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最初に断っておくが、ワタクシ空中さんはこの映画は一種の詐欺だと思う。
本作は正確には「デューン砂の惑星」の前半部の映画化に過ぎないのに、堂々と「DUNE」と名乗っている。
オープニングタイトルでやっと、かろうじて、「PART ONE」とチラッと出るが、そんなもん、もう金払っちゃってるわ。
宣伝にも商品名にも、ひとっことも「PART ONE」とも「上」とも表記されていないのだ。
中には
「あのデヴィッド・リンチ版の『ポウルの妹』や『フェイドとの決闘』はどう描写されるのだろう、、、」
と思って観たヒトも居るだろう。そういうヒト達はクレジットタイトルが始まった瞬間、座り小便してしまうのではないか。
この件については「エアベンダー」のときにも指摘しておいたのだが、どうも業界全体に通達が行き渡ってなかったようである。
そしてもう一つ言っておかなければならないことがある。
ワタクシ空中さんは昔から疑問に思っていることがあるのだ。
それは、
「ヒトはなぜ『デューン砂の惑星』を映像化したがるのか」
ということなのだ。
イヤ、解るよ。わかりますよ。
確かに「デューン砂の惑星」はアメリカの主要なSF賞であるヒューゴー賞・ネビュラ賞で史上初のダブルクラウンに輝いた作品(まあ、ネビュラ賞はコレが第一回だったんだけど)であり、1965年の発表以来、60年代、70年代、もしかすると80年代までを通じて「SF界屈指の名作」として君臨してきたSF小説の金字塔である。
何しろ「スター・ウォーズ」も「風の谷のナウシカ」も「デューン砂の惑星」の影響下にあることは明らかなのだ。
しかしですね。
傑作であることと映像化して面白いかは別問題である。
コレ、映像化して面白くなりそうか?
この傑作を形骸だけにしてしまうと、
「やたら砂っぽい世界で中世みたいな王侯貴族が権力争いしてるハナシ」
になってしまう。
どうもSF映画として面白いと思える要素がない。
これだけだとセンス・オブ・ワンダーが無くね?
せいぜい「宇宙船より大きいものもいる」と言われるサンドワーム(コレがナウシカの王蟲の原型であることは、もう、ほぼ定説であろう)の威容くらいか。
そんなわけで、なぜ、そんな砂っぽい世界で権力争いしてるだけみたいなハナシをヒトビトは何度も映像化したがるのかが分からない。
実は、「デューン砂の惑星」はSF界初の生態系をテーマにした作品なのだ。
ひとつの惑星の生態系を創造しようという試みであり、砂漠だらけなのも、巨大なサンドワームの存在も、物語のキーとなるアイテム、謎のスパイス「メランジ」も、ある生態系の結果なのだが、物語の時点では前提条件になってしまっていいて、あまり語られることはない。
そして、同時に宗教の本質や哲学のあり方にもSFの手法で深く切り込んだ作品であり、さらに何よりよりもまず、ドラッグ小説なのだ。
接種した者の意識野を広げ恒星間飛行をも可能にする「スパイス」がドラッグのメタファーでなくて何であろう(同時に石油のメタファーでもあるのだが)。小説の初出は1965年、まさに当時のヒッピー(死語)文化、ドラッグ文化のど真ん中から出てきた作品でもある。
要するに、文章では表現できるが、映像化してもあんま面白くなさそうな要素しか残っていないのだ。
実は、SFの真髄がセンス・オブ・ワンダーにあるとすれば、「デューン砂の惑星」のセンス・オブ・ワンダーをワンダーを担保しているのは、巻末に収められた「付録」にある。
何しろ「付録? デューンの生態学」、「付録? デューンの宗教」、「付録? ベネ・ゲセリットの動機と目的に関する報告書」である。面白そうでしょ?
ストーリーの中でさり気なく、なんの説明もなく、サラッと出てきた謎の設定、謎の用語が、巻末に至ってやっと説明され、その世界の深さ奇妙さに驚愕する、という仕組みである。
そしてその付録は映像化はされない。
実は「デューン砂の惑星」は過去2回映像化されているのだが(みんな知ってるよね)、当然2回とも付録までは踏み込んでいないのだ。
いや、付録どころか、「デューン砂の惑星」の生態学SFとしての部分、ドラッグ小説としての部分はほぼ、映像化されていないと言ってもいい。
そもそもワタクシ空中さんが中学生の時に読んだハヤカワ文庫版では4分冊の大長編である。映像化してもストーリーを追うのが精一杯という事情もある。
しかし1984年のデヴィッド・リンチ版は、ダイジェスト感は否めないものの(っていうかダイジェストなんだけど)、さすがデヴィッド・リンチと思わせるものではあった。
デヴィッド・リンチ版で印象的な「スパイスの摂りすぎによりほとんどもとは人間だったとは思えないほど変形してしまった航宙士」だの、「なんか口元にあててそれに向かって『チャーーーー!!』って叫ぶと音波かなんか分からないけどなんかが出てその先にあるものが破壊されるバカバカしい武器」などは、実はデヴィッド・リンチ版のオリジナルなのである。
さらに最大の悪役ハルコンネン男爵。
もともと原作でも「贅肉を反重力装置で持ち上げていないと歩くこともままならないほどの肥満」として描写されているのだが、リンチ版ではなんと、最初から体全体ふわふわ浮いて登場して、皇帝からはカゲで「空飛ぶデブ」などと呼ばれる始末である。
造形も一番「ワルワルい」見た目をしていて、「このヒトはなんでもうちょっと良いヒトそうに見える工夫をしないのだろう、、、」という意味で、もはやシュールの域に到達している。
まあ、原作付き映画としての完成度はともかく、デヴィッド・リンチのシュールな才能を楽しむ映画としてはそこそこ成立していたのではないか。
もう一つ、アメリカのケーブルテレビで制作されたバージョンもある。
これは何しろTVシリーズで5時間近くあり、デヴィッド・リンチ版ではほとんど描かれなかった「デューン砂の惑星」のドラッグ小説としての側面をある程度えがいているのだが、いかんせんセンスの問題なのか甚だショボい。原作に書かれているからとりあえず描写してみただけで、ドラッグ小説であることには気付いてないのかな、という感じ。
また、主人公の父親レト・アトレイデス公爵がウィリアム・ハートだったり、銀河皇帝がジャンカルロ・ジャンニーニだったり、そこそこ貧乏くさくないキャスティングなのだが(撮影もなんとヴィットリオ・ストラーロ)、主人公のにーちゃんがなんかヤンキーみたいなのは残念。
そして全体的に砂だらけの土地で貴種流離譚をやっているだけの映像になっていて、センス・オブ・ワンダーは感じられない。
で、ですね、今回の「DUNE」ですよ。
そんなわけでワタクシ空中さんの興味は
「イヤイヤイヤ、でゆーんとかを懲りずに映像化されるとか聞いてますけど、ちゃんとセンス・オブ・ワンダーを感じさせる映画に出来はるんでっか?」
ということなのだ。
本作はその前半部分(1/3?)だけなのだが、まあ、微塵もないようね、センス・オブ・ワンダー。
う〜ん、ベネ・ゲセリットの「ボイス」とかサンドワームとか、SF慣れしてないヒトは驚くのかなぁ、、、
う〜ん、、、「メッセージ」「ブレードランナー2049」のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督かぁ、、、なんとなく、センス・オブ・ワンダーのある話のセンス・オブ・ワンダーを潰すのが得意な監督のような気もする。
今回、原作と過去作のハナシばっかりだが、まあ、しょうがないよね。タイトル詐欺だもん。
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ロンドンの一流デザイン学校に合格したエリー(トーマシン・マッケンジー)は大喜びで浮かれるが、彼女と暮らす祖母には心配ごとがあった。
実はエリーの母もロンドンのデザイン学校に通っていたが、都会のストレスに負けて自殺していたのだ。しかもエリーにはどうも亡くなった母親が見えているらしい、、、
エリーは学校の寮に入ったものの、田舎者をバカにされることうんざりして、パブのバイトをして一人で下宿を借りることを決意する。
しかし、ソーホーに借りた下宿で初めて眠りについた夜から、彼女は夜な夜な1966年のロンドンで歌手を夢見て足掻くサンディとなって、スウィンギング・ロンドンを闊歩するのであった、、、
というハナシ。
「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホットファズ−俺たちスーパーポリスメン!」のエドガー・ライトらしい、とっても気が利いていて、とっても楽しく面白いが、決してA級感は漂わない映画。
前半は豊富なアイデアと意外な展開、そして二人の女優の女優の魅力で
「ハッ、、、オレは今、傑作を観ているのではないか、、」
と思わせるが、ラストでアレよアレよとB級ホラーになってしまう。
思い起こせば「ホットファズ−俺たちスーパーポリスメン!」もとっても気が利いていて面白かったけど、ミステリーとしてはどーでもよかったなぁ、、、
コレはもう、エドガー・ライトの宿痾なのだろう。
神は細部に宿る。
映画全体の印象がグダっても、もう、やりたいことは出来たからいいや、ってことだと思う。
というわけで、この映画の前半はとっても楽しいですぅ、、、
まず、何と言っても二人の若い女優さんの魅力(なんか小学校の卒業文集みたいだな、、、)。
デザイン学校の新入生エリー役に「ジョジョ ラビット」のトーマシン・マッケンジー。
ユダヤ人少女の時から可愛くはあったが、あまり美しい印象ではなかった。本作でも冒頭の田舎ムスメ時代は可愛いだけだが、都会に染まって垢抜けてからの美しさは尋常じゃない。美人だったんだねぇ、、、
そしてスウィンギング・ロンドンで歌手を夢見て足掻く少女に「スプリット」「ミスター・ガラス」の、というよりドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の、過去が似合う女アニャ・テイラー=ジョイ。
アニャ演ずるサンディがソーホーのパブで踊るゴーゴーの可愛いこと。スイムとかね。ちょっと若いヒトは何言ってんのかわかんないだろうけどね。
もう、可愛いの。自由で、躍動的で。
コレがスウィンギング・ロンドンということだろう。
アニャ・テイラー=ジョイのあの、離れていて大きい、強い目が醸し出す自信に満ちた表情。
いつもオトコに無言で「どう?アタシの魅力に気付ける?」と問いかけている。
スターとはこういうことだろう。
スターの条件とは、ド厚かましいことである。
ド厚かましいとは、自分のプランに疑問を持っていないことである。
いま、アニャ・テイラー=ジョイも、この映画のサンディも自分のプランに疑問を持っていないことが、魅力になっている。
サンディは歌を歌わせても踊りを踊らせても自信満々なのだ。正直この映画の中では歌はあんまり上手いとは思えないが、何しろ自信満々で歌っているので、とりあえず惹きつけられる。こういうヒトをシーンスティーラーと呼ぶのだろう。
サンディは結局失敗するが、アニャ・テイラー=ジョイはまだまだスター街道を駆け上っていくだろう。あの、強い目であたりを睥睨しながら。
ああ、オレはいま、スター誕生を目撃してるんだな、という感じ。
「クイーンズ・ギャンビット」からファンなんだけど。
ところで、パブでサンディが女たらしとゴーゴーを踊っているシーンで、サンディとエリーがノーカットで入れ替わる夢のような演出が話題になっているが、ワタクシ空中さんは、つねづねこういう演出方法はいかがなものかな、と思っている次第です。
もう、観ててさ、
「あ〜、ハイハイ、カメラワークとヒトの動きを計算してうまく隠れては入れ替わってるのね、、、」
と思っちゃう。
映画の中の世界から、一気に撮影現場の風景に引き戻されてしまうのだ。
コレは最近流行りの「長回し」とも合わせて難しい問題ではある。
