2014.07.31 Thursday
「許されざる者」 だから無理ちゃう?って言ったのに、、、
一応礼儀として、クリさまのオリジナル版は憶えてないふりをして鑑賞しようと思ったが、、、無理でした。
解ったことがいくつかある。
1.クリント・イーストウッドはやっぱり偉大だ。
2.誰もクリント・イーストウッドの真似をしてはいけない。
3.クリント・イーストウッドの偉大さを表現する批評言語はまだ生まれていない。
ああ、もしかして、クリ様の偉大さを表現する批評言語すら生まれていれば、この映画は作られなかったかもしれないのに、、、
突然ハナシはブッ飛ぶが、昔ロバート・A・ハインラインというSF作家がいたのである。アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフと並んでアメリカのSF全盛期を支えたビッグスリーに数えられる、アメリカを代表するSF作家(日本で言えば星新一、小松左京、筒井康隆のSF御三家の一角、みたいな。もっと解りにくい?)であり、その、取り立ててテクニックを感じさせない構成美と文章力を高く評価されていた実力者なのである。
しかし、その、何を書いてもツルツルと読めてしまう構成美と文章力を、取り立てて目立ったテクニックを使用していないだけに、ヒトビトはどう表現していいか分からず、ヤケクソ気味に「ハインライネスク」と呼んでいたのだ。新作が出ると「相変わらずのハインライネスクで読ませる」というように。まあ、「ネスク」はジャパネスクのネスクと一緒で、要は「ハインラインっぽい」と言ってるだけなのだが、、、
要は、ワタクシ空中さんはクリ様の演出のことを考えると、いつもこのハインライネスクという言葉を思い出すのだ。クリ様ならなんだろう、イーストウッデスクか。それともイーストウッドネスクだろうか。クリ様の、全くケレン味のない演出で、取り敢えずなんでも重厚に描き切ってしまう豪腕に、早く名前をつけるべきだと思うのだが、、、
李相日監督が「イーストウッドネスク」に気がついていた上で、リメイクに挑戦しようと思ったのかどうかな解らないが、知っていたとしたら大した度胸だと思わざるを得ない。
まあ、オリジナル版が好きだったらしいから、そのテーマ性に反応したとも考えられるが、どういうわけかテーマ性も大きく外している。
そもそも、「許されざる者」っつってるのに、主役の渡辺謙は悪人じゃない。一応、「女子供も殺した」と言うことなっているが、あくまでも「隠れキリシタン弾圧のため」であり、忠実な藩士であったに過ぎない。自分の利益のために女子供も殺した、クリ様演じるウィリアム・マニーとは全然違うではないか。
おそらく、クリ様がデヴィット・ピープルズによる脚本の権利を手に入れてから10年以上、マニー役にふさわしい年齢になるのを待っていた意味も気にしていないだろう。
結局、この映画を観て印象に残るのは、アイヌの映画だったな、と言うことと、ソードアクションかガンアクションかハッキリしろよ、、、と言うことでしかなかった。
アイヌの女性が亡くなると、天国に持っていけるように家を焼くとか、結婚すると女性は刺青、男性は耳飾りをする、とか、盛んにアイヌの習俗を描いていたりする。
また、渡辺謙の亡くなった奥さんはアイヌ出身であり、柳楽優弥(オリジナル版でハナシを持ってくる若造)はアイヌとのハーフであり、最終的に映画全体はアイヌへと収斂して行く。
結局、李監督にとっては「許されざる者」ではなく、「差別される者」なのだろう。
オリジナル版のラストでは「西部劇が神話になる瞬間」を描いていたが(コレは多分、多分ですよ、多分ですけど、「ペイルライダー」が「神話が西部劇になる瞬間」を描いていたのと対になっている)、この映画ではなにが何にもならない。一応、アイヌの血は続く、ということだろうか。
あと、個人的に一番イカンと思うのは、ガンアクションで行くかソードアクションで行くか腰が決まらないために、ちょっとだけあるアクションシーンがダルッだるな事だ。そういう事がやりたいんじゃない、ということだろうが、当然のことながらクリ様はガンアクションの演出もお手のものであって、ラストのガンアクションが辛気臭い映画全体をビシッとシメているのだ。
結局オリジナルとの比較論に終始してしまったが、これだけ評価の定まった(しかもリアルタイムで見たヒトがまだ大勢生きている。オレもだけど)名作に挑戦したのだから、仕方がないと諦めてもらうしかない。
