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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「完全な遊戯」 全盛期の日本映画恐るべし

評価:
石原慎太郎,白坂依志夫
¥ 1,966

 まず、AmazonでDVDが手に入ることに驚くわ。1958年の作。

 WOWOWでやっている日活100周年特集で、まず小林旭主演のものを何本もやっているのでとりあえずDRで録画してみた。
 実を言うと「仁義なき戦い」シリーズの武田明、つまり小林旭の大ファンなのだ。正直言ってコレ以外の小林旭はよく知らないのだが、シリーズ後半を支える山守組若頭、武田明のカッコ良さは尋常ではない。完全に菅原文太を食ってしまい、4作目などはほぼ、武田が主役ではないか。
 そんなわけで小林旭の若いころの映画を、機会があれば観てみたいと思っていたのだった。

 いきなりオープニングテーマの出だしのサックス一発のカッコ良さにシビれる。何だコレは。やがて始まるクレジットタイトルも、画面を白黒で仕切ってそれぞれ白黒を反転させた手書き文字がやたらスタイリッシュで、ああ、この頃が日本映画の全盛期だったんだな、、、と痛感させられる。まだなんにも始まってないのに。

 不良大学生5人組が競輪のノミ屋を騙して大金を儲けようと企むが、やがて事件は当人たちの思わぬ悲劇的な方向へ、、、と言うハナシ。
 一応シンタローの原作ということになっているが、コレは全然違うハナシだな。
 当時大人気だったシンタローと太陽族にあやかって、舛田利雄監督と脚本の白坂依志夫が好き放題やっている感じ。

 冒頭の4人で麻雀をしているシーンの大胆かつ緻密なカメラワークとか、もう、のけぞりまくり。デ・パルマの何十年も前にこんなことやってるヒトたちがいたんだなぁ、、、日本には。
 正直言ってセリフはさすがに今の耳で聞くとクサくてたまらなかったり、なんでそんなことで登場人物が大笑いするのかわからなかったりの連続だが、当時の貧弱な通信網を逆手に取った作戦でノミ屋を騙すシーンまでは、あまりのテンポの良さ、スリリングさにクサがっている暇もない。
 とにかくここまでの面白さは、テンポの良さ、カメラワーク、歯切れのよい演技があいまって、今時のハリウッド映画でも敵わない出来なのだ。
 「邦画なんてつまらなくてセンスもない」と言うハナシはよく聞くが、つまるところこの頃までの娯楽映画のメソッドが、テレビの台頭によって映画界がポシャったことによって伝わっていないだけなのだ。テレビが一般家庭に普及する60年代半ばまでは、日本映画こそが世界のトップを走っていた事実を、小林旭主演の娯楽映画一本でまざまざと思い知らされる。

 いっそココで終わっといてくれたら、、、と思わないでもないが、映画は後半、登場人物たちも、我々観客すらも到底予想のつかなかったくらぁ〜いハナシへと方向転換する。

 ノミ屋(葉山良二)の妹(芦川いづみ)と小林旭が喫茶店でコーヒーを飲んでいて、
 「これからどうする?映画なんてどうだい」
 「イヤよ」
 「ダンスは?」
 「それもイヤ。そうだ!あそこならいいわ!」
と言う会話の後、イキナリ遊園地のコーヒーカップの遠景が映るカッティングの呼吸など、今の日本映画では到底期待出来ない鋭さを見せつつも、映画はいかにも日本映画らしいジメッとした、ビンボ臭いハナシになっていく。
 あの、カラッと乾いた前半が嘘のようだ。
 曲がりなりにも文学作品が原作と謳っているのだから、ちょっとは文学っぽくしなきゃと思ったのだろうか。イヤ、コレもまた、舛田利雄監督と白坂依志夫の本領なのだろう。彼らもまた、日本人には違いないのだから。むしろ、このジメッとしたハナシを恐るべきセンスの良さで展開できる才能に驚くべきなのだろう。

 肝心の小林旭だが、この映画でのアキラの魅力は、清楚な可憐さと明るさと儚さを合わせ持った芦川いづみや、心優しいヤクザの葉山良二、名前は知らないが不良のリーダー役のオトコについで4番目くらい。もちろんアキラが一番いい役で主演なのだが、後の武田明の片鱗がちょっとだけ感じられる程度。特にラスト近くの文学的な展開は、ちょっとまだこの頃若いアキラには無理だったかなぁ、、、