撮り方で変化をつけるのか(迫力が出ると思っている)、観客がカメラの存在を意識しないカメラワークに徹するべきなのか。
一番いいのは斬新でトリッキーであるにも関わらず、観客がカメラを意識しない手法を編みだすことなのだが、このシーンはもう、カメラどころかエドガー・ライトのドヤ顔まで浮かんでくるわ。
カット割ってサンディとエリーの顔を切り替えたほうが夢のような美しいシーンになったと思うのよ。
そして、単に二人の女優のスター誕生の瞬間をフィルムに定着させるだけではなく、なんとなく、時代に目配せしたアクチュアルなテーマも扱ってたりする。。
二つの時代生きた女性それぞれの、「女性としての生きづらさ」を描いたりもしている。
サンディーは歌手を夢見て、ロンドンに出てきたが、結局、性を切り売りして生きて行くしか無くなって行く。そして、それが自分の歌手としての実力不足からなのか、逆に性の対象として扱うために歌手としての実力をスポイルされているからなのか、分からない。
この過程のヒリヒリした恐怖と失望は現代の女性にも響くだろう。
そして、現代。
名門デザイン学校の生徒になったエリーは流石に性を切り売りせざるを得なくなるようなことはないが、こっちはこっちで現代の女性ならではの苦悩を味わうのであった、、、
コレはコレで現代の女性にとってアクチュアルな悩みなんだろうなぁ、、、
高校卒業して以降、田舎モンだからってハブられることって、男子は無いよね。
イヤ、デザイン学校とかのオサレであることがアイデンティティになってるような場所特有の現象なのかなぁ、、、
エドガー・ライトがどーもB級くせーなぁ、、と思うのは、本作で言えば例えばホラーとして成立していないところだろう。
本作は死臭問題から逃げているのだ。
殺人事件で犯人が一番困るのは死体の処理だ。
死体というものは放っておくと酷い臭いを発するので、コレをどう処理するのか、は常に殺人を隠す必要がある善男善女の悩みのタネである。
しかしこの映画はこの問題を完全にないモノとしてほっかむりしている。
コレは無理でしょ。
もう、終盤はコレが気になってどーでも良くなってきた。
大家のおばさんが漏らすヒトコトで全てをひっくり返せると思ったのだろうが。
コレは確かに東京でもニューヨークでも成立しない、世界中でロンドンのみで成立する名言ではあるが。
それでは今回はこの名言とともにお別れしたいと思います。
「ここはロンドンよ。どの部屋でもヒトは死んでるわ」
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冒頭から衝撃的。
終戦直後、復員してきた渡瀬恒彦は廃ビルの中で黒人相手のパンパンに堕ちていた妻と再会する。
渡瀬恒彦と復員兵と廃ビルとパンパンとくればもう、「肉体の門」だが、渡瀬恒彦が復員兵役の五社英雄版「肉体の門」はなんとこの15年後。
もう、五社英雄が本作を観てキャスティングしたことは間違いない。
そしてこの後の展開は、田村泰次郎も裸足で逃げ出す驚愕の陰惨さ。
黒人相手のパンパンに堕していた妻が産んだ黒人兵との赤ん坊を発見したあと、渡瀬恒彦が取る行動は、今の目から見るととても信じられない。ああ、映画でこんなことが可能だった時代があったのか、と言う感じ。
やがてストーリーは型通りの、特攻の生き残りや博徒が徒党を組んでヤクザ組織として成り上がっていく、新興ヤクザのサクセスストーリーとして展開していく。
この辺の雰囲気は、手持ちカメラのドキュメンタリー感も合わせて「仁義なき戦い」そのもの。
ココで本作の制作された時期が再び問題になってくる。
本作の公開は1974年7月4日。
そして「仁義なき戦い」第一作の公開が1973年1月13日。第二作「広島死闘篇」の公開が1973年4月28日なのだ。
東映京都が大ヒットさせた「仁義なき」みたいなのを東映東京でも、と言う企画だったに違いない。
それにしてもこの頃の日本映画界のスピード感には感心させられる(そもそも「広島死闘篇」からして3ヶ月後だしね)。
しかし、序盤こそ「仁義なき戦い」のエピゴーネンと思わせておいて、後半どんどん、オリジナリティを発揮し、ほとんど幻想的なまでに本能と欲望に狂った男たちの狂乱が繰り広げられる。
葉山良二を中心として安藤昇、梅宮辰夫、室田日出男、そして狂気のヒットマンとしての渡瀬恒彦は、チンピラとの小競り合いを通じて仲間意識を持ちはじめ「銀座警察」を名乗り始める。
名乗り始めた当初こそ、銀座を仕切っていた待田京介の一家を潰したりして気勢が上がったが、あっという間に内部分裂し始める。一旦内部分裂を始めると、もう、あとは仲間内で殺し合うだけである。この殺し合いの陰惨さにまた恐れ入る。
クールな経済ヤクザとしてのし上がった安藤昇は、舎弟の結婚式の最中に渡瀬恒彦に銃撃されるが、このとき、安藤昇の手のひらが半分吹き飛ぶ描写は、「タクシードライバー」で売春宿のオッサンの手が半分吹き飛ぶシーンの元ネタであることは間違いないだろう。ちなみに「タクシードライバー」は1976年。3年後である。3年で海を超えて影響を与えていることにも驚くが、マーチン・スコセッシのアンテナにも驚く。
分裂と内部抗争を繰り返した挙げ句、自分たちの最後を覚悟した生き残りたちは、料亭に芸者を呼んで最後の宴会を始めるのだが、ワタクシ空中さんは「狂乱の宴」と言う日本語をこれほどあからさまに表現した映像を他に知らない。
大勢の芸者を裸にして飲めや歌えや抱きつけや、男も女もゲラゲラ笑いながら狂乱する様は、色調を変えているせいもあって、終戦以来禁欲してるヒトの見る夢のよう。
暴力でもエロでも全く妥協というものがない。
人間、際の際まで追い詰められれば、結局暴力とエロだろ、と言っているようだ。
監督は佐藤純彌。
佐藤純彌といえばワタクシ空中さんの世代は「新幹線大爆破」を始め、「君よ憤怒の河を渉れ」「野性の証明」「未完の対局」「敦煌」など、大作映画の企画のときに呼ばれる職人監督ながら、ときに日本映画離れした「いい絵」を取るヒト、というイメージだった( 全然関係ないけど、「カイジ」を観たとき、鉄骨渡りのシーンで「なんか佐藤純彌みたいないい絵作りだな、、、」と思っていたら息子の佐藤東弥監督作品だったのもいい思い出です、、、)。
しかしこの作品を含む「新幹線大爆破」以前のあまり大作ではない作品のラインナップを見ると、実は単なる職人監督ではなく、いざとなると自分の怒りを打ち出して来るヒトだったのかも知れない。
リチャード・フライシャーみたいな。
リチャード・フライシャーもなんかっつーと大ヒットした原作小説の映画化を任されちゃあ映画もヒットさせていたが、一方で「ボストン絞殺魔」など自らの問題意識を横溢させた映画を作っていた。
ちょっと残念だったのは、一つのヤクザ組織の興亡史に終止してしまい、タイトルに堂々と謳った「私設(銀座)警察」の部分があまり描かれなかったところ。
もともとヤクザ組織には治安維持の一端を担って来た、と言う歴史と誇りがあり(「仁義なき戦い」にも競輪場の警備を警察署長に頼まれるくだりがあった)。
「実録」を謳っていて、どうもモデルになった組織が実在したらしいので、警察ぶっていきがっているシーンが10分くらいあれば、映画全体の印象にかなり深みが出たのではないか。
警察と言ってもせいぜい銀座で働くおねーちゃんたちのトラブルシューターか恐喝屋みたいなものだと思うが、辰ニイや安藤昇が警察ぶってイキっているバカバカしさはぜひ観てみたかった。
安藤昇は佐藤純彌監督がこの映画の前に撮った2本でも主演しており、この頃は佐藤組だったと言ってもいいだろう。安藤昇を演技が上手いと思ったことはないが、冷徹な存在感は流石というべきか。
梅宮辰夫の「仁義なき戦い」のストイックなキャラとは打って変わった享楽的なヤクザがリアリティ抜群。本来こっちが得意なんだよな。
一味のリーダー格の葉山良二。葉山良二は日活のイメージが強かったのでちょっと意外なキャスティング。厳密に言うと映画の序盤で駆逐される一家の親分役の待田京介も日活のイメージだが。
この頃からいわゆる五社協定が崩れてきたのかもしれない。
そして渡瀬恒彦。
自らの妻殺害以来、シャブ中でほぼ廃人状態になり、一味の仲間と言うより子飼いのヒットマンとしてヒトを殺しまくる(「ヒット」と「ヒト」が被ってややこしいが)渡瀬恒彦の狂気は映画全体を貫くスパイスとして効きまくっている。
後年穏やかな中年男性の役が多くなった渡瀬恒彦だが、この頃、これだけの狂気と絶望を表現出来るのは渡瀬恒彦だけだったのだろう。
全体的に女性の存在感が低いのも佐藤純彌の個性かもしれない。
大好きな渡辺やよいが魅力的に撮られてないのが気に入らなくてそう思うのかもしれないが。
結局、観終わって強烈に思うのは、
こんなムチャクチャな映画が撮れた時代が羨ましいなぁ、、、
だったりする。
多分、今後映画(テレビはもちろんのこと)はコンプライアンスのせいでどんどんつまらなくなるだろう。
「そんな状況の中でも作り手の工夫次第でいくらでも面白く出来るはず」
などというのは欺瞞にすぎない。
弾圧というものは、すればするほどいずれタガが外れたときの反動が大きいものである。
それまで生きてるかな、、、
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脚本という観点から見ると、前作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」よりだいぶマシ。キャラ設定もストーリーラインも前作ほどムチャクチャなことにはなっていない(なってるところもあるけど)。
しかし、その分前作にあったドラッグムービーのような浮遊感は無くなったかもしれない。
まあ、「はぁ?ナニ言ってんのこのシトたち、、、、」というムチャな設定もあるのでご安心ください。
一方で明らかになってきたこともある。
「キングコング:髑髏島の巨神」「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」と、この「モンスターヴァース」シリーズを観てきて(厳密に言うとこの前にもう一つ「GODZILLA」があるのだが、全然覚えてない)、監督も脚本も全部違うのに、ひとつ強烈な共通点があるのに気づく。
それは
「出し惜しみしないこと」
コレだ。
このシリーズの「出し惜しみしない」感はスゴい。
「どぅーせオマエらの観たいものはコレやんな?」とばかりに次から次へと「どぅーせオマエらの観たいもの」を繰り出して来やがる。
もう、「完全にエヴァのパクリやん、、、」というゴジラ対コングによる船上の対決があるのだが、例の船から船へと飛び移りながら闘うバトルが、もう、コレでもかとばかりに続く。しかも単調にならず、アクションのアイデアも豊富で飽きさせない。
前半最大の見せ場であるこのシーンで、「ああ、この映画はこの設定で見たいと思ったものが全部観れる(ら抜き言葉)映画なのね、、、」と思い知らされる。
ストーリーは前作(「キング・オブ・モンスターズ」)に続き登場のミリー・ボビー・ブラウンちゃん(要するに「ストレンジャー・シングス」のエル)が
「地球の守護者だったはずのゴジラがなぜ再び暴れだしたのか」
を同級生のデブや陰謀論者の黒人と探るハナシと、コングが髑髏島から連れてきた原住民の少女(唯一コングとコミュニケーションが取れる)と地下世界(そこがコングの故郷だと主張する一派がいるのね)へ旅するハナシが並行して描かれる。
脚本家としては、ココで
「個人の執念とと世界の驚異を対比させてやったぜ、フフフ」
とか思っているのだろう。
まあ、この地球空洞説と空洞内の描写はもう、真面目に観ていると気が狂いかねないレベルのムチャクチャさ。
百歩譲って空洞内では重力が逆転するのは判らないでもないが(スルーしてあげられるレベルではあるが)、あの、空洞内の空中で岩が浮く描写はなんなの?あそこで自分の足側にある質量と頭上にある質量が釣り合うの?
