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最初に断っておくが、ワタクシ空中さんはこの映画は一種の詐欺だと思う。
本作は正確には「デューン砂の惑星」の前半部の映画化に過ぎないのに、堂々と「DUNE」と名乗っている。
オープニングタイトルでやっと、かろうじて、「PART ONE」とチラッと出るが、そんなもん、もう金払っちゃってるわ。
宣伝にも商品名にも、ひとっことも「PART ONE」とも「上」とも表記されていないのだ。
中には
「あのデヴィッド・リンチ版の『ポウルの妹』や『フェイドとの決闘』はどう描写されるのだろう、、、」
と思って観たヒトも居るだろう。そういうヒト達はクレジットタイトルが始まった瞬間、座り小便してしまうのではないか。
この件については「エアベンダー」のときにも指摘しておいたのだが、どうも業界全体に通達が行き渡ってなかったようである。
そしてもう一つ言っておかなければならないことがある。
ワタクシ空中さんは昔から疑問に思っていることがあるのだ。
それは、
「ヒトはなぜ『デューン砂の惑星』を映像化したがるのか」
ということなのだ。
イヤ、解るよ。わかりますよ。
確かに「デューン砂の惑星」はアメリカの主要なSF賞であるヒューゴー賞・ネビュラ賞で史上初のダブルクラウンに輝いた作品(まあ、ネビュラ賞はコレが第一回だったんだけど)であり、1965年の発表以来、60年代、70年代、もしかすると80年代までを通じて「SF界屈指の名作」として君臨してきたSF小説の金字塔である。
何しろ「スター・ウォーズ」も「風の谷のナウシカ」も「デューン砂の惑星」の影響下にあることは明らかなのだ。
しかしですね。
傑作であることと映像化して面白いかは別問題である。
コレ、映像化して面白くなりそうか?
この傑作を形骸だけにしてしまうと、
「やたら砂っぽい世界で中世みたいな王侯貴族が権力争いしてるハナシ」
になってしまう。
どうもSF映画として面白いと思える要素がない。
これだけだとセンス・オブ・ワンダーが無くね?
せいぜい「宇宙船より大きいものもいる」と言われるサンドワーム(コレがナウシカの王蟲の原型であることは、もう、ほぼ定説であろう)の威容くらいか。
そんなわけで、なぜ、そんな砂っぽい世界で権力争いしてるだけみたいなハナシをヒトビトは何度も映像化したがるのかが分からない。
実は、「デューン砂の惑星」はSF界初の生態系をテーマにした作品なのだ。
ひとつの惑星の生態系を創造しようという試みであり、砂漠だらけなのも、巨大なサンドワームの存在も、物語のキーとなるアイテム、謎のスパイス「メランジ」も、ある生態系の結果なのだが、物語の時点では前提条件になってしまっていいて、あまり語られることはない。
そして、同時に宗教の本質や哲学のあり方にもSFの手法で深く切り込んだ作品であり、さらに何よりよりもまず、ドラッグ小説なのだ。
接種した者の意識野を広げ恒星間飛行をも可能にする「スパイス」がドラッグのメタファーでなくて何であろう(同時に石油のメタファーでもあるのだが)。小説の初出は1965年、まさに当時のヒッピー(死語)文化、ドラッグ文化のど真ん中から出てきた作品でもある。
要するに、文章では表現できるが、映像化してもあんま面白くなさそうな要素しか残っていないのだ。
実は、SFの真髄がセンス・オブ・ワンダーにあるとすれば、「デューン砂の惑星」のセンス・オブ・ワンダーをワンダーを担保しているのは、巻末に収められた「付録」にある。
何しろ「付録? デューンの生態学」、「付録? デューンの宗教」、「付録? ベネ・ゲセリットの動機と目的に関する報告書」である。面白そうでしょ?
ストーリーの中でさり気なく、なんの説明もなく、サラッと出てきた謎の設定、謎の用語が、巻末に至ってやっと説明され、その世界の深さ奇妙さに驚愕する、という仕組みである。
そしてその付録は映像化はされない。
実は「デューン砂の惑星」は過去2回映像化されているのだが(みんな知ってるよね)、当然2回とも付録までは踏み込んでいないのだ。
いや、付録どころか、「デューン砂の惑星」の生態学SFとしての部分、ドラッグ小説としての部分はほぼ、映像化されていないと言ってもいい。
そもそもワタクシ空中さんが中学生の時に読んだハヤカワ文庫版では4分冊の大長編である。映像化してもストーリーを追うのが精一杯という事情もある。
しかし1984年のデヴィッド・リンチ版は、ダイジェスト感は否めないものの(っていうかダイジェストなんだけど)、さすがデヴィッド・リンチと思わせるものではあった。
デヴィッド・リンチ版で印象的な「スパイスの摂りすぎによりほとんどもとは人間だったとは思えないほど変形してしまった航宙士」だの、「なんか口元にあててそれに向かって『チャーーーー!!』って叫ぶと音波かなんか分からないけどなんかが出てその先にあるものが破壊されるバカバカしい武器」などは、実はデヴィッド・リンチ版のオリジナルなのである。
さらに最大の悪役ハルコンネン男爵。
もともと原作でも「贅肉を反重力装置で持ち上げていないと歩くこともままならないほどの肥満」として描写されているのだが、リンチ版ではなんと、最初から体全体ふわふわ浮いて登場して、皇帝からはカゲで「空飛ぶデブ」などと呼ばれる始末である。
造形も一番「ワルワルい」見た目をしていて、「このヒトはなんでもうちょっと良いヒトそうに見える工夫をしないのだろう、、、」という意味で、もはやシュールの域に到達している。
まあ、原作付き映画としての完成度はともかく、デヴィッド・リンチのシュールな才能を楽しむ映画としてはそこそこ成立していたのではないか。
もう一つ、アメリカのケーブルテレビで制作されたバージョンもある。
これは何しろTVシリーズで5時間近くあり、デヴィッド・リンチ版ではほとんど描かれなかった「デューン砂の惑星」のドラッグ小説としての側面をある程度えがいているのだが、いかんせんセンスの問題なのか甚だショボい。原作に書かれているからとりあえず描写してみただけで、ドラッグ小説であることには気付いてないのかな、という感じ。
また、主人公の父親レト・アトレイデス公爵がウィリアム・ハートだったり、銀河皇帝がジャンカルロ・ジャンニーニだったり、そこそこ貧乏くさくないキャスティングなのだが(撮影もなんとヴィットリオ・ストラーロ)、主人公のにーちゃんがなんかヤンキーみたいなのは残念。
そして全体的に砂だらけの土地で貴種流離譚をやっているだけの映像になっていて、センス・オブ・ワンダーは感じられない。
で、ですね、今回の「DUNE」ですよ。
そんなわけでワタクシ空中さんの興味は
「イヤイヤイヤ、でゆーんとかを懲りずに映像化されるとか聞いてますけど、ちゃんとセンス・オブ・ワンダーを感じさせる映画に出来はるんでっか?」
ということなのだ。
本作はその前半部分(1/3?)だけなのだが、まあ、微塵もないようね、センス・オブ・ワンダー。
う〜ん、ベネ・ゲセリットの「ボイス」とかサンドワームとか、SF慣れしてないヒトは驚くのかなぁ、、、
う〜ん、、、「メッセージ」「ブレードランナー2049」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督かぁ、、、なんとなく、センス・オブ・ワンダーのある話のセンス・オブ・ワンダーを潰すのが得意な監督のような気もする。
今回、原作と過去作のハナシばっかりだが、まあ、しょうがないよね。タイトル詐欺だもん。
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ロンドンの一流デザイン学校に合格したエリー(トーマシン・マッケンジー)は大喜びで浮かれるが、彼女と暮らす祖母には心配ごとがあった。
実はエリーの母もロンドンのデザイン学校に通っていたが、都会のストレスに負けて自殺していたのだ。しかもエリーにはどうも亡くなった母親が見えているらしい、、、
エリーは学校の寮に入ったものの、田舎者をバカにされることうんざりして、パブのバイトをして一人で下宿を借りることを決意する。
しかし、ソーホーに借りた下宿で初めて眠りについた夜から、彼女は夜な夜な1966年のロンドンで歌手を夢見て足掻くサンディとなって、スウィンギング・ロンドンを闊歩するのであった、、、
というハナシ。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホットファズ−俺たちスーパーポリスメン!」のエドガー・ライトらしい、とっても気が利いていて、とっても楽しく面白いが、決してA級感は漂わない映画。
前半は豊富なアイデアと意外な展開、そして二人の女優の女優の魅力で
「ハッ、、、オレは今、傑作を観ているのではないか、、」
と思わせるが、ラストでアレよアレよとB級ホラーになってしまう。
思い起こせば「ホットファズ−俺たちスーパーポリスメン!」もとっても気が利いていて面白かったけど、ミステリーとしてはどーでもよかったなぁ、、、
コレはもう、エドガー・ライトの宿痾なのだろう。
神は細部に宿る。
映画全体の印象がグダっても、もう、やりたいことは出来たからいいや、ってことだと思う。
というわけで、この映画の前半はとっても楽しいですぅ、、、
まず、何と言っても二人の若い女優さんの魅力(なんか小学校の卒業文集みたいだな、、、)。
デザイン学校の新入生エリー役に「ジョジョ ラビット」のトーマシン・マッケンジー。
ユダヤ人少女の時から可愛くはあったが、あまり美しい印象ではなかった。本作でも冒頭の田舎ムスメ時代は可愛いだけだが、都会に染まって垢抜けてからの美しさは尋常じゃない。美人だったんだねぇ、、、
そしてスウィンギング・ロンドンで歌手を夢見て足掻く少女に「スプリット」「ミスター・ガラス」の、というよりドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の、過去が似合う女アニャ・テイラー=ジョイ。
アニャ演ずるサンディがソーホーのパブで踊るゴーゴーの可愛いこと。スイムとかね。ちょっと若いヒトは何言ってんのかわかんないだろうけどね。
もう、可愛いの。自由で、躍動的で。
コレがスウィンギング・ロンドンということだろう。
アニャ・テイラー=ジョイのあの、離れていて大きい、強い目が醸し出す自信に満ちた表情。
いつもオトコに無言で「どう?アタシの魅力に気付ける?」と問いかけている。
スターとはこういうことだろう。
スターの条件とは、ド厚かましいことである。
ド厚かましいとは、自分のプランに疑問を持っていないことである。
いま、アニャ・テイラー=ジョイも、この映画のサンディも自分のプランに疑問を持っていないことが、魅力になっている。
サンディは歌を歌わせても踊りを踊らせても自信満々なのだ。正直この映画の中では歌はあんまり上手いとは思えないが、何しろ自信満々で歌っているので、とりあえず惹きつけられる。こういうヒトをシーンスティーラーと呼ぶのだろう。
サンディは結局失敗するが、アニャ・テイラー=ジョイはまだまだスター街道を駆け上っていくだろう。あの、強い目であたりを睥睨しながら。
ああ、オレはいま、スター誕生を目撃してるんだな、という感じ。
「クイーンズ・ギャンビット」からファンなんだけど。
ところで、パブでサンディが女たらしとゴーゴーを踊っているシーンで、サンディとエリーがノーカットで入れ替わる夢のような演出が話題になっているが、ワタクシ空中さんは、つねづねこういう演出方法はいかがなものかな、と思っている次第です。
もう、観ててさ、
「あ〜、ハイハイ、カメラワークとヒトの動きを計算してうまく隠れては入れ替わってるのね、、、」
と思っちゃう。
映画の中の世界から、一気に撮影現場の風景に引き戻されてしまうのだ。
コレは最近流行りの「長回し」とも合わせて難しい問題ではある。
撮り方で変化をつけるのか(迫力が出ると思っている)、観客がカメラの存在を意識しないカメラワークに徹するべきなのか。
一番いいのは斬新でトリッキーであるにも関わらず、観客がカメラを意識しない手法を編みだすことなのだが、このシーンはもう、カメラどころかエドガー・ライトのドヤ顔まで浮かんでくるわ。
カット割ってサンディとエリーの顔を切り替えたほうが夢のような美しいシーンになったと思うのよ。
そして、単に二人の女優のスター誕生の瞬間をフィルムに定着させるだけではなく、なんとなく、時代に目配せしたアクチュアルなテーマも扱ってたりする。。
二つの時代生きた女性それぞれの、「女性としての生きづらさ」を描いたりもしている。
サンディーは歌手を夢見て、ロンドンに出てきたが、結局、性を切り売りして生きて行くしか無くなって行く。そして、それが自分の歌手としての実力不足からなのか、逆に性の対象として扱うために歌手としての実力をスポイルされているからなのか、分からない。
この過程のヒリヒリした恐怖と失望は現代の女性にも響くだろう。
そして、現代。
名門デザイン学校の生徒になったエリーは流石に性を切り売りせざるを得なくなるようなことはないが、こっちはこっちで現代の女性ならではの苦悩を味わうのであった、、、
コレはコレで現代の女性にとってアクチュアルな悩みなんだろうなぁ、、、
高校卒業して以降、田舎モンだからってハブられることって、男子は無いよね。
イヤ、デザイン学校とかのオサレであることがアイデンティティになってるような場所特有の現象なのかなぁ、、、
エドガー・ライトがどーもB級くせーなぁ、、と思うのは、本作で言えば例えばホラーとして成立していないところだろう。
本作は死臭問題から逃げているのだ。
殺人事件で犯人が一番困るのは死体の処理だ。
死体というものは放っておくと酷い臭いを発するので、コレをどう処理するのか、は常に殺人を隠す必要がある善男善女の悩みのタネである。
しかしこの映画はこの問題を完全にないモノとしてほっかむりしている。
コレは無理でしょ。
もう、終盤はコレが気になってどーでも良くなってきた。
大家のおばさんが漏らすヒトコトで全てをひっくり返せると思ったのだろうが。
コレは確かに東京でもニューヨークでも成立しない、世界中でロンドンのみで成立する名言ではあるが。
それでは今回はこの名言とともにお別れしたいと思います。
「ここはロンドンよ。どの部屋でもヒトは死んでるわ」
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冒頭から衝撃的。
終戦直後、復員してきた渡瀬恒彦は廃ビルの中で黒人相手のパンパンに堕ちていた妻と再会する。
渡瀬恒彦と復員兵と廃ビルとパンパンとくればもう、「肉体の門」だが、渡瀬恒彦が復員兵役の五社英雄版「肉体の門」はなんとこの15年後。
もう、五社英雄が本作を観てキャスティングしたことは間違いない。
そしてこの後の展開は、田村泰次郎も裸足で逃げ出す驚愕の陰惨さ。
黒人相手のパンパンに堕していた妻が産んだ黒人兵との赤ん坊を発見したあと、渡瀬恒彦が取る行動は、今の目から見るととても信じられない。ああ、映画でこんなことが可能だった時代があったのか、と言う感じ。
やがてストーリーは型通りの、特攻の生き残りや博徒が徒党を組んでヤクザ組織として成り上がっていく、新興ヤクザのサクセスストーリーとして展開していく。
この辺の雰囲気は、手持ちカメラのドキュメンタリー感も合わせて「仁義なき戦い」そのもの。
ココで本作の制作された時期が再び問題になってくる。
本作の公開は1974年7月4日。
そして「仁義なき戦い」第一作の公開が1973年1月13日。第二作「広島死闘篇」の公開が1973年4月28日なのだ。
東映京都が大ヒットさせた「仁義なき」みたいなのを東映東京でも、と言う企画だったに違いない。
それにしてもこの頃の日本映画界のスピード感には感心させられる(そもそも「広島死闘篇」からして3ヶ月後だしね)。
しかし、序盤こそ「仁義なき戦い」のエピゴーネンと思わせておいて、後半どんどん、オリジナリティを発揮し、ほとんど幻想的なまでに本能と欲望に狂った男たちの狂乱が繰り広げられる。
葉山良二を中心として安藤昇、梅宮辰夫、室田日出男、そして狂気のヒットマンとしての渡瀬恒彦は、チンピラとの小競り合いを通じて仲間意識を持ちはじめ「銀座警察」を名乗り始める。
名乗り始めた当初こそ、銀座を仕切っていた待田京介の一家を潰したりして気勢が上がったが、あっという間に内部分裂し始める。一旦内部分裂を始めると、もう、あとは仲間内で殺し合うだけである。この殺し合いの陰惨さにまた恐れ入る。
クールな経済ヤクザとしてのし上がった安藤昇は、舎弟の結婚式の最中に渡瀬恒彦に銃撃されるが、このとき、安藤昇の手のひらが半分吹き飛ぶ描写は、「タクシードライバー」で売春宿のオッサンの手が半分吹き飛ぶシーンの元ネタであることは間違いないだろう。ちなみに「タクシードライバー」は1976年。3年後である。3年で海を超えて影響を与えていることにも驚くが、マーチン・スコセッシのアンテナにも驚く。
分裂と内部抗争を繰り返した挙げ句、自分たちの最後を覚悟した生き残りたちは、料亭に芸者を呼んで最後の宴会を始めるのだが、ワタクシ空中さんは「狂乱の宴」と言う日本語をこれほどあからさまに表現した映像を他に知らない。
大勢の芸者を裸にして飲めや歌えや抱きつけや、男も女もゲラゲラ笑いながら狂乱する様は、色調を変えているせいもあって、終戦以来禁欲してるヒトの見る夢のよう。
暴力でもエロでも全く妥協というものがない。
人間、際の際まで追い詰められれば、結局暴力とエロだろ、と言っているようだ。
監督は佐藤純彌。
佐藤純彌といえばワタクシ空中さんの世代は「新幹線大爆破」を始め、「君よ憤怒の河を渉れ」「野性の証明」「未完の対局」「敦煌」など、大作映画の企画のときに呼ばれる職人監督ながら、ときに日本映画離れした「いい絵」を取るヒト、というイメージだった( 全然関係ないけど、「カイジ」を観たとき、鉄骨渡りのシーンで「なんか佐藤純彌みたいないい絵作りだな、、、」と思っていたら息子の佐藤東弥監督作品だったのもいい思い出です、、、)。
しかしこの作品を含む「新幹線大爆破」以前のあまり大作ではない作品のラインナップを見ると、実は単なる職人監督ではなく、いざとなると自分の怒りを打ち出して来るヒトだったのかも知れない。
リチャード・フライシャーみたいな。
リチャード・フライシャーもなんかっつーと大ヒットした原作小説の映画化を任されちゃあ映画もヒットさせていたが、一方で「ボストン絞殺魔」など自らの問題意識を横溢させた映画を作っていた。
ちょっと残念だったのは、一つのヤクザ組織の興亡史に終止してしまい、タイトルに堂々と謳った「私設(銀座)警察」の部分があまり描かれなかったところ。
もともとヤクザ組織には治安維持の一端を担って来た、と言う歴史と誇りがあり(「仁義なき戦い」にも競輪場の警備を警察署長に頼まれるくだりがあった)。
「実録」を謳っていて、どうもモデルになった組織が実在したらしいので、警察ぶっていきがっているシーンが10分くらいあれば、映画全体の印象にかなり深みが出たのではないか。
警察と言ってもせいぜい銀座で働くおねーちゃんたちのトラブルシューターか恐喝屋みたいなものだと思うが、辰ニイや安藤昇が警察ぶってイキっているバカバカしさはぜひ観てみたかった。
安藤昇は佐藤純彌監督がこの映画の前に撮った2本でも主演しており、この頃は佐藤組だったと言ってもいいだろう。安藤昇を演技が上手いと思ったことはないが、冷徹な存在感は流石というべきか。
梅宮辰夫の「仁義なき戦い」のストイックなキャラとは打って変わった享楽的なヤクザがリアリティ抜群。本来こっちが得意なんだよな。
一味のリーダー格の葉山良二。葉山良二は日活のイメージが強かったのでちょっと意外なキャスティング。厳密に言うと映画の序盤で駆逐される一家の親分役の待田京介も日活のイメージだが。
この頃からいわゆる五社協定が崩れてきたのかもしれない。
そして渡瀬恒彦。
自らの妻殺害以来、シャブ中でほぼ廃人状態になり、一味の仲間と言うより子飼いのヒットマンとしてヒトを殺しまくる(「ヒット」と「ヒト」が被ってややこしいが)渡瀬恒彦の狂気は映画全体を貫くスパイスとして効きまくっている。
後年穏やかな中年男性の役が多くなった渡瀬恒彦だが、この頃、これだけの狂気と絶望を表現出来るのは渡瀬恒彦だけだったのだろう。
全体的に女性の存在感が低いのも佐藤純彌の個性かもしれない。
大好きな渡辺やよいが魅力的に撮られてないのが気に入らなくてそう思うのかもしれないが。
結局、観終わって強烈に思うのは、
こんなムチャクチャな映画が撮れた時代が羨ましいなぁ、、、
だったりする。
多分、今後映画(テレビはもちろんのこと)はコンプライアンスのせいでどんどんつまらなくなるだろう。
「そんな状況の中でも作り手の工夫次第でいくらでも面白く出来るはず」
などというのは欺瞞にすぎない。
弾圧というものは、すればするほどいずれタガが外れたときの反動が大きいものである。
それまで生きてるかな、、、
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脚本という観点から見ると、前作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」よりだいぶマシ。キャラ設定もストーリーラインも前作ほどムチャクチャなことにはなっていない(なってるところもあるけど)。
しかし、その分前作にあったドラッグムービーのような浮遊感は無くなったかもしれない。
まあ、「はぁ?ナニ言ってんのこのシトたち、、、、」というムチャな設定もあるのでご安心ください。
一方で明らかになってきたこともある。
「キングコング:髑髏島の巨神」「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」と、この「モンスターヴァース」シリーズを観てきて(厳密に言うとこの前にもう一つ「GODZILLA」があるのだが、全然覚えてない)、監督も脚本も全部違うのに、ひとつ強烈な共通点があるのに気づく。
それは
「出し惜しみしないこと」
コレだ。
このシリーズの「出し惜しみしない」感はスゴい。
「どぅーせオマエらの観たいものはコレやんな?」とばかりに次から次へと「どぅーせオマエらの観たいもの」を繰り出して来やがる。
もう、「完全にエヴァのパクリやん、、、」というゴジラ対コングによる船上の対決があるのだが、例の船から船へと飛び移りながら闘うバトルが、もう、コレでもかとばかりに続く。しかも単調にならず、アクションのアイデアも豊富で飽きさせない。
前半最大の見せ場であるこのシーンで、「ああ、この映画はこの設定で見たいと思ったものが全部観れる(ら抜き言葉)映画なのね、、、」と思い知らされる。
ストーリーは前作(「キング・オブ・モンスターズ」)に続き登場のミリー・ボビー・ブラウンちゃん(要するに「ストレンジャー・シングス」のエル)が
「地球の守護者だったはずのゴジラがなぜ再び暴れだしたのか」
を同級生のデブや陰謀論者の黒人と探るハナシと、コングが髑髏島から連れてきた原住民の少女(唯一コングとコミュニケーションが取れる)と地下世界(そこがコングの故郷だと主張する一派がいるのね)へ旅するハナシが並行して描かれる。
脚本家としては、ココで
「個人の執念とと世界の驚異を対比させてやったぜ、フフフ」
とか思っているのだろう。
まあ、この地球空洞説と空洞内の描写はもう、真面目に観ていると気が狂いかねないレベルのムチャクチャさ。
百歩譲って空洞内では重力が逆転するのは判らないでもないが(スルーしてあげられるレベルではあるが)、あの、空洞内の空中で岩が浮く描写はなんなの?あそこで自分の足側にある質量と頭上にある質量が釣り合うの?
どうも重力がナニを契機に発生するのか知らないヒトが考えている気がする。
ちょっと子供に観せるのはマズイのではないか。
この地底世界のシーンは全体的に、あの、前作で感じたドラッグムービーのようなヤヴァさに溢れている。
「2020年代にもなってこんなムチャクチャが許されるハズはない、オレは一体ナニを観せられるてるんだ、、、コレは映画を観てるんじゃなくて夢を見てるんじゃなかろうか、、、」
的なトリップ感が味わえます。
そして最後にまたたっぷりと怪獣プロレス。
口からなんか吐く、という飛び道具があって圧倒的に有利なゴジラに対して、コング側にもちゃんと対抗策を用意して対決を盛り上げる周到さ。
怪獣コンプライアンスにも配慮した造りになっている。
東宝の怪獣映画も「ゴジラ」「モスラ」「ラドン」あたりまでは大人の向けの一種の恐怖映画であり、秘境探検モノだったりもしたが、徐々に「三大ナンチャラ大決戦」だの「○○対△△」だのばっかりになるにつれ、どんどん子供向け化が加速していった。なにしろ最終的にはゴジラが「シェー」をするところまで行ったのだから、子供を映画館に来させるためにいかに必死だったかわかる(「シェー」が分からないヒトはお父さん(お爺ちゃん?)に聞いてね?今で言えばゴジラが「そんなの関係ねぇ!」をやるようなものだろうか。それも古いな、、、)。
そして、子供向け路線を続けた日本の怪獣映画は徐々に衰退していく。
「ガメラ」という最初から子供向けであることを運命づけられた世界観も存在したが、これについてはいずれ語りたい。
そして本作を含む「モンスターバース・シリーズ」は前前作の「キングコング:髑髏島の巨神」の時点で既に怪獣プロレスに堕しており、もう、現時点で怪獣プロレスをやり続けるしかなくなっている。
だけどさ、怪獣プロレスってそんなにモたないよね。
怪獣というなんでもアリの生き物なので、無限のパターンがありそうで、実はない。
なにしろもともと着グルミだ。
可動域が少ないっちゃない。
人間同士のプロレスのようなダイナミックかつ複雑怪奇な動きはもとから無理なのだ。
宇宙人だったらなんか知らんけど超科学的な武器かなんかよく判らんもので闘うだろう。
あるいは人間同士のプロレスのような複雑怪奇な動きが可能な巨大生物が出てきても、我々はそれを「怪獣」とは認められないだろう。怪「獣」と言う以上ケモノであって、そんなに複雑をされたらそれは「前足」ではなくて「手」になってしまい、人間感が出てしまう。
そして、実はこれらの条件をクリアを出来るのが類人猿であるキング・コングであり、キング・コングこそ唯一怪獣プロレスを成立せしむる怪獣なのだが、いかんせん相手はケモノである。
ケモノ相手にどれだけ頑張ってもパターンはそんなにない。
「モンスターヴァース」シリーズが今後もコング頼みのプロレス路線に頼るつもりなら、多分、次くらいでもう、飽き飽きなものしか作れないだろう。
果たして怪獣映画はもう一度恐怖と科学文明への批判を取り戻せるのだろうか。
なんとなく、アメリカ映画界でも日本映画界でも無理な気がする。
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まあ、スゴく楽しい映画ですね。
全編ラテン・ミュージックとダンスで綴られるワシントンハイツの日常。
ツラいことも悲しいこともあるけれど、オレたち元気です!!
ラテン系住人が多く住むワシントンハイツで、すでに亡くなったドミニカ人の両親から受け継いだコンビニを営む青年、ウスナビ。
まあ、彼を取り巻くヒトビトが、なんとなく、それなりに、ドラマを抱えているわけです。
コンビニを手伝ってくれている従兄弟の高校生、近所のタクシー会社で働く、ウスナビの親友の黒人青年、そのタクシー会社の社長、そしてその社長の娘は優等生でスタンフォード大学に通う地元の星だったのだが、何故か最近里がえりしている、、、
そして、ウスナビは近所の美容院で働くネイルアーティストのバネッサを狙っているのだが、、、
というようなコトをですね、楽しくてノリの良いラテン・ミュージックを歌って踊りながらお伝えしてるわけです。
まあ、楽しいよね。
みんな、ラテンのリズムにノッて歌って踊ってます。それだけで楽しいっちゃ楽しい。
ラテンのリズムってそういうものでしょ。
しかし、コレって、ワタクシ空中さんの考える「ミュージカルの楽しさ」とはちょっと気もする。
例えば、群舞のシーンはあるのだが、踊りは揃っていない。ラインダンスではないのだ。
ワタクシ空中さんは ミュージカルで大勢が一斉に踊るとなれば、ある程度揃って同じダンスを、あるいは少なくともひとつの効果を生むために全員が演出がされて踊る、というイメージがあった。
例えばソロ、あるいは少人数で踊るシーンも、何らかの「振り付け」を感じさせるダンスを踊るものだと思っていた。「ラ・ラ・ランド」でライアン・ゴズリングが両手広げてジャンプしながらクルクル回ってた、みたいな。「オール・ザット・ジャズ」(古っ)のベン・ヴェリーンが顔の前と体の後ろで左右の手を入れ替える(どこだか分かります?)、みたいな(まあ、ボブ・フォッシー、ベン・ヴェリーンのコンビと比べたら可哀相だけど)。
なんかミュージカルを観ていると言うよりはラテン系のクラブ(今、ディスコと書きかけて、ディスコはオッサン臭いかな、と思ってクラブにしました。まあ、クラブとディスコの違いもよく分かってませんが)を覗いているみたい。
おそらく、元になった舞台がそういうものなのだろう。かっちりとしたダンスを見せるというよりは、クラブのノリの楽しさを表現する、みたいな。場合によっては客席も踊りだすの推奨、みたいな。
一応監督はなんとか舞台ではなく、映画っぽくなるように工夫はしている。
アパートのバルコニーで踊っていた恋人同士が、いつの間にか壁に立って踊っているシーンは、多分今後いろいろなところで「ミュージカルの印象的なシーン」として紹介されるだろう。そしてその度にパネラーの誰かが「テレビ版のバットマンかッ!!」とツッコむだろう。
さらに冒頭から何度も繰り返される「主人公が海辺で子どもたちにコレまでを語るシーン」も、単なるミスリードにすぎず、「はぁ?」というようなものである。このカントク、コレで「どう?驚いたでしょ?」とドヤ顔してるんだろうか。
どうも、ミュージカルの伝統のなかに自分の1ページを刻むとか、あるいは逆に斬新な演出でミュージカルの伝統をぶっ壊してやる!とかいう覚悟が感じられず、「大評判の舞台をを恥ずかしくない程度に映像化してみました」という感じがしないでもない。
ジョン・M・チュウ監督は前作「クレイジー・リッチ」に続いて人種問題がテーマなので、人種問題を扱わせるとアクチュアルな演出ができる、という評価なのかもしれない。
そう、この映画は人種問題という真摯なテーマを扱っている。
さらにもうひとつ。
分断も本作の重要なテーマだ。
そもそもワシントンハイツを舞台にしているのは、ここがアメリカの分断の象徴だからだ。
1950年代からドミニカを中心としたラティーノたちが肩を寄せ合って生きてきた(犯罪も多いけど)ワシントンハイツではあったが、もう何十年も金融屋やITが引っ越してきて地価が上がり、もとからの住民が住めなくなる、という「ジェントリフィケーション」にさらされているのだ。
そのため、この映画の登場人物(全員貧しい)たちも、望むと望まざるとに関わらず、住み慣れたこの街から出ていくことを検討している。
人種差別と貧富の差という、今のアメリカが抱える大きな分断の象徴として、ワシントンハイツは存在している。
しかしワタクシ空中さんはここにも疑問を感じてしまった。
主人公のコンビニ店主ウスナビもここから出ていくコトを夢見ているが、なんと、彼の望む引越し先は、故郷のドミニカなのである。
ワタクシ空中さんは最後までここに引っかかってしまった。
そもそも彼の両親はドミニカから逃げ出すようにして、無一文でアメリカに渡ってきたのではないか。
それにはそれだけの理由があった筈である。
なぜ彼はそこを不問にして呑気にドミニカを夢見ているのか、理解できない。
ウスナビの恋人はファッションデザイナーになりたくてアップタウンに引っ越そうとしている。
その恋人が今勤めている美容サロンのオーナーは家賃の高騰から逃げるためにブロンクスに店ごと引っ越そうとしている。
成績優秀な高校生の従兄弟はアメリカの大学に進学することを夢見ている。
そんな中、ウスナビだけは両親が逃げ出した故郷、ドミニカに帰ろうとしている。
なぜ、ウスナビは両親の決死の決断と努力を無化するのか。
なぜ、ウスナビはそんなにドミニカがいいと思っているのか。
ここがサッパリ分からず、もう、観ていてどうしていいかわからない。
両親の判断を無化するのもいい。故郷に帰りたがるのもいい。
しかし、キミが今ここにいるのはそれだけの理由があってここにいるのだから、その理由を無視する理由を説明してくれよ、と思う。
こっちはドミニカがどんなに素晴らしいところか知らないよ。
ここが納得いかないので、どうも感情移入できないまま、映画が進んでしまう。
やはりラテン系のヒトが観てなんぼ、という事なのかも知れない。
彼らにはウスナビの感情が分かるのかもしれない。
全体として、ラテン系のパーティーを覗き込んでいるような楽しさはあるが、映画としてはどうかなぁ、という感じ。
ミュージカルとしても、圧倒的な群舞も記憶に残るソロダンスもないし、そもそも後々印象に残るような曲もない。
あくまで、ラテンのノリのパーティーですよ舞台で生でコレを演ってるんですよ、ということであり、そこを乗り越えることはできなかった。
ところで、やはりもうちょっとドラマが必要だと思ったのか、中盤にある事件を用意している。そしてその出来事までの残り時間を
「○○まであと○○日」
とテロップで出すのである。
ある世代は「宇宙戦艦ヤマトか!」とツッコミ、またある世代は「北条時宗か!」と突っ込んだだろうが、アレ、舞台ではどうしてたんだろうねぇ、、、
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以前、「ディア・ドクター」を鑑賞した際、その演出力でワタクシ空中さんを戦慄させた西川美和監督作。
しかしながらどうもその後、題材の取り方において西川監督の興味とワタクシ空中さんの興味が一致せず、正直あまり熱心な観客ではなかった。
が、西川監督、久々にワタクシ空中さんの守備範囲に引っかかってくる題材で撮ってくれたので、満を持して鑑賞させていただきました。
果たして、あの、香川照之の「いまのは愛ですか?」を超える演出が観られるのでしょうか、、、
映画は、殺人による13年の刑期を終えた元ヤクザ三上(役所広司)が出所するシーンから始まる。
この、まだ刑務所の中のシーンだけでも、三上の人となりがわかる脚本はさすが。
三上はカッとなって人を殺したことを後悔し、今度こそカタギになろうと硬い決心をしているが、実は自分が殺人罪を食らったことに納得はしていない。あくまで喧嘩の原因は向こうにあり、せいぜい過失致死だと思っている。そしてそのことについて出所当日に看守長と口喧嘩したりする。
決して模範囚ではなかったが、意外と看守に悪く思われていない。
それが三上である。
ただ、高血圧を抱えている。
出所後、三上は身元引受人になってくれた弁護士(橋爪功)の協力も有ってカタギとして生きる道を模索するが、実は彼にはもう一つ目論見があった。
三上は孤児院育ちなのだが、幼い頃に彼を孤児院に預け、いつの日か迎えに来ると約束した母親と再会するのが夢なのだ。
そのために三上はテレビ局に手紙を書き、自分の母親の捜索、再会をテレビ番組にしないか、と持ちかける。
そういえばムカシそういう番組ってあったよねぇ、、、今でもあるけどオレが知らないだけなのかなぁ、、、
このハナシにノッてみる気になった敏腕プロデューサー(長澤まさみ)だったが、かと言ってあまり金もかけられず、「作家になります」と言ってテレビの仕事から離れていた元ディレクター(仲野太賀)を引き込み、番組の制作に乗り出す。
かくして三上はカタギになる道と母親の両方を模索しながらもがくのだが、、、
三上はカタギになる!と固く決意はしているのだが、「モノゴトを暴力で解決しようとする性質」は変わっておらず、周囲との軋轢を起こし続ける。
アパート内で大騒ぎして近所迷惑な奴、イタイケなおじさんをカツアゲする奴、など、確かに悪い奴相手なのだが、結局問題解決方法と言えば暴力である。そして、ヒトビトの無慈悲や無関心にいちいち腹を立ててしまい、また暴力に走るのでは、、、と見ているものをヒヤヒヤさせる。
やがて、密着取材中にも暴力に走る三上を見て、ディレクター君はビビりあげた挙げ句カメラを捨てて逃げ出してしまい、プロデューサー女史に
「カメラを捨てるんなら止めに入れ!止めに入らないんなら撮り続けろ!」
と当然のお叱りを受け、一旦この件にかかわることを諦めてしまう。
三上にはまだヤクザの狂気が残っているのだ。そしてそれを本人はカタギとしてマズイことだと思っていない。
実を言うとワタクシ空中さんはこの辺である違和感に悩まされ始める。
西川監督はムカシから役所広司に憧れていて、いつか一緒に仕事がしたい、と思っていたそうだ。そして本作での役所広司の演技も絶賛している。
まあ、分からないでもない。
役所広司だったらどんな役でもそれなりに成立させてしまうだろう。
事実、この、狂気とカタギのあいだをフラフラと漂っている人物を見事に演じてはいる。
しかし、役所広司が演じている以上、それはどこまで行ってもカタギの側から狂気の側へのアプローチに見えてしまう。
三上が狂気を噴出させるシーンで、なんだか一生懸命狂気を演じているのが見えてしまうのだ。
ここは、この映画の構造から言っても「狂気の側からカタギへのアプローチが」が出来る役者にするべきだったのではないかな、という気がする。この映画は、あくまでも「殺人犯のヤクザがカタギを目指す」ハナシだったはずなのだから。
例えば、役所広司と同い年の國村隼とか。
ああ、國村隼。
國村隼だったら三上が狂気を噴出させるシーンはホントに怖いシーンになるだろう。
もしかすると、西川美和監督では國村隼を「もしかするとカタギになれるかもしれない人物」としては描けないのかもしれない(役所広司は最初からカタギにしか見えない)。
國村隼の狂気をコントロール出来ないのかもしれない。
しかし、もし國村隼で同じストーリーを撮ることに成功したら、この映画はそれこそ世界に通用する「ヤバい」名画になったような気がする。
ただし、その場合、ディレクター役はもう少し華があって「強い」役者に変更する必要があるだろう。
山田孝之って言いたいけど、それだと『凶悪』とイメージがダブっちゃうかな、、、強すぎて三上にビビるシーンのリアリティが無くなるかも知れない。
となると池松壮亮とかかな、、、三上にビビって逃げ出すシーンもリアリティ出せそうだし。
そうなるとプロデューサー役も長澤まさみちゃんじゃバランス悪くなるから(イヤ、この映画の長澤まさみちゃんはすごくイイのよ。仲野太賀の上司役としては)、松雪泰子とかかな、、、
こう書くとこのキャストで観てみたくならない?
ならない。
ならないのね。
ア、そう、、、
で、ですね。
ワタクシ空中さんは本作を鑑賞するにあたり、西川監督の演出力を楽しみにしていたわけですが、、、
ありましたね。
もう、戦慄した。
三上が洗濯物を取り込むシーン。
コレは映画史上に残る名カットではないか。
まあ、名場面集とかでは使いにくいけど。
嵐の中、洗濯物がはためいているだけのカットで映画史上に残る戦慄を描き出した西川監督の剛腕は、やはり今の日本映画界の至宝だろう。
惜しむらくは、西川監督自身おそらくそこあんまり押して無いんだよな、、、
西川監督自身が全編この攻めのカメラワークを意識して、もっと攻めのキャスティングで映画作ってくれたら、、、と夢想するワタクシ空中さんであった、、、
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]]> そんなわけで、「ミッドサマー」のアリ・アスター監督のデビュー作。
観る順番が逆になってしまったが、なんだか答え合わせみたいな楽しみ方が出来た。
この2本、要は同じハナシなのだ。
つまり、
「妹に死なれたオトコ(オンナ)がラストで王(女王)になるハナシ」
コレである。
そして、どちらもホラーと銘打っていて、たしかに怖くもあるのだが、実はホラーではない。
いや、怖さで言ったらこちらの方が怖かったかも知れない。
正直、観ているあいだ怖さで震えた。
しかし、それも「いわゆるホラー」としての怖さではないのだが、、、
今回も(今回から既にして)オープニングのカットが凝っていて、のっけから
「凡百のホラーとは違いますよ」
と宣言している。ナマイキだなぁ、、、
暗い部屋の中をカメラが移動していくと、巨大なテーブルや棚に、「家のミニチュア」が置いてある。シルバニアファミリーの家みたいな、断面から中が覗けるアレである。
やがてカメラはあるミニチュアに寄って行き、二階の部屋の中を映し出すと、いつの間にかそっくりな現実の部屋になっており、どこからともなく「起きなさーい!」という女性の声が聞こえると、部屋の中のベッドに寝ていた少年がイヤイヤ目を覚ます、という趣向。
コレはあとから考えると、「ああ、こういうことを象徴してるのかな、、、」と思う。
新人のくせに出だしからなんか象徴すんじゃねーよ、という感じもする。
少年は、祖母の葬式に向かうために起こされた。
この映画は、とある老婆の葬式から始まる。
老婆の娘である少年の母親の弔辞により、祖母が極端に変わり者であったこと、しかもなんらかの宗教っぽい組織に属していたが、それを家族には語りたがらなかったこと、などが分かる。
「ミッドサマー」が最初から最後までオカルトでもサイコホラーでもなかったのに比して、いかにもオカルト・ホラーが始まるぞ、という雰囲気。
そうです。
本作は堂々のオカルト・ホラーです。
そして怖いです。
怖いんですが、ココで全く意外なことに、オカルト・ホラーとしての怖さではなかったりもします。
祖母が亡くなったあと、父母、高校生の息子中学生の娘の4人家族には、徐々に不思議なことが起こり始めるが、、、
正直、「不思議なこと」はことはこの時点では大したことはない。
それよりも、「ミッドサマー」が実は恋人同士の葛藤のハナシであったように、本作は家族の葛藤のハナシになって行く。
そもそも「ミッドサマー」のヒロインは双極性障害を患っていて、本人もパニック障害に苦しんでいたが、本作の母親の境遇はもっとシビア。母の母は解離性同一性障害で父は統合失調症をこじらせて餓死、兄は被害妄想のあげく自殺、本人も夢遊病、という有様。
ハッキリ言ってこの時点でオカルトより怖くね?
本人は自覚的ではないのだが、主に母親の不安定さによって家族は徐々に崩壊していく。母親は必死で家族をまとめようとするのだが、徐々に明らかになる祖母の謎、自身の夢遊病などでイライラをつのらせて行く。
この過程が怖い。
そう、この映画で怖いのは家族が崩壊していく過程なのである。
特に、妹が死んだ後のお兄ちゃんの反応には驚愕した。
こんな反応ってある?
これは映画史上初と言ってもいいのではないか。
これまでの映画の文法からは絶対に出て来ない発想だと思う。
ワタクシ空中さんはこのお兄ちゃんの反応の後、あまりの恐怖に目を逸らしそうになるのを、歯を食いしばって耐えていたような記憶がある(何故「お兄ちゃんの反応」などというものが恐怖を呼ぶのかは、本編を見ていただくしか無い)。
そして、ラスト近くなってハナシが急にオカルトに寄ってきたとき、全く意外なことに、ワタクシ空中さんはちょっとホッとしてしまった。
こんなことってある?
