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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「火星ダークバラード」 火星の女性版「AKIRA」

 実を言うと女性作家が苦手だ。グイン・サーガ全巻読破しといていまさら女性作家が苦手もないだろうと言われれば一言もないが、同じストーリーを描いていても、興味のある所が違うというか、なんでそんなところを掘り下げるのかよく解らなくて退屈してしまう事がよくあるのね。
 原因は主に「愛」についての態度だろうと思う。女性作家は何について書いていても、結局「愛」
について書いているのではないか、本当に興味が有るところはそこではないのか、と思ってしまうことがよくある。「愛」と劣情の区別がつきにくいオトコは(オレだけ?)「愛」をそんなに重要視(時に神聖視していると思える時すらある)されてもなぁ、、、とだんだん退屈になってきてしまうのである。
 なんかエライ差別的な言辞を吐いているような気もしてきたが、とにかく女性作家は読み難いと言う偏見がオレの中にはあり、なんとなく避ける傾向があるのだ。
 
 とは言うものの、21世紀の日本SFを抑えておこうとすると、どうもこの上田早夕里氏らしいのである。小松左京賞に「SFが読みたい!2011年版」の国内編一位である。もう、とりあえずおさえておくに越したことはないのである。
 
 そんなわけで小松左京賞受賞のデビュー作から。
 
 読み始めてすぐ、ははぁ、コレは大友克洋の「FireBall」だな、と思うが、中盤くらいまで来て、やっぱ「AKIRA」だな、と思う。
 遺伝子操作によって人為的に作り出された超能力を持つ少年少女達。その中の最も優秀な一人が、科学者達の制御を離れ、やがて自分自身でも制御できなくなりカタストロフへと向かう、、、
 ストーリーの骨格だけ取り出すとそっくりではないか。
 違いは超能力者がとびきりの美少女で、彼女が能力を自分で制御するのを手伝うのが中年のオジ様(まあ、がさつなハミ出しデカだけど)ということだろう。アキラも鉄男も金田も男だが、ここで異性を持ってきたことは重要だ。
 
 更に舞台はパラテラフォーミング(惑星全体ではなく一部をテラフォーミングすることをこう呼ぶらしい)された火星。
 この、パラテラフォーミングされた火星の描写はハードSFの匂いをプンプンさせて、女性作家で有ることを忘れさせる。
 火星の衛星が軌道エレベーターのために邪魔になるので、破壊することも資源として食い尽くすことも可能だったが、「観光資源」として残した、等と言う発想は恐れいった。センス・オブ・ワンダーってこういうことだよなぁ、、、などと思う。
 
 ストーリーはハミ出しデカを主人公にしたミステリー仕立てになっていて、超能力少女は謎を解くキーとして登場してくるのだが、全体としてミステリー要素とハードSFが有機的に結合してクライマックスになだれ込む構成に、ほとほと感心した。
 ミステリー要素も主人公のキャラクターと密接に響き合い、一瞬足りとも遅滞しない。
 デビュー作からエラく手練な新人さんなのである。
 
 厳密に言うと超能力少女たちを作り出している科学者の動機が、なんか納得いかない(外惑星で活動できる能力を手に入れることと、モラルの向上は関係ない気がするなぁ、、、)とか、「AKIRA」や「FireBall」を連想させる割には、ラストちんまり収まったなあ、、、とか、いろいろ不満がないでもないんだが、デビュー作でこの完成度は、SF界の心胆寒からしむるに充分ではあったろうと思わるれる。
 
 まあ、ラストがね、「FireBall」のようなとてつもないカタストロフにも、「AKIRA」のような新世界への希望にもならない。結局「愛」の物語に収束しちゃうのね。
 この、くどいラストを読んで、「ああ、そう言えばオレ、女性作家の作品読んでたんだっけなぁ、、、」と想い出すのであった。
 