 ラスト近く、アキラ演じる金持ちの息子壮次は仲間たちに訣別を宣言し、去って行く。が、ラストでもう一度仲間たちと出会う。そして壮次は訣別するだけではなく、彼らを裏切ることを決意するのだが、それに気づかない仲間たちは壮次が電話ボックスに入ると、こんな会話をする。
 「やっぱり壮ちゃんは仲間だな」
 「でも、ホントは仲間じゃないんだよな、、、」

 「ホントは仲間じゃない」とはどういうことだろうか。彼らはまだ壮次が裏切る決意をしたことを知らない。むしろ彼らはまだ、壮次が仲間のために便宜を図ってくれようとしていると信じているのだ。にも関わらず「仲間じゃない」とは、、、

 観客は映画の中でハッキリと描かれていない恐るべき事実を、ココで初めて知ることになる。実は彼らは壮次には絶対知られてはならない秘密を「共通体験」として共有しているのだ。
 この省略の効いた演出には、ほとんど戦慄さえ覚えた。
 侮る無かれ、日活の娯楽映画を!!JUGEMテーマ:映画

at 18:58, 空中禁煙者, 邦画

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「パーフェクト・センス」 「それでも人生は続く」 イヤ、無理だろ、、、

  昔から、終末モノはイギリスSF界の得意技である。
 イギリス人自身終末モノが好きなのだろうが、なにしろ絶望感を醸しだすのが上手いのね、なぜか。世界の覇権国家の地位をアメリカに奪われたからなのか、協会に見捨てられたからなのかそもそもフランスに負けたからなのか、それともバイキングに襲撃されたからなのかわからないが、同じ世界の終末を描いたSF映画でも、ド派手なアメリカ映画とは打って変わってただただ静かに絶望感のみを箱に入れてリボンでくるんでお出しする、と言う趣向になっている。


 そんなわけで「静かな終末イギリス映画」にまた新たな一ページが刻まれました。まさに「おとなの終末」です。


 世界にまず、「嗅覚が失われる」と言う奇病が蔓延する。原因も感染経路も一切不明。菌なのかウィルスなのか、そもそも感染しているのかすら不明なまま、全人類が嗅覚を失う。
 多分、どっかでは大騒ぎしてるんだろうが、映画では描かれない。イギリスはグラスゴーを舞台に、淡々と災厄を受け入れるヒトビトを中心に描かれる。


 主人公はグラスゴーのやや高級(?)なレストランのシェフ(ユアン・マクレガー)。シェフと言う設定はすごく重要であり、まず、彼は「嗅覚に頼らない料理」を考案する。嗅覚を失ってもヒトビトは腹が減る。料理を食べる。
 「それでも人生は続く」というモノローグが繰り返される。コレがこの映画の重要なテーゼなのだ。


 やがてシェフは感染学者の女性(エヴァ・グリーン)と知り合うが、せっかく感染学者を出したのに、別にこのヒトが病気の原因を追究すべくドタバタする姿が描かれるわけでもない。
 二人はやがて恋をして、深く愛し合うようになる。
 結局、映画はこの二人の恋愛模様を中心に、徐々に崩壊していく世界を描く。
 嗅覚の次に、味覚が失われるのだ。
 当然、世界は「次に何が失われるのか」を恐れ始める。


 それでも人生は続く。


 シェフは食事の喜びを、食感や温度だけに頼った料理を考案し、レストランは営業を続ける。


 映画はシェフと感染学者の、滅び行く世界であるからこそ必死な愛を、滅び行く世界を前にした心の動きを、イギリスの冷え冷えとした、しかし美しい風景と、詩情豊かなモノローグで描いていく。


 結局、病気の原因は不明のままであり、世界を救うヒーローも、自己犠牲で他人を救うナイチンゲールも登場しない。そういう意味ではコレはSFではないのかもしれない。
 恋人の片方が死病に取り憑かれるありきたりなハナシのように、ただ、終末を舞台にした恋愛映画なのかもしれない。
 それでも人生は続く。
 それでも愛は残る。
 そういう美しいことを言いたい、美しい映画なのだろう。英語力の不足のせいでハッキリとは言及されていないように感じたが、「パーフェクト・センス」とはつまり愛なのだろう。


