2009.10.07 Wednesday
「おくりびと」 濾過された死
私事で恐縮だが、8年前に父親を喪った。その際に、我が家にも来たのである。納棺士さんが。この映画によって初めて納棺士の存在を知ったという人も多いようだが、ワタクシもその時初めて知ったのである。
正直、ドえらい衝撃を受けた。
ナニが驚いたと言って、納棺士さんの一人がうら若き女性だったのだ。この映画の納棺士は爺さんとオッサンの二人組だが、ウチに来たのはオッサンとうら若き女性の二人組だった。オレ以外の遺族(母と兄)は悲しみでそれどころではなかった様な気もしたが、オレはこの納棺士さんが気になって仕方なかった。彼女は一体何故この仕事を選んだんだろうか(オッサンと親子なのかも知れない)、この仕事を今後も続けていくつもりなんだろうか。
この映画に興味があったのは、こういった疑問が多少なりとも解消されるかと言う心算があったのも否めないのだが、、、
正直、ドえらい衝撃を受けた。
ナニが驚いたと言って、納棺士さんの一人がうら若き女性だったのだ。この映画の納棺士は爺さんとオッサンの二人組だが、ウチに来たのはオッサンとうら若き女性の二人組だった。オレ以外の遺族(母と兄)は悲しみでそれどころではなかった様な気もしたが、オレはこの納棺士さんが気になって仕方なかった。彼女は一体何故この仕事を選んだんだろうか(オッサンと親子なのかも知れない)、この仕事を今後も続けていくつもりなんだろうか。
この映画に興味があったのは、こういった疑問が多少なりとも解消されるかと言う心算があったのも否めないのだが、、、
結論から言って疑問には全く答えてくれませんでした。
モッくんは単なる偶然でこの道に足を踏み入れるのだ。やがて彼はこの仕事に誇りを持ち始めるのだが、それも「どんな仕事でもそれなりの価値はある」と言う通俗的な理想の範疇を超えるものではない。
モッくんは単なる偶然でこの道に足を踏み入れるのだ。やがて彼はこの仕事に誇りを持ち始めるのだが、それも「どんな仕事でもそれなりの価値はある」と言う通俗的な理想の範疇を超えるものではない。
驚いたのはモッくんの周囲がみせる激烈な反応だ。オレも女性が死体を扱う仕事に就いている事に驚きはしたが、まさかここまで差別的な言辞を吐く人間がいるとは思いもしなかった。
一体全体この激烈な差別意識をどうやって解消していくつもりなのか不安になるのだが、コレも偶然に助けられて、通俗的な理想の範疇に収まってしまう。
たとえばのハナシ、たまたま身近な人間の葬式で夫の仕事ぶりを目撃しなかったら、ヒロスエとの関係をどうするつもりだったのか。
一体全体この激烈な差別意識をどうやって解消していくつもりなのか不安になるのだが、コレも偶然に助けられて、通俗的な理想の範疇に収まってしまう。
たとえばのハナシ、たまたま身近な人間の葬式で夫の仕事ぶりを目撃しなかったら、ヒロスエとの関係をどうするつもりだったのか。
妻であるヒロスエや、幼なじみの杉本哲太が当初みせる差別意識も分からないではないのだ。「死」を穢れと見なす思想は、日本文化の根幹に横たわるものだから。早いハナシ、お宮参りや結婚式は神社で扱うのに、葬式だけは仏教に頼らざるを得ないのは、神道が死の穢れを嫌うからだ。
従って、一度この仕事を「汚らわしい」仕事と措定してしまった以上、この差別意識を解消するには大変な手続きが必要なはずなのだ。
従って、一度この仕事を「汚らわしい」仕事と措定してしまった以上、この差別意識を解消するには大変な手続きが必要なはずなのだ。
この映画はもともとモッくんが読んだ「納棺士日記」と言う実在の納棺士さんが書いた本が元になっているそうである。
ところができあがった脚本を著者に見せたところ、映画化を拒否されてしまったそうだ(結果、この映画の原作としてはクレジットされていない)。
理由は舞台になる土地が変更されていたことと、「本人の宗教観などが反映されていないこと」。
やはりそうなのだ。実在の納棺士さんにとっても、この差別意識を乗り越えるには、何らかの宗教的なカタパルトが必要だったのに違いないのだ。
しかし「おくりびと」はそこをスッパリ切ってエラくあっさり通俗的な価値観に収束させてしまう。
コレをこの映画のモチベーターである俳優モッくんの知性の欠如として捉えることは簡単だが、おそらく事情は逆であろう。オレはこの映画に宗教的なバックボーンを持たせなかったことにプロデューサーとしてもモッくんの才気を感じる。
結果としてオレにとっては不満の残る映画になったが、だからこそこの映画は米アカデミー賞を取るほどの普遍性を持ち得たのだろう。宗教的な映画にしてしまっては、おそらく多数の人間(例えばキリスト教徒)には理解できない映画になってしまったのだろう。コレはコレで成功だったのだ。
結果としてオレにとっては不満の残る映画になったが、だからこそこの映画は米アカデミー賞を取るほどの普遍性を持ち得たのだろう。宗教的な映画にしてしまっては、おそらく多数の人間(例えばキリスト教徒)には理解できない映画になってしまったのだろう。コレはコレで成功だったのだ。
すっかり「どんな題材を撮らせても題材にあった雰囲気で分かり易い映画を撮る職人」としての位置を確保した「天才タキタ」の仕事は手堅い。手堅い以外特に価値を見いだせないが。