smtwtfs
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< November 2014 >>
profile
recommend
マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
映画検索
カスタム検索
  
 
★の数が意味するところ
★★★★★
生涯のベスト10を塗り替える勢い
★★★★
ブルーレイがでたら買うかも
★★★
観といて損はなかったかも
★★
別に観なくてもよかったかも

金はいいから時間返せ
bk1
new entries
categories
archives
recent comment
  • 「スパイダーマンTM3」  え?え?TMってナニ?
    空中禁煙者 (01/23)
  • 「スパイダーマンTM3」  え?え?TMってナニ?
    nk (01/22)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    空中禁煙者 (07/04)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    台湾人 (07/03)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    空中禁煙者 (07/02)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    台湾人 (07/01)
  • 「ザ・ライト エクソシストの真実」 コレで実話って言われてもなぁ、、、
    空中禁煙者 (06/29)
  • 「ザ・ライト エクソシストの真実」 コレで実話って言われてもなぁ、、、
    通りすがり (06/28)
  • 「ゼロの焦点」 中島みゆきのエンディング・テーマがビックリするくらい浮いている
    通りすがり☆ミ (12/08)
  • 「必殺始末人」 トシちゃん渾身の殺陣が堪能できる
    空中禁煙者 (06/03)
recent trackback
links
mobile
qrcode
others
無料ブログ作成サービス JUGEM
search this site.

「聖書の常識」 歯ごたえありすぎの入門書

 なんとなく、「平凡社ライブラリー」あたりを意識したのではないかと思わせつつ、昨年スタートした「文春文芸ライブラリー」の一冊。
 帯には「キリスト教を知るために最良の入門書」とあるが、日本語がちょっと変(「知るために」ではなく、「知るための」ではなかろうか)なのを置くとしても、これはどうもそんな生易しいものではないのではあるまいか。

 読んでみるとどうも、これは旧約・新約両聖書を中東史の中で位置づけ、返す刀で日本文化との比較まで行ってしまうと言う、大胆な試みでさえあるように思える。

 当ブログを読んでいただいている方(いません、、、)はお気づきと思うが、ワタクシ空中さんはここ何年かキリスト教関係の書籍を当ブログで紹介している。
 コレは別にワタクシ空中さんがキリスト教徒だからではなく、「キリスト教ってなんかヘン、、、」と思っているからである。ワタクシ空中さんはなにか一つのことに興味を持つと、何年間かその関連の書籍を読み漁るクセがあり、過去には精神分析だったり進化論だったりしたが、今はキリスト教だというだというだけなのだが、本書を読んで、「コレはキリスト教関連書籍遍歴も終わりかな、、、」と言うくらいん衝撃があった。
 いや、終わらないまでも、今後読むキリスト教関連書籍は、本書を更に深く読み解くためによむ、と言うスタンスにならざるを得ない。

 例えば、本書には(かなり最初のほうで)、「イスラエル人は、『時』と言う意識がはっきりした民族で、全てを歴史的、時間的にとらえており、ある状態を時間を無視して固定させ、永続させることはない」などと書いてある。
 コレはワタクシ空中さんのような浅学非才の徒から見ると、「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」に書いてあった、「ヘブル語には時制という概念がなく、そのせいでへブライズム世界には時制がない。現在も過去も未来もない」と言う指摘と、著しく、真っ向から、鋭角的に対立するのである。

 もちろん、秋吉輝雄氏や山本七平氏本人にお伺いを立てれば、簡単に「ああ、それはこういうことだよ(全く、教養のない人間というものは度し難いねぇ)」などとおっしゃって、この矛盾を晴らしてくれるのであろうが(お二人とも亡くなっていますが)。

 この一点を解決するだけでも、あと何冊のキリスト教関連書籍を手に取らなければならないのか、気も遠くなるほどである。

 アレ?そうするとやっぱり、最良の入門書なのかなぁ、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 19:38, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「キャリー」 美少女キャリーは空も飛ぶ