注)ハードカバー版と文庫版はラストが違うそうです。今回オレが扱っているのは文庫版であることをお断りしておきます。
JUGEMテーマ:小説全般

at 22:47, 空中禁煙者, 書籍

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「アウトレイジ」 北野監督初のエンターテインメント映画

 ご存知のとおり北野武監督は過去何度もヤクザの登場する映画を撮ってきた。持ち芸のひとつと言ってもいいだろう。ここ数作はやや迷走状態に陥っていた北野監督ではあったが、ココで得意の暴力映画に戻ってきた、という訳で喝采を叫ぶ声も多かったし、事実ここ数作の中では抜群に面白い。
 でも、なんか今までのたけしヤクザ映画とはどこか違う。

 もちろん所謂「北野組」の俳優を使わず、ご本人以外ほぼ北野組初参戦の役者ばかり集めているせいで、印象が変わったのもある。
 だが、それだけじゃない、何かが違う。

 今までたけしヤクザ映画はどこか「自分の中にある衝動を映像化しようとすると暴力的になってしまい、結果としてヤクザを出さざるを得ない(ヤクザを出したほうがハナシが速く済む)」と言う印象だったのが、ここへ来ていよいよ「ヤクザそのもの」を描いた、と言うことか。
 しかも個々のヤクザの生き様というよりは、イキナリ暴力団という組織の在り様にスポットを当てて来た。
 北野組初参戦の三浦友和、國村隼、石橋蓮司、椎名桔平、加瀬亮と言った役者たちの(北村総一朗はどうかと思う)熱演によって、それぞれ個性的で一癖も二癖もありそうなキャラクターになっているが、何しろ登場人物の多い群像劇なので、個々のキャラクターを掘り下げている暇はない。
 今回は上に挙げた五人以外も、末端に到るまでみんな良い(北村総一朗と小日向文世以外)。

 強いて言うなら今までのたけしヤクザ映画は、自らの内面に潜む衝動を映像化した芸術作品だったが、今回はエンターテインメントに振ってきたということか。
 実際この映画はある意味「仁義なき戦い」の三作目以降に似ている。敵対する組織同士の戦いを描くのではなく、姑息なトップのせいで内部抗争に陥っていく組織を描いているという意味ではソックリと言ってもいいし、北野監督は絶対意識してると思う。
 オレが北村総一朗に納得がいかないのは、多分この役に金子信雄の影を見てしまうからなのだ。ああ!この役が金子信雄だったらどんなにハマるだろう、、、
 他にも三浦友和→小林旭だし、たけしが菅原文太だとすれば、椎名桔平は伊吹吾郎かも知れない。

 とは言うものの、この映画にも一箇所強烈に北野監督の内面を感じさせる展開がある。
 北野映画といえばヤクザものに限らず、滅びの美学を感じさせるものが多い。
 「その男凶暴につき」以来、たけしが演じたキャラクターはいつもどこかで自らの終末を予感し、その予感を楽しんでさえいるように見える。
 今回もたけし演じる三次組織の組長が、自分のオヤに裏切られたと知って以降しばらくの展開は、ほとんど懐かしさすら感じるような滅びの予感に満ちている。
 が、その先の展開は我々の予想を裏切る驚くべきものだ。
 コレがエンターテインメントということなのか、それとも北野監督の心境の変化なのか。

 バイク事故で死にかけたあと、たけしはしきりと「オレはもう、死ぬのなんか全然怖くない」と言っていた。あれから17年。北野武監督、再び死ぬのが怖くなってきたのであろうか。
JUGEMテーマ:映画

at 19:26, 空中禁煙者, 邦画

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「大陸横断超特急」 伝説のオモシロ映画、祝レンタルDVD化

 学生の頃テレビで観て「おんもしろい映画だなぁ〜、、、」と思ってはいたものの、その後巡り会う機会がなかった。数年前にDVDで出たので、買おうかどうしようか迷っているうちに、近所のビデオ屋にレンタル版が出たので慌てて借りて来て鑑賞。7泊8日に落ちてない映画を借りるのは何年ぶりか。看板に偽りありですな。
 
