2015.05.06 Wednesday
「地獄でなぜ悪い」 園子温監督の人格を敢えて二つに分裂させて描く
毎度のことだが、園子温監督の映画は、通常我々の考える映画の文法に従わない。
例えばこの映画で言えば、出来れば長谷川博己の役と星野源の役は一つにまとめて欲しいと思ったりもする。
ミツコに純粋で激しい恋心を抱く星野源と、ただ映画を撮りたいだけの長谷川博己。映画のコトなんか何も知らないけれど映画監督に指名された星野源と、映画のコトにしか興味が無い長谷川博己。
星野源はミツコによって映画監督に指名されたが、当然何も出来ないので、長谷川博己に助けを求めなければならないし、やがて映画製作の主導権は長谷川博己に移らなければならないのだが、この過程に引っかかりが生じすぎる。ショージキ言っていくらなんでも無理である。
ココを同一人物に設定すればこの引っ掛かりは簡単に解消できるのに、、、
どうせどっちも園子温監督の分身だろ、、、
しかし、ココを二人の別の人物として設定するのが、園子温映画なのだろう。
どっちも監督の分身だからこそ、敢えて二人に分けるのだ。映画の(通常の意味で)進行を妨げることになっても。
もしかすると、自分の中にあった純粋な恋心と映画への情熱で揺れ動き、「自分が二人いればいいのに、、、」と思った帰結なのかもしれない。
ソコを通常の映画のにように判りやすさに逃げず、敢えて引っかかったまま撮り切ってしまうのが、園子温独自の映画の文法なのだろう。
この映画がベネチア映画祭でスタンディングオベーションを受けたというのはよく判る。
最初っから最後までビッチリと面白いのだ。
通常の映画のように徐々にボルテージを上げてダレ場を作ってラストで一気に、と言う作りではなく、最初からボルテージ上がりっぱなしと言うのも園子温映画の特徴の一つだが、今回は、「ハハァ、例によって最初からボルテージ上がってんな、、、」と思わせておいて、さらに上がり続け、最終的に(園子温映画のファンでも)予想もつかなかったところまで上がりきってしまう。
コレには参った。
ココまでやるとは思わなかった。
恐れ入りました。
タランティーノと、一番狂ってた頃の三池崇史と、三隅研次(邦画でこれだけちゃんと殺陣をやっている映画は久々ではないか)と、ジョン・ウー(邦画でこれだけちゃんと銃撃戦を(以下略))を軽々と乗り越えてバックボーンは園子温のまま、と言う恐ろしい映画になっています。
基本的に出演者全員「シリアスに演じれば演じるほどオカしい」と言う演技プランに乗っている(特に國村隼と星野源は素晴らしい。長谷川博己はプランに乗ってよく頑張ってはいるが、良くはない)なかで、何故か堤真一だけコメディ演技をしてしまっている。
コレはどういうことか。
監督が堤真一のコメディ演技を信頼したというよりは、シリアスに演じても面白くならなかったのだろう。
JUGEMテーマ:映画
例えばこの映画で言えば、出来れば長谷川博己の役と星野源の役は一つにまとめて欲しいと思ったりもする。
ミツコに純粋で激しい恋心を抱く星野源と、ただ映画を撮りたいだけの長谷川博己。映画のコトなんか何も知らないけれど映画監督に指名された星野源と、映画のコトにしか興味が無い長谷川博己。
星野源はミツコによって映画監督に指名されたが、当然何も出来ないので、長谷川博己に助けを求めなければならないし、やがて映画製作の主導権は長谷川博己に移らなければならないのだが、この過程に引っかかりが生じすぎる。ショージキ言っていくらなんでも無理である。
ココを同一人物に設定すればこの引っ掛かりは簡単に解消できるのに、、、
どうせどっちも園子温監督の分身だろ、、、
しかし、ココを二人の別の人物として設定するのが、園子温映画なのだろう。
どっちも監督の分身だからこそ、敢えて二人に分けるのだ。映画の(通常の意味で)進行を妨げることになっても。
もしかすると、自分の中にあった純粋な恋心と映画への情熱で揺れ動き、「自分が二人いればいいのに、、、」と思った帰結なのかもしれない。
ソコを通常の映画のにように判りやすさに逃げず、敢えて引っかかったまま撮り切ってしまうのが、園子温独自の映画の文法なのだろう。
この映画がベネチア映画祭でスタンディングオベーションを受けたというのはよく判る。
最初っから最後までビッチリと面白いのだ。
通常の映画のように徐々にボルテージを上げてダレ場を作ってラストで一気に、と言う作りではなく、最初からボルテージ上がりっぱなしと言うのも園子温映画の特徴の一つだが、今回は、「ハハァ、例によって最初からボルテージ上がってんな、、、」と思わせておいて、さらに上がり続け、最終的に(園子温映画のファンでも)予想もつかなかったところまで上がりきってしまう。
コレには参った。
ココまでやるとは思わなかった。
恐れ入りました。
タランティーノと、一番狂ってた頃の三池崇史と、三隅研次(邦画でこれだけちゃんと殺陣をやっている映画は久々ではないか)と、ジョン・ウー(邦画でこれだけちゃんと銃撃戦を(以下略))を軽々と乗り越えてバックボーンは園子温のまま、と言う恐ろしい映画になっています。
基本的に出演者全員「シリアスに演じれば演じるほどオカしい」と言う演技プランに乗っている(特に國村隼と星野源は素晴らしい。長谷川博己はプランに乗ってよく頑張ってはいるが、良くはない)なかで、何故か堤真一だけコメディ演技をしてしまっている。
コレはどういうことか。
監督が堤真一のコメディ演技を信頼したというよりは、シリアスに演じても面白くならなかったのだろう。
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