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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「許されざる者」 だから無理ちゃう?って言ったのに、、、

 一応礼儀として、クリさまのオリジナル版は憶えてないふりをして鑑賞しようと思ったが、、、無理でした。

 解ったことがいくつかある。

1.クリント・イーストウッドはやっぱり偉大だ。
2.誰もクリント・イーストウッドの真似をしてはいけない。
3.クリント・イーストウッドの偉大さを表現する批評言語はまだ生まれていない。

 ああ、もしかして、クリ様の偉大さを表現する批評言語すら生まれていれば、この映画は作られなかったかもしれないのに、、、

 突然ハナシはブッ飛ぶが、昔ロバート・A・ハインラインというSF作家がいたのである。アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフと並んでアメリカのSF全盛期を支えたビッグスリーに数えられる、アメリカを代表するSF作家(日本で言えば星新一、小松左京、筒井康隆のSF御三家の一角、みたいな。もっと解りにくい?)であり、その、取り立ててテクニックを感じさせない構成美と文章力を高く評価されていた実力者なのである。
 しかし、その、何を書いてもツルツルと読めてしまう構成美と文章力を、取り立てて目立ったテクニックを使用していないだけに、ヒトビトはどう表現していいか分からず、ヤケクソ気味に「ハインライネスク」と呼んでいたのだ。新作が出ると「相変わらずのハインライネスクで読ませる」というように。まあ、「ネスク」はジャパネスクのネスクと一緒で、要は「ハインラインっぽい」と言ってるだけなのだが、、、

 要は、ワタクシ空中さんはクリ様の演出のことを考えると、いつもこのハインライネスクという言葉を思い出すのだ。クリ様ならなんだろう、イーストウッデスクか。それともイーストウッドネスクだろうか。クリ様の、全くケレン味のない演出で、取り敢えずなんでも重厚に描き切ってしまう豪腕に、早く名前をつけるべきだと思うのだが、、、

 李相日監督が「イーストウッドネスク」に気がついていた上で、リメイクに挑戦しようと思ったのかどうかな解らないが、知っていたとしたら大した度胸だと思わざるを得ない。
 まあ、オリジナル版が好きだったらしいから、そのテーマ性に反応したとも考えられるが、どういうわけかテーマ性も大きく外している。

 そもそも、「許されざる者」っつってるのに、主役の渡辺謙は悪人じゃない。一応、「女子供も殺した」と言うことなっているが、あくまでも「隠れキリシタン弾圧のため」であり、忠実な藩士であったに過ぎない。自分の利益のために女子供も殺した、クリ様演じるウィリアム・マニーとは全然違うではないか。
 おそらく、クリ様がデヴィット・ピープルズによる脚本の権利を手に入れてから10年以上、マニー役にふさわしい年齢になるのを待っていた意味も気にしていないだろう。

 結局、この映画を観て印象に残るのは、アイヌの映画だったな、と言うことと、ソードアクションかガンアクションかハッキリしろよ、、、と言うことでしかなかった。

 アイヌの女性が亡くなると、天国に持っていけるように家を焼くとか、結婚すると女性は刺青、男性は耳飾りをする、とか、盛んにアイヌの習俗を描いていたりする。
 また、渡辺謙の亡くなった奥さんはアイヌ出身であり、柳楽優弥(オリジナル版でハナシを持ってくる若造)はアイヌとのハーフであり、最終的に映画全体はアイヌへと収斂して行く。
 結局、李監督にとっては「許されざる者」ではなく、「差別される者」なのだろう。
 オリジナル版のラストでは「西部劇が神話になる瞬間」を描いていたが(コレは多分、多分ですよ、多分ですけど、「ペイルライダー」が「神話が西部劇になる瞬間」を描いていたのと対になっている)、この映画ではなにが何にもならない。一応、アイヌの血は続く、ということだろうか。

 あと、個人的に一番イカンと思うのは、ガンアクションで行くかソードアクションで行くか腰が決まらないために、ちょっとだけあるアクションシーンがダルッだるな事だ。そういう事がやりたいんじゃない、ということだろうが、当然のことながらクリ様はガンアクションの演出もお手のものであって、ラストのガンアクションが辛気臭い映画全体をビシッとシメているのだ。

