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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「予兆 散歩する侵略者 劇場版」 ホラー版「散歩する侵略者」

 のっけから「黒沢清臭」がプンプンしていてワクワクする。
 こんなに濃密な黒沢清臭を嗅いだのは久しぶりな気がする。
 あの、僕たちの大好きな黒沢清が戻ってきたような気さえする。

 

 ココ何作か、有名な原作を映画化することでメジャーへの道を探っていたような印象のある黒沢清作品の中では、久々に「ああ、自分のテーマに出会ったんだな、、、」という印象。

 脚本が高橋洋というもの大きい。
 高橋洋が脚本を手がけた映画でつまらなかった試しがない(自ら監督した作品以外で)。
 やはり脚本家としての高橋洋は、日本映画界の最重要キーパーソンなのだろう(特撮マンとして日本映画の最重要キーパーソンだった樋口真嗣が監督に昇格した途端ダメダメなのとちょっと似ている)。

 

 もっとも本作にも原作はある。
 要は「散歩する侵略者」のスピンオフなのだ。
 しかし、一般にいうスピンオフよりは、アナザーストーリーに近い。
 「散歩する侵略者」と同じ世界観の中で、オリジナルなストーリーを展開している。
 「人間の精神を乗っ取る侵略者」「侵略者を導くガイド」「概念を盗む能力」などの「散歩する侵略者」にも出てきたアイデアを使って、別の場所で起きていた事件を描く。
 侵略者があの3人だけな訳ないもんね。
 きっと、他にもいっぱいいたんだろう。

 

 で、ですね。
 あんまり言いたくないけど、「散歩する侵略者」より全然面白いですぅ、、、

 メインアイデアは借り物だが、借り物を利用して黒沢清と高橋洋が紡いがストーリーの方が、全然良く出来てる。
 ヘタするとこっちのほうが元みたい。

 やはり主人公の夫を侵略者本人ではなく、「ガイド」にしたのが正解だったのだろう。
 コレによりおめでたい人間賛歌だった原作が、一気にホラーになった。

 

 主人公の夏帆ちゃんが、事態に気づく前にひとり、「概念」を奪われて異常をきたすキャラを配したのもさすが。
 ホラーの脚本ってこういうもんでしょ。
 原作とは、もう、アマチュアとプロ位の差がある(まあ、「散歩する侵略者」はホラーのつもりじゃないんだろうけど)。。

 

 陰鬱な空気感のなかで、坦々とした日常の連続に突然ヒドいことが起きていく黒沢演出にシビれる。
 カタストロフに向けて盛り上げていく演出法もあるが、「敢えて盛り上げない」のが黒沢清なのだ。
 コレは、名作「運命の訪問者」以来(ってオレが気づいたのがそこだってだけだけど)の、スイッチが切れたように倒れていく人間の描写も満載。
 ああ、オレは今黒沢清映画を観てる、、、

 

 夏帆ちゃんも、買い物しちゃあピョンピョン飛び跳ねてるだけのオンナかと思ったら、すっかり大人の演技派女優になってたんだねぇ、、、
 か弱そうな雰囲気の中に、映画全体を支える「強さ」を表現できている。
 ラストにちょっと銃を撃つシーンが有るのだが、舞台が同じ廃工場ということもあって、「運命の訪問者」の哀川翔かと思ったというくらい、いざとなると(愛する夫の危機に瀕すれば)強いオンナを演じきっている。

 

 あと、特筆すべきは「寄生獣」に続いて「人間のフリが出来ているつもりで全然出来てない宇宙人」の役を演じている東出昌大だろう。
 黒沢清も絶対「寄生獣」を観てこの役をオファーしたに違いない。
 「人間のフリが下手」な役で東出昌大意外考えられないくらいハマり役。
 この映画の「不気味さ」は東出昌大じゃなかったら半減していたのではないか。
 このヒト、ホントに人間なんだろうか。

 

 夏帆ちゃんの役が「特別」な人間であり、なぜ「特別」なのかの説明がないのは、この脚本の瑕ではあると思う。

 が、おそらくは侵略者は世界中に大量に来ているはずで、それぞれのガイドが悲惨な目にあっているであろうことが予想され、その中で、たまたま「特別」な女性に救われるガイドを描いているのだ(そのほうがドラマ性が有るから)と、思うことにする。

JUGEMテーマ:映画

at 19:50, 空中禁煙者, 邦画

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「西遊記2〜妖怪の逆襲〜」 いっそ続編じゃないことにして欲しかった、、、

