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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「トゥルー・グリッド」 リメイクと言うよりは自作へのアンサー映画

 現代の西部劇、とでも言うべき「ノーカントリー」でオスカーをモノにしたコーエン兄弟が、ミスター西部劇ジョン・ウェインにもオスカーをもたらした王道西部劇「勇気ある追跡」をリメイク、と言う趣向。
 
 遠い地で雇い人に殺された父親の敵を討つために、14歳のお嬢様が泣いてばかりの母親や幼い弟を故郷に残し、自分で雇った老保安官と、別件で同じ犯人を追ってたテキサス・レンジャーの兄ちゃんの三人で荒野の追跡劇を繰り広げるハナシ。
 まあ、王道ですな。
 
 が、ココにはヒトビトが「西部劇」と聞いて期待するような、なんというか爽快感?みたいなものは意外に無い。なんかゆったりしてんのね。悠揚迫らざる展開と言うか。
 いや、銃撃戦も馬の早駆けシーンもあるんだけど、なんかそういうことに興味が行かない演出と言うか。なんか主眼が別にあるのね、コレ。
 
 もちろん、ジェフ・ブリッジスの酔いどれ保安官は渋くて良いです。マット・デイモンの有能なくせにどっかトボけたアンちゃんぶりもいい。
 そしてなにより実年齢も14歳のヘイリー・スタインフェルドちゃん!ちょっと小鼻が横に膨らみすぎるキライのある美少女が、大人顔負けの知性と度胸でオッサンどもの鼻面引きずり回す様は確かにとんでもない爽快感で、前半、観客を映画に引きずり込むに充分。
 
 だけどこの映画の主眼は、おそらくは(観てないけど)ジョン・ウェイン版のオリジナルとは違うところにある。
 
 コーエン兄弟は日本人の目から見ると、いつも「アメリカ」をテーマに映画を撮っているように見える一人だ(他は誰だよッ!!)。本人達がどういうつもりか知らないが、ナニを撮っても日本人からはそう見えてしまう。コレがおそらくコーエン兄弟の日米の評価の差につながっている(とオレは思ってる)。
 
 今回もおそらくテーマは「アメリカという国」なのだ。
 っていうかコレ、「ノーカントリー」へのセルフアンサー映画(っていう言葉を今作りました)じゃね?
 アメリカは変わっちまった。老人が住むところはない。オレら老人が父親から受けた薫陶なんぞ通用しない国になっちまった、、、
 
 え?え?ちょっと待って?オレらそんなアメリカしか知らないよ?昔はどうだったの?
 
 そんな疑問に対する答えがこの映画なのだ。
 自立心と正義感にあふれた子供。
 酔いどれて昔の自慢話ばっかしちゃあいるが、イザとなると命がけで悪を倒し、少女を救う老保安官。
 杓子定規で傲岸不遜だが悪を憎む有能な若者。
 
 コレがアメリカだよ、と。
 
 憎っくき父の仇はあっという間に地元のギャングとつるんで一緒に逃げているのだが、このギャングのボスが老保安官との約束は守るシーンで特にそれを感じた。
 ギャングのボスは、老保安官があっさり撃ち殺しても構わないと思うほど悪いことをしてる奴なんだろうが、意外にも信義を守った。
 そりゃあ昔のアメリカにだって(父の仇のような)サイコ野郎はいたが、ギャングにだって五分の魂はあったもんだ。それが古き良きアメリカさ、、、
 
 コレに興味が持てるかどうかは皆さんの判断に任せます。
 オレは正直いってあんまり持てませんでした。
 ヘイリーちゃんの役の小気味よさ(とそれに答える演技)を筆頭に、主要キャストの演技や(コレはどの西部劇でも共通だけど)アメリカの自然の美しさだけでも面白く観れますが。
 
 ところでこの映画、苦〜いエピローグがあるんだけど、コレ、オリジナル版にもあるのかねぇ、、、取り敢えずこのエピローグだけが強烈にコーエン兄弟っぽいです。
JUGEMテーマ:映画

at 18:43, 空中禁煙者, 洋画

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「NOVA 6 書き下ろし日本SFコレクション」 サイファイ騒動に寄せて(怒涛の完結編)

評価:
宮部 みゆき,牧野 修,北野 勇作,斉藤 直子,蘇部 健一,樺山 三英,松崎 有理,高山 羽根子,船戸 一人,七佳 弁京
¥ 998


 そんな訳で「NOVA6」です。
 今回は「期せずして新人特集」だそうで、今時10人中5人新人さん、と聞いただけで「またSFでもなんでもないものを読まされるのか、、、」とビビってしまう空中さんではありましたが、よく見たら北野勇作・牧野修・宮部みゆきの三氏以外は新人さんかどうかも知りませんでした。

・斉藤直子「白い恋人たち」
 SF。紛れも無いSF。スペキュレイティブなSFとしてかなりのポテンシャルを秘めているにもかかわらず、意地でも落語で落とすあたりが個性といえば個性ですが、なんかもったいない気もします。

・七佳弁京「十五年の孤独」
 SF。しかもハードSF。ラストでダラダラしなければ傑作といってもいいのではないか。ラストはちょい手前でバッサリ終わるか、もうちょっとひねって欲しかった。あとやたらクラークにちなんだ固有名詞も恥ずかしい。

・蘇部健一「硝子の向こうの恋人」
 SF。しかもタイムトラベルSF。しかもロマンチックタイムトラベルSF。じゃあ40年前の「美亜へ贈る真珠」を超えたかって言うと超えてないわけで、日本SF40年の歴史を食いつぶす様な行為といえなくもないが、まあ、面白いんで仕方ない。