どうも重力がナニを契機に発生するのか知らないヒトが考えている気がする。
ちょっと子供に観せるのはマズイのではないか。
この地底世界のシーンは全体的に、あの、前作で感じたドラッグムービーのようなヤヴァさに溢れている。
「2020年代にもなってこんなムチャクチャが許されるハズはない、オレは一体ナニを観せられるてるんだ、、、コレは映画を観てるんじゃなくて夢を見てるんじゃなかろうか、、、」
的なトリップ感が味わえます。
そして最後にまたたっぷりと怪獣プロレス。
口からなんか吐く、という飛び道具があって圧倒的に有利なゴジラに対して、コング側にもちゃんと対抗策を用意して対決を盛り上げる周到さ。
怪獣コンプライアンスにも配慮した造りになっている。
東宝の怪獣映画も「ゴジラ」「モスラ」「ラドン」あたりまでは大人の向けの一種の恐怖映画であり、秘境探検モノだったりもしたが、徐々に「三大ナンチャラ大決戦」だの「○○対△△」だのばっかりになるにつれ、どんどん子供向け化が加速していった。なにしろ最終的にはゴジラが「シェー」をするところまで行ったのだから、子供を映画館に来させるためにいかに必死だったかわかる(「シェー」が分からないヒトはお父さん(お爺ちゃん?)に聞いてね?今で言えばゴジラが「そんなの関係ねぇ!」をやるようなものだろうか。それも古いな、、、)。
そして、子供向け路線を続けた日本の怪獣映画は徐々に衰退していく。
「ガメラ」という最初から子供向けであることを運命づけられた世界観も存在したが、これについてはいずれ語りたい。
そして本作を含む「モンスターバース・シリーズ」は前前作の「キングコング:髑髏島の巨神」の時点で既に怪獣プロレスに堕しており、もう、現時点で怪獣プロレスをやり続けるしかなくなっている。
だけどさ、怪獣プロレスってそんなにモたないよね。
怪獣というなんでもアリの生き物なので、無限のパターンがありそうで、実はない。
なにしろもともと着グルミだ。
可動域が少ないっちゃない。
人間同士のプロレスのようなダイナミックかつ複雑怪奇な動きはもとから無理なのだ。
宇宙人だったらなんか知らんけど超科学的な武器かなんかよく判らんもので闘うだろう。
あるいは人間同士のプロレスのような複雑怪奇な動きが可能な巨大生物が出てきても、我々はそれを「怪獣」とは認められないだろう。怪「獣」と言う以上ケモノであって、そんなに複雑をされたらそれは「前足」ではなくて「手」になってしまい、人間感が出てしまう。
そして、実はこれらの条件をクリアを出来るのが類人猿であるキング・コングであり、キング・コングこそ唯一怪獣プロレスを成立せしむる怪獣なのだが、いかんせん相手はケモノである。
ケモノ相手にどれだけ頑張ってもパターンはそんなにない。
「モンスターヴァース」シリーズが今後もコング頼みのプロレス路線に頼るつもりなら、多分、次くらいでもう、飽き飽きなものしか作れないだろう。
果たして怪獣映画はもう一度恐怖と科学文明への批判を取り戻せるのだろうか。
なんとなく、アメリカ映画界でも日本映画界でも無理な気がする。
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まあ、スゴく楽しい映画ですね。
全編ラテン・ミュージックとダンスで綴られるワシントンハイツの日常。
ツラいことも悲しいこともあるけれど、オレたち元気です!!
ラテン系住人が多く住むワシントンハイツで、すでに亡くなったドミニカ人の両親から受け継いだコンビニを営む青年、ウスナビ。
まあ、彼を取り巻くヒトビトが、なんとなく、それなりに、ドラマを抱えているわけです。
コンビニを手伝ってくれている従兄弟の高校生、近所のタクシー会社で働く、ウスナビの親友の黒人青年、そのタクシー会社の社長、そしてその社長の娘は優等生でスタンフォード大学に通う地元の星だったのだが、何故か最近里がえりしている、、、
そして、ウスナビは近所の美容院で働くネイルアーティストのバネッサを狙っているのだが、、、
というようなコトをですね、楽しくてノリの良いラテン・ミュージックを歌って踊りながらお伝えしてるわけです。
まあ、楽しいよね。
みんな、ラテンのリズムにノッて歌って踊ってます。それだけで楽しいっちゃ楽しい。
ラテンのリズムってそういうものでしょ。
しかし、コレって、ワタクシ空中さんの考える「ミュージカルの楽しさ」とはちょっと気もする。
例えば、群舞のシーンはあるのだが、踊りは揃っていない。ラインダンスではないのだ。
ワタクシ空中さんは ミュージカルで大勢が一斉に踊るとなれば、ある程度揃って同じダンスを、あるいは少なくともひとつの効果を生むために全員が演出がされて踊る、というイメージがあった。
例えばソロ、あるいは少人数で踊るシーンも、何らかの「振り付け」を感じさせるダンスを踊るものだと思っていた。「ラ・ラ・ランド」でライアン・ゴズリングが両手広げてジャンプしながらクルクル回ってた、みたいな。「オール・ザット・ジャズ」(古っ)のベン・ヴェリーンが顔の前と体の後ろで左右の手を入れ替える(どこだか分かります?)、みたいな(まあ、ボブ・フォッシー、ベン・ヴェリーンのコンビと比べたら可哀相だけど)。
なんかミュージカルを観ていると言うよりはラテン系のクラブ(今、ディスコと書きかけて、ディスコはオッサン臭いかな、と思ってクラブにしました。まあ、クラブとディスコの違いもよく分かってませんが)を覗いているみたい。
おそらく、元になった舞台がそういうものなのだろう。かっちりとしたダンスを見せるというよりは、クラブのノリの楽しさを表現する、みたいな。場合によっては客席も踊りだすの推奨、みたいな。
一応監督はなんとか舞台ではなく、映画っぽくなるように工夫はしている。
アパートのバルコニーで踊っていた恋人同士が、いつの間にか壁に立って踊っているシーンは、多分今後いろいろなところで「ミュージカルの印象的なシーン」として紹介されるだろう。そしてその度にパネラーの誰かが「テレビ版のバットマンかッ!!」とツッコむだろう。
さらに冒頭から何度も繰り返される「主人公が海辺で子どもたちにコレまでを語るシーン」も、単なるミスリードにすぎず、「はぁ?」というようなものである。このカントク、コレで「どう?驚いたでしょ?」とドヤ顔してるんだろうか。
どうも、ミュージカルの伝統のなかに自分の1ページを刻むとか、あるいは逆に斬新な演出でミュージカルの伝統をぶっ壊してやる!とかいう覚悟が感じられず、「大評判の舞台をを恥ずかしくない程度に映像化してみました」という感じがしないでもない。
ジョン・M・チュウ監督は前作「クレイジー・リッチ」に続いて人種問題がテーマなので、人種問題を扱わせるとアクチュアルな演出ができる、という評価なのかもしれない。
そう、この映画は人種問題という真摯なテーマを扱っている。
さらにもうひとつ。
分断も本作の重要なテーマだ。
そもそもワシントンハイツを舞台にしているのは、ここがアメリカの分断の象徴だからだ。
1950年代からドミニカを中心としたラティーノたちが肩を寄せ合って生きてきた(犯罪も多いけど)ワシントンハイツではあったが、もう何十年も金融屋やITが引っ越してきて地価が上がり、もとからの住民が住めなくなる、という「ジェントリフィケーション」にさらされているのだ。
そのため、この映画の登場人物(全員貧しい)たちも、望むと望まざるとに関わらず、住み慣れたこの街から出ていくことを検討している。
人種差別と貧富の差という、今のアメリカが抱える大きな分断の象徴として、ワシントンハイツは存在している。
しかしワタクシ空中さんはここにも疑問を感じてしまった。
主人公のコンビニ店主ウスナビもここから出ていくコトを夢見ているが、なんと、彼の望む引越し先は、故郷のドミニカなのである。
ワタクシ空中さんは最後までここに引っかかってしまった。
そもそも彼の両親はドミニカから逃げ出すようにして、無一文でアメリカに渡ってきたのではないか。
それにはそれだけの理由があった筈である。
なぜ彼はそこを不問にして呑気にドミニカを夢見ているのか、理解できない。
ウスナビの恋人はファッションデザイナーになりたくてアップタウンに引っ越そうとしている。
その恋人が今勤めている美容サロンのオーナーは家賃の高騰から逃げるためにブロンクスに店ごと引っ越そうとしている。
成績優秀な高校生の従兄弟はアメリカの大学に進学することを夢見ている。
そんな中、ウスナビだけは両親が逃げ出した故郷、ドミニカに帰ろうとしている。
なぜ、ウスナビは両親の決死の決断と努力を無化するのか。
なぜ、ウスナビはそんなにドミニカがいいと思っているのか。
ここがサッパリ分からず、もう、観ていてどうしていいかわからない。
両親の判断を無化するのもいい。故郷に帰りたがるのもいい。
しかし、キミが今ここにいるのはそれだけの理由があってここにいるのだから、その理由を無視する理由を説明してくれよ、と思う。
こっちはドミニカがどんなに素晴らしいところか知らないよ。
ここが納得いかないので、どうも感情移入できないまま、映画が進んでしまう。
やはりラテン系のヒトが観てなんぼ、という事なのかも知れない。
彼らにはウスナビの感情が分かるのかもしれない。
全体として、ラテン系のパーティーを覗き込んでいるような楽しさはあるが、映画としてはどうかなぁ、という感じ。
ミュージカルとしても、圧倒的な群舞も記憶に残るソロダンスもないし、そもそも後々印象に残るような曲もない。
あくまで、ラテンのノリのパーティーですよ舞台で生でコレを演ってるんですよ、ということであり、そこを乗り越えることはできなかった。
ところで、やはりもうちょっとドラマが必要だと思ったのか、中盤にある事件を用意している。そしてその出来事までの残り時間を
「○○まであと○○日」
とテロップで出すのである。
ある世代は「宇宙戦艦ヤマトか!」とツッコミ、またある世代は「北条時宗か!」と突っ込んだだろうが、アレ、舞台ではどうしてたんだろうねぇ、、、
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以前、「ディア・ドクター」を鑑賞した際、その演出力でワタクシ空中さんを戦慄させた西川美和監督作。
しかしながらどうもその後、題材の取り方において西川監督の興味とワタクシ空中さんの興味が一致せず、正直あまり熱心な観客ではなかった。
が、西川監督、久々にワタクシ空中さんの守備範囲に引っかかってくる題材で撮ってくれたので、満を持して鑑賞させていただきました。
果たして、あの、香川照之の「いまのは愛ですか?」を超える演出が観られるのでしょうか、、、
映画は、殺人による13年の刑期を終えた元ヤクザ三上(役所広司)が出所するシーンから始まる。
この、まだ刑務所の中のシーンだけでも、三上の人となりがわかる脚本はさすが。
三上はカッとなって人を殺したことを後悔し、今度こそカタギになろうと硬い決心をしているが、実は自分が殺人罪を食らったことに納得はしていない。あくまで喧嘩の原因は向こうにあり、せいぜい過失致死だと思っている。そしてそのことについて出所当日に看守長と口喧嘩したりする。
決して模範囚ではなかったが、意外と看守に悪く思われていない。
それが三上である。
ただ、高血圧を抱えている。
出所後、三上は身元引受人になってくれた弁護士(橋爪功)の協力も有ってカタギとして生きる道を模索するが、実は彼にはもう一つ目論見があった。
三上は孤児院育ちなのだが、幼い頃に彼を孤児院に預け、いつの日か迎えに来ると約束した母親と再会するのが夢なのだ。
そのために三上はテレビ局に手紙を書き、自分の母親の捜索、再会をテレビ番組にしないか、と持ちかける。
そういえばムカシそういう番組ってあったよねぇ、、、今でもあるけどオレが知らないだけなのかなぁ、、、
