「シン・ゴジラ」 虚構は現実を駆逐する。
古来より、怪獣映画の主人公をどこに置くかというのは、製作者たちのアタマを悩ませてきた問題ではある。
例えば。
1.主人公である以上、ヒーローっぽい職業で無くてはならない。
2.怪獣をめぐる騒動を最初から最後まで目撃できる立場で無くてはならない。
3.多少はロマンスなんかも期待できる立ち位置であって欲しい。
などの条件を満たすべきである、と考えられてきたが、実はコレはかなり難しいのだ。
ウルトラシリーズのように怪獣の襲来が日常的である世界では、怪獣対策の専門家、と言う職業を措定し、そこに主人公を置いてしまえば上記1.〜3.の条件を簡単に満たせるが、単発作品である映画では、「怪獣対策の専門家がいる世界」をいきなり措定するのはなかなか難しい。釈由美子の奴とかあったけど、まあ、子供向けか、怪獣映画ヲタ向けにならざるを得ない。
しかるに本作はどうであろうか。
こともあろうに主人公は「当選二期目の若手国会議員」である。
ナンだそれは。
上記の3条件を、ことごとく、徹底的に無視してかかっている。
コレはつまりコレまでの60年余に及び培われてきた怪獣映画の文脈をアッサリと破棄するということであろう。
いや、庵野氏はもっと大胆に、自らを「未だかつて一度も怪獣映画を観たことがない人間」「怪獣映画が存在しない世界で初めて怪獣映画を作ろうとしている人間」として措定し、その上でもう一度「怪獣映画とは何か」を構想する、と言う思考実験をしているのだ。
本作は、そのような意味で、ゴジラ第一作のオマージュたり得ているのだろう。
ゴジラ第一作の製作者たちも、当然「怪獣映画が存在しない世界で、初めて怪獣映画を作ろうと」したヒト達な訳だ。
実を言うと、「未だかつて一度も怪獣映画を観がコトがない人間」がゴジラ映画を作る、と言う試みは、過去にも一度ある。
北村龍平の「ゴジラ・ファイナル・ウォーズ」だ。
コレは現実に北村龍平自身が「怪獣映画を一度も観たことがない」と言う事実によって実現されている。
しかし、「怪獣映画を一度も観たことがない人間」が、なんとか観たこともない怪獣映画になんとか寄せようとする、と言うなんとも中途半端な結果になってしまい、やはり、ムチャなコンセプトを実現するためには、本人の自覚が大事なのだな、と思わせる。
本作は一応、庵野秀明脚本・総監督、樋口真嗣監督、ということになっているが、実際に受ける印象では、庵野秀明氏が通常の怪獣映画における監督、樋口真嗣氏は特技監督という位置づけだったのではないかと思わせる。
映画の冒頭から、とにかく大量の情報を伝えるために登場人物全員がやたら早口に喋りまくって演技もクソもない、というコンセプチュアルな演出は、いかにも庵野秀明の自信を伺わせるではないか。
ただ、同じ樋口真嗣氏の演出になる「進撃の巨人」に続いて登場の、石原さとみのすっ頓狂な芝居だけが、樋口真嗣らしさを感じさせる。
主人公を危機管理意識の高い国会議員にして、彼を「巨大不明生物特設災害対策本部(略して『巨災対』)」を組織させる、というのは、庵野秀明氏の思考実験の結果得られた最大限「リアル」な設定なのだろう。
前半のリアルな設定と展開は、登場人物全員が無意味かつ無機的に早口、という演出さえ飲み込んでしまえば、素晴らしい。
時折差し込まれる3.11の幻影とともに、観るものを「破滅の予感」に打ち震わせる。
そう、この映画は、通常の怪獣映画のような「蕩尽の快感」より、「破滅の恐怖」に振れていると言う意味でも、オリジナルゴジラに近い。
しかし、破滅して終わり、というわけにも行かないのも、映画の宿命である。
主人公もせっかく「巨災対」を作ったし、やっぱ対策しなきゃならないのだ。
まあ、ココから映画は急にリアルさを失い始めるのは仕方のないところか。
アイデア満載のゴジラ対策も、素晴らしいものもあれば、ほぼ、笑っちゃうものもある。
高層ビルを使ったアイデアは、素晴らしいと思った。ちょっと村上龍の「半島を出よ」を思い出す。
しかし、電車を使ったアイデアは、「オマエ『○○線○○』言いたいだけちゃうんか」というようなもんである。
なにしろ「現実対虚構」である。
現実が負けて徐々に虚構に侵食されていく様を描いた映画として、間然とするところがないと思うのでありました。
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