「マグニフィセント・セブン」 西部劇の集大成でイーストウッドへショートカット
前作「イコライザー」でクリント・イーストウッドなることを宣言した(もう、勝手に決めつけてますけど)デンゼル・ワシントンではあったが、じゃあ、
「今のオレに無くってクリント・イーストウッドにあるものってなに?」
と考えた結果、
「ソレは、西部劇である」
という結論に達したかどうかわからないが(ワタクシ空中さんは完全にそう思い込んでる)、なんとデンゼル先生、イキナリ西部劇史上最も人気の高い名作のリメイクに挑んできました。
コレ一発でクリ様の西部劇キャリアを自分でも対抗できるものとして精算するつもりだろうか。
そんな思惑も踏まえつつ、映画の出来について考えたい。
皆さん御存知の通り、この映画は1954年の黒澤映画「七人の侍」のリメイク、の1960年のジョン・スタージェス映画「荒野の七人」のリメイク、となっている。
このリメイクの連鎖ですが、「侍」だけが3時間20分の長尺、「荒野」と「セブン」はおおよそ2時間なのだが、どういうわけ、後に行くほど「悪役の描写」が多くなる。
3時間20分ある「侍」は実は、正義の武士対悪の野伏(「のぶせり」って読んでね)の戦いであるにも関わらず、野伏の描写はほとんどない。その描写の少なさは、悪い人間の集団というよりは、移動するパニックのようである。
ココまで徹底的に悪役の描写を配したアクション映画というのは、当時としては珍しい、と言うか殆ど無かったのである。
しかしこの手法はこの後増えてくる。黒澤はこういうイロイロなことを発明しているのである。
ところが。
そのリメイクであるはずの「荒野」「セブン」は、どんどん悪役の描写が増えてくるのである。
なぜならその方が盛り上がるから。
普通はそうなのだ。
フツーに考えて、悪役を憎々しく描いておいたほうが、盛り上がるではないか。
より憎々しい奴をやっつけた方がスッとするではないか。
逆に言うとコレをやらずに盛り上げまくった黒澤ってやっぱスゴい、ということでもあるのだが、、、
で、ですね。
ここまでをまとめると、ですね。
要は、後発2作は時間が1/3近く短くなっているにも関わらず、悪役の描写は増えている、ということであり、ソレは取りも直さずこのストーリの持ちネタとも言うべき、
「7人が集まる過程」とか、
「村人との交流(訓練)」とか
「ラストの大銃撃戦」とかが、
どんどん削られているということになる。
特に一番新しい「セブン」は、悪役が今までのような野盗ではなく、コレまでにもいくつもの金鉱を暴力で乗っ取って来た悪徳実業家、つまりは権力者である。
なかなか描き甲斐があるではないか。
そうやって悪役を描いているうちに、どんどん正義の味方を描く時間は時間が減っていく。
このネタはオールスターキャストが持ち味であり、最初のリメイクでもある「荒野」にしてからが、ユル・ブリンナー、スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンと七人うち5人もメジャーなハリウッド映画で主役を張れる役者が揃っているが、「セブン」はデンゼル・ワシントンとクリス・プラットとイーサン・ホークくらいではないか(まあ、イ・ビョンホンもいるけど)。
当然、ひとりひとりの個性を描く余裕はどんどん無くなっていく。
そして「七人の個性描き分け問題」にもまして重要なのは、そもそも「なんでこの七人は命がけで村人を守るのか」問題である。
「侍」の七人が村人を守るのは、つまるところ彼らが「武士」だからだ。
もともと民人を守って戦うのが武士の努めだからである。
「米の飯なら腹いっぱい食える」
などというのは言い訳に過ぎない。
ところが西部のガンマンにはもともと罪なき市民を守る定めなど無い。
彼らはなぜ、「多分ほとんど全員死ぬであろう」判っているミッションに自ら参加するのだろうか。
「荒野」もここは苦しんでいる。ほぼ、ゴマカシている、と言ってもいいだろう。
そして、「セブン」はココを逃げていない。
一応、「侍」には無かった新たな説明を付けている。
デンゼル・ワシントン演じる主人公、サム・チザムは、かつてこの悪徳業者に家族を殺されているのだ。
つまり、彼にとっては復讐劇なのである。
さらに言えば、ガンマンを探しに出る村人は悪徳業者に夫を殺され、コレまた復讐に燃える勇敢かつ美貌の人妻、ヘイリー・ベネットなのである。
ヘイリー・ベネットは前作「イコライザー」は添え物程度だったが、今回は堂々のヒロイン、荒くれオトコどもを村まで引っ張るファム・ファタールぶりにシビレる。
こういう改変を寂しがる、場合によってはお怒りになる向きもあるだろうが、時間を短縮するには、まあ、有効だろう。所詮、ガンマンと武士は違う。テーマが変わるのもしょうがないだろう。
こういう時短策を用いることによって、この映画はたっぷり西部劇らしい銃撃戦を描くことに成功している。
最初に街に居座っていた用心棒どもを一掃するシーンから、もう、銃撃戦に関してはお腹いっぱい堪能できる。
こういうことを書くと怒られるかも知れないが、この映画に対する関心のひとつに、「黒人監督に『西部』が描けるのか」(うわ、やっぱ怒られそう、、、)という問題があった。
開巻直後、メンバーを集めながら大自然の中を旅するシーンなどのヌケの良い絵で、ほう、、、と思ったが、やはり「西部情緒」というものが感じられるほどではなかった。
しかしコレは日本でも時代劇情緒の撮れる演出家がどんどん減っているのと同じく、人種の問題ではなく世代の問題なのかも知れない。
デンゼル・ワシントンの「我、黒人のイーストウッドたらん」という目的のためには、やはりイーストウッド監督の西部劇を都会のアクションに換骨奪胎する、という戦略が正解なのかも知れない。
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