・松崎有理「超現実な彼女 代書屋ミクラの初仕事」
 非SF。このヒトの作品は、「アタシ、大学で研究職なの、理系女子なの、ウフフ」とか言いたいだけのような気がする。どうでもいいけど、新人作家がSFのアンソロジーにヌケヌケとこういう作品を寄せてくるっていうのはどうなのか。大森氏がイイといえばイイんだろうが、なんかSFというブランドを舐めているし、ひいてはSFファンであること自体を舐められたような気がする。

・高山羽根子「母のいる島」
 非SF。大森氏は「どこがSFだか分からない」と言っているが、別に分からなくはない、単にSFじゃないだけ。 「ヒットガールがたくさんいたら面白い」と思って書いたそうだが、単にヒットガールがたくさんいるハナシなだけで、別に面白くはないです。

・船戸一人「リビング・オブ・ザ・デッド」
 SF。紛れも無いSFであり、起きている事自体は特に難しいことは起きてませんが、残念ながら主要登場人物三人の抱える論理が、もう、ホントに、一行たりとも理解できませんでした。コレが「超メタ言語的な小説」ということかも知れません。

・樺山三英「庭、庭師、徒弟」
 非SFなうえに、これぞ「超メタ言語的な小説」と言う感じ。「ウィトゲンシュタイン解題」としてそこそこ面白く読めなくもないが、作者のペダンティズムを満たすための小説を読まされても困る、という感じ。

・北野勇作「とんがりとその周辺」
 紛れも無くSFですが、残念ながら「あたらしいたいようのしょ」という単語で頭の中が充満してしまい、面白さを読み取れませんでした。

・牧野修「僕がもう死んでいるってことは内緒だよ」
 「超メタ言語的な小説」であるにもかかわらず、SFであることによって、本当のリアルに突き抜けるという離れ業をやってのけている。たったコレだけの枚数で、3.11以後、リーマンショック以後(正確に言うと小泉改革以後か)の気分を(松本零士風に言うと)著しくえぐっている。
 
・宮部みゆき「保安官の明日」
 SF。宮部氏は前回の「聖痕」が面白くなかったのでちょっと身構えたが、なかなかどうして今回はプロパーのSF作家のようなSFぶり。一瞬、「う゛ぃれっじ」だの「しゃまらん」などという単語が脳内を駆け巡り始めたが、予想を上回る展開が嬉しい。最初は普通に始めておいて、チラッチラッとヒントを挟む手管はさすが。ラストの種明かしを会話で処理したのは残念ですが。

 ラストの2編で救われた感じだが、真ん中辺はもう、ホントに読むのが辛かった。
 「調弦領域」の津原泰水(コレばっか)「土の枕」のように、全くSFではないのに「ああ、この小説に出会えてよかった、、、大森さんありがとう」と思うことがないでもないが、大森氏もまさか代書屋だの島だの庭だのが「土の枕」級の傑作だとは思っていまい。「調弦領域」のように傑作選ではないのだから仕方が無いといえば仕方が無いのだが、いくらなんでも10作中3作があからさまにSFじゃない(しかも小説としても傑作だから仕方がないとは言い難い)というのはいかがなものか。
 そのうち全作あからさまにSFじゃないなどという巻が出るのではないかと不安になってしまう。
 なんとなく、サイファイ騒動の時に恫喝されたことがトラウマとなって、「超メタ言語的な小説」であればそれは意地でもSFである、と言った倒錯が起きているのではないかとさえ勘ぐりたくなる。

 前にも書いたが三ヶ月に一回出ているアンソロジーでそうそう傑作に出会えるわけはないので、今回も冒頭の3作とラスト2作で充分読んでよかったと思えるレベルではあるが、今後のことを考えると、次非SF度が増えていたら読むのやめるぞというレベルでもある。

 ココまで読んで多くのヒトは、「ジジイが最近の若いもんは分からん、、、って繰り言ホザイてるだけじゃ、、、」と思われていることと思いますが、充分承知の上です。
 今、SF界は(世界のナベアツ風に言えば)完全に盛り上がりかけていると言われているが、ほとんどは今現在のSF界のオピオンリーダーたる大森氏の功績だろう。
 その大森氏の編集方針が正しかったかどうか(オレの不安が間違っていたのどうか)は、おそらく13年後のSF界が答えてくれるだろう。

 願わくば、「NOVA7」は全てSFであらんことを(SFでありさえすれば「超メタ言語的な小説」はアリ)。JUGEMテーマ:小説全般 

at 16:25, 空中禁煙者, 書籍

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「NOVA6 書き下ろし日本SFコレクション」 サイファイ騒動に寄せて(前編)

 30代以上のSFファンは憶えているかも知れないが、ちょうど2000年前後、日本SF界に「サイファイ騒動」なるものが勃発した。
 サイファイ(「Sci-Fi」と綴る)という言葉はもともと1950年代にアメリカの有名SFファン(と言うのがいるのよ、SF界には)、フォレスト・J・アッカーマンと言うおっさんがSFの新しい呼称として提唱したものだったが、このおっさんが好きなのはSFと言ってもスペース・オペラだののSF的世界を舞台にした冒険活劇に過ぎないこともまた有名だったせいで、下手にSci-Fiを名乗るとシリアスな小説扱いされない危険があったために、ほとんど使われないまま(っていうかほぼバカにされて)、消えていった単語であった(ようにオレは認識していた)。
 
