2014.02.25 Tuesday
「ほんとにあった!呪いのビデオ55 」 「劇場公開」と「ドキュメンタリー」
ネットを渉猟していて、なんとなく、この55巻がヒッソリと(?)劇場公開されているのは気がついていた。ちょっと、成立するのかな、、、などと心配にも思っていた。
個人的には深夜にひっそり独りで観るから怖いんであって、劇場で大勢とスクリーンサイズで見るものではないと言うイメージが有る。学生時代に自主映画を作っていた経験から、劇場の恐ろしさは身に沁みている。誰か1人が笑うと、もう、その回は全てが笑いに繋がってしまう(逆に笑って欲しい時は、この「笑いのリーダー」の存在が心底ありがたかったりする)。
そんなことはどうでもいい。
いざ、レンタルショップで借りて観てみると、なるほど通常回とは違う、「劇場公開したんねん!」という意気込みと工夫が感じられる作りになっていた。
歴代演出補きっての美人(2位くらいかな、、、)川居尚美嬢もいっぱい映るし。
例によって人気「元」演出補菊池もヌケヌケと一般参加してくるし。
時間もいつもの5割増しだし。
しかし通常巻との最大の違いは、実はこの巻に収められたエピソードは全て繋がっている、と言うことだろう。
開巻当初はいつもと同じように一見何の関係もないエピソードがポツリ、ポツリ、と紹介されていくが、やがて、徐々に、全てのエピソードが実は同じ背景を持った事件だ、と言うことが解っていく、、、と言う構成になっている。
コレはコレで劇場公開するに相応しいアイデアだと思うけど、、、
コレ、どうなん?
この構成はマズいんじゃないの?
このシリーズは一応「投稿されてきた映像を元に」と言うことになっていて、理の当然として投稿映像以外の部分、スタッフによる取材映像等も含めて「ドキュメンタリーである」ッて言う前提じゃないの?
そしてもしこの作品もドキュメンタリーであるというならば、最初から
「最近送られてきたいくつかの映像とスタッフの身に起きた出来事が、取材の結果同じ背景を持っていることが判明したので、まとめて公開することにした」
と断って始めればいいんじゃないの?
それを敢えて通常回と同じように始める、と言うのは、ハナシが繋がっていく快感を覚えさせるためのミスリード、つまりは演出である、と言うことになり、このシリーズが構成も含めてフェイクである、と言うことを認めるコトになってしまうのではなかろうか。
オレは過去この「ほん呪」シリーズを何回も取り上げていて、その都度大筋では好意的に評価してきたつもりだが、注意深く読んでくれているヒト(がいるとすれば)にはお解りの通り、ハッキリとは言わないまでも「ほん呪」をフェイクとして評価し、「それでも面白い」というスタンスで扱ってきた。
特に長編作品については各時代の「構成」者(オレは事実上の脚本・監督だと思っている)の個性を認めた上で、つまりは「構成」者の作品として評価してきた。
しかし、それもこれもあくまでも作り手側は「ドキュメンタリーですよ〜」と言う立場を守って作っていると言う前提での評価であって、コレが「ドキュメンタリー風ホラー」だと言うなら、ちょっと考え変わりますよ?と言うことだ(JUGEMUテーマも変えなきゃならん)。
例えば一見無関係に思われた個々の出来事が実は、、、と言うプロットをドキュメンタリー風に描く、という趣向は白石晃士の「ノロイ」と同じであり、「じゃあアレと比べてどうなの?」と言う話にならざるを得ないのよ。
正直言って今回は個々のエピソードとしても、それが同じ背景を持っていたという長編としても、平均的な出来でしか無い。
「ほん呪」シリーズで平均的、ということは、世間に数多ある他の似たようなシリーズに比べれば大分(全然?)マシ、と言うことなのだが、シリーズの将来に不安を抱かざるを得ない。
この手の映像作品を何作も作る、と言うのは当然無理なハナシで、ココ数作岩澤監督も苦しんでいるな、と言う印象はあった。劇場公開、と言うのがマンネリを打破するための手として有効に思えた、というのなら仕方がないが、よくよく考えて作らないと、元も子も無くしかねないのではないか。