 まず、思うのは、キャリーといえばホラー映画史上に残るブスの代名詞なのに、美少女クロエ・グレースちゃんにつとまるのか、ということだ。
 いくらなんでもクロエ・グレースちゃんをブスにメイクすることは無理だし意味が無いので、キャリーを「地味で引っ込み思案な娘」にすることで、どうにか成立させているが、コレ、どうなんでしょうね。
 「もともと美少女だけど地味で引っ込み思案な娘」だったら、別の解決策があるような気がするし、展開も代わってしまうような気がする。
 あの当時のシシー・スペイセクとクロエ・グレースちゃんの差を埋めるためには、いっそ顔に痣があるとか、片手が無い、くらいの変更が必要なのではないか(シ、シドいこと言ってんな、、、)。しかもシシー・スペイセクは乳出してたのに、クロエ・グレースちゃんは出してない(コレばっか、、、)

 もう一つ、デ・パルマフリークとして気になるのは、当時の映画少年たちのド肝を抜いた、クライマックスにおける「惨劇のパーティー」シーンのカメラワークである。
 スプリットスクリーンで割った画面の片方でキャリーの目線を、片方でサイコキネシスの結果を追い、さらにサイコキネシスの結果の動きに合わせてスプリットスクリーン自体が動く、と言う、当時誰も見たことがなかった映像に、映画少年たちは鼻血が出るほど興奮したのだ。
 コレは、さすがにスプリットスクリーンを使ったら「ワシの監督としての主体性というものがないではないか」ということだろう、敢えて避けて、デ・パルマ版ではなかったクロエ・グレースちゃんの手の動きでサイコキネシスを表現する、と言う手法を使って、なんとか面白く見せようとしてますが、まあ、衝撃性はないよね。

 一方、デ・パルマ版を観た時に感じた不満、スー・スネル(エイミー・アーヴィング)の恋人、トミー・ロス(ウィリアム・カット)の態度の曖昧さは解消されてない。まあ、原作がそういうもんだからしょうがないんだろうけどさ、今回クロエ・グレースちゃんを使ったことで、トミーがキャリーを本当に好きになってしまう、と言う展開があってもいいと思うんだが、、、

 キャリーの母親、マーガレット役にジュリアン・ムーア。コレもなんだかなぁ、、、
 デ・パルマ版のマーガレット役、パイパー・ローリーは優しいお母さんも似合いそうなややふくよかな美人だったからファナティックな演技が恐怖を倍増させていたのだが、ジュリアン・ムーアじゃ最初から蛇オンナみたいで不気味なので(シ、シドい、、、)今ひとつ恐怖に深みが出ない。

 後は、まあ、この映画も後のエイミー・アーヴィングやウィリアム・カット、ナンシー・アレンやジョン・トラボルタみたいなスターを次々に輩出すればいいんだけど、どうもそんな気もしないなぁ、、、
JUGEMテーマ:映画

at 01:26, 空中禁煙者, 洋画

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「エリジウム」 エリジウムとはギリシャ神話に出てくる楽園の名前

  「第9地区」のニール・ブロムカンプ監督・脚本作品。
前作のヒットのおかげで、ヴィジュアルもグッと豪華になり、誰も知ってる役者が出ていなかった前作に比べ、マット・デイモンとジョディ・フォスターと言う大スターも使えるようなった。
 が、やってることは「第9地区」とほぼ同じであるような気もする。位置的な上下の関係こそ逆転しているが、差別されるものとするものの対立を軸としたストーリーであることは変わりない。
 それでいいのだろう。気が済むまで自分のテーマを掘り下げるがいい。

 とは言うものの、「巨大な宇宙船が地球に漂着するが、乗っていた宇宙人はボンクラばっかりだった」という、SF史上に類を見ないヴィジョンを見せてくれたブロムカンプ監督にしては、今回はどこかで見たような凡庸なイメージばかりではある(カネがかかってる分美しくはあるが)。

 多分、わざとやっているのだろうが、設定とか展開がいい加減(下層階級から上層階級への侵入を防いでいるのは髭面のオッサンのハンドミサイルのみである、とか)なせいで、徐々にお伽話めいてくる。
 この映画はお伽話ですよ。寓話ですよ。従って寓意がありますよ。と言ってるのではなかろうか。