 主演がメル・ブルックス一味のジーン・ワイルダー、相棒役がリチャード・プライヤーと言うくらいで、基本的にはコメディなのだが、スリルの連続でサスペンス映画としても、ラストにとんでもないカタストロフを用意することで、パニック映画としても成立してる。二兎を追うもの一兎をも得ず、どっちつかずの中途半端なものになりがちだが、ちゃんとどの角度から見ても面白くなっているのはさすが。この時代のハリウッド映画人達の底力のようなものを感じる。
 
 たまにはゆっくり旅を楽しみたいと、飛行機ではなく敢えて大陸横断鉄道に乗り込んだ編集者が、車内で美術史をめぐる殺人事件に巻き込まれるハナシ。
 主人公の職業がサスペンスの主人公に全くふさわしくないのがミソ。
 荒事は全く不得手だが、旅の初日にデキてしまった美術史教授の秘書を守りたいためだけに、文字通り東奔西走する。
 正義も金も関係ない、ほとんど悪に対する怒りすらない。ただ、カワイ子ちゃんを守りたいだけ、というのが、ごく普通のサラリーマンらしくて良い。
 カワイ子ちゃんは次の「結婚しない女」で大ブレイクする、知的美女ジル・クレイバーグ。下手すると尻軽女になりかねない役を、下品にならずに演じてます。
 悪役は、オレにとっては「プリズナーNo.6」の、パトリック・マッグーハン。軽くなりがちな映画を一方でシメているが、ここにこの大物を持ってきたせいで、ラストの無茶な行動がちょっとリアリティ不足になってるかもしれない。
 
 列車の中だけですべてが進行するかと思いきやさにあらず、主人公は何度も列車から落とされてしまい、そのたびにあの手この手で列車に追いつきまた乗り込む。この右往左往ぶりがまた面白いのだが、この辺の呼吸がスティーブン・セガールの「暴走特急」の元になってるのは間違いがない。
 さらにこれは確信はないが、一度落とされてその辺にいたおばちゃんの複葉機に乗せてもらうくだりは、「カプリコン1」のテリー・サバラスのくだりの元になってる(「カプリコン1」は1977年で「大陸横断超特急」の次の年。
 
 オレが昔テレビで観たときは当然吹き替えで、ジーン・ワイルダーの声はいつもどおり広川太一郎だった。今回のレンタルDVDも、パッケージで「ファン待望の!」と謳っていて、広川太一郎版の吹き替えが入っていることが売りになっている。
 確かに列車から落とされるたびに「まただモノ!」と叫ぶジーン・ワイルダーがいなかったら、この映画のコメディとしての魅力は半減してしまうような気もする。コレ、アメリカ人はリチャード・プライヤーのセコイ泥棒ぶりくらいしか笑うところないんじゃかなろうか、などと言う気すらしてくる。
 広川太一郎の吹き替えはTV版しかないので、テレビ放映時にカットされていたシーンは急にオリジナル音声と字幕になってしまうのだが、それでも吹き替え版しか観る気がしない。
 
 きっと映画史に残るような映画ではないのだろうが、観たヒトみんなが「面白い映画があった、、、」と口づてで語り継ぎたくなるような映画だと思う。 
JUGEMテーマ:映画

at 23:47, 空中禁煙者, 洋画

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「息もできない」 合言葉は「シヴァノヴァ!」

 このチョビ髭のあんちゃんが脚本監督編集から制作まで兼ねていると聞いて、かなり荒い映画なのではないかと思ったが、意外や非常に丁寧な描写と丁寧な設定を持った繊細な出来であった。
 役作りでチンピラ風にしてるだけで、実は意外とインテリなのかも知れん。