 SFファンのワタクシ空中さんとしては、このラストはいくらなんでもヒドい、と思うが、なにしろ絶望を描くのが大好きなイギリス人としては、コレこそが美意識にキンキン響くラストなのだろう。


 ハリウッド流のデザスタームービーを期待すると「はあ?」となるであろう、賛否の別れる映画だと思うが、エヴァ・グリーンの豊かな乳出しに星ひとつ追加しました(ソフトは購入しません)。JUGEMテーマ:映画

at 19:17, 空中禁煙者, 洋画

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「コンテイジョン」 スカしたソダーバーグ節が上手くハマった一本

  アウトブレイクだのパンデミックだのコンテイジョンだのと、新しい「伝染病が感染する」意味の言葉を見つける度に映画を一本作ってしまうハリウッドではあった。今頃、ハリウッドのどこかで次の伝染病映画のために辞書を引いてるヒトがいるのかもしれない。


 そんなことはどうでもいい。
 映画の内容のハナシだった。


 スカしたソダーバーグ節はあまり好きじゃないのだが、コレは割と気にならなかった。
 まあ、「トラフィック」や「チェ」と違って、比較的BGMを入れているせいかもしれないが、多分、この題材がソダーバーグ節とマッチしてたんだろう。当然、ソダーバーグ自身は「どの映画もマッチしてるわーーーーーーーーーーーーーーxっつ!!!!!」とか言うだろうが。


 印象は「トラフィック」と似ている。「トラフィック」が麻薬戦争を、麻薬戦争に関わる様々な立場のヒトを並列的に描いたように、この映画はとある伝染病の拡大に関わる様々な立場のヒトを並列的に描いているのだ。
 まあ、半分はCDC(アメリカ疾病予防管理センター)の職員たちだけど。CDCの中心にいて指揮、判断する奴、発生地と思われる香港に飛んで調査する奴、アメリカでの最初の感染地ミネソタに飛んで現地で拡散を防ごうとする奴、CDCに残ってワクチンを開発しようとする奴。CDC以外でも、アメリカでの最初の犠牲者の妻と妻から感染した息子を失ったオトコ、感染騒ぎに乗じて金儲けを企む奴。
 これらを並列して描いて全く乱れないソダーバーグ節は見事というしか無い。
 特に、題材が題材だけに阿鼻叫喚の湿っぽくもうるさい映画に仕上げることも可能だった筈だが(多分、その方が興行価値は上がる)、全くクールに描き切った度胸には恐れいった。
 例えば上記の主要な登場人物も何人かは死んでいくわけだが、その周囲の登場人物たちも決して大騒ぎしない。みな、クールに死んで行き、クールに見送る。なにしろ残された彼らにも、まだやらなければならない事が山積みなのだ。泣き崩れている暇はない、彼らの死を無駄にしないためにも、淡々と、しかし文字通り必死の(なにしろいつ感染するかわからない)努力を続けなければならないのだ。
 クールで知的な演出を得意とするソダーバーグの資質と題材が一致したと思う所以であります。


 一方でこの映画の女性の扱いがすごく興味深い。女性と男性の扱いの違い、というか。
 グィネス・パルトロウ(最初にアメリカにウィルスをもたらした患者)、ケイト・ウィンスレット(ミネソタに飛ぶCDC職員)、マリオン・コティヤール(香港に飛ぶCDC職員)、ジェニファー・エール(ワクチンを開発するCDC職員)と当代の美人女優(除くジェニファー・エール)を揃えながら、彼女たちを美しく撮ろうという意志がない。まあ、みんな必死だから化粧してる余裕なんて無いよ、という演出なのかもしれない。
 ところが彼女たちは揃いも揃ってとんでもない聖女振りを発揮するのだ。グィネス・パルトロウを除く彼女たちは全員基本的に医者であり、この感染を食い止めるために文字通り命がけの戦いを繰り広げ、全く弱さというものを感じさせない。
 