 ところが20世紀ももう、ホント押し詰まった頃、突然日本SF界に「今後オレの作品はサイファイと呼べ!」と言い出した作家がいた。
 梅原克文氏だ。
 
 このヒトはさらに遡ること数年前に「二重螺旋の悪魔」と「ソリトンの悪魔」と言うメッタヤタラに面白い作品を引っさげてSF界に殴りこんできた、驚異の新人であった。
 特に「ソリトンの悪魔」はハードSFとしても上出来にして、10ページに一回手に汗握るという、かなり難しいことを成し遂げた傑作であった。当時「あー凄いヒトが出てきたなぁ、、、」とワクワクしたものである。
 どれくらい凄いかというと、日本SF大賞こそ神林長平の「言壺」に譲ったものの、推理小説でもミステリーでも何でもないのに、日本推理作家協会賞に選考委員の小松左京がムリヤリ突っ込んだ、というくらい凄いのである。
 
 この梅原克文氏が「今後オレの作品はサイファイと呼べ!」と吠えたわけだ。
 当時の梅原氏の主張をオレなりに解釈すれば、当時(今もなんだけど)のSFには、「超メタ言語的な小説(注:後述)」と梅原氏の書くような大衆娯楽サイエンス・フィクションが混在している、と。もし大衆娯楽サイエンス・フィクションを期待して書籍を購入した読者がたまたま「超メタ言語的な小説」に当たって心底ガッカリすると、「SF」の二文字に対する警戒心が芽生え、二度とSF作品を手に取ろうと思わなくなってしまい、長じて大衆娯楽サイエンス・フィクションまで購買機会が失われてしまう。したがって、もし「超メタ言語的なSF」をSFと呼ぶのなら、今後オレの書くような大衆娯楽サイエンス・フィクションをSFと呼ぶな、サイファイと呼べ、と。この主張はもし今後オレの作品をSFとして扱うような書評があれば、営業妨害で訴える、と言うところまでエスカレートしてしまう。
 
 なんだかなぁ、、、と思ったものだ。
 そもそも文芸の問題(批評だって文芸活動の一環だ)を法廷で解決しようと言う態度が全く気に入らなかった。名乗りたければ自分で勝手に名乗ればいいのである。そして本当に大衆に読まれる面白い大衆娯楽サイエンス・フィクションを量産すればいいのである。そうすれば自ずとサイファイの呼称も大衆に膾炙するだろうし、大衆はこぞってサイファイのブランドを求めて本屋を彷徨するだろう。そうなって初めて梅原氏の勝ちではないか。それが言論に生きる作家という職業のあり方ではないか。
 
 さらに梅原氏による定義には「サイファイにおいては(超人類を出す場合)、超人類は悪役として描かれなければならない」などという項目があったりして、なんかエラく窮屈なのであった。「おんなじようなハナシばっかりになっちゃうんじゃ、、、」と思わざるを得ない。
 そんな事言ったら大衆娯楽サイエンス・フィクションでありつつ超人類を善玉として描いた小説が、作者や出版社自らサイファイと名乗ったらどうするつもりなのか。訴えるんだろうか。百歩譲って自作をSFと呼ぶなと言う権利はあるとしても(司法に委ねるかどうかはまた別問題)、他人の作品にサイファイと名乗るな、と主張する権利はない筈である。そもそもサイファイという名称自体梅原氏が作った言葉ではないのだから。
 
 一方、「超メタ言語的な小説」と言う呼称は梅原氏の造語である(自分でそう言っている)。
 言葉通りにもうちょっと平たく表現すると、「言語自体に言及するような言語であることを上回ってしまうような小説」ということになってしまい、一体全体どんな小説なのか想像もつかない。梅原氏自身の説明によると、「個々の文章や、個々の場面に現実味がなく、言葉と現実との一対一の対応関係を壊して、勝手に『言葉だけの宇宙』を作ってしまったようなタイプの小説」ということらしい。
 コレはオレの勝手な解釈だが、要は「設定・人物造形・ストーリーの全てにおいてリアリティのない(現実との接点の有無を問題にしない)小説」というようなことではないかと思うのよ。
 そしてその具体例として名指しされているのは、神林長平と大原まり子なのだ(読者諸兄においてはココでくれぐれも「ソリトンの悪魔」の退けて日本SF大賞を取ったのが神林長平氏だったことなどを思い出さないようにお願いしたい)。
 まさにこの二人こそはこの騒動に先立つこと3年前に勃発した「SFクズ論争」(と言うのがあったのよ)に於いても、「ここ20年の日本SFを支えてきた」と名指しされた二人だったのである。
 
 結局この騒動は肝心の梅原氏が騒動後に発表した伝奇小説「カムナビ」がロクでもない出来だった(らしい。ゴメンナサイ読んでません)事、その後梅原氏の作品自体が発表されなくなってしまったことで、あっけない終焉を迎える。現在「サイファイ」でぐぐっても、この騒動関連かサイファイと言うバンドくらいしかヒットしないと言う状況である。
 
 当時オレはこの騒動を眺めていて、「梅原さんどうしちゃったのかなぁ、、、」と思っていた。自らの作品を大衆向けの娯楽、と言い切る潔さは認めるが、彼が一貫して主張しているのは「商売上の都合」であって(自分でハッキリそう言っている)、仮にサイファイブランドに惹かれる読者を獲得したとしても、結局彼らを娯楽小説しか読まない大衆、とバカにしてることになるんじゃないか、娯楽性には厳しいが、結局彼らを舐めた小説を書く様になってしまうのではないか、とも思えるのである。
 
 と、いうのがかれこれ12年前の出来事であり、当時、梅原氏の主張に困惑したオレではあったが、昨今、なんとなく当時の梅原氏の苛立が解るようになってきてしまった(そうです。なんと、ココからが本題です)。
 実は、ココ数年、大森望編集による、「年間傑作選」やら「NOVA」シリーズやらで最先端の日本SFに触れると、なんだコレは、、、と思う作品が必ず何作か含まれている。
 なにコレ、、、SFだって言うから買ったのになんでこんなもの読まなきゃならないの、、、などと、まさに12年前に梅原氏が想定した読者そのまんまの反応をしてしまう自分に気づいたりする。
 
