「エイリアン:コヴェナント」 願わくば、これ以上ボケる前に続編を作って完結させてほしい、、、
リドリー・スコットは「エイリアンの起源を描く」と言って前作「プロメテウス」から始まる「前日譚三部作」を始めたそうだが、そもそも「プロメテウス」の段階で全然そうなってない。
「プロメテウス」はエイリアンどころか人類の起源を探るハナシだったし、今作でもエイリアンの新種がどんどん出てくるが、別に起源なんか探っちゃいない。
コレで一体全体どうやって「エイリアン」に繋げるつもりなのか、サッパリわからない。
ていうかどう考えても繋がるわけない。
コレはつまり、そもそもリドリー・スコットはエイリアンの起源なんか描くつもりはチョットも無い、ということだろう。
最初から出資者を騙す嘘なのだ。
コレで大予算ぶんどって堂々と自分のやりたいことやっているのだから、大したものである。
さすが今の映画界を代表する巨匠というしかない。
じゃあ、出資者に嘘ついてまで金集めて一体全体ナニをやっておるのか、と。
コレが、ですね、
「種の起源と神」
についてやってます。
「2001年宇宙の旅」が「進化と神」についてやってのとちょっと似ている。
似ているがちょっと違う。
「2001年」が「進化のトリガーを弾いているのは高度な宇宙人である」と言っているならば、例えば「プロメテウス」は「人類の起源は高度な宇宙人である」というようなハナシをやっていて、「コヴェナント」は「AIは人類の被造物である」というようなハナシになっている。
つまり、「2001年」の「お猿」の部分がないのである。
進化しないでいきなり出来ちゃって(作っちゃって)る。
コレってさ、人類はお猿の成れの果てであるって峻厳な現実から目をそらしてるんじゃないの?「2001年」より一歩後退しちゃってるんじゃないの?という気がするが、そこはこの際どうでもいい。
という訳で、順番的に言って次作はAIが造物主になるハナシになるんだろうな、という気がするが、それもどうでもいい。
映画全体の構成として、リ、リメイク?というくらい最初の「エイリアン」に似ている。
エイリアンもいっぱい出てきて、人間が逃げ惑って、戦って、最初の「エイリアン」と全く同じフォーマットの中で、全く違うことをやっている。
何しろ今回の主役は「プロメテウス」にも出てきたアンドロイドのデヴィッド君である。
ある意味、これは「エイリアン」に出てきたアッシュが勝つハナシなのかもしれない。
この、「エイリアン」のフォーマットの中で「2001年」をやろうという試みのせいで、映画全体の印象がぼやけていることは否めない。
どのシーンも面白いのだが、「で、ナニがしたいの?」」と言う思いがどうしてもつきまとう。
そもそも「エイリアン」のフォーマットはリドリー・スコットのものではなく、ダン・オバノンのものである。
リドリー・スコットも80歳である。黒澤明の昔から、映画監督は歳を取ると映像感覚より、まず、脚本を読む力が衰えるものである。
リドリー・スコットも脚本で悩んで自分が表現したいテーマを描くのに、昔懐かしいダン・オバノンのフォーマットを利用したのかもしれない。
ダン・オバノン、もう亡くなってるし(合掌)。
従って、映像感覚は衰えていない。
デヴィッドくんの部屋のシュールグロテクスな美術など、一見して圧倒される。
お金が使えるんだか使えないんだか、作家性を表現したいんだかしたくないんだか、全てが中途半端なまま、次作「デヴィットくんがエイリアンと人間を合成して造物主ぶるの巻」へとなだれ込んでいくのであった、、、
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