 コレに対して男性陣はどうか。
 ローレンス・フィッシュバーン(CDCの偉いヒト)、マット・デイモン(最初の感染者の夫)と、コレはまた当代のマッチョなイメージを持つ男優陣を揃えながら、揃って弱さを見せる役なのだ。名前は知らないがCDCの掃除婦役のおっちゃんや、ジュード・ロウ(詐欺師)、ジェニファー・エールの父親などもそうだろう。男性陣は、みな(必死に頑張ってはいるが)皆弱さも抱えている。


 ソダーバーグにとって世界とは、美しくない聖女と弱いオトコで出来ているのかもしれない。


 エンド・クレジットにエリオット・グールドの名前を見つけてクリビツテンギョウ。え?え?どこに出てた?と慌てて見なおしてみたら、警告を無視して危険なレベルの実験を続ける老医師だった。コ、コレがあのエリオット・グールド、、、
 よくよく見るといたずら好きそうな下唇とかが確かにエリオット・グールドだった。「カプリコン1」や「オフサイドセブン」、「ロング・グッド・バイ」の頃のエリオット・グールドの大ファンだったのに、ちっとも気が付かなかったよ、、、
 しかしエリオット・グールドに医者の役とはまた大胆な、、、と思ったが、そう言えば出世作の「キャッチ22」は軍医の役だったかな、、、
 コレもまた男臭いイメージのオトコ、というキャスティングなんだろう。JUGEMテーマ:映画

at 20:11, 空中禁煙者, 洋画

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「カエル少年失踪殺人事件」 韓国流「実話の処理の仕方」

  韓国には「韓国三大未解決事件」というのがあるらしく、それぞれが映画になっている。
 ひとつは名作「殺人の追憶」であり、もう一つがこの「カエル少年失踪殺人事件」というわけ(もう一つは未見)。
 じゃあ「殺人の追憶」くらい面白いのか、というとさすがにそんなことはないが、なかなかどうして、コレはコレで最低でも佳作、くらいは行っている。

 とは言うものの、「殺人の追憶」との共通点もあって、それは例えばラストで提示される犯人像だったりする。なにしろ「未解決事件」なので、犯人は判らないのだが、それでは映画にならないと思うのか(すくなくとも娯楽映画としてはキツイかもしれないね)、一応犯人像らしきものをでっち上げてしまうのね。それでも「殺人の追憶」はこの辺がうまくいっていたが、こちらの場合はちょっとリアリティを欠く犯人像になっていて、そこさえうまく行っていれば、「殺人の追憶」級の名作になっていたかもしれない。


 そもそもネットで調べるとこの「カエル少年」事件の記述は結構見つかり、日本語のサイトだけ読んでいても、ほぼ、犯人像は判っているような気もしてきて、もしかすると韓国のヒトたちの間では、犯人像については既に暗黙の了解事項なのかもしれない、という気もする。
 1990年代のはじめ、「カエルを捕りに行ってくる」と言い残して家を出た5人の少年がそのまま失踪してしまう、と言う事件である。映画のタイトルでハッキリ「失踪殺人」って言っちゃってるんでネタバレにはならないと思うけど、5人とも殺されてるわけです。
 合掌。


 そしてそれは、今の韓国では到底映画にできない犯人像なのだ。


 そんなことはどうでもいい。
 映画のハナシだ。


 そーいった様な事情もあってか、この事件の場合、犯人探しのサスペンスを軸には映画を作りにくいのだが、制作陣たちはちゃあ〜んと別の軸を用意している。
 この映画はカエル少年事件をダシにして自らの立場をどうこうしようとする二人のオトコの葛藤を軸に進むのだ。コレが上手く行っていて、見応えのある映画になりえているのだ。


 ひとりは中央のテレビ局でヤラせ事件が発覚して、カエル少年事件があった地方の支局に飛ばされてきたドキュメンタリー専門のTVディレクター。もうひとりはこの事件について独自の見解を発表していた地元の大学教授。


 失地回復を狙うディレクターは、既に過去のものになりつつあったこの事件に食いつき、大学教授の危険な推理にノって一発あてることを思いつき、大学教授もまんまとこの賭けにノる。
 かくしてこの二人の賭けは、この事件に再度スポットを当て、全国規模の大騒動へと発展していくのだ。


