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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「サイロンの挽歌」 グイン・サーガの挽歌

 他人によるグイン・サーガシリーズ、「他人グイン」の第二巻。

 前作担当の五代ゆう氏がほとんど悪達者と言えるほど達者だったのに対して、なんだか色んな意味で素人丸出しなんじゃ、、、と思わざるを得ない。

 例えば、開巻早々プロローグの第1ページ目に、こんな文章がある。


 閑静な山の手地区の、貴族の下屋敷や富裕層の邸でも、門前にはかならずたいまつが焚かれている。

 別にオカシクないじゃん、といえばそのとおりなのだが、、、
 この前の文章は、ケイロニアの繁華街は夜明けまで明るい、と言うことを描写している。
 つまりハナシの流れとして、繁華街は夜明けまで明るいし、山の手だってたいまつがある、と言いたいわけで、「閑静な山の手地区」と、「貴族の下屋敷や富裕層の邸」を、「の、」で繋がれても困るのである。「閑静な山の手地区」と言った時点で、「繁華街ばかりか山の手地区ですら」という気持ちを明らかにしてもらわないと、(丸谷才一風に言うと)イメージが濁る。
 このままの文章だと、閑静な山の手地区にあることはあるが、貴族の下屋敷や富裕層の邸「以外」ではどうなのか気になってしまう。

 閑静な山の手地区「でさえ」、貴族の下屋敷や富裕層の邸「では」

 ならまだどうにかなるかもしれない。
 別に気になる文章を一生懸命捜したわけではない。たまたま開いた1ページ目でコレであり、本書は要するにこのような文章の連続で書かれている。

 更に文章力のみならず、構成力の点でも気になりっぱなしである。
 例えば今のプロローグだが、ココでは延々と深い闇が存在することが描写されている(先ほどの文章は、ケイロニアでは繁華街のみならず閑静な山の手地区ですら明るいのだから、コレほど深い闇はどこに存在するのだろう、、、と言う流れなわけだ)。
 そして、その闇の中にチョロチョロと水の音がすることが明かされ、そのことから、ココは冥府に流れる河なのか、と続くが、突然、

 この妄想を破ったのは、チュウという鳴き声だった。

 と来るのである。
 エ?エ?誰が妄想してたの?三人称小説の神の視点かと思ってたけど、誰か妄想してたヒトがいるの?
 イメージの中に入り込んでいても、ココで完全に冷めてしまう。
 コレは一体何事であろうか。なんかオレの知らない最先端のブンガク技法なの?そんなもんグイン・サーガで披瀝されても困るんだけど、、、

 別に気になる構成を一生懸命捜したわけではない。プロローグでコレであり、本書は要するにこのような構成の連続で書かれている。

 宵野ゆめ氏のプロフィールを見ると、既にベテランの域に達している五代ゆう氏より10歳ほど年上だ。うぅ〜ん、、、今この状態でこのお年から文章を志されるのね、、、

 一方でやたら高級そうな表現はお好きなようなので、いっそブンガクでも志されたらいかがかと思う。

 先代から引き継いだキャラクター達も、先代のイメージを崩すまいと汲々としてるだけで、五代作品のようにイキイキと動き出すというわけには到底行かない。

 一体早川の編集部は何をしているのかと思う。
 天狼プロダクションが怖いのだろうか。
 確かにグイン・サーガに「移籍する」とか言い出されたら、早川の役員のクビのひとつくらいは飛ぶだろうが。
 天狼プロダクションもこんなことをやっていては、中島梓小説ワークショップ出身者の今後にも関わるのではないか。

 本作では久々にグイン御大もなにやらえっちらおっちら活躍しているが、一応本作の主役は宰相ランゴバルト侯ハゾスだろう。豹頭王の股肱の臣にして無二の親友であるハゾスは、数巻前に豹頭王を思えばこそ、断腸の思いで豹頭王に嘘の報告をしている。今作ではその嘘が大きくクローズアップされ、ハゾスは進退窮まってしまうのだ。
 この、ハゾスの苦しみだけは、一応、伝わってきた。

 今後も宵野ゆめ氏の筆になるグイン・サーガは出るのだろうが、正直いってしんどい。読み続けられる自信がない。
とにかくラストを読みたいと言う必要のために、あと数巻は買うだろうが。
JUGEMテーマ:小説全般

at 20:12, 空中禁煙者, 書籍

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「エンド・オブ・ホワイトハウス」 女性国防長官のダイ・ハード