フツーは「オカルト」が怖い要素であるはずなのに、オカルトになることによってホッとしてしまう。
「ああ、コレってオカルト映画だった、、、オレはいまオカルト映画を観ているんだった、、、オカルトなら知ってるわ。なんとか対処できるわ、、、」
それだけ、本作の恐怖はオカルティックな恐怖ではないのだ。
このあと急速にオカルトになっていくが、正直、ハナシを終わらせるために「パラノーマル・アクティビティ」フォーマットを持ち出してきたな、という感じ。
なにしろタイトルからして「ヘレディタリー 〜継承〜」だ。
「パラノーマル・アクティビティ」も3だか4だか回を重ねるごとにナニかを「継承」するハナシになっていったではないか。
この圧倒的な既視感も、「オカルトであることによって安心してしまう」効果を生んでいるかも知れない。
母親役はトニ・コレット。
「シックス・センス」や「ヒッチコック」に出ていた、というが、ゴメンナサイ全然覚えてません。
しかし、コレは堂々たる「不安定な母親ぶり」。
かれこれ30年近くコンスタントに映画に出ているベテラン女優さんが、海のものとも山のものとも知れない新人監督のこんな無茶な映画に出て、こんなエキセントリックな演技をしてくれるアメリカ映画界を羨むべきなのか、それともそれだけ傑出した脚本なのか、判断に迷うところ。
家族の中で唯一まともな父親役が「エンド・オブ・デイズ」のガブリエル・バーンなので、どうせ最後は悪いことするんだろうと思っていたが、、、
ガブリエル・バーンくらいになると、「この脚本はモノになる」と判断したんだろうな、という気がする。
最初にも書いたが、本作と「ミッドサマー」はほぼほぼ同じハナシである。
しかし、「ミッドサマー」には本作のようなラストの「取ってつけた」感がないだけ、成長した、ということなのだろう。
まさか、三作目はもっと怖い、とでも言うのだろうか、、、
ってほん呪じゃねーし。
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はぁ〜〜〜、才能のある映画監督との出会いとはこういうものか、と思った次第でございます。
通常我々は一本の映画を観るとき、全く予備知識無しで観るということはほぼないだろう。少なくともジャンルくらいは判っているのではないか。
そうじゃないと「レンアイ映画」だの「ひゅーまんどらま」だのを観てしまう危険があるではないか(ハナシ変わるけどヒューマン・ドラマってナニ?。ドッグ・ドラマとかエレファント・ドラマとかけっこう有って、それらと区別するためなら判るけどそうじゃないでしょ。映画とかドラマの登場人物ってほぼほぼヒューマンじゃねーの?いま登場「人」物って言っちゃったけど)。
本作についてもワタクシ空中さんは「ホラーである」ということは判っていた。
さらに言えばスウェーデンの田舎が舞台である事もわかっていた。
「ああ、アメリカ人がヨーロッパの田舎でわけのわからない宗教儀式に巻き込まれてシどい目に会うハナシね、、、」
ってなもんである。
なんとなく、「ホステル」がアタマに浮かぶ。
アメリカ人の田舎恐怖という観点からみると、「脱出(ジョン・ブアマンの奴ね)」とか「ウィッカーマン」とか頭に浮かんでさえいる。ピーター・フォンダの「悪魔の追跡」とかね(知らんわーーーーーーーーーーッつ!!)。
しかし、この映画の冒頭は、それらの予備知識から予想されるオープニングを全く裏切る。
映画開巻のド頭のカットがのタペストリーはまあ、いい だろう。それっぽい。多分、タペストリの内容が映画の展開を象徴しているのだろう。
しかし、次のカットはなにやら寒々とした森の風景。雪にまみれ緑色が全く感じられない針葉樹の、まるで静止画のようなカット。
コレが3枚続いたあと、突然アメリカの住宅街の夜景に電話の呼出音が鳴り響く。
一体全体コイツはナニを延々と書いているのか、とお思いでしょうが、なんか、全然ホラー映画のオープニングっぽくないのね。じゃあどんなんがホラー映画のオープニングっぽいんだよって困るけど。
しかしこの映画はオープニングから「スウェーデンのミッドサマーが舞台のホラー」と言う前情報から、何となく我々がイメージするオープニングと著しくかけ離れている。
監督の、「そこらヘンに転がってる凡百のホラー映画とはちょっと違いますよ」という決意のようなものがビンビンと伝わってくる。
で、夜の住宅地に鳴り響いた電話ですよ。
夜景からやがて一軒の家の鳴り響く受話器のアップになり、その家の中を映し出す。
寝室で寝ている老夫婦。
呼び出し音以外全く動きのない家の中。
コレはコレでそれなりにホラーっぽいオープニングではあるのだが、我々の脳裏にはある違和感が浮かんでいる。我々はこの映画が夏のスウェーデンを舞台にしている、という予備知識を得ているからだ。
こっからどうやって舞台を夏のスウェーデンに移すんだろう、、、
電話をかけていたのは心理学を学ぶ女子大生、ダニであった。
ダニの妹は双極性障害を患っており、ダニに不穏なメールを送ったあと携帯に連絡がつかなくなっていたのだ。
妹の携帯も実家の固定電話も連絡がつかなくなったダニは不安になり恋人のクリスチャンに電話をする。
この、クリスチャンとの電話で、二人の関係性、さらにはクリスチャンの友人たちとの関係性まで判ってしまう。
ダニは自らもパニック障害の傾向があり、精神的に完全にクリスチャンに依存していて、クリスチャンはそれを友人たちからバカにされている。
「そんなメンドいオンナとっとと別れちまえよ!」
というわけだ。
クリスチャンとその一味の四人組は文化人類学の院生で、論文のテーマを探している。
仲間の一人がスウェーデン(出た!)の地図に載ってないような奥地に、キリスト教以前から続くコミューンがあることを突き止め、そこでのフィールドワークを論文にするため、クリスチャンたち仲間に協力のため同行してもらう計画を立てていた。
そして、クリスチャンと何日も離れて暮らせないダニも同行する、と言い出すのだった、、、というハナシ。
ここまで、主人公ダニのキャラクターと置かれた状況、恋人やその仲間との関係性をたっぷりと描いている。
スウェーデンに出発するまで(出発してもある程度の時間)、ホラー要素一切なし。
凡百のホラー映画とは違いますよ、と宣言している。
まだ監督二作目の新人としてコレをやりきる実力と度胸には恐れ入る。やはり才能とはセンスだけじゃない、度胸も必要なのだ。
そして彼らは問題のコミュニティにやってきた。
彼らの他にも単純に観光目的のようなカップルもいたりして、村人は外部からの訪問者を熱烈歓迎。
しかし、訪問者たちは、本番の「ミッドサマー」、夏至祭の前に、前哨戦のような行事を見せられ、激甚なショックを受ける。
キリスト教的な、あるいは近代的な価値観と無関係な世界で育まれ、継続されてきた宗教儀式であり、人間の命というものに対する考え方が、まるで違うのだ。条件さえ揃えば、当たり前のように、淡々と自分の命を捨てる。それは自爆テロのようなものとも違う、「ナニかのため」必要だから、と熱い思いで、いうことではなく、ただ、淡々と、そういうものだから、と死を受け入れていく。
おそらくは観光目的だったカップルはこの出来事にショックを受けて村から出ていこうとするが、クリスチャン達一行、つまり文化人類学の徒はこの出来事に大興奮、クリスチャンは本来有事の研究に協力するだけのつもりだったが、自分もこの村をテーマに論文を書く、と言い出す始末。
つまり、ここでもダニは帰りたい気持ちとクリスチャンと一緒に居たいという気持ちに引き裂かれている。
ホラーと言えば普通夜のシーンが多そうだが、本作はこのあと夜のシーンがない。なにしろ白夜だから。寝るときは窓を板で塞いで暗くするが、隙間から光が漏れている。
夜のシーンが無いホラー映画というのも前代未聞ではあるまいか。
あくまでも明るい陽光の下、住民たちも明るく、やさしい中、徐々にダニたちは住民のペースに巻き込まれていく。
本作はホラーではあるが、オカルトではない。サイコホラーでもない。
住民たちは、あるいはダニたちを襲う者たちは、この世ならざる存在でも、殺しに酔う狂人でもない。ましてや犯罪者集団でもない(少なくとも自覚的には)。
彼らはある意味善良で正常な人間である。
ただ、現代では通用しない価値観に従っているだけだ。
彼らの宗教がドルイド教だとすれば、かれこれ4000年近くアタリマエのこととして続けてきた行動様式を守っているだけなのだ。
実はこの陽光の中繰り広げられるホラーが、凡百のホラーより怖いのはココだろう。 全く悪気のない善良なヒトビトによって徐々に追い詰められていく。
一体このシト達はナニを考えているのだろう、、、
とっても明るくて優しいシトたちなのに、、、
そしてラストのたったワンカットで、前半さんざん振って来た伏線を回収することによって、ホラーですらなくしてしまう。
ああ、コレがやりたかったのか、、、
結局、ホラーというフォーマットを利用して、オトメ心を描いているのだ。
監督二作目にしてなかなかのやりたい放題ぶりではないか。
あえて文句を言うと後半に「サラッと出したつもり」のドルイド教周辺のアレコレが、「サラッと出したつもり」なだけに、ウザい。
「あ、コレ、キミたちが観ても意味分かんないだろうけど、ちゃんと裏付けあるから。
興味あったら調べてみれば?」
という感じ。
うるへー!(←調べた奴)
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冒頭、チンピラ共がクルマの中でなにやらハナシているシーンの広島弁が嘘くさくてちょっとウンザリしました。
「仁義なき戦い」にこんなわざとらしい広島弁は一言も無かっただろう。
しかし、この直後、主役の松坂桃李クンが腹を刺される衝撃の展開から、鈴木亮平演じる狂気のモンスターヤクザが出所してきて以降、この映画にはずっとヒリヒリした緊張感が続く。
イマドキの日本映画でこんなに緊張感が続くなどということはめったに無いのではないか。
前作のラストで大上刑事(役所広司)の跡を継いで対立するヤクザ組織、五十子組と尾谷組のまとめ役になり、抗争を3年に渡り抑え込んでいた松坂桃李クン。
しかし、3年前の両組による手打ちの際に服役中で、手打ちの内容に全く納得していない奴がいた。
まあ、そもそも五十子組の組長死亡に対して尾谷組組長は逮捕って、ある程度不公平感のある手打ちではあったのだが。
そして、この3年前に服役中だった五十子組幹部上林(鈴木亮平)は想像を絶する武闘派だった。
彼が刑期を終えて娑婆に出てくる事によって、この3年松坂桃李クンが守っていた五十子組と尾谷組のバランスはあっという間に崩れ去り、呉の街は混沌の巷へと堕ちていくのであった、、、
というハナシ。
今、「想像を絶する武闘派」と書きましたけどね、コレは難しいよ。イマドキ一体全体どんなことをすれば「想像を絶する」などという形容がふさわしい武闘派ぶりがありうるのか。
しかしやってくれましたね。
出所したその足で立ち寄った先からもう、鈴木亮平の狂気に圧倒されっぱなし。
そう言っちゃなんだが、主に暴力的な映画中心に鑑賞に及んできたワタクシ空中さんの想像を絶する暴力的なキャラクターに、日本映画で出会えるとは思っていなかった。
もう、このヒト、やることなすことこちらの予想を上回ってくる。映画が後半に進むにつれて、ほとんど恐怖すら覚える。
冒頭に書いた「ヒリヒリした緊張感」は、9割がたこの鈴木亮平のもたらす恐怖によるものだ。
一般市民、敵対する組の組員はおろか、自ら属する組の兄貴分だろうがなんだろうが、オトコだろうがオンナだろうが、ちょっとでも気に入らなければ、あるいは自分の邪魔をするならば、容赦なく殺す。しかもヒドい殺り方で。
日本映画を観てその暴力の激しさにここまでおののいたのは「殺し屋1」以来ではないか。
そう言えば「殺し屋1」でも寺島進がこちらの想像を絶するヒドい目にあっていたっけ、、、
本作でもとってもに悲惨な目に合う寺島進。
師匠たけしの映画でも結構悲惨な死に目に合うことが多かったし、「イカツイ顔してるくせに悲惨な目に会うヒト」のアイコンとして映画界に認識されているのかも知れない。
「エイリアン」「ミッドナイト・エクスプレス」「エレファント・マン」と悲惨な死に方ばかりさせられていた昔のジョン・ハートみたいなもんだ。
イヤ、緊張が持続する邦画がもうひとつあった。山田孝之の「凶悪」だ。同じ白石和彌監督だ。
アレのリリー・フランキーも常にヒリヒリした恐怖を発して、映画全体に緊張をもたやらしていた。
思えば本作と同じようにアウトローをメイン据えた白石和彌監督作品、「凶悪」も「日本で一番悪い奴ら」も実録モノで原作付きであった。
しかし、本作もキャラクター設定こそ原作付きの前作「孤狼の血」に準じているが、ストーリーはオリジナルである。
白石和彌監督、あり物のストーリーに縛られなければ、こんなに面白い映画を作れるではないか。
実録モノの呪縛からも原作付きのさもしさからも解き放たれて、もっと自由にオモシロい映画を作って欲しい(もしかすると脚本の池上純哉が必要なのかも知れないが)。
ただし、途中村上虹郎演じる松坂桃李クンのスパイの行動の理由が良くわからない箇所がある。村上虹郎が裏切ろうとするのは解らないでもないのだが、その後の変節の理由が解らない。その辺の事情が判るシーンがカットされてるのかなぁ、、、
本作の緊張感が持続するもう一つの要因として、鈴木亮平という役者の得意な肉体の存在感と、今時珍しい覚悟の決め方にあるのは間違いないだろう。
「変態仮面」だろうが「西郷どん」だろうが倫理観の全く欠如したヤクザだろうがヘーキで演じきってしまう鈴木亮平は、おそらく今後の日本映画界にとっても最重要パーソンだろう。
その他、不気味な存在感を示す中村梅雀とその妻宮崎美子、もはや白石組の感がある中村獅童など、脇役陣も鈴木亮平の怪演をもり立てるが、やはり西野七瀬が強烈な印象を残す。
在日韓国人のスナックママにして刑事の情婦という難しい役を意外にあっさり演じきってしまったポテンシャルには恐れ入った。
なあちゃんはテレビドラマなどで棒演技を指摘されることが多いが、もともとアイドル時代もほとんど大阪弁で通してしまったヒトで、標準語のセリフではリアリティが出せないのだろう。今回は広島弁だが、やはり多少荒っぽいイメージのある方言のほうが合っているのだろう。もともと不機嫌な顔が似合うキャラクターが相俟って鮮烈なリアリティを生み出している。
結局、唯一の欠点は、
松坂桃李クンが鈴木亮平とタイマン張っていい勝負するようには見えない。
ということだろう。
この辺が原作付きの前作を引き継いでしまった限界なのよ。
松坂桃李クンは、前作の大上刑事(役所広司)の後をついで呉のヤクザをコントロールするべく奮闘する若き刑事、としては充分機能しているが、あの、モンスターと素手で互角にタイマン張るのは無理。
エリート刑事が先輩の死によって覚醒し孤狼になるまで、は出来てて「松坂桃李ってヤるなぁ、、、」と思っていたのだが、、、
それこそ綾野剛だったら可能だったろう。山田孝之でもタッパはないものの演技力でどうにかするかも知れない。
しかし松坂桃李クンには無理でした。
次作ではこういうことも含めて自由になってほしい。
ところで、ですね。
ちょっと気になってることがあるんです。
2つの組織の間に立って双方にいい顔してるフリをしてその実対立を煽り、両方とも潰してしまうヒーロー、というフォーマットはダシール・ハメットの「血の収穫」から黒澤の「用心棒」へと受け継がれた映画史上もっとも有名な遺産である。
北野武の「アウトレイジ」はコレの変形で、「二つの組織の小さな対立を煽ることによって大きな抗争を防いでいる」と豪語していた小日向文世はたけしに魂胆を見透かされてあっさり殺されてしまう。
コレは、双方の組織を潰すためならともかく抗争を防ぐだけでは正義を行っているとは言えない、というたけしなりの思想だろう。
抗争がなくてもヤクザはシノギを止めたわけではなく、一般市民に迷惑をかけ続けているわけで、むしろ抗争で疲弊しない分、力を蓄えているかも知れない。
だからこそ小日向文世は死ななければならないのだ。
どうも「孤狼の血」シリーズにはこの視点が欠けていて、抗争さえなければヤクザは存続してもいいと思っているフシがある。
もちろん、警察が頑張ればヤクザはなくなるのかというと多分なくならない。
世の中にはヤクザ的な生き方しか出来ないヒトというものがいて、そういうヒトの受け皿は必要なのかも知れない。
しかし大きな抗争を防いでいます、というだけでは一般市民の迷惑はちっとも減らないではないか。
松坂桃李クン演じる刑事はこの事に気づかないまま「オレってエラい!」と思ってるような気がする。
コレもある意味前作の残滓と言えるだろう。
ああ、白石和彌監督が自由に作ったメチャクチャな映画が観たひ、、、と思うのであった。
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正直言ってこの映画の設定はメチャクチャです。全然説明がつかないし、筋が通らない。
この映画は後半に向けて脚本・監督のジョーダン・ピールのメッセージが強烈に出てきて、もう、設定の整合性とかよりメッセージを展開するほうが大事になっている。
ふつう、そんな設定の整合性よりメッセージ臭優先の映画はつまらないと相場が決まっているのだが、、、
けっこー面白かったですぅ、、、
なんで面白かというと、主要登場人物たちの具体的な行動の描写がしっかりしてるから。
アデレードは子供の頃、両親と訪れた海辺の遊園地で迷子になり、迷い込んだミラーハウスで自分のドッペルゲンガーに会う、という体験をしていた。この時のショックでしばらく失語症になっていたが、今は克服して結婚し、子供も二人いる立派なお母さんである。
ある日、夫の友人一家と待ち合わせて海辺のリゾートへ行くが、そこはアデレードが迷子になったあの遊園地がある土地であった。
到着当日から周辺で不可解な事件が起こり、アデレードは夫に少女時代の事件を告白し、帰りたい、と頼むが、その夜、家の前に謎の人影が4体。男と女、そして子供二人。アデレードの家族と同じ構成だが、、、
はたして彼らは家に侵入して来るのだが、なんと、彼らは4人ともアデレードの家族にそれぞれそっくりだった。そして、彼らは(ある意味予想どおり)アデレードの家族に成り代わるため、アデレード達を殺そうとするのだった、、、
というハナシ。
殺しに来ているのだから、こっちも殺していかないと殺されちゃう、、、という訳で、ここからは家族対偽家族の殺し合いになります。
一旦撃退して夫の友人一家に助けを求めに行くが、友人一家は不意を突かれて既に全員死んでいた。そして、そこには友人一家にそっくりな襲撃者が、、、
どうもそっくりさんがいるのはアデレードの一家だけではなかったらしい。
コレはおおごとでっせ、、、感がハンパない。
見事だな、と思うのは、誰が、誰を、どうやって倒したか、ちゃんと判るように描いていることだ。さらに、それまでフツーの暮らしをしていた一家が、なんだかわからない殺人者たちをなぜ倒せたのか、納得の行くように描くことに成功している。
コレはスゴイことだよ。
何しろ子供がいるのだ。ただの中学生女子だの小学生男子がどうやって殺人に禁忌をもたない奴らを倒せるのか、あるいは少なくとも逃げおおせるのか。
「ああ、なるほど、コレなら可能かな、、、」
と思える展開にちゃんとなっている。
コレはスゴイことだよ2。
ストーリー上必要な展開を具体的なアクションに落とし込めるって脚本術って意外に貴重なのだ。
最終的に主人公のアデレードとそのソックリさんの二人はソックリさんのアジトに到達し、その中でタイマンを張るハメになる。
この辺の上手く二人だけになる展開も自然で上手。
そしてこのアジトの中での死闘中、ソックリさんは徐々に「自分たちがなぜ、どのようにして存在するのか」を語り始める。
語り始めるが、まあ、細かいことはどうでもいい。全然筋通らないし。無理だし。
要するに彼らはどうも政府が何らかの実験のために作ったクローン人間らしい。
しかし、コレまで生活していた食費、光熱費等どうやって捻出していたのか、最終的にどうするつもりだったのか、一体全体どの程度の規模で行われてた実験なのか、一切不明なママ。
「そのヘンは細かくツッコまないで、、、」
という脚本・監督のジョーダン・ピールの祈りが聞こえてきそう。
この映画は、劇中何度か「ハンズ・アクロス・アメリカ」に関する映像が出てくる。
「ハンズ・アクロス・アメリカ」とは、1986年にアメリカでちょっとだけ話題になったイベント。
Wikipediaによると
「1986年5月25日、15分間にわたり、アメリカ合衆国本土で人々が手をつないで人間の鎖をつくったチャリティー・イベントである。」
となっている。
要するに「ウィ・アー・ザ・ワールド」の流れらしい。
「金を払ってアメリカ東海岸から西海岸まで手を繋いでつなげよう」という、なにが楽しんだかサッパリ分からないこのイベントの趣旨は、結局、「アメリカ合衆国のホームレスと飢えを救済するために、」であった。救いたきゃ黙って金だけ払えばいいと思うが、それじゃ集まらないのが金というものであり、チャリティとはそういうものなのだろう。
この、なんだか良くわからないいかにも偽善的なイベントは、案の定はなはだ盛り上がりに欠ける結果に終わったのだが、この映画に出てくるクローンたちは、なぜかこのイベントの再興を目論んでおり、地下アジトからゾロゾロ出てきては、なんだか知らないけどみんなで手を繋いでいくのであった。
脚本・監督のジョーダン・ピールは、「ハンズ・アクロス・アメリカ」の失敗が腹立たしかったのだろう。
「なんだ。結局無視されたヒトビトは無視されたママじゃねーか」
これはつまり、無視されたヒトビトによる復讐劇なのだ。
自らも黒人であるジョーダン・ピールは「いつか、オマエらが(我々が)無視してきたヒトビトに復讐されるぞ」と言っている。
地下世界に閉じ込められてきたクローンたちは、自らがハンズ・アクロス・アメリカを再演することによって「オマエら、なんか忘れてねーか?」と問うている。
と、言うようなメッセージがあるのだが、メッセージの提出の仕方ははなはだ生硬である。しかし、そこまでの展開がちゃんと描けているので、結果、映画としてはとても面白いですぅ、、、
ところで映画のタイトルは「US」である。コレはUnited Statesのことでもあるだろうが、要は「我々」である。
果たして「我々」とはどっちの側なのだろう。
無視する側なのか。
無視される側なのか。
その答えがラストのどんでん返しなのだ。
「我々」とは、無視している側だと思っていたが、実は無視される側だった、われわれのことなのだ。
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やっぱダニー・ボイルってスゴイなぁ、、、と思うのである。
実は私空中さんは、ロンドン・オリンピックの開会式に感動してしまったのだ。
「前回のロンドンオリンピックから今回までの期間、イギリスが生み出した世界に誇れるものはロックだ!」
というオリンピックの開会式史上まれに見る明解なコンセプトに貫かれ、イギリスの全体像を無視して延々とロックが流れ、ロックスターが登場し続ける大胆さ。
そしてオープニングのVTR部分にピンク・フロイドをフィーチャーし、ヒプノシスのイメージを織り込む「解ってる感」。
VTRパートのラスト、ロンドン中を駆け巡っていたカメラがピンク・フロイドの「Eclipse」に乗せてスタジアムに到達するシーンなど、ワタクシ空中さんはほとんどイキそうなっていた。
ワタクシ空中さんの青春はブリティッシュ・ロックと共にあった。
もう、涙なくしては観れません、、、(それだけにTOKYO2020」とやらの意味不明でショボい開会式は恥ずかしかった、、、)。
そんなダニー・ボイル監督作品。
テーマはビートルズ。
もう、素晴らしくないわけがないよね。
いや、解るよ。解りますよ。
曰く、「ビートルズで重要なのはその先進性である」
曰く、「あのハーモニー無くしてなんのビートルズか」
曰く、「ビートルズとはカウンター・カルチャーのオピニオンリーダーである」
これらの理由を持ってこの映画を認めないヒト達がいる。
ビートルズってこんなもんじゃないよ、と。
それはそうよ、それはそうなのよ。でも、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
コレは、ダニー・ボイルによる、
「ビートルズの楽曲の詩とメロディーだけ取り出しても、名曲として通用するのか」
という思考実験なのだ。
そして、ダニー・ボイルの結論は
「通用する」
である。
そしてダニー・ボイルはさらに壮大な仮説を披瀝してみせる。
全く売れないシンガーソングライター、ジャックは、マネージャー以上恋人未満の幼馴染エリーに支えられてバイトしながら音楽活動を続けていたが、
「そろそろ潮時かな、、、」
などと思っていた。
そんなある日、夜中自転車で走っていた(貧乏だからクルマがない)ジャックは、突然辺り一帯が停電したことに驚き、おそらく同様に驚いたバスと接触、交通事故にあってしまう。
ジャックは大怪我をして入院するが、退院後に仲間が開いてくれた退院パーティで、エリーに新しいギターをもらう(前のは事故で壊れた)。
そして、「ギターにふさわしい曲を演ろう」と「イエスタデイ」を弾くと、その場にいた友人たちが全員、「なんて美しい曲だ、、、」と驚く。
エリーまで「こんないい曲、なんで今まで演らなかったの?」と言い出す始末。
アレ?みんなビートルズの「イエスタデイ」知らないの?
家に帰って「Beatles」でネット検索しても「Beetle」(カブトムシね)しか引っかからない。
アレアレ?ビートルズってオレの記憶の中にしかいないの?
つまり、ジャックはビートルズが「生まれなかった」平行世界へ転生したのだ。
世界中の誰もビートルズを知らないのをいいことに、ジャックはビートルズの曲を自作の曲として歌い始めたらさあ大変。
自主制作CDを作れば大評判になるわ、地元のニュース番組に呼ばれるわ、その番組を観たエド・シーランにオープニング・アクトを任されるわ、アメリカから大物マネージャーがスカウトに来るわ、もう、大騒ぎ。
かくしてジャックは長く面倒を見てもらったエリーを捨てて狂乱の巷アメリカへと渡るのであった。
しかし、名声が高まれば高まるほど、ジャックは疑問を感じ始める。
「オレ、こんなことしてていいんだろうか、、、どんなに売れても、ホントはオレが作った曲じゃないのに、、、」
というハナシ。
ま〜〜あ面白いよね。
だいたい、「興亡史」のうち、「興」の部分はどんな映画でも(小説でも)面白くなりやすいが、さすがダニー・ボイル先生、小ネタもふんだんに散りばめて、おおむね予想の範囲内のことしか起きないにも関わらず、全く飽きさせず、「興」のワクワクを持続させる。。
主人公やその友達のとぼけたキャラ、一転してギョーカイ人たちのエグいキャラなどを織り交ぜ、ちゃんとコメディとしても成立してるし。
しかし、我々は映画が進むうちにある「違和感」を感じるようになる。
「アレ?この世界のヒト達、ちょっとヘンじゃね?」
まあ、たいしてヘンじゃないんだけど、どっかヘン。ビミョー二にヘン。
なんかこの世界のヒト達、ミョーに物分りが良くない?
この映画はエド・シーランが本人役で出演し、全面協力している。
ローカルテレビに出て歌っていたジャックを観て、イキナリ自分のワールドツアーの前座に抜擢してしまうという役まわり。
そしてロシア公演が終わった夜、バックメンバーやスタッフとたむろしていたとき、エドはジャックに作曲勝負を挑む。
「前に作った曲はダメだよ。今この場で作った曲をみんなに聞いてもらって、投票でどっちがいいか決めてもらおう」
そしてジャックはおもむろにピアノを弾きながら「Long and winding road」を歌い出すのだ。
聞き終わった後、エドは言う。
「投票の必要はない。新しいスーパースターの誕生ってことだ」
あっさり負けを認めてしまう。
物分り良すぎじゃね?
フツーの映画の文法としては、一応投票はしたものの忖度する奴がいてジャックの惜敗、しかしエド本人は自分の負けを知っていて、、、的な展開もあり得ただろう。
しかし、あえてそうはならない。
なんてもの解りがいいんだろう、、、
実は、あの停電の夜、「ビートルズがいた世界」からこの世界に転生してきたのジャックだけではない。
少なくとも二人は劇中に登場して、ジャックに会いに来るのである。
ジャックは今日の観客の中にビートルズを覚えている奴がいると知って恐怖する。
ついに自分が盗作で名声を得ていることを糾弾される日が来たか、と。
しかし実際に対面した二人は驚くべきことを告げる。
「ビートルズの音楽がない世界は少しつまらなかったわ。これからも頑張ってね」
な、なんて物分りがいいんだろう、、、
そして、この違和感は、ラスト近く、恋人が元カレのもとに戻ると言い出した今カレの反応で決定的になる。
明日から愛し合った彼女がいなくなるというのにそんなにニコヤカに二人を祝福できる奴がいるか?
い、いくらなんでも物分りよすぎじゃ、、、
映画のラストで、ジャックも物分りが良すぎる選択をする。
つまり、ジャックと先の転生組の三人は、おそらくはこの世界にふさわしい物分りの良さ」を備えていたからこそ、この世界に転生してきたのだろう。
「ビートルズがいない世界」の住人は、「ビートルズがいた世界」の住人より、極端に物分りがいいのである。
おそらくはコレがダニー・ボイルがこの映画に託した映画のテーマだろう。
ビートルズが生まれなかった、と書いたが、それは、ジョン・ポール・ジョージ・リンゴのの4人がこの世に生を受けなかったということではない。彼らは生まれているのだ(そのうち1人は登場する)。
しかし、ビートルズは生まれない。
つまり、ヒトビトが物分りがよく、我々の世界より優しい世界ではビートルズは生まれないのだ。
なぜなら、ヒトビトが物分りがよく、優しければ、ジョン・レノンは「HELP!」と叫ぶ必要がないから。
かつて渋谷陽一は「ポップスターとは大衆の不幸の集積だ」と喝破した。
ビートルズがいない世界では、我々が今いる世界より、不幸が少ないのだ。ヒトビトが物分りがよく、優しいから。
つまり、ビートルズという偉大なポップスターを必要とした我々の世界は、ビートルズを必要としない世界より不幸なのだ。
その不幸を、ビートルズを始めとするポップスター達が埋めようと必死になっている。
コレは、大衆芸術全般の機能と言ってもいいかも知れない。
イヤ、解るよ、解りますよ。
「そんな理由でビートルズが生まれないくらいヒトビトの心象が違う世界だったら、もっと違う世界になってるんじゃね}
まあ、そうなんだけどさ、そこはいいじゃない。映画だし、思考実験なんだからさ、、、
実は「ビートルズがいない世界」には、我々の世界と比べて、他にもないものがある。
例えばタバコだ。
多分、ヒトビトがもっともの解りが良くて優しければ、我々はタバコを必要とするほどイライラしないのかも知れない(え?今でも必要ない?あ、そう、、、)。
ハリー・ポッターが存在しないのは、、、
やっぱりヒトビトが物分りがよくて優しいと、スリザリンは成立しないからかな、、、
ビートルズの楽曲を使った楽しい映画として成立させながら壮大な思考実験をしてみせたダニー・ボイルの才能には恐れ入る。
ところでちょっと不思議なんだけどさ、この映画を、ビートルズの先進性やハーモニー、そして歌唱力を含めた演奏力を理由に認めないヒトたちって、ビートルズの楽曲だけでは大したことないって思ってるのかな。
例えば、ビートルズのカバー曲なんて認めないのかな。
ワタクシ空中さんはスティーブ・ヒレッジの「IT’S ALL TOO MUCH」なんて原曲より好きなんだけどな、、、
あ、あと、この世界にはビートルズのパクリじゃね?と言われるあるバンドも存在しません。
まあ、コレは本人たちも怒らないだろうね、、、
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なんとなく、
「ヤクザ映画とはヤクザをカッコ良く描くものであり、過去、ヤクザの悲惨な末路を描いた映画など一本も無い」
と思っている若いヒトが作ったような映画。
実際、もしこの世に「ヤクザの悲惨な末路」を描いた映画というものが存在しなかったら、本作は傑作と呼んでもいいかも知れない。
しかし、当然のことながらそんなものはゴマンと作られてきたのである。
もう、腐るほど作られてきたのである。
「新聞記者」の藤井道人監督作品。
前回のレビューでワタクシ空中さんは「新聞記者」を演出に映画的興奮がないなどとほざいていたが、今回はストーリーラインからしてこの体たらくである。
しかし意外なことに本作は、「新聞記者」に比べると映画的興奮に満ちたシーンが用意されていたりもする。
例えば劇中最も動きの激しい「組長銃撃」などというシーンで、驚愕すべきワンシーン・ワンカットに挑戦している。
主人公(綾野剛)と組長(舘ひろし)と運転手、走行中のクルマのなかで3人で会話していると、バイクから横をすり抜けざまに銃撃される。慌てて止まったクルマから飛び出してチャカを持ってバイクを追う綾野剛。さらにクルマを振り返ると、、、
ココまでワンカットである。
これはもう、日本映画としては相米慎二以来といってもいいのではないか。
クルマの中で楽しそうに昔話に興じる3人の様子から一転銃撃の衝撃、さらにシーン終わりの寂寞感まで、このシーンのドキドキする緊張感をワンカットで描き切った度胸は素晴らしいと思う。
さらにこの映画にはもう一つ、不思議な、というか、え?マジ?と言いたくなるような映像的な仕掛けがある。
しかしそこを語る前にこの映画のストーリーラインについてもう少し説明しておく必要があるだろう。
実はこの映画で起こる出来事は、全て綾野剛演じる主人公のバカに起因している。
冒頭のシャブ強奪事件から、途中の組長襲撃事件の元になった暴力事件、さらには別れたオンナのところへ、「関わっちゃイケナイ」と解っていながら現れてしまうまで、もう、このにーちゃんの行動はことごとくバカ丸出しである。
途中の暴力事件など、「ヤクザの意地」を表現しているのだろうが、この時の暴行相手、敵対する組の幹部、駿河太郎の言い分をよく訊いて自分の組の幹部たちとよく揉んでいれば、その後の組の衰退をある程度防げたのではないか。
すべてがこの調子で、ヤレ極道だ男を磨くだと言いながら、その行動は単なる身勝手と我慢不足と短慮に支配されている。
で、何だこのバカは、、、脚本家や監督はコイツがいっぱしのヤクザというよりは、単なるバカな乱暴モノに過ぎないことに気づいているのだろうか、、、と思ってみていると、ああ、やっぱりバカであることに気づいていはいるのだな、、、と思わせる描写が出てくる。
殺人罪で15年くらいこんだ綾野剛が出所してきた後のショボクレた風貌が、なんと、天才バカボンのパパそっくりなのである。
もう、偶然とは思えない。
完全に寄せて来てる。
「ということは、ひょっとしたら収監される前は天才バカボンに似ているのかな、、、(ほっぺにグルグルがあるとか)」
と思って確認してしまったほど。
こんな映像ショックがあるだろうか。
おそらくはほとんど金のかかってないフツーのメイクで大した映像ショックを仕掛けてきたな、と思うのである(ホントかよ〜〜、、、今回ハナシ半分で聞いてくださいね)。
そして、映画は結局綾野剛をバカさ加減を肯定するような、毎度おなじみ、旧態依然とした「ヤクザ映画」として終わっていくのだが、、、
もし本作にヤクザ映画としても新味があるとしたら、
「暴対法以後のヤクザのあり方」
に焦点を当てている、ということだろう。
出所した綾野剛は一度は組に戻るものの、カタギになることを決意する。
そして先にカタギになっていたかつての弟分、市原隼人から、「5年ルール」の存在を知らされる。
5年ルールとは暴力団から脱退しても5年間は「暴力団関係者とみなされ、組員同様に銀行口座を開設すること、自分の名義で家を借りることができない。」というものである、コレはつまり携帯電話も本人名義では契約できない、ということであって、これからヤクザになろうかな、と思うアホにとってはある程度のブレーキにはなるだろう。。
しかしおそらくこのルールは、これからヤクザになろうという奴らへの心理的障壁というよりは、偽装脱退の防止にあるのだろう。現役暴力団員への規制は、かなり厳しいものでも社会的な合意が得られるだろう。そこで一時的に脱退したフリをして組のために様々な手続きをこなし、また組に戻る、あるいはそのまま組の「手続き係」として名義上脱退状態を保つ、という行為が横行することは予想できる。
「5年ルール」がこの偽装脱退を防ぐためのものであることは理解できる。
しかし、同時にこれから組を抜け、カタギに戻ろう、と思う人間にはとてつもなく高いハードルになってしまう。つまり、足を洗おうとするヤクザが減る。
その意味で問題のあるルールであることは事実だろう。
本作のテーマはやはりここだろう。
そしてこのテーマを端的に表す言葉が終盤刑事役の岩松了から発せられる。
「ヤクザの人権なんてとっくに無くなってんだよ!」
コレは、人権をめぐる映画なのである。
人権とは厳しい概念である。
それは、「人」権である以上、人間である、というだけで誰でもひとしなみに持つ権利である。したがって、もし人権というものを認めるという立場であるとするなら、文字通り、DNA的に人間でありさえすれば、連続殺人鬼だろうが売国奴だろうが強姦魔だろうが保証しなければならないのである。
ワタクシ空中さんは以前、とある憲法学者が連続殺人鬼に対して「とりあえず人権停止!」と叫んでいたのを聞いたことがあるし、とある政党党首は外国人には人権がないと思っていると思われる発言をしていたが、人権とは、そんな都合のいいものではない筈である。
ということは、当然、ヤクザにも元ヤクザにも人権は保証されなければならないのである。
この映画は当然「元ヤクザでも人権は保証されなければならない」ことを表現したかったのだろう。つまり、今、ヤクザや元ヤクザの人権は守られているのか、と。
おそらく、作中でヤクザや元ヤクザ自身で「ヤクザ(元ヤクザ)にだって人権はある」と主張していたら、この映画はそっぽを向かれていただろう。
ワタクシ空中さんもそこからこの映画に対するスタンスを替えていただろう。
もちろんヤクザの人権も守られるべきではあるが、「道を極める」といって背中にもんモンを入れ、一般の世界に背を向けたヤクザが一般社会の権利に守ってもらおうとするのは、やはり違う気がする。
この映画はやはりそのへんを逃げているな、という気がする。
自ら一般社会に背を向け他者たちをめぐる人権という重く鋭いテーマを、家族というファクターをぶつけて曖昧にしている。
そりゃ、家族持ち出されたらかなわないよなー、、、みたいな。
藤井監督には一度、ナニかのテーマと徹底的に向き合ってほしいな、と思う。
という一文で本稿を終えるつもりだったのだが、AmazonnでDVDのリンクを探していて驚いた。
本作、DVDが発売されていないのだ。
公開から1年経った映画でDVDが発売されないなどということがあっただろうか。
要はNetflixで配信されているので、DVDの発売を遅らせているらしい。
実はワタクシ空中さんもNetflixで観たのである。
コレが時代の変化というものか。
コリャこのブログのあり方も変えていかなきゃならんのかな、、、
JUGEMテーマ:映画
う〜ん、、、
正直残念で仕方がない。
今の日本のヘタレたジャーナリズムを映画で切り裂いて欲しかった。
今のクサレた政治の喉元に鋭いナイフを突きつけて欲しかった。
いや、一応そういうことはやってるのかなぁ、、、
ワタクシ空中さんは映画のジャーナリスティックなあり方を否定するものではない。
むしろ大いに期待するものである。
ただし、映画として面白いものであれば、のハナシなんだよね、、、
まず、新聞社のシーンで、編集部の描写のあまりの類型っぷりにウンザリしてしまった。
今まで何度映画で新聞社の編集部を見ただろう。それらの最大公約数的な「ザ・編集部」。
最大公約数的なセットで繰り広げられる最大公約数的な会話。
脚本をこなすのに精一杯で、このシーンにナニか強烈な映画的時間を刻もうという気概は到底感じられない。
そしてこの後も、
「後輩が謎の自殺を遂げた先輩の妻子を訪ねるシーン」
とか、
「真相を知っている主人公の先輩に路上でしつこく食い下がるジャーナリスト」
など、映画やドラマに限らず刑事モノ等でさんざん見たようなシーンが、特に印象に残るような演出もないまま積み重ねられてゆく。
その一方で、「内閣情報調査室」などという誰も見たことがない、今まで映画で描かれたことが無いようなシーンのリアリティの無さはどうだろう。
もしかすると前川喜平氏などに取材して、ある程度こういうものなのかも知れないが、何度も言うように映画のリアルとリアリティは違う。
非人間的な仕事をしている部署だから非人間的な雰囲気にしときゃいいダロってもんじゃない。
官僚と言っても所詮は我々と同じ人間である(そりゃそうだ)。
非人間的な仕事をさせられている人間の鬱屈が感じられる職場、的な演出があってもいいのではないか。
しかし、
「う〜ん、職場、、、非人間的、、、こんなもんかな、、、」
という程度の想像力しか感じない。
で、主演女優がシム・ウンギョン。
巷間、「反政府的と見られることを恐れて引き受けてくれる女優がおらず、しがらみのない韓国人女優が選ばれた」と言われているが、コレは宣伝の一種ではないか。
シム・ウンギョンクラス以上の実力・知名度のある20代から40代の(シム・ウンギョンは27歳、モデルの望月衣塑子は46歳)女優さんが全員女優魂より反政府のイメージがつかないことを優先させた、と断言するような宣伝はちょっと失礼ではないか。
そして何よりシム・ウンギョンがちっとも魅力的じゃない。
キャラ作りに迷ったまま撮影に入ってそのまま撮了してしまったという印象。
なぜもっと弱いか強いかキャラ付けしないのだろう。
もっと鋭くクールにツッコむ怖めのキャラとかさ。望月さんが嫌がるのだろうか。
端に悩みは多いが真摯に事実に向き合うお嬢さんでしかなく、そんなもんで「社会悪を追求する」などという映画を一本引っ張れるわけがない。
松坂桃李はさすがにかろうじて正義と家族の幸せの間で悩むキャラに拮抗できているが。
しかしですね。
ワタクシ空中さんが何より気に食わないのは、映画後半で扱われる事件の扱いである。
事件後半で松坂桃李の先輩の自殺を追う松坂桃李とシム・ウンギョンは、内閣府がすすめる医療系大学の真の設置目的が、生物兵器の開発にあることを突き止めるのである。
えーっとですね。
加計学園の新設が問題なのは、安倍ちゃんがオトモダチに便宜を図るために法律を捻じ曲げた時点で充分イカンのであって、生物兵器を作るための施設だからではない。
コレではまるでオトモダチに便宜を図るために法律を捻じ曲げること自体は大して悪くないみたいではないか。
オトモダチに便宜を図っただけでは映画にならない、というなら、この映画の存在意義はほぼ無くなってしまうのではないか。
体制側は本作を観て、
「ヘヘッ。オレたち別に生物兵器工場なんて作ってないもんね。カンケーねー」
と思っているのではないか。
シーンの演出やキャラ付けは膨らませないのに、そういうところだけは膨らますのかよ、と思う。
そもそも望月衣塑子氏はこの改変に納得しているのか。
藤井道人監督は35歳。
たしかにこの映画はシドニー・ルメットクラスが撮るべき映画なのだろう。いや、日本には山本薩夫がいた。
山本薩夫なら決してこんなうじゃじゃけた改変は許さないだろう。
まだ若い藤井監督には荷が重かったのかも知れない。
ワタクシ空中さんは曲がりなりにもこの映画が制作され、公開されたことを評価したい。作られないよりは良かっただろう。
しかし、こんなことをしていると、いよいよ日本映画から社会派映画の灯は消えてしまうのではないか。
「政府批判っつったってこんなもんでいいんでしょ」
ということになったらヒトビトは「社会派」と名乗っただけで誰も見なくなるだろう。
本作は安倍政権の闇をあぶり出すと同時に、日本映画界の貧困もあぶり出してしまったのではないか。
2022年には藤井監督によるNetflixオリジナルシリーズとしての「新聞記者」配信が予定されている。
今現在は同じ自民党政権とは言え一応首相が代わったせいだろうか、米倉涼子が主演を引き受けてくれたらしい。
果たして映画版よりは政権の闇に切り込んでくれるのだろうか、、、
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結構前からその傾向は有ったのだが、KANEDA体制では、
「なぜソレが心霊動画と言えるのか」
という根本的な問題を抱えたエピソードが多い。
この89巻など、ほとんどそうではないか。
多分、KANEDA氏は心霊動画などに興味がないのだろう。
「怖い」とはナニかについてのスタンスが、「呪いのビデオ」という概念から乖離してしまっている。
そして、KANEDA氏にとって怖いものとはなにか、は、提示されているのだが、、、
「繰り返される死」
ドライブレコーダーの映像を延々と見せられる。駐車場を出て、どこか荒涼とした(現地の人ゴメンナサイ)ビルの多い街を走り続けていると、とある倉庫のような大きい建物の横を走っている時、突然上から生首らしきものが降っていくる。
問題はナニが「繰り返される」なのか、ということですが、どうも、延々見せられた途中の道でいろんなビルからヒトが飛び降りていた、ということらしい。そんなこと分かるわけがない。
分かるわけがないし、ナニを持って「繰り返されている」と判断するのもかわからない。
普通に考えたら端に、
この日この街ではやたら飛び降り自殺が多かった。
というだけで、別にそれ自体は心霊現象じゃなくね。
ラストの生首の件だけは確かに心霊現象なんだけど、、、
「スナック」
スナックの奥に顔が映ってただけで、
「ダイエットの約束を破ったことに腹を立てた奥さんの生霊が来た」
と思える発想力、奥さんへの恐怖が一番怖い。
「凍氷」
もう、何度目かわからないミレーの「オフィーリア」ネタ。
なんかもう、心霊動画周辺の関係者にはこの絵画がオブセッションになっているかのよう。
「新婚旅行」
少女が床に寝っ転がってる。
ナレーションで「このホテルでは昔火事で少女が亡くなって以来、徘徊する少女が目撃されているらしい」と言われても、少女が床に寝っ転がってるだけの可能性のほうが高いと思うがどうか。
もっと「ホテルの従業員には見えていない」とか、逆に「従業員が恐怖に怯える」とか言う描写がないと、なぜコレを心霊動画とするのか、根拠が弱く、恐怖もクソもない。
「棲みつくもの」
だからさぁ、訳のわからんオンナが天井裏にいたってだけじゃん?イヤ、「だけ」っつーかそれはそれで怖いけど。心霊とか呪いとかいう問題じゃなくね。
「黒く蠢くもの」
案の定、SNSで「中田氏ね氏ね死ね」などとのたまっていたのは上田であった。
しかも上田はなんと「ほん呪」の内幕動画を「本当の、ほんとにあった!呪いのビデオ」などと称してSNS上にアップしているのであった。
この時点でなぜクビにしないのか、さっぱり分からない。
普通はすぐさまクビにして訴訟沙汰ではないのか。
少なくとも「このままでは訴訟を起こすよ」と脅すくらいは必要ではないのか。
ココでちゃんとクビにしないから、上田はなんとヒトに金を払ってほん呪委員会の面々にウソの証言をさせる、などというところまでエスカレートしてしまう。
ココまでヤラれてもほん呪委員会の対応は「呼び出して説教」である。
川居嬢は「先輩たちが築き上げてきたほん呪20年の歴史をなんだと思っているのか」というが、ワタクシ空中さんは同じことをKANEDA氏に言いたいんだけど、、、
おわかりいただけただろうか。
「ほん呪」は心霊動画を観せて視聴者に怖がってもらおう、という企画である。
だとすれば、この一連の上田に関するエピソードは本来の趣旨からは全く外れるだろう。
んなもんカットすれば良いではないか。
上田に関するエピソードを全カットしたって今回の「ドロドロ」のエピソードは成立する。
にもかかわらず、カットしないのである。
なぜならKANEDA氏がやりたかったのは、まさにこの上田という「面白ければ何でもいいとの理論に従って上司の忠告だろうがヒトの気持ちだろうが法律だろうが踏みにじる無軌道なワカモノ」を描くことだからだ。
そうとしか解釈しようがない。
つまり、KANEDA氏は心霊現象などより、浅はかな考えで暴走するワカモノのほうが怖いのだろう。
もっと普遍化すれば、
「イヤ、あり得ない呪いなんかより」生きてる人間のほうが怖いっしょ」
ということなのかも知れない。
とは言うものの、ハナシはまだ続く。
前巻で明らかにされた、バーで撮影された映像、突然他の場所の映像が紛れ込む「アレ」を久々登場「アジア魍魎研究所」の二人に見せて意見を聞いている。
ここ2巻ほど登場して中
ココで、KANEDA氏は「映像に心霊に写っちゃうことってあるんですかね」という、ほん呪史上もっともアホな質問を二人にするのである。
いやそんなこと言ったら「ほんとにあった!呪いのビデオ」って企画自体が成り立たないじゃん?と思うが、おそらくコレはKANEDA氏の本音だろう。そもそもKANEDA氏自体「心霊動画なんて信じてないよ」というスタンスを明らかにしてしまっている。
ある意味正直なヒトである。
そしてこの世紀の愚問に対するアジア魍魎研究所の返答がまた不思議である。
何故か研究所の所長はココで突然「あらゆる時空に偏在するもの」のハナシをし始める。
「例えば大日如来とかね。全ての時空に偏在するものって存在するんですよ」
イヤ、大日如来の存在を前提にすればそうかも知れないけど。
っていうかそもそもそんなこと訊いてないと思う。
なぜここで所長は唐突に、しかも延々と「遍く時空に存在するもの」の可能性について語り始めるのか。
実はコレ、ラストで分かるようになっている。今回の怪異現象は、時空を超えるのだ。
ラストで我々に明かされる映像は最近撮られたものだが、1年前に撮られた映像にこの映像の一部が紛れ込んでいるのである。
そして、重要なのはアジア魍魎研究所の二人はインタビューの時点でこの映像を見ていない設定だ、ということだ。
まだ、時空を超える見ていないにも関わらず、時空に偏在する存在を語ってしまう所長。
まさか、彼もあらゆる時空に偏在する存在だ、とでも言うのだろうか、、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
ココ数巻、呪いだの恐怖だのよりも人間ドラマに傾倒するKANEDA氏の演出方針に疑問を感じていたが、ココに来ていよいよ、恐怖だの以前に「投稿映像を基にしたノンフィクション」っぽく作ることすら諦めたようである。
どこへたどり着くのだろうか、、、
「みてはいけない」
要は友達に人面瘡があったハナシ。
人面瘡の周囲の皮膚と本人の皮膚の色が明らかに違うのはいかがなものか。
「いるはずのない同級生」
20年前の中学校の卒業式。在校生によるいわゆる「呼びかけ」の様子をおそらくは父兄のひとりが撮影している。
10数人の2年生が壇上に並び、一人ひとりアップを撮影しているが、カメラが舞台の袖を撮ったとき、壇上を覗き込んでいる少年が映る。
この少年がヘアスタイルといい輪郭といい、メガネを取った魔太郎が来るにしか見えないのだが、ソレはひとまず置いておこう。
舞台の袖にいるこの少年を、カメラがパンする最中に一瞬捉えたのではなく、明らかにこの少年を撮るために止まっているのがリアル。撮影者はソコにナニかがいることには気づいているのである。
投稿者にインタビューすると、この少年は卒業式以前にいじめを苦にして自殺しており、その時そこにいるはずがないのだという。
そして、壇上にいる2年生のうち、自殺した少年をいじめていたとされる少年の顔がノイズで消えている、、、
このハナシはこの後投稿者へのインタビュー映像も含めてちょっと意外な展開を見せて斬新。
少年の不気味な造形とあいまってこの巻の意欲作と言って良いのではないか。
「みつけて」
女子の合宿+窓の外で落下、というどちらも何回見たか分からない王道路線の組み合わせでなんとかなるかと思ったがなんともなりませんでした、という例。
「シリーズ監視カメラ 外壁工事」
自室マンションのベランダに干しておいた高級スニーカーを盗まれた女性が、犯行の瞬間を押さえるためにカメラを設置する。
で、まあ、「出る」わけですが、どうも投稿者の自殺した友人らしい。しかもその友人は盗まれたスニーカーを気に入っていたらしい。
一体全体スニーカーはどこに行っちゃったんでしょう。幽体が実体を持ったスニーカーを履けるんでしょうか。霊魂はスニーカーの霊魂を履くんでしょうか。
イロイロ考えさせられますね。
ところで舞台となったマンションが「外壁工事」中であることってなんか関係あった?