 メインキャストが変更、と聞いて、あまり期待してはいなかったが、ココまでヒドいとは、、、という感じ。

 イヤ、ヒドいというかなんというか、あの、「はじまりのはじまり」の続編だと思わなければ、普通にツイ・ハーク監督が西遊記モノを撮ったっていうだけだったら、そこそこ観られる映画なのかなぁ、、、

 

 そう、メインキャストだけじゃなくて、監督もツイ・ハークに替わってます。
 かつて香港映画界のスピルバーグとまで言われてた巨匠も、後輩に仕事もらって糊口をしのいでいるのか、もしくはもう、いい加減やりたいことやり尽くしたから、後輩の後始末で暇つぶししてるのか、、、

 

 「妖怪の逆襲」(原題は「伏妖篇」)というくらいで、妖怪とのバトルが三回くらいあり、どれも妖怪のイメージとアクションは良いといえば良い。
 蜘蛛女や紅孩児の不思議なヴィジュアルは素晴らしいと思う。
 一転して白骨夫人が儚げな美少女のまま、というのも変化が付いていいんだけど、、、

 

 白骨夫人は「人魚姫」のリン・ユンで、やっぱりチャウ・シンチー作品の匂いも漂わせて入るんだけどなぁ、、、

 「北京より愛を込めて!?」以来我々を驚愕させてきたシンチー先生のムチャクチャなギャグセンスも、玄奘が妖怪退治のお礼にと比丘尼国の王に送られた300人の女官が全員ブス、っていうくらいかなぁ、、、

 

 ダメ。
 もう続かない。
 つまらないです。
 ハッキリ言って。

 

 もう、「はじまりのはじまり」の正式な続編であることを証明するためだけに出てくるような、回想シーンのスー・チーさんや、玄奘の師匠、更にはエンディングの「Gメン75」のテーマが、かえって悲しい。
 いっそ、続編としてじゃなく観たかった。
 それくらい前作と違いすぎる。
 ナニがあったんだ、、、

JUGEMテーマ:映画

at 21:14, 空中禁煙者, アジア

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「ソウル・ステーション/パンデミック」 韓国のアニメ事情と社会問題について

 という訳で、「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」の前日譚。

  監督のヨン・サンホはもともとアニメ作家で本作の実写化をオファーされたが、どうせなら新作をと考え、本作のラストから始まる「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」を作ったということらしい。

 

 本作を観てわかることは、ヨン・サンホ監督に、「アニメ作家である必然性」は無いな、ということ。
 本作もフツーに最初から実写で作られるべきモノであるが、おそらくは実写よりは低予算で作れる、と言う程度の理由でアニメなのだろう。

 

 なぜなら本作にはアニメとしての楽しさなど微塵も無いから。

 

 「アニメとしての楽しさ」というのは若いヒトには通じにくい概念だろう。
 あまりにも当たり前に全てがアニメとして存在していて、「何故アニメなのか」などという問いが頭に浮かぶ隙はないと思われる。

 コレはワタクシ空中さんは、そのアニメ黎明期に手塚治虫という、内部に様々なダイナミズムを抱え込んだ大天才にして巨人を擁する日本独自の現象だろうと思っていた。

 

 手塚治虫はディズニー的なアニメの楽しさに狂おしいばかりに憧れるあまり、とにかくアニメを量産しなければならないという使命のもと、低予算でアニメを「毎週毎週」制作し続けるというムチャクチャな潮流を定着させたヒトである。

 一方で映画においては、TVアニメの罪滅ぼしのようにアニメ本来のテーマである「メタモルフォーゼ」にこだわり続け、比較的良質なアニメを作っていたが、だいたいコカしていた。

 

 何故コカしていたかも重要なテーマであるが、あまりにもヨン・サンホと関係ないので、今回は割愛します。

 

 そう。
 アニメーションとはもともと「アニミズム」と同源の言葉であり、「霊魂のないモノに霊魂が宿る」ことなのだ。
 従って、ネズミや猫や人形や車が、あたかも霊魂があるかのように歌い、踊り、暴れまわり、泣くアメリカのアニメは、「アニメとしての楽しさ」を湛えている、ということになる。

 

 日本のアニメはその後手塚治虫的な低予算量産体制を独自に克服し、世界的な(ある意味根源的な)アニメの楽しさと全く別にとんでもないレベルに達したのだが、そのハナシも今回は割愛します。

 

 そんなわけで、「実写で撮る予算がないからアニメ」で撮るアニメ作家が評価されている、というのが韓国アニメ界の現状なのだな、と思うのであった。

 

 で、ですね、「アニメである必然性が無い」ことに目をつぶれば、本作も「新感染」同様よく出来てます。
 やはりメインは人間ドラマに置かれているが、ちゃんとパニック下における人間の反応をドラマ化できていて、巧いなぁと思う。