 「ダイ・ハード4」のところでもチラッと書いたが、ワタクシ空中さんはハリウッドのアクション映画をアメリカン・ニューシネマの呪縛から解き放ったのは「ダイ・ハード」だと思ってる。一般に、最後のアメリカン・ニューシネマ作品は「タクシー・ドライバー」ということになっているが、じゃあ、それ以降のアクション映画が完全にアメリカン・ニューシネマから脱却しているかというとそんなことはなく、メジャーな映画会社のアクション映画までアメリカン・ニューシネマの影響で(アメリカン・ニューシネマはメジャーな映画会社製じゃないのが特徴でもあった)なんとなくウダウダしていたような印象がある。
ウォルター・ヒルやフィリップ・カウフマンやピーター・ハイアムズがなんとかアメリカン・ニューシネマから脱却しようとがんばってはいたが。
 スピルバーグもルーカスも、デビュー作こそアメリカン・ニューシネマ的だったが、この二人はいともあっさり、「アクション映画以外」に逃げると言う手法で「痛快な」映画を作ることに成功する。
 そう、「タクシー・ドライバー」(1976)から「ダイ・ハード」(1988)までの12年間、アクション映画はパニックものやSFやファンタジー(ウォルター・ヒルの痛快アクション「ストリート・オブ・ファイヤー」もファンタジーだろう)にしかなかったのだ。

 そこに突然「ダイ・ハード」だ。現代を舞台にして生身の人間同士がぶつかり合う「勧善懲悪」なアクション大作は、本当に久しぶりだったのだ。しかもすこぶる出来がいい。

 そして今度は「ダイ・ハード」ショックがハリウッドに蔓延し、「海のダイ・ハード」(「沈黙の戦艦」)だの、「空のダイ・ハード」(「パッセンジャー57」)だの、「○○のダイ・ハード」が雨後の竹の子のごとく作られ続けるコトになるのである。

 で、「ホワイトハウスのダイ・ハード」です。
 敵地にひとり残った主人公が止めるのを聞かないで、外にいる上層部がムチャな突入計画を企て返り討ちにあって多大な犠牲がでる、なんてくだりをそのままパクッているので、この映画が「ダイ・ハード」の影響下にある(参考にしてる)のは、言い訳できない事実だと思うので、敢えて名作と比較します。

 ハッキリ言って、ドラマ部分が薄っぺら。
 逆に、同じような時間を使ってなんで「ダイ・ハード」はあんなにドラマ部分も充実してたのか、不思議になるくらい。
 一応主人公の奥さんは出てくるが、特にドラマはなし。
 マクレーンとアルみたいな友情もなし。
 テロリスト内部の「弟を殺されて、、、」みたいなドラマもなし。
 一応、冒頭に主人公が心の傷を負うエピソードがあるんだが、最後まで観た結果の結論は、コレ、いるか?だ。
 よ〜く、考えてみて。コレ、いる?後の展開で効いてる?

 じゃあ、何をやっているのかというと、延々殺戮してます。
 実を言うと、主人公の非情さにはちょっと感心した。もう、一回撃って倒れてる奴でも、ちょっとでも動けば躊躇なくとどめを刺す(しかも描写もアッサリしたもの)。コレが時代の進歩ってもんですかね。
 後は冒頭の爆撃機とか、ホワイトハウスの屋上に設置された最新兵器の描写に、当時はなかったCGが多用されていて、コレも時代を経過を感じさせる。
 結果的に、「ドラマを削って殺戮を増やす」、コレが今のハリウッドの論理ということだろう。

 「ダイ・ハード」の悪役はテロリストの振りをした泥棒だったけだが、この映画では最後までテロリスト。
 まあ、テロリストなんですが、なんだか何を考えてるのかよく解らない。
 アメリカ大統領人質にとって何を要求するかと思えば、「極東に展開する米軍を撤退させろ」だ。
 確かに今現在極東に展開する米軍が、第二次朝鮮戦争の勃発(開戦?)の抑止しているのだろうし、そのことによって無駄な犠牲が出るのを防いでもいるのだろうが、別に北朝鮮による韓国併呑を防いでいるわけではないと思う。
 開戦すれば直ちに韓国軍は敗退して韓国は占領されると思ってるのであろうか。
 いくらなんでも韓国軍に失礼なのではないか。
 仮に最終的には負けるとしても(あくまでも仮に)、韓国軍が持ちこたえてる間にまた出張っていけばいいのではないか。一体いつまでホワイトハウス地下のシェルターに籠城するつもりなのか。仮に米国一国を抑えていたとしても、国連加盟国の韓国が占領されれば、また多国籍軍が出てくるのではないか。