エピソードのタイトルの付け方にも疑問を感じる。
「疾走」
20年以上前のホームビデオ。まだよちよち歩きの投稿者のいとこが部屋の端のアコーディオンカーテンの前までよちよち歩いた時、やたらひょろ長い人影が写っている。
この直後にいとこは失踪してしまったので、この人影と何らかの関係があるとでもいうのだろうか、、、というハナシ。
このひょろ長い人影の造形がちょっと不思議。
なんつーか真鍋博のイラストにしか見えない。
真鍋博についてはぐぐるかお父さんに聞いてください。
「続・?く蠢くもの」
毎年恒例夏の三部作の2作目。
今回は前巻のラストでチラッと出てきた「川居尚美嬢時代に没になったが今回の案件と同じ事象が起きている映像」への取材が主体です。
仲間と一緒にバーで飲んでいる映像なのだが、そこで何かが起こるらしい(最後までもったいぶる)。
川居尚美嬢を呼んで前回取材が中止になった事情を聞くとともに、この件については川居尚美嬢も取材に協力することなった。
そして再取材の結果、
・前回は取材途中で投稿者側から取材中止を申し入れてきたこと。
・中止の理由は同席していた仲間のひとりのお子さんが亡くなり、 この手の取材に耐えられる状態ではなかったからであること。
・1年経ってお子さんを亡くした仲間の状態も落ち着いてきたので再取材を受ける気になったこと。
などが判明する。
そしてお子さんを亡くした仲間に直接取材した結果、亡くなったお子さんは、無くなる直前、近所の死亡事故現場に手向けられていた花を一輪、持ってきてしまう、という出来事があり、コレを縁起の悪い出来事として記憶していた、という。
う〜ん、、、
弱くない?
道端の花持ってきちゃうだけで呪いが伝染しちゃうの?
しかし、川居尚美率いるほん呪スタッフは事故現場まで取材に赴き、未だに花が供えられていることを発見、あまつさえたまたま花を供えに来た人物に接触成功してしまう。
花を供えに来ていたのは事故で亡くなった子供の父親と名乗った。
しかし実の父親ではなく、離婚した妻の連れ子を引き取って育てていたのだという。
う〜ん、、、
連れ子のいる女性と結婚して離婚して引き取った子供がまだ4歳か、、、
愛情の深い方である。
しかし今回のポイントはやはり上田の暗躍である。
今回、上田は表立ってあまり暴れていないが、演出補中田がSNSで「ほん呪」を中傷するアカウントを発見する。
主に「中田氏ね中田氏ね中田氏ね中田氏ね」「最近つまらん」といったたぐいのものだが、一つ気になるのは「出戻り川居ウザい」といった川居尚美嬢の復帰を知っている点である。
中田がこの書き込みを発見した時点で川居嬢の復帰はまだ発表になっておらず、この情報を知っているのは内部の人間である可能性が高いのだ。
そんなもん上田に決まっているではないか。
「内部の犯行の可能性が高い」まで分かっていながら、なぜ上田に問いたださないのか、訳がわからない。
こういうところにフィクションの影が見えてしまうというのだ。
最後にやっと、「同じ現象が起きている」という映像が見れる。
「ほん呪」の系譜で言えば、「別の映像が紛れ込んでしまう」系である。
バーの中で最つえいしている映像に、一瞬のノイズのあと、どことも知れぬ部屋の中に切り替わり、その中に確かに前回の投稿映像とそっくり、顔にドロドロしたものを塗り込められた女性が佇んでいるの映っている。
なるほどね、確かにこの二つの映像には何らかの関係があると思わせるには充分である。
ココでちょっと言っておきたいんだけどさ、このエピソードも、いわゆる「夏の三部作」のひとつな訳じゃん(知らないヒトのために一応説明すると、「ほん呪」シリーズでは夏場リリーズされる3巻には、一つの大掛かりなエピソードを3巻に分けて収録するのが恒例になっているのだ)。
ということは、3部作の1作目で、「コレは3部作にする」と分かっているわけである。つまり、1作目の時点で、最後の3作目まで撮影は終わっている筈である(もしかすると編集まで)。そうじゃないと3部作にするに値するネタかどうか分からないではないか。
この時点でこのSNSでの中傷の件を編集で切っていない、ということは、次の3作目でこの中傷していた人物の正体が割れる、ということなのである。
そんなもん、この事件と関係がなかったらカットすればいいだけである。
一作目で暴れる上田のエピソードも切っておらず、今作でも一見事件と関係ない中傷の件を切っていない。
つまり、中傷の犯人はこの時点で上田以外ないのだ。
なんか、もうちょっとうまく構成できないかなぁ、、、と思う。
まさか、犯人は上田じゃない、まだ登場していない第三者だ、とでも言うのだろうか、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
イマドキ投稿映像は当然、スマホで撮った映像が主体である。が、大体縦長の構図で撮ってるよね。
たしかにスマホは通常縦長に持つが、それこそイマドキTVもパソコンも画面は横長なのだから、撮影するときは横にして持つ、くらいの発想は無いのだろうか。
「マツコの知らない世界」に出てきたSNS大好き女子高生も「自撮りは横長画面で!」と言っていたのになぁ、、、
いつか、スマホ撮りの投稿映像が横長の構図中心になる時代が来るのだろうか、、、
「異世界」
とあるトンネルでは特定の時間に特定の楽器を鳴らすと怪奇現象が起きる、、、という都市伝説を検証するためにおっとり刀で件のトンネルへとやってきたオカルト大好き三人組。
トンネルの手前でスマホから当該音楽を検索して鳴らし、トンネルに突入すると、、、
というハナシ。
まあ、怪奇現象は起きます。
しかも盛大に。
まず、トンネルに突入した途端に同乗者が二人消えます。しかも運転手と助手席。撮影者はひとりで後部座席にいたのだ。
運転手が消えてしまい撮影者が焦っていると、次は音を立ててありとあらゆるウィンドウに赤い手形が次々と付き始める。
が、トンネルから抜けた途端に同乗者の姿は戻り、手形も消えていた、、、
コレはなかなか大掛かりだなぁ(イヤ、仕掛けじゃないけど)と思う。当然最初から最後までワンカットであり、明瞭な繋ぎ目はない(様に見えた)。
中村氏の「撮影者ひとりが、、、異世界に行っていた、とでも言うのだろうか、、、」というナレーションで初めて意図(?)が分かる。
「公衆トイレの不審者」
飲み会の帰りに腹痛を覚え、公園のトイレに駆け込み用を足す投稿者。
個室の外でうめき声が聞こえるのでドアの下から外部を撮影すると、裸足の足がうろついていた、、、
それだけでは足りないと思ったのか、この後もう一捻りしているのだが、蛇足である。
トイレの中を徘徊していた人物は2m以上身長が有るのではないか、というのだが、写っていた裸足の足が2m以上あるヒトの足に見えない。いかにもあと付け感があって逆効果ではないか。
「ビル火災」
火災現場に遭遇した投稿者は現場の様子を撮影するが、後から見直すとビルから飛び降りる人影が写っていた、、、というのだが。
正直言ってReplayされようがスローになろうがアップにされようが全く分からない。
さらに、
?後日この火事を報じた新聞記事では「けが人はいない」と報道されていた。
?投稿者の友人も別の場所でこの家事を目撃した際、やはりビルから飛び降りる人影を目撃していた。
?投稿者とその友人は同じ病院の生まれである。
?その病院では女性による焼身自殺があった。
などと必死であと付けしているが、一切無意味ではないか。
えーっとですね。
よく考えてね。
コレ、呪いのビデオどころか心霊映像ですらないでしょ。
ただ飛び降りの現場をカメラに収めた、というだけのハナシではないか。
遺書とか揃えた靴とかあったら、自殺として処理されて、火事による被害者にカウントされないだろう。
ナニを持ってコレが心霊映像であると思ったのか分からない。
「物怪」
久々に昔の映像。
何十年も前に親戚一同集まって旅館に泊まった際の宴会を撮影している。昔は一般庶民はこういう時にしかビデオを回さなかったのだ。
親戚の子供が落ちたおもちゃを拾おうと卓袱台の下に手を伸ばした様子を撮影していたカメラは、卓袱台の下に隠れていた「もののけ」の姿を捉えてしまう。
「もののけ」の造形はあまりリアリティが無いが、拾おうとした子供が微妙にビクっとして曖昧な表情を浮かべているのがリアルでよい。
中村氏によってこの子の語られるが、コレも余計かな、、、
ところでこんな昔の映像にモザイクかける意味有るのかな、、、
「船上」
遊覧船(連絡船?)に乗った投稿者が並走してくる(なんらかの)鳥を撮影していると、ふと、船の縁にしがみついた左右の手が、、、
手の造形及びしがみつき方にリアリティが有る。
正直、本当に誰かがしがみついて、色だけ生気のない色に変えているようにしか見えない。
KANEDA氏は映像技術のヒトなのかなぁ、、、
「黒く蠢くもの」
今回の長編。
おそらくはいわゆる「夏の三部作」の一本目。
投稿者は妊娠中の若妻。夫とともに妊娠の定期検診に行った帰り、「せっかくだから」と訳のわからない理由で神社にお参り行く。
そして境内で撮影した映像の中に、投稿者の顔になにか「黒く蠢くもの」が張り付いているように見えるカットが有る。
投稿者はその後体調が悪くなってしまい、
怖くなってほん呪委員会に持ち込んでしまう。
前々からある程度その気配はあったが、ほん呪委員会、もうすっかり心霊現象の駆け込み寺扱いである。
しかしですね、もう、そんなことはどうでもいい。
そういうレベルのハナシじゃないのだ。
過去数回に渡ってKANEDA監督の、作風についてワタクシ空中さんなりの考えを申し述べてきたわけですが、今回もいよいよワタクシ空中さんの考えを補強する結果になっております。
もう、KANEDA監督は恐怖とか心霊現象とかに興味無いよね。
ここ数作のテーマは「人間、知花はる」VS「ヘンタイ演出家」だったが、本作のテーマはズバリ、「野心家新人演出補、上田」を描くことである。
突如現れた小柄でハッキリした顔立ちの新人演出補上田は、とにかくほん呪を「面白ければ何でもイイ」式で捉えている。
実を言うと先の投稿は、投稿者の夫の猛反対にあって、一旦取材を中断することが決定する。
にもかかわらず上田は委員会に内緒でひとりで取材を続け、投稿者宅を見つめていたという謎のオンナの目撃者を見つけてくるわ、取材に反対していた当の旦那にパパラッチさながら突撃取材を敢行していよいよ旦那を怒らせるわ、もう、大暴れ。
突然目撃者を委員会の面々に引き合わせて度肝を抜いた上で、突撃取材の映像を見せてニヤニヤ笑ってドヤ顔するにいたって委員会の面々は、怒りよりもむしろ恐怖を覚えたのではあるまいか。
「ナンだコイツ、、、」
正直、ワタクシ空中さんも、おそらくは視聴者全員も、同じ気持ちです。
なぜならソレが、ソレこそがKANEDA監督のミッションだから。
この、「面白ければナニをやってもイイ」という行動原理を持つ、倫理観の欠損した若者自体と、彼と比較的マトモな委員会の面々(特に中田)との軋轢を描くこと、そして敢えてKANEDA氏の管理者としての資質の欠落ぶりを堂々と晒すこと。コレがKANEDA氏のやりたかったことなのだ。
というか今回ソレしかやってません。
前回過剰なモラリストぶりを発揮した知花はる嬢とその味方であった中田。今回は身内に倫理観の無いサイコパスを抱え込み、モラリスト対サイコパスの構図でKANEDA氏得意の「人間ドラマ」を見せよう、という試みである。
イヤ、実を言うとKANEDA氏が人間ドラマが得意なのかどうかは分からない。というかどうでもいい。要は恐怖とか心霊とかに興味がないから人間ドラマでもやるしかないのだろう。
だいたい考えてみてもらいたい。
上田クンが撮ってきた突撃映像や、上田クンのヘラヘラ笑い、そして上田クンと中田がつかみ合うシーンなど、本来のほん呪のコンセプトから言えば、ただ、
「カットすればいい」
だけである。
そのような本来の目的からすれば異物でしかないシーンを敢えて収録しているというのは、要はそのために撮ったからでしょ。
さらにKANEDA監督はもうひとつ仕掛けている。
実はこのエピソードの冒頭、ほん呪委員会は引っ越しをしている。この20年のさまざまな思い出の詰まった建物が老朽化のため、新事務所への移転を余儀なくされたのだ。
で、引っ越し自体はどうでもいいのだが、ここから思わぬ副作用が生まれる。
引っ越しにあたって過去の映像をチェックしていたところ(この理由もちょっとどうかと思うが)、今回の投稿者に起きた現象と同じ現象を過去の投稿映像から発見してしまう。
「ソレ、誰が構成のとき?」
「川居さんですね、、、」
そして、次回予告に堂々と川居尚美が登場している。
もう、あまりに販売数(レンタル数?)が少ないので、とうとうかつての人気スタッフにご登場願って数字を回復しようというのだろう。
フツー、こういう状況を「末期的症状」というのだろうな、、、と思う空中さんであった、、、
まさか、KANEDA氏から川居尚美嬢へと演出・構成が戻る伏線である、とでも言うのだろうか、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
かつて「Jホラー」という言葉があった。
ほぼほぼ中田秀夫と清水崇のことだと思っていいが(まあ、あと白石晃士と鶴田法男かな、、、)。
時期で言うと、1996年の「女優霊」(中田秀夫)からせいぜい2006年の「呪怨 パンデミック」(清水崇)までのちょうど10年間くらいではないか。
この10年後とは、奇しくもこの二人がハリウッドに渡って自作のリメイクを作った頃でも有る。
このハリウッド行きが影響しているのかどうか分からないが、この後この二人の作る映画が怖かった試しがない。
もう、ホント試しがないのよ。
そんなこんなで怖いJホラーが絶滅してから幾星霜、裏切られ続けて15年。
そんな中、前作「犬鳴村」のヒットを受けて清水崇の「村シリーズ」新作です。
で、もうね、一緒です。この15年と。
「犬鳴村」とも、監督の違う「貞子」とも「事故物件」とも一緒。
最初の30分ぐらいは結構怖いんだけど、どんどんグダグダになっていくあのパターン。
もう、だいたい原因も分かってきたね。
要するに貧乏性なのね。
「樹海村」っつってんだから、
「富士山の麓には、樹海で死にきれなかったヒトたちが暮らす『樹海村』と呼ばれる村が存在しているらしい、、、」
だけでイイではないか。
なぜコトリバコなどノせてくるのか。
しかも登場人物のひとりがハッキリ「コトリバコ」と言っているにもかかわらず、仕様が全然コトリバコじゃないのはどうしたことか。全然「子取り箱」じゃないし。
理由は二つ考えられる。
しょにょ1.樹海村だけじゃ尺が足りなくなる、あるいは観客が物足りなく感じるのではないか、という不安に駆られた。
しょにょ2.コトリバコのハナシに興味がある観客も取り込める。
まぁ〜貧乏くさい。
ほんっとビンボ臭い。
あぁ〜あ、びんぼうクサい。
「樹海に死にきれなかったヒト達が作った村がある」というワンアイデアをディテールや演出で膨らませて面白くするのが映画というものではないのか。
ワンアイデアで面白くなるかどうか不安になってなんかその辺に転がってたネタ中途半端に引っ張って来たようなモンが面白くなるわけがないではないか。
なにゆえその様な想念に取り憑かれたのかは分からないが、
「色々詰め込まないと客が満足しないのではないか」
という恐怖が彼らをかかる貧乏性に駆り立てるのだろう。
「呪怨」がこのような貧乏性に囚われていただろうか。
「ストーカー女が夫に殺された家に立ち入った奴はみんな死ぬ」
コレだけではないか。
このワンアイデアを、掘り下げて、膨らませて、エスカレートさせて怖く、面白くしているではないか。
ちなみに他人の映画でも申し訳ないが、「リング」も「観ると7日以内に死ぬ呪いのビデオ」だけではないか。御船千鶴子のエピソードなど盛り込んで入るが、あくまで呪いのビデオを掘り下げているだけである。
使い古された名言だが、「神はディテールに宿る」である。
テレビドラマならいざしらず、映画の上映時間で面白く処理できるアイデアの数は限られている。メインのアイデアはひとつでも、ディテールを積み重ねて膨らませなければ面白くならないのだ。
どうも最近「ホラー+エンターテイメント」などという訳の分からない概念が猖獗を極めているのも不安にさせられる。
ホラーの時点でエンターテインメントなのに、「+エンターテインメント」とはどういうことなのか。
どうも恋愛要素や家族ドラマ要素があると、「+エンターテインメント」と言ってしまっているのではないか。
ホラーにだってフツーにそれくらいあってイイッちゅうねん。
もしかすると
「ホラーは怖くてイヤ!!」
などというヒトを視野に入れての戦略なのかも知れない。
「ホラー」だけではヒトが呼べない時代のポイズンなのだろうか。
本当に怖い国産ホラーを観たい、という希望はしばらく無理なのかも知れないな、、、
JUGEMテーマ:映画
多分、原作、脚本、(出来上がった)映画の間で、リアリティのレベルが全然合ってないんだと思う。
小説と映画のリアリティのレベルはもともと違う。
通常、ここに存在するレベルの差を埋める(気にならなくする)のは、演出、つまりは監督のマジックであるはずだが、今回は監督のマジックが逆効果に働いているようである。
要は、田舎(三重県らしい)の怪異を東京に連れてきちゃうハナシ。
但し、物語の語り手は連れてきちゃった奴(妻夫木聡)、連れてきちゃった奴の奥さん(黒木華)、連れてきちゃった奴の知り合い(青木崇高)の知り合い(岡田准一)、と移り変わって行く。
最終的に連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女(小松菜奈)、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉(松たか子)、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉の仲間(柴田理恵)だのなんだの巻き込んでの大騒ぎ、連れてきちゃった奴の子供を守らなきゃ、、、となる。
連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉、松たか子は実は警察をアゴで使うほどこの国の権力者に近い霊能者であり、連れてきちゃった奴のマンションでお祓いをするに当たり、周辺の道路を封鎖するわ、マンションの向かいの公園を接収して神楽殿は作るわ護摩壇は作るわ、大騒ぎの準備を始めてしまう。
連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉の仲間、柴田理恵によれば
「琴子ちゃん(松たか子の事ね)は使えるものは何でも使うの」
とのことだが、神道だろうが仏教だろうが沖縄のユタだろうが力の有る知り合いは関係なく呼び寄せているのだ。
実を言うと、この、公園に大勢集まってきて大仰な準備を始めるシーンは面白い。
なんかワクワクする。
公園の中で女子高生が数人でキャピキャピして写メ撮ってたりするので、
「なんでコイツラ追い出されねーの?」
と思っていると実は巫女舞の巫女さんだったりする。
しかし、ここでちょっとモヤモヤもする。
なぜ、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉がこんな大仰な騒ぎが必要だと判断したのか、よく解らないのだ。
もちろん彼女は日本最高の霊能者なので、霊能力を使ってブッキーが三重の山奥から連れてきた怪異の実力を察知したのかもしれない。
しかし、観客には何を持ってそう判断できるのか解らない。
このモヤモヤとワクワクの間の谷に、観客のリアリティは落ち込んでしまう。
実を言うと前半(3分の2?)は、ワリと丁寧な人間描写が続く。
特に語り手が連れてきちゃった奴の嫁に移るパートは黒木華の巧さもあって、文学的なリアリティがあり、2時間30分の中でもっとも普通の映画として観れるパートだろう。
しかしこの後のパートのリアリティは文学的なものから中島哲也監督特有の映像派のリアリティに移ってしまい、観てるものは呆然とするばかりである。
特に、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉(まあ、クドい様だけど松たか子ね)の造形のリアリティの無さは有る意味すごい。
そのリアリティの無さもまた中島哲也監督の映像センスなのだが、前半の、「イクメンぶってるだけで頼りにならない夫にウンザリする妻」の描写がリアリティが有るだけに接合しないのだ。
さらに、劇中「アレ」とのみ呼ばれる怪異について語られないのも観客が置いてきぼりになってしまう理由になっている。
冒頭からブッキーの小学生時代に友達だった女の子が「アレ」に連れて行かれてしまう描写がある。
そしてブッキーが成長したとき、地元の人達はその女の子がなぜ行方不明になったのかを知らない。
別に地元で有名な現象ではないのだ。
そんなマイナーな怪異がなにゆえ突然東京までブッキーを追いかけてきて大殺戮を繰り広げるのか、わからない。なんなのコイツ。
別に正体がわからなくてもいいのよ。
ただ、性質というかあ る程度の行動原理、また強力さくらい分からないと、どう怖がって良いのか分からない。
オリジナルビデオ版「呪怨」の怖さはあの、見境無さだと書いたことが合ったが、アレですら一応「家に入った奴」という縛りはあった。だから観てる方も「ああ!!その家に入っちゃダメ!!」なんつってハラハラ出来たのね。
最初は(20数年前?)三重の田舎の山の中で小学生の女の子を「連れて行く」くらいだったのに、何を契機に都会の真ん中でタクシーひっくり返して乗客全員殺すような凶悪なキャラに成長するのか。
この調子だとあの辺に住んでるヒトたちは次から次へと死んでしまうのではないか。
なぜなら、女の子が「連れて行かれる」とき、
「あなたもそのうち連れて行かれるよ。だって嘘つきだから、、、」
と言っているのだ。
私見によればこの世の中の人間の99.8%は嘘つきである。
ほぼほぼ全滅してしまうではないか。
にもかかわらず、地元で知られた存在ではないのだ。
訳が分からない。
原作小説は読んでいないのでよく解らないが、恐らく、田舎から出てきて10年以上経っていると思われるブッキーが狙われるのは、ブッキーがイクメンブログで嘘をついているから、ということだろう。だったらなぜブッキーの奥さんや娘まで連れて行こうとするのか。
誰でもいいんなら近場で三重の田舎で選べばいいではないか。
もしかすると原作小説ではその辺詳らかになっているのかも知れない。
しかし、中島哲也監督はそーゆーことには興味がないのだ。
もう、ストーリーの整合性とか因果関係とかどーでもいい。
インパクトのある映像が撮れればいいの。
松たか子の傷メイクとか。
街中のショボい公園に突然神座の建設とか。
そこで巫女舞とか。
これも中島哲也監督の個性なのか、総じて女性陣の演技が素晴らしい。連れてきちゃった奴の嫁(黒木華)と連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女(小松菜奈)の演技も素晴らしいが、連れてきちゃった奴の知り合いの知り合いの彼女の姉ちゃんの仲間、柴田理恵が素晴らしい。
柴田理恵の一切笑いのない(泣きもない)ガチでマジな演技というのは初めて観たが、柴田理恵さん自身の造形の素晴らしさも相俟って、劇中最も強烈な印象を残す。
この柴田理恵さんだけが、原作のリアリティと映像のリアリティをなんとか繋ぎ止めようとしているようである。まあ、失敗してるんだけど。
松たか子は最もリアリティの無い役なのでワリを食ってるが、もともとこの役には似合わないよね。ガラに合わなさをリアリティの無いメイクで埋め合わせようとしてるのかなぁ、、、
これに対して男性陣がその場その場のリアリティでいっぱいいっぱいになってしまっている印象。
ブッキーは途中から同じ時間を別の角度から描くことで、全く別の相貌を見せるという役なのだが、これが、前半誰の視線で描いていて後半誰の視線で描くことで別の面が見えてきているのかが分からず、なんか不利な役回りだなぁと思う。
こういうのってフツー誰の視点から見るとこうだけど、別の人物の視点から見るとこうだよって言うのが分かるように描かないと、観客には伝わりにくいんじゃなかろうか。
なぜ裏の顔が周囲の人間にバレないのかが分からないのだ。
う〜ん、もしかすると、松たか子の役を柴田理恵が演じていれば、二つのリアリティを接合できたのかなぁ、、、
JUGEMテーマ:映画
丸谷才一は大岡昇平の「野火」を評して「『野火』は対句によって書かれている」と断言していた。
対句とは二つの事象を並列して記述する、レトリックの一種。
例えば、ミステリーファンには有名なウィリアム・アイリッシュ作「幻の女」の冒頭
「夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった」
という対句二連発は最も有名な対句だろう(肝心の「野火」から引用すると長くなるのでヤメておく)。
えーっとですね。
別に対句の講義がしたいわけではない。
この場合の「対句によって書かれている」というのは、「野火」にはさまざまなレトリックが仕込まれているが、対句の数が飛び抜けて多い、という程度の、コレもまたレトリックである。
そして、丸谷才一先生のレトリックそ借りれば、
「山中貞雄の『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』は、『転回点の省略』によって描かれている」
となる。
ちなみに「転回点の省略」とは、今、ワタクシ空中さんが編み出した新語です。
既に確立した映画用語があるかと思って探したが、見つかりませんでした。
例えば、左膳は居候兼用心棒している矢場(今でいうと射的とスナックが合体したような不思議な施設。おねーちゃんにお酌させながら弓を射ったりしている)で、チンピラに絡まれた常連客を助けたあと、左膳の情婦である矢場の女将に
「アイツラがまだその辺ウロウロしているから、家まで送っていって上げてよ」
と言われる。左膳は
「そんなメンド臭いことは嫌だ」
と抵抗する。
「送ってあげなよ」
「オレはイヤだ、行くもんか」
というやり取りがさんざん繰り返された後、
<<ワイプ>>
次のカットでは夜道を客と左膳が歩いているのだ。
肝心の左膳が女将に説得される瞬間は省略されているが、ナニも説明しないで左膳と女将の関係性が伝わり、クスッと笑ってしまう。
また別のシーンでは左膳と女将が引き取った孤児安吉が、近所の子供が竹馬に乗っているのを見て
「オイラも竹馬に乗りたいやい!」
と言い出すが、女将は
「だめだよあんな危ないもの!」
と叱る。
「竹馬乗りたい!」
「駄目!」
<<ワイプ>>
中庭で竹馬に乗る安吉を見守る女将。
という具合である。
いつも、事態が展開する瞬間を省略することによって笑いを生んでいる。
この映画は全編この繰り返しなのだ。
ワイプの前後で事態が逆転している。
しかし逆転した瞬間は省略されている。
省略されたことによって笑いが生まれる。
実を言うと映画では省略は当たり前の手法なのだが、コレほど上手に、なおかつ全編に渡ってこだわりまくった映画があるだろうか。
この映画はやはり、天才山中貞雄がこの「転回点の省略」をやりたいがために作った映画なのだと思う。もう、そう決めた。
日本映画界は86年も前、しかも戦前にこんなにも洗練された手法を使った映画を作っていたのだ。
今の日本映画界は刑事がモニターを見ながら先輩刑事に「この店に犯人が来てるはず」などと説明するような映画を作っているというのに、、、
戦後の作品であるマキノ雅弘監督の「丹下左膳」と比べると、なんだか不思議な気持ちになるストーリー。
マキノ版はほとんど伝奇的とも言っていいほど不気味かつドロドロのストーリーだったが、本作はコメディなのだ。しかもホームコメディ。
にもかかわらず、ストーリーに不思議な共通点があるのだ。
地方藩の藩主がナニが何でも手に入れたいお宝が、江戸の剣術道場にある。
丹下左膳は(賭場と矢場という違いはあれど)娯楽施設を経営する女性の情夫になって居候している。
丹下左膳は理由は全然違えど前述の道場に道場破りに行く。
しかし戦後のマキノ版の方が林不忘の原作には近いのだ。
よくもまあ大胆にアレンジしたものである。
本作以前から丹下左膳という剣豪の異形ぶりと大河内傳次郎の魁偉な容貌のマッチングのせいで大河内左膳は人気作だったが、基本は戦後の「丹下左膳」と同じ、左膳は狂気にして悲劇の剣客である。
コレを「コレは喜劇になる!」と見抜き、日本映画史上に残る傑作をものした眼力には恐れ入るばかりだ。しかもくどいようだが戦前に。
矢場の女将にして左膳の情婦、お藤に芸者出身の歌手、喜代三。
自慢の喉と三味線を劇中何度も聴かせてくれる。レコードの再生機もラジオも高級品だった時代、ヒトビトが歌声というものに餓えていた背景をひしひしと感じさせる。喜代三の歌が聴きたくて劇場に足を運ぶ観客も多かったのだろう。
他にも全編にわたり、クラシックを中心にしたBGMが鳴り響いている印象がある。
今とはBGMが背負う意味も違うんだろうな、、、
残念なのはGHQにチャンバラシーンを捨てられてしまったこと。
今回観ることができたのは「最長版」と名乗るバージョンだったが、終盤、左膳が安吉の父の敵を数人斬り殺すシーンはあからさまにカットされている。
ヒトが死なない冒頭のチンピラを蹴散らすシーンや道場破りのシーン、更には一人しか斬り殺さないシーンは残っているので、一応大河内傳次郎の殺陣を観ることはできるが。
ちょっと気になったのは、まだ左膳が登場もしない序盤、宝を譲ってもらいに藩の使いのものが道場に来たとき、道場主がなぜそんなモノを欲しがるのか訝しがり、門弟たちに命じて使いのものを道場に拉致するシーンが有る。
次のシーンで道場主はなぜ藩主が「こけ猿の壺」を欲しがるのか理解している。
つまり、門弟たちが使いを拷問して白状させたに違いないのだが、そのシーンは省略されている。
コレが、お得意の「転回点の省略」なのか、GHQによる検閲なのか解らないのだ。
水ダウで
「『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』公開時に完全版見たひと、ギリ生きてる説」
かなんかやって証言取ってくれないかな、、、
もう、記憶と妄想が区別つかなくなってるかな、、、
JUGEMテーマ:映画
同じ監督ヨン・サンホによる「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」の正式な続編。
前作のワタクシ空中さんのレヴューの書き出し。
「 あ〜、コレはもう、呆れるくらい良く出来てますねー、、、
ほとほと感服した。
もう、今回はのっけから完敗宣言。」
まあ、まあ、ほぼ似たような感想。
正直2作目という事もあって衝撃度は前作に劣るが、まあ、振り回されました。
「振り回された」はワタクシ空中さんにとって結構なホメことばです。
ちなみに最大級は「鼻面とって引きずり回された」。
続編と言っても登場人物は被ってない。
前作で生き延びた登場人物は登場しません。ていうか多分死んでる。
ストーリーは前作で描かれたゾンビ発生の日、の直後から始まる。
主人公は韓国軍の若き大尉カン・ドンウォン。
姉の家族(旦那と息子)を車に乗せて軍の脱出船が待つ港へ向かう.
途中、道端で助けを求めてきた一家を見捨てるが、なんとか乗船に成功。
しかし、客室内で「感染者」が発生し、、、
カン・ドンウォンが命からがら香港にたどり着いてから、はや4年の月日が経っていた。
世界はなんとか「感染症」の封じ込めに成功し、被害は韓国限定、北朝鮮すら国境封鎖によって感染者の侵入を防ぎ、世界は韓国を見捨てる事によって成り立っていた。
もとはちゃんとした軍人なのに今はヤクザの下請けのようなことをしながら鬱屈した日々をを送っていたが、ある日、幹部に呼び出されて命令された仕事は、
「封鎖された韓国に侵入して韓国内から集めたドル札を積んだトラックを3日以内にインチョン港まで運んでくる」
というもの。
う〜ん、、、
「ニューヨーク1997」じゃね?
