「翔んで埼玉」 全埼玉が泣いた。
もう、40年近くになろうとしている。
タモリが「ダサいたま」という言葉をはやらせてから、幾星霜。埼玉県民は謂れの無い(有るんだけど)差別に苦しんでいたはずである。
そんな、長きに亘る差別の歴史に遂に終止符を打つ時が来た。
いよいよ埼玉県民の逆襲が始まる。
コレはそんな映画です。
まず、驚いたのは、今年45歳のGACKTが高校生を演じることが、途中から不自然でなくなってきたこと。
二階堂ふみの高校生はまだいい。
まだいいが、この映画での二階堂ふみは男子役である。
最初は男装の女子かと思っていたが、どうやら二階堂ふみに男子高校生の役を演らせている。
中年ロッカーと美人女優が「男子高校生(しかもカップル)」って大丈夫なん?と誰もが思うだろうが、ワタクシ空中さんのような魔夜峰央オールドファンは、途中から
「ああ、この二人(GACKTと二階堂ふみ)はバンコランとマライヒだな、気づく。
その瞬間からGACKTの高校生が気にならなくなる。
魔夜峰央マジックというべきか。
さらにマライヒ役を二階堂ふみに無理やり演じさせることによって、ボーイズラブに嫌悪感を感じる層にもなんとか受け入れられるものにするという仕掛けも見事。コレは武内監督のマジックの手柄と言っていいだろう。 武内英樹監督は「テルマエ・ロマエ」でもいくつかこういうマジックを見せていた。
いや、思えば「テルマエ・ロマエ」は日本人にローマ人を(ある程度)違和感なく演じさせるというとんでもないマジックを成し遂げていたっけ。
映画は徹底的にサイタマ県民が徹底的に差別される世界を描くことで始まる。
その、徹底的なデフォルメで笑わせるが、この映画の眼目は後半、差別されることに慣れ切ったサイタマ県民をGACKTがオルグするシーンだろう。
そう、この映画は革命に関する映画なのだ。
GACKTがこれまでいかにサイタマ県民が虐げられてきたか切々と語るシーンでは、サイタマ県民は多分泣くと思う。そして
革 命 を 起 こ さ ざ る を 得 な く な る と 思 う 。
我々都民は今後サイタマ県民による復讐におびえながら暮らさざるを得ないのだろう。
南北戦争以来アメリカの白人が黒人による復讐におびえながら暮らしているように。
この映画の主要部分、つまりGACKTと二階堂ふみがの革命のハナシは、実はとあるサイタマ県民の一家が車で移動中、NACK5から聞こえてくる「都市伝説」として語られる。
サイタマ県民がサイタマ県民による革命の物語を都市伝説として聞いている、という構図である。
この一家が小柳トム、麻生久美子の夫婦とその子供のぱるる。
映画はこの一家の車移動と、「都市伝説」を交互に描く。
やがて一家の長であり生粋のサイタマ県民である小柳トムは、ラジオから聞こえてくる「都市伝説」に感動し号泣し始めるのだが、その娘である以上やはり生粋のサイタマ県民であるはずのぱるるは(母親の麻生久美子は千葉県民の設定)、徹底して冷淡である。
差別するほうもされるほうも徹底的にアホなことをやっている世界で、ぱるるだけは冷静にツッコミを入れ続けている。
つまり、ぱるるだけが映画世界に対して「塩対応」なのである。
コレも巧いと思った。
まさにぱるるにぴったりの役ではないか。
そして映画の前半、観客はあまりのバカバカしさにぱるるに感情移入するのだが、やがてぱるるの冷静さが不思議にすら思えてくる。
「オマエそれでもサイタマ県民か」
などと思ってしまう。
実をいうとワタクシ空中さんはこの「現実部分」と「都市伝説部分」をどうやって接合させるのかな、と思って固唾を飲んで見守っていた。
が、武内監督、残念ながらこの接合には失敗したようだ。
都市伝説部分で埼玉千葉群馬東京を巻き込んで大騒ぎしているのに、仮にこれが現実だった場合、現実世界に知られていないわけがない。
ラストカットでのGACKTと二階堂ふみは年取っていないのだから、昔のハナシという言い訳もできない。 ただ、野合させただけになってしまっている。
作品世界に対して外側からツッコミを入れ続けるという工夫は一般映画として有効だと思うだけに、ここは残念。
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