 さらに、アメリカ全土にある核兵器をその場で爆発させて、アメリカ全土を焦土としても、別に北朝鮮はちっとも豊かにならない。むしろ今より貧しくなるだろう。北朝鮮が貧しく飢えているのはアメリカが豊かだからではなく、自分たちの指導者の問題だ。

 劇中何度かアメリカ側が「あの(テロリストの)リーダーは異常だ」と発言するが、それならそれでもっと異常さを掘り下げてくれないと、異常なのか単に極端にアタマが悪いだけなのか判断に苦しむ。

 ハリウッドではまだ珍しい黒人監督アントワーン・フークア作品。
 「極大射程/ザ・シューター」の時も映像表現が面白いと思ったが、やっぱりドラマ性にはあんまり興味が無いんだろうか。 それとも押し付けられたつまらない脚本を、取り敢えずスペクタキュラーに撮れるヒトなんだろうか。
JUGEMテーマ:映画

at 17:53, 空中禁煙者, 洋画

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「ラスト・エクソシズム2 悪魔の寵愛」 ホラー版のリベンジポルノ

 前作はエクソシストものとしてもモキュメンタリーとしてもちょっとひねった工夫があって、一種の「メタホラー」と言ってもいいほど、場合によっては「知的」と言っていいほど、B級ホラーとしては面白かった。

 が、ちゃんと主役のお嬢ちゃんは前作と同じ女優さんだし(髭面でよく分からんけどちょっと出てくる父親役も同じ役者らしい)、制作にイーライ・ロスもいて、正式な続編な筈なんだけど、なんか知らんがぜんぜん違う印象の映画になった。そもそもモキュメンタリーじゃないし。まあ、監督が違うんだから印象変わっても仕方ないけど、ほとんど「続編と名乗る意味あんのか」と言うくらい違う。

 前作でシドい目に会った少女ネルちゃんが、ほとんど正気を失った状態で民家に進入したところを発見される。ネルちゃんは病院で正気を取り戻すが、何があったのか記憶を失っている。警官が言うには、ネルちゃんはカルト教団に拉致されていたが、教団の建物が火事になって、ネルちゃんだけが脱出に成功、教団の他の人達は全員焼け死んだらしい。
 ネルちゃんはそういう「問題のある生い立ち」のオンナの子ばっかり集まってる施設で暮らすようになるが、(ワタクシ空中さんを含めた)大方の予想に反して、この施設の施設長のオッサンはほんとにいいヒトで、仲間のオンナの子たちもみんなイイ子、ネルちゃんはこの施設で友だちも出来て久々平和な日々を過ごし始めるが、徐々に身の回りに不思議な出来事が、、、と言うハナシ。

 割りと淡々とした描写とキレイな映像で映画は進む。

 一応のひねりは前作がネットアップされていて(作品世界ではアレはドキュメンタリーだから)、施設の仲間たちが発見してしまうところ。リベンジポルノみたいですな。

 前作でネルちゃんは悪魔教団にイケないことされてた訳ですが、今回、そんな悪魔教団に対抗ヒトビトが出てきて、不思議な現象に悩むネルちゃんを保護します。
 で、今度こそホントの悪魔祓いを受ける訳ですが、、、
 ココ、惜しいなぁ、、、彼らの選択をネルちゃんがハッキリと意識して、それを悪魔に利用されるってとこをもっとちゃんと描けば、もうちょっとは衝撃的な映画になったかもしれないのに、、、

 全く意外なことに、キャスト以外に前作と共通してることは「悪魔祓いは信用出来ない」ってテーマなんだな、、、JUGEMテーマ:映画

at 20:26, 空中禁煙者, 洋画

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「クロユリ団地」 自作の縮小再生産、但し、プラスアルファ有り

 秋元康の企画である。

 過去自ら企画原作を務めた「着信アリ」や「伝染歌」の出来(と言うか売上かな?)が気に入らなかったのか、今回は原作は諦め、監督もいよいよJホラーの大御所中田秀夫を引っ張りだし(「着信アリ」(三池崇史)も「伝染歌」(原田眞人)もちゃんとした監督なんだけど、ホラーの専門家ではない。イヤ、三池さんはホラーも専門かなぁ、、、)と言うことか。
 それとも元々は中田秀夫の企画だったのだが、主役に前田のあっちゃんを連れてきた時点で自動的に秋元康が噛んでくるのか(「指原の乱」も秋元康は「企画」と言う名目で絡んでたし)。