このハナシにノッてみる気になった敏腕プロデューサー(長澤まさみ)だったが、かと言ってあまり金もかけられず、「作家になります」と言ってテレビの仕事から離れていた元ディレクター(仲野太賀)を引き込み、番組の制作に乗り出す。
かくして三上はカタギになる道と母親の両方を模索しながらもがくのだが、、、
三上はカタギになる!と固く決意はしているのだが、「モノゴトを暴力で解決しようとする性質」は変わっておらず、周囲との軋轢を起こし続ける。
アパート内で大騒ぎして近所迷惑な奴、イタイケなおじさんをカツアゲする奴、など、確かに悪い奴相手なのだが、結局問題解決方法と言えば暴力である。そして、ヒトビトの無慈悲や無関心にいちいち腹を立ててしまい、また暴力に走るのでは、、、と見ているものをヒヤヒヤさせる。
やがて、密着取材中にも暴力に走る三上を見て、ディレクター君はビビりあげた挙げ句カメラを捨てて逃げ出してしまい、プロデューサー女史に
「カメラを捨てるんなら止めに入れ!止めに入らないんなら撮り続けろ!」
と当然のお叱りを受け、一旦この件にかかわることを諦めてしまう。
三上にはまだヤクザの狂気が残っているのだ。そしてそれを本人はカタギとしてマズイことだと思っていない。
実を言うとワタクシ空中さんはこの辺である違和感に悩まされ始める。
西川監督はムカシから役所広司に憧れていて、いつか一緒に仕事がしたい、と思っていたそうだ。そして本作での役所広司の演技も絶賛している。
まあ、分からないでもない。
役所広司だったらどんな役でもそれなりに成立させてしまうだろう。
事実、この、狂気とカタギのあいだをフラフラと漂っている人物を見事に演じてはいる。
しかし、役所広司が演じている以上、それはどこまで行ってもカタギの側から狂気の側へのアプローチに見えてしまう。
三上が狂気を噴出させるシーンで、なんだか一生懸命狂気を演じているのが見えてしまうのだ。
ここは、この映画の構造から言っても「狂気の側からカタギへのアプローチが」が出来る役者にするべきだったのではないかな、という気がする。この映画は、あくまでも「殺人犯のヤクザがカタギを目指す」ハナシだったはずなのだから。
例えば、役所広司と同い年の國村隼とか。
ああ、國村隼。
國村隼だったら三上が狂気を噴出させるシーンはホントに怖いシーンになるだろう。
もしかすると、西川美和監督では國村隼を「もしかするとカタギになれるかもしれない人物」としては描けないのかもしれない(役所広司は最初からカタギにしか見えない)。
國村隼の狂気をコントロール出来ないのかもしれない。
しかし、もし國村隼で同じストーリーを撮ることに成功したら、この映画はそれこそ世界に通用する「ヤバい」名画になったような気がする。
ただし、その場合、ディレクター役はもう少し華があって「強い」役者に変更する必要があるだろう。
山田孝之って言いたいけど、それだと『凶悪』とイメージがダブっちゃうかな、、、強すぎて三上にビビるシーンのリアリティが無くなるかも知れない。
となると池松壮亮とかかな、、、三上にビビって逃げ出すシーンもリアリティ出せそうだし。
そうなるとプロデューサー役も長澤まさみちゃんじゃバランス悪くなるから(イヤ、この映画の長澤まさみちゃんはすごくイイのよ。仲野太賀の上司役としては)、松雪泰子とかかな、、、
こう書くとこのキャストで観てみたくならない?
ならない。
ならないのね。
ア、そう、、、
で、ですね。
ワタクシ空中さんは本作を鑑賞するにあたり、西川監督の演出力を楽しみにしていたわけですが、、、
ありましたね。
もう、戦慄した。
三上が洗濯物を取り込むシーン。
コレは映画史上に残る名カットではないか。
まあ、名場面集とかでは使いにくいけど。
嵐の中、洗濯物がはためいているだけのカットで映画史上に残る戦慄を描き出した西川監督の剛腕は、やはり今の日本映画界の至宝だろう。
惜しむらくは、西川監督自身おそらくそこあんまり押して無いんだよな、、、
西川監督自身が全編この攻めのカメラワークを意識して、もっと攻めのキャスティングで映画作ってくれたら、、、と夢想するワタクシ空中さんであった、、、
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]]> そんなわけで、「ミッドサマー」のアリ・アスター監督のデビュー作。
観る順番が逆になってしまったが、なんだか答え合わせみたいな楽しみ方が出来た。
この2本、要は同じハナシなのだ。
つまり、
「妹に死なれたオトコ(オンナ)がラストで王(女王)になるハナシ」
コレである。
そして、どちらもホラーと銘打っていて、たしかに怖くもあるのだが、実はホラーではない。
いや、怖さで言ったらこちらの方が怖かったかも知れない。
正直、観ているあいだ怖さで震えた。
しかし、それも「いわゆるホラー」としての怖さではないのだが、、、
今回も(今回から既にして)オープニングのカットが凝っていて、のっけから
「凡百のホラーとは違いますよ」
と宣言している。ナマイキだなぁ、、、
暗い部屋の中をカメラが移動していくと、巨大なテーブルや棚に、「家のミニチュア」が置いてある。シルバニアファミリーの家みたいな、断面から中が覗けるアレである。
やがてカメラはあるミニチュアに寄って行き、二階の部屋の中を映し出すと、いつの間にかそっくりな現実の部屋になっており、どこからともなく「起きなさーい!」という女性の声が聞こえると、部屋の中のベッドに寝ていた少年がイヤイヤ目を覚ます、という趣向。
コレはあとから考えると、「ああ、こういうことを象徴してるのかな、、、」と思う。
新人のくせに出だしからなんか象徴すんじゃねーよ、という感じもする。
少年は、祖母の葬式に向かうために起こされた。
この映画は、とある老婆の葬式から始まる。
老婆の娘である少年の母親の弔辞により、祖母が極端に変わり者であったこと、しかもなんらかの宗教っぽい組織に属していたが、それを家族には語りたがらなかったこと、などが分かる。
「ミッドサマー」が最初から最後までオカルトでもサイコホラーでもなかったのに比して、いかにもオカルト・ホラーが始まるぞ、という雰囲気。
そうです。
本作は堂々のオカルト・ホラーです。
そして怖いです。
怖いんですが、ココで全く意外なことに、オカルト・ホラーとしての怖さではなかったりもします。
祖母が亡くなったあと、父母、高校生の息子中学生の娘の4人家族には、徐々に不思議なことが起こり始めるが、、、
正直、「不思議なこと」はことはこの時点では大したことはない。
それよりも、「ミッドサマー」が実は恋人同士の葛藤のハナシであったように、本作は家族の葛藤のハナシになって行く。
そもそも「ミッドサマー」のヒロインは双極性障害を患っていて、本人もパニック障害に苦しんでいたが、本作の母親の境遇はもっとシビア。母の母は解離性同一性障害で父は統合失調症をこじらせて餓死、兄は被害妄想のあげく自殺、本人も夢遊病、という有様。
ハッキリ言ってこの時点でオカルトより怖くね?
本人は自覚的ではないのだが、主に母親の不安定さによって家族は徐々に崩壊していく。母親は必死で家族をまとめようとするのだが、徐々に明らかになる祖母の謎、自身の夢遊病などでイライラをつのらせて行く。
この過程が怖い。
そう、この映画で怖いのは家族が崩壊していく過程なのである。
特に、妹が死んだ後のお兄ちゃんの反応には驚愕した。
こんな反応ってある?
これは映画史上初と言ってもいいのではないか。
これまでの映画の文法からは絶対に出て来ない発想だと思う。
ワタクシ空中さんはこのお兄ちゃんの反応の後、あまりの恐怖に目を逸らしそうになるのを、歯を食いしばって耐えていたような記憶がある(何故「お兄ちゃんの反応」などというものが恐怖を呼ぶのかは、本編を見ていただくしか無い)。
そして、ラスト近くなってハナシが急にオカルトに寄ってきたとき、全く意外なことに、ワタクシ空中さんはちょっとホッとしてしまった。
こんなことってある?
フツーは「オカルト」が怖い要素であるはずなのに、オカルトになることによってホッとしてしまう。
「ああ、コレってオカルト映画だった、、、オレはいまオカルト映画を観ているんだった、、、オカルトなら知ってるわ。なんとか対処できるわ、、、」
それだけ、本作の恐怖はオカルティックな恐怖ではないのだ。
このあと急速にオカルトになっていくが、正直、ハナシを終わらせるために「パラノーマル・アクティビティ」フォーマットを持ち出してきたな、という感じ。
なにしろタイトルからして「ヘレディタリー 〜継承〜」だ。
「パラノーマル・アクティビティ」も3だか4だか回を重ねるごとにナニかを「継承」するハナシになっていったではないか。
この圧倒的な既視感も、「オカルトであることによって安心してしまう」効果を生んでいるかも知れない。
母親役はトニ・コレット。
「シックス・センス」や「ヒッチコック」に出ていた、というが、ゴメンナサイ全然覚えてません。
しかし、コレは堂々たる「不安定な母親ぶり」。
かれこれ30年近くコンスタントに映画に出ているベテラン女優さんが、海のものとも山のものとも知れない新人監督のこんな無茶な映画に出て、こんなエキセントリックな演技をしてくれるアメリカ映画界を羨むべきなのか、それともそれだけ傑出した脚本なのか、判断に迷うところ。
家族の中で唯一まともな父親役が「エンド・オブ・デイズ」のガブリエル・バーンなので、どうせ最後は悪いことするんだろうと思っていたが、、、
ガブリエル・バーンくらいになると、「この脚本はモノになる」と判断したんだろうな、という気がする。
最初にも書いたが、本作と「ミッドサマー」はほぼほぼ同じハナシである。
しかし、「ミッドサマー」には本作のようなラストの「取ってつけた」感がないだけ、成長した、ということなのだろう。
まさか、三作目はもっと怖い、とでも言うのだろうか、、、
ってほん呪じゃねーし。
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はぁ〜〜〜、才能のある映画監督との出会いとはこういうものか、と思った次第でございます。
通常我々は一本の映画を観るとき、全く予備知識無しで観るということはほぼないだろう。少なくともジャンルくらいは判っているのではないか。
そうじゃないと「レンアイ映画」だの「ひゅーまんどらま」だのを観てしまう危険があるではないか(ハナシ変わるけどヒューマン・ドラマってナニ?。ドッグ・ドラマとかエレファント・ドラマとかけっこう有って、それらと区別するためなら判るけどそうじゃないでしょ。映画とかドラマの登場人物ってほぼほぼヒューマンじゃねーの?いま登場「人」物って言っちゃったけど)。
本作についてもワタクシ空中さんは「ホラーである」ということは判っていた。
さらに言えばスウェーデンの田舎が舞台である事もわかっていた。
「ああ、アメリカ人がヨーロッパの田舎でわけのわからない宗教儀式に巻き込まれてシどい目に会うハナシね、、、」
ってなもんである。
なんとなく、「ホステル」がアタマに浮かぶ。
アメリカ人の田舎恐怖という観点からみると、「脱出(ジョン・ブアマンの奴ね)」とか「ウィッカーマン」とか頭に浮かんでさえいる。ピーター・フォンダの「悪魔の追跡」とかね(知らんわーーーーーーーーーーッつ!!)。
しかし、この映画の冒頭は、それらの予備知識から予想されるオープニングを全く裏切る。
映画開巻のド頭のカットがのタペストリーはまあ、いい だろう。それっぽい。多分、タペストリの内容が映画の展開を象徴しているのだろう。
しかし、次のカットはなにやら寒々とした森の風景。雪にまみれ緑色が全く感じられない針葉樹の、まるで静止画のようなカット。
コレが3枚続いたあと、突然アメリカの住宅街の夜景に電話の呼出音が鳴り響く。