 ストーリーの骨格は意外にシンプル。要するに複雑な家庭事情を持ったロクデナシのチンピラが、同じく複雑な家庭事情を持った女子高生と知り合い、手も触れない清い交際を続けるうちに、二人とももっと前向きに生きる決心をする、と言う、裕次郎とルリ子だか渡哲也と吉永小百合でも有ったようなストーリー。
 たったこれだけの事なのだが、この二人に複雑な設定を付加することによって物語に深みと象徴性を持たせ、あまりにも持たせてしまったがために一瞬ファンタジーのようになってしまうところを、役者の演技力と丁寧な演出でとんでもないリアリティーを持たせることにも成功してる。
 大したものだ。

 チンピラと女子高生の「複雑な家庭事情」は実は似かよっていて、どちらも母親は既に悲惨な状況で亡くなっており、父親は厄介者である。
 そもそもチンピラの父親は自分の娘(チンピラの妹)を殺した尊属殺人犯であり(状況から言って罪状は傷害致死かも)、妻の死にも責任がある。最近やっと出所してきてチンピラと二人で暮らしている。
 女子高生の母親は数年前にヤクザに殺され、父親はベトナム戦争以来時が止まったボケ老人になっている。
 二人はお互いの共通項を知らないまま、魂が共鳴したかのように逢瀬を重ねる(女子高生はお嬢様だって嘘ついてる)。

 実は二人には共通項以外にも過去の因縁があるのだが(別に血が繋がっているとかではない)、コレも二人は気付いてない。この因縁はこの映画の重要なテーマであることがラストで解るようになっており、女子高生の父親がベトナム戦争に行っていたことはこのテーマのヒントになっている。
 なかなかどうして、周到な映画なのである。

 チンピラには姉がいて、コレは一応過去を振りきって(ダンナとは離婚したが)、幼い息子を育てている。
 女子高生には弟がいて(コレ、公式サイトですら「弟」」って書いてあるけど、どう見ても兄なんだけど、、、チンピラの子分(高校を卒業してると言ってる)の同級生なわけでしょ?役者の年齢も女子高生のほうが若いし)、コレがまた姉に金をせびっては遊んでいるロクデナシだ。

 お気づきであろうか。オトコは全員ロクデナシで、オンナは全員(故人も含めて)しっかり者の世界なのだ。
 監督自身が気づいているかどうか解らないが、コレがおそらく監督自身の実感なのだろう。
 世界はロクデナシのオトコとしっかり者のオンナで出来ている。
 映画の最後まで二人はついに肌を合わせることがないが、ただ一回だけ、布一枚を通してお互いの温もりを通わせるシーンがある。このシーンでこの歳の差カップルの年齢差は逆転してしまう。
 ココでの女子高生はまさにチンピラにとって失われた母性を体現しているのだ。
 イキオイに任せて作っているように見えて、実に緻密な計算の上に成り立った構造を持っているのだ。

 チンピラの兄貴分は唯一の例外っぽくも見えるが、やっぱりロクデナシだ。何くれとなくチンピラを気遣いチンピラを庇っているが、何しろチンピラが見せる全ての暴力は全てこのオトコの指示によるもので、兄貴分は右翼の暴力装置としての役割や、高利貸しの取立てを請け負う会社の経営者なのだ。
 とは言うものの、このオトコがラストで見せる複雑な感情はやはりこの映画のキーであり、この役者さんも見事にこの複雑な役柄を演じきっている。このヒトがヘタだったらこの展開な成り立たないなぁと言う感じ。

 全体的に演出は丁寧なのだが、特にラスト近くでちょっと時系列を前後させるテクニックには舌を巻いた。やっぱりかなり知的なヒトなんじゃないかなぁ、、、

 などとやたら褒めてますが、実を言うとコレがとんでもない傑作かというとどうかなぁ、、、という気もするのね。
 2010年のベスト1に押す意見も多いようだが、2010年が不作の年ならコレがベストでもいいかなぁ、、、と言う程度。
 どうもなんか突き抜けたところがないというか、意外に予定調和の世界に落とし込んだなぁと言うか、、、
 スゲエ!!と思わせるためには、なんか構造をワヤにするくらいの突き抜けた展開が必要なんじゃないかと思う。
 ラストで見せる女子高生の表情には、なにか突き抜けるための萌芽のようモノを感じたんだが、結局それも後の祭りといえばそのとおりで、つくづく緻密に作られてるなぁ、、、と言う結論に蟻地獄のようにはまってしまうのであった。