 どっちだかわからないが、いずれにしろ誤算がひとつあったようだ。
 Jホラーの最終兵器ともいうべき中田秀夫が、なんだかちっともやる気が無いのだ。

 そもそもこのメインアイデアは自身の名作「仄暗い水の底から」の二番煎じではないか。しかも「仄暗い水の底から」は「リング」の鈴木光司が原作である。ちょっと問題があるのではないか。

 もっとも、二番煎じとは言っても、「仄暗い水の底から」に一翻乗っけてあり、このアイデアのおかげでワタクシ空中さんは、実は中盤ググっと引き込まれた。中盤はまだ「仄暗い水の底から」の二番煎じであることが分からなかったせいもあるが、「ほうほう、、、そう来たか、、、」と期待してしまったのだ。
 が、せっかくのアイデアもハナシが進むうちにどんどんどうでも良くなってしまい、最終的には「仄暗い水の底から」に収斂してしまうのであった。

 もしかすると中田秀夫はこの中盤を引っぱるアイデアを頼りにこの映画を作ったのかもしれない。
 中田秀夫を含むJホラーのウリのひとつに「新奇な怪異の見せ方」と言うのがあるが(テレビから出てくるとかエレベーターでどの階にもいるとか)、このワザを見せているのはこの中盤のアイデアだけなのだ。ココが終わると急に陳腐で退屈なB級ホラーになってしまう。
 つまり、演出的に見ると尻切れトンボで、脚本的に見ると二番煎じという、なんだか情けない結果になってしまっている。

 前田のあっちゃんの印象は前作「苦役列車」と同じ、一応ちゃんと役柄はこなしていて、
 演技が下手で見てられない、ということはないが、取り立てて魅力的ではない。
 やはり歌って踊ってこそのカリスマなのかなぁ、と言う感じ。

 霊能者役の手塚理美がさすがのリアリティを醸し出していて、再び「おお、、、」と惹きつけられるが、コレも肝心の除霊シーンのしょぼさで台無し(コレは手塚理美のせいじゃないが)。
 ココはもっと荘厳な雰囲気にするか、逆に「実際はこんなもんなのかな、、、」と言うリアリティが出るくらいショボくしないとアカンのではないか。なんか場所のショボさを弟子の人数で誤魔化しましたみたいな貧乏臭さが、霊能者の貧乏臭さじゃなくて、映画の貧乏臭さになっちゃってる。

 そう言えばこの霊能者と弟子たちが集まって一生懸命なんかやってる部屋は、「除霊」っつーくらいだから当然前田のあっちゃんの家でやっているのだろうと思ったが、前田のあっちゃんが家の中を動きまわっても彼らは居ないので、コレは霊能者の家でやっているのだろう。そんな離れた場所で除霊する、と言う光景を始めてみた気がする。なんだかとっても効果が薄そうな気がするんだが、なんで前田のあっちゃんの家でやらないんだろう。

 あとラストシーンの「ミノルくん」は全く無表情なんだが、アレはナンだ蝋人形か。もしかすると炎で蝋人形の「ミノルくん」が溶けるシーンを撮ってはみたが、あまりにもショボいのでカットしたのかもしれない。

 前田のあっちゃんが出てるし、中田秀夫だってハリウッドから凱旋、と言う要素もあって、相当評判になることは判ってるはずなのにこのやる気の無さは何事であろうか。
 中田秀夫はもともと「Jホラーシーン」に乗っかって出てきただけで、実はホラーがやりたくて映画監督になったんじゃないと言っていた。もしかするとホラーに厭き厭きしているのかもしれない。

 ところで劇中に出てくる、ゴミの収集場所にあるでっかいゴミ箱ですが。
 アレ、全然全国区じゃないでしょ?て言うかアレ使ってる自治体ってまだあるの?
 と言うのもですね、あの型のゴミ箱は、ゴミ箱ごとクレーンで持ち上げて、ゴミ収集車のパックリ開いた荷台の上まで来たら底を抜いて中のゴミをドサドサ落とすもんだ、と言う描写を入れておかないと、このストーリー自体成り立たないと思うんだが。
 日本中で「なんでゴミ箱の中に子供がいるのに気が付かないんだろう、、、」という疑問が渦巻いてるんではあるまいか。