元軍人のアウトローが封鎖された無法地帯に潜入して時間内にお宝を入手して戻ってくる。
コレは完全に「ニューヨーク1997(或いは続編の「エスケープ・フロム・LA」でも一緒)」フォーマットであり、映画は最後までこのフォーマットの枠内で進む。
しかしこの映画はそれだけじゃない。
ストーリーが進むうちに、ちょくちょく「マッドマックス」シリーズが顔を出す。
「マッドマックス」に関しては「マッドマックス2」、「サンダードーム」「怒りのデスロード」と、次々に出てくる。
本作は、大雑把に言うと
「『マッドマックス』によって綴られた『ニューヨーク1997』である」
と言ってもいいだろう。
しかしおそらくはそれだけはない。他にも色々な「SF映画」「アクション映画」の要素が詰め込まれているのだろう。
イヤイヤイヤ。
ちょっと待て、と。
なんか忘れてませんか、と。
本作はそもそも前作の段階からゾンビ映画であり、本作でも封鎖されている理由はゾンビウィルスの蔓延だった筈である。
従って、
「ゾンビ映画要素はどうなってるの?ワシ、ゾンビ映画観たいんやけど、、、」
というご疑問は当然であろう。
あります。
当然出てきます。ゾンビ。
しかも大量に。
もう、売るほど出てきます。
売るほど出てきて主人公たちを散々苦しめますが、実を言うと、フツーのゾンビ映画(イヤ、普通のゾンビ映画ってなんだってハナシだが)に比べると今ひとつゾンビ感に欠けるのは確かなのね。
例えば、ゾンビ映画にありがちな展開のひとつ、
「愛するヒトがゾンビ化するとき、アタマを撃てるのか」
というテーゼは描かれない(冒頭に近いものはあるが)。
もちろん、元祖ゾンビ映画であるジョージ・A・ロメロ作品を彷彿とさせるところもある。
主人公が潜入後の地獄でである元軍人集団のリーダー「大尉」は、「死霊のえじき」の大尉がモデルだろう。階級もヘアスタイルも一緒だし。
そして、もうひとつ、フツーのゾンビ映画とは決定的に違うところがあるのよ、本作には。
それは、
「終末感の無さ」
コレである。
本作の世界観では、世界はゾンビ現象の封じ込めに成功し、ゾンビが蔓延しているのは韓国のみである。
つまり、世界は崩壊しない。
韓国以外の世界はそれまでと同様に呑気に暮らしている。
そして、ゾンビ化現象が韓国以外の世界に漏洩する気配もない。
コレはゾンビ映画としてはかなり珍しいのではないか。
大抵のゾンビ映画は、あっという間に世界が崩壊してしまい、どこにも逃げられない、どこからも助けが来ない、という絶望に支配されている。
この絶望感がゾンビ映画の醍醐味だとすれば、「新感染半島」にはそれは薄い。
にもかかわらず。
ゾンビ映画の醍醐味が薄いにもかかわらず。
本作は面白い。
そういえば。
なんか似たようなレビュー書いたことあるな、、、と思ったら「ドゥームズ・デイ」だった。
なにしろレビューの書き出しが
「『ニューヨーク1997』で始まって、途中『マッドマックス(ご丁寧に1から3までやってる)』になって結局『ニューヨーク1997』で終わる映画」
である。
ほぼ一緒じゃん。
しかし当時ワタクシ空中さんは「ドゥームズ・デイ」をあまり評価していない。
面白い映画を組み合わせれば面白くなるってもんじゃない、ということだ。
にもかかわらず、本作は面白い。
おそらくは、この次から次へ登場するクリシェを繋ぐ強力なエンジンがあるからだろう。
例えば主人公が半島潜入後すぐ遭遇する天才ドライバー、イ・レの存在である。
主人公カン・ドンウォンを助けてくれた少女はその驚異のドライヴィングテクニックで、終始映画の中を疾走し続ける。
少女の年齢は明らかではない(なにしろ学校なんて崩壊している)。イ・レの実年齢が14歳なのでまあ、中学生だろうが、ドリフトしまくりの超絶テクニックで、スライドさせたテールでゾンビの群れを蹴散らすわ、オッサンどもの追撃を、スピードでかわし、路地の迷宮をドリフトで駆け抜け、もう、縦横無尽、八面六臂の大活躍。ちょっと「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のミレニアム・ファルコンを思い出させる。
ドリフトするとき、いちいちちゃんとサイドブレーキを引いてハンドルを切り、アクセルを踏むカットを入れているのも好印象。この辺ないがしろにしてるアクション映画も多いよね。
そして、ショートカットの美少女、イ・レにもシビレる。
ハードボイルドとまでは行かないが、クールで自信満々な佇まい。
地獄で育ったとはいえ、4年ならやさぐれ方もこんなもんかな、というリアルさがヨい。
中学生ながらクールで超デキる美少女が超絶テクニックで疾走し、蹴散らす。
このカッコ良さと爽快感が、この映画に詰め込まれた数々のクリシェを貫いているのだ。
コレがあるからこそ、クリシェの連続でも面白いのだろう。
ちょっと残念なのは、やはりアニメ出身の監督なせいか、CG丸出しに抵抗がない点だろうか。ドリフトしたテールに蹴散らされるゾンビの群れがCG過ぎる。
こういうとき、多少絵ヅラが地味なってもリアリティ重視でお願いできないかな、、、
JUGEMテーマ:映画
コレはどうも「残穢 -住んではいけない部屋-」の関連作品らしい。
小野不由美による百物語の試み、小説「鬼談百景」の百話目が「残穢 -住んではいけない部屋-」であり、映画「鬼談百景」は1〜99話の中から10話選んで映像化した、という構造になっている。
スタッフも「残穢」の中村義洋・鈴木謙一コンビに続いてほん呪人脈が多い、
オープニングの1話が中村義洋監督、ラストの1話が「ほんとにあった呪いのビデオ Version X」の白石晃士(ワタクシ空中さんにとっては「ノロイ」のと言ってもいいが)、そして6・7話はなんと「ほん呪」の42〜55巻と長きに渡ってシリーズを支えた岩澤宏樹。「ほん呪」から離れても恩師中村義洋への恩義は忘れてないらしい。
2・3話は「呪怨 黒い少女」の安里麻里。
4・5話の大畑創と8・9話の内藤瑛亮はよく(全然)知らない。
基本的にそのエピソードの監督が脚本も書いているっぽいが、一部の脚本に鈴木謙一。
全体のナレーションに「残穢」の竹内結子。
各エピソードは竹内結子による
「こんな手紙が来た、、、」
というナレーションで始まる。
そして、全10話もあるので大勢の役者さんが出演しているが、顔と名前が一致したのは2話の根岸季衣さんだけだった。
要はスタッフ・キャストともに新人さんに活躍の場を与えるために、売れっ子の中村義洋監督や根岸季衣さんが協力してくれた、という構図なのだろう。
なんとなく、「ほん呪」繋がりが強いので、「ほん呪」みたいに1話ずつ言及してみたい。
「追い越し」 中村義洋
中村義洋でスタートダッシュ、という思惑だと思うが、全編通してコレが一番つまらない。
おそらく導入部なのでベタなネタで、ということだろうが、「心霊スポット巡り」「トンネル」「深夜の山道」「白い服の女」と、もう、ベタすぎて興味が持たない。ちょっと導入部ということを意識しすぎではないか。
「影男」 安里麻里
二人の孫をシングルマザーである娘から預かった根岸季衣。二人を昼寝で寝かしつけているうちに自分も眠ってしまう。やがて窓をガンガン叩く音で目を覚まし、不審に思って見に行くとそこに居たのは、、、というハナシ。
やがて帰ってきた娘も巻き込むが、このハナシのテーマは
「シングルマザーの抱える不安、心細さ」
になっている。安里麻里監督が気がついているかどうかわからないが。そういう意味ではよく伝わってくる。
「尾けてくる」
女子高生の雨の帰宅路、部活仲間と別れた主人公が公園で首吊死体を見てしまうが、その後、、、というハナシ。
「シングルマザーの不安」に続いて今度は
「女子高生が大人の男性に感じる不安と不気味さ」
だろう。
ひっつめ髪の女子高生(久保田紗友)の凛とした可憐さと相俟って、コレもよく表現できている。
が、ここまで観てきて思ったんですけど、安里麻里監督が表現したかったことは表現できているが、怖くは無いなぁと思う。ホラー作品の多い(というかほぼホラーばかり)安里監督だが、意外に恐怖に興味がないのかもしれない。
関係ないけどGoogle日本語入力は「つける」で「尾ける」が変換できない。だっさ、、、
「一緒に見ていた」 大畑 創
主人公は高校の先生。「雑に抱いた女(by大悟)」に構内で首吊り自殺されてしまう。知り合いじゃないふりをして大騒ぎする周りの教師たちを手伝うが、校内に死んだはずの女の影が、、、
このエピソードはなんか脚本がバタバタしてる印象。主人公の先生、「雑に抱かれた女」ともにナニがしたいのか、どう思ってるのかよく解らない。
「赤い女」
コレは面白い。
ある高校で流行っている「赤い女」の噂。
「赤い女」が見えている者は誰かこの噂を知らない者にこの噂を伝えると、自分の前からは消えて伝えた相手に見える様になる、という。
冒頭、件の高校で、噂もクソもみんなその「赤い女」が見えているにも関わらず、あえて言及しない、という描写が素晴らしい。もう、「赤い女」の噂が飽和しているのだ。
最初事情を知らないで見ているとすげーモヤモヤする。
やがてこの高校から、1人の女生徒が、この噂を知るものとてない高校に転校して、、、というハナシ。
ここからのサスペンスもなかなか良い。
このエピソードも徐々にテーマは「人間の邪悪さ」にシフトしていく。
ラストに自らかけた縛りを急に捨ててしまうのが残念。
「空きチャンネル」 岩澤宏樹
空きチャンネルから謎に聞こえてくる謎の女の身の上バナシに取り憑かれてしまう男子高校生のハナシ。
のめり込んでしまい抜け出せず、ドロドロになっていくオトコのコの焦燥感は伝わるが、あまりヴィジュアル的に映えるハナシではないので、岩澤宏樹がなぜこのハナシを選んだのかな、、、と思う。
一応99話ある内から各監督が自分で選らんだような体裁になっているが、そうでもないのかな、、、
「どこの子」 岩澤宏樹
コレも「出る」ことが当たり前になっている中学校のハナシ。
新任教師が先輩教師と二人、深夜残業をしていると、先輩教師が「いろいろあるからキミも早く帰りな」と言い残して先に帰ってゆく。
で、深夜の校舎に不気味な子供が出ます。
「この子供を見るのは、、、何故か教師に限られているそうです」というナレーションが、背景を感じさせて一番怖い。
岩澤宏樹監督作品には期待していたが、演出力以前にエピソードがピンとこなかったのが残念。
「続きをしよう」 内藤瑛亮
コレも面白い。
ただ、心霊モノ、というよりいわゆる「奇妙な味」に近いかも。
墓地で遊び始めた8人の小学生たち。
ひとりが倒れた墓石の下敷きになって怪我をする。
ギリギリひとりで歩いて帰れる程度の怪我、というのが味噌。
怪我をした子が「もう帰る、、、」と言って帰ってしまい、残った7人が顔を見合わせていると、どこからか、
「続きをしよう、、、」
という声が聞こえると、彼らは一も二もなく遊びを続けるのであった、、、
そうやって、ひとり、またひとりと減っていくのだが、人数が減っていくとよく分かる、「続きをしよう、、、」という声が聞こえる時、彼らの誰も口を開いていないのだ。
では誰が「続きをしよう、、、」と言っているのか、このまま人数が減っていくとどうなるのか、声の主の正体は明らかになるのか、、、
「どろぼう」
コレも心霊ものと言うよりは「心に怖いのは人間だ」系のハナシ。
「集落の中でイヤな噂が流れた、、、子沢山の奥さんの様子がおかしい、というのだ、、、」
というナレーションでほぼ全てが表現されているような気もする。
集落、という単語が表すように、隣の家に回覧板を持っていくのに自転車に乗るほどの田舎。
そして、まだ若くて美しいのに既に5人ほどの子供がいる隣家の奥さんは、またお腹が大きい。主人公の女子高生が母親(と弟)と回覧板を届けに来た時、母親が「おめでた?」と聞くと、「太っただけよ〜」と答える。顔は全然痩せてるのに、、、
具体的に霊的な存在が登場するが、怖いのはそこじゃない、、、というハナシ。
視点人物の女子高生役、萩原みのりちゃんとベテラン小橋めぐみの演技対決としても観れる。
「密閉」 白石晃士
コレもフツーの短編映画として面白い。
ヒリヒリとしたサスペンスのあとにキレーにオチがついて皮肉な後味。
恐怖よりも技術で観せたな、という感じ。
やっぱり白石晃士監督は巧いな、と思う。
実はこの作品が映像化されたのは2016年である。
ここ数年感じていた
「最近のJホラーは恐怖を目的としてないな、、、」
という傾向が、この頃から既に始まっていたのだな、気付かされる。
実は本作の関連作である「残穢」には、ワタクシ空中さんはひんやりとした恐怖を感じていた。
ところが本作になると急に恐怖を諦めているのは、短編だからなのか、「残穢」の方がひょっとすると時代遅れですらあるのか、よく解らない。
恐らくホラー業界では、
「怖がらせ続けるって、もう無理じゃね」
「つか、メンド臭いからもう古いってことにしてヤメてかね?」
って事になりつつあるのではないか。
このような状況が続けば、また、この閉塞状況をぶち破る原理主義者が登場するのは世の常である。
それは、恐らくは今、メジャーシーンには登場してないヒトの手によるものだろうな、と思うワタクシ空中さんであった。
JUGEMテーマ:映画
ワタクシ空中さんの世代なら誰でも聴いたことがあるだろう。
あの、「グリコ森永事件」の現金授受の際、犯人側からの指示に使われた「子供の声」。
アレは衝撃だった。
あの、日本全国を翻弄する犯人グループに子供がいる。
しかも複数。
しかも女子も。
つまり犯人グループはファミリーなのだ。
この犯罪の根深さ、グループの不気味さを象徴する「声」であった。
爾来35年。
たまに、「あの声の子供たちはどうなったんだろう、、、」と思い起こすこともあったような気もする。10年に一回くらい。
したがってワタクシ空中さんは、自分が犯罪に加担してたとは知らぬまま30代のおとなになった「声の主」を主人公にする、という発想は素晴らしいと思う。
もう、それだけで観ざるを得ない。
京都で小さいテーラーを営む星野源は先日亡くなった父の遺品の整理中、謎の手帳とカセットテープを発見する。
手帳の中身は英文でほとんど読めないが、「ギンガ」「萬堂」という文字だけわかる(コレがつまりこの映画での「グリコ」と「森永」なのね)。
更にカセットテープを再生すると、子供時代の自分が歌を歌っている(昔はビデオカメラがないのでよくこういう事をしたのよ)音声だが、突然途切れて自分の声がなにやら場所を指示している。
「ギンガ」、「萬堂」、そして子供の声、、、コ、コレって、、、というハナシ。
一方その頃大阪の新聞社の文化部記者小栗旬は突然社会部に呼び出され、年末の「ギンガ萬堂事件特集」に協力しろ、と命令される。社会部では、「ギンガ萬堂事件」に先立つ数年前、イギリスでそっくりの事件が起こっており、「ギンガ萬堂事件」の直前、その事件を調べていた中国人がいた、という情報を得たのだが、社会部には英語の喋れる社員がいない。そこで大学時代に英検準1級(「準」というところが一応笑わせる)を取得している小栗旬に「イギリス行って来い」と指令が下るのである。
この二人が独自に追求を始めるのだが、やがて二人の調査は交錯し、それぞれの人生を背負いながら、協力して調査をし始めるのであった。
ここから現代で調査する二人のパートと、徐々に明らかになってきた過去のパートが描かれる。
で、ですね。
だいたい、過去のパートの方が良くて、現代のパートがショボいです。
「声の主」は他にも二人いたのだが、この二人は犯行グループの別のメンバーの娘と息子だった。
そしてこの二人が辿ったその後の人生の苛烈さを描く時だけ、演出もノッているように思える。
演技陣もお姉ちゃん役の原菜乃華ちゃんなど、苛酷な運命に抗い、翻弄される少女を演じて間然とするところがない。
で。
コレに比べて現代のパートがもう、薄っぺらいのね。
特に小栗旬が薄っぺらい。
役柄も演技も薄っぺらいの。
今文化部の新聞記者が東京での社会部時代辛かったハナシとかどーーーーでもいいじゃん。
役柄が薄っぺらいことに呼応してか小栗旬の演技も薄っぺらい。
ていうかかつて小栗旬の演技が薄っぺらくなかったことなどあったろうかと思うくらい薄っぺらい。
と思ってよく考えてみたが、小栗旬が出てる映画そんなに観たことなかった。
「あずみ1」「あずみ2」と「踊る大捜査線」と「テラフォーマーズ」くらいだった。
薄っぺらいじゃねーか!!
なんか「オレ、若手演技陣のリーダーだから」的な驕りが芝居に出ちゃってると思うんだけどどうだろう。
特にまだ生き残っている犯人グループのひとり、宇崎竜童と小栗旬の対決シーンなど、あまりの薄っぺらさに目を覆いたくなる。
監督は例によってTBSのディレクター。
過去バートを見れば、出来ることは出来るのだが、小栗旬と星野源という2大スターを擁した現代パートはもう、どうせ視聴率は確保出来てるし、適当でいいと思っているのだろう。映画は視聴率じゃないのに。
いいトシしてテレビドラマと映画の決定的な違いにとうとう気づかないのかな、、、という感じ。
原作を読んで「コレはイケる!!」と思ったんなら、ちゃんとした映画監督に任せようとは思わないのかな、、、
あ、「コレはイケる!!」と思ったのもTBSのプロデューサーか、、、
JUGEMテーマ:映画
Netflixオリジナルだが円盤化されたので扱って見たいと思います。
1話30分弱で6エピソード。つまり、連続して3時間弱の映画として見れます。
「呪怨」もかれこれ20年にわたり断続的に新作が作られ続けているが、「リングもの」と同様、最近は裏切られ続けてるような気もする。
それでも観てみようと思ったのは、脚本が高橋洋だから。
本ブログでは過去何度も高橋洋の業績について言及してきた。
1990年代後半から2000年代前半のある時期、高橋洋は日本映画界を牽引するイノベーターのひとりであった。
なにしろ「女優霊」「リング」の脚本家であり、オリジナルビデオ版「呪怨」「呪怨2」の監修である。
とは言うものの、高橋洋も「恐怖」あたりから訳のわからない世界に入った気配を感じさせたが、、、
さて、オープニングで、「実は『呪怨』は事実をもとにしており、この作品はその元になった事件を描いたものである」と出る。その意味ではダン・オバノンの「バタリアン(しどい邦題、、、)」に似ている。
あれも「ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』は実は実話(シャレにあらず)だった」という前提の脚本だった。
さらに、「呪怨」の元になった実話、という前提のため、本作には伽椰子も俊雄クンも登場しない。それ、「呪怨」って名乗る必要あるかなぁ、、、と思う。
正直言って、高橋洋が新しいホラーの脚本を書いていたら、
「アレ?コレなんか『呪怨』に似てきちゃったなぁ、、、だったら商売的にも『呪怨』に乗っかっちゃった方が有利かな、、、」
とか思って一ノ瀬隆重に声をかけた、あたりが真相ではないか、などと邪推してしまう。
一方、最初の「呪怨」オリジナルビデオ版は1999年の発表なので、「元になった」事件を描くということで、時代設定が80〜90年代に設定されている。
そしてその時代の実際を背景に描いている、という触れ込みになっているが、、、
殆どの事件はテレビのニュースとかに出てきて紹介されるだけ。
唯一「M」君は重要な情報をもたらす存在として画面に登場するが。
さらに名古屋妊婦切り裂き殺人事件や、東電OL殺人事件を彷彿とさせる展開があるのだが、彷彿とさせる演出ってナニ?と思う。
実在の事件を彷彿とさせるから何なの?
視聴者が
「おお!コレは○○事件と同じではないか!!」
って感動すると思うのだろうか。
どうもこの辺の趣向がよく解らない。
「M」君は「M」君そのものとして堂々と登場し、主人公に重要な情報をもたらすのだが、コレもなんとなく納得がいかない。
「M」君って別にこういう情報持ってるキャラじゃなくない?
「M」君を出したかったのは分かるが、この瞬間、他のこじつけ案件と同じになってしまう。
伽椰子も俊雄クンも居ない。
時代を描くのも中途半端。
じゃあ、一体全体このドラマはナニをやっているのかというと、、、
そもそもなんで「コレ、『呪怨』に乗っかれるんじゃね?」と思ったかというと、「家」である。
そうだ。「家」があった。
「呪怨」の主役は伽椰子と俊雄クンともうひとつ、あの「家」ではないか。
このドラマは伽椰子と俊雄クンのような特定の人物では無く、あの「家」を巡る物語として展開する。
「家」を巡る物語、特定の「家」に入ったものが呪いを受ける、というハナシなら、かろうじて「呪怨」を名乗れんじゃね?ということなのではないか。
そして、「家」という特定の「地点」で起きることがこのドラマのテーマである。
ある地点に呪いが発生すると、時空が歪む。
コレがこのドラマのテーマなのだ。
それは、おそらくは質量があるところでは時空が歪み重力が発生する、という一般相対性理論が元になっているのではないか。
一度呪いが発生した例の「家」では、時空が歪み、「呪いの重力」が発生する。そして「家」に立ち入ることでヒトビトはブラックホールから抜け出せなくなったように、「呪いの重力の沼」に囚われてゆく。
このドラマは、この「呪いの重力の沼」に囚われたヒトビトを巡るストーリーを描いているのだ。
若い女性タレント(黒島結菜)のハナシを聞いて、何事かにピンと来て、調査を始めるオカルトライターに荒川良々。全くコメディ要素のないシリアスな荒川良々というのは珍しい、というかほとんど初めてではないか。
荒川良々は調査を進めるうちに黒島結菜の彼氏が「ある家」に立ち入って以来異変が起こり始めたことを突き止めるが、肝心の「家」の在り処を聞く前に彼氏は亡くなってしまう。当然、「家」の重力場に取り込まれてしまったのだ。
ストーリーはこのあと取り憑かれたように(取り憑かれてるんだけど)「家」を捜す荒川良々のエピソードをメインに進むが、同時にちょっと違う時代の「家」の重力に抗うヒトビトのエピソードを並行して描いていく。
しかし時代が違うことは徐々に意味を失っていく。
なぜなら時空が歪んでいるから。
「呪いの重力」に抗うヒトビトの人生は、時空の歪によって「時間」の観念を失い、互いに影響を与えあっていく。
この、「呪いの重力に抗うヒトビト」の人生模様は、みな、辛く、苛酷であり、ドラマティックに観ることが出来る。
しかし、怖いかというと怖くないよね。
ひとつには、ビデオ版の「呪怨」にあった、圧倒的に理不尽で無差別な凶暴さが無いこともあるだろう。
ビデオ版の「呪怨」は、もう、無条件に、一歩でも「家」に立ち入ったものは問答無用で殺していた。この凶暴さはスゴかったのよ。もう、理由もなにもない。とにかく殺す。逃げても殺す。郷里に帰っても殺す。もう、逃げ場が無い。
しかし、今回の「呪いの家」はある程度沼に沈めるモノを選別しているようである。
選別の理由はやがて来るシーズン2によって描かれるのだろうか。
この選別の理由を解き明かすには、「オカルト界のアインシュタイン」が必要になる気がするのだが、、、
JUGEMテーマ:日本のTVドラマ
6年前に一人息子が行方不明になった夫婦。妻は看護師をしながら生活を支え、夫は仕事をヤメて息子探しに専念していたが、6年経っても手がかりもない。
夫はそろそろ体育教師の仕事に戻り、捜索は土日だけにするつもりで学校の面接を受けるが、ちょうどその日、目撃情報が入り、慌てて現場に向かうが、途中で事故にあって亡くなってしまう。しかもその目撃情報は小学生のイタズラだった、、、
そんな、人生でコレ以上ないくらい悲惨な状況に陥った母親であったが、このタイミングで何故か確度の高い(家族でなければ知り得ない本人情報を含んだ)目撃情報が入って来る。
また、ガセネタかも、、、と疑いながらも母は見たと伝えられた「マリソン釣り場」なる海岸へ赴くのだが、、、というハナシ。
ここまでのストーリーを聞くと、
「ハハァ、この映画のメインテーマは息子奪還のために死力を尽くして頑張る母親だな、、、」
と思うだろうが、実は違う。
イヤ、それも充分あるのよ。
それはそれで強烈なの。母の頑張り。もう、文字通り命がけ。決死の覚悟。
しかも演じるのは韓国の誇る名女優イ・ヨンエの14年ぶりの復帰作。
もう、バリバリ名女優の復帰を祝うべくメインとしてフィーチャーされているはずなのだが、、、
母親が訪ねた「マリソン釣り場」は、海岸沿いに釣り用の桟橋を出したり釣り船を出したりする、釣り人のための施設。そこに10数人の人間が働いているのだが、その中に素性の判らない少年が二人いるのだが、そのうち1人がイ・ヨンエの息子と特徴が一致している。
で、この「10数人」がですね、もう、ものの見事にクズ人間ばっかり。
極悪人じゃないのね。
クズというか、ダメ人間の集まりなの。
一味の中に、この連中から賄賂をもらっていろいろ見逃している警察官がいて、コレが一応リーダー格なのだが、コレももともと極悪人ではない。せいぜい小悪党程度。
しかし、コイツらが闖入者イ・ヨンエの登場により追い詰められ、どんどん凶行へと走ってしまう。
結局、この映画のテーマはココだろう。
コレは韓国のある「暗部」を描いた映画なのだ。
ナンダこのダメ人間の集団は。
実は彼らはなぜ自分たちの集団に子供が二人いるのかもよく判っていない(コレがまた怖いではないか!)。
しかし当然子供たちを学校に行かせたりしてはしていないし、ほとんど暴力的にこき使っている。そもそも彼らの存在をあまり詮索されたくないのだ。つまり、倫理的にはこの時点でほぼ崩壊している。
おそらく、韓国には一定数こういうヒト達がいるのだろう。そして、一般市民はなんとなく、彼らのことが気になってはいるのだろう。
そして末端の警察官の倫理観にもある程度不安を抱いているのだろう。
だからこそこのハナシがリアリティを持つのだろう。
そういう意味では黒沢清監督、高橋洋脚本、哀川翔さん主演の「復讐 運命の訪問者」を思い出した。
アレは保護観察官が実は殺し屋の元締めで、自分が担当した前科者たちの指紋を潰して殺し屋業務に従事させている、という設定だった。
コレも「冷徹で有能な殺し屋」というよりはダメ人間の集まりで、異様なリアリティがあった。
しかしアレはアレで凶悪な常習犯罪者に率いられたれっきとした犯罪組織であったが、「マリソン釣り場」のヒトビトは自分たちが犯罪組織であるという自覚はない。
釣り場の経営者も前科者を雇っていて、そういう意味でも「運命の訪問者」を思わせるのだが、別に犯罪を犯させるためではなく、ただ、安くこき使えるからだろう。
あくまでも彼らはダメ人間の集団なのだ。
その集団に、なにがなんでも息子を見つけ出したい母親が乗り込んで征く。
まともな人間であるイ・ヨンエの闖入により、ダメ人間たちはあっという間に追い詰められて、無い知恵絞ってなんとか事態を収拾しようと頑張るが、頑張れば頑張るほどドツボにハマっていく。
結果的に、イ・ヨンエ演ずる母親がどんなに死力を尽くしても、印象に残るのはダメ人間たちの、もう、どうしようない営為である。
監督の表現の主眼が、「韓国社会に救うダメ人間どもの営為」にあることは、冒頭の夫が亡くなるエピソードでも明らかである。
夫にもたらされる情報は結果的に小学生のイタズラなのだが、このエピソードは実はイタズラじゃなくても成立するのである。目撃された(と情報があった)場所に向かう途中で交通事故に会うだけなのだ。
ココであえて「小学生のイタズラ」をかませる事によって、韓国社会における倫理観の低下を強調したいのだ。
既に韓国映画界では「伝説の」と枕詞がつくほどの大御所イ・ヨンエが、新人監督のデビュー作であるにも関わらず、14年ぶりの復帰作に本作を選んだのも、そこに共感したからではないか。
監督・脚本はイ・スンウというヒト。
デビュー作とは思えない堂々たる展開、演出ぶり。
厳密に言うと、元被害者で今は行方不明者連絡NPOの職員の美青年や、悪徳警官の部下の扱いなど、やや曖昧だったりと描写不足かな、と思うところもあるが、桟橋に追い詰められた子供を巡る攻防などサスペンス描写も驚嘆すべき出来。
深刻なテーマを定番のフォーマットに乗せて表現しきった手腕にはとりあえず脱帽しておきたい。
JUGEMテーマ:映画
呪いってナニ?ってハナシだ。
呪いと言えばだいたい恨みを飲んで亡くなった場合の残留思念のようなものだというイメージが有るが、心霊現象といえば全て呪いに起因するのだろうか。
そこには常に恨みが介在しているのか。
そうだとすれば、「呪いのビデオ」と言っている以上、投稿作品の背景には常に恨みが横たわっているのだろうか。
まあ、今回は「そうでもねえな、、、」と思うことが多かったので、そんなことが気になりました。
「シリーズ監視カメラ カーテンの向こう側」
夜中寝ていると窓の外から音がするので、カメラを仕掛けて検証してみました、というハナシ。
外から音がするんならベランダに設置すればいいのに、なぜか部屋の反対側の隅から窓に向けている。
しかしコレは怖いね。
深夜にカーテン開けっ放しの窓、というのが怖い。
深夜の外界、というのは一体ナニが起きているのだろうか。
ワタクシ空中さん自身、夜中2時3時にオモテを歩くこともベランダにでたこともあって、それが別に怖い、ということもないのだが、いったん窓で生活空間と隔絶された外界の風景、というのは格別な怖さがあることに気がついた。
しかもそれが「ほん呪」への投稿作品である以上、我々はそこに「ナニか」が映ることを確信している。ナニかが「来るぞ来るぞ、、、」と思いながら思いながら見せられている、ということがこんなに怖いとは思わなかった。
で、結局映ってみればたいして怖くないんだけど、、、
「一緒に観ていた」
気が付かないうちに幽体離脱していた瞬間が映った、ということだろう。
別に幽体離脱したことに対して呪いの要素はない。
わざわざ取材までした投稿者に現在連絡が取れなくなっている、裏話ありきだろう。
「煽り運転」
煽り運転をくらっているカップルの彼女の方が助手席で延々と煽られる様を撮影している。
そしてラストに映ってはいけないものが映るのだが、、、
「水ダウ」の「『後部座席にヒトがいる』が結局一番怖い説」かよッ!!
「弟」
ただ幼い兄弟がリヴィングで暴れているだけの映像に突然ノイズが入る。
コレも映っている事自体は怖くもなんとも無く、背景説明ありき。
そしてその背景説明は、SFというか民話というか、不思議で残酷なハナシではあるが、別に呪いではない気がする。
「水遊び」
30年くらい前の海水浴場での出来事。「この世ならざるもの」が映る前に、海水浴場で迷子探しのアナウンスが延々と流れているので、なんかブレる。
「この世ならざるもの」の造形がなかなか怖いので救われているか。
「続 Propagation」
前巻からの続き。
クズ講師の映像作品制作のためしばらく休業していたワークショップが久々に再開され、例によって投稿者から映像が送られてくる。
そしてワークショップには「ある変化」が起きていた。
クズ講師が新たに参加した女性受講者を露骨にエコヒイキしているのだ。
もう、絵に書いたようなエコヒイキ。
件の女性とオトコの受講者が「ケンカしそうになるが抱き合ってキスする」という演技をしているのだが、クズ講師は途中で割って入ってオトコの受講者のアタマをハタき、
「もういい!オレがやるから見とけ!!」
などと言って件の女性に全力で抱きつき、全力でキスした挙げ句、「よくやったね」とばかり頭ポンポンしやがる。
イヤイヤイヤ。
いくらなんでも40過ぎたオッサンが20過ぎたちゃんねーに頭ポンポンするか?キャバ嬢と客じゃないんだから。
リアリティというものをどう考えてるのか一度じっくり問い詰めたい。
そしてこの映像を見た知花はる嬢の正義感がまた炎上する。
この、エコヒイキされている女性に会いたい、と言い出すのだ。
コレにもKANEDA氏は「え?意味ある?それ、オレたちがやること?」と当然の疑問を呈するが、知花嬢は頑として譲らない。
そしてその様子をちゃんと映像に残している。
テーマはあくまで「人間、知花はる」なのだ。
しかしこの展開には深〜い意味があった。
なんと件のエコヒイキされていた女性、梨本さんはインタビューされにのこのこ製作委員会にやってくるのだ。
コレがもう、とんでもない美人。
間違いなくほん呪史上では最高の美人。
この世の中にこんなキレイな人がいたのか、というレベル。
もちろん、じゃあ白石麻衣やんだのガッキーだのより美人かというとそんなことはないのだが、「ほん呪は素人の投稿映像である」という前提に立てば、驚異的と言って良いのではないか。
コレ、一応演技のワークショップに参加している役者志望のヒトってことになってるんだけど、大丈夫なんだろうか。
こんな美人なんだから今後売れちゃう可能性もあるわけで、そうなったらいろいろ差し障りが出てくるんだけど、、、
なにしろこの梨本さん、このあと犯罪者になってしまうのだ、、、
しかしここで梨本さんがブスだとこのハナシはリアリティが無くなってしまう。ココにこの美人を見つけてきたのはKANEDA氏の手柄だなと思った。
そりゃエコヒイキもするし出せれば手も出すわ。
そんな訳で、知花はる嬢の「気をつけてください」という忠告も虚しく、案の定梨本さんはクズ講師の毒牙にかかって精神に以上を来たし、凶行に至ってしまうのだが、、、
コレが果たして以前の犠牲者の呪いの影響なのかどうか、、、
例によって「アジア魍魎研究所日本支部関東局長(デブ)」とその部下(多分この二人はホモ達)も登場していろいろ言うが、もう、どうでもいい。
もう、呪いとかこの世ならざるものとかをどうこういうレベルのハナシじゃなくなってるじゃねーか。
単に犯罪の瞬間を捉えた映像になってしまっている。
ほん呪委員会より警察に提出すべき映像である。
こんなもん映像作品にして全国で発売してるのが警察にバレたら怒られるのではないか。
公判が維持できないとか言われそう。
なんだか色んな意味で破綻しちゃってて、心配になってしまう。
まさか、心霊モノの恐怖を追求するのは諦めた、とでも言うのだろうか、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
ワタクシ空中さんは過去、このシリーズはその時その時の演出・構成が誰だかによって、個性が出てしまっている、というスタンスで論じてきた。
例えば菊池宣秀氏時代など、最初はどーなることかと思ったが、やがて強烈な個性を発揮し始め、実はワタクシ空中さんは今の所この時代が一番好きです。メッチャ怖いし。
そんな中、そろそろKANEDA氏も個性を発揮してほしいのだが、、、
現時点での個性といえば、いつも偉そうで基本的に投稿動画を「フェイクである」と決めつけがちなフリーライターのヒゲデブとか、「アジア魍魎研究所日本支部関東局長(デブ)」とその部下(多分この二人はホモ達)とか、霊能者のお姉さん(ぽっちゃり系)とか、演出補と投稿者以外にも謎の登場人物を出してくる、というスタイルがある。
本作などは驚いたことに前作で「道端で出会って取材されただけのヒト」がいつのまにかチャッカリ演出補として登場してたりする。
なんだコレは。
このヒト、取材に協力してくれた時点では無職だったの?それとも仕事ヤメて演出補になったの?
けっこういいマンションに住んでたみたいだったけど。
どうも取材されてる時点で妙に協力的なヒトだなとは思ってたが、、、
要するにこのヒトも前述の3組と同じようにKANEDAワールドの住人なのだろう。
われわれは、こうして、ほん呪世界が徐々にKANEDAワールドに侵食されていく過程を見せられている。
そしてもうひとつこの巻を観ていて感じた事がある。
KANEDAワールドにおいては、一風変わったところが舞台になっていることが多いな、ということである。
まあ、ワタクシ空中さんの世間が狭いだけなのだが、なんとなく、見慣れない風景が舞台になっていることが多い気がする。
という訳で一本目から、、、
「神の視点」
幅30mはありそうな大河(?)。ほとんど流れが無いので比較的下流なのだろう。
そして河の両側にはそれぞれ10mほどの鬱蒼とした森が繋がっていて、森の中に一本の舗装された道が通っている。。
投稿者はここでドローン撮影のテストをしていたが、空中からの撮影中、森の中の道路にひとりの「黒スーツ姿」のオトコが歩いている。
オトコは空中から撮られていることに気づいたのか、森の中に隠れてしまう。
やがて投稿者が撮影を止めてドローンを回収した際、投稿者のすぐ横の森の中から、、、
というハナシ。
コレは厳密に言うと心霊現象でも呪いでもない。
単に似た服装のにーちゃんが二人いた、で済んでしまうハナシである。
なぜ誰も
「コレ、心霊映像じゃ無くないっすか、、、」
と言わないのか不思議な気がする。
しかし、実を言うとワタクシ空中さんはこのエピソードはけっこう面白かった。
まず、この風景が新鮮。
単にワタクシ空中さんが世間を知らないだけなのだが、なんとなく
「日本にこんな風景があったのか、、、」
という感じ。
ドローンが上昇中にふと河の横を映すと、もう、建物も山も無くて、ほとんど地平線が見えそうな平地。多分、関東平野のどこかなのかな。
たしかに最寄りの駅まで徒歩で5時間くらいかかりそうなこの場所で、なぜスーツ姿のオトコが歩いているのか、不思議といえば不思議である。一体全体こんなところでこのオトコ(達?)はナニをしているのだろう。
コレが作業着とかジョギングウェアとかだったら普通なのだが、、、
コレをつまり、KANEDA体制の「見慣れない風景」と呼んでます。
「シリーズ監視カメラ 簡易宿泊所」
続いてのエピソードも「見慣れない風景」シリーズ。
簡易宿泊所を経営していた父の遺品の整理中に出てきたビデオを再生してみたら、、、
というハナシ。
タタミ一畳分しか無い「簡易宿泊所」の風景がコレまた新鮮。
このタタミ一畳にほとんど住み着いていたヒトがいたという。
オレって世間知らずだなぁ、、、
「手筒花火」
手筒花火の爆発の炎の中にヒトの顔が、、、
コレ、手筒花火の持ち手に虐待されて自殺した妹ではないか、というのだが、恨みのあまり口を大きく開けすぎていて、もう、アゴ外れてるでしょ、コレ。
「監視者」
廃村に肝試しに行ったアホなにーちゃんねーちゃんの集団。
ところが廃村の住人だか管理者だかに「オイ!」と怒られてしまう。
ただし、その管理者には生きていく上で絶対に必要な部位が欠損していて、、、
というハナシ。
またしても坂本一雪時代の傑作、「疾走」の焼き直し。やっぱりアレ、名作なんだねぇ、、、
「七夕」
投稿者の娘が通う幼稚園の七夕祭りに、最近亡くなった近所のおじさんが訪ねてくるハナシ。懐かしい園児たちに会いに来たんなら、もう少し穏やかな顔で会いに来ればいいのに、、、
「Propagation」
今回の長編。
イキナリ別々に投稿された二本の映像が実は、、、パターン。
まず一本目の「夢遊病」。
投稿者の友人三宅さん(見た目20代前半の可愛い女性)は最近起きると体中がバッキバキに疲れている、というので、夜中ナニをしているのか調査すべく、投稿者が部屋にビデオカメラを設置して撮影してみる。
すると、案の定三宅さんは夜中に部屋の中を歩き回るわベッドの上で腕を上げたり下げたりするわベッドの横に座り込んで見えないお友達と会話して盛り上がるわ、もう、大暴れ、というハナシ。
そしてもう一本が「ワークショップ」
とある芝居のワークショップ。映画監督が講師になって十数人の生徒に芝居の指導をしているのだが、いわゆりポルターガイストというのか、突然ドアを激しくノックする音がするが、開けてみると誰もいなかったり、突然窓を叩く音がしたりする。一度などはあまりの音の激しさに生徒たちが怯えてレッスンを中断せざるを得なくなる。
しかし、この映像にはもう一つ、キーポイントがある。
映画監督と名乗る講師が、生徒に暴力を振るう様子が写っているのである。
もともとワークショップ自体、資料のために映像に残しているのだが、自分が暴力振るう前、いちいち講師はカメラを止めるように指示している。しかしなぜか止めることを支持された生徒は、「止めるふりをして映像を止めていない」。
そしてこの「止めていない」生徒こそが、この映像の投稿者である成瀬氏(30前後?役者志望だけあってなかなかのイケメン)なのである。
普通ならこの二本はそれぞれ紹介して終わりなのだが、ここで演出補の知花はる嬢が、突然我を出し始める。
このワークショップを詳しく取材したい、と言い出すのだ。
KANEDA氏は投稿映像のクオリティからこれ以上取材してもたいした素材にはならない、と判断し、コレ以上の取材は無用と判断するのだが、知花はる嬢は頑なに取材続行を主張する。
そしてその様子を本編に取り込んでいる。
つまり、コレがテーマなのである。
おそらく、知花嬢が取材続行にこだわるのは「暴力を振るう」講師に対する怒りである。
この講師を追い詰めたくて、もしかするとこの暴力に終止符を打つことが出来るのではないかと望んで取材続行を主張しているのだ。
このエピソードは恐怖映像というより、「人間、知花はる」を描くことにテーマがシフトしているのだ。
もともとKANEDA体制になって以来、演出補は、あまり表情を変えないが結構可愛い知花はる嬢と、予備校生みたいなカッコしてるがいつも冷静でしっかりものの中田亮くんの二人体制だったが、この巻で突然前作の取材協力者、松尾みのるが加わっている。
この、突然の新人の参加も、突然取材に対して自我を主張し始めた知花嬢に対する驚きの表情が欲しかったからでは無いかと思う。ちゃんと彼がギョッとして知花嬢を振り向くさまが抑えられているのだ。旧知のしっかりもの、中田くんではこの表情は無理だろう。
そして、知花嬢の粘りのおかげで、さらなる真実が明らかになる。
夢遊病者の三宅さんは最近友人が自殺しており、その友人はなんと件のワークショップに参加していた、というのだ。
さらにその友人と暴力講師のただならぬ関係が明らかになるにいたり、ついに知花嬢は講師との直接対決を望むのだが、、、
おわかりいただけたろうか。
KANEDA体制下では既に「恐怖」を描くことは目指していない。
人間ドラマを描くことにシフトしている。
コレがシリーズにとって是となるか否となるかは難しい。
人間ドラマなら他にいくらでも優れた作品があるからだ。
まさか、知花はる嬢を川居尚美嬢につづく新たなスターにしようとしている、とでもいうのだろうか、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
「時代劇入門」のエントリーで
「ワタクシ空中さんが時代劇に目覚める前、あまつさえ生まれる前の映画まで遡って観るかというとですね、観ません。」
などと言ってしまったが、たまたま時代劇専門チャンネルでヤッていたので観てみました。
丹下左膳は「時代劇入門」でも「とりあえず知っておきたい時代劇ヒーロー30」の一人であり、主役の大河内傳次郎も「とりあえず知っておきたいスター30」のひとりである。
つまり、時代劇映画として充分にメジャーな作品である筈である。
しかし一方で本作はやや複雑な立ち位置な映画でもある。
本作は1953年、つまりは戦後の制作だが、実は大河内傳次郎主演の丹下左膳映画は、戦前から人気で既に何本も作られているのである。
そしてそれら戦前の作品は、恐らくは我々の考える丹下左膳のイメージと一致している。
長屋に住む浪人者で、近所の子供に懐かれて困っているが、一旦事あらば片手でバッタバッタとヒトを斬る、みたいな、、、
しかし本作は一旦、林不忘の原作に立ち戻って、本来のニヒルな丹下左膳を描き直そう、という試みであるらしい。
つまり今で言えばリブートしてみました、ということだろう。
なにしろオープニングの時点では東北の某藩で普通の一藩士である。
ただしこの時点で既に片目片腕。
異形感はスゴい。
東北の饗庭藩。
自ら「刀狂い槍狂い」と称する藩主は城内の一室を自分の刀剣コレクションに充てるほどのコレクター。
しかし江戸の道場主が持つ「関の孫六」作の名刀だけがいくら頼んでも金を積んでも手に入らない。藩士たちを集めて
「誰か手に入れてくれるものはおらんか!!」
と獅子吼したところ、
「イヤ、コレもう無理じゃね、、、」
と下を向く藩士たちを尻目に唯一手を上げたのが隻眼隻手の藩士、丹下左膳だった、、、
というハナシ。
一体全体左膳はどうやって名刀を手に入れるのだろう、、、と思っていると、なんと、イキナリ道場破りでした。
まさかイキナリ暴力とは、、、
ある日突然道場に現れ門弟どもを左手一本でバッタバッタとなぎ倒し、道場奥に飾ってあった名刀のうち大刀を奪い取ってしまう。
なぜとりあえず大刀のみ手にとってしまったかと言うと、それでさらに道場のヒトたちを切り捨てるため。この時、道場主も斬られて寝込んでしまう。
つまり、この映画での丹下左膳はとんでもない悪役なのである。
しかも異形。
しかも大河内傳次郎。
もう、とんでもないことになってます。
そしてとりあえず大刀のみを奪い取った左膳であったが、対になる小刀の奪取には失敗していしまう。なぜなら小刀は道場に駆けつけてきた道場主の娘、弥生によって守られるから。
なんと、異形のオトコ丹下左膳、弥生に一目惚れしてしまい、弥生を切り捨てて小刀を奪えなくなってしまうのである。
え、ココに来て色恋沙汰?、、、
と思うのだが、実はこの映画、色恋沙汰が重要なテーマでもある。
左膳は道場主の娘弥生に惚れている。
しかしその弥生は道場の高弟、栄三郎に惚れている。
しかしその栄三郎は茶屋の娘お艶に惚れている。
ココはお艶も栄三郎に惚れていて、一応両思いなのだが、コレまた異形の不良旗本、鈴木源十郎なる人物が、お艶に横恋慕している。
そしてそして左膳には、左膳が勝手に住み着いた古寺で賭場を開いている櫛巻お藤が惚れている。
もう、ドロドロではないか。
そして、ワタクシ空中さんは現時点でマキノ雅弘監督がナニを得意としているヒトなのか解らないのだが、なんとなく、演出で一番力が入っているのは、栄三郎をめぐる二人のオンナ、弥生とお艶が対面してしまう愁嘆場のような気がする。
そう、何しろ「丹下左膳」なので、最初の道場破りのシーンを皮切りに当然チャンバラはふんだんにあるのである。
しかし、本作を観て
「おお、大河内傳次郎の殺陣スゲぇ!」
となるかというと、ならないのね。
太刀筋をジャンプで避けたり、結構アクションしているのだが、ロングショットが多いせいもあって、あまり迫力がない、というか、そもそもナニをヤッているのかよく解らない。
さらに言えば、このストーリーのもう一つの特徴は、
「大小二振りの名刀同士が血を吸いながら呼び合う」
という伝奇趣味である。
左膳の手にある大刀と弥生から栄三郎に託された小刀が、再び一緒になるためには100人の血を吸わなければならず、左膳は大刀が求めるまま、夜な夜な辻斬りを繰り返す。
こういう伝奇要素が入ると、ストーリー全体が支配されがちだが、あんまりそこに重点が置かれてる気がしない。
やはり重点が置かれているのは色恋沙汰なのだ。
誰が誰をどれだけ好きなのか、そしてそれによってどういう行動を取るのか、そこを延々と描いている映画、という印象が深い。
やっぱりマキノ雅弘監督の興味はそっちにあるのかな、という感じ。
もっと大河内傳次郎演ずる異形のオトコっぷりを楽しめるかな、と思ったがちょっと残念。
そしてこの映画、ラストで大量の捕り方に囲まれた状態での左膳と栄三郎の対決の最中、唐突に終わってしまう。
なんじゃコリャ、と思うが、どうもこの映画、続編があり、二本で一本の映画らしい。
そして、続編はDVDが出ているが、正編である本作はDVD化されていない。
なにしろ主人公が隻腕隻手でである。今となっては映画に使ってはイケない単語がイロイロ出てくるせいだろう。
逆に続編はその辺なんでうまく避けられているのか(あるいはいないのか)分からないが、とりあえずそのまま放送してくれた時代劇専門チャンネルに感謝を捧げて本稿を締めくくりたい。
JUGEMテーマ:映画
フェイク邦題シリーズ第二弾。
驚いたことに脱走もしないし特急でもない。
しかもそもそも「脱走特急」ってシナトラの名作があるし。
観てないけど。
観てないけどね。あるのよ。
原題は
「Коридор бессмертия」。
イヤ読めんわ!(ロシア語表示されてる?)
