2014.01.26 Sunday
「クラウド アトラス」 一番エラいのは編集したヒト
19世紀から文明崩壊の106年後の世界まで、時代も場所も違う6つのストーリーを3時間に収めた映画。
6つのストーリーを、「マトリックス」シリーズのウォシャウスキー姉弟と「ザ・バンク/堕ちた巨像」のトム・ティクヴァが、それぞれ3つずつ演出している。
このやり方が功を奏したのか、手を抜いたエピソードがなく、どれひとつとってもそれなりの中編映画として通用しそう。
6つのエピソードの時代と舞台を一応挙げておくと、
1.1849年の南太平洋航海中の奴隷売買船
2.1931年のスコットランド
3.1973年のサンフランシスコ
4.2012年のイングランド
5.2144年のネオ・ソウル
6.2321年の文明崩壊後の世界
となっており、この内1.5.6.がウォシャウスキー姉弟、2.3.4.がトム・ティクヴァの担当らしい。
コレはつまり特撮の必要なエピソードはウォシャウスキー姉弟、必要ないエピソード(現代に近い)はトム・ティクヴァ、と言うことだろう。まあ、適材適所を考えればそうなるだろう。
個々のエピソードは前後にゆる〜い繋がりがあり、1.の主人公の日記を2.の主人公が読んでいたり、4.の主人公の自伝の映画化を5.の主人公が観ていたりする。
さらに、それぞれの時代の全然別の人物として複数回出演している役者が何人もいて、トム・ハンクスとハル・ベリーは全てのエピソードに登場する。
さらにさらに、ストーリーは全エピソードとも、一応、「圧制者に反逆する個人」を描いたハナシになっている、と言えなくもない。
しかし極端なことを言うとそんなことはどうでもいい。
この映画で一番スゴいのは、その編集である。
各エピソードを誰が演出したのかは判った。
じゃあ、一体誰が編集したのか、と言いたい。
この映画には原作があって、原作では各エピソードをそれぞれ二つに分け、1’→2’→3’→4’→5’→6’→6’’→5’’→4’’→3’’→2’’→1’’と並べているだけだ。6’と6’’は繋がってるじゃねーかとお思いだろうが、ココで上下巻が分かれてる、という訳。
しかるに映画の方はどうであろうか。
まるで、6つのエピソードが同時に走りだしたようである。
各エピソードを細分化してエピソード間を縦横無尽に飛び回る(ひとつのエピソード内ではだいたい、時系列順に並んでいる)が、繋ぎ目が魔術的なのだ。
例えばあるエピソードで銃を撃つと、別のエピソードで弾が当たったりする(当然、撃ったのも当たったのも別人だが)。
ヒッチコックのジャンプカットは時空をまたいだが、「クラウド・アトラス」のジャンプカットはストーリーすらまたぐ。
コレこそ映画のマジックであり、映画的興奮というものだ思う。
同じ役者が別のエピソードに別人として(人種どころか性別すら変わる)出ているのも、映画のマジックのひとつだろう。
ジム・スタージェスとペ・ドゥナはどの時代でも惹かれ合う。ヒューゴ・ウィーヴィングはいつも悪いヒトである。さて、主役のトム・ハンクスとハル・ベリーはどうだろう、、、みたいな。
各エピソードが毛色が違っていて(SFもあればサスペンスもあればコメディもある。ボーイズラブすらある)、しかもちゃんとそれぞれちゃんと面白いせいもあるが、全編にわたって張り巡らされたこれら映画のマジックのために、3時間全く飽きることがない。
いや、3時間驚きの連続と言ってもいいだろう。
こういう事はあまり言いたくないのだが、正直言って、「ミスター・ノーバディ」のパクリかな、という気もする。
「ミスター・ノーボディ」観て「ヤラレた!!」と思ったトム・ティクヴァが、似たようなことが出来る原作を見つけて、ウォシャウスキー姉弟を引き込んだ、という気がしないでもない(ちなみに、原作レベルで言うと、ペ・ドゥナちゃんが救世主になる設定は、「エンディミオン」のパクリではないか)。
でもいいよね。映画はパクリの集成だ。
これから「複数のエピソードを役者使いまわして行き来する」ってジャンルが成立するかと思うと、なんか楽しみじゃないか!!