 やっぱホラーかどうかの問題じゃないかなぁ、、、
JUGEMテーマ:映画

at 20:23, 空中禁煙者, 邦画

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「科学vs.キリスト教 世界史の転換」 18世紀のエイリアン達

 という訳で、やっと最初に買った「科学vs.キリスト教」に辿り着いた。岡崎勝世教授による普遍史崩壊の歴史三部作の最終巻。

 最初の「聖書VS.世界史」が普遍史の紹介と没落の様子を描き、次の「世界史とヨーロッパ」で普遍史を含むヨーロッパによる世界史の全体像を描いた岡崎教授が、いよいよ教授の専門であるゲッティンゲン大学派のガッテラーとシュレーツァーを中心に据えて、普遍史が世界史に変わる瞬間を詳述したのが本書、と言う位置づけになるのだろう。

 なぜガッテラーとシュレーツァーかというと、この師弟コンビこそはその内面に普遍史から世界史へと移行するダイナミズムを抱え込んだヒトだからだ。
 例えばガッテラーの著書のタイトルを書いた順に並べると、「普遍史教科書」→「普遍史序説」→「世界史」→「世界史試論」となっていて、まさに自らの内で普遍史から世界史への転換を体験した、「ひとり科学vs.キリスト教状態」なヒトなのである。

 と、言うわけですが、ワタクシ空中さんのような門外漢にとって面白いのは、「科学」に目覚めた歴史家たちが、それでもなおかつ今日の我々の目から見てもあまり科学的とは思えない奇説を繰り広げるあたりだろう。
 普遍史が崩壊すること自体はもう、判っちゃってるもんね。

 この時代(まあ、18世紀)のヒトビトの悪戦苦闘ぶりを見ると、逆にワタクシ空中さんのような、もともと全く科学的ではない人間でさえも、いかに科学的思考というものに骨ぐるみになっているか、改めて自覚させられるという、予想外の効果があった。

 例えば、普遍史の時代、この世界の歴史は6,000年、と言うのが常識だった(この、6,000年、というのもなんだかよく解らない理屈なのだが)。しかし様々な科学による知見や大航海時代のよってもたらされた情報により、「どうも6,000年じゃきかねえぞコリャ、、、」ということになってくる。
 当然、じゃあ、どれだけ長いんですか?と言うハナシになってくるわけだが、この、地球の年齢を推測するのに、大きさの違う鉄球をいくつか用意して、それぞれ熱して白熱してから冷めるまでの時間を測り、この数値を地球大に当てはめて計算したりする。
 なるほど確かに実験によって答えを導き出すというのはいかにも科学っぽく、当時のヒトビトが「おぉ!なんか知らんが科学的ぃ!!」と感じ入ったのは想像に難くないが、そもそも地球はどう考えても巨大な鉄球ではない。
 当時のこととて地球の内部がどうなっているか分からなかったから仕方がないと言うかも知れないが、地球はどう見ても土に覆われていて、しかもその内7割は水を湛えている。
 何故これを無視してもいいと思ったのかが判らない。
 さらに言えば、この実験だけでは、地球が冷えてからどれくらい時間が立っているのか判らないと思うがどうだろう。もしかすると白熱した状態から冷えるまでの期間の100倍くらい冷えてからの時間が経っているかも知れないではないではない。
 しかしこの実験の結果は当時の人達に広く受け入れられるのである。

 本書にはニュートンも登場する。ニュートンといえば万有引力であり科学であるが、一方で敬虔なキリスト教徒であり、晩年はオカルトに凝り倒していたことでも知られる。
 そんなニュートンもまた、後年世界史を著しており、彼もまた科学と普遍史に折り合いをつけようと苦心している。「聖書釈義のニュートン的方法」と呼ばれる手法によって。
 まず、先人のバーネットによって「モーセは民衆の意識に即した言葉によって聖書を記している」と言う解釈がなされる(「創世記」を含む旧約聖書の最初の五書は、当時「モーセ五書」と呼ばれ、モーセが書いたと思われていた)。つまり、モーセは言葉通りの真実を語っていたというよりは、モーセ当時の民衆に理解できるように比喩的表現を用いてた、と言うことだろう。
 ニュートンはこの説を認めながら「それでもモーセは真実を語っていた」とする。モーセの語った比喩的な真実に、なんとか科学的知見を収めようとするのである。
 例えば創世記にある「神は七日間で世界を創った」と言う記述の「日」を「期間」と解釈するのである。「世界を創るのに七つの期間があった」と。
 正直言って、だったらもう、なんでもいいじゃねーかという気がする。