 映画のラストで、ああ、ナルホドな、、、と思うことはあった。
 主人公は下層階級で喘ぐ青年、マット・デイモンなのだが、彼は工場作業中の事故で危険物質を浴びてしまい、あと数時間の命となってしまう。生き延びる方法はただひとつ、上流階級の住む「エリジウム」へ行って、医療を受けること。ただ、下層階級の人間はエリジウムに立ち入ることさえ許されていないのだ。

 必然的に、マット・デイモンは自らの侵入を阻むエリジウムに闘いを挑むことになる。

 しかしこの映画、ラストで下層階級とエリジウムの対立は解消されないのだ。
 下層階級は下層階級のまま、エリジウムはエリジウムのまま。それは仕方がない。

 ただ、命にだけは差を付けないでくれよ、と。マット・デイモンはこれだけは実現する。

 ブロムカンプ監督の出身地、南アメリカの保険事情を偲ばせる映画である。
JUGEMテーマ:映画

at 19:45, 空中禁煙者, 洋画

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「天冥の標6 宿怨PART 3.」 罪作りなフラッシュバック

 「天冥の標」シリーズは、第一巻「メニー・メニー・シープ」で西暦2800年を舞台に始まり、第二巻「救世群」でイキナリ現代に戻ってくる。つまり、クライマックス直前で始まり、一旦ハナシの原点に戻る例のフラッシュバックを使っているのだ。
ということはつまり最終巻である10巻は「メニー・メニー・シープ」後の世界であり、9巻で「メニー・メニー・シープ」の世界に追いつく筈である。
 従って、「メニー・メニー・シープ」追いつくまで、あと7・8・9の三巻しかない。
 そして、この、「宿怨」のラストで世界は大きくその有り様を変えてしまう。
 ここからあと三巻であの「メニー・メニー・シープ」の世界にたどり着かなければならないわけだ。
 「宿怨」のラストから「メニー・メニー・シープ」までを逆算して、「え、ひょっとしてそういうことなのかなぁ、、、」という気もする。

 もっとも、「メニー・メニー・シープ」以後の世界が2〜3巻分ある可能性もないではない。だとすると、次でもう、追いつかないとイケないわけだ。それはいくらなんでも無理かなぁ、、、

 しかし、必要な物はある程度出揃っているような気もする。ラヴァーズも、フェロシアンも、メイスンも、ドロテア・ワットも。
 ここからどうやって「メニー・メニー・シープ」の世界にたどり着くのかねぇ、、、
 興味が尽きない小説だねぇ、、、
 (今回のブログ記事は内容が全くありません、、、)
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:28, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「天冥の標6 宿怨PART 2.」 オムニフロラのミスチフとノルルスカインのダダー(なんのこっちゃ)

 遥かな宇宙で遥かな昔から二つの種族が延々と戦いを繰り広げていて、人類は「そうとは知らずに」二組の戦いに巻き込まれていく、、、と言うアイデアは、SF界には昔からある。眉村卓氏の代表作「司政官」シリーズの超大長編「消滅の光輪」も最終的にそんなハナシになっていたような記憶がある(超超超大長編のシリーズ最終巻「引き潮のとき」があの設定を踏まえていたかどうかは知らない。読んでないから)。
 従って、別に「2大勢力に巻き込まれ」モノだからといって駄作であると決めつけることはないのだが、実はこの設定には苦い思い出があるのよ、ワタクシ空中さんは。

 みなさん(誰だよ!)は、「チョンクオ風雲録」を憶えているだろうか。1990年から1997年まで、なんと7年の歳月をかけて文藝春秋社から16巻にわたり刊行された、デヴィッド・ウィングローブによるSF超大作である。
 今から何百年後かの世界、世界は漢民族に支配されていた!!
 つか支配されていたどころか、漢民族以外の黄色人種(もちろん日本人も、満州族さえ!)と黒人は絶滅させられており(!)、白人はかろうじて軍人としてのみ生存を許されていた!
 コレだけでも大胆な設定だが、さらに、七つの大陸の殆どの部分は「ICE」と呼ばれる丈夫で軽い謎の新物質で作られた「City」と呼ばれる何百層にも及ぶ巨大建造物に覆い尽くされていた!!
 と言うハナシである。