 当時、神林長平や大原まり子の諸作が「超メタ言語的な小説」と言われても全然ピンと来なかった(今も来ない)が、例えば今、(先週芥川賞を受賞した)大森氏のお気に入り、円城塔の諸作が「超メタ言語的な小説」と言われれば、まさにピッタリではあるまいか(思えば「リアル・フィクション」などという解り難い造語も、字義通りの「超メタ言語的な小説」にこそリアリティを感じる世代の台頭を表す言葉として、立ち上がってきたのかも知れない)。。
 してみると今のオレが円城塔に感じるような戸惑いを、梅原氏は神林長平や大原まり子に感じていたのかなぁ、、、という気が凄くして来たのである。
 
 さて、今回オレが何故「NOVA6」を読んで10年以上も前のSF界の内輪もめ(って言っただけで梅原氏は怒り出しそうだが)を思い出したかというと、まさにこの騒動の時、梅原氏に「これ以上SF扱いしたら訴える!」と恫喝された人物こそ、NOVAシリーズの編者、大森望氏そのヒトなのであーる!
 

at 16:45, 空中禁煙者, 書籍

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「デビル」 良く出来た新人の習作。シャマラン責任取れ。

 シャマランが書き溜めたアイデアを若手が映画化するレーベル「ナイト・クロニクル」の第一弾。要はシャマランが「オレ様が自ら手がけるほどの事ないな、、、」と思ってボツにしたアイデアがいっぱいあるってことだろう。

 冒頭の絵が素晴らしい。空撮で海から大都会(フィラデルフィアらしい)に寄っていくのだが、絵が上下逆さまなのだ。たったコレだけの工夫でとてつもない違和感。後々この上下逆さまの絵が伏線であったことがわかるのだが、「ああ、この監督はただもんじゃない、なんかやってくれるかも、、、」と期待させるに充分。

 ビルからの飛び降り自殺を調べてた刑事が、同じビルでエレベーター事故が発生してることを知る。故障してないエレベーターがなぜか止まって、中に男女5人が閉じ込められているが、中の状況をモニターで観察していた警備員から、「中の人間同士で諍いが始まったのでちょっと見てくれ」と言われる。

 中盤まで普通のサスペンスなのかオカルト物なのか判らない展開が良い。迷信深い警備員が「これは悪魔の仕業だ、、、」とか言い出すが、刑事は取り合わない。しかし、閉じ込められた奴が次々とロクでもない奴であることが判明し、一人づつ死んでいくのを見るに至って、とうとう刑事も迷信深い警備員に「オマエの故郷の迷信じゃコレ最後どうなるんだ、、、」と訊かざるを得なくなる。

 主役の刑事はテキパキと有能だし(ヒトがドンドン死んでんだからもっと偉い人が出てきてもいいような気はする)、警備員たちも無能じゃないし、閉じ込められた5人の反応と行動もまあ、納得の行くもの。
 ちゃんと練ってある脚本と、シャマラン仕込の丁寧な演出で、まあ、ラストまでツルツルと見せられてしまう。

 が、ラスト地味だよね。
 なんかもうちょっと爆発してくんないと、よく出来たTVムービーみたいな印象。

 それにラストまで観て初めて判るんだけど、これ、別に一人ひとり殺して行ってエレベーター内の人間ビビらす必要なくね?犯人側の意図としては一気に全滅でもいいような、、、

 「シャマランの原案がそうなってから」じゃなくて、その二点をどうにかしないと、単なる(有望な)新人の習作をシャマランのネームバリューで観せられただけになっちゃって、観ちゃったこっちの立場ってもんがない。
 ショージキ、次のナイト・クロニクル作品はよほど注意しないと手を出せませんな。JUGEMテーマ:映画

at 15:22, 空中禁煙者, 洋画

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「SUPER8/スーパーエイト」 「E.T.」フォーマットが余計

 (ナイツ塙の声で)
 「国民の皆さんにまず申し上げたいことは、この映画のタイトルが『スーパー8』だということであります!」
 
 40代以下の人はまずわからないだろうが、スーパー8と言うのはコダック社製の8mmフィルムの規格。日本には富士フィルム製の「シングル8」と言うスグレモノ(まあ、スーパー8のパクリなんだけど)があり、こちらが主流だったような気もするが、やや使い勝手が悪いものの(フィルムを巻き戻せないのでオーバーラップができない)発色の良いスーパー8を好むヒトも居た。家庭用ビデオカメラが普及する以前は、ホームムービーだろうと大学生の自主映画だろうと、これらを使って撮影されていたのであーる。
 
 ストーリーは「地球に不時着した宇宙人が地球人の子供との交流を経て宇宙に帰る」ハナシを映画にしろ、と言われて80年代にスピルバーグが撮ったら「E.T.」になって、30年後にJ・J・エイブラムスが撮ったら「スーパー8」になりました、というようなもんだが、正直、その辺はどうでもいい。宇宙人バナシはむしろ、列車事故は起きるわ街に軍が押し寄せてきてワヤクチャになるわの大騒ぎの中、それども映画を作り続ける(どころかこの騒動を利用したりする)14歳のガキンチョ映画作家どものバイタリティーの際立たせるためにしか無いような扱い。
 いやホント、14歳のガキンチョはしたたかでパワフルです。
 この雰囲気は「E.T.」よりも、むしろミシェル・ゴンドリーの「僕らのミライへ逆回転」に近いよね。
 
