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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「時代劇入門」 ガンダムは水鷗流の使い手である。

 

 「時代劇入門」というくらいで入門編なので、ワタクシ空中さんのようなある程度の時代劇ファンには物足りない部分が多い。
 しかしワタクシ空中さんの時代劇に対する興味もある程度範囲が限られているので(特に映画に目覚める前の作品)、参考になる部分もある。
 
 本書はある意味、春日太一氏のこれまでの著作の集大成であり、春日氏がかねてより主張してきた、「おじいちゃんの家での『水戸黄門』問題」とか「時代劇はファンタジーと思え」など、改めて読むと、決して旧態依然とした議論や外形から入らず、イキナリ時代劇鑑賞の本質に切り込む論理展開には頭が下がる。
 そう、本書は時代劇論であると同時に時代劇「鑑賞」論なのである。
 
 しかし、ワタクシ空中さんはそこで本書の問題点にも気付いてしまった。
 ワタクシ空中さんが時代劇に興味を持ったのは「必殺仕掛人」あたりが最初だったろうか。
 殺気に溢れた殺し屋と庶民を助ける針医師をシームレスに演じ分ける緒形拳の存在感に、それ以前に父親が観ていた時代劇らしい時代劇とは全く違うリアリティを感じたし、ナニよりも右手に持った刀で人を斬りながら、左手に持った傘で返り血をよける林与一の華麗な殺陣シビレた。
 更に続く「必殺仕置人」は華麗な殺陣こそなかったが、仕置人メンバーたちの仕掛人の藤枝梅安を凌ぐ現代的なメンタリティと庶民としてのバイタリティは目を瞠らされた(「必殺シリーズについて書くと止まらなくなりそうなのでこの辺でヤメておくが)。
 次に出会ったのが「唖侍鬼一法眼」だったか。
 ここで完全に若山富三郎先生に目覚め(言っておきますが全部再放送ですよ)、その後「魔界転生」「子連れ狼」と若山富三郎先生を追い続けることになる。
 
 オレのことはどうでもいい。
 ナニが言いたいか、というとですね、そんなワタクシ空中さんが、じゃあ本書で解説・紹介されている、ワタクシ空中さんが時代劇に目覚める前、あまつさえ生まれる前の映画まで遡って観るかというとですね、観ません。
 
 正直、「町山智浩・春日太一の日本映画講義 時代劇編」でも語られていた、時代劇の殺陣がリアル路線に転換する瞬間である、黒澤明までは既に遡っているのだが、それより前は無理。
 本書で紹介されている「とりあえず知っておきたいスター30」で言えば、まさに三船敏郎以降であり、尾上松之助から大友柳太朗までのスターを追いかけようと思うかというと、思えませんよね。
 
 そしてある程度時代劇の沼にハマっているワタクシ空中さんでこのテイタラクだとすると、そもそも本書は誰が読むのであろうかという疑問がないでもない。今現在時代劇に興味がないヒトが、昨今の時代劇状況を鑑みて、
 
 「ちょっと時代劇でも観てみようかな、、、と言ってもナニから見ればいいのかな、、、」
 
と思うだろうか。
 春日太一氏がモノするべきなのは、今現在時代劇に興味のないヒトが

「時代劇観てぇ!!」

と思うような強烈なコンテンツとその魅力を紹介することではなかろうか。
 本書のような時代劇全体、時代劇という概念の魅力を伝えることが主な趣旨である書は、その後に来るべきであるような気がする。
 
 とは言うものの、ですね。
 実は本書、最後にとんでもない隠し玉があるのだ。
 最後の最後に収録された

第五部 第三章「殺陣の入り口としての『ガンダム』」

《特別インタビュー:富野由悠季監督が語るチャンバラ演出の極意》

こそが本書の白眉だろう。

 不肖ワタクシ空中さんは、実は「機動戦士ガンダム」をあまり評価してなかった。
 って言うかそもそも観てなかった。
 なんかさ、アニメーションとして評価できないっていうかさ、、、
 