 

 特に感心するのは、ゾンビを使って、韓国の、他人に対する無関心、ホームレスから無職、売春するしか生きるすべがない少女に至る貧困層の問題を抉り出すことに成功していることだ。

 

 「新感染」はスター俳優を使った初の実写ということで、ある程度ヒットを狙った娯楽作品だったのだな、と分かる。
ゾンビ映画としては珍しく救いがあった「新感染」に比べ、本作にはほとほと救いがない。
 なにしろ恋人に売春を強要されてる少女がホームレスに紛れて逃げるハナシである。
 生き延びても生き延びられなくても行く手には絶望しか無い。
 監督の感じている絶望感がヒシヒシと伝わってくるではないか。
 ヨン・サンホ先生、ハッキリと社会派なのだ。

 

 で、ですね。
 「アニメ作家であること」が金の問題に過ぎなかった証拠に、ヨン・サンホ先生の次回作「サイコキネシス」も実写だそうです。
 さもありなん。

JUGEMテーマ:映画

at 21:21, 空中禁煙者, アジア

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「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」 今日もマ・ドンソクはヒトを殴る2

 あ〜、コレはもう、呆れるくらい良く出来てますねー、、、
 ほとほと感服した。
 もう、今回はのっけから完敗宣言。

 

 ナニがスゴいってさ、コレ、驚いたことに正確にはゾンビ映画じゃないのね。
 コレは、父と娘、夫と妻、恋人同士などといった家族の絆、さらには極限状況で生まれた男同士の友情、などを描いた人間ドラマです。

 

 イヤイヤイヤ分かってる分かってる。
 分かってるって。
 基本的にゾンビものって全部そうだっていうんでしょ?
 それはそうなの。
 それは分かってるの。

 要はどっちがどっちに奉仕してるかって問題なのよ。

 

 ゾンビってシチュエーションが、人間ドラマに奉仕してるのか、
 人間ドラマがゾンビの恐怖に奉仕してるのか、と。

 

 この映画を作った奴らが、最初から「ゾンビを使って人間ドラマを際立たせよう」と思って作り始めたかどうかは分からない。
 むしろ、最初は「本格的なゾンビものを作ってやろう」と思っていたのだろう。
 「高速列車の中でゾンビウィルス蔓延し始めたら面白くね?」ってなもんだ。
 しかし、作ってるうちに、自然と人間ドラマメインになっちゃう。
 コレが作家性というものだろう。

 

 本作が、ゾンビ映画としては珍しく、やや救いのある(全人類の滅亡を覚悟させない)ラストを用意しているのも、そういうことだろうと思う。

 

 ぞしてここからが真に驚くべきところなのだが、人間ドラマメインであるにもかかわらず。ゾンビものとして驚異的に良く出来ているのだ。

 本作は、ゾンビものであると同時に列車モノでもあるので、「大陸横断超特急」だの「暴走特急」だのの記憶を流用してもいるのだが、アイデア満載の映画なので、そういう流用が気にならない。
 特に、一度下車した挙げ句、命からがら列車に戻ってきた主人公たちが、後部車両からゾンビの蔓延する車両を突破して、家族のいる前部の車両に移動しなければならないシークエンスなど、登場人物達が必死で考えたアイデアで乗り切る有り様が、まるで「隠し砦の三悪人」のようでもある。

 

 脚本もアイデアが豊富だが、演出面でもなかなかアイデア豊富で飽きさせない。
 蹴っつまづいた人間のカットに、一瞬、蹴っつまづいた本人の目線の映像を混ぜる、だの、主人公の印象的な行動を、彼の影だけで見せるだの、さりげなく、「通り一遍の撮り方はしませんよ」と思い知らせてくる。

 

 人間ドラマで泣かせるのは簡単なのだ。愛し合ってる者同士に別れが来れば泣く。
 しかし本作は、中年男のビルドゥングス・ロマン、などという隘路にも挑戦して、驚くべきことに成功している。

 韓国の西島秀俊ことコン・ユは冷徹な証券マンである。ゾンビ列車などという極限状況に置かれても、他人は差し置いて自分と娘だけ生き残ればいいと思っている。
 しかし、マ・ドンソクやその妻、野球部の高校生や、韓国の若き木南晴夏ことアン・ソヒ演ずるその恋人のマネージャー、そしてナニよりも自分の娘と協力して窮地を切り抜けていくうちに、徐々に自分を犠牲にしても他人を助ける人間性に目覚めていく。
 コレを、声高に謳わないでちゃんと描けているのは素晴らしいと思う。

 