注)タイトルの「シヴァノヴァ!」は劇中クドイほど繰り返されて、意味も正確な発音も判らないながら、やたら耳につく言葉。字幕では「クソ野郎」になってました。
JUGEMテーマ:映画

at 20:30, 空中禁煙者, アジア

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「ふしぎなキリスト教」 僕らに一神教は解らないということが解る

 「欧米を理解するためにはキリスト教を理解しないとダメだ」と言う、明治時代からあって未だに全く実現出来ていない論理に基づく啓蒙書。
 日本を代表する、かどうか分からないが、とりあえずそこそこ名前の売れてる社会学者二人の対談形式で、分かりやすく解説しよう、と。
 やってる本人たちもまさかコレがこの試みの最初だとは思っちゃいまいが、なんとなく、今、この時代にあえてイマサラこのテーマで世に問う!と言う気概が、装丁、タイトルに感じられませんな。
 まあ、今まで何度やっても成功しなかったことが成功すればたいした事なわけで、果たして我々にキリスト教を通して欧米人の思考法が理解できるようにできたかどうかで評価されるべき書物なわけですが、、、

 例えば、「奇蹟と科学は矛盾しない」と言うハナシが出てくる。
 我々キリスト教徒じゃない日本人は、なぜ神やイエスの起こした奇蹟と科学を同時に受け入れられるのか、なんとなく理解出来ないが、コレは一神教に対する無理解である、と決めつけられてしまう。
 キリスト教は呪術を否定する。
 世界は呪術的な法則では動いていない。
 世界は神が創造したあと、完全に合理的、科学的法則に則って動いている。
 呪術の入り込む隙はない。
 神の奇蹟とは、この世界を動かしている完全に合理的で科学的な法則を、一旦神が停止することなのである。
 従って、神の奇蹟と科学は矛盾しない。

 えーっと、、、
 それって権威の問題だけで、別に呪術と変りないんじゃ、、、
 まあ、本人たちも「ここは日本人には解り難い」とは言ってる。
 それを解りやすくするのがオマエ等の仕事ちゃうんかとも思うが(オマエ等自身内心腑に落ちてないんちゃうんかとも思うが)、100歩譲ってここまでは良い。ここまでは許す。問題はその次ぎだ。

 大多数のキリスト教徒は「科学を尊重し、科学と矛盾しない限りにおいて聖書を信じる」んだと。
 イヤイヤイヤイヤイヤいやイヤイヤイヤちょっと待て。
 それイキナリさっきのハナシと矛盾してませんか?科学と奇蹟は矛盾しないっつっといて、そのすぐあとで矛盾があること認めちゃってんじゃん。
 さらに、コレに対していわゆる福音派は「聖書と矛盾しない限りにおいて科学を信じる」って立場で、橋爪大三郎先生は、コレが「ある意味そっくりだ」っつってんのね。
 この場合の「ある意味」は単語を入れ替えただけで文型がそっくり、なだけで、立場としてはそっくりどころか180度逆だと思うんですけど、、、これを「そっくり」って言っちゃうのはちょっと誤解を呼ぶと思うんですけど、、、
 で、そんなわけでこの二つの立場共に科学と矛盾してないって断言しちゃってる。
 えええええええエええーーーーーッ!!!
 矛盾してんじゃん。どちらの立場ともに都合の悪いところは忘れた振りするっつってるだけで、普通それを「矛盾してる」というのでは?