 こういう事を言うとガンヲタからとんでもない反発を食らうのである。
 曰く「あの設定のリアリティが判らんのか」
 曰く「あの深みのあるキャラ設定が判らんのか」
 曰く「あの苛烈なストーリー展開が判らんのか」
 
 イヤ、判るのよ。
 それ以前のパターン化した巨大ロボットアニメの常識を破った現実的な設定、それでいて「コロニー落とし」のような強烈なSF感。
 SF感といえばモビルスーツという名称自体がハインラインの引用ではないか。
 そして複雑な背景を背負い、その宿命に縛られ、抗うキャラクター達。
 
 確かにフィクションドグマだけで考えるとガンダムはアニメの歴史を塗り替えた名作だろう。
 しかしアニメーションとしてどうなのか。
 ワタクシ空中さんはアニメを観るときはアニメーションとしてどうなか、映画を観るときは映画としてどうなのか、小説を読むときは小説としてどうなのか、が気になるヒトなのだ。
 それらに共通してあるフィクションドグマ(まあ、設定とかストーリー展開とかキャラ立ちとかね)も重要だが、それ以上にそのメディアににしか無い魅力が気になるのだ。
 そういう観点から見ると、ガンダムってアニメとしてはダサくね?
 
 別にアニメが嫌いなわけじゃないのよ。エヴァンゲリオンや原恵一時代のクレヨンしんちゃんは大好きです。つまりそれらは「アニメーションとして」優れていると思っているのだ。
 
 オレのことはどうでもいい。
 そんな訳でワタクシ空中さんはガンダムをほぼ観ていなかったのが、言われてみると確かに刀っぽいもの持ってるね。ビームサーベル。
 
 コレは確かに盲点だった。
 そういう目でガンダムを観たことがなかったのは認めねばならない。
 おのが不明を恥じなければならないだろう。
 
 言われてみれば、ガンダムに出てくる戦術ジェットストリームアタックが子連れ狼から来ている、というのは知ってたりしたのだが、、、
 
 富野監督の書き込みのある絵コンテから、殺陣に対する情熱を読み解く第五部第三章はなかなかの迫力なのだが、それに続くロングインタビューはさらに凄い。
 
 富野監督はなかなか強烈なキャラで、インタビューの出だしで時代劇について聞きに来た春日氏のスタンスを否定しまくる。
 
「エ?このオジさんなんでキレてるの?」

というくらい。
 もう、最初のうちは春日氏が何を言っても否定してくる。
「なぜ聞きに来たのでしょう」
とか
「僕の立場では答えられないなぁ」
の連続である。

 しかしそこを食い下がって徐々に富野監督の本音を引き出すことに成功したのは、春日氏のお手柄である。
 ほとんど歴史的な快挙と言ってもいいのではないか。
 ガンダムという巨大な山脈の秘密の一端を解き明かしたのだ。
 
 そして最終的には富野監督の時代劇への愛情と造詣の深さを引き出すのだが、コレがなかなかワタクシ空中さんのような時代劇ファンにとってもとても興味深い。
 殺陣には「人体を切断する(つまり殺す)」という覚悟が感じられなければならない、とか。
 従って富野監督は「るろうに剣心」の殺陣を全く評価していない、とか。
 
 ガンダムはこの「人体を切断する」迫力を出すために、実際には(巨大ロボットでは)出来ない動きをさせている、とか。
 従ってガンプラではアニメの動きを再現できない、とか。
 
 う〜ん、面白い。
 まあ、だからと言って
「じゃあ、ガンダム観てみっか、、、」
とはならないんだけど、、、

 あと一つ言っておきたい。
 本書は「時代劇入門」というタイトルだが、時代家の魅力のうちでも殺陣・チャンバラに特化した内容であることは意識しておいたほうがいい。
 おそらく春日氏も時代劇の取っ掛かりとしては、チャンバラが判りやすいとの判断をしたのだろうが、実は世の中にはチャンバラのない時代劇も多数存在する。
 