 それだけなら「ちょっと焦点がズレはじめてるんじゃ、、、」となりかねないが、この大騒動が終わったあとに、いなくなった少年の一人のいかつい父親が涙ながらに妻に語る言葉に胸を打たれた。
 ディレクターも、大学教授も、大騒動に巻き込み巻き込まれた遺族以外の全員(映画の観客のオレも含め)が忘れていた一番大事なことを思い出させられる、衝撃の述懐だ。
 このセリフのせいでこの映画は焦点を見失わない佳作になったような気がした。


 ディレクターはめでたく中央に復帰するのだが、更に数年後、この地方に戻ってくることを余儀なくされる。少年たちに関する決定的な手がかりが発見されるのだ。ちょっと老けて微妙に薄毛になった微妙さ加減が上手い。ギラギラしたヤリ手から、ちょっと油が抜けて戻ってくるのだ。


 事件を自分の失地回復に利用するのではなく、本当に少年たちの鎮魂のためだけに動き始めたディレクターは、今は配置換えになっている当時の刑事からのヒントを元に鋭く真犯人に迫っていくのだが、こっから先は娯楽映画としての後始末みたいなもんなので、正直言ってどうでもいいです。


 やはり大騒動の後の父親の独白、アレこそがこの映画のクライマックスだったのだな、と思う。JUGEMテーマ:映画

at 20:22, 空中禁煙者, アジア

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「プリンセス・トヨトミ」 何故誰も「おかしくない?」と言わないのか

  秀頼が一子国松が大阪夏の陣を生き延び、一部の大阪人によりその血筋は連綿と守られていた。大阪にはその血筋を守るための秘密組織があり、「大阪国」と名乗っていたが、東京から送り込まれた会計監査院の調査員がおかしなことに気づき、、、
 と言う設定は素晴らしい。

 最近こんな事ばっかり言ってる気もするが、コレもまた設定の素晴らしさをどう転がしていいかわからない映画の典型であるように思われる。

 一言言っておくがワタクシ空中さんは原作を読んでいないので、以下の記述はあくまでも映画に関してのみ思うことであって、原作は一切関係ありません。

 大阪国の総理は言う。
 大阪国の国民になるには条件が二つある。

 1.元服(14歳)を迎えていること。
 2.父親が死んでいること。

 の二つである。1.は簡単だが、2.はちょっと大雑把すぎるだろう。実は2.はもっと厳しい条件を含んでいるのである。2.の条件をもっと細かく(というか正確に)記述すると、「父親が己が死期を悟り、息子を大阪城地下にある大阪国国会議事堂に連れてきて、大阪国国民としての自覚を伝えていること」と言うものだ。これだけのことを「父が死んでいること」の一語にまとめているのでいるのである。そりゃ無理だ。
 
 そしてコレはかなり厳しい条件ではないか。例えば交通事故や不慮の事故で即死した場合は不可だ。
 病死でも脳溢血等の即死性の病気だったら不可。癌等のある程度死まで時間がある病気でも、本人が死を自覚した時点で大阪国国会議事堂まで行く気力体力を失っていれば無理だ。

 こう考えると大阪国国民になるのは相当難しいことが解るだろう。

 こんな状態で一旦事あって大阪国国民が決起したところで、「大阪の街がカラになる」訳がないではないではないか。一体全体大阪国民になりそこねた大阪人はどこへ行ったのか。
 しかもそもそも女性はスポイルされているのである(なんという男女差別!)。
 「大阪の街がカラになる」という衝撃映像が撮りたかったのだろうが(まあ、苦労しただろうとは思うが)、全然、筋が通らない。

 仮にそこに目をつぶったとしても、あんなに大勢の人間が大阪城周辺に集まって、あんな屋外で堂々とマイク使って周囲に聞こえるように公開討論して、中央にバレないわけがないではないか。どっかの離島ならともかく。既に会計監査院が見逃す見逃さないの問題ではない事態を自ら招いているのではないか。

 そもそも会計監査院を持ちだしていながら、大阪国の存在に気づくのは、金の流れにおかしいところを見つけたからではなく、単に忘れ物を取りに行ったから、というバカさ加減。だったらなんでもいいではないか。会計監査院を持ち出す意味が無い。