 実を言うとこの「チョンクオ風雲録」が翻訳刊行されていた7年間、ワタクシ空中さんは、ある意味幸せだった。ワタクシ空中さんはこのブログでもよく「究極のSF」を読みたいと言っているが、「チョンクオ風雲録」はまさに究極のSFだったのだ。ああ、まだまだ何巻も究極のSFを読み続けられるのだ、、、と思えることは、人生のほんの小さな幸福である。これくらいの幸福を味わっても許されるだろう。

 しかし、この幸福はラストで大きく裏切られることになる。
 それまで延々と異常な未来社会を丹念に描き、そこで繰り広げられるリアルな人間模様をコツコツと描いてきた「チョンクオ風雲録」は、全くリアリティのない「宇宙の2大勢力」の訳の分からない戦いに堕して終わる。
 正直、呆然とした。
 読書人生最大の失望と言ってもいい。
 これ以来、ワタクシ空中さんは、「宇宙の2大勢力にそうとは知らぬ間に人類が巻き込まれている」型のSFには、なんとなく警戒心を描いてしまうのだ。

 そして、この「天冥の標」シリーズも、実は「宇宙の2大勢力にそうとは知らぬ間に人類が巻き込まれている」式の構造を持っているのだ。その名も自らの生存範囲を広げることによって宇宙全体のエントロピーを下げてしまう「オムニフロラ」と、オムニフロラの拡大をなんとか防ごうとしている被展開知性体「ノルルスカインのダダー」だ!参ったか!!
 現時点で、ワタクシ空中さんがこのシリーズに持つ懸念は、この一点のみと言ってもいい。

 もちろん小川一水氏はデヴィッド・ウィングローブと同じ愚は犯さないだろう。「天冥の標」シリーズはそんな単純なもんじゃない。

 現時点でスリーズ最長の三分冊を要したこの第六巻「宿怨」はシリーズで最も血なまぐさいハナシだが、ココで戦いを繰り広げているのは、オムニフロラ対ノルルスカインではなく、オムニフロラが数千年前に太陽系侵攻のために放ったものの、上手く行かなかったために打ち捨てられたもののその後人類の中で育っていった勢力と、今現在オムニフロラに操られている勢力なのだ。しかも一度打ち捨てられたオムニフロラの勢力に手を貸しているのは、オムニフロラの存在に気づいてその進行を止めるために遠い宇宙から太陽系にやってきた異星人だ。
 なんとも複雑なことを考えたものだが、現実はいつも複雑で不条理なものである。

 小川一水氏のこととて大丈夫だろうとは思うが、お願いですからデヴィッド・ウィングローブと同じ陥穽にハマらないでくださいね、と祈ってやまない空中さんであった。
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:09, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「天冥の標6 宿怨PART 1」 究極のライトノベルハードSF

 昔からSFの魅力のひとつは文芸ジャンルとして自由であることだとされている。単に現代科学では不可能な(解明されていない)テクノロジーが出てくるというだけでなく、小説のスタイルとしても自由を謳歌してきた(ハーラン・エリスンの「死の鳥」とかね)。
 しかし、今はもっと自由なジャンルがある。
 ライトノベルである。
 ライトノベルの自由さたるや、それはもう「自由」と言う言葉さえ虚しく響くほどで、物理法則やらリアリティはなるべく無視したほうが喜ばれる、というようなもんである。

 恐らく、小川一水氏は、ライトノベルの奔放さにハードSFの裏付けを与えることに成功した今のところ唯一のSF作家だろう。
 もしかすると小川氏本人はいつまでもライトベル絡みで語られることを由としないかもしれないが、宇宙方言丸出しで喋る美少女、喋る羊、クールなオンナ太陽系艦隊指令、などというガジェット(?)を見ると、ライトノベルの「良いトコロ」をちゃんと継承しているなぁ、と思わざるを得ない。
 それら多くの奔放なアイデアに、さらっとハードな裏付けを忍ばせる手腕には、なにか安心感さえ覚える。