Google翻訳によると。
「不死の回廊」
だそうである。
なるほどね。
ソ連軍がナチスドイツによるレニングラード包囲線を突破したのち、レニングラードに物資を運ぶため、慌てて線路を引いて鉄道を通し、蒸気機関車で物資を命がけで運ぶ7人のハナシ。
まあ、「不死の回廊」じゃ訳わからないから「不滅のレール」とか良くね?ダサいか。
やっとの思い出ドイツ軍によるレニングラードの包囲線を突破したものの、レニングラード市内は絶望的に物資が不足していた。なにしろ包囲戦を突破しただけで、あたりはまだまだドイツ軍だらけなのだ。
ソ連は「トラック100台分」の輸送量を誇る鉄道敷設の必要に迫られるが、物資のみならず人材も不足してた。
仕方なく線路の敷設から列車の運行に至るまで、女学生の力さえ借りざるを得なくなっていたのだ。日本で言えば「学徒動員」ですね。
で、列車運行のため駆り出された音楽学校の女学生、ソーニャとマーシャが主人公。
もともと音楽学校で楽器を習っていたが、食事がが目当てで(なにしろ列車が動くまでは物資が絶望的に不足している)「車掌」の応募に応じる。
しかし車掌とは名ばかり、なんと少女の身で線路の敷設から荷物運びまでやらされる雑用係であった。
とはいうものの、一回目の運行を乗り越えたあと、7人の乗員たちには仲間意識も芽生え、辛いながらも任務をこなしていた。
が、ある日、「孤児院の荷物」と偽装した軍の機密物資とカモフラージュ用の孤児たちを輸送する任務で、彼らは絶体絶命のピンチに追い込まれるのであった、、、
というハナシ。
で、ですね。
ロシア映画なんてタルコフスキーの「惑星ソラリス」と「ストーカー」以来(つかソビエト社会主義共和国連邦じだいですな)なので、なんとなく、美しくもやや退屈な映画かな、と思ったが、そうでもなかった。
ハリウッド映画を見慣れた目にも比較的面白く観ていられる映画でした。
まず、フツーに役者さんがみんな巧い。若いソーニャとマーシャも含めて。
きっとロシアではみんな評価の高い役者さんなのだろう。
そして当時のソ連の生活を挿みながら、鉄道敷設から物資輸送の様子、そしてラストのピンチまで持っていく展開も過不足を感じさせず上手いな、と思った。
特に、ピンチを脱するべくマーシャが突然取った行動など、「ああ!その手があったか!!」と感心してしまった。
とは言うものの、欠点もあります。
演出にちょっと雑なところがあって、解りにくいところが頻出するのね。
例えば、女学生ふたり、ソーニャとマーシャが主役と言いましたが、もう、このふたりの区別が最後までつかない。
アレ?機関士に惚れたのはどっちだっけ?
お母さんの病院を訪ねたのは?
フルートを吹くのは?
なんとなく、オープニングの時点ではキリッとした美少女がソーニャでこまっしゃくれた美少女がマーシャ、という区別があったのだが、何分ロシアのこととて終始寒さよけの被り物をしているし、どういうわけか身長体重ともにほぼ同じような女優さんをつかっているので、映画が進むほどにどっちがどっちが判らなくなってくる。
ココはなにか区別がつきやすくなる工夫が欲しかったなぁ、、、
どっちか背が低いとか。
いっそどっちかデブかブスとか。
あと列車の運行について位置関係がよく解らないところがある。
ソーニャは助けを呼びに前方のいる筈の機関車に向かって走ったはずなのに、なぜ機関車の前方にいたの?
あと映画のラストで描かれる運行には他にも車両がいたはずなのにどこに行ったの?
ことほど左様に演出が荒い。
もしかすると、アメリカ映画のテンポでロシア映画を作ろうとすると、こうなるのかも知れない。
そして最後にもう一つ。
この映画には第二次世界大戦中のソ連の生活を伝える描写が二つあり、映画にグッと深みをもたらしている。
一つは爆撃について。
この映画は最初から最後まで、常に主人公達の周囲で爆撃が起きている。
しかしもう、登場人物たちはいちいち怯えたりしない。淡々と「ああ、来たな、、、」「近いな、、、」とか受け入れてしまっている。
別に安全なことが判っているわけではない。
線路敷設のシーンでは主人公たちが働いている敷設現場そのものに落ちて、作業員に死者が出たりする。
それでも大騒ぎするでもなく、淡々と死者を悼み、作業を続行する。
そこには「爆撃」と、「爆撃による死者」が当たり前になった世界がある。
この映画で一番怖いのはココかも知れない。
コレが戦争のリアルというものなのだろう。
そしてもうひとつ。
主人公たちの活躍によって物資の状況が改善したレニングラードでは食料の配給が増える(ここで配給がどうなったのかは語られるが、それが今までと比べてどれくらい増えたのかは判らないあたり、また演出が足りないのだが、、、)。
そしてこの配給が増えたことを、以上に喜ぶのである。
任務を遂行し続ける事によって家族のような絆を獲得した主人公たち7人は揃っての夕食の最中、話題が配給増に及ぶと、喜びのあまり単なる夕食が飲めや歌えのパーティーになってしまう。
ああ、御飯の量が増えるのがそんなに嬉しいのね、、、
いままでよっぽど少なかったのね、、、ひもじかったのね、、、
コレまた戦争のリアルというものを突きつけてくる演出ではないか。
という訳で、戦争のリアルを伝える印象的な描写はあったものの、エンターテインメントしては惜しい映画になってしまったなぁ、という感じ。
ラストに用意されれ、劇中ではついに明かされることのなかった「軍の機密物質」の正体が、今となってはどーでもいー、というのもある。
アレ、劇中で主人公たちに正体を明かしてサスペンスを盛り上げるんじゃなかったら、ラストで字幕で明かされても意味無いよね。観客は大体わかってるし。完全に扱いを間違えたな、、、
こういうところがアメリカ映画のメソッドにかなわないところということなのだろう。
JUGEMテーマ:映画
エンドクレジットが始まった瞬間強烈に思ったのは、
「エ?コレで終わり?」
でした。
邦題は「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 」だが、別に世界を救うところは描かれていない。
そもそもヒトラーから世界を救ったのがチャーチルかどうかも議論があるところだろうが、まあ、そこは置いとこう(メンド臭いし)。しかしそこまでハナシが進んでいないのに、タイトルにするのはいかがなものか。
原題は「DARKEST HOUR」。
最も暗い時間。
イギリスが、ヒトラーにどう対処するかを巡って、最も迷っていた時期を「暗黒の期間」と表現しているのだろう。
邦題のキモは「〜男」のところか。
この邦題は「世界を救った」に力点があるのではなく、「男」に力点があるのだろう。
この映画はとある「男」を描いているんですよ、別に歴史を描いてるんじゃありませんよ、ということなのかも知れない。
1940年5月、英国首相である保守党党首チェンバレンは、ナチス政権に対する弱腰を議会で責められ、野党労働党と連立政権を組まなければ政権が持たなくなっていた。
そして労働党が首相として指名したのは保守党の海軍大臣チャーチルであったが、実はチャーチルは保守党内部で嫌われていた。
それ以前のいくつかの失策もあったが、なにより傲慢でイヤミな性格が嫌われていたのだった、、、
そんなチャーチルさんが党内闘争を勝ち抜いて対独戦のイニシアティブを握れるのだろうか、、、というハナシ。
つまり、チェンバレン首相が辞任する5月10日からダンケルクの戦いを経てチャーチルが下院で歴史に残る大演説をするまでのたった4週間ほどしか無いのね、映画の中で流れる時間が。
しかし、この4週間がイギリスの歴史の中で最も激動の4週間なのだろう。
なにしろ上映時間が2時間10分もあるのに、「え?もう終わり?」と思わせるのだから。
場面もほとんど変わらない。
国会とチャーチルの自宅と首相官邸と王宮くらい。
あ、あと地下鉄の中がちょっとあったか。
せっかく映画にもなったダンケルクの戦いがチャーチルの指示で進行しているのに、戦場のシーンはない。
で、ナニをヤッているかと言うと、ですね、ゲイリー・オールドマンによるウィンストン・チャーチル地獄、しかも特殊メイクアップ付き、ということですね。
たしかにコレはスゴい。
まず、ゲイリー・オールドマンがわざわざ業界に呼び戻した辻一弘による特殊メイクアップがスゴい。チャーチルに似ているかどうかはどうでもいい。要するに太ったおじいちゃんなのだが、完璧に太ったおじいちゃんに見えるうえに、ちゃんと表情が動くのである。ほとんど言われなければゲイリー・オールドマンであることが判らないほどの特殊メイクであるにも関わらず、ゲイリー・オールドマンの精妙な演技がちゃんと表現できている。
コレはやはり特殊メイクの歴史を変える出来だろう。つかアカデミー賞獲ったんだけど。
そしてその特殊メイクが可能にしたゲイリー・オールドマンの演技。
単純に役になりきる、という以前にその全身を使った老人っぷりが素晴らしい。
背を丸めて小股で杖を突きながらヨロヨロ歩く。
なんかっつーと咳き込むが自分が言いたいことがあると饒舌になる。
コレが老人と言うもんだ。
「ホテル・アルテミス 〜犯罪者専門闇病院〜」のジョディ・フォスターといい、ベテラン名優の老人ぶりっ子が流行っているのだろうか。
コレもアカデミー主演男優賞が納得の、「金の取れる演技」を超えた「賞の取れる演技」。
結局この二つのための映画でしかなくて、それでいいんだと思う。
それ以外のことは望んでない。
監督は「ハンナ」のジョー・ライト。
従ってアクションもやろうと思えば出来るのだが、敢えてココはゲイリー・オールドマンの演技を観せるための演出に徹している。
抑制の利いたヒトだ。
演技陣ではあと「英国王のスピーチ」でも有名なジョージ六世役のベン・メンデルゾーンがコレまた国王役らしい抑制の効いた演技で印象に残る。ジョージ六世の特徴である吃音も自然に表現して好印象。
ラストのついてはイロイロご意見もあるでしょう。
単なる好戦映画じゃねーか、と。
主戦派を美化しすぎじゃねーか、と。
まあ、そこに疑問を持ってないのは気になるが、最終的にはゲイリー・オールドマンの演技と特殊メイクと陰鬱なイギリスの雰囲気のための映画、ということで気にしないことにします。
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「時代劇入門」というくらいで入門編なので、ワタクシ空中さんのようなある程度の時代劇ファンには物足りない部分が多い。
しかしワタクシ空中さんの時代劇に対する興味もある程度範囲が限られているので(特に映画に目覚める前の作品)、参考になる部分もある。
本書はある意味、春日太一氏のこれまでの著作の集大成であり、春日氏がかねてより主張してきた、「おじいちゃんの家での『水戸黄門』問題」とか「時代劇はファンタジーと思え」など、改めて読むと、決して旧態依然とした議論や外形から入らず、イキナリ時代劇鑑賞の本質に切り込む論理展開には頭が下がる。
そう、本書は時代劇論であると同時に時代劇「鑑賞」論なのである。
しかし、ワタクシ空中さんはそこで本書の問題点にも気付いてしまった。
ワタクシ空中さんが時代劇に興味を持ったのは「必殺仕掛人」あたりが最初だったろうか。
殺気に溢れた殺し屋と庶民を助ける針医師をシームレスに演じ分ける緒形拳の存在感に、それ以前に父親が観ていた時代劇らしい時代劇とは全く違うリアリティを感じたし、ナニよりも右手に持った刀で人を斬りながら、左手に持った傘で返り血をよける林与一の華麗な殺陣シビレた。
更に続く「必殺仕置人」は華麗な殺陣こそなかったが、仕置人メンバーたちの仕掛人の藤枝梅安を凌ぐ現代的なメンタリティと庶民としてのバイタリティは目を瞠らされた(「必殺シリーズについて書くと止まらなくなりそうなのでこの辺でヤメておくが)。
次に出会ったのが「唖侍鬼一法眼」だったか。
ここで完全に若山富三郎先生に目覚め(言っておきますが全部再放送ですよ)、その後「魔界転生」「子連れ狼」と若山富三郎先生を追い続けることになる。
オレのことはどうでもいい。
ナニが言いたいか、というとですね、そんなワタクシ空中さんが、じゃあ本書で解説・紹介されている、ワタクシ空中さんが時代劇に目覚める前、あまつさえ生まれる前の映画まで遡って観るかというとですね、観ません。
正直、「町山智浩・春日太一の日本映画講義 時代劇編」でも語られていた、時代劇の殺陣がリアル路線に転換する瞬間である、黒澤明までは既に遡っているのだが、それより前は無理。
本書で紹介されている「とりあえず知っておきたいスター30」で言えば、まさに三船敏郎以降であり、尾上松之助から大友柳太朗までのスターを追いかけようと思うかというと、思えませんよね。
そしてある程度時代劇の沼にハマっているワタクシ空中さんでこのテイタラクだとすると、そもそも本書は誰が読むのであろうかという疑問がないでもない。今現在時代劇に興味がないヒトが、昨今の時代劇状況を鑑みて、
「ちょっと時代劇でも観てみようかな、、、と言ってもナニから見ればいいのかな、、、」
と思うだろうか。
春日太一氏がモノするべきなのは、今現在時代劇に興味のないヒトが
「時代劇観てぇ!!」
と思うような強烈なコンテンツとその魅力を紹介することではなかろうか。
本書のような時代劇全体、時代劇という概念の魅力を伝えることが主な趣旨である書は、その後に来るべきであるような気がする。
とは言うものの、ですね。
実は本書、最後にとんでもない隠し玉があるのだ。
最後の最後に収録された
第五部 第三章「殺陣の入り口としての『ガンダム』」
と
《特別インタビュー:富野由悠季監督が語るチャンバラ演出の極意》
こそが本書の白眉だろう。
不肖ワタクシ空中さんは、実は「機動戦士ガンダム」をあまり評価してなかった。
って言うかそもそも観てなかった。
なんかさ、アニメーションとして評価できないっていうかさ、、、
こういう事を言うとガンヲタからとんでもない反発を食らうのである。
曰く「あの設定のリアリティが判らんのか」
曰く「あの深みのあるキャラ設定が判らんのか」
曰く「あの苛烈なストーリー展開が判らんのか」
イヤ、判るのよ。
それ以前のパターン化した巨大ロボットアニメの常識を破った現実的な設定、それでいて「コロニー落とし」のような強烈なSF感。
SF感といえばモビルスーツという名称自体がハインラインの引用ではないか。
そして複雑な背景を背負い、その宿命に縛られ、抗うキャラクター達。
確かにフィクションドグマだけで考えるとガンダムはアニメの歴史を塗り替えた名作だろう。
しかしアニメーションとしてどうなのか。
ワタクシ空中さんはアニメを観るときはアニメーションとしてどうなか、映画を観るときは映画としてどうなのか、小説を読むときは小説としてどうなのか、が気になるヒトなのだ。
それらに共通してあるフィクションドグマ(まあ、設定とかストーリー展開とかキャラ立ちとかね)も重要だが、それ以上にそのメディアににしか無い魅力が気になるのだ。
そういう観点から見ると、ガンダムってアニメとしてはダサくね?
別にアニメが嫌いなわけじゃないのよ。エヴァンゲリオンや原恵一時代のクレヨンしんちゃんは大好きです。つまりそれらは「アニメーションとして」優れていると思っているのだ。
オレのことはどうでもいい。
そんな訳でワタクシ空中さんはガンダムをほぼ観ていなかったのが、言われてみると確かに刀っぽいもの持ってるね。ビームサーベル。
コレは確かに盲点だった。
そういう目でガンダムを観たことがなかったのは認めねばならない。
おのが不明を恥じなければならないだろう。
言われてみれば、ガンダムに出てくる戦術ジェットストリームアタックが子連れ狼から来ている、というのは知ってたりしたのだが、、、
富野監督の書き込みのある絵コンテから、殺陣に対する情熱を読み解く第五部第三章はなかなかの迫力なのだが、それに続くロングインタビューはさらに凄い。
富野監督はなかなか強烈なキャラで、インタビューの出だしで時代劇について聞きに来た春日氏のスタンスを否定しまくる。
「エ?このオジさんなんでキレてるの?」
というくらい。
もう、最初のうちは春日氏が何を言っても否定してくる。
「なぜ聞きに来たのでしょう」
とか
「僕の立場では答えられないなぁ」
の連続である。
しかしそこを食い下がって徐々に富野監督の本音を引き出すことに成功したのは、春日氏のお手柄である。
ほとんど歴史的な快挙と言ってもいいのではないか。
ガンダムという巨大な山脈の秘密の一端を解き明かしたのだ。
そして最終的には富野監督の時代劇への愛情と造詣の深さを引き出すのだが、コレがなかなかワタクシ空中さんのような時代劇ファンにとってもとても興味深い。
殺陣には「人体を切断する(つまり殺す)」という覚悟が感じられなければならない、とか。
従って富野監督は「るろうに剣心」の殺陣を全く評価していない、とか。
ガンダムはこの「人体を切断する」迫力を出すために、実際には(巨大ロボットでは)出来ない動きをさせている、とか。
従ってガンプラではアニメの動きを再現できない、とか。
う〜ん、面白い。
まあ、だからと言って
「じゃあ、ガンダム観てみっか、、、」
とはならないんだけど、、、
あと一つ言っておきたい。
本書は「時代劇入門」というタイトルだが、時代家の魅力のうちでも殺陣・チャンバラに特化した内容であることは意識しておいたほうがいい。
おそらく春日氏も時代劇の取っ掛かりとしては、チャンバラが判りやすいとの判断をしたのだろうが、実は世の中にはチャンバラのない時代劇も多数存在する。
民放の時代劇は絶えて久しいが、NHKではある程度定期的に時代劇が制作されていて、コレはチャンバラのない時代劇が多いのではなかろうか。
さらにココ10年(20年)以上前から出版界では時代劇ブームが続いていて、コレもチャンバラのない時代劇が多いような気がする。
そしてこれらの作品の人気の源は、おそらくは江戸時代以前の日本人の心性が描かれている事にある。
春日氏にはいずれこの「近世以前の日本人の心性」に焦点を当てた時代劇入門に挑戦してほしいと思うワタクシ空中さんであった。
JUGEMテーマ:ノンフィクション
また観ちゃった、、、
もう、ヤメようって言ったのに、、、
もう何度目だろう、、、
どうせまた裏切られると分かっていても、ふと気がつくと魔物のように観てしまっている中田秀夫ホラー。
で、また裏切られたわけですが、、、
なんの情報もなく観たので、当初「ハハァ〜、芸人さんが主人公なのなねー、、、」とか思って観ていた。
やがて主人公がTVプロデューサーに命令されて事故物件に住む展開を見るにつけ、
「アレ?オレは一体ナニを見せられているのかな、、、」
という気になってきた。
しかし、やがてコレは何度かテレビで見たことある「事故物件住みます芸人」の実話をもとにした映画なのだな、気づく。
そして、ワタクシ空中さんはふと思うのである。
「アレ?中田秀夫って、ちゃんとした原作があるんなら、面白くなるんじゃなかったっけ、、、しかもコレって中田秀夫が得意なバックステージものじゃね、、、」
売れない芸人、山野ヤマメ(亀梨和也)は相方(瀬戸康史)に見捨てられピン芸人としての将来に不安を感じていたが、唯一のファンだった梓ちゃん(奈緒)といい感じ。
元相方のアイデアで「事故物件に住む」という仕事をヤり手プロデューサーに提案され、イヤイヤ住み始めた初日に撮影していたVTRにオーブが写ってしまい大騒ぎに、、、というハナシ。
ハナシの構造に気づいてしまえば疑問なく楽しめるようになる。
実は唯一のファンだった梓ちゃんは「見える」体質であり、ヤマメは彼女の助けを得て順調に「事故物件住みます芸人」として活動を続け、映画としては事故物件4件目までを描く(実際には映画公開時点で11軒目に挑戦中とクレジットが出る)。。
そしてワタクシ空中さんは、この2軒めまではよく出来ていてワクワクした。
1軒目の「赤い服のオンナ」登場のくだりのサスペンスと、2軒めの殺人シーンの迫力はさすが中田秀夫と思わせる。
しかしそこまで。
3軒目の不発ぶりと4軒目のグダグダぶりはヒドい。
コレはまあ、脚本がヒドいですね。
いろいろ説明出来ていなくて「??」となるところも多いし、そのくせ余計なことをして悦に入ってたりする。
例えば、1軒目に入居する際、マンションの入口やエレベーターホールに何度も「6階立入禁止」の張り紙がある。
観てる方としては
「ははぁ、亀梨くんはその6階に住むのだな、、、」
と思うが、亀梨くんの部屋が6階である、という明確な演出はない。
あと、ナニを契機に引っ越ししているのか判らない。
明確に心霊現象を撮影したことに成功した描写があるのは1軒目だけである。
撮影に成功しなくても、ちょっとでも心霊現象に合えば次に移るのだろうか。
「事故物件住みます芸人」としての発表場所が、最初はテレビプロデューサー紹介のテレビ番組だったのに、いつの間にか怪談ライブみたいなものに移っている経緯が判らないのと合わせて、この辺事情が全く描かれていないので、いちいちつまづいてしまう。
「事故物件住みます芸人」としての活動が大阪で評判になり、東京進出が決まった際、馴染みの不動産屋に東京の事故物件を紹介してもらうのだが、良い物件が千葉の稲毛にしか無い。不動産屋に
「千葉にあっても東京ディズニーランドって言うでしょう?」
などと訳のわからない事言われるのだが、結局この稲毛の物件を選んだ、という明確な描写がなく、いま亀梨くんが住んでいるのが稲毛なのかどうか不安になる。
東京、千葉の住民は、不動産屋が「東京ディズニーランドって言うでしょう」といった瞬間、「イヤ、稲毛は遠いだろ、、、」と思うので、延々総武線に乗ってため息をつくシーンとか、海岸も近い稲毛であることが判るカッが欲しいところである。
さらに言えば4軒目に突然梓ちゃんが現れるのは、一緒に不動産屋で物件表を見ていたシーンがあるので納得できるが、元相方の登場は全く訳が判らない。
タイミングも、ネットの生中継を見て駆けつけることを決意したことは判るが、大阪にいた梓ちゃんと九州に帰ったはずの相方がほぼ同時に駆けつけるのはおかしいのではないか。
ことほど左様に描写が足りない展開が多すぎ、観ていてもう、イライラする。
脚本はブラジリィー・アン・山田。劇団主催者だがホラー系の映画やドラマの脚本を多く手掛けているらしい。
ああ、なるほど、という感じ。
舞台のリアリティと映画のリアリティの区別がついていない感じがする。
例えば4軒目など、
「このエピソードで映画を締めるぞ」
という気負いもあるのだろうが、なにやらその物件と関係あるのかないのかよく解らない魑魅魍魎が、取り立てて映像的な工夫もないまま大挙して出てきて、ホラー映画というより暗黒舞踏の舞台中継のようである。
さらにココで前半からチラチラ出てきた謎のボスキャラが大々的に活躍するのだが、結局正体不明である。
脚本家としては正体不明のまま終わることで「へっへっへ、深みのあるホン書いたったで、、、」などと思っているのだろうが、造形が紋切り型なせいもあってバカバカしいだけである。
結局、ココ数作の中田秀夫作品と一緒だなぁ、と。
前半は演出力もあってソコソコ期待させるが、後半グダグダで、脚本を制御出来ず、ほとんどお笑いになって終わる。
中田秀夫はいつかこの地獄から抜け出せるのだろうか。
亀梨くんの演技はソコソコ自然で「見てらんねぇ、、、」ということはないが、最後まで演技プランが定まらず終わってしまった印象。
例えば最初は嫌がっていた住みます芸人としての活動を、徐々に受け入れていく過程が演技では表現できていない。
突然、
「あ、もう受け入れたのね、、、コレで行くしか無いって決めたのね、、、」
という感じ。
そのせいで東京進出にあたって急に梓ちゃんに辛くあたるのも、これ以上梓ちゃんを巻き込みたくないからなのか、ホントに邪魔だと思ってるのか判らない。
コレは演出のせいなのかな、、、
あとコレはイカンと思うのは、「ホラー・エンターテインメント」などという訳のわからない造語をひねり出して宣伝していることだ。
じゃ、アレか。
普通のホラーはエンターテインメントじゃないのか。
おそらくは原作にはない恋愛要素やコメディ要素を盛り込んだことに対する言い訳か、あるいは最悪自慢なのかもしれないが、ラストの大騒動など、全然ホラー要素とコメディ要素がかみ合っていなくて、ただただサムいだけ。
ただ、途中一箇所高田純次さんが高田純次のキャラのまま、怪しい行者として登場してきて、ココだけ面白いし、意外に本筋に絡んでくる。結構有能な行者だったのだ。
このキャラをメインに据えたスピンオフの制作をお願いします。
JUGEMテーマ:映画
この映画は、映画の文法は崩していない。むしろ文法的には正統的な手法を貫いていると言って良い。
しかし、同時にこの映画は100年以上映画界が築き上げてきた価値観を破壊している。
揺さぶっているなどという生易しいものではない。
木っ端微塵に破壊しているのだ。
映画は短いアバンタイトルの後、ヒロインのアップから始まる。
この顔が露骨に特殊メイクアップ。
特殊メイクアップで「とてつもなくブッサイクなオンナ」を表現している。
全体的にまんまるっちくって肌はガッサガサ、細い奥目に額から一旦ヘコむことなく蛇の鼻(?)のように伸びる太い鼻梁、そして口は閉じているつもりなのだろうが常に少し歯が覗いている。
この時点でワタクシ空中さんは思ったのである。
「ハハァ、わざわざ女優さんを特殊メイクアップまで使ってブサイクにする、ということは、いずれこのキャラはメイクアップを取って絶世の美女に変身するのだろう、そして映画の中でブサイクと美女を行き来するのだろう。ブサイクと美女の境目がタイトルの「ボーダー」であり、境目の両側の「二つの世界」を行き来する映画なのだろう」
全然違った。
彼女は最後までブッサイクのままである。
二つの世界とは、彼女(達)の世界と、それ以外、つまりは我々の世界なのだ。
つまり、ボーダーは彼女(達)と我々の間に存在する。
さらに驚いたことには、この映画は彼女をヒロインとした恋愛映画なのだ。
ただ誰かと一緒じゃないと寂しいからという理由で愛のない無職オトコと同棲していたヒロインが運命のオトコと出会い結ばれるが、実は彼にはヒロインが納得できない裏の顔があった、、、
いつの時代のメロドラマだよ、というくらいベタな恋愛映画ではないか。
イヤイヤイヤイヤイヤ、恋愛映画とは美男美女が繰り広げるものである、というのが映画130年の歴史ではないのか。
ありえないほどブサイクな男女が繰り広げる恋愛映画などというものがあっていいものか。コレは映画の歴史の破壊ではないのか。
そして、映画の歴史を破壊しながらベタな異形の恋愛を美しく描ききっているのだ。
この手腕と映像センスには恐れ入った。
おそらく世間的にこの映画は「差別されるものの心情に寄り添った」とか言う文脈で語られるのだろう。
しかしそんなことはどうでもいい。
差別がイケないくらい、差別される側のこころに寄り添わなければイケないくらい、映画に教えて貰わなくても分かってる。
映画がなにかのメッセージを伝えていないと納得できない、あるいは映画がなにかのメッセージを伝えていると大喜びする層のためにそういうのも必要なのだろうが、ワタクシ空中さんは正直そういうのどうでもいいのよ。
どうでも良くないのは驚嘆すべき映像センスだろう。
まず、ヒロインとその運命のオトコの造形が素晴らしい。
もう、ギリギリのラインを攻めてる。
「二つの世界」の両方でギリギリ通用する容姿。
このバランス感覚には恐れ入る。
ギリギリこちら側の世界の住人として許容されるが、もう一つの世界の住人と言われれば納得してしまう、絶妙なバランスの特殊メイクは、多分、特殊メイクの歴史に刻まれるだろう。
そしてその異形の恋愛が、反則的なまでに美しいスウェーデンの自然の中で繰り広げられるのだ。
不勉強なのでスウェーデン国民が平均的にどの程度の自然の中で暮らしているのか分からないが、本作のヒロインは勤め先の港の税関までクルマで通勤する途中、平気で鹿に出会ったりする。
ヒロインの家の裏は鬱蒼とした森が広がっており、ちょっと奥には小さな湖すらある。
そして、夜になると窓辺にキツネが訪ねてきたりする。
キツネのシーンはヒロインの今後を象徴する重要なシーンなのだが、美しく、神秘的でさえある。
この、神秘的なまでに美しい自然ととてつもない異形の恋愛が、見事にマッチしている。
この映像センスには恐れ入る。
もう一つ印象的だったのは、「こちら側」つまりヒロインにとっての「あちら側」のキャラクターの描き方である。
港の税関に勤めていた彼女は特殊能力をかわれて警察の捜査に協力する。
そして彼女は邪悪な犯罪者を見つけ出すのだが、問題はその時一緒に捜査した警察側のキャラである。
彼女と一緒に現場を回る刑事は太っちょのおっさんで、最初は絶対警官でもないのに捜査にしゃしゃり出てきて、彼には理解できない方法で犯人を特定しだす彼女に悪印象を持っていると思っていた。
しかし、一緒に上司に報告する段になると、完全に彼女の説を支持して彼女の味方になるのだ。
実は偏見のない公平な人物だったのだ。
そしてその上司。
上司は背の高い年配の女性で凄く厳しい人物として造形されているが、彼女もヒロインの特殊な能力をきちんと冷静に評価する、偏見のない人物として描かれている。
こういうところをちゃんとしているので、単純な「二つの世界」の対立構造に堕さず、重層的なストーリー展開を可能にしているのだ。
なんだか今回書き方がエラく抽象的になってしまったが、本作はちょっと詳しく説明すると致命的なネタバレになってしまう危険があるのである。
宣伝で「ファンタジー映画」と名乗っているので、イイかな、とも思うが、一応ネタバレしない程度に抑えて書きました。
そこで最後にヒロインとその彼氏に一冊の本を読んで欲しい。
「絶滅の人類史 なぜ『私たち』が生き延びたのか」
である。
ホモ・サピエンス以外の人類が滅びたのは、ホモ・サピエンスによる虐殺ではない。
出産率の差なのである。
JUGEMテーマ:映画
当ブログでも何度か言及させていただいているが、「ジェット・コースター・ムービー」と呼ばれる映画がある。
当ブログで過去に扱ったことのある映画としては、ブラピの「ワールド・ウォーZ」とか。
「その女諜報員アレックス」とか。
「亜人」もそうかな。
「亜人」にはジェットースタームービーと言うより、「コンデンスト・ムービー」とか、今考えた新しい称号をあげたい気もするが。
要するに、豊富なアイデアを「スゴい」スピードで展開する映画、である。
「スゴい」というところがポイント。
なにしろジェットコースターだ。
そのスピード自体に恐怖を覚えるほどの怒涛の展開でなければ、こうは言わない。
そしてそのスピードをドライブする豊富なアイデア。
ただスピードが早くても同じ風景、同じカーブばかりでは映画もジェットコースターも飽きられてしまう。スピードを維持するにはそれに見合う量のアイデアが必要なのだ。
そして本作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、そのジェットコースタームービーぶりにおいて、その規模、大風呂敷ぶりを考慮すると映画史上に残ると言ってもいいのではないか。
一方でこの映画は、全くリアリティの無い設定、全く説得力の無い展開、全く納得行かない人間関係、全く嘘くさいキャラ、と信じられないくらい雑な脚本の上に成り立っている。
失礼ながらワタクシ空中さんは、今どきハリウッドのこんな大予算のビッグプロジェクトで、こんな雑な脚本が許されることがあるとは夢にも思わず、ビックリしてしてしまった。
これは一体全体どういうことなのだろう。
怪獣映画を喜んで観るような奴らはどうせアホなので、こんなもんで良いだろ、と思っているのだろうか。
だとしたらナメられたものである。
嘘くさい設定を嘘くさいまんま次から次へと繰り出しときゃ「スゲエ!スゲエ!」って喜ぶんだろ、ドーセ、ってなもんである。
しかし、このジェットコースターぶりと雑な脚本にある程度の時間晒されていると、ワタクシ空中さんに不思議な現象が起きてくるのであった、、、
あまりにも非現実的でバカバカしい展開の怒涛のような波状攻撃。
そして全体的に青を基調にした色彩設計の中に時に強烈なアクセントとして現れる赤。
これらの相乗効果により、なんだか
「ワタシが非現実的でバカバカしい映画を観ている」
というより
「非現実的な映画を見ているワタシ、という状況自体が非現実的」
という不思議な気持ちになっていく。
一体全体オレは何故こんな映画を観ているんだろう。
オレは非現実的なまでにムチャクチャな映画を見ているのではなく、このムチャクチャな映画を観ているオレ自身が非現実なのではないか、、、
イヤ、よく知りませんけど良くないおクスリをキメてトリップしちゃってる感じってこんな感じかな、と思う。
コレをもし最初から狙ってヤッてるとしたら、この映画はたいしたものである。
そしてもう一つ。
本作は我々怪獣映画のファンが怪獣映画を観るときのお楽しみのいくつかがスポイルされていることも指摘しておきたい。
例えば空間の演出である。
怪獣映画とは、つまるところ巨大な生物が出てくる映画である。
そして、巨大なモノを観客に「ああ、これくらいの大きさなのね、、、」と知らせることは簡単だが、「うわ!デカッ!!」と思わせることは意外に難しい。
例えば怪獣が高層ビルの中をのし歩いていれば、ビルとの比較で巨大さは伝わる。
しかし怪獣とはそもそも恐怖の対象である筈である。
理性で巨大さを理解するのではなく、その巨大さに対して観客が恐怖する演出が必要なのだ。これを実現するのが「空間の演出」である。
例えば、初代ゴジラで、民衆が小高い丘を超えて逃げようと走っていると、その丘の向こうからゴジラがヒョイッと顔を出す恐怖。
これは例えば一番最初の「スター・ウオーズ」である「エピソード4 新たなる希望」のオープニング、スター・デストロイヤーの下っ腹を延々ナメて行くとその下っ腹に何やらいろいろな構造物がくっついていて、それを延々見せらることで構造物との比較から「デ、デケェな、、、」と思わせるのも「空間の演出」だろう。
コレは実は出来ている演出家は意外に少ないのよ。
昔の、要するに怪獣映画全盛期の東宝は出来ていた。っていうか要するに円谷英二が出来ていたってことなのかな。
その後コレが出来ている、と思ったのは、どういうわけかアニメ界に多い。
「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明と「クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦」の原恵一である。
エヴァの第一話、戦略自衛隊のヘリ(今見るとオスプレイだなコレ)が山と山の間を飛んでいると、その山と山の間に使徒がズコッと入ってくるショック。
「温泉わくわく」で逃げ惑うひろし運転する野原家カーを映していると、そこにドコーン!と入ってくる巨大ロボットの足のデカさ。コレを観た瞬間、「ああ、やっぱり日本の映像関係の才能は実写映画よりアニメに集まって来るんだな、、、」と思ったものである。
残念ながらこういう「うわ!デカ!!」と思わせるような演出は全く観られなかった。
本作はケン・ワタナベの役名、オキシジェン・デストロイヤーの再登場、モスラに関連する双子の登場など、東宝怪獣映画へのオマージュに満ち満ちているが、肝心なところは学ばなかったようである。
もう一つ学ばなかったところ。
逃げ惑う民衆。
この映画には逃げ惑う民衆の描写がない。
厳密に言うとラドンが出現する島のシーンで若干あるのだが、「逃げ惑う民衆」のドラマを描いてはいない。
怪獣映画はつまりパニック映画でもあるので、怪獣に生命のみならず生活をも踏みにじられる民衆のドラマを挿入するのは怪獣映画の不文律である。
しかし本作はなんだか狭〜い人間関係に終止して、視点を広げて怪獣に蹂躙される世界を描く、みたいな発送はコレまたなかったようである。
しかし、もしかするともしかすると、そんな、「空間の演出」だの「逃げ惑う民衆」だのヤッていると、トリップムービーとしての働きに支障をきたすから、敢えて避けているのかもしれない。
だとしたら、やっぱりスゴいな、、、(ま、無いけど)
JUGEMテーマ:映画
ジークムント・フロイトの娘、アンナ・フロイトは、父の提唱した「防衛機制」の概念を発展、整理、分類したが、その中に「攻撃者との同一化」という概念がある。
例えば、子供がお化けが怖すぎるとき、自らお化けの真似をして弟や妹(とは限らないけど)を怖がらせたりする。
そうすると恐怖が和らぐのである。
この心の働きを「攻撃者との同一化」と分類したのだ、
スタさんの代表作「ランボー」シリーズの11年ぶりの最新作にして完結編(第一作からはなんと38年目)、「ランボー ラスト・ブラッド」はこの「攻撃者との同一化」についての映画であった。
そもそも前作のタイトルからして「ランボー 最後の戦場」であり、ランボーが数十年ぶりに故郷に帰るラストシーンを観て、
「ああ、ランボーの地獄めぐりもついに終わったんだな、、、」
と感慨にふけった記憶があるのだが、なんとさらにもう一作作りやがるという。
っていうかスタさん自身、絶対「最後の戦場」で最終作のつもりだっただろ、と思うのよ。
しかし齢70を過ぎたスタさんはふと気づくのである。
「ランボーの戦いはまだ終わってない。
ランボーはまだベトナム以来の恐怖を解消できていない。
そして、ランボーはまだ自分の戦いを戦ったことがない」
そう。
本作はランボーの「攻撃者との同一化」を描くと同時に、ランボーの「自分自身の戦い」を描いている。
思えばこれまでランボーの戦いはいつも巻き込まれ型か、他人のための戦いであった。
理不尽に警察に追われる第一作。
元上官に依頼される第二作。
元上官を救いに行く第三作。
そして頼まれ仕事だった第四作。
しかしこの第五作はとうとう、誰に頼まれたのでもない、すでに誰かを救うためですらない。
ただ、自分のための戦いを戦い抜くのであった、、、
前作のラストで実家の農場へ戻ったランボー。
既に両親は亡くなっており、ランボーは父の代からの使用人であるおばちゃんとその孫娘の三人で静かに農場経営(馬の飼育?)で暮らしていた。
おばちゃんの孫娘を自分の孫娘のように可愛がっていたランボーだったが、孫娘が大学に入る前に自分を捨てた父親に会いにメキシコに行く、と言い出したことから、三人の運命は大きく動き出す。
静かに幸せに暮らしていたランボーではあったが、実はここで既にランボーの心の闇は描かれている。
自分の農場の地下に延々とトンネルを掘っているのである。
第一作の前史としてベトナム戦争の英雄であるとされていたランボーにとって、トンネルとはつまりベトコンの象徴である。
この時点で彼はナニを思ってトンネルを掘っているのだろうか。
ベトコンが、どれだけ苦労してあの戦争に勝ったのか知りたかったのだろうか。
そしてランボーは既に守るべきものもなく、誰に頼まれたわけでもなく、ただ、己の復讐のためだけの戦いに身を投じていく。
孫娘がメキシコに行ったことからも予想できるだろうが(詳しく書くとネタバレになるから経緯は書かないけど)、ランボーは一度メキシコの人身売買組織にボコボコにされて戻ってくる。かつてランボーがこれほどボコられたことがあっただろうかというくらいボコボコにされてしまう。
もう、ほとんど瀕死。
たまたま(でもないんだけど)助けてくれるヒトがいなければあのまま死んでいたのではないか。
そして、心も体も過去最大に傷ついたランボーは自分の農場に戻り、なんと自分が掘ったトンネルに罠を仕掛け要塞化していく。
この辺、なんとなく「十三人の刺客」っぽくもあるが、そうではない。
かつて自分を苦しめ、自分の仲間を殺したベトコンと同じ方法で戦うこと。
それだけがこの38年彼を苦しめてきた記憶から開放してくれるのだ。
この辺から、果たしてランボーは自分の恐怖から開放されてるために戦っているのか、復習のために戦っているのか分からなくなってくる。
まあ、両方なんだけど。
っていうか一石二鳥ってことなんだろうけど。
実を言うと、全体としてそんなに面白いかっつーとそうでもない。
正直言って脚本も穴だらけ(2回目の女性ジャーナリストの登場って意味ある?)だし、アクションシーンのキレも前作と比べても全然ダメ。
まあ、しょうがない、スタさんも73歳だ。
大体70過ぎてアクションでもないだろう。
ある意味体技の衰えをごまかすための要塞化でもあり、その意味では一石三鳥とも言える。
ただ、今回監督はエイドリアン・グランバーグという聞いたことがないヒトだが、戦闘シーンの流血の効果とかが「最後の戦場」と同じ。
スタさんもドラマ部分の演出とかもうメンド臭くて新人に任せたが、アクションシーンの段取りは自分でヤッているのだろう。
スタさんがランボーの戦いを終わらせるためにこの映画を作りたかった事はわかる。
分かるけど、スタさん以外に(つまり我々観客、というかスタさんファン?)にも意味があったのかどうかは分からない。
そこは皆さんで判断してください。
スタさんファンじゃないヒトは観なくていいと思います。
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バリー・ウォンである。
バリー・ウォンは多作のヒトだが全部観てなくても大丈夫。
正直言って「ゴッド・ギャンブラー」シリーズ3部作と「シティーハンター」だけ観ておけば(古くて申し訳ない、、、)、バリー・ウォンのことは充分分かる(ていうかワタクシ空中さんがそれしか観てないんだけど)。
バリー・ウォンは娯楽映画の申し子である。
とにかく楽しい映画を作ることしか考えてない。
そして楽しくなりそうなものは何でも詰め込む。
それがバリー・ウォンクオリティ。
しかし今回共同監督にジェイソン・クワンなる人物がクレジットされている。
調べてみるとコレまでは撮影監督をしていたヒトである。
なんでそんなものが必要なのだろう。
バリー・ウォン、66歳。まだ耄碌して1人で映画作れなくなる年でも無いはず。
ハナシは1960年、ドニー・イェン演じるホウが本土から仲間数人と香港に渡ってくるところから始まる。
地元のヤクザに雇われて大通りで行われる100対100くらいの大人数の喧嘩に加勢したホウ一味。
その様子を通りに面したビルのベランダから、アンディ・ラウ演じる、この時点ではまだ下っぱ警官だったロック探長(「探長」とは初めて聞く役職名だが、この映画には頻出する。出世すると「総探長」になったりする)。
ロックはやたら喧嘩が強いホウに目をつけ、彼を手下にすることを画策する。
映画はこの後、協力しあってギャングの世界と警察の世界から香港を牛耳るようになる二人の友情を軸に1974年までの14年間を描く。
つまり「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のような年代記映画である。
だったら「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ホンコン」でいいじゃねーか、とも思う。
実はこの、ギャングのホウと警官のロックは実在の人物らしい。
しかもどちらもそれぞれ過去に映画になっている。
しかもしかも過去のロック探長の映画でロックを演じたのはやはりアンディ・ラウ。
伝説の汚職警官、ロック探長はアンディ・ラウのお気に入りなのだろう。
そして史実にのっとり、1974年、英国政府による汚職取締の強化政策まで、二人による香港裏社会の支配は続く。
ちょっと意外だったのは、この二人の友情と協力関係は、最後まで続くのである。
途中反目しそうになったりもするが、結局、1974年に離ればなれになり、二度と会うことはなくなっても、友情は続いている。
ドラマツルギーとしてはこの二人が対立したほうが盛り上がるのだが、史実だから仕方がない。
この映画が、14年間の様々な強烈な事件に彩られているにもかかわらず、やや平坦な印象があるのは、そのせいかもしれないな、と思ったりする。
そしてこの映画は、いまから60年前が舞台であることを強調するためだろう、やや不思議な色彩設計をされている。
強烈な色彩であるにもくすんでいる、という、派手な時代であったこととノスタルジーを同時に表現できる絶妙な色彩。
撮影監督アガリが共同監督にクレジットされているのはこのためなのだろう。
二人が協力しながら香港の裏社会を牛耳っていくさまはそれなりに面白いが、ちょっと残念なこともある。
せっかくのドニー・イェンの扱いである。
アンディ・ラウと並ぶ堂々の二人主演だし、香港映画界の巨匠バリー・ウォン作品なので、ドニー・イェンにも不満はないのだろうが、なぜか得意のカンフーアクションを封じられている。
そもそも「喧嘩が強い」という前提になっているので、得意のカンフーアクション出すチャンスはいくらでもある。というかドニー・イェンの出演シーンの半分はアクションシーンだったような気さえする。
にもかかわらず徹底的に型のない「喧嘩アクション」になっている。
せっかく当代一のカンフー俳優を使って何故カンフーを封じているのだろう。
コレも「史実だから」ということだろうか。
ホウ氏は喧嘩は強いがカンフーは使えなかったのかな、、、
あと、どういうわけか中途半端な長髪と口髭のドニー・イェンが「Gメン75」の頃の夏木陽介さんにクリソツ。
もう、絶対意識して寄せてる。
そう言えば、チャウ・シンチーの「西遊記〜はじまりのはじまり〜」のラスト、三蔵法師一行が勢揃いして並んで歩くときに突如「Gメン75」のテーマが流れるというギャグがあった(大笑いしました)。香港でも「Gメン75」は大人気だったのだろう。
そして「狼の挽歌」のチョウ・ユンファが小林旭のモノマネだったように、本作のドニー・イェンは夏木陽介のモノマネなのだろう。
カンフーを封じられたドニー・イェンが、代わりに出した条件が夏木陽介のモノマネだったのかな、、、
JUGEMテーマ:映画
要するに。
リュック・ベッソンの創作意欲、というのは
「イイ女見つけたからコイツで一本撮りたひ、、、(しかもあわよくば、、、)」
ということでしか無いような気がする。
初期の頃から「ニキータ」 → アンヌ・パリロー、「フィフス・エレメント」→ミラ・ジョボビッチと主演女優に手を出しまくってきたリュック・ベッソンではあったが(まさか「レオン」 → ナタリー・ポートマンは無いよね、、、)、特に一回引退宣言をしたのち、復帰してからがシドい。
「アデル/ファラオと復活の秘薬」→ルイーズ・ブルゴワン
「LUCY/ルーシー」→スカーレット・ヨハンソン
「ヴァレリアン 千の惑星の救世主」→カーラ・デルヴィーニュ
と、明らかに
「あ、ワシ、ええ女をこき使えるんじゃなきゃ、仕事せんけん」
と言っているも同然ではないか。
今回見つけたのはロシアのモデル、サッシャ・ルス。
さすがにまあ〜キレイだし、驚くべきアクションを披露してます。
で、いかにリュック・ベッソンが「ええ女をこき使いたい」だけで映画を作っているかが何故分かるかというと、設定が「ニキータ」の二番煎じです。
まだ若いのに社会の底辺に堕ちたオンナが「組織」に拾われて殺し屋になり、いい加減組織の言いなりにヒトを殺しまくるが、いつか自由になる日を夢見ているのであった、、、
一緒じゃん。
もう、新しい映画を作ろうとか思ってないんだな、と言う感じ。
「ええ女めっけてこき使いたいけど新しいプロット思いつかんからありモンでいっとけ、、、」
ということで、まあ、間違いないでしょう。
じゃ、つまらないかと言うと、メチャクチャ面白いですぅ、、、
リュック・ベッソン先生、相変わらずホレボレするようなアクション演出。
最初の任務で見せる1対40のインポッシブルなアクションシーンから、ああ、コレは本気だな、こき使ってんな、と思わせる超絶アクション。
一応ヒロインのサッシャ・ルスには4ヶ月訓練させて、本人の希望もあってスタントなし、ということになってるそうです。ルチャ・リブレのコルバタ的な技を見せるときは顔も見えてないし吹き替えかなぁ、、、
ラスト近くのKGB本部からの脱出シーンもそのあまりの激しさに驚愕の連続だが、映画の中盤、暗殺の仕事に慣れてきたヒロインが、INXSの「NEED YOU TONIGHT」に合わせて殺しまくるモンタージュの華麗さにシビレた。曲のラストに合わせてモンタージュもラストを迎えた瞬間、ほとんどイキそうになったと言っても過言ではない。
そうだ。
なんでINXSかと言うと、ですね。
時代設定が80年代なんですね。
なんで80年代かって言うと、東西冷戦の時代、いわゆるエスピナージュが盛んだった頃のハナシなのね。
なんで東西冷戦が必要かって言うと、結局主演女優がロシア人なのでKGB設定が使えるから。
結局オンナ主体かよ、、、
ハッキリ言って「ニキータ」よりエンターテインメントとしては数段レベルアップしてる。
その分「ニキータ」にあった悲劇性は薄れているが、まあ、21世紀の「ニキータ」としては、大満足。
やっぱりリュック・ベッソンは主演女優がええ女であればあれほどいい映画撮るのかな、、、
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おそらくは「ジョン・ウィック」の「殺し屋専用ホテル」がヒントになったであろう、「犯罪者専用病院」が舞台。しかもほとんど病院の中。
しかしなんだろうこの映画は。
全然難しいところはないのだが、何がわからないと言って、最終的にナニで観客をエンターテインしたいのかが分からない。決して退屈な映画ではないのだが、どこに焦点があるのか、分からないのだ。
舞台は2028年のロサンゼルス。
どういうわけかロス中が大暴動で荒れ狂う中、銀行強盗に失敗した3人組が、1人瀕死の重症、残り二人も銃で撃たれたので、逃亡途中で犯罪者専用病院へ向かう。
そして、病院の入口で三人を迎えたのは(どういうわけか超老けメイクの)ジョディ・フォスターであった、、、
このジョディ・フォスターの老けメイクもよく分からない。
ジョディ・フォスターももう58歳である。
いまさらなんで老婆のフリをしなければならないのか。
実は彼女は大昔に息子を亡くしているという設定になっている。
そして映画の途中で亡くなった息子の友だちだった女性が登場する。
おそらく亡くなった息子と同世代であろう友達役の女性を演じているジェニー・スレイトは39歳だそうである。
生きていれば39歳になるであろう息子の母親は、25歳で産んでいれば64歳である。
そんなに違わねーじゃん。
そもそもジェニー・スレイトが何歳の役なのか分からないし。
ジェニー・スレイトが34歳の役なら58歳だし。
そもそもジェニー・スレイトの役もっと若い女優にやらせることも可能だし。
もしかするとこの映画、ジョディ・フォスターが老けメイクに挑戦するための映画なのかもしれない。
三人組の強盗のうち、1人は「会費を払ってない」と言う理由で入院拒否されるが、二人は入院に成功する。
そして病院内には他にも入院患者がいて、それぞれの事情を抱えている。
ここから映画はいわゆる「グランドホテル・フォーマット」になっていく。
中に1人、今回のお色気担当にしてアクション担当でもある、アルジェリア系フランス人女優ソフィア・ブテラ演じる「美しきオンナ殺し屋」がいる。
実は彼女は外部の仲間と図ってやがてこの病院に運び込まれてくるであろう人物を標的にするために、わざわざ自分で怪我をして潜入していたのである。
こうなってくると彼女が見せるキレの良いアクションはこの映画のハイライトのひとつだろう。
っていうかある意味見どころらしい見どころってココしかなくね?とさえ思ってしまう。
まあ、ワタクシ空中さんはとりわけ美女とアクションが好きなせいもあるが。
その他この映画にはいろいろな要素があるといえばあるのである。
あると言えばあるのではあるが、いちいちなんのためにあるのかよく分からない。
例えば何故、近未来の設定なのか。
一応医療器具等も未来的なのだが、コレ、要る?