 なにコレ。
 正直言って橋爪大三郎先生は博覧強記のボケ老人にしか見えない。
 それに一生懸命合わせてる大澤真幸までバカに見える。
 全体で三部に分かれてるうちの第一部でこの始末だ。この先一体どうなるのかと不安にならざるを得ない。

 例えば後半出てくる「予定救済」とキリスト教徒の勤勉さに対するやや倒立したロジックなどは、正直非常に感心したりもした。ハハァ、なるほど、と言う感じ。ボケちゃいるがまだまだ覚えてることに関しちゃオマエごとき若造を平伏させる事は可能だぞ、と、
 しかし全体として、コレ読んで
「よし!キリスト教のことが解った!!明日から欧米人と付き合えるぞ!!」
と思ったヒトがいたとしたらちょっと問題だと思う。
 誰か周りのヒトが殴ってでも止めるべきだと思う。 
JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 16:53, 空中禁煙者, 書籍

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「ハーモニー」 螺旋監察官は今日もどこかで会話する

 大森本をクサしてるだけじゃしょうがないので、00年代SFの精華も読んでみなければと思うのである。何しろ星雲賞に日本SF大賞、英訳されてフィリップ・K・ディック賞まで取っているのである。コレを読まずして00年代、いや現代日本SFを語るなってなもんである。
 
 おそらく前作「虐殺機関」事件がもとで起きた大災厄後の地球が舞台。大災厄(作中では<大災禍>と呼ばれる)の反動から人類は高度医療世界を築き、大多数の人間は血中にナノテクによるモニターを流しているので、ほぼ、ありとあらゆる病気というものが撲滅されている。
 さらにこの健康思想は他者に健康を押し付ける域にまで達し、健康思想によってほぼ世界は統一されている。
 主人公はこの健康押し付け社会に息苦しさを感じ、少女時代に自殺未遂事件を起こしたものの、
今は健康思想にまつろわない地域との紛争地帯にでかけ、交渉する「螺旋監察官」なる仕事についている。
 彼女が一見この少女時代の感性とは反する仕事に就いているのは、実は紛争地帯では、健康社会でとっくに駆逐された酒、タバコ等健康に悪い嗜好品が手に入るからなのであーーーる!!
 
 面白そう、、、
 
 この健康社会である日突然、世界中で6千人の人間が同時刻に自殺する、と言う事件が起きる。この辺りの展開が若干「デス・ノート」っぽいのはご愛嬌、正直、この辺までは凄いと思った。
 なるほどこりゃ三冠取るわ、、、と。
 
 で、ですね。
 最終的には「虐殺機関」と同じ不満を持ったまま終わりましたね。
 「虐殺機関」もそうだったが、主人公はちゃんと真相を暴き事件を解決するのに相応しいポジション、相応しい実力の持ち主なのに、結局全てが会話で説明され、会話で解決してしまう。
 せっかく動けるポジションと実力の持ち主なのに、、、
 
 例えば「意識のない人間」と言う概念が提示される。意識がないと言っても昏睡しているわけではない。意識とは、様々な欲求がせめぎ合う会議のようなものであり、全ての欲求が調和していれば(これがタイトルの意味のひとつ)会議の必要がなく、すべての行動が自明のこととして行われる。コレが「意識がない」状態である、と。従って「意識」が無くてもごく自然に生活は営めるのだと言う。
 なんとなく、魅力的な概念でしょ。
 
 例えば主人公がこの「意識のない人間」に出会って、普通に生活してるけど、なんとなく違和感がある、コレってひょっとして、、、と言うような展開があってもいいと思うのよ。
 ところがコレも会話の中で提示されるだけ。会話の中で提示されて会話の中で完結しちゃう。
 全てがこの調子で進む。
 主人公が動くのは次のキーマンと会話をするためだけである。
 
 魅力的な設定に魅力的な主人公、魅力的な事件まで起こしておいて、結局全ては会話の中で展開してしまう。
 コレを物足りなく感じるのはもしかするとオレが映画好きだからなのかも知れない。
 なんとなく「告白」のレビューと被ってきたが、小説といえど会話だけでの展開はつまらない。主人公はもっと動いていろいろなモノを見せ、物事を動かしてくれないと。
 