SF界では一番最初にタイムマシンってアイデアで小説を書いたH・G・ウェルズより、「2番目に」タイムマシンを使った小説を書いたヤツのほうがエラいってコトになってる。
タイムマシンがH・G・ウェルズ固有のアイデアではなく、誰でも使えるアイデアであることを証明したからだ。
JUGEMテーマ:映画
6つのストーリーを、「マトリックス」シリーズのウォシャウスキー姉弟と「ザ・バンク/堕ちた巨像」のトム・ティクヴァが、それぞれ3つずつ演出している。
このやり方が功を奏したのか、手を抜いたエピソードがなく、どれひとつとってもそれなりの中編映画として通用しそう。
6つのエピソードの時代と舞台を一応挙げておくと、
1.1849年の南太平洋航海中の奴隷売買船
2.1931年のスコットランド
3.1973年のサンフランシスコ
4.2012年のイングランド
5.2144年のネオ・ソウル
6.2321年の文明崩壊後の世界
となっており、この内1.5.6.がウォシャウスキー姉弟、2.3.4.がトム・ティクヴァの担当らしい。
コレはつまり特撮の必要なエピソードはウォシャウスキー姉弟、必要ないエピソード(現代に近い)はトム・ティクヴァ、と言うことだろう。まあ、適材適所を考えればそうなるだろう。
個々のエピソードは前後にゆる〜い繋がりがあり、1.の主人公の日記を2.の主人公が読んでいたり、4.の主人公の自伝の映画化を5.の主人公が観ていたりする。
さらに、それぞれの時代の全然別の人物として複数回出演している役者が何人もいて、トム・ハンクスとハル・ベリーは全てのエピソードに登場する。
さらにさらに、ストーリーは全エピソードとも、一応、「圧制者に反逆する個人」を描いたハナシになっている、と言えなくもない。
しかし極端なことを言うとそんなことはどうでもいい。
この映画で一番スゴいのは、その編集である。
各エピソードを誰が演出したのかは判った。
じゃあ、一体誰が編集したのか、と言いたい。
この映画には原作があって、原作では各エピソードをそれぞれ二つに分け、1’→2’→3’→4’→5’→6’→6’’→5’’→4’’→3’’→2’’→1’’と並べているだけだ。6’と6’’は繋がってるじゃねーかとお思いだろうが、ココで上下巻が分かれてる、という訳。
しかるに映画の方はどうであろうか。
まるで、6つのエピソードが同時に走りだしたようである。
各エピソードを細分化してエピソード間を縦横無尽に飛び回る(ひとつのエピソード内ではだいたい、時系列順に並んでいる)が、繋ぎ目が魔術的なのだ。
例えばあるエピソードで銃を撃つと、別のエピソードで弾が当たったりする(当然、撃ったのも当たったのも別人だが)。
ヒッチコックのジャンプカットは時空をまたいだが、「クラウド・アトラス」のジャンプカットはストーリーすらまたぐ。
コレこそ映画のマジックであり、映画的興奮というものだ思う。
同じ役者が別のエピソードに別人として(人種どころか性別すら変わる)出ているのも、映画のマジックのひとつだろう。
ジム・スタージェスとペ・ドゥナはどの時代でも惹かれ合う。ヒューゴ・ウィーヴィングはいつも悪いヒトである。さて、主役のトム・ハンクスとハル・ベリーはどうだろう、、、みたいな。
各エピソードが毛色が違っていて(SFもあればサスペンスもあればコメディもある。ボーイズラブすらある)、しかもちゃんとそれぞれちゃんと面白いせいもあるが、全編にわたって張り巡らされたこれら映画のマジックのために、3時間全く飽きることがない。
いや、3時間驚きの連続と言ってもいいだろう。
こういう事はあまり言いたくないのだが、正直言って、「ミスター・ノーバディ」のパクリかな、という気もする。
「ミスター・ノーボディ」観て「ヤラレた!!」と思ったトム・ティクヴァが、似たようなことが出来る原作を見つけて、ウォシャウスキー姉弟を引き込んだ、という気がしないでもない(ちなみに、原作レベルで言うと、ペ・ドゥナちゃんが救世主になる設定は、「エンディミオン」のパクリではないか)。
でもいいよね。映画はパクリの集成だ。
これから「複数のエピソードを役者使いまわして行き来する」ってジャンルが成立するかと思うと、なんか楽しみじゃないか!!
SF界では一番最初にタイムマシンってアイデアで小説を書いたH・G・ウェルズより、「2番目に」タイムマシンを使った小説を書いたヤツのほうがエラいってコトになってる。
タイムマシンがH・G・ウェルズ固有のアイデアではなく、誰でも使えるアイデアであることを証明したからだ。
JUGEMテーマ:映画