えつつ国鉄は破綻(子供の頃、国鉄車両内部の吊り広告で、「まさに借金地獄」という表現で自らの窮状を訴えていたのが異様に印象に残っている)、民営化されてJRになった際に、勢いで国電をE電と呼び替えてみたものの、よく考えたら自分も私鉄になっていた。
 その後のJR東日本の成功は言うまでもないだろう。
 あっという間に黒字化(北海道と四国はもともと「国電」がないのでノーカンね)死、ストライキは無くなった。
 そうこうするうち料金的にも私鉄と差が縮まって(私鉄の値上げのせいもあるが)、いつしか世のお父さんたちの口にもE電という呼称で私鉄と区別する必要もなくなってきたのであった、、、

 

 と、いうことではないかと思うのよ。
 確証はないけど。

 

 愛称問題についてはまだまだ問題が山積みである。
 そもそもなぜコークもビッグエッグも普及しなかったのか、とか。
 TBS新社屋ビッグハット問題とか。
 マックとマクド問題とか。
 コレらの問題についてもいつか考察と思っているが、とりあえず今日の結論。

 

「セブンイレブンはセビレと呼べ」

at 21:13, 空中禁煙者, 雑感

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「マグニフィセント・セブン」 西部劇の集大成でイーストウッドへショートカット

 前作「イコライザー」でクリント・イーストウッドなることを宣言した(もう、勝手に決めつけてますけど)デンゼル・ワシントンではあったが、じゃあ、

 

「今のオレに無くってクリント・イーストウッドにあるものってなに?」

 

と考えた結果、

 

「ソレは、西部劇である」

 

という結論に達したかどうかわからないが(ワタクシ空中さんは完全にそう思い込んでる)、なんとデンゼル先生、イキナリ西部劇史上最も人気の高い名作のリメイクに挑んできました。
 コレ一発でクリ様の西部劇キャリアを自分でも対抗できるものとして精算するつもりだろうか。

 そんな思惑も踏まえつつ、映画の出来について考えたい。

 

 皆さん御存知の通り、この映画は1954年の黒澤映画「七人の侍」のリメイク、の1960年のジョン・スタージェス映画「荒野の七人」のリメイク、となっている。
 このリメイクの連鎖ですが、「侍」だけが3時間20分の長尺、「荒野」と「セブン」はおおよそ2時間なのだが、どういうわけ、後に行くほど「悪役の描写」が多くなる。

 3時間20分ある「侍」は実は、正義の武士対悪の野伏(「のぶせり」って読んでね)の戦いであるにも関わらず、野伏の描写はほとんどない。その描写の少なさは、悪い人間の集団というよりは、移動するパニックのようである。
 ココまで徹底的に悪役の描写を配したアクション映画というのは、当時としては珍しい、と言うか殆ど無かったのである。
 しかしこの手法はこの後増えてくる。黒澤はこういうイロイロなことを発明しているのである。

 

 ところが。
 そのリメイクであるはずの「荒野」「セブン」は、どんどん悪役の描写が増えてくるのである。
 なぜならその方が盛り上がるから。

 

 普通はそうなのだ。
 フツーに考えて、悪役を憎々しく描いておいたほうが、盛り上がるではないか。
 より憎々しい奴をやっつけた方がスッとするではないか。

 逆に言うとコレをやらずに盛り上げまくった黒澤ってやっぱスゴい、ということでもあるのだが、、、

 

 で、ですね。
 ここまでをまとめると、ですね。
 要は、後発2作は時間が1/3近く短くなっているにも関わらず、悪役の描写は増えている、ということであり、ソレは取りも直さずこのストーリの持ちネタとも言うべき、

「7人が集まる過程」とか、

「村人との交流(訓練)」とか

「ラストの大銃撃戦」とかが、

どんどん削られているということになる。

 

 特に一番新しい「セブン」は、悪役が今までのような野盗ではなく、コレまでにもいくつもの金鉱を暴力で乗っ取って来た悪徳実業家、つまりは権力者である。
 なかなか描き甲斐があるではないか。

 そうやって悪役を描いているうちに、どんどん正義の味方を描く時間は時間が減っていく。

 

 このネタはオールスターキャストが持ち味であり、最初のリメイクでもある「荒野」にしてからが、ユル・ブリンナー、スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンと七人うち5人もメジャーなハリウッド映画で主役を張れる役者が揃っているが、「セブン」はデンゼル・ワシントンとクリス・プラットとイーサン・ホークくらいではないか(まあ、イ・ビョンホンもいるけど)。
 当然、ひとりひとりの個性を描く余裕はどんどん無くなっていく。

 

 そして「七人の個性描き分け問題」にもまして重要なのは、そもそも「なんでこの七人は命がけで村人を守るのか」問題である。

 「侍」の七人が村人を守るのは、つまるところ彼らが「武士」だからだ。
 もともと民人を守って戦うのが武士の努めだからである。

 

「米の飯なら腹いっぱい食える」

 

などというのは言い訳に過ぎない。

 ところが西部のガンマンにはもともと罪なき市民を守る定めなど無い。
 彼らはなぜ、「多分ほとんど全員死ぬであろう」判っているミッションに自ら参加するのだろうか。
 「荒野」もここは苦しんでいる。ほぼ、ゴマカシている、と言ってもいいだろう。

 そして、「セブン」はココを逃げていない。
 一応、「侍」には無かった新たな説明を付けている。

 

 デンゼル・ワシントン演じる主人公、サム・チザムは、かつてこの悪徳業者に家族を殺されているのだ。
 つまり、彼にとっては復讐劇なのである。

 さらに言えば、ガンマンを探しに出る村人は悪徳業者に夫を殺され、コレまた復讐に燃える勇敢かつ美貌の人妻、ヘイリー・ベネットなのである。
 ヘイリー・ベネットは前作「イコライザー」は添え物程度だったが、今回は堂々のヒロイン、荒くれオトコどもを村まで引っ張るファム・ファタールぶりにシビレる。

 こういう改変を寂しがる、場合によってはお怒りになる向きもあるだろうが、時間を短縮するには、まあ、有効だろう。所詮、ガンマンと武士は違う。テーマが変わるのもしょうがないだろう。

 

 こういう時短策を用いることによって、この映画はたっぷり西部劇らしい銃撃戦を描くことに成功している。
 最初に街に居座っていた用心棒どもを一掃するシーンから、もう、銃撃戦に関してはお腹いっぱい堪能できる。

 

 こういうことを書くと怒られるかも知れないが、この映画に対する関心のひとつに、「黒人監督に『西部』が描けるのか」(うわ、やっぱ怒られそう、、、)という問題があった。
 開巻直後、メンバーを集めながら大自然の中を旅するシーンなどのヌケの良い絵で、ほう、、、と思ったが、やはり「西部情緒」というものが感じられるほどではなかった。
 しかしコレは日本でも時代劇情緒の撮れる演出家がどんどん減っているのと同じく、人種の問題ではなく世代の問題なのかも知れない。

 デンゼル・ワシントンの「我、黒人のイーストウッドたらん」という目的のためには、やはりイーストウッド監督の西部劇を都会のアクションに換骨奪胎する、という戦略が正解なのかも知れない。

JUGEMテーマ:映画

at 21:29, 空中禁煙者, 洋画

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