 結局オリジナルとの比較論に終始してしまったが、これだけ評価の定まった(しかもリアルタイムで見たヒトがまだ大勢生きている。オレもだけど)名作に挑戦したのだから、仕方がないと諦めてもらうしかない。
JUGEMテーマ:映画

at 19:56, 空中禁煙者, 邦画

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「ワールド・ウォーZ」 アウトブレイク映画のフリをしたゾンビ映画のフリをしたやっぱりアウトブレイク映画

 この映画のテレビコマーシャルは、徹底的にゾンビ映画であることを隠していた。ゾンビという言葉も出さないし、ゾンビの映像もそれと判るようには出さない。
 ゾンビ映画ファンとしては、舐めとんかコラという気もする。
まあ、ゾンビ映画というのは低予算でも作れるというのがウリなので、ブラピ主演の超大作でゾンビ映画=B級という連想を避けたい気持ちは解らないでもない。問題は、ゾンビ映画であるにかかわらず、ゾンビ映画であることを隠して、何映画だと思わせたいのか、と言うことだ。

 いざ観てみると、映画の中でハッキリ「ゾンビ」というセリフは出てくるし、大挙してゾンビも出てくるにもかかわらず、「ナルホドな、、、」と思う。
 例えば、この映画には、通常我々がゾンビに映画にあると思っているモノが、見事にない。それは、ゾンビという、つまるところ「人間の遺体」であるものを激しく損壊したり、生きた人間がゾンビに喰われて肉体が千切れたりという、残酷シーンであり、あるいはまたロメロ御大以来引き継がれている「ほんとうに怖いのは人間だ」とか「親しい人間がゾンビになった時、ゾンビとして処理できるか」という暗いテーマだったりする。

 じゃあ、そういうゾンビ映画特有の要素をやらずに、何をやっているかというと、要するにアウトブレイクものをやっている訳だ。
 この映画は、雰囲気においても手法においても、いわゆるゾンビ映画と言うよりはダスティン・ホフマンの「アウトブレイク」や、ソダーバーグの「コンテイジョン」に近いのだ。
 要するに、あるアウトブレイクしたウィルスがたまたまゾンビウィルスだった、というスタンスなのだ。

 この映画におけるゾンビのあり方が、通常われわれの考えるゾンビとちょっと違うのも、そこに起因している。通常のゾンビ映画におけるゾンビ唯一の行動原理は、「人肉が食いたい」だが、この映画のゾンビは、噛み付きはするが、どうも食べるのが目的ではないらしい。なにしろアウトブレイクものなので、彼らの目的は「ウィルス(この場合はゾンビウィルス)を広めるコト」なのだ。
 そしてココここそが、この映画のラストに繋がるキモになっている。この展開は、まあ、巧いと思った。

 同時に、この目的意識が、この映画のゾンビたちにとんでもない行動力を与える結果にもなっている。走るゾンビの存在は珍しくなくなってきたが、ここではなんとクルマのウィンドウを頭突きで割ろうとしたり、仲間のゾンビの屍を積み重ねて壁を越えようとしたりする。なんかあきらかに知性っぽいモノが感じられるのだ。つまるところ、彼らはゾンビというよりは、「ゾンビ病患者」なのだろう。やたらヒトに噛みつきたくなる病気なだけで、人間は人間なのかもしれない。

 この映画のイニシアチブを握っているのは、多分、主演兼プロデューサーのブラピだと思うが、彼は、この「アウトブレイクもののフリをしたゾンビ映画のフリをしたアウトブレイクもの」という、やや無理がある映画を創るにあたり、ひとつの戦略を組み立てたんだと思う。
 だいたいはマジメなムードに終始するアウトブレイクものと、ときに「不条理ギャグか?」と思わせる要素が入り込むゾンビ映画。この差を埋めるために、ブラピは「ジェットコースタームービー」という手法を選んだようだ。

 実際この映画はブラピが家族四人でクルマで出かけるオープニングから、怒涛のスピードで展開する。
 ブラピの役柄は「国連の調査員」というもので、国連の依頼を受けてゾンビ現象の対策を求めて世界中を飛び回るハメになるのだが、いやもう行った先々でアレよアレよと世界が崩壊していくスピード感はスゴイ。

 「どういうわけか」事前にゾンビ現象を察知していて、壁を作ることによって国内のゾンビ化を免れていた(なんで壁の内側で発生しないのかは謎)イスラエルに、ブラピは「なんで知ってたの?」と聞きに行くわけですが(結局、曖昧な答えしか得られない、多分、製作者側が考えてないんだろう)、ブラピが滞在する1時間位の間に、あっという間にイスラエルも崩壊します(どうやって崩壊するかはこの映画最大のお楽しみ)。
 この、切迫感と絶望感はスゴいと思いましたね。