 ココからはちょっと本書の記述とは関係なくなるが、こういうハナシを読むと、ワタクシ空中さんはなんとも不思議な気分になる。
 18世紀の時点で「モーセは当時の民衆の意識に即して記した」と言う解釈が可能なら、なぜ新約聖書は未だにそういう解釈にならないのだろう。
 新約聖書が今の形になったのは3世紀のコンスタンティヌス帝の時代だが、そこから数えても(新約の中身の各福音書は、1世紀から書かれているだろうが)既に最低1700年経っている。
 「福音書の記者達は、当時の民衆の意識に即して記した」でもいいではないか。処女懐胎だってイエスの病気治療だってイエスの復活だって、「当時の民衆の意識に則して記された」と。
 福音派のヒトビトそんな解釈を認めないのは仕方ないが、福音派ではないヒトビトもこれらの奇蹟については信じているか、なんとなく口を濁すような雰囲気がある。
 「当時の民衆の意識に即して記された」ことにして、イエスの教えと原罪を許すために死んだことだけ信じることにしてもらえれば、大分ハナシが簡単になると思うんだが、、、

 本書は岡崎教授がミュンヘンで研修中に、とある自然科学分野のドイツ人学者と交わした会話から始まる。
岡崎教授は「何を研究しているのか」と問われて18世紀のドイツの歴史家について研究していると答えると、件の学者は「自分はドイツ人だが、彼らのことは理解できないし、出来るとも思わない。なぜなら彼らはエイリアンだから」と言われたという。

 この時代のヨーロッパ人達の、科学に目覚め、恐れ慄きながらも、現代のワタクシ空中さんのような全く非科学的な人間から見ても非科学的な主張を繰り返し、それが広く受け入れられていく様は、なるほどまさにエイリアン達の所業の様でもある。
JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 20:24, 空中禁煙者, 書籍

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「苦役列車」 映画におけるブンガクの代替物とは

 西村賢太氏は、今どき「私小説」と言うジャンルに強いこだわりを持つ作家であり(私淑する私小説作家の評論を出したり、全集を編集したりしてる)、当然、芥川賞受賞作にして出世作「苦役列車」も私小説である(読んでないけど)。

 一方で、私小説と言うものは、ストーリーだのキャラクターだのテーマだのといった、「フィクションドグマ」の観点から見ると、たいていつまらないものと相場が決まっている。
 まあ、実在する文学青年の人生がそうそう面白いわけはない(当然、面白い場合もあるだろうが)。
 にもかかわらず、私小説が価値あるものと考えられているのは、そこにブンガクと言うファクターが絡むからだ。
 「言語にとって美とはなにか」「言語になにが出来るか」を追求しておるというのだ。
 「言語にとって美とはなにか」「言語になにが出来るか」を追求するのに、ストーリーは関係ないだろう、と。そんなもん、一番身近にあるもの、つまりは自分の人生が一番いいだろう、と。

 従って、ですね、私小説を敢えて映画化しよう、と言う場合、ブンガクに代わる映画でも可能な、なんらかのファクターが必要であろう。
 この映画の場合、その「なんらか」は、森山未來の演技であるようだ。
 演出も余計な小細工をせず、森山未來の芝居をフィルムに定着させることに専念しているようだ。
 それくらい森山未來の演技は素晴らしい。
 どういうわけか2本続けて主役が「背中を丸めて顎を突き出しガニ股で歩く」芝居をしている映画になってしまったが、ホアキン・フェニックスの線の太いガサツな粗野差に比べ、森山未來の線の細い、プライドと劣等感が無い混ぜになった「北町貫多」は、なるほどこの後芥川賞作家になるに足る屈折を湛えている。

 逆に言うとそれ以外魅力を見いだせない映画でもある。
 高良健吾の芝居はなんだか知らないけどすっかり安定しているが、今回は脇役ということもあり、特に魅力を発揮してはいない。主役の森山未來を立てるのに徹しているのかもしれない。
 前田のあっちゃんだって、別に悪くない。悪くはないが、ことさら良くもない。映画の中の「主人公に憧れられる」という役柄を無難にナントカこなした、というだけだ。
 ただ、主人公に決定的な影響を与える役で出ているマキタスポーツだけは、なるほど今ならこのヒトしかいないな、というくらいのハマリ役で、印象に残るが。