 民放の時代劇は絶えて久しいが、NHKではある程度定期的に時代劇が制作されていて、コレはチャンバラのない時代劇が多いのではなかろうか。
 さらにココ10年(20年)以上前から出版界では時代劇ブームが続いていて、コレもチャンバラのない時代劇が多いような気がする。
 そしてこれらの作品の人気の源は、おそらくは江戸時代以前の日本人の心性が描かれている事にある。
 
 春日氏にはいずれこの「近世以前の日本人の心性」に焦点を当てた時代劇入門に挑戦してほしいと思うワタクシ空中さんであった。

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 02:57, 空中禁煙者, 書籍

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「コロナ自粛の大罪」 ファクターXをめぐる攻防

 

 タイトルの通り、コロナ自粛に批判的な7人の医師に対するインタビュー集。
 
 つまるところ、コロナ自粛をめぐる混乱は、「ファクターX」にどう対応するか、というハナシなんだと思う。
 本書に登場する7人の医師たちは、「今の日本は自粛しすぎ」という立場だが、あくまでも「今の日本(そして東アジア)の状況では」ということであって、死者数がふた桁違う欧米やアフリカに対してはまた違うだろう。
 
 しかし意外なことに7人の中にもファクターXに対する意識が前景にあるヒトと無いヒトがいる。
 順番に読んでいくと、偶然なのかわざとなのか最初と最後の二人ずつがファクターXが前景に出ていて、真ん中の3人は比較的出ていない。当然、前提条件ではあるのだろうが。
 
 ファクターXが前景に出てこない場合、自粛の害を語られてもちょっと困ってしまうところがあったりもする。
 自粛のせいで商売が成り立たない、商売が成り立たないせいで鬱や自殺が増えた、等はいい。これらは本来自粛せざるを得ないならせざるを得ないで、キチンとした補償が有れば防げることだからだ。
  しかし、例えば若者たちの青春が奪われていること、子どもたちの免疫力が失われていくこと等を、ファクターXを前景に置かずにあまり語られると、イヤイヤイヤイヤイヤ、そういうことが仕方がない状況もあるんちゃうの?と思ってしまうのだ。しつこいくらいに「ファクターXがある地域としては」という前提を強烈に意識させてくれないと、カルト臭ささえ感じ取ってしまう。
  
 やはり何よりもまず、ファクターXに対する共通認識を育てることが重要なのではなかろうか。
 例えば今、いくら自粛は意味がない、と言い立てても、もう、誰も聞かないだろう。
 いくら数字を並べても、数字は現況を表しているに過ぎない。我々はもう、数字が語る未来を信じられない。
 しかしファクターXが解明されて、「これこれこういう訳で日本を含む東アジアではそんなに大騒ぎする必要ありませんよ。インフルエンザと同程度なんですよ」と言われたらどうだろう。
 その時、初めて「コロナ自粛騒動お終わり」が見えてくるのではないかと思う。
 
 本書に登場する7人の医師たちも、何人かは「ファクターXがなんであるか」に言及している。
 結局、ファクターXは「交差免疫」と「BCG予防接種」の二つに絞られていると言っていいだろう。
 交差免疫はしばらく前から中国から類似の、しかし今のより弱毒性のコロナウィルスが入って来ていて、その時に出来た免疫が新型コロナにも効いている、というものだ。
 しかし、「おそらくそうだろう」「それしかないだろう」というレベルのハナシであって、確定させようと努力しているということではないようである。お医者さんはみんなそれぞれ忙しくて、それどころではないのだろう。
 
 日本を含む東アジアで欧米と死者数がぜんぜん違うことは、もう、去年の2〜3月くらいには分かっていた。
 その後山中伸弥教授が「ファクターX」と命名したのも5月くらいだっただろうか。
 その後、真剣にファクターXの正体を研究してるヒトはいるのだろうか。
 実はワタクシ空中さんはファクターXこそが世界を救う鍵であるとさえ思えるのだが、どうも真剣に受け止められているように思えない。
 
 多分、現状でいくら「日本を含む東アジアではCovid19はこんなに自粛するほどの脅威ではない」と言い立てても、今のコロナ騒動は終わらないだろう。
 この日本(を含む東アジア)における過剰なコロナ騒動を終わらせるために、一番必要なことは、ファクターXをファクターXではなくすこと、ファクターXを解明することに違いない。
 