一体全体コイツはナニを延々と書いているのか、とお思いでしょうが、なんか、全然ホラー映画のオープニングっぽくないのね。じゃあどんなんがホラー映画のオープニングっぽいんだよって困るけど。
しかしこの映画はオープニングから「スウェーデンのミッドサマーが舞台のホラー」と言う前情報から、何となく我々がイメージするオープニングと著しくかけ離れている。
監督の、「そこらヘンに転がってる凡百のホラー映画とはちょっと違いますよ」という決意のようなものがビンビンと伝わってくる。
で、夜の住宅地に鳴り響いた電話ですよ。
夜景からやがて一軒の家の鳴り響く受話器のアップになり、その家の中を映し出す。
寝室で寝ている老夫婦。
呼び出し音以外全く動きのない家の中。
コレはコレでそれなりにホラーっぽいオープニングではあるのだが、我々の脳裏にはある違和感が浮かんでいる。我々はこの映画が夏のスウェーデンを舞台にしている、という予備知識を得ているからだ。
こっからどうやって舞台を夏のスウェーデンに移すんだろう、、、
電話をかけていたのは心理学を学ぶ女子大生、ダニであった。
ダニの妹は双極性障害を患っており、ダニに不穏なメールを送ったあと携帯に連絡がつかなくなっていたのだ。
妹の携帯も実家の固定電話も連絡がつかなくなったダニは不安になり恋人のクリスチャンに電話をする。
この、クリスチャンとの電話で、二人の関係性、さらにはクリスチャンの友人たちとの関係性まで判ってしまう。
ダニは自らもパニック障害の傾向があり、精神的に完全にクリスチャンに依存していて、クリスチャンはそれを友人たちからバカにされている。
「そんなメンドいオンナとっとと別れちまえよ!」
というわけだ。
クリスチャンとその一味の四人組は文化人類学の院生で、論文のテーマを探している。
仲間の一人がスウェーデン(出た!)の地図に載ってないような奥地に、キリスト教以前から続くコミューンがあることを突き止め、そこでのフィールドワークを論文にするため、クリスチャンたち仲間に協力のため同行してもらう計画を立てていた。
そして、クリスチャンと何日も離れて暮らせないダニも同行する、と言い出すのだった、、、というハナシ。
ここまで、主人公ダニのキャラクターと置かれた状況、恋人やその仲間との関係性をたっぷりと描いている。
スウェーデンに出発するまで(出発してもある程度の時間)、ホラー要素一切なし。
凡百のホラー映画とは違いますよ、と宣言している。
まだ監督二作目の新人としてコレをやりきる実力と度胸には恐れ入る。やはり才能とはセンスだけじゃない、度胸も必要なのだ。
そして彼らは問題のコミュニティにやってきた。
彼らの他にも単純に観光目的のようなカップルもいたりして、村人は外部からの訪問者を熱烈歓迎。
しかし、訪問者たちは、本番の「ミッドサマー」、夏至祭の前に、前哨戦のような行事を見せられ、激甚なショックを受ける。
キリスト教的な、あるいは近代的な価値観と無関係な世界で育まれ、継続されてきた宗教儀式であり、人間の命というものに対する考え方が、まるで違うのだ。条件さえ揃えば、当たり前のように、淡々と自分の命を捨てる。それは自爆テロのようなものとも違う、「ナニかのため」必要だから、と熱い思いで、いうことではなく、ただ、淡々と、そういうものだから、と死を受け入れていく。
おそらくは観光目的だったカップルはこの出来事にショックを受けて村から出ていこうとするが、クリスチャン達一行、つまり文化人類学の徒はこの出来事に大興奮、クリスチャンは本来有事の研究に協力するだけのつもりだったが、自分もこの村をテーマに論文を書く、と言い出す始末。
つまり、ここでもダニは帰りたい気持ちとクリスチャンと一緒に居たいという気持ちに引き裂かれている。
ホラーと言えば普通夜のシーンが多そうだが、本作はこのあと夜のシーンがない。なにしろ白夜だから。寝るときは窓を板で塞いで暗くするが、隙間から光が漏れている。
夜のシーンが無いホラー映画というのも前代未聞ではあるまいか。
あくまでも明るい陽光の下、住民たちも明るく、やさしい中、徐々にダニたちは住民のペースに巻き込まれていく。
本作はホラーではあるが、オカルトではない。サイコホラーでもない。
住民たちは、あるいはダニたちを襲う者たちは、この世ならざる存在でも、殺しに酔う狂人でもない。ましてや犯罪者集団でもない(少なくとも自覚的には)。
彼らはある意味善良で正常な人間である。
ただ、現代では通用しない価値観に従っているだけだ。
彼らの宗教がドルイド教だとすれば、かれこれ4000年近くアタリマエのこととして続けてきた行動様式を守っているだけなのだ。
実はこの陽光の中繰り広げられるホラーが、凡百のホラーより怖いのはココだろう。 全く悪気のない善良なヒトビトによって徐々に追い詰められていく。
一体このシト達はナニを考えているのだろう、、、
とっても明るくて優しいシトたちなのに、、、
そしてラストのたったワンカットで、前半さんざん振って来た伏線を回収することによって、ホラーですらなくしてしまう。
ああ、コレがやりたかったのか、、、
結局、ホラーというフォーマットを利用して、オトメ心を描いているのだ。
監督二作目にしてなかなかのやりたい放題ぶりではないか。
あえて文句を言うと後半に「サラッと出したつもり」のドルイド教周辺のアレコレが、「サラッと出したつもり」なだけに、ウザい。
「あ、コレ、キミたちが観ても意味分かんないだろうけど、ちゃんと裏付けあるから。
興味あったら調べてみれば?」
という感じ。
うるへー!(←調べた奴)
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冒頭、チンピラ共がクルマの中でなにやらハナシているシーンの広島弁が嘘くさくてちょっとウンザリしました。
「仁義なき戦い」にこんなわざとらしい広島弁は一言も無かっただろう。
しかし、この直後、主役の松坂桃李クンが腹を刺される衝撃の展開から、鈴木亮平演じる狂気のモンスターヤクザが出所してきて以降、この映画にはずっとヒリヒリした緊張感が続く。
イマドキの日本映画でこんなに緊張感が続くなどということはめったに無いのではないか。
前作のラストで大上刑事(役所広司)の跡を継いで対立するヤクザ組織、五十子組と尾谷組のまとめ役になり、抗争を3年に渡り抑え込んでいた松坂桃李クン。
しかし、3年前の両組による手打ちの際に服役中で、手打ちの内容に全く納得していない奴がいた。
まあ、そもそも五十子組の組長死亡に対して尾谷組組長は逮捕って、ある程度不公平感のある手打ちではあったのだが。
そして、この3年前に服役中だった五十子組幹部上林(鈴木亮平)は想像を絶する武闘派だった。
彼が刑期を終えて娑婆に出てくる事によって、この3年松坂桃李クンが守っていた五十子組と尾谷組のバランスはあっという間に崩れ去り、呉の街は混沌の巷へと堕ちていくのであった、、、
というハナシ。
今、「想像を絶する武闘派」と書きましたけどね、コレは難しいよ。イマドキ一体全体どんなことをすれば「想像を絶する」などという形容がふさわしい武闘派ぶりがありうるのか。
しかしやってくれましたね。
出所したその足で立ち寄った先からもう、鈴木亮平の狂気に圧倒されっぱなし。
そう言っちゃなんだが、主に暴力的な映画中心に鑑賞に及んできたワタクシ空中さんの想像を絶する暴力的なキャラクターに、日本映画で出会えるとは思っていなかった。
もう、このヒト、やることなすことこちらの予想を上回ってくる。映画が後半に進むにつれて、ほとんど恐怖すら覚える。
冒頭に書いた「ヒリヒリした緊張感」は、9割がたこの鈴木亮平のもたらす恐怖によるものだ。
一般市民、敵対する組の組員はおろか、自ら属する組の兄貴分だろうがなんだろうが、オトコだろうがオンナだろうが、ちょっとでも気に入らなければ、あるいは自分の邪魔をするならば、容赦なく殺す。しかもヒドい殺り方で。
日本映画を観てその暴力の激しさにここまでおののいたのは「殺し屋1」以来ではないか。
そう言えば「殺し屋1」でも寺島進がこちらの想像を絶するヒドい目にあっていたっけ、、、
本作でもとってもに悲惨な目に合う寺島進。
師匠たけしの映画でも結構悲惨な死に目に合うことが多かったし、「イカツイ顔してるくせに悲惨な目に会うヒト」のアイコンとして映画界に認識されているのかも知れない。
「エイリアン」「ミッドナイト・エクスプレス」「エレファント・マン」と悲惨な死に方ばかりさせられていた昔のジョン・ハートみたいなもんだ。
イヤ、緊張が持続する邦画がもうひとつあった。山田孝之の「凶悪」だ。同じ白石和彌監督だ。
アレのリリー・フランキーも常にヒリヒリした恐怖を発して、映画全体に緊張をもたやらしていた。
思えば本作と同じようにアウトローをメイン据えた白石和彌監督作品、「凶悪」も「日本で一番悪い奴ら」も実録モノで原作付きであった。
しかし、本作もキャラクター設定こそ原作付きの前作「孤狼の血」に準じているが、ストーリーはオリジナルである。
白石和彌監督、あり物のストーリーに縛られなければ、こんなに面白い映画を作れるではないか。
実録モノの呪縛からも原作付きのさもしさからも解き放たれて、もっと自由にオモシロい映画を作って欲しい(もしかすると脚本の池上純哉が必要なのかも知れないが)。
ただし、途中村上虹郎演じる松坂桃李クンのスパイの行動の理由が良くわからない箇所がある。村上虹郎が裏切ろうとするのは解らないでもないのだが、その後の変節の理由が解らない。その辺の事情が判るシーンがカットされてるのかなぁ、、、
本作の緊張感が持続するもう一つの要因として、鈴木亮平という役者の得意な肉体の存在感と、今時珍しい覚悟の決め方にあるのは間違いないだろう。
「変態仮面」だろうが「西郷どん」だろうが倫理観の全く欠如したヤクザだろうがヘーキで演じきってしまう鈴木亮平は、おそらく今後の日本映画界にとっても最重要パーソンだろう。
その他、不気味な存在感を示す中村梅雀とその妻宮崎美子、もはや白石組の感がある中村獅童など、脇役陣も鈴木亮平の怪演をもり立てるが、やはり西野七瀬が強烈な印象を残す。
在日韓国人のスナックママにして刑事の情婦という難しい役を意外にあっさり演じきってしまったポテンシャルには恐れ入った。
なあちゃんはテレビドラマなどで棒演技を指摘されることが多いが、もともとアイドル時代もほとんど大阪弁で通してしまったヒトで、標準語のセリフではリアリティが出せないのだろう。今回は広島弁だが、やはり多少荒っぽいイメージのある方言のほうが合っているのだろう。もともと不機嫌な顔が似合うキャラクターが相俟って鮮烈なリアリティを生み出している。
結局、唯一の欠点は、
松坂桃李クンが鈴木亮平とタイマン張っていい勝負するようには見えない。
ということだろう。
この辺が原作付きの前作を引き継いでしまった限界なのよ。
松坂桃李クンは、前作の大上刑事(役所広司)の後をついで呉のヤクザをコントロールするべく奮闘する若き刑事、としては充分機能しているが、あの、モンスターと素手で互角にタイマン張るのは無理。
エリート刑事が先輩の死によって覚醒し孤狼になるまで、は出来てて「松坂桃李ってヤるなぁ、、、」と思っていたのだが、、、
それこそ綾野剛だったら可能だったろう。山田孝之でもタッパはないものの演技力でどうにかするかも知れない。
しかし松坂桃李クンには無理でした。
次作ではこういうことも含めて自由になってほしい。
ところで、ですね。
ちょっと気になってることがあるんです。
2つの組織の間に立って双方にいい顔してるフリをしてその実対立を煽り、両方とも潰してしまうヒーロー、というフォーマットはダシール・ハメットの「血の収穫」から黒澤の「用心棒」へと受け継がれた映画史上もっとも有名な遺産である。