 高良健吾で思い出したが、この映画の時代設定は、「横道世之介」とほぼ同じだ。
 不思議なことに、まるで互いに意識したかのように、同じ時代の全く対照的な青春を描いている。
 一方は江戸っ子であることしか誇りがなく、中卒でモテなくて、貧乏で、ひがみっぽい。
 一方は佐賀出身で、大学生で、あまり貧乏そうには見えず(バイトはしてるが)、天真爛漫な性格である。

 要するに、1980年代後半の青春が、この二人の間に収まっている、ということのようでもある。

 ところで、高良健吾が演じる主人公の友人が好きなソフトドリンクは、「青春活劇飲料SASUKE」だ。セリフには出てこないが、よく飲んでいる。
 なるほど確かにこの時期サントリーが「SASUKE」の宣伝を必死でやっていた印象はあって、時代性が出ると思ったのだろうが、ワタクシ空中さんは「SASUKE」を現実に飲んでいるヒトを見たことが一回もない(ワタクシ空中さんも飲んだことがないので美味しいかマズいかは判らないが、サントリーの意向に反してすぐ消えました、、、)。
JUGEMテーマ:映画

at 20:30, 空中禁煙者, 邦画

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「ザ・マスター」 サイエントロジーはダシに過ぎない

 ウィキペディアにこの映画のあらすじが載っているが、なんだかワタクシ空中さんが観たのとは違う映画のようである。
 おそらく、この映画は当初はウィキペディアのあらすじのような映画として構想されたに違いない。しかし、前作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」以来即興的な演出をするようになったポール・トーマス・アンダーソン監督は、途中で方針を変えたのだろう。
 おそらくホアキン・フェニックスのあまりの怪演のために。
 もう、いいや、ホアキン・フェニックスがそこまでやってくれるなら、ホアキン・フェニックスにしちゃえ、と言う感じ。

 結果、サイエントロジーをモデルにした宗教団体の内幕を描くつもりだった映画は、ホアキン・フェニックス演ずるフレディと言う粗野な元海兵のハナシになった。今は亡きフィリップ・シーモア・ホフマン演ずる新興宗教の祖、ランカスターは扱いは大きく、フィリップ・シーモア・ホフマンの演技もいつもどおり圧倒的と言っていいほどだが、結果的にはフレディに集約してしまい、なんだかフィリップ・シーモア・ホフマンは損したな、と言う感じ。

 ポール・トーマス・アンダーソン監督の映画はなんの前触れもなく回想シーンや幻想シーンが割り込んでくるのでやや解りにくいが、エピソードを時系列にそって並べ替えると、

1.終戦(戦艦内での出来事や除隊の手続き)
2.帰郷(ドリスとの再会)
3.彷徨(写真屋や農場での失敗)
4.入信(ランカスターとの出会いと別れ。まあ、このパートが映画のメイン)
5.再帰郷(ドリスの音信)
6.渡英(ランカスターを追ってイギリスへ)

 となり、実は重要なのは2.と5.なのだ。このパートが全体へのヒントになっている。

 除隊後、フレディは帰郷し、友人の妹ドリスを訪ねる。フレディは出征前、特にドリスを意識したことはなかったが(多分そのころドリスは中学生だし)、何故かドリスは戦地のフレディに何度も手紙をくれたのだ。フレディはなにしろ粗野な人間なので、返事なんぞ書きはしなかったが(そもそも字が書けないのかもしれない)、ドリスを訪ねて手紙の真意を問うと、まだ16歳のドリスにあっさり愛の告白をされてしまう。
 フレディは結局ドリスとの愛を育むが、ある日、「船に乗る仕事があるので暫くいなくなるが、帰ってきたら結婚しよう」と言って、プイっと旅に出てしまう。そしてそのまま、3.だの4.だのの彷徨を続けるのである。

 フレディは何やら怪しげな新興宗教の祖、ランカスターと不思議な出会いをし、行動を共にするようになる。
 ここで、ウィキペディアのあらすじには「彼の思想に傾倒し」と書いてあるが、別にフレディは彼の思想に傾倒しているわけではない。傾倒どころかさっぱり理解してないだろう。フレディはランカスターに父性を見い出し、ランカスターの家族に理想の家族を見ているだけなのだ。
 当初、ランカスターの家族(妻と息子と娘と娘婿)はそんなフレディを見抜き、「彼は運動の本質を理解していないから放逐すべき」と主張するが、フレディは献身的に団体の活動に貢献し、やがてランカスターの家族からも「家族扱いされる」ようになる。
 そして、その瞬間、またしても逐電してしまうのだ。