別に現代でも良くね?
ロス全土で暴動中という設定も、静謐な病院内との対比、と言う意味ではわかるのだが、別に現代でも暴動くらいアメリカではしょっちゅう起きているではないか。特にロスでは。
あるいは、上にも書いたがジョディ・フォスターの年齢設定がよく分からない。
歩くときに背中を丸めたり、歩幅を短くしたり、老けメイクのみならず(というか当然老けメイクに合わせてなんだけど)必死で老婆の演技をしているが、なぜそんなに老婆にこだわるのか、最後まで分からない。
ことほど左様にチグハグな脚本で、どこに焦点があるかわからない映画なのだが、最終的にはグランドホテル形式、ということなのかな、という気もする。
一つの病院に図らずも集まった(図って集まった奴もいるが)、様々な人生が、一夜にして大きく転機を迎える。
客(患者)のみならず従業員(医者)の人生も大きく転換する。
「一箇所に集まった様々な人生が一夜にして大きく転換する」
これがグランドホテル形式の醍醐味なのだ。
そう考えるとジョディ・フォスターが老婆にこだわるのも、「様々な人生」に幅をもたせたかったのかもしれない。
まあ、だからといってそんな面白いワケではなく、なぜジョディ・フォスターが5年ぶりの新作にコレを選んだのかは謎のママであった、、、
JUGEMテーマ:映画
「暗数」とは統計と実際の数値の差、だそうだ。
つまり、この映画の場合は警察が事件と認識していない犯罪のこと。しかも殺人事件。
映画はとある場末の食堂で、刑事が情報屋の紹介で「ヒトに頼まれてバラバラ死体を埋めた」と主張するオトコの告白を聞くシーンで始まる。
ところが告白の最中、突然乱入してきた別の刑事たちにあっという間に逮捕されてしまう。
彼は告白していた死体遺棄の他に、つい最近恋人を殺していたのだ。
つまり、この映画の犯人役はストーリーが動き出した段階ですでに捕まっている。
コレは斬新だな、と思った。
犯人探しはなく、犯人がこれ以上犯罪を犯す可能性もないのだ。
その中でどういうストーリーを展開するのか。
刑事役は「チェイサー」「極秘捜査」のキム・ヨンソク。
犯人役は「工作 黒金星と呼ばれた男」でイヤミな安全保安部課長を演じていたチュ・ジフン。
映画はこの後この二人の知恵比べになっていく。
逮捕のきっかけになった最近の恋人殺人ですでに終身刑を求刑されていたのだが、犯人はこの事件の担当ではないユンソク刑事を呼び出し、証拠品の在り処を教える。
新たな証拠を入手したユンソク刑事は裁判に提出せざるを得ないが、実は殺人課の刑事たちは証拠を捏造していたのだ。
ユンソク刑事が新たな証拠を提出したせいで、検察は終身刑を勝ち取れなくなってしまう。
さらに犯人は「他にも7件の殺人を犯している」と言い出し、その情報を小出しにし始める。
だが、そのうちのひとつの死体を発見したユンソク刑事は、死体を証拠に検察官を説得して起訴に持ち込むが、DNA検査でユンソク刑事の見込んだ被害者とは違うことが判明してしまい、無罪になってしまう。
つまり、ユンソク刑事は犯人にすっかり利用されて減刑だの待遇だのを勝ち取らているのだ。
ユンソク刑事はこれらの失態により地方の交番勤務に格下げされてしまう。
しかし、ユンソク刑事は諦めない。
犯人に完全にコケにされたユンソク刑事ではあったが、悔しさに負けることなく、交番勤務のかたわら、地道に7つの暗数殺人の立証を続けるのであった、、、
この犯人はいわゆるシリアルキラー、連続殺人鬼というよりは、「クリミナル・マインド」でいうところのスプリーキラー、大量殺人鬼であろう。別に人殺しに快感を感じているわけではないが、ちょっと激情すると、あるいは気に食わない事があると、ためらうことなくヒトを殺してしまう。
通常このタイプはあまり知的ではなく、当然この犯人も教養があるようには見えないのだが、なぜかとんでもなく知的な罠を仕掛けてくる。
途中で拘置所で法律書など読んで勉強しているカットがあるが、このオトコは登場した瞬間自分が逮捕されることを予期して罠を仕掛けているのである。
なぜこのオトコがこんなに悪知恵がはたらくのか分からないと言えば分からないが、「工作 黒金星と呼ばれた男」でも鮮烈な怖いヤツ演技を見せたチェ・ジフンの迫力でなんとなく納得してしまう。
この、「自分が犯した犯罪の情報を小出しにして刑事を操る犯人」と「犯人に操られている事を承知の上で情報を引き出し逆転しようとする刑事」の対決、というアクションシーンもサスペンスも無いストーリーは、映画としてかなり難しいのではないか。
犯罪サスペンスであるにも関わらず、派手な見せ場が無いのだ。
しかし、複雑かつ微妙なテーマを展開して微塵も乱れない脚本と、迫力ある映像で描いた演出、そしてリアリティを持たせた演技、と三拍子揃えてちゃんと面白い映画にまとめ上げたプロデュースワークは素晴らしい。
韓国映画はイメージキャストが多い。
マ・ドンソク先生といえばヒトを殴る役(まあ、あの腕ならしょうがないが)である。
そして、キム・ユンソクといえば「しつこく何かを負い続けるヒト」である。
「チェイサー」は刑事ではなく風俗店の店長だったが、消えた風俗嬢を驚くべき執念で追い続ける(風俗嬢の体を心配しているのではなく、払った前金を気にしている、というのがいいではないか)オッサンであった。
「極秘捜査」でも中央の警察に邪魔されながらもしつこく犯人を追い、人質を助けようと奔走し続ける刑事の役であった。
おそらく韓国ではしつこく何かを追い続ける役があると、とりあえずキム・ユンソク先生にお伺いを立てるのではないか。
そして、ワタクシ空中さんは長らく「ソン・ガンホにハズレ無し」と唱えていた(主に妻に)が、ここ数年は「マ・ドンソクにもハズレ無し」とひとり追加していた。しかし、こうなると、「キム・ユンソクにもハズレ無し」と言わざるを得ないだろう。そして、都合三人も「ハズレ無し」のヒトがいる韓国映画界の底力に嘆息せざるを得ない。
最後に、この映画は風景の描写にこだわっていることも指摘しておきたい。
何か所か、えらく美しい夕焼けや海、なにもない地平などが満載なのだ。
ギリギリの心理戦と美しい風景の対比。。
コレがこの映画の最大の価値かもしれない。
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黒人がクー・クラックス・クランに入会するハナシ、と聞いて「どんなドタバタ喜劇だよ」と思ったが、残念ながら(?)そうはならなかった。
黒人警官が上司に言われていろいろ潜入捜査する。
最初は元ブラックパンサーの大物の演説集会とかに潜入していたが、思いつきでクー・クラックス・クランの支部に本名で電話してみると、なんとあっさり意気投合(つまり、騙すのに成功)、事務所に来いと言われてしまう。
このまま黒人警官本人がのこのこクランの事務所に現れれば、ワタクシ空中さんの期待した通りのドタバタ喜劇になったろうが、なんと、実際に事務所に行くのは同僚の白人警官なのである。
なぁ〜んだ。
で、ドタバタ喜劇でなければなんだ、と言うハナシだが、、、
実はこの映画、あある程度コメディでもあり、サスペンスでもあり、ある意味青春映画でもあり、恋愛映画でもある。
最終的にはBlack Lives Matterに帰結し(2018年の時点でちゃんとBlack Lives Matterという運動があったことがわかるだけでも有意義な映画だな、と思う)、ああ、スパイク・リー映画だな、と思わせるが、さまざまな楽しみ方のできる要素をスルッと一本の映画にまとめ上げるのも、今のスパイク・リーなのだろう。
結局、クランの事務所にでかけていくの白人警官なのでガッカリしたと書いたが、スパイク・リーは潜入する白人警官の役(「スター・ウォーズ」のカイロ・レンことアダム・ドライバー)をユダヤ人に設定することでここもちゃんとメンテナンスしている。
ユダヤ人も大っキライなクランのメンバーにユダヤ人であることがバレないかどうかでちゃんとサスペンスも演出出来ている。
そしてこの映画には何か所か印象的で、ちょっと強烈な演出、というかカメラワークが採用されているカットがある。
例えば主人公の黒人警官(なんとデンゼル・ワシントンの息子、ジョン・デヴィッド・ワシントン。なぜか全然似ていない)が最初に潜入捜査をするシーン。
実はその警察署で初めての黒人警官なので、元ブラックパンサーのリーダーの演説会に潜入させられる。
そして、元リーダーの演説に感動して感化されていく聴衆たちのアップの処理。
さらに、その演説会で知り合った女性と付き合い始めた主人公が、公園を散歩しながら黒人が主人公になっている映画、いわゆるブラックスプロイテーション映画(「黒いジャガー」とか「スーパーフライ」とか)について語り合うと、いちいちその映画のポスターが画面半分くらいのサイズでインサートされる趣向。
そしてラスト直前、全てが終わって(と思いこんで)くつろぐ主人公とその彼女が家のリビングでくつろいでいると、突然チャイムが鳴る。二人が恐るおそる玄関に向かう時、「ブルース・ブラザース」のシスターが扉の向こうに引っ込むときのように、スーッとドーリーに乗ったかのように(多分、事実乗ってる)近づいていく。
これら、やや作品の完成度を崩しかねないほどの印象的な演出をアクセントにしつつ、全体としてはベッタリと面白く観れる映画になっているところがスパイク・リー円熟の演出ということなのだろう。
そう、この映画はラストに向かって徐々に盛り上がって最後に爆発するタイプの映画では無い。
例えば相米慎二やジョニー・トーのような、オープニングから一定のテンションを保ちつつラストまでベッタリ面白いタイプの映画なのだ。
そして、一定のテンションを保ちつつ、コメディやサスペンスや刑事アクションをフラフラする。
もう一つ円熟と言えば、この映画における白人の扱いもスパイク・リーの円熟を示しているのかな、という気もする。
潜入捜査するアダム・ドライバーを筆頭に、その元の相棒、潜入捜査課の上司から署長に至るまで、全員白人なのだが、主人公の味方なのだ。
署長はブラックパンサーにもクー・クラックス・クランにも潜入を命じる差別意識のない、公平な人物として造形されている。
ただひとり、署内の制服警官に差別主義者がいるのだが、映画のラストはなんと署長以下署内の仲間(当然、主人公以外は白人)でこの差別巡査を引っ掛けるのだ。
ラストでニュース映像を使ってキッチリ人種差別を扱うが、白人全てを糾弾するわけでもない、白人にも差別意識の無い人間はいる、と認めている。
で、全体的に見て、ですね。
そんなに「オモしれぇ、、、」と言う映画でもないのね。
「ああ、スパイク・リーの映画を観た、、、」という満足感はあるが、そんなにメチャクチャ面白い映画ではない。
映画を背景まで含めて面白がれるヒトは多分この映画を褒めちぎるだろう。
しかしなるべく映画を表層を楽しもうとするワタクシ空中さんは、面白いことは面白いが、ま、こんなもんかな、、、と言う感想を持たざるを得ないのであった、、、
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幕末のから戦前、九つの暗殺事件、すなわち
「桜田門外の変」
「大久保利通暗殺事件」
「大隈重信暗殺未遂事件」
「星亨暗殺事件」
「安田善次郎暗殺事件」
「ギロチン社事件」
「血盟団事件」
「永田鉄山軍務局長暗殺事件」
「二・二六事件」
をオムニバスで時系列順に並べて描いている。
とは言うものの、上映時間142分のうち100分、つまりフツーに一本の映画として成立するくらいのボリュームが「血盟団事件」に費やされている。
当初は血盟団事件だけのつもりだったのだが、当時の東映社長が「オールスター映画にすべし」などととんでもないことを言い出し、「ん〜、血盟団事件だけじゃオールスター映画にならなくね?」と悩んだ中島貞夫と笠原和夫が「そうだ!オムニバスにしていろんな暗殺事件くっつければ良くね?」との結論に達した結果、このようなスタイルになったらしい。
結果、若山富三郎から始まって、唐十郎、菅原文太、千葉真一、片岡千恵蔵、田宮二郎、富司純子、高倉健、鶴田浩二と、とてつもないオールスター映画になってしまった。
しかも決して散漫になることなく(メインの血盟団事件の後に健さんと鶴田浩二のエピソードを持ってくるキャスティングの妙もある)、テーマも深化させることにも成功していて、コレはコレで成功だったのではないか。
そう、この映画には明確なテーマがあるのである。
公開時のポスターに対処して曰く
「暗殺は是か!?非か!?」。
イヤイヤイヤイヤイヤ。
非に決まってるだろ、と思うのは令和の世だからである。
本作の公開は1969年。要するに70年安保批准を直前に控えた政治の季節であった。
そして本作の暗殺の対象は常に権力者であり、本作に横溢しているのは権力者への憎悪である。
当時の大衆の抱える権力者と、権力者たちが作り出す社会矛盾に対する憎悪を吸い上げれば、「是」である可能性もある、というのが制作の前提なのだ。
事実、本作は「テロリストを賛美している」と解釈されて長らくソフト化されていなかったのである。
しかし、本当に本作はテロリズムを肯定しているのだろうか。
実を言うと、ワタクシ空中さんの中では中島貞夫というヒトの作家性が上手く焦点を結んでいない。中島貞夫の映画を、「中島貞夫だから」という理由で観たことがないのだ。
しかし、笠原和夫なら分かる。「仁義なき戦い」があるからだ。
通常、深作欣二作品として語られがちな「仁義なき戦い」が実は笠原和夫なしでは成立しなかったことは、唯一笠原脚本ではない「仁義なき戦い 完結編」と他の四作を比べてみれば分かる。
そして「仁義なき戦い」も強烈な権力者(この場合はヤクザの親分だが)と社会矛盾に対する憎悪で満ち満ちていたではないか。
そして、笠原和夫はハッキリと「『仁義なき戦い』は喜劇である」と言っていた。
若者たちに心にもない大義名分を語ってそそのかして命を捨てさせ、自分たちは保身と金儲けに走り回る。
アレはアホなオッサンどもが欲にまみれて繰り広げるドタバタ喜劇なのである。
してみると、本作も喜劇なのだろう。
本作のトーンは「仁義なき戦い」と同じくあくまでシリアスで暗いが、実は、登場人物たちは恐ろしく現実と乖離したとんでもないことをマジメに語っている。
例えばメインである血盟団事件の後半、血盟団の幹部たちが集まって来る決行の日に向けて決意を新たにするシーンで、彼らはしきりと「我らが起爆剤となって」と言っている。
一旦彼らが犠牲になって事を起こせば(権力者を暗殺すれば)、それが起爆剤となって民衆が決起する、というのだ。
彼らは本当にそう信じている。
「そんなわけーだろ」と思うのは我々が令和の民だからではない。
当時からそんな根拠は全く無かったのであり、当時の民衆は一部のアタマのオカシイ奴らが権力者を暗殺したとて決起する機運など微塵も見せていない。
そして歴史的にもそんなことは怒らないことは、過去の暗殺事件が証明している。まさに本作で描かれた血盟団事件以前の暗殺事件で、民衆が決起したりしないことは、そろそろ分かっていてもいいのではないか。
にもかかわらず、大マジメで「起爆剤となって」と言い張るバカバカしさ。
この映画はここを笑うべきなのだ。
しかし笠原和夫氏はマジメな人間なので、キチンと「是か!?非か!?」の答えもちゃんと用意している。
血盟団事件のひとつ前のギロチン社事件である。
このエピソードだけは厳密には暗殺事件ではない。
「暗殺事件を起こすための資金を得るために銀行員を襲った挙げ句に殺してしまう」という、正確には強盗殺人である。
にもかかわらず、このエピソードには最も純粋にこの映画に託した笠原和夫の思想が現れている。
主人公は若き日の高橋長英。
大学生くらいにしか見えない高橋長英はエピソードの冒頭、河原に寝そべり友人に革命の理想を語っている。
「民衆の正義を踏みにじっている圧政者を、民衆全体に代わって僕たちが処刑する。それだけのことです」
そう語る高橋長英は、表情といい語り口といい、底抜けに明るく、爽やかである。
底抜けに明るく、爽やかにとんでもなく脳天気なことを語っている。
しかし、彼は横に寝そべっていた友人に、こう言われてしまう。
「革命っていうのは、客観的情勢と、大衆の結集した組織があって初めてできるもんだよ。そんな個人的なテロリズムでは絶対できない。君たちは、結局は自分の人生のうえに自分の血で美しい詩を書いてみたいだけなんだ。」
こう語る友人は役名もなく、顔も殆ど映らない。
だからこそ、彼こそは笠原和夫の代弁者なのだろう。
ギロチン社事件の高橋長英も、血盟団事件の片岡千恵蔵も田宮二郎も、心のどこかでは民衆が決起しないことを気づいているのかもしれない。
ただ、自分の人生の上に自分の血で革命という美しい詩を書いてみたいだけなのだ。
巷間、血盟団事件の千葉ちゃんの演技が評価が高く、コレが千葉ちゃんの演技開眼、とする意見も多いようである。
しかしワタクシ空中さんはこのキャラが千葉ちゃんの資質に合っていると思えず、あまり感心しなかった。それというのも、このエピソードを見ている最中、「もしこの役がショーケンだったら、、、」と思ってしまったせいもある。
ショーケンの活躍はもう少し後の時代なので無理なのだが、もしこの役がショーケンだったら、このエピソードだけで映画史に残る名作になっていたのではないか。
あと、ワタクシ空中さんの世代では、テレビのワイドショーの司会で「恐怖のズンドコ」と言う名言を残し、物心付く前には「あなたさまに恨みはございませんが、死んでもらいます、、、」という超シュールなセリフとともに殺人を犯す役で一世を風靡したヒト、と言う、なんだかよく分からない印象しかない藤純子さまが、とてつもなく素敵。最初はパン屋の元気で優しい従業員、やがて売春婦まがいのカフェの女給に身を持ち崩す役を、最後まで凛として品を失わない役作りで演じきり、なるほどコレは父親世代が夢中になったのも分かるわ、と思わせる。
しかし、結局たった3分くらいしか出番のない健さんが全てをかっさらっていくのであった、、、、
JUGEMテーマ:映画
タイトルの通り、コロナ自粛に批判的な7人の医師に対するインタビュー集。
つまるところ、コロナ自粛をめぐる混乱は、「ファクターX」にどう対応するか、というハナシなんだと思う。
本書に登場する7人の医師たちは、「今の日本は自粛しすぎ」という立場だが、あくまでも「今の日本(そして東アジア)の状況では」ということであって、死者数がふた桁違う欧米やアフリカに対してはまた違うだろう。
しかし意外なことに7人の中にもファクターXに対する意識が前景にあるヒトと無いヒトがいる。
順番に読んでいくと、偶然なのかわざとなのか最初と最後の二人ずつがファクターXが前景に出ていて、真ん中の3人は比較的出ていない。当然、前提条件ではあるのだろうが。
ファクターXが前景に出てこない場合、自粛の害を語られてもちょっと困ってしまうところがあったりもする。
自粛のせいで商売が成り立たない、商売が成り立たないせいで鬱や自殺が増えた、等はいい。これらは本来自粛せざるを得ないならせざるを得ないで、キチンとした補償が有れば防げることだからだ。
しかし、例えば若者たちの青春が奪われていること、子どもたちの免疫力が失われていくこと等を、ファクターXを前景に置かずにあまり語られると、イヤイヤイヤイヤイヤ、そういうことが仕方がない状況もあるんちゃうの?と思ってしまうのだ。しつこいくらいに「ファクターXがある地域としては」という前提を強烈に意識させてくれないと、カルト臭ささえ感じ取ってしまう。
やはり何よりもまず、ファクターXに対する共通認識を育てることが重要なのではなかろうか。
例えば今、いくら自粛は意味がない、と言い立てても、もう、誰も聞かないだろう。
いくら数字を並べても、数字は現況を表しているに過ぎない。我々はもう、数字が語る未来を信じられない。
しかしファクターXが解明されて、「これこれこういう訳で日本を含む東アジアではそんなに大騒ぎする必要ありませんよ。インフルエンザと同程度なんですよ」と言われたらどうだろう。
その時、初めて「コロナ自粛騒動お終わり」が見えてくるのではないかと思う。
本書に登場する7人の医師たちも、何人かは「ファクターXがなんであるか」に言及している。
結局、ファクターXは「交差免疫」と「BCG予防接種」の二つに絞られていると言っていいだろう。
交差免疫はしばらく前から中国から類似の、しかし今のより弱毒性のコロナウィルスが入って来ていて、その時に出来た免疫が新型コロナにも効いている、というものだ。
しかし、「おそらくそうだろう」「それしかないだろう」というレベルのハナシであって、確定させようと努力しているということではないようである。お医者さんはみんなそれぞれ忙しくて、それどころではないのだろう。
日本を含む東アジアで欧米と死者数がぜんぜん違うことは、もう、去年の2〜3月くらいには分かっていた。
その後山中伸弥教授が「ファクターX」と命名したのも5月くらいだっただろうか。
その後、真剣にファクターXの正体を研究してるヒトはいるのだろうか。
実はワタクシ空中さんはファクターXこそが世界を救う鍵であるとさえ思えるのだが、どうも真剣に受け止められているように思えない。
多分、現状でいくら「日本を含む東アジアではCovid19はこんなに自粛するほどの脅威ではない」と言い立てても、今のコロナ騒動は終わらないだろう。
この日本(を含む東アジア)における過剰なコロナ騒動を終わらせるために、一番必要なことは、ファクターXをファクターXではなくすこと、ファクターXを解明することに違いない。
あと不思議なのは、今の日本で「Covid19おそるるに足らず」派の急先鋒は小林よしのり氏だと思うが、なぜか氏に対する言及はない。なぜ共闘しないのだろう。小林氏は木村盛世先生のことは言及していたが。
まさか、ワクチンを製造する製薬会社がファクターXの解明を阻害している、とでも言うのだろうか、、、(なんでほん呪風、、、)
JUGEMテーマ:ノンフィクション
イヤイヤイヤイヤイヤ。
前作をアレだけ貶してたのに2作目観たんかい、と。
ご不審の念をお持ちになるのはわかりますが、コレには訳があります。
もともとこっちの「2」の方が観たかったの。
で、「2」だけ観てもハナシ繋がらない恐れがあるな、と思って「1」も観ただけなの。
で、で、なんで「2」を観たかったというと、、、
白石麻衣やん目当てです。
オープニングは前作で一度別れたものの再開を果たした主役の二人(田中圭と北川景子ね)の結婚式。そこに前作で二人を救った刑事(千葉雄大)も呼ばれて出席している。ああ、やっぱり前作を観といてよかった、、、
と思うけどさ、この下り、結局本筋と関係ないよね。
前作を観たヒトへのサービスカットなのだろう。
こういうところも相変わらずテレビドラマ的だなぁ、、、
千葉雄大は結婚式に出席するにあたって彼女を連れてきている。この彼女が白石麻衣やん。
北川景子に「次はお二人ですね!」と言われると二人とも微妙な反応。
アレ?前作の二人みたいになにか障害になることがあるのかな、、、というオープニング。
で、今回も死体が発見されます。しかも前回の犯人が死体を埋めていた丹沢山渓。
アレ?前回の犯人は捕まって収監されてるのに。昔殺した死体?それとも同じところに別の殺人鬼が埋めてるの?
というハナシ。
というハナシなんですけどね、コレはひどいですね。
要するにこの後まんま「羊たちの沈黙」になってしまう。
「M」と名乗る新たな殺人鬼は前作の犯人「囚われの殺人鬼」と旧知であり、千葉雄大は「囚われの殺人鬼」に協力を求める。交換条件で快適な独房に移った「囚われの殺人鬼」は、さんざっぱらもったいぶって情報を小出しにした挙げ句、スキを見て看守を殺して脱獄する。
ってモロじゃん。パクリじゃん。
最後はご丁寧に外国から刑事に電話してきやがる。
こんなことが許されるのか。
一体全体どういうつもりなのだろう。
「羊たちの沈黙」を知らない奴が「スゲェ!」って感心すると思ったのだろうか。
「羊たちの沈黙」を知ってる奴が「スゲェ!オマージュだ!」って感動すると思ったのだろうか。
まさか、「羊たちの沈黙」を知っててもパクリだと気が付かない奴が「スンゲエエエエぇぇーーーー!!!」と感涙にむせぶと思った、とでも言うのだろうか、、、
正直、恥ずかしくないのか、とさえ思う。
コレもテレビドラマではよくあることではある。
テレビドラマの歴史は映画で培われた財産を食い潰す歴史(80年代くらいまで?今でも?)だった。
しかし、同じメディアでココまでパクっちゃダメじゃね?
もはや原作がそうなってるから、という問題でない。
またしても中田秀夫が映画人としての誇りなどどうでも良くなってしまったことを思い知らされる。
結局、この映画を作った意味は
「白石麻衣やんはマトモな演技ができるのか」
を検証することしかなくなっている。
で、出来てます。
別に上手くはないけど。
一応、「下手すぎて見てらんねぇ、、、」というレベルではない、ちゃんと見ていられる演技をしてくれている。
コレは素直にコトホギたい。
今後いろいろな機会で白石麻衣やんの活躍を見れる可能性が高くなったということである。
しかし、一方で白石麻衣やんが抱える難点もあらわになってしまっている。
美人すぎてフツーのヒトを演じるとリアリティが無くなってしまうのである。
本作の麻衣やんは別に絶世の美女の役ではなく、安月給の刑事に恋するフツーのOLである。
こんな美人がその辺の刑事と付き合うワケがない。
もちろん実際にはそういうこともあるのだろうが、映画のリアリティとはそういうものではない。
ではどうすれば良いか、というとですね。
私見によればこの問題には三つの解決策がある。
ひとつは昔から採用されている「悪女を演ってみる」という方法論である。
コレはハリウッド映画等でも散々取り入れられて、有効であることが証明されている。
そしてもうひとつ。
本邦におけるこの問題の先達、中谷美紀の方法論である。
それは、「コメディエンヌになってみる」ことである。
これも、現在の中谷美紀の活躍を見れば有効であると言っていい。
ただし、コメディエンヌは悪女を演じるより難しく、中谷美紀くらい才能がないと無理、という難点がある。
そして最後は、コレは間然にワタクシ空中さんの勝手な思い込みだが、「ショートカットにしてみる」というのはどうだろう。丸顔で目鼻立ちのハッキリした女性はショートカットが似合う、と思っているのだが、、、
なんか今回後半キモくなってしまいました。
引かないでください。
JUGEMテーマ:映画
なんとなく、落としたスマホは戻ってこないんだろうなと思っていたが、意外にあっさり出てくる。ただし、データを全部抜かれたうえで。
ここから、落とした本人(田中圭)のデータはおろか恋人(北川景子)のデータまで抜かれるわ、恋人の昔の知り合いのデータまでアクセスし放題、徐々に身辺に危険が迫ってくるまでの展開は、さすが腐っても中田秀夫、テンポもよくて「ほうほうほう」と興味を持って見ていられる。
正直言って、スマホに頼り切りの生活を送っている現代人に
しかしですね、観ているうちになんかいろいろな要素が増えてきて、「え?コレどうやって終わるの?つか終われるの?」とすら思えてくる。
スマホのデータを抜いてやりたい放題する天才ハッカーが実は連続殺人鬼だった、というのは悪くない。二つのアイデアが有機的に結びついている。
しかし、ここからそーとートリッキーな北川景子の過去を持ち出してくるのはムリではないか。
さらに若い刑事(千葉雄大)の幼少期の心的外傷まで絡めるに至っては、ただストーリーが混乱しているだけである。
1.スマホ落とした問題と2.連続殺人問題と3.恋人の過去問題と4.刑事の生い立ち問題。
この4つの問題を2時間の映画でこなすのは無理だ。
ワンクールのテレビドラマなら4っつくらい必要かもしれないが、映画はむしろ一つ二つの要素をじっくり描いて膨らますべきなのだ。
この映画だったら1.と2.を選択して3.と4.は潔く捨てるべき。
っていうか4.はそもそもいらない。3.はもうちょっとうまくやれば1.と3.の組み合わせで映画もう一本作れるかも知れない。
スマホを落としただけなのに、10年以上隠してきた過去の秘密がバレてしまう、なんておもしろそうでもある。
ただし、今のままでは無理。
北川景子は5年前に絶対にヒトに知られるわけにはいかない「ある秘密の決断」をしていて、その決断が田中圭との結婚を躊躇させる原因にも成っているのだが、我々観客には彼女が何故そんな決断をしたのか、理解できない。
どう考えても本人にとって不利な選択なのである。
「こんな選択をしたオンナがいたらおもしろいなぁ〜」
と思うのは分かるが、観客にとって納得の行く理由を提示してくれないと、せっかく北川景子が良い芝居をしてもどうでも良くなってしまう。
ワタクシ空中さんは「花のあと」の北川景子の凛とした美しさが好きだった。
本作の北川景子はフツーの恋するOLとして登場するので、別に北川景子じゃなくてもいいかなぁ〜という感じだったが、この、過去の選択における回想シーンと、それを語る北川景子を見ると、ああ、このための北川景子だったか、と思わせるだけに残念。
要するに、もう、中田秀夫は「映画らしい映画を作る」のは諦めてしまったのだろう。
その事実を如実に示す演出がもう一箇所あった。
映画の終盤、シーンが変わるとモニターが映っている。そこに、ベテラン刑事(原田泰造)に語りかける若い刑事(千葉雄大)の声。
「犯人が最後にアクセスしたポイントはこの店です。防犯カメラに奴が映っているはずです」
イヤイヤイヤイヤイヤ。
それを今言うんなら、キミは一体全体どう言って先輩刑事をココまで連れてきて管理人に管理人室の鍵を開けてもらって防犯カメラのモニターのスイッチを入れてもらったのかと。
当然、そもそも署を出る段階で先輩刑事にはどこに何をしに行くか伝えている筈ではないか。
まさか、「まあまあまあ、センパイ、何も言わずにボクの行くところについてきてくださいよ、、、」とか言って連れ出した、とでも言うのだろうか、、、
こういう演出はテレビドラマではよくある。
テレビとは、「家事しながら」、「食事しながら」、「一家団欒しながら」などと「ながら見」される宿命を持つので、ある程度説明的なセリフを求められるフシがある。
しかし。
失礼ながらわたくし空中さんは映画でこの手の演出を見たのは初めてのような気がする。
だったらどうすればいいのかと言えば、なにも説明しなければいいのだ。
刑事が二人で防犯カメラの映像見ていれば犯人を探しているに決まっているではないか。
洗練された映画は省略が効いているものである。
中田秀夫は東大時代に蓮實重彦のゼミにいて、卒業後日活入社、ロマンポルノの巨匠小沼勝の助監督をしていた、という映画にどっぷり浸かった映画の坩堝から出てきたようなヒトという印象があった。
そんな中田秀夫ではあったが、やはりテレビ資本で撮るとテレビサイズな演出になってしまうのか。
映画を理解せず、貧乏性なテレビ局のプロデューサーから「もっと分かりやすく!」とか「もっと盛りだくさんに!」とか言われてそれに従わざるを得ないのだろうか。
それとも中田秀夫自身どうでも良くなってしまったのだろうか。
もう一度、ホラーじゃなくてもいいから中田秀夫の映画らしい映画を観たいと望むワタクシ空中さんであった、、、
JUGEMテーマ:映画
KANEDA体制になってから急に気になってきたことがある。
「ちょっと掘り下げが足りないのではないか?」
と思うことが、ままあるのだ。
そこをもうちょっと掘り下げてくれればリアリティがぐっと増すのに、、、と思う。
いままでもあったのだろうが、ココに来て急に気になるようになって来た。
そしてもうひとつ。
「この世ならざるもの」は立体なのか平面なのか、という問題がある。
KANEDA体制下で姿を現す「この世ならざるもの」はどうも平面が多いのではないか。
ワタクシ空中さんはいまだ「この世ならざるもの」と遭遇したことがないので、霊的な存在が立体的なのか平面に過ぎないのか分からないが、もともと生前は立体的だった筈で、亡くなって霊的な存在になったからと言って急に平面的になってしまう理由が無いような気がする。
だいたいどの方向から見た平面になればいいのか、向こうも迷うのではないか。
今回はこの辺に注目して行きたいと思うワタクシ空中さんであった。
「真夜中の滑り台」
滑り台で滑り降りている途中に出現してしまい、否が応でも突っ込んでしまう。
なるほど。
向こうはソコにとどまっているのにこっちが突っ込んでいってしまう、というのは新しいし、もう、避けようにもどうにもならない手遅れ感が怖い。
さらにこの滑り台途中に出現する女の造形も怖くて良い(平面的だが)。
全体にKANEDA体制は人物の造形は良いと思う。それだけに平面的なのが残念。
最後の「体育座り」は蛇足。
「野外トイレ」
山中をドライブ中に廃村に立ち寄りトイレを借りる(山の中なんだからそのへんですればいいのに)。
しかも投稿者は撮影するつもりではなく、スマホのライトを使おうとしたらカメラもきどうしていたという、、、(そんな事ある?)
結果的に「犬鳴村」みたいな廃村探検モノになっている。
トイレの壁にあった真っ黒いシミが逆さまの人間に見えるというのだが、、、
最初は真っ黒で雑な輪郭しかわからないのでキース・ヘリングかと思った。
「え?こんな山奥にキース・ヘリングが?」みたいな。
しかし画像をアップにするとそれなりに表情があって怖い。
相変わらず平面の造形は上手いと思う。ココは壁のシミなので平面なのは仕方ないか。
このエピソードこそ、委員会が昼間取材に行って、今このシミがどうなっているのか確認して欲しい。
まあ、東京から遠かったら予算の都合もあるのだろうが。
「リフト」
またもや山中。
今度は山中のリフト。
ひとり用リフトに乗って風景を撮影中、上方にカメラを向けた時に、支柱の機械部の隙間から何かが覗いている。
正直、不気味なオンナの顔のパネルを置いてあるようにしか見えない。
後日談として中村氏が語る「投稿者の携帯に見知らぬ番号から着信があり、オンナが泣きながら迎えに来て欲しいと訴えてきた」というエピソードありきな気がする。
「手招き」
帰省した際居間でいつのまにか実家に住み着いた猫を撮影していると、部屋の隅で底にいるはずのないババアが手招きしている。
コレも、後に親戚にこの映像を見せた際にオジさんが「投稿者の祖母に似ている」と言い出す後日談ありき。
投稿者は墓参りに行くことにした、と言うが、「手招き」までしていて墓参りで済むのかな、、、という気もする。
「祖父の病室」
20年前、投稿者が幼児だったころ、入院していた祖父の病室で親戚が撮った映像。
投稿者は祖父のベッドの上に座る祖父の横でじゃれているが、壁際に立つ別のオッサン(アンちゃん)の後ろから不気味なオンナが、、、
コレも、後に当の「壁際に立つオッサン」に聞いてみたところ、自分にストーカー行為を働いたのち、自殺してしまった女性に似ている、という後日談ありき。
なぜわざわざ祖父の病室に現れるのだろう。
イヤ、もしかすると当時四六時中、張り付いていたのかな、、、
「似ている」シリーズと名付けたい。
「鍾乳洞の男」
鍾乳洞の上から覗き込んでいる、と言うが、例によって正面から撮影した写真で作ったパネルをそっと差し出したようにしか見えない。
体勢が覗き込む形じゃない。首が曲がってないとかね。
「続・静止する身体」
今回新たな登場人物がひとり(いや前回の最後にも出てたけど)。
相葉さん
なんと今まで磯貝さんの部屋と言われていた部屋の真の住人。磯貝さんとも旧知の間柄らしい。
という訳で、まあ、端折って言うと、ですね。
相葉氏は磯貝さんのみならず、三橋さんとも知りあい、というか三人は大学の同窓であり、あまつさえ相葉氏と三橋さんはお付き合いしていたのだという。
つまり、ですね、この事件全体が要するに三角関係のもつれ、痴情のもつれが原因である、と判明しているわけです。どうりで三橋さんは美人だと思った、、、
で、この後、相葉氏のマンション周辺や部屋、さらには三橋さんの部屋からも、磯貝さんが仕掛けたと思しき「呪」が発見される。
ことココに至って委員会は再度「アジア魍魎研究所日本支部」の二人を呼んで「呪」を見てもらうと、初めて役に立ちそうなことを言う。
「呪」というものは、幼稚なかけ方をすると、かけた本人の元に戻ってくるのだという。そして磯貝さんが仕掛けた「呪」を見て、コレはダメ、多分本人に返ってくる、と予言する。
そして、ラストは予言通り「呪」に取り込まれたモノの「哀れな姿」で終わる。
で、ですね。
もう、メチャクチャですよね、コレは。
結局、磯貝さんがなぜ不法侵入しながらその証拠となるビデオの公開を許し、あまつさえ取材にまで応じたのか、全くわからない。
さらに言えば、そもそも「静止する身体」が何なのかわからない。
磯貝さんが「呪」をかけたことによって磯貝さんの生霊が出現したのは分かる。
でも「静止する身体」ってなんの意味があるの?