 一方今作「宿怨」でも、特殊な境涯の少女とやや恵まれた環境の少年の淡い思い、追い詰められた大臣と圧制者の友情など、人間模様を描いても間然とするところがない。

 恐らく、現存するSF作家の中で最も百科全書的な素養を持つ小川氏が、敢えて百科全書的なSFに挑戦したのが「天冥の標」シリーズであり、つまりは、今最も「究極のSF」を読む快楽に浸れるシリーズなのだ(なんか毎度コレばっか言ってるけど)。
JUGEMテーマ:小説全般

at 01:32, 空中禁煙者, 書籍

comments(0), trackbacks(0), pookmark

「ハンガー・ゲーム2」 なんでレニクラは音楽担当させてもらえないのかねぇ、、、

1.前作を超えるようなことなナニも起こらない。
2.尻切れトンボで終わる。

 レビューとしては以上で充分だと思うが、それじゃあまりにも大方の予想と同じすぎるので、もうちょっと書くことにする。

 一作目と次の完結編へのツナギの回なんだからしょうがないという言い訳は成り立たない。「ゴッド・ファーザー」だって「スター・ウォーズ」だって2作目が一番面白いではないか。
 原作がそういうもんだからしょうがないと言う意見もあるだろうが、

1.前回のハンガー・ゲームでのカットニスの活躍のせいで、各地区で氾濫の機運が高まっている。
2.キャピタル(まあ、支配者側のこと)がその機運をカットニスを使って抑えようとする。
3.カットニスが卑怯な行動を取らざるをえないようにして氾濫の機運を潰すために、もう一度ハンガー・ゲームをやろうとする。

 これだけ抑えておけば、後は自由にやっていいのではないか。
 特に今回のハンガー・ゲームは、「歴代の勝者ばかりを集めた特別な大会」なのだから、前回のハンガー・ゲームを超える熾烈な戦いがあってしかるべきだが、残念ながらゲームメイカーvsプレイヤーの戦いに終始してしまい、プレイヤー同士の戦いは前回以下。なにしろ今回ジェニファー・ローレンスちゃんが一番カッコいいのは、訓練場で弓の連射をするシーンと言う体たらくだ。何のために歴代の勝者を集めたのか判らない。

 結局、今回はジェニファー・ローレンスちゃんの堂々たるスターっぷりを楽しむための映画でしかなくなっている。
なんていうことのないシーンなのだが、カットニスとピータとヘイミッチ(要するに仲間)でエレベーターに載っていると、他の地区のイケイケオンナが乗ってきて、突然意味もなく服を脱ぎ始める。このシーンのジェニファー・ローレンスちゃんの表情が素晴らしい。
 「ものすごく気マズイわよ。気マズイことは表情でハッキリ主張するけど別にヘーキなんだからね」
と言うか、
 「アタシはアンタの裸なんか見たって全然驚かないけど、なんでココでこんな目に合わなきゃいけないのか全然解かんない」
と言うか、実にビミョウな表情をしていて、大笑いさせられる。
 見事です。

 正直言ってジェニファー・ローレンスちゃんは「少女」といえる歳ではなくなってきてる。原作のカットニスは16歳であり、そもそも一作目の時点でジェニファー・ローレンスちゃんは「12歳から18歳まで」というハンガー・ゲーム出場資格を(大きく)超えてしまっているのだ。
 願わくば、ジェニファー・ローレンスちゃんにあんまり貫禄が付く前に、キレイな大団円を迎えてほしいと祈るばかりである。
JUGEMテーマ:映画