 ご存知のとおり作者伊藤計劃氏は本作を書き上げたあと持病で亡くなられている。執筆中もずっと闘病されていたはずである。
 伊藤氏には時間がなかったのかも知れない。主人公が自ら動いてちょっとずつ真相に迫るよりは、会話で明らかにしてしまった方が小説が短くて済む。
 もしかするとそういう事なのかも知れない。
 
 まっこと日本SF界は惜しい人材をなくしたものである。
JUGEMテーマ:小説全般

at 01:08, 空中禁煙者, 書籍

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「告白」 松たか子が「何か」をかなぐり捨てたド迫力

 小説が原作の映画はいくらでもあるが、そもそも小説には映画化向きの小説とそうでないものがあり、必ず映画化向きの小説が映画化されるかというとそうでもなかったりする。あんまりにも人気の高い小説だと、ちっとも映画化向きじゃないにもかかわらず、原作のファンを当て込んで映画化されて、結果的に原作ファンを怒らせたりする。怒ろうがどうしようがとりあえず映画館に来させちゃえば勝ちだという価値観が成立している。

 そんなことはどうでもいい。
 
 では映画化向きな小説とはどういうものだろう。
 おそらくはストーリーに内在するダイナミズムが、登場人物の行動によって展開していくような小説だろう。映画は何しろMovieと言うくらいで、登場人物がMoveしてくれないと画面が静的になって退屈でしょうがなくなる可能性がある。
  ごくまれに、動かないで会話してばっかりいる登場人物たちの間でうごめくダイナミズムを面白く映像化できる映画監督も存在するが(市川崑とか)、まあ、滅多にいない。
 
 ところがここに、基本的に登場人物数人の独白で成り立っている小説があったとする。仮にこれを映像化するとして、喋っている登場物人物や、日記のページばっかり撮していてもしょうがないので、当然、独白の中で「告白」されている登場人物たちの行動を映像化するのだが、これがまた破天荒ではあるが、静的なものである。
 ヒトが何人も死ぬのだが、あんまりダイナミックには死なない(殺されない)。何しろあんまり強い奴がいない。基本的に死ぬのは女子供だ。いとも簡単に死ぬので、あんまりダイナミックな絵にならない。
 この小説のダイナミズムは、むしろ点的に存在する死によって引き起こされる、登場人物たちの心の動きにある。この心的ダイナミズムには確かに激しい物があり、ある意味驚天動地のストーリーと言ってもいい。

 普通、こんなモノを映画化しようとは思わない。構造的に、小説以上のダイナミズムを表現できないのだ。
 ところがコレに挑戦しようと言う監督がいる。自分で脚本まで書いて、どうしても映画にしたいのだという。面白くなるわけないのに。

 もちろん、中島哲也監督はそんなことは分かっている。分かっていて挑戦して、ちゃんと面白い映画にしやがった。コレは驚異的なことではないか。

 中島哲也監督は基本的に登場人物の行動は静的で、動的なのは主に心の中、という小説を、持ち前のケレン味たっぷりの映像(いつもよりは色彩、ギミックともにおとなしめなようだが)を散りばめることによって、とりあえず最後まで退屈せずに観れるように描き切った。このケレン味たっぷりの映像がなければ、松たか子や木村佳乃のド迫力の芝居や、子役二人の意外に精妙な芝居、ヒロインの少女の美少女っぷりがあったとしても退屈な映画になり、ストーリーの粗暴さにせっかくの芝居も負けてしまったのではないか。

 問題は、このケレン味たっぷりの映像が、登場人物たちの心理を的確に象徴しているようには見えず、単なるケレン味に終わってしまっている様に見えることだろう。

 この映画は公開当初から毀誉褒貶入り乱れていて、各地で物議をかもしてもいる。おそらく、この映画が嫌いなヒトは、ここが気に入らないのだろう。
 何だこの無駄にカッコ付けた映像は、と。
 カッコ付けたくて付けてるだけではないか、と。
 ワタシはとりあえず面白く観れたのだからそれでもいいではないか、と思っているのだが、この無駄なケレン味が気に入らないヒトの気持ちは分からないでもない。
 でもよく考えれば、シリアスな演技で最後まで押し通せたのは、この無駄なケレン味で破天荒なストーリーを誤魔化せたからではなかろうか、と思うのだ。
 だからこそ中島哲也監督は「自分ならこの静的なハナシを映画化できる!」と思ったのではなかろうか。
 なんの勝算もなくやっているのではないことは、時間をちょっと前後させて観客の不安を煽る手法の見事さから見ても、間違いないと思うのよ。