 8mm映画を作るガキンチョのハナシがやりたいんなら、もっとストレートにやればいいのに、、、と思うんだが、正直言って今のJ・J・エイブラムスの腕ではそれだけでは面白い映画にならないので、毎度おなじみ「E.T.」フォーマットを持ってきたようにしか見えない。制作にスピルバーグを引っ張り出せたんで誰も「パクリじゃん」とは言わないし。
 もう、見事に映画作りパートだけが面白くて、宇宙人絡みのパートがつまらないのね。殺人宇宙人が街に入り込んでんのに軍の対応がそんな牧歌的でどうすんだよって言う。
 
 ガキンチョ達と宇宙人の絡みもどうでもいいし。せっかく宇宙人が写ったフィルムがあるのにほとんど役に立ってねえし。秘密を守るために軍がガキンチョの2・3人拉致して、フィルムありかを吐かせる、位の展開にしないんなら、「密かに軍が輸送してた宇宙人が、、、」って設定にする必要ないと思うんだよな。
 
 必然的に映画作りに心血を注ぐガキンチョ共のシーンは少なくなっちゃうんだけどさ、コレが凄くいいです。特に、深夜終電が終わった駅でこっそり撮影してたら、何故か走ってきた列車を見て、「コレを写し込めば映画のクオリティが上がる!!」と叫ぶ、監督役のデブ君の設定がいい。いっぱしの映画屋気取り。抜群の才能とリーダーシップがあるにも関わらず、淡い恋には負ける(当然、主役が勝つ)せつなさも泣かせる。
 その淡い恋の相手は天才子役ダコタ・ファニングちゃんの妹、エル・ファニングちゃん。ガキンチョ映画のヒロインに抜擢されて、突然とんでもない演技力を見せてガキンチョ共を震撼させる、などという難しい芝居をして姉に劣らぬ天才ぶりを発揮します。
 彼女や主人公の母親がいない設定なのは、「E.T.」で父親がいなかったことへの裏返しに過ぎないだろとか、スピルバーグへのオマージュのつもりなのか、無駄な要素が多すぎる。そういうのやりたいんなら、せめて映画製作の途上で実現して欲しい。
 
 ビデオカメラに変えれば現代だろうと成立するハナシなんだけど、敢えて時代設定を1979年にしたのは、まさにその時14歳のJ・J・エイブラムスがスーパー8で映画を作ってたからであろうと同時に、ギリギリこの辺が、8mmフィルムがホームムービーの主役足り得た時代だったからではなかろうか。
 日本ではあと5・6年持ったような気がするが、このあと8mmフィルムはほぼビデオに取って代わられるのであった。
JUGEMテーマ:映画

at 11:34, 空中禁煙者, 洋画

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「マイ・バック・ページ」 川本三郎氏が実話で「関係者の言い訳ムービー」に参入

 「突入せよ!あさま山荘事件」や「クライマーズ・ハイ」と同じ印象。
 まだ生きている原作者が事件の当事者であるハナシは、必然的に言い訳臭くなってしまう。

 この映画で、オレにとって顔と名前が一致しない役者さんたちは、全員70年前後の雰囲気を出せていると思う。コレに対して顔と名前が一致する役者さん5人のうち二人、ブッキーとマツケンは、見事に70年代の雰囲気を出せてない。コレはオレがたまたまこの二人が現代に活躍してる役者さんであることを知っているせいで、今のイメージに引き摺られているのだとは思いたくない。この二人だけヘアスタイルが今風なのだ。ちょっと分け目を作るだけで格段に70年の雰囲気になるのになぁ、、、やっぱスターだからダメなんですかね、、、ちなみに残り三人のうち一人はオレが顔と名前が一致するにもかかわらず70年前後の雰囲気を出せている。あがた森魚だ。もう一人、三浦友和は分け目があるにも関わらず失敗してる。

 ある雑誌記者(まあ、若き日の川本三郎氏)が、左翼活動家にコミットしすぎた挙句、殺人事件を犯した活動家の事後重犯になってしまい、出版社を首になるハナシ。

 犯人役のマツケンはもともとこの世代では抜群にうまいし、記者役のブッキーも「悪人」では「実は上手いんだなぁ、、、」と思ったが、さすがにコレは荷が重かったかなぁ、、、と言う感じ。

 ブッキーは上司や同僚に声高にジャーアナリストの理想論を語るが、どうも迫力不足。もうちょっと人物造形とか演技プランをちゃんとやればブッキーなら出来そうな気がするだけにちょっと隔靴掻痒感が否めない。

 マツケンは、今、この役ができるのは多分マツケンしかいないのだろうと思うが、さしものマツケンをしてもこのオトコの二重性は表現できていない。そもそもこのオトコが

1.嘘や殺人も含めて本当に革命に寄与すると信じて行動している。
2.サイコパスといっても良い病的な嘘つきで、嘘も殺人もなんとも思ってない。
3.はやりの左翼活動に乗っかってオトコを上げるためにヒリヒリしたものを感じながら嘘を付いている。

のどれだか解らない。
 ストーリーの構成上、多分1.はないと思うが、2.だった場合、マツケンの演技は明らかに狂気不足。
 3.だった場合(オレは多分コレだと思ってる)、例えば「幻滅しました、、、」と言っているとき、本当に幻滅したのか、心のどこかにヒリヒリしたものを感じながら、「(オレ、今嘘つかなきゃ、、、)」と思いながら「幻滅しました、、、」と言っているのか、今のマツケンの演技力では区別出来なかったようだ。