 他にも大阪国総理は会計監査院との対決の直前に息子を大阪城地下に連れていくが、ナニをもって死を覚悟したのかわからないとか、最初のきっかけになった建物の出入口が見えるお好み焼き屋の席に陣取った堤真一の視界を和久井映見が遮るカメラワークの無意味さとか(ミスリードのつもりなんだろうか。だったら何の意味もない。何か勘違いしているとしか思えない)、もう、この映画は無数の矛盾点を抱えている。

 ちなみに「死を覚悟した父親から息子へ」と言うのは、いわゆる「男系男子」のアナロジーだと思うが、豊臣家は戦国武将であって天皇家ではない。一体全体ナニを考えておるのか。しかもタイトルが示す通り、豊臣家の現在の嫡子は女の子である。もう、全くわけがわからない。
 多分、プリンス・トヨトミよりプリンセス・トヨトミのほうが一般ウケすると思ったんだろう。
 
 堤真一が主役の映画は大体つまらないし、撮影中、大阪城を観て「やっぱり大きなお寺はいいですねー」と言い放ち、堤真一がギョッとしていると「あ、間違えた、お寺だ」と言ったという綾瀬はるかちゃん(大好きです)がこのデタラメな脚本に気が付かなくても仕方がないが、中井貴一は一体ナニを考えておるのか。実はバカなんだろうか。

 当ブログの方針として、あまりシナリオの穴を事細かに指摘するようなことはしたくないのである、実は。
 どちらかと言うと印象的な演出があったかとか、上手い下手とかで映画を語りたいと思っているのである、実は。
 しかしコレは酷すぎる。
 久々にクソしどい邦画を観た、と言う感じ。JUGEMテーマ:映画

at 18:25, 空中禁煙者, 邦画

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「ヒミズ」 震災は園子温ワールドすら歪ませる

  園子温監督作品の特徴のひとつに、「最初から最後までベッタリと面白い」というのがある。
 最初は淡々と始まって、徐々に(あるいは突如ガンっと)ヴォルテージを上げていく普通の映画とは全く違う文法で作られているのだ。
 ジョニー・トーや故・相米慎二は、最初からボンッとヴォルテージを上げてしまう手法をよく使っていたが、アレともちょっと違う。
 ストーリーラインを追っていくと、普通の映画のように色々なことが積み重なって、徐々に盛り上がっていく構造になっているのだが。

 それは画面に横溢する狂気のせいだろう。
 コレで「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」「ヒミズ」と三作品園子温作品を観てきたが、いずれも主要な登場人物全員が気が狂っている。
 従って、映画が始まって最初の登場人物(当然、気が狂っている)を目にした瞬間から、画面全体にヒリヒリした狂気が漂い、目が離せなくなってしまう。自分の中の狂気が、ヒリヒリと感応しているのだ。

 この映画の主人公、中学生の住田も気が狂っている。
 
 「気が狂っているとは何事だ!普通が一番、夢は実家のボート屋をついで普通に暮らすこと、と主張する中学生のどこが狂っているのか。普通を望んじゃイカンのか!」

 と思ったアナタ。アナタはまだ園子温マジックから抜けだしていません。住田が普通に思えるのは、彼もまた園子温ワールドの住人であり、園子温ワールドの中では比較的マトモだからに過ぎない。父親がヤクザに借金して逃げ回っていて、母親にも間男と出奔された中学生は、「このまま中学を休んで店を守っていてもどうにもならん」ということに気づかなければならない。それはかえって普通じゃない。彼は「普通に生きる=ボート屋を継ぐ」と言う妄念に囚われている。
 そもそもヒミズ(モグラの別称)になりたい、などと言う中学生は、カウンセラーに見せるべきだと思うがどうか。

 そんなわけで、住田に思いを寄せる(というか熱狂的に愛している)茶沢さんも気が狂っている。住田の何気ない発言(自分に向けられたものではない)を「住田語録」として大書して壁に貼りまくっているカットで、もう画面から狂気がピッピピッピ噴出している。

 とは言うものの、この映画には気が狂っていない人物も登場する。
 逆説的に、ヤクザ(でんでん)の一味とスリ兼泥棒のチンピラ(窪塚洋介!)という、常習的犯罪者のみが、「気は狂っていない」。彼らは単に悪人なだけだ。