 文中、中島哲也監督をしつこくフルネームで呼んでいるのは、ワタクシの世代は「中島監督」だと中島貞夫を思い浮かべるからです。
JUGEMテーマ:映画

at 22:59, 空中禁煙者, 邦画

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「グイン・サーガ・ワールド1」 何はともあれ、読み続けなければならない。

 「ヒプノスの回廊」の時に、「出るらしい」と言っていた「別の作者によるグイン・サーガ」が、アッサリ出ました。しかも季刊の雑誌形式。今回は三人の作者によるグインサーガ外伝のそれぞれ連載一回目と、栗本薫の日記の抜粋と、今岡清(旦那さんね)によるエッセイ。

 久美沙織の「星降る草原」は、今回の三編の中では一番違和感なくグインサーガしてるかなぁ、、という感じ。スカール王子誕生秘話のような感じで、この編の主人公はスカールさんのお母さん。スカール自身はまだ赤ん坊なのだが、どうもこのお母さん、あまりにも魅力的な女性特有の問題を抱えてるぞ、、、というハナシ。 普通に面白くなりそうで、ある意味、「文章がマトモなグインサーガ」として期待できる。

 牧野修の「リアード武侠傳奇・伝」はいかにも牧野修らしい言語テーマの一編。 グインサーガ世界で言語テーマをやろうという野心にとりあえず頭が下がる。  嘘をつけない種族であるセム族に、たまに嘘をつける子供が生まれるとその子は役者になるしかない。そういう子供を集めて小さな劇団を作り、セム族世界を廻っている「座長」を語り部にして、たまたま巡回先で起きた事件に巻き込まれていく一座を描く。実をいうと「グインサーガ世界でやる必要があるのか?」という気もするが、連載一回目でそんなこと言っちゃイカン。
 
 「宿命の王冠」の宵野ゆめは生前の栗本薫が見つけ出した、これがデビュー作の新人だそうだが、正直、ただお耽美なだけ。文章や場面の繋がりがよく解らず、何度も前に戻って読み返しても解らない、というようなシロモノ。今岡清は元SFマガジンの敏腕編集長だったわけで、こういうのどうにかしないとイカンのではないのか。

 後はアレだねぇ、、、栗本薫の日記と今岡清のエッセイ。これは実は両方ともほとんど同じ印象。
 
 ヒトは誰でも狂気を抱え込んで生きている。ただ、普通人の狂気は大したことないので、みんな酒飲んで暴れたりして小出しにしてれば、何とか生きて行ける。
 しかし芸術家は普通人より大量の狂気を抱え込んでいるもので、作品というのはある意味狂気の吐き出し口のようなものである筈である。
 栗本薫氏はあとがきに突然、「長年多重人格に悩まされている」などと書いてファンをギョッとさせていたが、あれだけ大量の作品を生み出しても、まだ解消できないほどの狂気を抱えていたのかと、頭を抱えるような思いだ。むしろ作品を生み出すことで狂気が醸成されているような感じさえある。
 
 ご家族は大変だったろうな、と思う。多分、今岡清でなければ、この狂気をコントロールして作品を生み出させることは不可能だったのだろう。
 栗本薫氏と今岡清元SFマガジン編集長が結婚するに至った経緯には、ワタシのような年のSFファンにいろいろ感慨深いものがあるのだが。
 いずれにしろこの日記とエッセイは、今後の「栗本薫研究」、さらには何らかの精神医学の研究にも貢献するものに違いない、と思うのであった。
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at 20:07, 空中禁煙者, 書籍

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