 取り敢えずブラピは物量と(全ての細かいツッコミどころを置き去りにするほどの)スピードで世界が崩壊する様を描くのに成功した。
 コレはエラいと思う。
JUGEMテーマ:映画

at 19:34, 空中禁煙者, 洋画

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「パシフィック・リム」 全てはヲタクドグマのために

  取り敢えず、日本の巨大ロボットものアニメや特撮モノのエッセンスを集めて創った映画。エッセンスの元となった作品が非常に多岐にわたっており、よくもまあこれだけの元ネタを無理なく一本の映画に収めたものだ、と、そこにまず感心してしまう。

 自分の子供などを見ていても思うが、どうもヲタクというものは(うちの子、ヲタクなんです、、、)、ある作品が好きかどうかを、作品の完成度どころか面白い面白くないですらなく、ヲタク要素の多寡で決めているようなフシがある。そういう意味で、この映画がヲタクに圧倒的に受け入れられたのはよく分かる。日本のアニメ特撮ヲタクが大好きな要素だけでハリウッド超大作を作ってしまったのだから。

 実際、ネタ元への広範囲な目配りは驚くべきものだ。巨大ロボットの操縦方法はお懐かしや「ジャンボーグA」風のトレースシステムである(後の「Gガンダム」かも知れないが)。肘に爆薬が仕込んであるのは、マジンガーZのロケットパンチと言うよりは、ボトムズのアームパンチだろう。化け物対策で壁を作るというのは「進撃の巨人」だろうし、別世界から先遣隊が来ている、という設定は「GANTZ」を思わせる。まあ、古いのから新しいのまで、メジャーからマイナーまでよく抑えているものだ。

 とは言うものの、ヲタク要素の多寡と、面白い面白くないは別だ。ヲタク要素を捨象して、ドラマ部分やSF的なセンス・オブ・ワンダーだけ見ると、ビックリするほど薄っぺら。あまりのステロタイプと工夫のなさで、ほとんどコントレベルではないか。
 もう、それでいいと思っているのだろう。んなもん要らん、と。
 前回のエントリーで「フィクションドグマ」と「文学ドグマ」というハナシをしたが、まさに「フィクションドグマ」も「映像ドグマ」も、「ヲタクドグマ」に奉仕するためにしか存在しないのだ。

 と、いうことを前提にして、ワタクシ空中さん程度のヲタク度では、よく理解できないところもある。

 ひとりで操縦しようとすると、脳への負担が大きすぎるので、二人で操縦するようにした、というのは、まあ分かる。
 その際二人の適合性が問題になるのも分かるし、片方の思考をもう一方へ流し込む、と言うのも解らないではない。しかし、その場合、片方は昏睡状態になるかなんかしないと、操作の統一性というものが失われるのではないか。両方意識があって片方が片方に指示出してたりすると、何のために意識を流しこんでいたのか、混乱すること夥しい。
 二人で一体を操縦するっていうのも、なんか元があるのかね、、、

 あと、パイロットを決めるのに棒術の試合をする、と言うのもよく解らない。
 別にロボットに入ってから棒術で戦わないし。
 棒術の試合で適合性まで判ることになってるし。
 ただ、菊地凛子ちゃんがちゃんと棒術のレッスンをしているなぁ、、、という感じが出ているのは高評価。
 日本のバラエティで見た菊地凛子ちゃんの天真爛漫で無制限にお人よしなキャラを思い出すと、「ハリウッドで頑張ってるなぁ、、、」と胸が熱くなる。