 かくして、例によって気が狂った普通人たちと悪人たちが織りなすドタバタ劇が画面上に繰り広げられるのであった、、、

 この映画が園子温監督の過去二作と比べてイマイチ素直に絶賛出来ない出来なのは、この気の狂った普通人達に、「未来への希望」などと言う、あたかも普通の映画であるような結論を与えようとしているからだろう。
 それは本人が言っているように、園子温監督にとって、「震災以後」の表現者として避けることの許されない条件なのだろう。
 それは確かにそうなのだろうが、「避けることの許されない条件」と映画の出来は別問題である。
 震災後の風景を取り入れることが、あるいは、今の日本人にとって最も必要な「未来への希望」を全面に打ち出すことが、園子温ワールドに有効に働くファクターであったかどうか、僕には疑問だ。
 いや、ハッキリ「よせばいいのに、、、」とすら思うのであった。
 どうしてもやりたいのなら、原作付きの作品は避けて、いつもどおりオリジナルでやれば、もうちょっと納得の行くものになったのではあるまいか。
 企画が動き始めてから震災があったので慌てて取り込んだ、と言うのでは、いかにも付け焼刃的だし、原作にも失礼なのであるまいか(原作は読んでないし、原作者がこの映画に対しどういうスタンスをとっているかも知らないが)。

 この映画は、園子温ワールドの過去の住人たち総出演という、園子温ワールドの集大成と言う雰囲気もある。普通、集大成をやった後は、ガラっと作風を変えてくるものである。
 それが過去二作に衝撃を受けた僕にとって面白いものになるかどうかはわからない。もう、あのような衝撃は二度と無いのかもしれない。それでももうちょっと着いて行ってみよう、そう思わせるくらいは、本作もベッタリと面白い映画ではあるのだが、、、JUGEMテーマ:映画

at 17:23, 空中禁煙者, 邦画

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「TIME/タイム」典型的な「後半グダグダ」映画

  通貨の代わりに寿命が流通している社会。ヒトビトは25歳で年を取るのを止め、残りは腕に表示される寿命の分だけ生きられる。働いて寿命を稼ぎ、寿命を減らして何かを買う。金持ちは何百年も何千年も寿命を持ち、スラム街の民人は1日分の寿命しか持たず、一日働いてやっと次の一日の寿命を稼ぐ。
 ある日、主人公の青年は、スラム街に彷徨い込んできた自殺志願の金持ち(長く生きすぎて生きることに厭いたらしい)から100年分の寿命を譲られ、金持ちの世界に殴り込みをかける、、、

 この設定は素晴らしい。
 素晴らしいが、どうもこの設定を考えついた奴とストーリーを組立た奴は別人なのではないか?
 「このアイデアをジャスティン・ティンバーレイク主演の娯楽映画用のシナリオにせよ」と言われた奴が、SFというものがよく分からず、「ま、ジャスティンなんとかって短髪で不良っぽいから、ロマンスしてアクションして犯罪すりゃいいんちゃう?」とか言って仕上げた感じ。
 ハリウッド映画界には昔からロマンスとアクションと犯罪を同時にこなせるフォーマットというものがあって、皆さんご存知の「ボニー&クライド」フォーマットです。そんなわけでコレをやってます。

 ただフォーマットに乗っかってるだけなので、主人公やヒロインや、敵役の時間管理官の行動原理が解らないという以前に、そもそも脚本家がナニをしたいのか解らない。
 さすがにボニー&クライドフォーマットと設定の間に齟齬があることは気付いているのだろう、思い出したようにSF的アイデアを小出しにしたりもしてみるが、コレが却って印象を混乱させている。

 最終的に「え?そなの?」と言いたくなるような論理に従って世界の変革を試みるのだが、コレ、どうなんですか?
 この映画における「時間」は当然「貨幣」のアナロジーなわけで(て言うかそのものなんだけど)、コレ、貨幣でも同じ事起きるんですか?
 コレを「崩壊」って言っちゃったら、崩壊した後ヒトビトはどうやって社会を成り立たせて行くのかねぇ、、、
 その辺の対策を考えておかないで、ただ考えなしのアンちゃんに崩壊させられても困るんだけど、、、JUGEMテーマ:映画

at 18:42, 空中禁煙者, 洋画

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