さらにさらに言えば、相葉氏が三橋さんと大学時代付き合っていたせいで磯貝さんがつらい思いをした、というのは分かるが、既に二人は別れて何年も経っているどころか、三橋さんは別の男性と結婚さえしているのだ。
別の男と結婚してる女性に対して「おまえがいなければいいのに」も無いもんだ、と思う。
しかしながらこの二つの問題は委員会の掘り下げ方いかんではよりリアリティを増す要因としても扱えたのになぁ、、、と残念でもある。
例えば「静止する身体」問題。
なぜ身体が静止しているように見えるのか、などという野暮なことは言うまい。
科学は「何故」にアプローチ出来ない。しかし性質を記述することは可能な筈である(そんな大げさな、、、)。
例えばどういうタイミングで「静止する身体」減少が起きるのか。
最初に「静止する身体」現象が観察された磯貝さんの部屋(実は相葉氏の部屋)の映像では、「静止する身体」現象が起きている最中に、玄関に通ずる磨りガラスの無効に「黒い服のオンナ」が出現していた。
ということは、黒い服のオンナ、すなわち磯貝さんの生霊が出現している時に、「静止する身体」現象が起きる、と推察することが可能である。
だとすれば、磯貝さんが委員会を訪れた際に「静止する身体」現象を起こしたときにも、どこかに黒い服のオンナが出現していたことになる。
そして我々はあと二回黒い服のオンナが出現していたことを知っている。
一回目は三橋と一緒に三橋さんの勤め先に調査委に訪れた際。
二回目は問題のマンションの前で出会った田中さんに目撃された時。
このうち一回目はメンツが被るので同じ時期で無いことは明らかである。
しかし二回目はどうだろう。
田中さんが黒い服のオンナを目撃した時間がすなわち委員会で現象が起きた時間である、とすればぐっとリアリティが増すのではないか。
あるいは三橋さん既婚問題。
三橋さんは既に相葉氏ではない男性と結婚しているのに、なぜ磯貝さんの嫉妬の対象は三橋さんのままなのか。
この事象に理由があるとすれば、冷静に考えれば
相葉氏は三橋さんが別のオトコと結婚したあとも三橋さんを愛していて他のオンナに見向きもしない。
コレではないか。
その事実に何らかの理由で磯貝さんは気づき(相葉氏がハッキリ言ったのかも知れない)、結局三橋さんに亡きものになってもらうしか無い、と考えるに至ったのではないか。
だとすればこの事実がハッキリ分かる演出を入れておけば、ぐっとリアリ(以下略
委員会の会議室で相葉氏と三橋さんは再会させられているのだ。ココでなんとか相葉氏の思いが分かるような演出が入れられなかったものか。
「イヤ演出じゃねーよ、事実だから。投稿動画だから」
と言われてしまう可能性もあるが、だったら、スタッフがこの可能性に気がついてさえいれば、三橋さんがいないときにでもコッソリ相葉氏に確認してみればいい。
それをしていないところが、掘り下げが足りない、というのだ。
現在のところ、KANEDA体制における長編はグダグダだと言っていいだろう。
83巻の予告で中村氏は「今回ばかりはおすすめできない」などと脅していたが、そもそも全く怖くないのだ。
しかしまだ諦めることはない。
菊池宣秀監督時代も始まった当初はどーなることかと思ったが、途中から「禍々しさ」という武器を手に入れて激しく追い上げ、最終的にワタクシ空中さんはシリーズ中でもこの時期が一番好きかもしれないというまでになった。
KANEDA氏も菊池宣秀時代の後半のような独自路線を見つけられるかどうかが分かれ道になるだろう。
ま さか、KANEDA監督と一緒にアジア魍魎研究所日本支部の二人が独自路線である、とでも言うのだろうか、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
ほん呪シリーズは、通常まず、一連の「本作はお祓いを済ませております」的な断り書きがあって、一本目のエピソードがあって(大抵のその巻の中でもインパクトの強いヤツ)、「ほんとにあった!呪いのビデオ 8○」というタイトルが出る。そしてそのバックに、いつも「なんらか」の映像が流れる。今作を見ていて気がついたのだが、この映像が昭和。
木造の廃墟とか。
やたら窓の間隔が狭い団地とか。
この団地はちょっとハッとする。
そういえば昔の団地ってこんな感じだったかな、、、ちっちゃい窓がズラーッと並んでてて、エアコンの室外機なんて10軒に1軒もない。昭和っていうよりもしかすると昔の香港感すら漂う。
ココの映像、どうやって集めたんだろう。ひょっとして過去の「ほん呪」映像なんだろうか。
っていうかなんだろうこの昭和感。
KANEDA氏にとっては(あるいは平成育ちのヒトたち)昭和は既に恐怖の対象なのだろうか。われわれ昭和のオジサンたちは大正時代の映像に恐怖を覚えるべきなのだろうか。
「地鉄」
投稿者が中国出張中に地下鉄のホームで撮った映像。ホームに入ってきた電車を撮ると、線路内にヒトがいるが、、、
この映像だけじゃ弱いと思ったのか、帰国後、投稿者のスマホが割れたり電車の接触事故にあったりという後日談がくっつくが、蛇足だろう。イヤ、電車との接触事故て。大事じゃん。
「長いトンネル」
やたら長くて細いトンネルを通勤で使っているという投稿者。最近、ヒトの気配を感じるのでカメラを回しながら歩いてみたが、、、
コレは川崎港海底トンネルであって、歩行者用の通路は1kmある。ココを歩いても工業地帯と工業地帯を結んでいるだけで、住宅街も駅も無いんだが、、、まあいいや。
それより、「ヒトの気配」ってなんだろうと思う。
ワタクシ空中さんはすっかり中年のオジサンだが、生まれてこの方「ヒトの気配」というものを感じたことがない。急にヒトの気配を感じてハッと振り向いたりしたことがない。
普通のヒトはあるんだろうか。
「ヒトの気配」なんてドラマでストーリーを進めるためにしかたなく出てくる概念ではないか。
「従兄弟の家」
従兄弟の家というか伯父さんの家だと思う。
子供の頃従兄弟の部屋で遊んでいたら開いていたカラーボックスの上の収納スペースになんかいる。
造形は不気味でいいんだが、いかにも薄っぺらでモノクロで実在感がない。
しかし従兄弟はこの撮影の後ノイローゼになって自室のドアを釘で打ち付け入れなく(出てこれなく?)した挙げ句、自殺してしまったという。
中村氏は「引き続き調査を継続したい」と言うが、そう言ってて実際に継続したことがあっただろうか。
「ポンプ車」
空き地なのか練習場なのか分からない広い場所で消防隊員たちがポンプ車からホースを出す訓練をしている。カメラがホースを伸ばすために走り回る隊員を追っていると、隊員が一度ポンプ車に戻った時にポンプ車の下からなんか出てくる。
正直、出てきたものより、消防隊員たちの訓練の様子の方が興味深い。
ははー、あーやってホース伸ばすのねー、、、
出てきたものが例によって平面的で迫力にかけるせいもあるだろう。
動いてるのに平面的っていうことは、わざと平面的にしてるのかなぁ、、、
「不気味な彫刻」
要はタイの地獄寺。今回の海外モノ第二弾。ほん呪も国際化してきたねぇ、、、そのうち外国人から投稿が来たりするんだろうか。
で、延々と地獄寺の、あまりにもグロテスクすぎてどこかユーモラスですらある地獄の風景を見せられる。
え、、、いつまでこの地獄絵図(立体だけど)見せられるの、、、と思っていると突然そのうちの1体が、、、
これはさすがにちょっとドキッとした。
だけどコレ、タイトルに彫刻ってあるけど彫刻なのかなぁ、、、ハリボテにしか見えないけど、、、
「メリーゴーラウンド」
父と娘がメリー・ゴー・ラウンドに乗っていると、中心の柱に貼ってある鏡にこの世ならざるものが映っている、、、
直接ではなく鏡に、というのがミソかなぁ、、、
中村氏は「数年前、この遊園地のゴーカート乗り場でマフラーがタイヤに巻き込まれて首が締められ亡くなった女性がいるという、、、」と言うが、なぜゴーカートで亡くなったのにメリー・ゴー・ラウンドに「出る」のかは謎である。
ちなみにこのエピソードはDVDに収録されておらず、ブロードウェイの公式サイトにも載っていない。どうもCSのファミリー劇場放送分でしか見れないらしい。
そうです、オジさんはファミリー劇場で見ています。だからレビューが一年以上遅れてるのね、、、
「続・静止する身体」
まず、登場人物を整理しておこう
三橋さん
投稿者。友人の磯貝さんの新居に招かれた時に「静止する身体」動画を撮ってしまう。美人(重要)。
磯貝さん
三橋さんの友人。肉眼で見ると普通に話して動いているところを動画に撮られると何故か下を向いてピクリとも動かないように映ってしまう、「静止する身体」と呼ばれる特技を持っている。
黒い女
正体不明。磯貝さんが自宅で「静止」している映像、三橋さんの勤め先である大学に調査に行った際の映像に写り込んでいる。多分、この世ならざるもの。
現在のところ登場人物は、毎度おなじみほん呪委員会の面々を除けばこの三者のみ。
続いてこの巻での出来事を整理しておこう。
1.スタッフは磯貝さん(前巻のエピソードで「静止」してたほう)のマンション周辺を調査中、田中さんという近隣住民から「当該マンションが見える電柱の影でマンションを観察しながらブツブツ言っていた「黒い女」がいた、という証言を得る。
2.何故かこのタイミングで、前巻で出てきた三橋さんの勤務先の大学の学生(前巻の経緯は知らないヒトたち)から例の「黒い女」映った映像が投稿される。
3.1.の時の取材映像を確認していた女性演出補が、「不思議なノイズが入っている」と言い出す。ノイズを抽出して加工すると
「おまえがいなければいいのに」
と言っていた。
4.メガネの男性演出補中田が磯貝さんのマンション周辺の調査中、マンションの住人を名乗る男性に見咎められ激しいクレームを受ける。中田からの電話にKANEADA氏が出ると、クレームを付けてきた男性が電話を代わり、責任者であるKANEADA氏に怒鳴り始める。彼は中田が調べていた部屋(つまり磯貝さんの部屋)は、なんと自分の部屋であるという。KANEADA氏が磯貝さんの名前を出すと、実は旧知の間柄であり、「彼女は嘘をついている」という。
今回はココまで。
実は例の「フリーライターの瀬羽潤二氏」だの「アジア魍魎研究所日本支部」の二人だの、毎度おなじみKANEADAワールドの住人たちが登場してくるが、ほとんど意味がない。
アジア魍魎研究所日本支部っていっつも二人で出てくるけど、いつも喋るのは片方(支部長?)だけ。あのふたりって絶対ゲイだよね、、、
そんなことはどうでもいい。
もう、ワタクシ空中さんはこの時点で不安がいっぱいである。
コレ、どうするの?
例えば今回の展開で「どうも問題は磯貝さんにあるぞ、、、」ということが分かってきたわけですが、もし磯貝さんがクレーム男性の自宅に不法侵入していたとしたら、その際の映像を、こんな、全国で発売されるビデオシリーズに出すことを了承するだろうか。
イヤ、了承どころか磯貝さんは投稿者の三橋さんと一緒にわざわざ委員会に赴いて取材まで受けちゃってるのである。
不法侵入はハッキリ犯罪である。
自分の犯罪の証拠をわざわざ全国に晒して喜んでいる神経はかなりエキセントリックではないか。
もともと前巻の段階で磯貝さんは「カメラを部屋に入れるの絶対イヤです」とソコだけ頑なに拒否しており、怪しいといえば怪しかったのだが、、、
さらに2.の、今回の騒動を全然知らない女子大生から「偶然」送られてきた映像も疑問がいっぱいである。時期的な一致には一旦目をつむろう。
しかしですよ。
撮られている方が異変に気づき騒ぎ出したので、一旦撮影をヤメたのだが、カメラは止まっていない。そのまま逆さになった周囲を撮っているのだが、その逆さの映像に、例の黒い女が映っている。
止めていない事に気づかないで逆さまに撮ってしまった映像を、画像処理に正の位置に戻すとソコには、、、という発想は面白いが、撮影してないスマホをどういう状態で保持しているとこういう映像になるのか分からない。逆さまに持って下の方を撮影しているだけにしか見えない。
まさか、菊池監督時代のように、KANEADA体制もそのうち面白くなってくる、とでも言うのだろうか、、、
JUGEMテーマ:ノンフィクション
スパイモノです。
スパイモノですが。
もう、何十年もスパイモノ映画といえば「冷戦後、スパイが必要とされなくなった時代のスパイのあり方」がテーマだった。
「ロング・キス・グッドナイト」あたりからだったろうか。
ジェームズ・ボンドもダニエル・クレイグになってからはずっと「スパイって、、、要る?」が通奏低音として流れている。
しかし、世界は広い。
この世界にはちゃんとエスポナージをアクチュアルに描ける国があるのである。
国民(観客と、そして制作陣)にとって身体性を伴ったスパイ活動がリアルな国があるのである。
1990年代、韓国は深刻な外交問題を抱えていた。北朝鮮が核兵器を作っているというのだ。ほんとうに核兵器を作っているおかどうか、どうしても知りたい国家安全企画部は軍人のパク(ファン・ジョンミン)を対北朝鮮用のスパイとしてリクルートする。
パクに与えられたミッションは、
「北朝鮮と商売をして、北朝鮮で核兵器情報を持っているほどの上層部とお近づきになること」
つまり、とりあえずは北朝鮮と商取引をするために中国の北朝鮮国境付近で商人として活動するのが当面の活動である。
で、このファン・ジョンミンさんがどういうわけか松重豊さんクリソツなので、中国に出張に来たゴローさんにしか見えない。服装も割と近いし。最初はフツーに商売してるだけだし。
そういう意味では日本人には入りやすい。
中朝国境付近で地道に商売を続けていたパクは、やがて北の対外交渉委員会(要は外貨獲得係)の所長、中年で暗〜い雰囲気のリ所長と、スパイ狩りが目的の国家安全保衛部課長、若いイケメンだがイヤミなチョンの二人に接触することに成功する。
そして、チョン課長が警告し続ける中(当然、実は彼が正しい)、パクとリ所長は徐々に信頼関係を築き、互いに友情すら感じるようになっていく。
かつて、中国の特務機関「虎部隊」の隊長、林石隆は
「スパイの奥義とは、潜伏先で友情を育むことである」
と言っていた(「平井和正」「林石隆」で検索してね。合掌、、、)。
つまり、パクはスパイの奥義に到達したのだ。
やがてどうしても外貨を獲得したいリ所長は、チョン課長の反対を押し切って、パクを北の将軍様と引き合わせることに成功する。
ココに至るまでの脚本の緻密さ、演出の丁寧さは素晴らしい。
一介の、仮想敵国の商人があの、北の将軍様との面会に至るまでを無理なく、そしてサスペンスフルに描写することに成功している。
面会場所への道中のスリル、そして面会シーンの緊張感は、ギリギリと鳴っている音が聞こえるようだ。
そして、映画はココから当時の韓国の政治情勢を取り込んで、驚愕すべき展開を見せ始める。
大統領選挙で野党だった金大中氏が勝ちそうなのだ。
ココは若い日本人には分かりにくいかも知れない。
パクを北朝鮮に送り込んだ国家安全企画部は、前身のKCIAの時代から、金大中氏を誘拐拉致するわ暗殺未遂されて障碍を負わされるわ息子さんまで誘拐して障碍が残るほど拷問するわと、とにかく金大中氏を不倶戴天の敵とばかりに目の敵にしてきた組織なのである。
ということは、おそらくは金大中政権樹立の際には国家安全企画部はお取り潰しどころか、当時からいたメンバーは粛清されかねない。安企部としてはなにがなんでも金大中政権樹立を阻止しなければならないのである。そして、安企部が採った阻止の方法とは。
なんと、北の将軍様に頼んで韓国を攻撃してもらうこと。北との軍事的緊張が高まれば、北に対して高圧的な現政権じゃないと対抗できないのは、と国民が考える、というのである(この論理はちょっとオカシイ気もするが、事実なんだからしょうがない)。
あ、そういえば安企部には今、北の将軍様に謁見を許された人材がいるじゃん、、、
というわけでパクは北の将軍様に「自国への攻撃を頼む」という無茶苦茶なミッションをこなさざるを得なくなる。
ここで映画は不思議な展開を見せ始める。
北の人間がなんと将軍様を含めて善人に見えてきて、南の人間が悪人に見えてくるのだ。
実際、このあと安企部は果てしない暴走を続け、パクはどんどん追い詰められて行く。
そして最終的に頼りになるのは、敵地で築いた友情だけであった、、、
全体的に、銃撃戦や格闘シーンなどの派手な見せ場一切無しで、しかもヒトが死ぬことすら(ああ、、このヒト死ぬんだろうな、、、というヒトはいた)無しで、とんでもない緊張感を持続させる骨太の演出力には恐れ入る。
主役のパクをはじめ、北の将軍様のソックリさんまで緊張感あふれる緻密な演技をしているのもサスガ。
特にリ所長役のイ・ソンミンは素晴らしい。この役が一番難しいのだが、友情と職務(それはすなわち自分や家族の命と直結している)に挟まれて苦悩する姿を静かに演じきって間然とするところがない。
実を言うとココまで緊張感あふれる緊密な脚本と演出を見せながら、ラストは甘いのではないか、という気がしないでもない。
主要登場人物の中に「え?この行く末はあり得なくない?」という奴がいるのだ。
しかしパクとリ所長が進めていた「北の自然の中でCMを撮る(北の地形や核施設を探るつもりなのね)」という事業に実際に使われた女優本人を引っ張り出して映画に出演させるなど、映画としての本気は伝わる。
結局、例によって韓国映画の底力を思い知らされる一本でありました。
JUGEMテーマ:映画
渡哲也追悼特集第二夜。
渡哲也というヒトは不思議なヒトだな、とワタクシ空中さんは思うのである。
コワモテの大門団長の底には浮浪雲が潜んでいることは「紅の流れ星」で確認できた。
しかしその境目はどこにあるのか。どのようなグラデーションになっているのか。
そしてもうひとつ不思議なことがある。
実は綺羅星の如き日活アクションのスターのなかで、日活がアクション映画から撤退したあとも、映画、テレビドラマともに一線級のスターで有り続けたのは、渡哲也ただ1人ではないか。
裕次郎の「太陽に吠えろ」はあった。
小林旭の「仁義なき戦い」もあった。
もちろんその他イロイロ有ったろうが(ターゲットメンだのなんちゃら事件帖だの)、日活アクション時代の輝きからすると見劣りするの否めないのではないか。
そもそも日活アクション凋落の原因は裕次郎とアキラの肥満化が原因と言われているくらいだ。
しかし渡哲也だけは日活アクションの事実上の解散後も、東映で「仁義の墓場」等の傑作をものしていた。テレビドラマにいたっては「大都会」「西部警察」に連なる刑事ドラマ、そして「浮浪雲」、さらには大河ドラマまで、コンスタントに主役をはり続けていた。
しかも数々の病気、ケガにより休業を余儀なくされた中で、である。
なぜ渡哲也だけが日活アクションスターの中で生き延びたのだろうか。
実を言うと、日活アクション時代は主役級のスターではなかったが、後に大成する藤竜也という逸材と、日活アクションというよりは日活末期の任侠映画のスターだった高橋英樹という二枚目(日活のスターで二枚目と言えるのはこのヒトくらいではないか)がいるのだが、この二人についてはまたいずれ語りたい。
「無頼より 大幹部」は日活が任侠映画に活路を見出そうと足掻いていた頃の作品。
「無頼より」とあるのは作家に転身した元暴力団幹部、藤田五郎氏の「無頼 ある暴力団幹部のドキュメント」が原作になっているから。
しかし本作での渡哲也演じる主人公「ゴロー」はまだ客分格のチンピラで、全然「大幹部」でもなんでもない。このへんのタイトルのいい加減さは、日活というか舛田利雄の得意技なのかも知れない。「紅の流れ星」にいたっては紅も流れ星も全然出てこないし。
日活アクションは多くの人気男性スターも生んだが人気女優も生んだ。アクションスターに対して誰をヒロインに充てるかは日活アクションのお楽しみのひとつだが、本作で渡哲也の相手役に抜擢されたのは松原智恵子。
この頃は既に準主役(要はアクションスターや青春スターの相手役)が何十本もある中堅だが、信じられないような清純さ。それでいて、箱入り娘が家出してきていきなりヤクザに惚れる無茶な設定にリアリティをもたせているのはサスガ。
本作はアヴァンタイトルで主人公の生い立ちが語られるのだが、コレが悲惨の一言。藤田五郎氏の自伝なのだろうが、なるほどヤクザになるヒトはこんな悲惨な人生を送ってきたのかな、と思わせる。むしろこのあとの成長した渡哲也がやや明るさもあるせいで、ホントにあの悲惨な過去を背負ったいるのかと不安になる。
そう、ココには「紅も流れ星」の屈折したハニカミ屋のギャングから西部警察の大門団長いたる過程がある。
ストーリーはよくある任侠モノの域を出ない。
義理と人情の板挟みなったヤクザが最終的にどうしょうもなくなって大暴れ、というハナシ。
結局ココに家出少女松原智恵子との絡みがあるのが日活映画ということだろう。
この、松原智恵子との純愛ギリギリの、「コレは恋愛なのか?恋愛と言っていいのか?」というレベルの関係性が、青春映画の日活、のにほひも漂わせているのだ。
そして日活伝統の泥臭いアクション演出。
役者の身体性に頼って、あまり特徴的な殺陣とかカメラワークとかは見られない。役者たちが暴れているところを、ただ、撮っているだけのようにも見える。
なんとなく、後の(5年後くらい)の深作欣二による「仁義なき戦い」のドキュメンタリータッチの萌芽のようにも見える。
深作欣二の乱闘シーンのカメラワークについては、ロベルト・ロッセリーニの影響が指摘されているが、この時代の潮流を突き詰めた結果、という側面も有ったのかも知れない。
いや、それともコレは舛田利雄の個性なのかなぁ、、、
舛田演出は時に驚嘆すべきシャープでアヴァンギャルドなカメラワークを見せるが、アクションシーンにおいては役者の身体能力を伝えるのが日活のルールなのだろうか。
コレは今後の研究テーマだなぁ、、、
脇役で松尾嘉代が「紅も流れ星」に続いて幸薄い役で印象深い。
松尾嘉代さんは若山富三郎先生のお気に入りという印象が合ったが、元々は日活の女優さんだったんだねぇ、、、
さらにその夫にして渡哲也演じるゴローと因縁浅からぬ「先輩」役の待田京介さんというヒトが強烈な印象を残す。元々「空手家が役者もやってみました」タイプのヒトらしいが、80年代まで映画にドラマに大活躍の売れっ子だったらしい。多分、ワタクシ空中さんも何度も見ているのだろうが、覚えていない。
そして藤竜也。
ここにも脇役時代の藤竜也がいる。
後世の魅力は全く感じられないが、この時点でワタクシ空中さんには分からないなにかがあったのだろう。
渡哲也はこのあと日活や東映でさんざん任侠モノに主演したあと、東宝の「ゴキブリ刑事」を経て、テレビの刑事ドラマへと軸足を移していく。
つまり、ギャング→ヤクザ→刑事と進化していく。
そして、徐々に表情を失い、照れと屈折を失っていく。
それが渡哲也自身の内面を反映しているのか、時代の要請なのか分からない。
何本も観ると分かるんだろうか。
いつかその世代のヒトに渡哲也の変遷をどう思って観たいたのか、聞いてみたいものだな、と思うワタクシ空中さんであった。
JUGEMテーマ:映画
この映画は一部で評判が芳しくない
ホロコーストを扱うにはタッチが軽いと言うのだ。
このテーマのコメディとしてはチャップリンの「独裁者」という鬼気迫る歴史的名作があるのも分が悪い。
特に監督自身がヒットラーを演じているという致命的な共通点があり、どうしても比べられてしまう。
そらアレと比べられたら不利だわ。
もうひとつ、原作改変問題というのもある。
例によってワタクシ空中さんは原作を読んでいないが、どうも、大幅に改変しているらしい。
例えばヒットラーは登場しない。
ジョジョの守護者、キャプテンKは登場しない。
ジョジョは映画では10才だが原作では19才。
もう、全然違うハナシじゃん、、、
しかも原作はホロコーストを扱うのにふさわしい沈鬱なムードであり、ジョジョとヒロインの関係も最終的に悲惨なものらしい。
原作と映画は別物だという認識に立てないヒトは、腹が立つかもしれない。
なにしろ映画「ジョジョ・ラビット」はコメディだから。
しかし、ワタクシ空中さんは正直言って感動してしまった。
珍しくオジサン、涙ぐんじゃいました。
第二次大戦末期のドイツ。
主人公の少年ジョジョは10才にして既に熱狂的なナチスシンパ。
やっとヒットラーユーゲントの合宿に参加できる歳になったので、喜び勇んで街行くヒトにいちいち「ハイル・ヒトラー!!」と呼びかけながら合宿所に向かうジョジョであった。
合宿所で出会った大尉、通称キャプテンKは優秀な軍人だったが戦場で片目を失ったため、今はヒットラーユーゲントの教官になっている。
今でも生徒たちに見せびらかすほどの射撃の腕の持ち主だが、実は生徒の前で堂々と「ドイツは負ける」などとのたまう危険人物でもある。
しかしそのキャプテンKがうっかりしていたせいでジョジョは訓練中に大怪我を負ってしまい、ヒットラーユーゲントになるのを諦め、家に帰らざるを得なくなる。
そして、療養中、母親が不在の時、家の中の隠し部屋にユダヤ人の少女が隠れているのを見つけてしまう、、、というハナシ。
父親は出征して海外の戦線で戦っていることになっている。しかし母親はユダヤ人の少女を匿って、こっそり反ナチ運動に身を投じているらしい。
この、スカーレット・ヨハンソン演じる母親がとっても魅力的。
自分は反ナチ運動の活動家なのに息子はイマジナリーフレンドであるヒットラーの助言に従って行動するほどの熱狂的なヒットラー信者である。
しかし彼女は息子の信念を頭ごなしに否定したりしない。
息子の熱狂を暖かく見守っている。
美しく(まあ、スカーレット・ヨハンソンだからコレは当然そうなる)、優しく、賢く、強い。
正直、ツラいほど理想の母親であり、ツラいほど理想の女性なのだ。
この映画は語られてない部分が多い。
キャプテンKがナチスの将校でありながら既にドイツを見限っていることはセリフの端々で描かれているが、彼はいつも同じ下士官を連れていて、セリフその他で明瞭に描かれることはないが、ゲイである。おそらくはゲイであることから、ドイツに対して批判的であり、ジョジョに対する行動にも、ゲイらしい気遣いが感じられる。
そして、どういう関係なのかは描かれていないが、キャプテンKとジョジョの母親は古くからの知り合いである。
合宿中にジョジョが大怪我を負ったとき、現場責任者であるキャプテンKは「こいつの母親に殺されるな、、、」と慨嘆する。
さらに結局ユーゲントをクビになったジョジョのために母親がユーゲントの事務所に乗り込んだ際、母親はいきなりキャプテンKにキン蹴りを食らわせる。そしてキャプテンKは苦悶のあまり倒れ込みながらジョジョに仕事を世話する。
いくら息子が怪我をした責任者といえどナチスの将校にキン蹴り食らわせてお咎めなしはやはりもともと知り合いだったとしか思えない。
もしかすると彼女の夫とキャプテンKは同級生で、彼女とキャプテンKは同じ男を愛した恋敵だったのかも知れない。
そしてジョジョの家族にも謎がある。
既に亡くなっていて画面には登場しないもののストーリーの重要なキーになっている、ジョジョの姉インゲである。彼女はなぜ亡くなったのだろう。確かにストーリー上の必然性はあるのだが。
さらにジョジョの父親は海外を転戦していることになっているが、コレもよく分からない。ほとんど描かれないのだ。妻が反ナチス運動をしている以上、夫も実は地下に潜っているのを「戦争に行っている」と嘘をついているのではないか。
そしてこれらは、どうも原作には出てこない要素にばかり絡んでいる。
ココまで来ると、なぜ原作付きにしたのかわからないレベルではないか。
もう、オリジナルストーリーってことにして好きにやればいいのに。
主人公のジョジョは子供なのでまあ、いいとして、ちゃんとセリフのある主要登場人物、ジョジョの母親、キャプテンK、ユダヤ人少女のエルサ、及びジョジョの親友オーキーまで含めて全員映画史上に残るような素晴らしい人間性の持ち主として造形されている。
特にキャプテンKの屈折と優しさは最後まで泣かせる。
サム・ロックウェルってカッコイイなぁ、、、
そしてエルサ。
エルサとジョジョがダンスをするシーンで、ワタクシ空中さんはマジで涙ぐんでしまった。
コレが映画史上に残る名シーンかどうかはわからないが、ワタクシ空中さんの心にはいつまでも残りそう、、、
ところでこの映画、ラストでデヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」が流れる。
全然関係ないが、「クリミナル・マインド」の最終回、ラストのパーティーのシーンで「ヒーローズ」が流れていた。
「ヒーローズ」は苦難を乗り越えたヒトビトのアンセムとして定着しているのだろうか。
それとも「ヒーローズ」はデヴィッド・ボウイによる「ベルリン三部作」の一枚なので流れているだけだろうか。
最後にもうひとつ。
ジョジョは最初「靴紐も結べない少年」として登場してくる。
しかし、映画のラストでは結べるようになっている。
こういう、
「映画の最初でできなかったことが出来るようになっている」メソッド
にそろそろ名前をつけたい。
このメソッドを日本人が始めて観たのは「クレイマー・クレイマー」のフレンチトーストだったろうか。
じゃあ、「クレイマーメソッド」かな?イヤ「フレンチトーストメソッド」の方がいいかな。
JUGEMテーマ:映画
すでに旧聞の部類になってしまったが、渡哲也が亡くなった。
正直言ってワタクシ空中さんの世代では、渡哲也といえば「大都会」シリーズと「西部警察」でほぼ同じ役、スポーツ刈りにレイバンのサングラスでやたらスゴんでるオッサンのイメージが強かった。
そんなある日、渡哲也が「浮浪雲」を演るという。
「浮浪雲」を読んでいたワタクシ空中さんは
「えー、、、イメージとちゃうんちゃう、、、あの飄々とした浮浪雲をゴリゴリの渡哲也がぁ〜〜〜?」
と思ったのである。
しかし、ドラマ版浮浪雲の脚本家、倉本聰先生は、渡哲也にオファーした理由を
「渡哲也は都会人の屈折を表現できる役者だから」
とおっしゃっていた。
当時のワタクシ空中さんはこの理由が全く理解できなかった。都会人も屈折も城西署の黒岩には全く感じられなかったのだ。
しかし、いざ「浮浪雲」を観てみると、なるほどさすが倉本先生は正しいと思わざるを得ない。
後に再ドラマ化された、本当の都会人で屈折を売りにしていたたけし版の「浮浪雲」より、よほど「屈折の果ての飄々」を表現できていた。
そして、本作「紅の流れ星」こそが、日活アクション時代に残した渡哲也の「都会人の屈折」を表現することに最も成功した傑作なのであーる!
で、日活アクションですよ。
「ギターを持った渡り鳥」の時にも書いたが、日活アクション映画といえば「無国籍」である。
「コレ、一体どこの国の話なの?」
というハナシだ。
なんかみんな当たり前のように拳銃持ってるし。
あー、西部劇フォーマットだな〜と思うと登場人物が馬乗ってるし。
しかし、アキラ映画数本や、本作を観ると、コレは「無国籍」などという表現で済むレベルではない。
そもそも普通の映画のように「リアル」に立脚する意思がない。
日活アクション映画の何割かは、国籍どころか現実さえ無視する一種の理想郷、ユートピアに立脚して作られている。
本作が制作されたのは1967年。
終わりの見えない公害問題、荒れ狂う学生運動と70年代に向けて高度成長に翳りが見え始めていた頃である(その後80年代に復活するが)。
しかし、一部のアキラ映画、そしてこの映画にもそのような日本社会を覆い始めた翳りは微塵も出てこない。
決しておとぎ話のような楽しい事ばかりの世界ではない。
ヤクザもいれば悪人もいる。
そこにはギリギリ現実世界と地続きであると思い込める程度の、しかし現実とは明らかに一線を画す世界で、リアリティの無いキャラクターがリアリティの無いストーリーを繰り広げているのであった、、、
冒頭、渡哲也演じるゴローは白昼堂々オープンカーを盗み、なんと高速道路上(首都高銀座線に見える)で隣の車線を走る敵対する組織の親分の狙撃をやってのける。
そのまま高速上を「コロがし」ながら吹くゴローの口笛が、先程から流れていた映画のテーマとシンクロする演出でゾクゾクと嬉しくなる。
舛田利雄のセンスには既に「完全な遊戯」や「やくざの詩」でシビレまくっていたが、相変わらずキレまくり。
やっぱりこのヒトの才能はスゴい。
そもそもこの映画は、
「望郷」(1937年のフランス映画)
↓
「赤い波止場」(1958年、裕次郎主演、舛田利雄監督)
↓
「紅の流れ星」
という流れで作られている。
つまり舛田利雄にとってはセルフリメイクなのだ。
そしてセルフリメイクあたって、渡哲也ならこの虚構性に耐えられると見抜いた眼力はやはり鋭いとしか言いようがない。
アキラ映画でもそうだが、日活アクション映画の虚構性は、役者に依存している。
虚構性の強い世界に観客を引き込み、嘘くささを忘れさせられるのは役者の魅力であり、とりあえずコレが可能なのは小林旭である。
そして舛田利雄は渡哲也にも(小林旭ほどではないにしても)コレが可能であると踏んだのだろう。
高速道路で狙撃をしたあと、ニヤニヤ笑いながら口笛を吹く渡哲也。
ヤクザのヒットマンのくせに、キザでやや哲学的とも言える長台詞を吐き続ける渡哲也。
おそらくは裕次郎では出せない「屈折」がこの映画の虚構性を支えている。
そして渡哲也が身をかわすために潜伏している神戸のクラブ(ダンスホール?ゴーゴー喫茶?)で突如奥村チヨが「北国の青い空」を歌って踊るシュールさ(なぜ神戸で北国?)。さらにその奥村チヨの彼氏にして渡哲也の子分、杉良太郎(!)が奥村チヨとデュエットまでする。この頃から杉良太郎は歌のうまい俳優として認知されていたんだな、と分かるが、この、ゴーゴーに合っているの合っていないのかよく分からない、演歌だなんだか分からない歌を強引に歌いデュエットまでしてしまう訳の分からなさが、当時の若者にどう受け取られていたのか、よくわからないといえば分からない。
このゴーゴークラブは不思議なことが多々起こる魔空間である。
渡哲也演じるゴローは匿ってくれている組の幹部に紹介された尊大な宝石商を殴ってしまう。
クラブ中が怯えて白けた雰囲気の中、店内には「ジェンカ」がかかる。
すると、ゴローはリズムに合ってるんだか合ってないんだかビッミョーな雰囲気で歩き出し、店内を行ったり来たりする。
すると、店内のゴローの恋人(松尾嘉代)や奥村チヨ、杉良太郎を含む店内の全員が何故かそのヨチヨチ歩きを「ジェンカ」を踊っていると認識して、大喜びで皆でつながって例のジェンカダンスを踊り始めるのである。
何だコレは、と思う。
ゴローのヨチヨチ歩きは断じてダンスとかステップとか言うシロモノではない。にもかかわらず、周りのみんなは大喜び、ニッコニコ笑って楽しそうにジェンカを踊る。
おそらく、舛田利雄監督はココで渡哲也にちゃんと踊ってほしかったのではないか。
しかし踊りの苦手な渡哲也が
「イヤ、自分踊りはムリっす、、、カンベンしてください、、、」
などとゴネたためにこんな不思議な演出になってしまってのではないか。
しかし、この苦境も渡哲也は、あの、口元を歪ませる照れ笑いでなんとか乗り切ってしまう。
恐るべし、渡哲也。
しかし渡哲也は裕次郎やアキラ、そしてトニーの後塵を拝する日活アクション末期のスターであった。
そのことがよく分かるのはヒロイン浅丘ルリ子の容姿の変化である。
本作でのルリ子は既に「妖艶」の域に入っており、初期の裕次郎やアキラ映画で見せたこの世のものとも思えない、まさに妖精の実在を信じざるを得なくなるような清純な魅力はもう無い。
このリアリティのない会話劇を成立させた演技力は流石だが、あの、小鳥のようなルリ子を期待してしまう、、、
その分、ゴローの情婦にしてゴーゴークラブのオーナー?(ただのママ?)松尾嘉代がイイ女なんだけどね、、、
確かに。
ゴローから粗暴さと退屈に対するいらだちを抜けば浮浪雲になるような気がする。本作のストーリー上のテーマは神戸に流された殺し屋の東京に対する望郷の念からくる苛立ちであり、神戸の街に対する退屈である。そして浮浪雲とは、全ての苛立ちと退屈であることを受け入れた果てにやってくる境地であろう。
「紅の流れ星」1967年。
「浮浪雲」1978年。
退屈を受け入れるまでに11年。
随分時間がかかったというべきか、それとも単にお江戸に帰れたからなのかな、、、
JUGEMテーマ:映画
どういうわけか、ロバート・アルトマンの「宇宙大征服」とほぼほぼ同じハナシ。
もう、完全に影響下にあると言って間違いない。
1960年代、米ソが宇宙競争に狂奔するなか、己の意地と国家の思惑に翻弄される飛行士たち葛藤。
仲間が無残に死んでいく。
家族は内心ヤめて欲しがっている。
それでも主人公は月着陸に向けて歩みを止めることは無かった、、、
一緒じゃん。
なんか家庭やその周囲と、基地や宇宙船のまわりのバランスもそっくり。
さらに言えば、カメラが宇宙船の外に出ず、宇宙の映像は宇宙船の窓からのみ、というカメラワークも踏襲している。
そんなこんなでほとんどリメイクのような映画なのだが、、、
しかし。
外形的にはほとんど同じに見えるこの2本。じつはそのテーマにおいては全く逆のことを描いていると言っても過言ではないのだった、、、
「宇宙大征服」でロバート・アルトマンが最終的に描きたかったのはつまるところ国家に翻弄される個人だろう。主人公(何故かジェームズ・カーン)は初の月面着陸に前のめりになっているが、それも宇宙への憧れ、人類の進歩、というよりは、国家的英雄になりたいから必死なっているように見える。国家に翻弄されることをむしろ喜んで受け入れているように見える。
ところがだがしかし。
「ファーストマン」は徹底的に個人の問題に帰結させてしまうのだ。
主人公はアポロ11号で人類初の月面着陸に成功した英雄ニール・アームストロング船長。
本作でのアームストロング船長は沈着冷静の権化、何があっても動じず落ち着いて正しい判断ができる人物として造形されている。
アポロ計画に先立つジェミニ計画でも船長に抜擢されたアームストロング氏が宇宙空間でのドッキング成功後、不測の事態からせっかくドッキングしたカプセルを切り離さざるを得なくなる。さらに切り離しの衝撃で船体の回転が止まらなくなってしまう。相棒の飛行士が気絶する中、この絶対絶絶名のピンチにあくまで冷静に対処するアームストロング氏。
このシーンのサスペンスは全編の白眉だが、このサスペンスもつまるところアームストロング船長の冷静さを表現するためにある。
つまり、全ての描写がアームストロング船長の個性に収斂していく。
そんな、アームストロング船長個人のパーソナリティ(「個人のパーソナリティ」って重言かな、、、)である「冷徹なほど冷静」を描き続けた「ファーストマン」ではあったが、実はこの映画、ラストにタネ明かしがある。
このタネ明かしをどう取るかがこの映画に対する評価の分かれ道ではないか。
この「ファーストマン」におけるタネ明かしを「市民ケーン」的、と評する向きもあるが、それは違う。
「市民ケーン」のローズバッドのような深層心理的なハナシではではない(「市民ケーン」の深層心理的なオチをトラウマと呼ぶヒトがいて、それはそれで全然間違ってるんだが、それは今は置こう)。
オープニングで堂々と伏線を張っていて、オチで回収しているだけであって、深層心理に隠された真実的なハナシでは全く無い。
そしてこのオチがアームストロング船長の沈着冷静さの説明のようになってしまっている。
ここで。
アームストロング船長の冷徹なまでの冷静さが、生来のものなのか、このオチのためにどうしても月に行きたくて全ての感情を犠牲にしていたのか、ちょっと迷ってしまうのだ。
いや、よく考えれば生来の性格としか思えない冷静さが、この、ラストのオチの瞬間、アレ?このためだったの?と思わせると思わせるためのフックをデミアン・チャゼル監督がぶっ込んできた。という感じか。
このラストのオチは、一応謎解きの役割も果たしているのだが、このせいで映画全体が一気にロマンチックになってしまう。
「宇宙大征服」の主人公が国家の威信に翻弄されていたのに対し、アームストロング船長は自らの感傷のために国家を利用しているようですらある。
それはそれで痛快なハナシであるが。
デミアン・チャゼル監督は、全体として異常なまでにシリアスなドキュメンタリータッチを保ってきたが、ここで急に耐えられなくなってしまったのではないか。
「ラ・ラ・ランド」のチャゼル監督だけに、どうしてもロマンチシズムに落としたくなってしまったように感じる。
そしてもうひとつ。
ジェミニ計画で初めて船長に抜擢されたアームストロング船長が狭い船内の座席に固定されてハッチを閉められる瞬間、飛び立った鳥が、閉まる前のハッチの隙間、そして閉まったあとの窓に映り込む。
このロマンチシズムには「ラ・ラ・ランド」のデミアン・チャゼル監督が爆発していたな、と思うワタクシ空中さんであった、、、
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Jホラーの二大巨頭の一方の雄、清水崇作品。
もう一方の中田秀夫はここんとこ過去の自作を食いつぶすような映画ばかり撮っているが、清水崇はどうにか過去の栄光にすがらずに映画を作れたのだろうか、、、
何しろ「犬鳴村」である。
どーせ、流行り(もう、古いか、、、)の都市伝説にノッカって金稼ぐつもりちゃうんかッ!!