 あと不思議なのは、今の日本で「Covid19おそるるに足らず」派の急先鋒は小林よしのり氏だと思うが、なぜか氏に対する言及はない。なぜ共闘しないのだろう。小林氏は木村盛世先生のことは言及していたが。
 
 まさか、ワクチンを製造する製薬会社がファクターXの解明を阻害している、とでも言うのだろうか、、、(なんでほん呪風、、、)

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 21:13, 空中禁煙者, 書籍

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「古本で見る昭和の生活」 ロマンチシズムあふれる昭和追想

 本との出会いは不思議なものだ。
 いつも出会うべき本を探しているが、読み終わってから「出会わなくても良かったかな、、、」と思うこともしばしばだ。
 我々はすべての出会うべき本と出会えているのだろうか。
 そして、ある日突然出会い、読み終わってから、いや、読んでいる最中に「ああ、出会うべき本に出会ったな、、、」と思える本もある。
 コレは、そんな本。
 
 著者の岡崎武志氏は自ら「神田系ライター」を名乗る、古本について、また昭和について語るライター。
 本書もズバリ、岡崎氏が古本屋を渉猟して手に入れた古本について語りながら、昭和を照らす、と言う内容。
 
 読み始めてしばらくは、「ちょっと掘り下げが足りないかなぁ、、、」と言う気もする。
 例えば、

「木村荘八『南縁随筆』」
の章。
 そもそも木村荘八さんを知らず、しばらく山岡荘八だと思っていた。
 その後、木村荘八氏の数奇な生い立ちが語られたり、他の著作のタイトルが「東京繁盛記」とか「東京風俗帖」であることが紹介されたりするが、この時点でまだ
 「いつ『徳川家康』のハナシになるんだろう、、、」
などと思っているワタクシ空中さんである。
 「ははー、『徳川家康』だの「織田信長』だの書いている合間に東京に関する随筆書いてたんだなー、、、」
などと思っている。
 その後、永井荷風の「『濹東綺譚』の「挿絵」を書いた、などというエピソードが語られるにいたり、やっと「アレ?おかしいか、、、」などと思う始末である。
 で、さすがに山岡荘八ではないことには気がついたが、結局木村荘八氏が挿絵もかける随筆家なのか、随筆もかける画家なのか分からないままだったりする。
 
 ちょっと、あまりの飛びかたに面食らってしまう。
 え?全然掘り下げないの?こんな浅いままなの?
 
 しかし、しばらく読み進めていくと、この飛び方が岡崎氏のウリなのだな、と分かってくる。
 飛び方が気持ちよくなってくるのだ。
 
 例えば、
 
『鈴木敬信「星と宇宙とプラネタリウム解説」東日天文館』
の章。

 二枚の『東日天文館ゑはがき』から始まって、あっという間に時空を超える連想の華麗さに翻弄される。
 
 東日天文館とは昭和13年の有楽町にできた日本で二番目のプラネタリウム(日本最初は大阪にあった)。渋谷の五島プラネタリウムの前に東京にプラネタリウムあったんだねぇ、、、
 ここから岡崎氏が星空に魅せられるきっかけになった天文学者、石田五郎氏の著作へ飛び、大阪にあった日本最初のプラネタリウムには手塚治虫が足繁く通っていたハナシから、東日天文館から出版された、章のタイトルになっているプラネタリウムの解説本へ、さらには東日天文館開館の5年前に40代の若さで亡くなった天文大好き宮沢賢治にプラネタリウムを見せたかったと感慨し、瀬名秀明の五島プラネタリウム最後の日にタイムスリップする小説にたどり着く。
 