 昔、故伊丹十三氏が、「日本の役者はサラリーマンの役が下手」と言っていた。サラリーマンというモノはいつも本当の自分と「サラリーマンとしての自分」を演技して使い分けているものであり、この、その辺のサラリーマンが普通にやっている二重性が、日本の役者には表現できない、と言うことだった。
 要はこういう事だろう。
 マツケンの演技力を持ってすれば、革命家だろうとサイコパスだろう詐欺師だろうと簡単に演じられるが、嘘で塗り固めた挙句、人生自体が嘘になってしまったオトコの二重性は荷が重かったのだろう。
 いや、もしかするとその辺は監督や脚本家ですら曖昧なママ撮影しているのかも知れない。

 そんな中、顔と名前が一致する最後の一人、忽那汐里ちゃんだけは、見た目は現代の美少女のままであるにもかかわらず、なにやら圧倒的な存在感で役に拮抗できている。
 大きな瞳でブッキーを見つめる眼差しは、確かに何事も真剣に受け止める70年代の少女を表現できているような気がした。

 全体に他の役者さんたちは70年代の雰囲気を出せているし、長回しを多用した役者の整理を捕まえようとする演出が、丁寧な印象を与えるだけに、主役二人のフラフラした感じが残念。

 と、思っていたのだが、終わり近くになって、なんとなく、何故ブッキーをキャスティングしたのか解ってきた。
 結局このブッキーは犯人から預かった犯行時の証拠を燃やしてしまい、証拠隠滅の罪に問われるのだが、ブッキーの指導者的立場にある先輩記者から「何故燃やしたんだ?」と訊かれて、「なんか気味が悪かったんですよ」と答えるのだ。

 んなわきゃーない。

 そもそも証拠を預かる前からブッキーはマツケンが嘘つきであることが解っているような描写がなされていて、最終的に「なんで信じちゃったんだろうな、、、」などとホザくのだが、実際には証拠を燃やした時点ではマツケンが革命戦士だと信じていて、彼を助けるために証拠を燃やしたに決まっている。
 この辺が、もう、イイ訳くさいというのだ。
 この腰の座らなさ、曖昧さをリアルなものにするためのブッキーなのではないか。
 そう思ってみると、ブッキーは見事に期待に答えている。全体の演出プランにあった芝居ができている。
 
 さらに。
 ラストカットでブッキーは驚くべき演技力を見せるのだ。まさに一世一代の大芝居だ。
 正直言ってオレはブッキーがここまでやるとは思わず、ぶったまげてしまった。
 会話の相手を画面から外して声だけにし、じっくりブッキーの芝居を見せるカメラワークといい、このカットでバッサリ終わる印象的な構成といい、このラストカットは歴史に残るかも知れない。実を言うとここにこの芝居を置いた意味がまた言い訳臭くて白々しいのだが、そういう思いがなかったら、観ていて泣いたかも知れない。アブナイアブナイ、、、

 忽那汐里ちゃんは週刊誌の表紙モデルの役。ラストカット前のナレーションで、彼女がメジャーになってドラマに数作出た後、「死んでしまう」と伝えられるが、モデル(この場合のモデルは表紙モデルじゃなくて実在する人物ね)となった少女は、どうも共演の男優と恋愛問題でモメて飛び込み自殺したらしい。この時共演していたのが、後に石原真理子や水沢アキにレイプまがいの関係を持ったことで有名になった森本レオ。
 こっちのハナシメインにしたほうが面白くなったかも、、、JUGEMテーマ:映画

at 18:53, 空中禁煙者, 邦画

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「遮断-警視庁失踪課-高城賢吾」 キャラの行く末が気になってつい見ちゃう連ドラのよう

 全然終わってなかった失踪課シリーズ。
 相変わらず惰性で読んでしまったが、前作よりはだいぶマシ。ミステリーとしても、トリックとか意外な犯人とかは特に無いんですが、サスペンスはある。とりあえず(値段分かどうかはともかく)読んだ時間分は楽しませてもらった感じ。

 失踪課のお荷物、六条舞の父親である高級官僚が行方不明になる。当初単なる失踪と思われ失踪課が出張って行くが、2日も経ってから身代金要求の脅迫電話がかかってくる。2日も経ってから「数時間後に一億円持って来い」と言う非現実的な要求から、高城は悪戯と断ずるが、、、というハナシ。

 脅迫劇には意外な意味があったり、高城が失踪者本人に散々振り回されたり、読ませることは読ませる。誘拐事件なので本庁が出張ってくるのだが、本庁の面々がまた個性的だったり、今回失踪課第一方面の有能な同僚が登場したり、相変わらず人物描写で読まされてしまう。
 
 前回と同じ結論になってしまうが、結局、堂場瞬一はミステリーには興味がないんだろう。
 今回も、「脅迫電話をかけてきた奴らはそもそもどうやって脱税の事実を知ったの?」とか、ミステリーとして大事な部分をヘーキで無視してくれる。
 失踪課のメンバーが絡むハナシも2本目であり、結局、キャラクター小説と言うか、群像劇みたいなものになっていくのだろう。
 先行する「鳴沢了シリーズ」は鳴沢が警察署を転々とするために、レギュラーメンバーを固定できない設定だったが、結局デブの相棒とか女探偵とか恋人と息子とか、徐々に準レギュラーの顔見せ興行みたいになって行ったので、だったらいっそ最初から固定メンバーで各々を掘り下げるか、と言うことなのではないか。
 今回はなんと失踪課内で恋愛が生まれそうな雰囲気を匂わせていて、コレは目が離せないなぁ、という感じ(まんまとノセられてるじゃねーかッ!!)