 なんだか菊地凛子ちゃん(とその幼少期を演じた芦田愛菜ちゃん)だけが、この映画の中でヲタクの呪いを振りきって独りで屹立しているような気がした。
JUGEMテーマ:映画

at 19:59, 空中禁煙者, 洋画

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「11 eleven」 魔術としての言語

 小説という文芸形式は、二つの要素で出来ている。
 ひとつは、映画やコミックなど、他のフィクションジャンルとも共通する、ストーリーやテーマ、キャラクターといった「フィクションドグマ」とでも言えるような要素。
 もうひとつは、言語によってのみ成立している芸術ジャンルである以上、必然的に追求されるべき「言語になにが出来るか」「言語にとっては美とはなにか」という、「文学ドグマ」とでも言えるような要素。
 そしてワタクシ空中さんは、ある小説が文学であるかどうかは、このフィクションドグマと文学ドグマの、「どちらがどちらに奉仕しているか」によって決まると思っている。ある小説のフィクションドグマが、文学ドグマを際だたせるためにあるのなら、その小説は文学作品である。また、ある小説がフィクションドグマのために文学ドグマの成果を利用しているなら、その小説は文学作品ではない(文学作品ではない小説をなんと読んでいいか解らない。「エンターテインメント」では違うような気がするし、、、)。

 注意して欲しいのは、この考え方で、ある小説が文学作品かどうか判定したところで、価値判断を含んではいない、と言うことだ。文学的にもフィクション的にも低レベルに逗まっていても、フィクションドグマが文学ドグマのためにあるのなら、それは低レベルではあるが分類としては文学作品であり、膨大にして精緻な文学ドグマを駆使していても、それがフィクションドグマを際立たせるためにあるのなら、どんなに文学的価値が高くても、やっぱりそれは分類としては文学作品ではない、と思っているのだ。

 そして、今現在、ワタクシ空中さんが考える、「文学とエンターテインメントの境界が曖昧になってしまうほど、あまりにも膨大にして精緻な文学ドグマをフィクションドグマに奉仕させている小説家」が、津原泰水氏なのだ。

 「五色の舟」が入った短篇集を買うのは「NOVA2」、「結晶銀河」に続いて三冊目。
 何回か読み返しているのだが、今回もう一度読み返してみて、相変わらず文章を読んでいるだけで震えが来るような傑作であることを再認識した。
 「五色の舟」の舞台は第二次大戦直前の日本だが、自然にツルツルと読めてしまうので、取り立てて戦前色を醸造する文体で書かれている、とは意識できない。
 ところが、ここに「件(くだん)」という異物がポコンと挿入される。
 そう、「五色の舟」はあの、件(くだん)をめぐる物語なのだ。
 我々の考える件とは、牛の体に人間の顔をして人語を話し、話すどころか未来を正確に予言する、というものであり、「五色の舟」の件もまさにそのような存在である。ただ、ちょっとだけ違うのは、なぜ件が未来を語れるかというと、件という存在は、様々な並行宇宙や時間線の接合点のような存在である、という説明がされている、と言うことだ。つまり、件だけ、作品世界に設定された第二次大戦直前の日本という時空間に属していないのだ。
 この、「件だけこの時空間に属していない」という違和感を、津原泰水氏は、あっさりと件の口からでる言葉だけで表現してみせる。
 特にクセのあるセリフ回しをするわけではない。
 むしろクセのない、理知的で、なおかつ優しさの溢れる口調でしゃべるのだが、これだけで件という存在の、作品世界における途轍もない違和感を表現しきっているのだ。

 正直コレはスゴいと思った。「言語になにが出来るか」を追求するとはこういう事かと思う。

 もう一作、「年間SF傑作選 超弦領域」で読んだことがある「土の枕」も、やはり再読して傑作であることを再認識した。
 戦前戦後を別の人間としてからくも生き抜いたオトコのハナシ、というだけなのだが、あまりに濃密な文章のせいで、「アレ?オレってホントに生まれた時からオレだっけ?」等という不安にかられてしまう。

 ちょっと楽屋落ち的な作品があるのが気になったり、逆に上記二作があまりにも傑作すぎるせいで、津原氏の同傾向の短篇集「綺譚集」に比べるとややバラつきのある作品集かな、という気もするが、全体的なレベルの高さはやはり尋常じゃない。それにどれをとってもどうせあの津原氏の文章力で書かれているのだ。それだけでも、いいじゃないか、と思うが、一応、上記二作に次ぐ傑作として、最後の一行に仕掛けられた言葉のマジックで、くるりと読者を作品世界に閉じ込めてしまう、「琥珀みがき」に戦慄した。もしかすると、オレは琥珀の中に閉じ込められたのかもしれない。

 ところで津原さん。
 あとがき、の最後の一行は余計だと思います。
 そんなことは我々読者は津原さんの作品を通じてイタいほど解っています。
 言わずもがなのことを言われると、ちょっと興ざめしますよ。
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:12, 空中禁煙者, 書籍

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