JUGEMテーマ:映画
解ったことがいくつかある。
1.クリント・イーストウッドはやっぱり偉大だ。
2.誰もクリント・イーストウッドの真似をしてはいけない。
3.クリント・イーストウッドの偉大さを表現する批評言語はまだ生まれていない。
ああ、もしかして、クリ様の偉大さを表現する批評言語すら生まれていれば、この映画は作られなかったかもしれないのに、、、
突然ハナシはブッ飛ぶが、昔ロバート・A・ハインラインというSF作家がいたのである。アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフと並んでアメリカのSF全盛期を支えたビッグスリーに数えられる、アメリカを代表するSF作家(日本で言えば星新一、小松左京、筒井康隆のSF御三家の一角、みたいな。もっと解りにくい?)であり、その、取り立ててテクニックを感じさせない構成美と文章力を高く評価されていた実力者なのである。
しかし、その、何を書いてもツルツルと読めてしまう構成美と文章力を、取り立てて目立ったテクニックを使用していないだけに、ヒトビトはどう表現していいか分からず、ヤケクソ気味に「ハインライネスク」と呼んでいたのだ。新作が出ると「相変わらずのハインライネスクで読ませる」というように。まあ、「ネスク」はジャパネスクのネスクと一緒で、要は「ハインラインっぽい」と言ってるだけなのだが、、、
要は、ワタクシ空中さんはクリ様の演出のことを考えると、いつもこのハインライネスクという言葉を思い出すのだ。クリ様ならなんだろう、イーストウッデスクか。それともイーストウッドネスクだろうか。クリ様の、全くケレン味のない演出で、取り敢えずなんでも重厚に描き切ってしまう豪腕に、早く名前をつけるべきだと思うのだが、、、
李相日監督が「イーストウッドネスク」に気がついていた上で、リメイクに挑戦しようと思ったのかどうかな解らないが、知っていたとしたら大した度胸だと思わざるを得ない。
まあ、オリジナル版が好きだったらしいから、そのテーマ性に反応したとも考えられるが、どういうわけかテーマ性も大きく外している。
そもそも、「許されざる者」っつってるのに、主役の渡辺謙は悪人じゃない。一応、「女子供も殺した」と言うことなっているが、あくまでも「隠れキリシタン弾圧のため」であり、忠実な藩士であったに過ぎない。自分の利益のために女子供も殺した、クリ様演じるウィリアム・マニーとは全然違うではないか。
おそらく、クリ様がデヴィット・ピープルズによる脚本の権利を手に入れてから10年以上、マニー役にふさわしい年齢になるのを待っていた意味も気にしていないだろう。
結局、この映画を観て印象に残るのは、アイヌの映画だったな、と言うことと、ソードアクションかガンアクションかハッキリしろよ、、、と言うことでしかなかった。
アイヌの女性が亡くなると、天国に持っていけるように家を焼くとか、結婚すると女性は刺青、男性は耳飾りをする、とか、盛んにアイヌの習俗を描いていたりする。
また、渡辺謙の亡くなった奥さんはアイヌ出身であり、柳楽優弥(オリジナル版でハナシを持ってくる若造)はアイヌとのハーフであり、最終的に映画全体はアイヌへと収斂して行く。
結局、李監督にとっては「許されざる者」ではなく、「差別される者」なのだろう。
オリジナル版のラストでは「西部劇が神話になる瞬間」を描いていたが(コレは多分、多分ですよ、多分ですけど、「ペイルライダー」が「神話が西部劇になる瞬間」を描いていたのと対になっている)、この映画ではなにが何にもならない。一応、アイヌの血は続く、ということだろうか。
あと、個人的に一番イカンと思うのは、ガンアクションで行くかソードアクションで行くか腰が決まらないために、ちょっとだけあるアクションシーンがダルッだるな事だ。そういう事がやりたいんじゃない、ということだろうが、当然のことながらクリ様はガンアクションの演出もお手のものであって、ラストのガンアクションが辛気臭い映画全体をビシッとシメているのだ。
結局オリジナルとの比較論に終始してしまったが、これだけ評価の定まった(しかもリアルタイムで見たヒトがまだ大勢生きている。オレもだけど)名作に挑戦したのだから、仕方がないと諦めてもらうしかない。
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