 結局、10年前に失踪した高城の娘問題が解決するまでは、読み続けざるを得ないんだろうなぁ、、、
JUGEMテーマ:小説全般

at 10:06, 空中禁煙者, 書籍

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「AVN/エイリアンvsニンジャ」 ハリウッドでリメイクされる為のパイロット版にしか見えない

 日活が最初から海外市場目当てに、「ガイジンの考えるニッポン」をイメージした作品を作らせるために作ったレーベル、「SUSHU TYPHOON」の一作。なんか井口昇監督の「片腕マシンガール」の頃にも似たようなこと言ってたけど、、、

 「AVN」などといかにも「AVP(エイリアンVSプレデター)」を連想させよう連想させようとするセコいタイトルをつけているが、要は最初の「プレデター」をやっている。南米のジャングルで米国特殊部隊とエイリアンが遭遇する設定を戦国時代の日本に変えて、米国特殊部隊を忍者に変えているわけだ。
 
 冒頭の忍者同士のアクションはさすが千葉誠治監督(と下村勇二アクション監督)、相変わらずアイデアいっぱいの殺陣とシャープなカッティングでワクワクさせる。
 が、エイリアンが出てきた瞬間、その造形のセコさに心底ガッカリしてしまう。
 「プレデター」で24年前、「エイリアン」で32年前だが、いったい日本人はこの間何をしていたのかと言われても仕方がない。
 「かけられる金が違うよ」というかも知れないが、「エイリアン」だってスタッフ・キャスト共に当時有名な人は誰もいない、海のものとも山のものともつかないシロモノであって、アレに大金引っ張ってくるのがプロディーサーの才能というものだ。
 それでもアメリカと日本じゃ事情が違うよと言うのなら、そこを知恵と力と勇気でどうにするのがこのレーベルの使命ではないのか。特撮にもデザインにも金がかけられないのなら、いっそ人間型のエイリアンでも何でもいいではないか。エイリアンと言えばグロくてヌメヌメしてんだろみたいな「エイリアン」以来のパブリックイメージにだけは色目使いやがってからに、ホント、恥ずかしく無いのかと思う。

 「プレデター」は圧倒的な科学力と身体能力を誇るプレデターに対し、特殊部隊の戦士がどこまで対抗できるか、で見せる映画だった。特殊部隊の持つ火器がほとんど役に立たなくなったとき、頼りになるのは、知恵と体力のみ、と言うハナシで、コレに説得力を持たせるのがシュワちゃんの肉体だったのだ。
 で、今回は忍者である。忍者の身体能力と奇想天外な忍術でエイリアンに対抗できるのか、と。
 なるほどコレは面白くなる。面白くなるに決まっている。
 が、逃げましたね。
 もう、忍術でどうやってエイリアンに対抗するか、考えるのがメンド臭くなったんだろう。もう、完全にお笑いに逃げてる。エイリアン側で人間に合わせて刀による殺陣を見せてくれたり、もう、ホントうんざりだ。せっかく思いついた面白くなること必定の設定なのに、まじめにヤル気がないんなら設定を浪費するのはやめて、いっそ作るのやめて欲しいとさえ思う。

 昔、「戦国自衛隊」と言う映画があった。平岡正明によればコレは、「女湯に乱入した暴漢が、石鹸で足滑らして頭打つわ、数を頼みに女どもにボコられるわ、散々な目に遭うハナシ」であって、圧倒的な火力を誇る自衛隊に、戦国の兵士たちがどうやって勝つかをシミュレーションした映画だった。戦国時代に自衛隊、など言うアホな設定でも真剣に考えればちゃんと面白くなるのである。戦国武将と自衛隊などと言う、両方共どの程度のものか我々に解っているものより、エイリアンと忍者などという強さの調節が自由に効くモノの方がよほど簡単だと思うのだが。

 唯一の見所は現在のB級アクション映画のヒロイン、肘井美佳ちゃんのセクシーアクションくらいなのだが、コレもなぁ、、、
 千葉誠治監督は相変わらずこういうところは真面目であって、あんまりセクシーじゃないどころか、セクシー絡みになると急に演出のキレも悪くなる。難儀だなぁ、、、
 千葉政治監督、「忍邪」「女忍 KUNOICHI」と三作見続けてきて、だんだん悪くなってるのが気になる。

 公開してすぐハリウッドリメイクが決まったというのがご自慢らしいが、要はアイデアは素晴らしいがショボすぎてアメリカでは公開できないと言う事ではないのか。
 もし、ハリウッド版も千葉誠治監督で、こんどこそまともなものを作る、コレはそのためのパイロット版に過ぎない、と言うのなら、そのしたたかさに脱帽するが、、、
JUGEMテーマ:映画

at 16:50, 空中禁煙者, 邦画

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「MAD探偵 7人の容疑者」 犯人じゃなく探偵がサイコなサイコミステリー

 あまりにも才能がありすぎて自分でも収拾がつかなくなっている(ように傍目からは見える)ジョニー・トー2007年の作。

 「MAD探偵」などとフザけた題名(原題も「MAD DETECTIVE」)で「お笑い映画か?」と思わせておいて、実はどシリアスな内容なのは「マッスルモンク」と同じ。普通のヒトには見えないモノが見える探偵が殺人犯を追い詰めるハナシなので、ほとんど同じハナシと言っても良いかも知れない。いや、「マッスル・モンク」と同じワン・カーファイとの共同監督なので、これはワン・カーファイの個性なのかも知れない。

 「マッスルモンク」はヒトの因果が見える坊さんのハナシだったが、今回はヒトの思考が別人格として眼に見えてしまう元刑事のハナシ。
 例えば、万引きしようかどうしようか迷っている女子高生が、彼には元の女子高生と万引きをそそのかす悪い友人の二人に見えてしまう。彼には悪い友人が自分だけに見えているのかどうか判断がつかないので、悪い友人に向かって「悪事をそそのかすな!その子をほっとけ!」と怒鳴ってしまい、一緒にいた妻から「他の人には見えてないのよ、、、」とたしなめられる始末。
 要するにMADなヒトにしか見えないのね、他人には。