 つまり、ドリスの時と同じことをしているのだ。
 フレディは焼けつくように「家族」を求めてやまない。しかし、その求めてやまなかった「家族」が出来そうになると、何故かそこから逃げ出してしまうのだ。
 ドリスとは「自分の家族」を築けそうだったのに。
 ランカスターの「家族」だと認められかけていたのに。
 この映画は「家族を求めているくせに、いざ出来そうになるとそこから逃げ出してしまうオトコ」のハナシである。

 つまり、ランカスターの教団、「ザ・コーズ」の教えは関係がない。ウィキペディアには「フレディは次第にランカスターの言葉に疑問を抱くようになる。」と書いてあるが、何度も言うように、そもそもフレディは「ランカスターの言葉」なんて疑問以前に理解してないだろう。

 ホアキン・フェニックスと言うと、「グラディエーター」でも「サイン」でも、酷薄だったり気が優しかったりはするが、いつも「アンちゃん」である、と言うイメージだったが、ココに来てとんでもない中年のオッサンぶりである(彼だって年を取るのだからオッサンになるのは当然だが)。背中を丸めて顎を突き出しガニ股で歩く姿(つまり、ゴリラっぽいとも言える)は、まさに戦争で心に傷を負った粗野なオッサンそのもので、その、元からあった口唇裂の跡を敢えて強調するような表情に、監督自らブッタマゲたのも無理は無い。

 ところで、何故フレディは求めていたものから逃げ出してしまうのだろう。
 戦争の傷跡?
 もともと彼の家庭が壊れていたから?
 映画では説明されていない。
 ホアキン・フェニックスの両親がヒッピーあがりの宗教家だったことと関係有るのだろうか。

 かくして、ある強烈な目的意識を持って企画された映画も、ポール・トーマス・アンダーソン監督のいつもの映画と同じじゃないか、というようなテーマに落ち着いてしまうのであった。
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at 18:01, 空中禁煙者, 洋画

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「探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点」 ススキノ大交差点は出てきません

 前作の「探偵はBARにいる」はタイトルこそ原作の第一作のタイトルを使っているが、ストーリーは第二作の「バーにかかってきた電話」である。これはどういう事かというと、当時出版されていた原作の中で二作目のストーリーが一番映画化した時に映える、と言う判断であって(この判断は正しいと思う)、論理的必然として、映画化二作目以降は映画の一作目ほどストーリーが映画向きではない、映画化した時に映えない(もっと映画化に適した原作が書かれるまでは)、ということである。

そんな訳で映画化第二作です。

 このシリーズ、主役を大泉洋にした時点でコメディに振らざるを得ないと思うのだが、前作でこの一味が採った、「俺」を大泉のキャラに合わせて原作以上にテンションの高い人物に造形し、逆に原作では「俺」以上にテンションの高い高田を極端にテンションの低い人物に造形し、このコントラストで笑いを取る、と言う作戦は、前作ではそれなりに成功していて、わたくし空中さんは大いに評価していた。
 ストーリー的に前作より映画向きではないことが確定してしまっている以上、例えばこういう部分を前作以上に使ってエンターテインしていかなければならないと思うのだが、どうも製作陣にはそんなことは思いつかなかったようである。

 前作同様けっこうアクションシーンもあるのだが、相変わらず「ああ、大勢がアバレているな、、、」と言うのが判る程度の演出で、キレが悪いこと夥しい。せっかく高田を「空手の達人」に設定しているのだから、もうちょっとどうにかならんかと思う。

 まあ、要は前作より大分オチる印象なのだ。
 今作に美点があるとすれば、尾野真千子を交えて三人で被害者の故郷を訪ねるロードムービー風の数シーンだが、コレも、せっかくオトコ二人オンナ一人の組み合わせなのに、三角関係風の心の動きを描くといったような知恵はなかったようだ。
 別にほんとに恋愛感情が生まれなくってもいいのだ。三人とも「旅の間だけ」と割りきってちょっとさやあてを楽しむ(大人なんだし)、的なくすぐりがあれば、もうちょっと印象深いシーンになったのになぁ、、、と思う。

 いっそ、東直己氏に頼んで映画用のストーリーを作ってもらうか、レギュラー陣のキャラがココまで固まっているのだから、オリジナルストーリーを考えて、東氏の許可を得ればどうかと思う。

 結局、本作で一番印象に残ったのは、麻美ゆまちゃんが出てるシーンかも知れない。
 ゆまチンの健康を祈りつつ、本稿を終わらせることとしたい。
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at 20:18, 空中禁煙者, 邦画

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