北野武の「アウトレイジ」はコレの変形で、「二つの組織の小さな対立を煽ることによって大きな抗争を防いでいる」と豪語していた小日向文世はたけしに魂胆を見透かされてあっさり殺されてしまう。
コレは、双方の組織を潰すためならともかく抗争を防ぐだけでは正義を行っているとは言えない、というたけしなりの思想だろう。
抗争がなくてもヤクザはシノギを止めたわけではなく、一般市民に迷惑をかけ続けているわけで、むしろ抗争で疲弊しない分、力を蓄えているかも知れない。
だからこそ小日向文世は死ななければならないのだ。
どうも「孤狼の血」シリーズにはこの視点が欠けていて、抗争さえなければヤクザは存続してもいいと思っているフシがある。
もちろん、警察が頑張ればヤクザはなくなるのかというと多分なくならない。
世の中にはヤクザ的な生き方しか出来ないヒトというものがいて、そういうヒトの受け皿は必要なのかも知れない。
しかし大きな抗争を防いでいます、というだけでは一般市民の迷惑はちっとも減らないではないか。
松坂桃李クン演じる刑事はこの事に気づかないまま「オレってエラい!」と思ってるような気がする。
コレもある意味前作の残滓と言えるだろう。
ああ、白石和彌監督が自由に作ったメチャクチャな映画が観たひ、、、と思うのであった。
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正直言ってこの映画の設定はメチャクチャです。全然説明がつかないし、筋が通らない。
この映画は後半に向けて脚本・監督のジョーダン・ピールのメッセージが強烈に出てきて、もう、設定の整合性とかよりメッセージを展開するほうが大事になっている。
ふつう、そんな設定の整合性よりメッセージ臭優先の映画はつまらないと相場が決まっているのだが、、、
けっこー面白かったですぅ、、、
なんで面白かというと、主要登場人物たちの具体的な行動の描写がしっかりしてるから。
アデレードは子供の頃、両親と訪れた海辺の遊園地で迷子になり、迷い込んだミラーハウスで自分のドッペルゲンガーに会う、という体験をしていた。この時のショックでしばらく失語症になっていたが、今は克服して結婚し、子供も二人いる立派なお母さんである。
ある日、夫の友人一家と待ち合わせて海辺のリゾートへ行くが、そこはアデレードが迷子になったあの遊園地がある土地であった。
到着当日から周辺で不可解な事件が起こり、アデレードは夫に少女時代の事件を告白し、帰りたい、と頼むが、その夜、家の前に謎の人影が4体。男と女、そして子供二人。アデレードの家族と同じ構成だが、、、
はたして彼らは家に侵入して来るのだが、なんと、彼らは4人ともアデレードの家族にそれぞれそっくりだった。そして、彼らは(ある意味予想どおり)アデレードの家族に成り代わるため、アデレード達を殺そうとするのだった、、、
というハナシ。
殺しに来ているのだから、こっちも殺していかないと殺されちゃう、、、という訳で、ここからは家族対偽家族の殺し合いになります。
一旦撃退して夫の友人一家に助けを求めに行くが、友人一家は不意を突かれて既に全員死んでいた。そして、そこには友人一家にそっくりな襲撃者が、、、
どうもそっくりさんがいるのはアデレードの一家だけではなかったらしい。
コレはおおごとでっせ、、、感がハンパない。
見事だな、と思うのは、誰が、誰を、どうやって倒したか、ちゃんと判るように描いていることだ。さらに、それまでフツーの暮らしをしていた一家が、なんだかわからない殺人者たちをなぜ倒せたのか、納得の行くように描くことに成功している。
コレはスゴイことだよ。
何しろ子供がいるのだ。ただの中学生女子だの小学生男子がどうやって殺人に禁忌をもたない奴らを倒せるのか、あるいは少なくとも逃げおおせるのか。
「ああ、なるほど、コレなら可能かな、、、」
と思える展開にちゃんとなっている。
コレはスゴイことだよ2。
ストーリー上必要な展開を具体的なアクションに落とし込めるって脚本術って意外に貴重なのだ。
最終的に主人公のアデレードとそのソックリさんの二人はソックリさんのアジトに到達し、その中でタイマンを張るハメになる。
この辺の上手く二人だけになる展開も自然で上手。
そしてこのアジトの中での死闘中、ソックリさんは徐々に「自分たちがなぜ、どのようにして存在するのか」を語り始める。
語り始めるが、まあ、細かいことはどうでもいい。全然筋通らないし。無理だし。
要するに彼らはどうも政府が何らかの実験のために作ったクローン人間らしい。
しかし、コレまで生活していた食費、光熱費等どうやって捻出していたのか、最終的にどうするつもりだったのか、一体全体どの程度の規模で行われてた実験なのか、一切不明なママ。
「そのヘンは細かくツッコまないで、、、」
という脚本・監督のジョーダン・ピールの祈りが聞こえてきそう。
この映画は、劇中何度か「ハンズ・アクロス・アメリカ」に関する映像が出てくる。
「ハンズ・アクロス・アメリカ」とは、1986年にアメリカでちょっとだけ話題になったイベント。
Wikipediaによると
「1986年5月25日、15分間にわたり、アメリカ合衆国本土で人々が手をつないで人間の鎖をつくったチャリティー・イベントである。」
となっている。
要するに「ウィ・アー・ザ・ワールド」の流れらしい。
「金を払ってアメリカ東海岸から西海岸まで手を繋いでつなげよう」という、なにが楽しんだかサッパリ分からないこのイベントの趣旨は、結局、「アメリカ合衆国のホームレスと飢えを救済するために、」であった。救いたきゃ黙って金だけ払えばいいと思うが、それじゃ集まらないのが金というものであり、チャリティとはそういうものなのだろう。
この、なんだか良くわからないいかにも偽善的なイベントは、案の定はなはだ盛り上がりに欠ける結果に終わったのだが、この映画に出てくるクローンたちは、なぜかこのイベントの再興を目論んでおり、地下アジトからゾロゾロ出てきては、なんだか知らないけどみんなで手を繋いでいくのであった。
脚本・監督のジョーダン・ピールは、「ハンズ・アクロス・アメリカ」の失敗が腹立たしかったのだろう。
「なんだ。結局無視されたヒトビトは無視されたママじゃねーか」
これはつまり、無視されたヒトビトによる復讐劇なのだ。
自らも黒人であるジョーダン・ピールは「いつか、オマエらが(我々が)無視してきたヒトビトに復讐されるぞ」と言っている。
地下世界に閉じ込められてきたクローンたちは、自らがハンズ・アクロス・アメリカを再演することによって「オマエら、なんか忘れてねーか?」と問うている。
と、言うようなメッセージがあるのだが、メッセージの提出の仕方ははなはだ生硬である。しかし、そこまでの展開がちゃんと描けているので、結果、映画としてはとても面白いですぅ、、、
ところで映画のタイトルは「US」である。コレはUnited Statesのことでもあるだろうが、要は「我々」である。
果たして「我々」とはどっちの側なのだろう。
無視する側なのか。
無視される側なのか。
その答えがラストのどんでん返しなのだ。
「我々」とは、無視している側だと思っていたが、実は無視される側だった、われわれのことなのだ。
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やっぱダニー・ボイルってスゴイなぁ、、、と思うのである。
実は私空中さんは、ロンドン・オリンピックの開会式に感動してしまったのだ。
「前回のロンドンオリンピックから今回までの期間、イギリスが生み出した世界に誇れるものはロックだ!」
というオリンピックの開会式史上まれに見る明解なコンセプトに貫かれ、イギリスの全体像を無視して延々とロックが流れ、ロックスターが登場し続ける大胆さ。
そしてオープニングのVTR部分にピンク・フロイドをフィーチャーし、ヒプノシスのイメージを織り込む「解ってる感」。
VTRパートのラスト、ロンドン中を駆け巡っていたカメラがピンク・フロイドの「Eclipse」に乗せてスタジアムに到達するシーンなど、ワタクシ空中さんはほとんどイキそうなっていた。
ワタクシ空中さんの青春はブリティッシュ・ロックと共にあった。
もう、涙なくしては観れません、、、(それだけにTOKYO2020」とやらの意味不明でショボい開会式は恥ずかしかった、、、)。
そんなダニー・ボイル監督作品。
テーマはビートルズ。
もう、素晴らしくないわけがないよね。
いや、解るよ。解りますよ。
曰く、「ビートルズで重要なのはその先進性である」
曰く、「あのハーモニー無くしてなんのビートルズか」
曰く、「ビートルズとはカウンター・カルチャーのオピニオンリーダーである」
これらの理由を持ってこの映画を認めないヒト達がいる。
ビートルズってこんなもんじゃないよ、と。
それはそうよ、それはそうなのよ。でも、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
コレは、ダニー・ボイルによる、
「ビートルズの楽曲の詩とメロディーだけ取り出しても、名曲として通用するのか」
という思考実験なのだ。
そして、ダニー・ボイルの結論は
「通用する」
である。
そしてダニー・ボイルはさらに壮大な仮説を披瀝してみせる。
全く売れないシンガーソングライター、ジャックは、マネージャー以上恋人未満の幼馴染エリーに支えられてバイトしながら音楽活動を続けていたが、
「そろそろ潮時かな、、、」
などと思っていた。
そんなある日、夜中自転車で走っていた(貧乏だからクルマがない)ジャックは、突然辺り一帯が停電したことに驚き、おそらく同様に驚いたバスと接触、交通事故にあってしまう。
ジャックは大怪我をして入院するが、退院後に仲間が開いてくれた退院パーティで、エリーに新しいギターをもらう(前のは事故で壊れた)。
そして、「ギターにふさわしい曲を演ろう」と「イエスタデイ」を弾くと、その場にいた友人たちが全員、「なんて美しい曲だ、、、」と驚く。
エリーまで「こんないい曲、なんで今まで演らなかったの?」と言い出す始末。
アレ?みんなビートルズの「イエスタデイ」知らないの?
家に帰って「Beatles」でネット検索しても「Beetle」(カブトムシね)しか引っかからない。
アレアレ?ビートルズってオレの記憶の中にしかいないの?
つまり、ジャックはビートルズが「生まれなかった」平行世界へ転生したのだ。
世界中の誰もビートルズを知らないのをいいことに、ジャックはビートルズの曲を自作の曲として歌い始めたらさあ大変。
自主制作CDを作れば大評判になるわ、地元のニュース番組に呼ばれるわ、その番組を観たエド・シーランにオープニング・アクトを任されるわ、アメリカから大物マネージャーがスカウトに来るわ、もう、大騒ぎ。
かくしてジャックは長く面倒を見てもらったエリーを捨てて狂乱の巷アメリカへと渡るのであった。
しかし、名声が高まれば高まるほど、ジャックは疑問を感じ始める。
「オレ、こんなことしてていいんだろうか、、、どんなに売れても、ホントはオレが作った曲じゃないのに、、、」
というハナシ。
ま〜〜あ面白いよね。
だいたい、「興亡史」のうち、「興」の部分はどんな映画でも(小説でも)面白くなりやすいが、さすがダニー・ボイル先生、小ネタもふんだんに散りばめて、おおむね予想の範囲内のことしか起きないにも関わらず、全く飽きさせず、「興」のワクワクを持続させる。。
主人公やその友達のとぼけたキャラ、一転してギョーカイ人たちのエグいキャラなどを織り交ぜ、ちゃんとコメディとしても成立してるし。
しかし、我々は映画が進むうちにある「違和感」を感じるようになる。
「アレ?この世界のヒト達、ちょっとヘンじゃね?」
まあ、たいしてヘンじゃないんだけど、どっかヘン。ビミョー二にヘン。
なんかこの世界のヒト達、ミョーに物分りが良くない?