 彼は不思議な能力で難事件を解決してきた名刑事だったが、あまりにも奇矯な行動が祟って今は警察をやめている(どうやって食っているのかはよく解らない)。
 そこに難事件(行方不明になった刑事が拳銃を使って強盗殺人まで犯している)を抱えた昔の部下が先輩のチカラを借りたいんですが、、、と訪ねてくる。もう事件には関わらせたくない妻の猛反対を押し切って、難事件に挑むが、、、と言うハナシ。
 ココで実は反対する妻すら他人の目には見えていない(後輩刑事には一人で虚空に向かって怒鳴っているようにしか見えない)ことが明かされるショック、、、上手いなぁ、、、

 このMAD探偵、最近のジョニー・トー組では見ない濃い顔の二枚目だな、、、と思ったら、なんと「ヒーロー・ネバー・ダイ」や「暗戦/デッド・エンド」等90年代末期のジョニー・トー作品を支えたラウ・チンワンであった。髭剃って髪伸してすっかり痩せちゃって全然見違えたわ、、、

 行方不明になった刑事の相棒が怪しいと睨んだMAD探偵は、この刑事が7種類の人格に分裂している事を知る(コレが「7人の容疑者」の意味ね)。ちゃんとMAD探偵には7人いるように見えるのね。冷酷なオンナ、粗暴なオトコ、食いしん坊なデブ(毎度おなじみラム・シュー!)とか。
 
 MAD探偵はMAD極まりない捜査を続け、後輩刑事はそのあまりのMADぶりに「コ、コレはしまったかな、、、」とおののき始める。
 この辺でもう、観客には事件の真相は問題じゃなくなり、MAD探偵のMADぶりと悲しみ、そしてMAD探偵の目を通して描かれる人間の本性みたいなものが映画を引っ張り始める。特に「他人には見えない妻」については、このあとも二重三重の仕掛けが隠されていて、心地よい衝撃と共にどんより悲しい気持ちにさせられます。
 しかし一方ではジョニー・トー映画なので、美しい映像でシャープなアクションを切り取ってみせる。捜査の合間に後輩刑事の婚約者も交えて「4人」で夜のテラスで食事をするシーンの美しさなど、このシーンの脚本の上手さと相俟ってホレボレしてしまう。

 とは言うものの、じゃあ歴史に残るような名作なのかと言うとそうでもない。かと言って端に上質なプログラムピクチャーなのかというとそれも違う。MAD探偵の立ち位置と同じく、なんとも微妙な輝きを見せる、不思議な立ち位置の映画です。
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at 17:58, 空中禁煙者, アジア

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「ザ・タウン」 イケメン俳優による「ヒート」ごっこ

 どう考えても好きなタイプの映画なんだが、監督がベン・アフレックと聞いて敬遠していた一作。洋の東西を問わず、イケメン俳優が監督した映画なんて面白いわけがない。
 が、結構評判がいいようなので慌てて観てみました。

 
 まあ、思ったよりはマトモ。
 だけど宣伝コピーの段階で「怒涛の銃撃戦!まさに『ヒート』の再来!!」っつっちゃってんだけど、それって言い換えれば「ヒート」のパクリって認めちゃってるんじゃ、、、

 手練の強盗団のリーダーが素人オンナと恋に落ちたり、イヤイヤ引き受けた最後の仕事でFBIのやや強引な腕利き捜査官と対決したりするハナシ。ってモロに「ヒート」じゃねーか!!「ヒート」のアル・パチーノはLAPDだったかな?

  
 全米一強盗の多い街チャールズタウン(ベン・アフレックの故郷らしい)が舞台になってるのがかろうじて新味かな。「ヒート」はムショ仲間のハナシだったが、コイツらは幼なじみなのだ。リーダー(ベン・アフレック)はお父さんも強盗だし(服役中)、もう、当たり前のように強盗してる。


 強盗の斡旋屋との関係やラストの主人公の脱出方法が「レオン」だったり、なんとなく色んな映画をちょこちょこパクりながら、概ね「ヒート」のように映画は進む。
 が、ラストでこういう映画の定型を崩したのにはちょっと感心した。「ヒート」とも「レオン」とも、「エネミー・オブ・アメリカ」とも、この手の映画の元祖とも言うべき「ハイ・シェラ」とも違う。
 ああ、なるほど、こういう終わり方もあったか、と言う感じ。甘いといえば甘いが、この方がハード・ボイルドと言われればそんな気もしてくる。


 キレやすい相棒の役で「ハート・ロッカー」のジェレミー・レナー。このヒトは普通にニコッと笑っているだけで内心「こら、舐めとったらオドレ殺してワシも死んだんぞ」と思っている感じ(が出せる上手い役者である)。もう、画面に写っているだけで何をするかわからない強烈な印象を残します。
 主役のベン・アフレックが凄腕の強盗団リーダーと言いながら、優柔不断なツッコロバシに過ぎないのは残念。
 「ヒート」のロバデニと比べたら可哀想だが、監督するのに忙しくて自分の演技プランまで手が回らなかったのかも知れない。いっそ役者は諦めて監督業に専念したほうがいいのかも知れない。

 しかしクリストファー・ノーランも「ダークナイト」は「ヒート」だって言ってたし、「ヒート」って名画なんだねぇ、、、公開当時は「2大スターだよりの大味なギャング映画だな、、、」くらいにしか思わなかったんだけどねぇ、、、
JUGEMテーマ:映画
 

at 18:50, 空中禁煙者, 洋画

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