てなもんである。
なんかさー、清水崇ってハリウッドから帰ってきたあと、「戦慄迷宮3D THE SHOCK LABYRINTH」とか「ラビット・ホラー3D」とかノッカり企画ばっかりじゃん?
そういえば最近3Dって流行んないねぇ、、、一時期あれだけ騒いでたのに、、、
結局、3Dが下火になっちゃったから次は都市伝説にノッカることにしただけちゃうんかッ!!
みたいな、、、
しかし、ですね。
とりあえずストーリーに着目すると、コレはコレでうまくまとめたのではないか。
犬鳴村伝説をうまく取り込んで、ふくらませた上で最後まで興味を持って観ることが出来る脚本になっていた。
少なくとも、「どーせノッカりだからこんなもんでよくね?」というレベルでは書いてない。真剣に、面白いホラー映画を作ろうとして書いている。それは伝わる。本人が思ってるほど面白いかどうかはまた別だが。
オープニングはイキナリPOV。というか(はっきり言及されないのだが)登場人物の動画サイトにアップする用の動画。
いかにもトッポそうなカップルが、今となっては入村不可能と言われていた犬鳴村に、ある方法を使って潜入に成功する。
明らかに女性主導なのがリアルなこのカップル、当然のことながら怖い目に合うわけですが、珍しくちゃんと二人とも生還する。
で、一旦生還するが、、、というハナシ。
実を言うと、怖いのはここまで。
この最初に犬鳴村に潜入するシークェンスだけはPOVのおかげもあってかそこそこゾクゾクする。
が、その後は怖いということはない。
このあとはどちらかというと謎解きだったり、犬鳴村崩壊から現在に至る因縁だったりでとりあえず面白く見せる。
特に犬鳴村の血脈が現在にまで影響を及ぼしているというアイデアはさすが自ら脚本も書く清水崇といったところか。
さらにラスト近くの2つの時間線が一度交錯して離れていく趣向にはちょっとハッとした。
さらにさらにラストのワンカットも、軽い(あくまでも軽い)どんでん返しで、ふと清水監督の過去作「輪廻」を思い出す。「輪廻」のワタクシ空中さんのエントリーを読み返してみると、タイトルからして「怖くないけど面白い」であった。う〜ん、やっぱり、、、
主人公は冒頭のバカップルのパシリ男の妹、三吉彩花。さすがに美しいし、一応見られる演技をしているのだが、この映画、人間関係とキャストに違和感があって、そこは最後まで気になった。
まず、バカップルのパシリ男が三吉彩花の兄に見えない。
パシリ兄がプータローらしいのに三吉彩花が心理療法士という、どインテリ職業なせいかな、とも思ったが、調べてみると三吉彩花24歳、パシリ兄役の坂東龍汰23歳であった。そりゃ見えないよ。
さらにその三兄妹(二人の下に年の離れた弟がいる)の両親が高嶋政伸と高島礼子。
コレは年齢的には大丈夫なはずだが、高嶋政伸におバカイメージがあるせいか、三吉彩花みたいな立派な娘がいる父親に見えない。
二人とも「タカシマ」姓で実生活の夫婦関係が破綻した(事がある)役者に夫婦役をさせているのはなにか意味があるのかな、と気になって集中できないではないか。
さらに言うと、三吉彩花兄妹の祖父が石橋蓮司なのはこの映画の中では比較的納得の行く配役だが、その奥さん、兄妹の祖母が捨て子で、拾って育てたのが石橋蓮司の家族、というのがスゴく気になる。
コレ、絶対それこそ兄妹として育ってるじゃん?
どの時点で「じゃ、夫婦でいっか、、、」となったのか、ちょっとは言及してくれないと気になって集中できないではないか。
あとですね(なんか悪口言いだしたら止まらなくなってきたな、、、)、ヒト型の怪異(まあ、幽霊とか亡霊とか言ってもいいが)の描き方が気に入らない。
「呪怨」の伽椰子や俊雄くんは徹底的に物理的な実態のある姿で描かれていた。
今となっては当たり前だが、コレは当時は斬新だったのよ。
露骨な実体のある肉体として霊界から蘇った者を描いて不自然にならない、というのは当時としては大変難しく、大胆な手法だったのだ。この手法を確立させたからこそ清水崇はJホラーの創始者、ホラーマスターなどと呼ばれているのだ。
しかるに本作ではこの期に及んで「半透明」などという中途半端な手法に堕している。
まあ、今回はナニブン「村人」なので、集団で出てくる。この集団を実体のある存在として描くと、エグくなりすぎるのだろうが、もうちょっと工夫してほしかった。
そういえば、前半のPOV部分だけ怖い、というのはライバル(なのか?)中田秀夫の「貞子」と同じであった。
コレはもしかすると我々が動画サイトに毒されすぎて動画サイトっぽい映像じゃないと怖がれなくなっている、ということなのだろうか。
それとも動画サイト風映像、つまりはPOVこそがホラー向きの手法であることを証明している、ということなのだろうか。
もう、我々はPOVでしか怖がることができないのだろうか。
どっかに旧来の手法でちゃんと怖がらせてくれる監督はいないものだろうか、、、
、、
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ポスターに曰く、
「二十年に一度の恐怖の作品」
だそうだが、それ程のことはない。だいたいその「二十年」前にどんな怖い映画があったというのだ。頼むからその怖い映画教えてくれよ。
とはいうものの、怖いことは怖い。
二十年とは言わないが、五、六年に一度くらいは怖い。
あるでしょう、たまに。
低予算で有名な役者も出てないし大掛かりなセットもないけど、緊密でアイデア満載な脚本と演出力だけで面白くなっちゃった映画。
まあ、ホラーは低予算でも面白くなりがちなので、ホラーに多いですけどね。
「パラノーマル・アクティビティ」とか。
「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」とか
アレ?ひょっとして「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」から二十年かな?
泥棒の三人組が近所に住む目の不自由な老人が大金を手にしたとの情報を得て深夜に忍び込むが、この老人が元特殊部隊のツワモノマッチョで目が不自由なくせにまだまだ戦闘能力抜群、楽な仕事のはずが返り討ちにあってボッコボコ、というハナシ。
で、何が上手いかというと、ですね。
まず、泥棒三人組の来歴人となりをちゃんと描いているのが上手いです。
女性がひとりいてドリカム状態の微妙な三角関係。
それぞれに事情を抱えて泥棒に身をやつさざるを得ない状況、それぞれのそれぞれに対する感情、これらをしっかり踏まえた上での深夜の侵入劇なので、侵入後も、ただスリリングなだけではないドラマがある。
で、次に上手いのは、ですね。
ここから狭い家の中でトッポイ泥棒三人組と最強ジジイの殺し合いが始まるわけですが、狭い家の使い方が上手いです。
どこかで
「このジジイに殺されるくらいくらいなら逃げたほうがいいかも、、、」
となるはずだが、まず、逃げ出せない工夫がちゃんとある。そしてそれをちゃんと事前に見せている。逃げられない状況であることが納得行くようになっている。
そして狭い家の中をものともしないどころか、逆に活かしきったカメラワーク。狭い廊下でマッチョジジイと出くわしたときに我々はどうすればいいのか。
この映画はこういうスリルでできている。
ジジイは侵入者をイキナリ殺そうとするなど、登場時からアブないことはアブないのだが、ナニブン老人だし盲目だし、そもそも泥棒に入られた被害者である。
ちょっと可愛そうじゃないのかな、、、と思った頃、超弩級のネタが投入される。
このネタは映画全体のコンセプトを崩しかねない大ネタだが、コレがあることによって泥棒三人組に感情移入しやすくなる。イヤ、感情移入しやすくなるネタなのよ。
これらを踏まえたからこそ、ギリギリと音がしているような緊密な演出が活きるのだ。
灯りを使った目が見える者と不自由な者と立場の逆転(まあ、往年の名画「暗くなるまで待って」の手だけど)、など、過去のクリシェを利用しつつ、あっと驚く斬新な演出もある。
登場人物の一人が顎の下に銃をあてられて発砲されたとき(まあ、死ぬよね、、、)、よくバラエティ番組などで顔の正面から強風をあてられたヒトのように、歯から唇までが風に吹かれてハタハタとはためくのである。
なるほど、外側からの風より、内側からの風のほうがはためくのが道理であるが、コレを表現しようと思った発想力はスゴいと思う。
こういう不気味なリアリティの積み重ねで、映画は怖くなっていくのだな、、、と実感するカットではあった。
例によってラストがラストがしつこいのだが、それなりに大団円感のある終わり方であった。
制作にサム・ライミが名を連ねてるなーと思ったら、監督のフェデ・アルバレス氏はなんとサム・ライミのデビュー作のリメイク「死霊のはらわた」のヒトであった。
そう言われてみると「男女がボロ屋に忍び込んだら中に悪魔がいてさんざっぱらシドい目に会う」、というコンセプトはソックリだ。
多分、大して話題にもならなかったリメイク版「死霊のはらわた」のリベンジのつもりなのだろう。
で、リベンジとは十分すぎるほど成功したな、と思った次第でございます、、、
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研究所で育てられた遺伝子操作された(生化学的に改良された・特殊な教育をされた)子どもたちが散り散りになり、成長して、、、というハナシ。
もう、コスリ倒された設定ではある。
ちょっと思いつくだけでも「AKIRA」とか「ダークエンジェル」とか、浦沢直樹の「MONSTER」もこの変種だろう。
という訳で、さんざっぱらコスリ倒された設定な訳ですが、もう、びっくりするほど面白かったですぅ、、、
この映画の「転調」によって描かれている。
映画は何度も、何重にも「転調」する。
オープニングのタイトルバックに実際に過去の子供を使った人体実験の記録映像(っぽい?)静止画が流れる。コレがもう怖い。多分、最後の1、2枚が本作のために作ったスチルなのだろうが。
そして本編になだれ込むと、記録映像にあったような「研究所」がイキナリ崩壊していく様が映し出される。
理由はよく解らないが、なんだか知らないけどヒトビトはあわくってドタバタしてるわ、銃声は響くわ、血まみれの奴はいるわ、大変な騒ぎである。
やがて、この混乱のなか、一人の少女(8歳くらい)が研究所を抜け出し、それを追っているらしいことが分かってくる。
少女は脱出に成功し、やがてとある牧場の端っこで倒れているところを、草を集めていたおじさんに拾われる。
なんとも不穏な滑り出しではないか。
映画はここで一度目の転調を迎える。
あれから10年、少女は酪農家の老夫婦の娘として18歳の高校生なっていた。
このパートが、不穏な雰囲気を湛えていた導入部とうってかわってフツーの女子高生の日常を描くことに成功していることで、この映画は凡百のサイキックアクションと一線を隠すことに成功している。
酪農家の一人娘として平和に暮らすク・ジャユン。
お父さんは最近経営が苦しく飼料屋の支払いもままならない。
お母さんはまだそんな歳でもないのにアルツハイマーの症状が出始めている。
ジャユンはそんな状況を打開すべく、親友のミュンヒに勧められたアイドルオーディションに参加することを決める。
この、親友の、キャピキャピお調子者っぷりが素晴らしい。
ここまででも主役のキム・ダミの親思いでマジメな女子高生っぷりも見事だが、コ・ミンシ演じるお調子者の親友のキャピキャピ演技のおかげで、このパートが分厚くなり映画全体のダイナミズムを支えている。
プロデューサー気取りの親友ミュンヒとオーディションに勝ち続けるジャユン。
しかし、ここから徐々に導入部の不穏さが蘇ってくる。
さんざん不穏なムードを撒き散らしたあと、ついにジャユンの家に銃を持った一団が乗り込んでくる。
このあとの転調ぶりはスゴイ。
導入部のことがあるのでジャユンがある程度「ヤる」であろうことは予想がつく。すぐ殺されたら映画終わっちゃうし。
しかしこのイキナリのアクションシーンの激しさ、シャープには度肝を抜かれる。
この瞬間、この映画が「アチラ側」の映画であることを思い知らされる。
映画はこのあと、ジャユンの覚醒をもって再度転調する。
ここからあとのキム・ダミの演技の「転調」は素晴らしい。
マジメな女子高生から最強の殺し屋へ。
そして何より、自分が最強の殺し屋であることを自覚していて、そのことに躊躇がない。
最強の殺し屋であることに躊躇がない可愛い女子高生。
この演技は難しいよ。
フツーの女子高生に続いてこの演技をヤりきったキム・ダミはさすがにスゴイ。
韓国の映画賞を取りまくっただけのことはある。
覚醒したジャユンは懐かしい研究所内でアバれるが、研究所勢力が2つに分裂しているせいで、三つ巴の戦いになる。
ここのアクションシーンも現在のところアクション映画史上に残る激しさ。
キム・ダミもクランク・イン前に相当訓練したらしいが、それでもアクション専門ではない役者さんの悲しさ、格闘シーンをワンカットで撮ったらボロが出そうなこともあるだろうが、相当カットを割っている。
にもかかわらず、一挙手一投足何をやっているか分かって、ちゃんと迫力ある映像になっている。
コレはなかなか難しいよ。
厳密に言うと、逆に全般的にちょっと切るのが早いかな、という気もするが、コレがこの監督の(この作品の?)スタイルなのだろう。
壁を多用したパワーの表現など、考え抜いたアクションであり、カメラワークなのだ。
日本で言えば「VERSUS -ヴァーサス」の頃の北村龍平を思いだしたけど、いま、何してるんだろうねぇ、、、
という訳で監督は誰かな?と思ったら「V.I.P. 修羅の獣たち」のパク・フンジョンだった。
さもありなん、、、
そもそも映画のタイトルが厳密には「The Witch/魔女 −第1部 転覆−」であって、エンディングも引きまくってます。
久々に、「次を見るまで死ねないな、、、」と思いました。
JUGEMテーマ:映画
本との出会いは不思議なものだ。
いつも出会うべき本を探しているが、読み終わってから「出会わなくても良かったかな、、、」と思うこともしばしばだ。
我々はすべての出会うべき本と出会えているのだろうか。
そして、ある日突然出会い、読み終わってから、いや、読んでいる最中に「ああ、出会うべき本に出会ったな、、、」と思える本もある。
コレは、そんな本。
著者の岡崎武志氏は自ら「神田系ライター」を名乗る、古本について、また昭和について語るライター。
本書もズバリ、岡崎氏が古本屋を渉猟して手に入れた古本について語りながら、昭和を照らす、と言う内容。
読み始めてしばらくは、「ちょっと掘り下げが足りないかなぁ、、、」と言う気もする。
例えば、
「木村荘八『南縁随筆』」
の章。
そもそも木村荘八さんを知らず、しばらく山岡荘八だと思っていた。
その後、木村荘八氏の数奇な生い立ちが語られたり、他の著作のタイトルが「東京繁盛記」とか「東京風俗帖」であることが紹介されたりするが、この時点でまだ
「いつ『徳川家康』のハナシになるんだろう、、、」
などと思っているワタクシ空中さんである。
「ははー、『徳川家康』だの「織田信長』だの書いている合間に東京に関する随筆書いてたんだなー、、、」
などと思っている。
その後、永井荷風の「『濹東綺譚』の「挿絵」を書いた、などというエピソードが語られるにいたり、やっと「アレ?おかしいか、、、」などと思う始末である。
で、さすがに山岡荘八ではないことには気がついたが、結局木村荘八氏が挿絵もかける随筆家なのか、随筆もかける画家なのか分からないままだったりする。
ちょっと、あまりの飛びかたに面食らってしまう。
え?全然掘り下げないの?こんな浅いままなの?
しかし、しばらく読み進めていくと、この飛び方が岡崎氏のウリなのだな、と分かってくる。
飛び方が気持ちよくなってくるのだ。
例えば、
『鈴木敬信「星と宇宙とプラネタリウム解説」東日天文館』
の章。
二枚の『東日天文館ゑはがき』から始まって、あっという間に時空を超える連想の華麗さに翻弄される。
東日天文館とは昭和13年の有楽町にできた日本で二番目のプラネタリウム(日本最初は大阪にあった)。渋谷の五島プラネタリウムの前に東京にプラネタリウムあったんだねぇ、、、
ここから岡崎氏が星空に魅せられるきっかけになった天文学者、石田五郎氏の著作へ飛び、大阪にあった日本最初のプラネタリウムには手塚治虫が足繁く通っていたハナシから、東日天文館から出版された、章のタイトルになっているプラネタリウムの解説本へ、さらには東日天文館開館の5年前に40代の若さで亡くなった天文大好き宮沢賢治にプラネタリウムを見せたかったと感慨し、瀬名秀明の五島プラネタリウム最後の日にタイムスリップする小説にたどり着く。
宇宙から有楽町へ、宮沢賢治から瀬名秀明へ、まさに時空を超えるこのロマンチシズムにはシビレた。
かと思えば、
「季刊ジャズ批評別冊『ジャズ日本列島 50年版』ジャズ批評社」
の章。
本書は要するに日本全国ジャズ喫茶地図である。
著者岡崎氏のような古本者にとっての『全国古本屋地図』のように、ジャズ者たちは本書を手にジャズ喫茶を求めて日本全国を徘徊していたらしい(かな?)。
そして立命館大学出身の岡崎氏も通っていたという、京都にあるジャズ喫茶、「しあんくれーる」を紹介すると、ハナシは一気に「二十歳の原点」に飛ぶ。
若干二十歳で自ら命を絶った女子大生(要するに立命館だった)の日記を出版し、70年代にベストセラーになった「二十歳の原点」には、「しあんくれーる」が何度も出てくるのである。
ここからハナシは一気に70年安保を巡る当時の大学生の孤独と苦悩へと突入する。
「二十歳の原点」の作者、高野悦子の後輩である岡崎氏は自身の青春と重ね合わせて、60年代末の青春を鮮やかに描き出す。
この二章を読むと、岡崎氏が単なる「古本と昭和文化に詳しいヒトがたまたま文章も上手かった」と言うだけのヒトではないことが分かる。
このヒトはちゃんとした随筆家であり、文学者なのだ。
ご当人は何を今更当然だと思うだろうが、なかなかそうは行かない執筆者が多い中で、貴重な随筆家を発見してしまった喜びに今はとりあえず浸りたいと思うワタクシ空中さんであった。
JUGEMテーマ:ノンフィクション
映画「シャイニング」の公開は1980年。
この時点で原作者のシャンスティーブン・キングはそれほど有名ではなかった記憶がある。
「キャリー」はあったが、あれもどちらかというとブライアン・デ・パルマ作品として話題になっていた。
つまり、スティーブン・キングの名を世間に知らしめたのは「シャイニング」だと言っても過言ではないのだ。もちろんその後スティーブン・キング自身は映画化されようがされまいが関係ない、とんでもない才能の持ち主であることを証明し続けてはや50年弱のヒトであるのだが、デビュー直後5年間のプロモーションにキューブリックの「シャイニング」が果たした役割は大きかったはずだ。
しかし、スティーブン・キングは「シャイニング」をそれこそ公開前からどころかキャスティングの段階から否定し続けてきた。
ジャック・トランス役がジャック・ニコルソン、の時点で自分が書いた小説のテーマと違う、というのだ。ジャック・ニコルソンではそもそも芝居がエキセントリック過ぎて、キングが描こうとした平凡な、弱いダメ男(キング自身の投影であり、キングの父親の投影でもある)が表現できない。
その他、そもそもタイトルロールであるダニー少年の「シャイニング」にフィーチャーされていない、ホテルに巣食う妖異より、アル中オヤジの虐待バナシになってしまっている、等、もう、全く気に入って無いらしい。 終いには「もう、映画『シャイニング』の悪口は言わないから」とキューブリックに約束して映像化権を買取、自らTVシリーズの制作に乗り出す始末である。
そして40年ぶりの映画化である。
どうやら現時点でキング先生はこの作品を気に入っているらしい。
しかし、この続編は、キング自身の手になる続編小説より、キューブリックの「シャイニング」の続編になっている。
小説「シャイニング」のラストで舞台となったオーバールックホテルはラストで爆発してしまうが、映画版では別に爆発はしない。
そして、本作「ドクター・スリープ」でオーバールックホテルは爆発してないのだ。それどころかオーバールックホテルがまだ存在していることが、ラストの展開の重要なキーになっている。
これはどういうことなのだろう。
キング先生、ついに映画「シャイニング」を認めたのだろうか。
「もう、悪口は言わない」と約束した筈なのに、キューブリックが死んだ途端、また悪口を言い始めたほど嫌いだったはずなのだが、、、
映画はキレイなオネーサンが可愛い少女をかどわかすシーンから始まる。
その後、あの、「シャイニング」のダニーが大人になってやさぐれた姿で登場し、、映画はこの二者を交互に描き出す。
描き出すが、この二者はしばらく交わらない。
この二者が交わるには、もう一つファクターが必要なのだ。
荒れた生活を送っていたダニーは放浪の果てにたどり着いたニューハンプシャーの小さな町で、友人と職を得て、アルコール依存症からも脱出、貧しいながらも落ち着いた日々を送っていた。
そんなある日、ダニーが暮らす部屋の壁(前の住人が数学科の学生だったために壁一面が黒板になっている)に、メッセージが現れる。
誰ともわからない相手との黒板を使ったメッセージのやり取りが、ダニーの穏やかな日常に加わる。
一方、冒頭で少女をかどわかしたキレイなオネーサンは、何やら悪そうな仲間と連れ立って、ダニーと同じような能力「シャイニング」を持った奴を相変わらずかどわかしたり、見込みの有りそうな奴は仲間にしたりしていた。
要するに、このキレイなオネーサン一味は、他人の「シャイニング」を「喰らって」は永遠の命を永らえるヴァンパイヤみたいな奴らなのであった。
そして、ある日、ダニーとオネーサンの人生は交錯する。
オネーサン一味が少年野球場で見つけたやたら選球眼のイイ少年は、実はシャイニングの持ち主で、オネーサンたちは彼を拉致って恐怖を味あわせ(恐怖を感じさせた方が「シャイニング」が、多く出るらしい)、それを味わおうというのだ。
このシーンはあまりの凄惨さにギョッとする。
メジャーな映画でこんな事があっていいのかと言うレベル。
しかしこの映画史上に残りかねない残酷シーンのおかげで、登場人物全員の運命は大きく動き始める。
ダニーと黒板でコミュニケートしていた謎の存在、その正体はなんと当年とって10歳の少女アブラであり、彼女はその「シャイニング」のあまりの強さ故に、北アメリカ大陸の反対側で行われていた惨劇を感じ取ってしまう。
そして、感じ取られてしまったオネーサンも感じ取られたことを感じ取ってしまう。
ついに当代最高のシャイニングがお互いの存在を認識し合う。
ここに、ダニー+アブラ連合軍とオネーサン一味の超能力大戦の幕が開いたのであーる!!
そう、コレはホラーと言うより超能力者同士の戦いを描くバトル映画であった。
オネーサンがアブラを探すために霊体となって全米の空中を浮遊するシーンで、
「ああ、コレは『童夢』だな」
と思った。
1980年にコミックとして初めて日本SF大賞を受賞した大友克洋の代表作、「童夢」はまさに超能力者同士の戦いを描いたバトルコミックであった。
当時ワタクシ空中さんが「童夢」を読んでもっとも驚いたのは、重力を無視して空中を飛び回る超能力者は、「上下左右の感覚は意味がない」と言う描写であった。
空中を飛びながら追うものと追われるものを描いたコマ。
追われるものの身体の前面はは270度、追うものは180度度を向いている。そしてそのコマの地面はなんと90度の角度に傾いている。
このコマを見た時、読んでいるものの平衡感覚すら狂わせながら、「ああ、重力を無視できるとはこういうことか!」と思い知らされるのだ。
あの時、すでに天才の呼び声も高かった大友克洋が、ワタクシ空中さんごときの当時の認識を遥かに超えるとんでもない天才であることを思い知らせたのであった。
ワタクシ空中さんは、この、オネーサンの霊体が空中を浮遊するシーンで、マイク・フラナガン監督は絶対に「童夢」を意識していると思う。
超能力大戦のスタンダードといえば「童夢」なのだ。
そして、ダニーはオネーサン一味を倒すために懐かしのオーバールックホテルにいまだ巣食う亡霊たちを利用しようと、オネーサンをオーバールックホテルにおびき出す。
そしてまず、ダニーは自ら亡霊たちと対峙する。
懐かしい、アイツ、とかあのヒト、とかと再会する。
コレ、いる?
正直、懐かしさだけじゃね?
超強力で大ベテランのオネーサン一味に対抗するためになんらかの作戦が必要、というのは分かるが、それまでの超能力大戦からの落差が酷い。
ココまで結構いいペースでスリリングな展開を見せていたのである。
それがココでガクッとペースが落ちてしまう。
しかも、悪いことにジャック・トランスが登場してしまう。
もう、ソックリさんじゃん。
「あ〜、ソックリさんだな〜、よく似た人見つけてきたな〜、、、」
と思いながら、同映画の世界に入り込めというのか。
大人になったダニー、オーバールックホテルの惨劇を乗り越えたダニーを描けたんだから、もういいじゃん、と思う。
でも、ヲタク的な価値観を持ったヒトたちは「おお!オーバールックホテルが!ジャック・トランスが!伝説の双子が!」
って大喜びするんだろうな、、、
JUGEMテーマ:映画
新人監督のデビュー作らしく、瑞々しい感性に溢れた、ゾンビ風ホラー映画。
およそ「瑞々しい」からもっとも離れた存在であるゾンビ(的なもの)を瑞々しい感性で描いているのがミソか。
あくまでもゾンビ的なものであって、通常我々の考えるゾンビではない。
タイトルの通り、「アンデッド」と言うこの映画独自の存在であって、通常のゾンビと似ているところもあるが、ぜんぜん違うといえば違う。
一旦死んで身体が腐りかけている、人肉を食べたがる、等は共通しているが、知性は生前と同じで普通にしゃべってりする。
そして恐らくはゾンビのような伝染病ではなく、その土地だけに発生する風土病、というか、まあ、ようするに「呪い」ということだろう。
舞台となっている地域は「悪魔の巣」と呼ばれ、地元の住民から「バケモノの出る土地」として恐れられているのだ。
映画は中年のおっさんが田舎道で車を走らせているシーンから始まる。
ガソリンスタンドで給油ついでに売店で買い物をしていると、店のジジイがなんやかや話しかけて来る。
「悪いが急いでいる」
と言ってジジイを制するが、その時、売店のテレビがニュースでおっさんのことを報じ始める。
ジジイは慌てておっさんを見るが、その時すでにおっさんは銃を構えていた。
この、ババッチイ二人のやり取り、そして売店のジジイのキャラ、さらに完璧なタイミングとカッティング、荒涼とした色調、全てがまるで手練のベテラン監督のような腕前。フランケンハイマーか全盛期のマクティアナンかと思った(ちょっと大げさかな、、、)。
おっさんは要するに変態オヤジで、盲目の美少年を拉致して車のトランクに隠して連れ回しているのである。
そして、「バケモノの出る土地」なら人気が少なかろうと、隠れる場所を探しているのだ。
しかし、「バケモノの出る土地」で最初に見つけた空き家には、少女のアンデッドが棲んでいた。
美少女アンデッドはあっさり変態オヤジを屠り、盲目の美少年と出会います。
出会いますが、少年は盲目なので、美少女アンデッドの顔が傷だらけで腐りかけていることはわからないので、フツーにコミュニケーションが成立します。
この後拉致られた盲目美少年を探しに警察やら賞金稼ぎやらがやってきますが、盲目美少年が変態オヤジに「警察に見つかったら家族を殺す」と脅されていたせいもあって、美少女アンデッドは割とヘーキで彼らをぶち殺します。
しかし、盲目美少年とだけは、心を通わせる美少女アンデッド。
つまり、恋です。
う〜ん、青春、、、
アンデッドの青春。
アンデッドのボーイ・ミーツ・ガール。
フツーに「アンデッドのボーイ・ミーツ・ガール」と聞けば、もう、コメディとしか思えないが、驚いたことに、アンデッドの恐怖と不気味さをキープしたまま、青春ラブストーリーも成立させている。
これは新人としてはスゴイことではないか。
新人らしいみずみずしさと、驚異のテクニックを併せ持った新鋭の登場をコトホギたい。
映画はこのままアンデッド映画としては反則と言えるほど意外な(途中伏線は張っているのでアンフェアではない)、展開で締めくくられるが、それまでの演出のみずみずしく、カッチリとしているので、意外な感じがしない。
ああ、なるほどね、、、と納得させられてしまう。
前にも書いたがこの映画におけるアンデッドは通常のゾンビと違う。
恐らくは最初から提示されていた「バケモノの出る土地」がキーになっている。
この「バケモノの出る土地」の呪いがどういうものであるのか全く説明されないので、ヒトによっては??となるかも知れない。
しかし、もともとゾンビもそういうものではないか。
そもそも何をエネルギーにしていつまでも動き続けるのか、なんで人肉に限り食べたがるのか、全然わからない。
ぜひ、この土地を舞台にした続編を作り続けて欲しい。
JUGEMテーマ:映画
「メディアミックス化する日本」の影響から抜け出せず、大きな物語という単語が頭から離れない。
今の日本の状況が、「大きな物語」について考えざるを得ない状況であるせいもある。
今の日本は、ふたつの大きな物語に呑み込まれそうになっている。
ふたつの大きな物語とは、ぶっちゃけ「反アベ」と「親アベ」である。
日常、周囲の友人知人、仕事先のヒトなどと接していて、このヒトは「反アベ」である、「親アベ」である、と感じることなどめったに無いが、ネットの世界、とりわけSNS上では、この二者は大きなうねりとなって鋭く対立しあっている。
ヒトはそもそも大きな物語に呑み込まれたい、と思っているものなである。したがってヒトは油断しているとどんどん大きな物語に呑み込まれていく。
大きな物語の中に身を置くこと、「ああ、オレって今、大きな物語のなかで居場所を見つけた、、、」と感じることは、快感なのである。
そして、この多幸感のなかで、新進気鋭のマルクス系学者がユーミンを批判して炎上、最終的に謝罪する、という事態にいたる。
この事件など、大きな物語の中に身をおいている、という多幸感から生まれたとしか思えない。
本来、「大きな物語」というタームは「大きな物語の終焉」という文脈で使われるものである。
大きな物語とは、乱立するさまざまな理念を制して、絶対的な優位性をもつものだが、現代は、大きな物語の核となっていた、理念の自明性や信頼性は失われている。
したがって、現代は「複数の言説がもつ異質性を担保し、そのような言説を増やしていこうとする」、「小さな物語」の時代になっているはずなのである。
しかし、ユーミンに関する批判はフェイスブックだったようだが、最も盛んなSNSであるTwitterをみると、双方の陣営が互いを貶め、自説の優位性を証明するために汲々としている。
自説を補完するツイートばかりぞろぞろリツイートしては、たまに反対意見があったかと思えばいかにもツッコミやすそうなツイートにあたった嬉々としてツッコむ。
正直言って、自分でもちょっと俯瞰で見てみれば、みっともないな、と思わないのかな、と思いながらいつも見ているワタクシ空中さんである。
そのさまはとても「「複数の言説がもつ異質性を担保し、そのような言説を増やしていこうとする」などというものではなく、どう見ても「さまざまな理念を制して、絶対的な優位性をもつ」と確信しているとしか思えない。
だいたいユーミンとはナニモノなのか、というハナシだ。
まず、ユーミン登場以前の邦楽界とはどのようなものだったのか。
ユーミンが登場した時代は、後にニュー・ミュージックという不思議ダサい名前が付く前の、いわゆるシンガーソングライターの時代の黎明期であった。
それ以前のレコード会社が歌の上手いヤツを見つけてきて、素材にあった作曲家や作詞家に頼んで曲をあてがう、と言ういわゆる歌謡曲のありかたに飽き足らない若者たちが、自分たちで曲を作り、自分たちで歌う、シンガーソングライターが次々と現れていた時代だった。
しかし、ユーミン以前にシンガーソングライターの時代を制していたのは、いわゆる「四畳半フォーク」であった。
「神田川」やら「学生街の喫茶店」やらを舞台に自分たちの貧しさと無力さを男女の愛に託す、というはなはだ景気の悪い世界観が蔓延していたのである。
ようはプロレタリアートの世界観であり、これはこれで当時70年安保の挫折にあえいでいた当時の若者の心象にフィットしたのである。
そしてユーミンとは、そんな四畳半フォークの世界に、突然「ベレG」(ググってください)で颯爽と乗り付けたブルジョアのお嬢さんだったのだ。
これは衝撃だったと思う。
「学生街の喫茶店」が「山手のドルフィン」である。
この二者に横たわる階層の差も重要だが、固有名詞性もまたユーミンを語る上で重要なのだが、そのハナシは今回割愛します。
さあどうだろう。
こんなヒトがマルクス系学者の気にいるようなプロレタリアートであるわけは、もともとないではないか。
それとも「荒井由実のまま夭折」といういち文にヒントが有るのだろうか。
普通に考えればユーミンがブルジョワお嬢さんとしてのアドバンテージを強く保っていたのは「荒井」由実時代のはずである。
時代が下るにつれ世の中全体が豊かになり、ユーミンのアドバンテージは徐々に失われてしまう。
「わたしの歌の恋愛観は暴走族や商業高校の女の子にはわからない」と発言して物議を醸したユーミンであったが、いつの間にか暴走族や商業高校の女の子しか聴いてないという事態に至りそうだったのである(じゃあユーミンと同じミッション系の女の子は何を聴いていたのかというと、ドリカムを聴いていたような気がする)。
しかし、である。
ワタクシ空中さんは寡聞にして彼女以外に「結婚したからといって芸名を変えた女性芸能人」を知らない。
絶対に事務所にもレコード会社にも、恐らくは親戚筋にすら、もしかすると当の旦那にすら大反対されたに違いないのである。
にもかかわらず、彼女は決然と芸名を変えた。
彼女はどうしても「松任谷姓」を名乗りたかったのだ。
松任谷一族の一員になったことを、満天下に知らしめたかったのである。
旦那の伯父が岸政権の審議官にして頭山満の娘婿である一族。
もう、バリバリなのだ。
そういうヒトがいまさら岸信介の孫と友達だからと言って何を嘆くことがあろう。
思えば内田樹先生は10年前に「『大きな物語の終焉』の終焉」を宣言していた。
大きな物語の終焉が終焉したあと、どんな物語の時代がくるのだろう。
大きな物語の終焉のあとは小さな物語の時代だったはずである。
その後にはまた、大きな物語の時代なのだろうか。
まさか、「さまざまな理念を制することはできないが、絶対的な優位性を証明するために血道を上げる」中くらいの物語の時代が来る、とでも言うのだろうか、、、
何だこのリメイク感は。
思えば「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」もリメイク感に満ち満ちていた。
名作の続編を何十年ぶりかで作ろうとすると、どうしても名作に引きずられてリメイクになってしまうのかも知れない。
「ターミネーター」と「ターミネーター2」はテーマが大きく変わっていた。「ターミネーター」は人間側が防戦一方、ただ、生き延びることのみがテーマだったのに対し、「ターミネーター2」は人間側が攻勢に転じるハナシである。
つまり、リメイク感が無い。
「ターミネーター2」が一作目以上に評価されているのはココだろう。
一作目限りで終わるつもりでブチまけた設定を、あとから無理やり回収する、というはなれわざに成功しているのだ。
未来が悲惨なことになっていて、なんか知らんけど刺客を送ってくる。
↓
じゃあ未来を変えればいいじゃん。
というわけで「ターミネーター2」で未来を変えるのに成功してしまう。
未来が変わったのだからもう刺客はやってこない。
本来ココでハナシは終わりである。
しかしひとつだけこの陥穽から抜け出す方法がひとつあった。
マックG監督が「ターミネーター4」で採った手法、「その悲惨な未来を描いてタイムトラベルは使わない」である。
「ターミネーター4」が面白かったかどうかはともかくとして、この手は有り得る。それが「ターミネーター」シリーズ本来の面白さかどうかはともかくとして。
そこで本作「ニューフェイト」ですが。
もう、のっけから、あの、毎度おなじみの、丸い「バチバチ」が現れてそこにあった物体やらが丸く切り取られて、中からヒトが出てくる、あの、例のあのアレである。
もう、懐かしい、と言ってもいい。
「ああ、またあの、例のあのターミネーターが始まるのね、、、」
という感じ。
ということは「コレ、今までと一緒じゃね、、、」ということでもある。
突然意味もわからず訳のわからない奴に命を狙われ、ワタワタ逃げまどっていると、また訳のわからない奴が現れて助けてくれる。
そう。
毎度おなじみの、アレです。
アレですが。
ココがすごく良くできてます。
今回、途中から助けに出てくる、「1」で言えばカイル・リース、「2」で言えばT-800(要はシュワちゃん)の役が、なんと女性。しかもサイボーグ。
つまり、完全な人間だったカイル・リースと完全なロボットだったT-800の中間を狙っているということだろう。
この女戦士グレース役、マッケンジー・ディヴィスのクールで、それでいて切ない美貌とタッパ(178cm)がめちゃくちゃイイです。
監督も「デッドプール」のティム・ミラーなので、アクションのキレもアイデアの量も抜群。
「デッドプール」のときもアクションの激しさスピード感アイデアの豊富さにテンション上がったが、ターミーネーター・フォーマットに則ってもちゃんと機能してる。
ただ、ちょっと気になったのは、どんなにアイデア豊富でスピード感があってキレていても、所詮はCGじゃねーか感はあること。
このCG全盛、アクションと言えばCG、という時代になぜそこが気になるかというと、やはり比較の対象があるからなのだ。
あの、「ターミネーター2」の用水路でのカーチェイスの、CGを使わないド迫力にはかなわないのかな、という気もしないでもない。
コレは今後のアクション映画に課された課題なのかな、という気がする。
正直言うと、この出だしの追撃戦だけで元は取れた感もあるのだが、、、
後半にダレ場があるのもこのシリーズの(というかありとあらゆるフィクションの)決まりごと。
ココから再度盛り上がれるかが勝負なのだが、まあ、難しいよね。
リメイクだし。
そんなことよりも、ですね。
本作は今後のシリーズの行方を左右する、重要なファクターを提示している。
本作で、未来からリキッドメタル野郎を送り込んでくるのは、スカイネットではないのだ。
未来から送り込まれた戦士グレースによれば、未来で人類を殺戮し始めたのは、リージョンと呼ばれるAIなのだ。
思えば「ターミネーター2」のテーマは「運命は、変えられる」だった。
そして、運命は変えられたのである。
「ターミネーター2」におけるサラ・コナー、ジョン・コナー、T-800の三人組の活躍により、スカイネットの成立は阻止されたのである。
にもかかわらず、今度は別のAIが人類に反旗を翻すのである。
コレはつまり、何をどうやっても人類はAIを開発し、そしてそのAIは必ず人類に反旗を翻す、ということなのではないのか。
SF映画ファンなら覚えているだろう。
コレは「2001年宇宙の旅」の後半の展開と同じである。
木星まで行ける宇宙船を制御できるAIは必ず反乱するのである。
コレはもう、「AIとは人類に反乱するものである」ということではないのか。
ということは、おそらく今後も続くであろう、サラ・コナーの戦いは必ず、いつも失敗するだろう。
なんど反乱するAIの開発を阻止しても、必ず別のAIが反乱するのだ。
キリがない。
結局、このハナシの終わり方は、人類が次の形態へ進化するしか無いのかも知れない。
JUGEMテーマ:映画
その(「劇場霊」や「貞子」参照)、高橋洋氏の珍しい監督作品。
冒頭、二人の中年の男女が古いフィルムを観ているシーンから始まる。
戦前の満州で外国人を使って行われた脳実験の記憶フィルム。
この時点で頭蓋骨開いて脳みそ丸出し。
ああ、これからヤヴァい映画が始まるぞ、、、という期待に満ちたオープニングではないか。
被験者たちが脳に何かを埋め込まれると、画面に変化が起きる。
どうも脳に細工をされた被験者たちに見えているものが、画面に写ってしまっているらしい。
フィルムを観ていた男女は「やっぱり、、、」と納得顔。
その時、幼い少女が二人、寝室から出てきて、映写室に入ってくる。そしてそれに気づいた男女のうちの女性が慌てて駆け寄り、少女たちを庇う。まあ、男女二人は夫婦で少女は二人の娘なのだ。
コレはつまり、いわゆる「脳の10パーセント神話」に関する映画であり、恐らくはリュック・ベッソンの「LUCY/ルーシー」の元ネタなのではないか。
脳の現在使われていない90パーセントを覚醒させれば、知能や知覚が爆発的に上がる、というのは分かるが、外界にまで影響を及ぼす、まで行くと、そこには通常超えられない飛躍がある。
「LUCY/ルーシー」がここを軽々と超えているのは、本作があるからではないか。
ちなみに「恐怖」は2010年作、「LUCY/ルーシー」は2014年作。
リュック・ベッソンは親日家だし、ないハナシでもないねぇ、、、
十数年後、映画は突然当時流行っていた(今でもある?)集団練炭自殺の風景を描き出す。
駅前で集合して、バンに乗り込み、山の中の草地で停め、確認をし、目張りをする。
予想される通りの集団練炭自殺のプロシージャが繰り広げられる。
しかしこの後、ハナシはどんどん意外な方向に展開する。もう、「どんどん」過ぎてこちらの予想をアレよアレよと超えていく。
この辺の怒涛のしかも恐ろしい展開はさすが高橋洋、ゾックゾクします。
冒頭で満州で撮られたフィルムを見ていた夫婦は脳外科医で、妻の方は実際に「脳に直接刺激を与えて限界を超える」を続けているのである。
この狂気の女医がなんと片平なぎさ。
よく出てくれたなぁ、、、
「スチュワーデス物語」で両腕(!!)義手でドジなノロマな亀を脅しまくって以来の強烈な悪女ぶり。
なにしろ無辜のタミビトを拉致しては勝手に頭蓋骨開けて脳みそ丸出しにしちゃあなんか埋め込んでいるオバハンである。たとえそれが自分の娘であろうとも(なにしろキャッチコピーが「お母さん、私の脳みそをどうするの?」なので、ネタバレにはならんだろう)。
つかそんなに脳が覚醒すると何が起きるのか、何が見えるのか知りたかったら、自分の脳で試してみれば早いのに、、、
ココから脳が覚醒しかけている娘は母のもとを逃げ出し、母と妹がそれを追う、という展開になるが、、、
結局このハナシは「脳が覚醒すると何が起きるのか」「脳が覚醒した人間には何が見えるのか」をテーマに進むわけですが、コレがよくわからないのね。
そもそも片平なぎさは一体全体どうなると思ってひと様の脳みそを覚醒させたいのか。
彼女自身はどうなる、なにが見えると思っているのか。
しきりと「自分自身が見える」とか言っているが、自分自身が見たいんだったら鏡で良くね?
その辺がなにもわからないまま、何やらいろいろなことが起こるのだが、コレってイマイチ恐怖に結びつかなくね?という感じ。
「こうなったらヤヴァい」
という着地点、というか破局点が見えないので、ドキドキしようがない。
ラストでアッと驚く展開が待っている。
コレもイロイロ解釈のしようがあり、高橋洋監督自身は「パラレルワールド」と言っているが、コレは時間を巻き戻した、ということだろう。と、思うえるのも先に「LUCY/ルーシー」を観ているからかも知れないが。
姉役に中村ゆり。前半のふつーに可愛い感じから後半の不気味さの落差が素晴らしい。素晴らしすぎて最初同一人物は思えないレベル。
妹役には藤井美菜。キレイだし別にヘタではないが、特に印象も残さない。
刑事役に高橋長英。この時点でもう70近くね?と思うが、さすがに映画のラストをビシッと締めている。
多分、高橋監督の頭の中には、何が起きるのか、見えているのだろう。
しかし、観客には伝わらない。
それが高橋監督の映像センスのなかなのか、脚本家というものは映画の完成形が観客にどう観られるのか予想できないからなのか分からない。
出来れば、今後は誰かいい監督と組んで欲しいな、とは思いました。
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