at 19:47, 空中禁煙者, 洋画

comments(2), trackbacks(0), pookmark

「クロニクル」 超能力シネマクラブ

 小林信彦氏は、往年のアクション映画の名匠、ドン・シーゲルの手法に「シーゲル祭り」と名前をつけていた。(だいたいどんな映画でもラストに向けてエスカレートしていくものだが)アクション映画のアクションというものは、なだらかなエスカレーションではいけない。どこかで、それまでのエスカレーションから予想される暴力を、量的にも質的にもはるかに上回る爆発が必要なのだ。
 ドン・シーゲルはその辺が解っていて、必ず爆発的なエスカレーションを用意していた。コレを評して「シーゲル祭り」と名前をつけたわけだ。
 もっとも、何事も言うは易く行うは難し、「シーゲル祭り」もいざやろうと思うと結構大変であることは想像に難くない。「予想を上回る」と言っても、下手に上回りすぎると、ただ「ハァ?」となって終わりである(この「ハァ?」感を逆手に取ったのが三池崇史の「Dead or Alive」だろう)。

 オレはこの「クロニクル」という映画がとても好きになった。新人監督の一作目としては、大傑作とは言わないまでも、傑作の部類に充分入るだろう。

 例えば予想を裏切る人物配置とか。
 映画というものはたいてい学生時代ボンクラだった奴が作っているせいか、スクールカーストの上位にいる奴はたいていイヤな奴で、ロクな死に方をしないと相場が決まっているが、その辺を上手く崩している。

 例えば、もう、飽き飽きしてきたP.O.Vに新たな光を当てているとか。
 主人公は両親に問題を抱えた(父親は無職の酔っぱらい、母親は病気で寝たきり)内向的な高校生なのだが、彼は、直接肉眼でではなく、「カメラを通して世界を見ると安心する」と言っている。彼の脆弱な精神を守るための障壁になっている訳だ。コレは単に手法としてだけではなく、人物描写としても機能しているということで、なんか新しいと言わざるを得ない。
 撮影者である主人公が超能力を使えるようになると、今度はカメラに手を触れずに撮影できるわけで、宙に浮かせたカメラで自分を撮ってズームでもピン送りでもなんでもござれ(ファインダー覗かないでズームして意味あるのかどうかはともかくとして)、コレも超能力モノじゃないと成立しない手であり、上手くハマったなぁと言う感じ。
 まあ、ストーリーが進むと主人公はイロイロ忙しくて撮影どころじゃなくなるわけだが、そうなると今度はもう一人の主人公の彼女がやっぱり撮影マニアだったり、最終的にはその辺の防犯カメラやら警察の記録映像やら総動員になる。まあ、言葉の通りの意味で、ファウンド・フッテージになっていく訳だ。

 主人公と仲間二人が超能力を得た後の、くだらないエスカレーションも、まあ、巧い。定石をうまく利用している。

 そんな訳で、ワタクシ空中さんがこの映画に感じた唯一の不満が、冒頭に書いた「シーゲル祭り」だ。
 観ていてオレは、「ああ、コレは大友克洋だな、、、」と思った。調べてみると、案の定ジョシュ・トランク監督は「大友克洋が好きだ」と言い、「AKIRA」から影響を受けていると言ってるそうだ。
 大友作品の中で「AKIRA」が一番有名なので、取り敢えず名前が上がっているが、ズバリ、この映画は「Fire Ball」だろう。主人公二人に血の繋がりがある(「Fire Ball」では兄弟)のも、そういうことだと思う。
 そして、大友克洋の「Fire Ball」には見事な「シーゲル祭り」があるが、「クロニクル」にはない。「クロニクル」もラストで盛大にエスカレートするが、急激ではあるものの直線的であり、突然、大きく予想を上回るということはない。しかし、「Fire Ball」の最終ページを開いた時の衝撃は、未だに忘れられない程のものであった(多分、「Dead Or Alive」も「Fire Ball」が元になっている)。

 真の天才大友克洋と比べては可哀相だが、大友克洋が「Fire Ball」を描いたのは25歳の時である。ジョシュ・トランク監督が本作を撮ったのは28歳。いつか、堂々と実写版「Fire Ball」や「童夢」を撮ってくれると信じる。
JUGEMテーマ:映画

at 20:26, 空中禁煙者, 洋画

comments(0), trackbacks(0), pookmark