2013.05.09 Thursday
「NOVA 9 書き下ろし日本SFコレクション」 事前に「敦盛」の予習を!
前書きによるとNOVAシリーズは次の10巻で終わりらしい。
日本短編SFの復権に貢献し、一定の役割を終えた、と言うことらしい。
しかし、SF短編の発表場所が増えたせいで採算性が苦しくなった(ひいては原稿も集まり難くなった)と言う時点で、SF冬の時代が終わっちゃいないことの証明のような気もする。
オマエらナンボほど小さいパイ分けあっとんねん、と。
これで「一定の役割を終えた」と言うのは矛盾じゃないんか、と。
日本短編SFの復権に貢献し、一定の役割を終えた、と言うことらしい。
しかし、SF短編の発表場所が増えたせいで採算性が苦しくなった(ひいては原稿も集まり難くなった)と言う時点で、SF冬の時代が終わっちゃいないことの証明のような気もする。
オマエらナンボほど小さいパイ分けあっとんねん、と。
これで「一定の役割を終えた」と言うのは矛盾じゃないんか、と。
とは言うものの、幸い今回も腹の立つほど「SFじゃない」ものはない。強いて言うなら「晩夏」(浅暮三文)だけど、ワンダーとアイデアに溢れてる。
結局一番良かったのが眉村卓の「ペケ投げ」なのは、「結局オマエがオールドファンなだけちゃうんか」と言われそうだが、スルスルっと異様な世界に連れ去られてしまう構成力文章力にはホレボレする。
ラストがあっけないような気もするが、いかにも自信と確信に満ちた(老大家らしいとも言うが)あっけなさではないか。
ラストがあっけないような気もするが、いかにも自信と確信に満ちた(老大家らしいとも言うが)あっけなさではないか。
コレ以外では「本能寺の大変」(田中啓文)と「ラムネ氏ノコト」( 森深紅)、「サロゲート・マザー」( 小林泰三)が良かった。
「本能寺の大変」は、映画「影武者」以降信長といえばコレ、と言う「敦盛」の一行目に爆笑した。
多分、オチよりも中盤のこのギャグがやりたくてこの設定である、と信じるものである。
多分、オチよりも中盤のこのギャグがやりたくてこの設定である、と信じるものである。
「ラムネ氏ノコト」は戦前の文豪たちよって疑似科学とも屁理屈ともメタ小説ともとれる世界が繰り広げられる、「ヒトの屁理屈にトコトン付き合う」感が心地よい。
「サロゲート・マザー」は事前にオチに気づくかどうかで小説としての評価が大きく変わるだろう。ワタクシ空中さんは、現にオチになる文章を読み始めるまで気が付かなかったノーテンキな人間なので、評価が高いです。
ってせっかく大森氏が後になるほどSF成分が強いって言ってくれてるのに前半ばっかりじゃん!!
で、「後に行くほどSF成分が強い」の法則で言えば一番SF成分が強い「アトラクタの奏でる音楽」( 扇智史)なんですが、コレ、納得行かなかったなぁ、、、
いや、SFとしてじゃなくて小説としてと言うか、いや、違うなぁ、、、
SFの仕掛けとしては成立してるんだけど、その先に見えてくる世界に全然納得行かないというか、、、
いや、SFとしてじゃなくて小説としてと言うか、いや、違うなぁ、、、
SFの仕掛けとしては成立してるんだけど、その先に見えてくる世界に全然納得行かないというか、、、
「あるストリートミュージシャンの演奏を、周りの聴衆の反応を反映しながらARで再現する」って言うんだけどさ、コレ、ダメじゃね?
もとの演奏をしたミュージシャンはコレやられたら怒るべきだと思う。
元々ライブではオーディエンスの反応でパフォーマンスが変わるなんてざらにあることでさ。
プログラムで改変されたものはプログラマーの作品であって、元になった演奏をしたミュージシャンのものじゃない。
リアルタイムじゃないがダブとかサンプリングを考えて見れば良い。アレはサンプリング「された」ヒトの作品じゃなくてサンプリン「した」ヒトの作品でしょ。
もとの演奏をしたミュージシャンはコレやられたら怒るべきだと思う。
元々ライブではオーディエンスの反応でパフォーマンスが変わるなんてざらにあることでさ。
プログラムで改変されたものはプログラマーの作品であって、元になった演奏をしたミュージシャンのものじゃない。
リアルタイムじゃないがダブとかサンプリングを考えて見れば良い。アレはサンプリング「された」ヒトの作品じゃなくてサンプリン「した」ヒトの作品でしょ。