JUGEMテーマ:ノンフィクション
個人的には深夜にひっそり独りで観るから怖いんであって、劇場で大勢とスクリーンサイズで見るものではないと言うイメージが有る。学生時代に自主映画を作っていた経験から、劇場の恐ろしさは身に沁みている。誰か1人が笑うと、もう、その回は全てが笑いに繋がってしまう(逆に笑って欲しい時は、この「笑いのリーダー」の存在が心底ありがたかったりする)。
そんなことはどうでもいい。
いざ、レンタルショップで借りて観てみると、なるほど通常回とは違う、「劇場公開したんねん!」という意気込みと工夫が感じられる作りになっていた。
歴代演出補きっての美人(2位くらいかな、、、)川居尚美嬢もいっぱい映るし。
例によって人気「元」演出補菊池もヌケヌケと一般参加してくるし。
時間もいつもの5割増しだし。
しかし通常巻との最大の違いは、実はこの巻に収められたエピソードは全て繋がっている、と言うことだろう。
開巻当初はいつもと同じように一見何の関係もないエピソードがポツリ、ポツリ、と紹介されていくが、やがて、徐々に、全てのエピソードが実は同じ背景を持った事件だ、と言うことが解っていく、、、と言う構成になっている。
コレはコレで劇場公開するに相応しいアイデアだと思うけど、、、
コレ、どうなん?
この構成はマズいんじゃないの?
このシリーズは一応「投稿されてきた映像を元に」と言うことになっていて、理の当然として投稿映像以外の部分、スタッフによる取材映像等も含めて「ドキュメンタリーである」ッて言う前提じゃないの?
そしてもしこの作品もドキュメンタリーであるというならば、最初から
「最近送られてきたいくつかの映像とスタッフの身に起きた出来事が、取材の結果同じ背景を持っていることが判明したので、まとめて公開することにした」
と断って始めればいいんじゃないの?
それを敢えて通常回と同じように始める、と言うのは、ハナシが繋がっていく快感を覚えさせるためのミスリード、つまりは演出である、と言うことになり、このシリーズが構成も含めてフェイクである、と言うことを認めるコトになってしまうのではなかろうか。
オレは過去この「ほん呪」シリーズを何回も取り上げていて、その都度大筋では好意的に評価してきたつもりだが、注意深く読んでくれているヒト(がいるとすれば)にはお解りの通り、ハッキリとは言わないまでも「ほん呪」をフェイクとして評価し、「それでも面白い」というスタンスで扱ってきた。
特に長編作品については各時代の「構成」者(オレは事実上の脚本・監督だと思っている)の個性を認めた上で、つまりは「構成」者の作品として評価してきた。
しかし、それもこれもあくまでも作り手側は「ドキュメンタリーですよ〜」と言う立場を守って作っていると言う前提での評価であって、コレが「ドキュメンタリー風ホラー」だと言うなら、ちょっと考え変わりますよ?と言うことだ(JUGEMUテーマも変えなきゃならん)。
例えば一見無関係に思われた個々の出来事が実は、、、と言うプロットをドキュメンタリー風に描く、という趣向は白石晃士の「ノロイ」と同じであり、「じゃあアレと比べてどうなの?」と言う話にならざるを得ないのよ。
正直言って今回は個々のエピソードとしても、それが同じ背景を持っていたという長編としても、平均的な出来でしか無い。
「ほん呪」シリーズで平均的、ということは、世間に数多ある他の似たようなシリーズに比べれば大分(全然?)マシ、と言うことなのだが、シリーズの将来に不安を抱かざるを得ない。
この手の映像作品を何作も作る、と言うのは当然無理なハナシで、ココ数作岩澤監督も苦しんでいるな、と言う印象はあった。劇場公開、と言うのがマンネリを打破するための手として有効に思えた、というのなら仕方がないが、よくよく考えて作らないと、元も子も無くしかねないのではないか。
JUGEMテーマ:ノンフィクション