この映画はエド・シーランが本人役で出演し、全面協力している。
ローカルテレビに出て歌っていたジャックを観て、イキナリ自分のワールドツアーの前座に抜擢してしまうという役まわり。
そしてロシア公演が終わった夜、バックメンバーやスタッフとたむろしていたとき、エドはジャックに作曲勝負を挑む。
「前に作った曲はダメだよ。今この場で作った曲をみんなに聞いてもらって、投票でどっちがいいか決めてもらおう」
そしてジャックはおもむろにピアノを弾きながら「Long and winding road」を歌い出すのだ。
聞き終わった後、エドは言う。
「投票の必要はない。新しいスーパースターの誕生ってことだ」
あっさり負けを認めてしまう。
物分り良すぎじゃね?
フツーの映画の文法としては、一応投票はしたものの忖度する奴がいてジャックの惜敗、しかしエド本人は自分の負けを知っていて、、、的な展開もあり得ただろう。
しかし、あえてそうはならない。
なんてもの解りがいいんだろう、、、
実は、あの停電の夜、「ビートルズがいた世界」からこの世界に転生してきたのジャックだけではない。
少なくとも二人は劇中に登場して、ジャックに会いに来るのである。
ジャックは今日の観客の中にビートルズを覚えている奴がいると知って恐怖する。
ついに自分が盗作で名声を得ていることを糾弾される日が来たか、と。
しかし実際に対面した二人は驚くべきことを告げる。
「ビートルズの音楽がない世界は少しつまらなかったわ。これからも頑張ってね」
な、なんて物分りがいいんだろう、、、
そして、この違和感は、ラスト近く、恋人が元カレのもとに戻ると言い出した今カレの反応で決定的になる。
明日から愛し合った彼女がいなくなるというのにそんなにニコヤカに二人を祝福できる奴がいるか?
い、いくらなんでも物分りよすぎじゃ、、、
映画のラストで、ジャックも物分りが良すぎる選択をする。
つまり、ジャックと先の転生組の三人は、おそらくはこの世界にふさわしい物分りの良さ」を備えていたからこそ、この世界に転生してきたのだろう。
「ビートルズがいない世界」の住人は、「ビートルズがいた世界」の住人より、極端に物分りがいいのである。
おそらくはコレがダニー・ボイルがこの映画に託した映画のテーマだろう。
ビートルズが生まれなかった、と書いたが、それは、ジョン・ポール・ジョージ・リンゴのの4人がこの世に生を受けなかったということではない。彼らは生まれているのだ(そのうち1人は登場する)。
しかし、ビートルズは生まれない。
つまり、ヒトビトが物分りがよく、我々の世界より優しい世界ではビートルズは生まれないのだ。
なぜなら、ヒトビトが物分りがよく、優しければ、ジョン・レノンは「HELP!」と叫ぶ必要がないから。
かつて渋谷陽一は「ポップスターとは大衆の不幸の集積だ」と喝破した。
ビートルズがいない世界では、我々が今いる世界より、不幸が少ないのだ。ヒトビトが物分りがよく、優しいから。
つまり、ビートルズという偉大なポップスターを必要とした我々の世界は、ビートルズを必要としない世界より不幸なのだ。
その不幸を、ビートルズを始めとするポップスター達が埋めようと必死になっている。
コレは、大衆芸術全般の機能と言ってもいいかも知れない。
イヤ、解るよ、解りますよ。
「そんな理由でビートルズが生まれないくらいヒトビトの心象が違う世界だったら、もっと違う世界になってるんじゃね}
まあ、そうなんだけどさ、そこはいいじゃない。映画だし、思考実験なんだからさ、、、
実は「ビートルズがいない世界」には、我々の世界と比べて、他にもないものがある。
例えばタバコだ。
多分、ヒトビトがもっともの解りが良くて優しければ、我々はタバコを必要とするほどイライラしないのかも知れない(え?今でも必要ない?あ、そう、、、)。
ハリー・ポッターが存在しないのは、、、
やっぱりヒトビトが物分りがよくて優しいと、スリザリンは成立しないからかな、、、
ビートルズの楽曲を使った楽しい映画として成立させながら壮大な思考実験をしてみせたダニー・ボイルの才能には恐れ入る。
ところでちょっと不思議なんだけどさ、この映画を、ビートルズの先進性やハーモニー、そして歌唱力を含めた演奏力を理由に認めないヒトたちって、ビートルズの楽曲だけでは大したことないって思ってるのかな。
例えば、ビートルズのカバー曲なんて認めないのかな。
ワタクシ空中さんはスティーブ・ヒレッジの「IT’S ALL TOO MUCH」なんて原曲より好きなんだけどな、、、
あ、あと、この世界にはビートルズのパクリじゃね?と言われるあるバンドも存在しません。
まあ、コレは本人たちも怒らないだろうね、、、
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なんとなく、
「ヤクザ映画とはヤクザをカッコ良く描くものであり、過去、ヤクザの悲惨な末路を描いた映画など一本も無い」
と思っている若いヒトが作ったような映画。
実際、もしこの世に「ヤクザの悲惨な末路」を描いた映画というものが存在しなかったら、本作は傑作と呼んでもいいかも知れない。
しかし、当然のことながらそんなものはゴマンと作られてきたのである。
もう、腐るほど作られてきたのである。
「新聞記者」の藤井道人監督作品。
前回のレビューでワタクシ空中さんは「新聞記者」を演出に映画的興奮がないなどとほざいていたが、今回はストーリーラインからしてこの体たらくである。
しかし意外なことに本作は、「新聞記者」に比べると映画的興奮に満ちたシーンが用意されていたりもする。
例えば劇中最も動きの激しい「組長銃撃」などというシーンで、驚愕すべきワンシーン・ワンカットに挑戦している。
主人公(綾野剛)と組長(舘ひろし)と運転手、走行中のクルマのなかで3人で会話していると、バイクから横をすり抜けざまに銃撃される。慌てて止まったクルマから飛び出してチャカを持ってバイクを追う綾野剛。さらにクルマを振り返ると、、、
ココまでワンカットである。
これはもう、日本映画としては相米慎二以来といってもいいのではないか。
クルマの中で楽しそうに昔話に興じる3人の様子から一転銃撃の衝撃、さらにシーン終わりの寂寞感まで、このシーンのドキドキする緊張感をワンカットで描き切った度胸は素晴らしいと思う。
さらにこの映画にはもう一つ、不思議な、というか、え?マジ?と言いたくなるような映像的な仕掛けがある。
しかしそこを語る前にこの映画のストーリーラインについてもう少し説明しておく必要があるだろう。
実はこの映画で起こる出来事は、全て綾野剛演じる主人公のバカに起因している。
冒頭のシャブ強奪事件から、途中の組長襲撃事件の元になった暴力事件、さらには別れたオンナのところへ、「関わっちゃイケナイ」と解っていながら現れてしまうまで、もう、このにーちゃんの行動はことごとくバカ丸出しである。
途中の暴力事件など、「ヤクザの意地」を表現しているのだろうが、この時の暴行相手、敵対する組の幹部、駿河太郎の言い分をよく訊いて自分の組の幹部たちとよく揉んでいれば、その後の組の衰退をある程度防げたのではないか。
すべてがこの調子で、ヤレ極道だ男を磨くだと言いながら、その行動は単なる身勝手と我慢不足と短慮に支配されている。
で、何だこのバカは、、、脚本家や監督はコイツがいっぱしのヤクザというよりは、単なるバカな乱暴モノに過ぎないことに気づいているのだろうか、、、と思ってみていると、ああ、やっぱりバカであることに気づいていはいるのだな、、、と思わせる描写が出てくる。
殺人罪で15年くらいこんだ綾野剛が出所してきた後のショボクレた風貌が、なんと、天才バカボンのパパそっくりなのである。
もう、偶然とは思えない。
完全に寄せて来てる。
「ということは、ひょっとしたら収監される前は天才バカボンに似ているのかな、、、(ほっぺにグルグルがあるとか)」
と思って確認してしまったほど。
こんな映像ショックがあるだろうか。
おそらくはほとんど金のかかってないフツーのメイクで大した映像ショックを仕掛けてきたな、と思うのである(ホントかよ〜〜、、、今回ハナシ半分で聞いてくださいね)。
そして、映画は結局綾野剛をバカさ加減を肯定するような、毎度おなじみ、旧態依然とした「ヤクザ映画」として終わっていくのだが、、、
もし本作にヤクザ映画としても新味があるとしたら、
「暴対法以後のヤクザのあり方」
に焦点を当てている、ということだろう。
出所した綾野剛は一度は組に戻るものの、カタギになることを決意する。
そして先にカタギになっていたかつての弟分、市原隼人から、「5年ルール」の存在を知らされる。
5年ルールとは暴力団から脱退しても5年間は「暴力団関係者とみなされ、組員同様に銀行口座を開設すること、自分の名義で家を借りることができない。」というものである、コレはつまり携帯電話も本人名義では契約できない、ということであって、これからヤクザになろうかな、と思うアホにとってはある程度のブレーキにはなるだろう。。
しかしおそらくこのルールは、これからヤクザになろうという奴らへの心理的障壁というよりは、偽装脱退の防止にあるのだろう。現役暴力団員への規制は、かなり厳しいものでも社会的な合意が得られるだろう。そこで一時的に脱退したフリをして組のために様々な手続きをこなし、また組に戻る、あるいはそのまま組の「手続き係」として名義上脱退状態を保つ、という行為が横行することは予想できる。
「5年ルール」がこの偽装脱退を防ぐためのものであることは理解できる。
しかし、同時にこれから組を抜け、カタギに戻ろう、と思う人間にはとてつもなく高いハードルになってしまう。つまり、足を洗おうとするヤクザが減る。
その意味で問題のあるルールであることは事実だろう。
本作のテーマはやはりここだろう。
そしてこのテーマを端的に表す言葉が終盤刑事役の岩松了から発せられる。
「ヤクザの人権なんてとっくに無くなってんだよ!」
コレは、人権をめぐる映画なのである。
人権とは厳しい概念である。
それは、「人」権である以上、人間である、というだけで誰でもひとしなみに持つ権利である。したがって、もし人権というものを認めるという立場であるとするなら、文字通り、DNA的に人間でありさえすれば、連続殺人鬼だろうが売国奴だろうが強姦魔だろうが保証しなければならないのである。
ワタクシ空中さんは以前、とある憲法学者が連続殺人鬼に対して「とりあえず人権停止!」と叫んでいたのを聞いたことがあるし、とある政党党首は外国人には人権がないと思っていると思われる発言をしていたが、人権とは、そんな都合のいいものではない筈である。
ということは、当然、ヤクザにも元ヤクザにも人権は保証されなければならないのである。
この映画は当然「元ヤクザでも人権は保証されなければならない」ことを表現したかったのだろう。つまり、今、ヤクザや元ヤクザの人権は守られているのか、と。
おそらく、作中でヤクザや元ヤクザ自身で「ヤクザ(元ヤクザ)にだって人権はある」と主張していたら、この映画はそっぽを向かれていただろう。
ワタクシ空中さんもそこからこの映画に対するスタンスを替えていただろう。
もちろんヤクザの人権も守られるべきではあるが、「道を極める」といって背中にもんモンを入れ、一般の世界に背を向けたヤクザが一般社会の権利に守ってもらおうとするのは、やはり違う気がする。
この映画はやはりそのへんを逃げているな、という気がする。
自ら一般社会に背を向け他者たちをめぐる人権という重く鋭いテーマを、家族というファクターをぶつけて曖昧にしている。
そりゃ、家族持ち出されたらかなわないよなー、、、みたいな。
藤井監督には一度、ナニかのテーマと徹底的に向き合ってほしいな、と思う。
という一文で本稿を終えるつもりだったのだが、AmazonnでDVDのリンクを探していて驚いた。