 本作は、前にも述べたが、「大陸横断超特急」のような列車モノ、そしてもちろんゾンビもの等、様々な映画の記憶を流用している。
 が、最大の映画的記憶の流用は、本作でも相変わらずヒトを(イヤゾンビだけど)殴りまくっているマ・ドンソクだろう。
 他の仲間がバットだの棒っ切れだのなんとか武器らしきものを手にするのに対し、マ・ドンソクだけはひたすら素手で殴る。

 コレである。

 殴り続けるマ・ドンソクこそ、このような傑作をも生み出す韓国映画界の最大のアイコンなのかもしれない。

JUGEMテーマ:映画

at 00:17, 空中禁煙者, アジア

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「散歩する侵略者」 価値観が演劇

 前にも引用したが、誰が言い出したのか解らない、

 

 「映画は監督のもの、ドラマは脚本家のもの、舞台は役者のもの」

 

と言う考え方がある。

 その意味で、この映画は極めて舞台的であると思う。
 脚本が、舞台じゃないと成立しない論理で成り立っている。

 

 例えば。

 長澤まさみは数日間の行方不明の末に帰ってきた夫が、別人になっていることに気づく。
 気づくどころか、自分から堂々と
「えー、ワタクシ、アナタの旦那さんの体を乗っ取らせていただいた宇宙人で、地球を侵略するために来ました、、、」
と名乗りやがる。

 

 で、ですね。
 いいですか?ココ重要ですよ。

 

 長澤まさみはナント、にもかかわらず、彼を愛しているのである。

エエエエーーーーーーーーーーーーーッつ!!!

あり得る?

 

 例えば「寄生獣」で田宮良子の母親は、一目見るなり娘が「娘じゃなくなっている」「なにか別のものになっている」事に気づき、夫に「早く警察に電話して!!」とか言って田宮良子にアッサリ殺されてしまう。

 コレがリアリティというものではないか。

 

 自分が愛するものが、なにか別のものに乗っ取られている。
 剰え、地球を侵略しようとする凶悪な存在である。
 コレを今まで同様愛する、と言う女性心理に、ワタクシ空中さんは一片のリアリティも感じることができない。

 

 ところが。
 舞台でならコレが可能なのである。

 

 舞台は、演出よりも、なにより「脚本」よりも、まず役者のものなのである。
 観客は、ナニよりもまず役者を見に来ているのである。
 演じている役が、仕事人間の夫だろうと散歩する侵略者だろうと、まず、「○○という役者」なのである。
 脚本なんか関係ない。
 まず、〇〇と言う女優が、〇〇という男優を「愛している」という「夢」を観客に与えている、それだけが大事なのだ。

 

 そう、もう一つ舞台を見に来る客が好きなものがある。
 それは、「愛」である。

 

 舞台では建物が爆破されたり、車が高速でチェイスしたり、ゾンビの首が飛んだりしない。
 あるのは生身の人間だけだ。
 そして生身の人間は「愛」だけは得意である。

 従って、この映画もラストはひとりの女性の「愛」が全てを大きく変えるのである。

 宇宙人侵略モノ映画で、ひとりの女性の「愛」がここまで事態を大きく変える映画があっただろうか。

 

 長澤まさみちゃんは、もう少しで、見知らぬ宇宙人を愛することにリアリティを持たせられそうである。
 が、フィジカルな優位に頼らなくなった長澤まさみちゃんにしても、コレは無理。

 

 長澤まさみちゃんと松田龍平で舞台にしてくれたら、ワタクシ空中さんも素直に感動できたろうな、と思う。

JUGEMテーマ:映画

at 20:48, 空中禁煙者, 邦画

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「ブレードランナー2049」 長い。そしてしつこい。 

 リドリー・スコット監督はひとつのことにこだわり始めると延々とそればっかりやり続けるヒトで、昔は「迷宮に囚われてそこから抜け出そうと努力し続けるヒト」の映画ばっかり撮っていた。
 で、どこで転換期があったのかよく分からなくなってしまったが、最近はまた別のテーマに囚われているらしく、本作は「エイリアン:コヴェナント」と同じテーマである。

 

つまり、

 

「被造物だったものが造物主になる」

 

コレである。

 

 人間はレプリカントを作った。
 コレだけならただ道具を作っただけであり、ハサミや自動車を作ったというのと本質的には変わりはない。
 そこで「ブレードランナー」ではフィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の逆を突いて「レプリカントも人間だ」と言う結論に達していた。

「なぜなら共感能力があるから」。

 

 ディックとしては共感能力の有る無しが人間の条件だ、と言いたかったのだろう。

 