本作、DVDが発売されていないのだ。
公開から1年経った映画でDVDが発売されないなどということがあっただろうか。
要はNetflixで配信されているので、DVDの発売を遅らせているらしい。
実はワタクシ空中さんもNetflixで観たのである。
コレが時代の変化というものか。
コリャこのブログのあり方も変えていかなきゃならんのかな、、、
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う〜ん、、、
正直残念で仕方がない。
今の日本のヘタレたジャーナリズムを映画で切り裂いて欲しかった。
今のクサレた政治の喉元に鋭いナイフを突きつけて欲しかった。
いや、一応そういうことはやってるのかなぁ、、、
ワタクシ空中さんは映画のジャーナリスティックなあり方を否定するものではない。
むしろ大いに期待するものである。
ただし、映画として面白いものであれば、のハナシなんだよね、、、
まず、新聞社のシーンで、編集部の描写のあまりの類型っぷりにウンザリしてしまった。
今まで何度映画で新聞社の編集部を見ただろう。それらの最大公約数的な「ザ・編集部」。
最大公約数的なセットで繰り広げられる最大公約数的な会話。
脚本をこなすのに精一杯で、このシーンにナニか強烈な映画的時間を刻もうという気概は到底感じられない。
そしてこの後も、
「後輩が謎の自殺を遂げた先輩の妻子を訪ねるシーン」
とか、
「真相を知っている主人公の先輩に路上でしつこく食い下がるジャーナリスト」
など、映画やドラマに限らず刑事モノ等でさんざん見たようなシーンが、特に印象に残るような演出もないまま積み重ねられてゆく。
その一方で、「内閣情報調査室」などという誰も見たことがない、今まで映画で描かれたことが無いようなシーンのリアリティの無さはどうだろう。
もしかすると前川喜平氏などに取材して、ある程度こういうものなのかも知れないが、何度も言うように映画のリアルとリアリティは違う。
非人間的な仕事をしている部署だから非人間的な雰囲気にしときゃいいダロってもんじゃない。
官僚と言っても所詮は我々と同じ人間である(そりゃそうだ)。
非人間的な仕事をさせられている人間の鬱屈が感じられる職場、的な演出があってもいいのではないか。
しかし、
「う〜ん、職場、、、非人間的、、、こんなもんかな、、、」
という程度の想像力しか感じない。
で、主演女優がシム・ウンギョン。
巷間、「反政府的と見られることを恐れて引き受けてくれる女優がおらず、しがらみのない韓国人女優が選ばれた」と言われているが、コレは宣伝の一種ではないか。
シム・ウンギョンクラス以上の実力・知名度のある20代から40代の(シム・ウンギョンは27歳、モデルの望月衣塑子は46歳)女優さんが全員女優魂より反政府のイメージがつかないことを優先させた、と断言するような宣伝はちょっと失礼ではないか。
そして何よりシム・ウンギョンがちっとも魅力的じゃない。
キャラ作りに迷ったまま撮影に入ってそのまま撮了してしまったという印象。
なぜもっと弱いか強いかキャラ付けしないのだろう。
もっと鋭くクールにツッコむ怖めのキャラとかさ。望月さんが嫌がるのだろうか。
端に悩みは多いが真摯に事実に向き合うお嬢さんでしかなく、そんなもんで「社会悪を追求する」などという映画を一本引っ張れるわけがない。
松坂桃李はさすがにかろうじて正義と家族の幸せの間で悩むキャラに拮抗できているが。
しかしですね。
ワタクシ空中さんが何より気に食わないのは、映画後半で扱われる事件の扱いである。
事件後半で松坂桃李の先輩の自殺を追う松坂桃李とシム・ウンギョンは、内閣府がすすめる医療系大学の真の設置目的が、生物兵器の開発にあることを突き止めるのである。
えーっとですね。
加計学園の新設が問題なのは、安倍ちゃんがオトモダチに便宜を図るために法律を捻じ曲げた時点で充分イカンのであって、生物兵器を作るための施設だからではない。
コレではまるでオトモダチに便宜を図るために法律を捻じ曲げること自体は大して悪くないみたいではないか。
オトモダチに便宜を図っただけでは映画にならない、というなら、この映画の存在意義はほぼ無くなってしまうのではないか。
体制側は本作を観て、
「ヘヘッ。オレたち別に生物兵器工場なんて作ってないもんね。カンケーねー」
と思っているのではないか。
シーンの演出やキャラ付けは膨らませないのに、そういうところだけは膨らますのかよ、と思う。
そもそも望月衣塑子氏はこの改変に納得しているのか。
藤井道人監督は35歳。
たしかにこの映画はシドニー・ルメットクラスが撮るべき映画なのだろう。いや、日本には山本薩夫がいた。
山本薩夫なら決してこんなうじゃじゃけた改変は許さないだろう。
まだ若い藤井監督には荷が重かったのかも知れない。
ワタクシ空中さんは曲がりなりにもこの映画が制作され、公開されたことを評価したい。作られないよりは良かっただろう。
しかし、こんなことをしていると、いよいよ日本映画から社会派映画の灯は消えてしまうのではないか。
「政府批判っつったってこんなもんでいいんでしょ」
ということになったらヒトビトは「社会派」と名乗っただけで誰も見なくなるだろう。
本作は安倍政権の闇をあぶり出すと同時に、日本映画界の貧困もあぶり出してしまったのではないか。
2022年には藤井監督によるNetflixオリジナルシリーズとしての「新聞記者」配信が予定されている。
今現在は同じ自民党政権とは言え一応首相が代わったせいだろうか、米倉涼子が主演を引き受けてくれたらしい。
果たして映画版よりは政権の闇に切り込んでくれるのだろうか、、、
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結構前からその傾向は有ったのだが、KANEDA体制では、
「なぜソレが心霊動画と言えるのか」
という根本的な問題を抱えたエピソードが多い。
この89巻など、ほとんどそうではないか。
多分、KANEDA氏は心霊動画などに興味がないのだろう。
「怖い」とはナニかについてのスタンスが、「呪いのビデオ」という概念から乖離してしまっている。
そして、KANEDA氏にとって怖いものとはなにか、は、提示されているのだが、、、
「繰り返される死」
ドライブレコーダーの映像を延々と見せられる。駐車場を出て、どこか荒涼とした(現地の人ゴメンナサイ)ビルの多い街を走り続けていると、とある倉庫のような大きい建物の横を走っている時、突然上から生首らしきものが降っていくる。
問題はナニが「繰り返される」なのか、ということですが、どうも、延々見せられた途中の道でいろんなビルからヒトが飛び降りていた、ということらしい。そんなこと分かるわけがない。
分かるわけがないし、ナニを持って「繰り返されている」と判断するのもかわからない。
普通に考えたら端に、
この日この街ではやたら飛び降り自殺が多かった。
というだけで、別にそれ自体は心霊現象じゃなくね。
ラストの生首の件だけは確かに心霊現象なんだけど、、、
「スナック」
スナックの奥に顔が映ってただけで、
「ダイエットの約束を破ったことに腹を立てた奥さんの生霊が来た」
と思える発想力、奥さんへの恐怖が一番怖い。
「凍氷」
もう、何度目かわからないミレーの「オフィーリア」ネタ。
なんかもう、心霊動画周辺の関係者にはこの絵画がオブセッションになっているかのよう。
「新婚旅行」
少女が床に寝っ転がってる。
ナレーションで「このホテルでは昔火事で少女が亡くなって以来、徘徊する少女が目撃されているらしい」と言われても、少女が床に寝っ転がってるだけの可能性のほうが高いと思うがどうか。
もっと「ホテルの従業員には見えていない」とか、逆に「従業員が恐怖に怯える」とか言う描写がないと、なぜコレを心霊動画とするのか、根拠が弱く、恐怖もクソもない。
「棲みつくもの」
だからさぁ、訳のわからんオンナが天井裏にいたってだけじゃん?イヤ、「だけ」っつーかそれはそれで怖いけど。心霊とか呪いとかいう問題じゃなくね。
「黒く蠢くもの」
案の定、SNSで「中田氏ね氏ね死ね」などとのたまっていたのは上田であった。
しかも上田はなんと「ほん呪」の内幕動画を「本当の、ほんとにあった!呪いのビデオ」などと称してSNS上にアップしているのであった。
この時点でなぜクビにしないのか、さっぱり分からない。
普通はすぐさまクビにして訴訟沙汰ではないのか。
少なくとも「このままでは訴訟を起こすよ」と脅すくらいは必要ではないのか。
ココでちゃんとクビにしないから、上田はなんとヒトに金を払ってほん呪委員会の面々にウソの証言をさせる、などというところまでエスカレートしてしまう。
ココまでヤラれてもほん呪委員会の対応は「呼び出して説教」である。
川居嬢は「先輩たちが築き上げてきたほん呪20年の歴史をなんだと思っているのか」というが、ワタクシ空中さんは同じことをKANEDA氏に言いたいんだけど、、、
おわかりいただけただろうか。
「ほん呪」は心霊動画を観せて視聴者に怖がってもらおう、という企画である。
だとすれば、この一連の上田に関するエピソードは本来の趣旨からは全く外れるだろう。
んなもんカットすれば良いではないか。
上田に関するエピソードを全カットしたって今回の「ドロドロ」のエピソードは成立する。
にもかかわらず、カットしないのである。
なぜならKANEDA氏がやりたかったのは、まさにこの上田という「面白ければ何でもいいとの理論に従って上司の忠告だろうがヒトの気持ちだろうが法律だろうが踏みにじる無軌道なワカモノ」を描くことだからだ。
そうとしか解釈しようがない。
つまり、KANEDA氏は心霊現象などより、浅はかな考えで暴走するワカモノのほうが怖いのだろう。
もっと普遍化すれば、
「イヤ、あり得ない呪いなんかより」生きてる人間のほうが怖いっしょ」
ということなのかも知れない。
とは言うものの、ハナシはまだ続く。
前巻で明らかにされた、バーで撮影された映像、突然他の場所の映像が紛れ込む「アレ」を久々登場「アジア魍魎研究所」の二人に見せて意見を聞いている。
ここ2巻ほど登場して中
ココで、KANEDA氏は「映像に心霊に写っちゃうことってあるんですかね」という、ほん呪史上もっともアホな質問を二人にするのである。
いやそんなこと言ったら「ほんとにあった!呪いのビデオ」って企画自体が成り立たないじゃん?と思うが、おそらくコレはKANEDA氏の本音だろう。そもそもKANEDA氏自体「心霊動画なんて信じてないよ」というスタンスを明らかにしてしまっている。
ある意味正直なヒトである。
そしてこの世紀の愚問に対するアジア魍魎研究所の返答がまた不思議である。
何故か研究所の所長はココで突然「あらゆる時空に偏在するもの」のハナシをし始める。
「例えば大日如来とかね。全ての時空に偏在するものって存在するんですよ」
イヤ、大日如来の存在を前提にすればそうかも知れないけど。
っていうかそもそもそんなこと訊いてないと思う。
なぜここで所長は唐突に、しかも延々と「遍く時空に存在するもの」の可能性について語り始めるのか。
実はコレ、ラストで分かるようになっている。今回の怪異現象は、時空を超えるのだ。
ラストで我々に明かされる映像は最近撮られたものだが、1年前に撮られた映像にこの映像の一部が紛れ込んでいるのである。
そして、重要なのはアジア魍魎研究所の二人はインタビューの時点でこの映像を見ていない設定だ、ということだ。
まだ、時空を超える見ていないにも関わらず、時空に偏在する存在を語ってしまう所長。
まさか、彼もあらゆる時空に偏在する存在だ、とでも言うのだろうか、、、、
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