 「アンドロ電気羊」のアンドロイドは人間ではない。
 「なぜなら共感能力が無いから」

 

 「ブレードランナー」のレプリカントは人間である。
 「なぜなら共感能力が有るから」

 

 多分、ディックは周囲の共感能力があるとは思えない、非人間的なヒトたちに悩まされていたのだろう。

 

 今はそんなことはどうでもいい。

 今、コレを書いていて、ン十年前の入ゼミ面接のときにこのハナシをしたことを思い出したけど。

 

 レプリカントには共感能力があった。
 人間は共感能力が有る被造物を作った。
 それはそれでいい。

 だがそれで人間は神になったと言えるのか。
 ただ、とても便利な(高度な)道具を作っただけではないのか。

 

 中学の「科学第二分野」で習ったところによると、それが生命であるためには次に挙げる3つの条件が必要である。

 

1.細胞(自他の区別)がある。
2.呼吸(代謝)している。
3.繁殖(成長)する。

 

 レプリカントは1.と2.はクリアしてそうである。
 問題は3.だ。

 「ブレードランナー2049」は、つまり3.をめぐる映画なのだが、、、

 

 30年前、ブレードランナーのデッカードと逃亡したレプリカントのレイチェルは、どうもデッカードの子供を産んだらしい、、、
 そして本作の主人公、自らもレプリカントであるブレードランナー「K」は「レプリカントの妊娠」ともし事実生まれていたなら子供はどこへ行ったのかを調査し始めるが、、、

と言うハナシ。

 

 レプリカントが繁殖するというのは、スゴいといえばスゴい。
 レイチェルの出産に立ち会ったらしいレプリカントも、「奇跡」と表現している。

 だけどですね、コレが例えば「神の御業」とか、自分たちで踏ん張って繁殖できるように改造したとかなら奇跡だけど、「タイレル社長がそう作った」って言っちゃったら、奇跡でも何でもなくね?
 いやタイレル社長はスゴいけど。

 

 なんかスジとしては「タイレル社長は何故そんなにスゴいのか」を追求すべきな気もするけど、そこはスルー。
 ただ、なんか知らんがスゴいスゴいって言ってるだけ。
 ちょっとピントがズレてる気がするけど、オレがSFマニアだからそう思うだけなのかなぁ、、、

 

 この映画がやたら長い原因は、実はこの映画にはもう一つ焦点があるせいでも有る。

 レプリカントであるブレードランナー「K」と、「市販用」AIであるジョイとの恋愛である。

 

 ジョイはそこらじゅうでCM打ってるフツーのホームインフォメーションシステム(要するにグーグルスマートスピーカーの映像有り型)なのだが、完全にKとお互いに恋愛感情を持っているように描かれている。

 なんだコレは、監督は「エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドだっけ?と思ったが違った。
 「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーブだった。

 

 実はこの、「人造人間とAIの恋愛」だけでも、映画一本撮れるだろう。
 コレを一緒に一本の映画でやろうとしたら、そら長くなるわ。

 

 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は「メッセージ」でもそうだったが、全体的に画面が白っちゃけていて平板な印象。
 極彩色を毎度おなじみの蒸気で隠して陰影の深い映像を作るリドリー・スコットとは真逆の印象でもある。

 

 実はヴィルヌーブ監督の「ボーダーライン」も観ているのだが、三作並べての共通点は

「砂っぽい」

 

コレである。

 

 全部砂漠が舞台になっていて、なんか観ていると口の中がジャリジャリしそう。

 なんでヴィルヌーブに任せたんだろうか。
 いっそ、アレックス・ガーランドに撮らせればよかったのに。

 

 あと納得行かないのは、デッカードの扱いである。
 リドリー・スコットははっきり「リック・デッカードもレプリカントである」と言っていて、そのためのディレクターズ・カットだったはずである。

 しかるに本作のデッカードは30歳分年を取っていて、しかもいやしくも「子供ができた」というのなら、母親ほどではないが父親のヒトとしての機能も問題になる筈であるが、どうもそのへんを気にしている様子がチョットも無い。
 要するに「人間だ」と言う方がハナシが通じやすい作りになっている。

 

 なんだコレは。
 おま、フザケンナよ、と言いたい。

 

 結果としてレプリカントの繁殖のハナシもレプリカントとAIの恋愛のハナシも中途半端で、長い上に退屈な映画になってしまった。

 もう、ジョイ役のクッソ可愛いアナ・デ・アルマスちゃんを眺めている時間しか、映画的な時間じゃなかったような気さえするワタクシ空中さんであった、、、

JUGEMテーマ:映画

at 21:06, 空中禁煙者, 洋画

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