 宇宙から有楽町へ、宮沢賢治から瀬名秀明へ、まさに時空を超えるこのロマンチシズムにはシビレた。
 
 かと思えば、
 
「季刊ジャズ批評別冊『ジャズ日本列島 50年版』ジャズ批評社」
の章。

 本書は要するに日本全国ジャズ喫茶地図である。
 著者岡崎氏のような古本者にとっての『全国古本屋地図』のように、ジャズ者たちは本書を手にジャズ喫茶を求めて日本全国を徘徊していたらしい(かな?)。
 そして立命館大学出身の岡崎氏も通っていたという、京都にあるジャズ喫茶、「しあんくれーる」を紹介すると、ハナシは一気に「二十歳の原点」に飛ぶ。
 若干二十歳で自ら命を絶った女子大生(要するに立命館だった)の日記を出版し、70年代にベストセラーになった「二十歳の原点」には、「しあんくれーる」が何度も出てくるのである。
 ここからハナシは一気に70年安保を巡る当時の大学生の孤独と苦悩へと突入する。
 「二十歳の原点」の作者、高野悦子の後輩である岡崎氏は自身の青春と重ね合わせて、60年代末の青春を鮮やかに描き出す。
 
 この二章を読むと、岡崎氏が単なる「古本と昭和文化に詳しいヒトがたまたま文章も上手かった」と言うだけのヒトではないことが分かる。
 
 このヒトはちゃんとした随筆家であり、文学者なのだ。
 ご当人は何を今更当然だと思うだろうが、なかなかそうは行かない執筆者が多い中で、貴重な随筆家を発見してしまった喜びに今はとりあえず浸りたいと思うワタクシ空中さんであった。
 

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 02:25, 空中禁煙者, 書籍

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「メディアミックス化する日本」 「大きな物語」消費論

 

 1989年(昭和天皇崩御の年)に書かれた大塚氏の「物語消費論」が、論壇でどのように受け止められたのか、不勉強にして分からないが、東浩紀氏が「データベース消費」という概念に発展させたくらいだから、やはりそれなりのインパクトが有ったのだろう。

 が、ワタクシ空中さんのその後の人生に大きな影響を与えた、という事はない。
 あえて積極的に物語消費を意識して「消費活動」をしたつもりもないし、周囲を見渡して「おお!コレって物語を消費してんじゃね?」と思った憶えもない。
 
 それでも大塚氏の著作を読み続けているのは、物語を消費する、という概念にいたくリアリティを感じ、脳みそにコーフンを感じたからであることは認めざるを得ない。
 
 1970年代末に発売された「ビックリマンチョコ」は、昔懐かしい「仮面ライダースナック」などと同様、本体のチョコよりも同封されたビックリマンを初めとするキャラクターたちのシールが子供たちの目当てだった。しかし各キャラクターの絵柄には「最近〇〇と仲違いしたらしい」等のミニ情報のキャプションが付いていた。
 子供たちは、やがてこのキャプションが広大な世界観の断片であるに気づき、世界観全体を求めお菓子屋さん(コンビニ?)巡りに奔走する。
 この、自ら積極的に世界観を補完したい、と望む心理から、二次創作まではあと一歩である。
 このように、新たな物語を生み出すのではなく、今ある物語を補完し、あるいは膨らませていこうとする行動を「物語消費」と読んだわけである。
 さらには、このような物語を消費する行動は、別にビックリマンあたりから突如生じたわけではなく、例えば歌舞伎における「世界」と「趣向」のように、むしろ歴史的に見ればこのようなあり方のほうが普通であり、現代のように作品と作家が一対一で結びついているあり方ことが近代の病なのである、とそこまでは言ってないが、まあ、そのようなことである。
 
 本書はKADOKAWAとドワンゴが合併した2014年、なんとそのKADOKAWAのスポンサードによって行われた東大大学院の講義(国立大学でそんな事が行われてるのね、、、)の裏講義の講義録らしい。
 つまり、表ではKADOKAWAの金で講義をして、その裏で、KADOKAWAとドワンゴの合併を「間違っている」という講義をしていたわけだ。
 それだけ、切迫した思いがあったのだろう。
 
 角川春樹亡き後角川書店を継いだ(この言い方も正しくないんだけど)弟の角川歴彦氏は、実は上記のような「物語消費」のあり方をメディアミックスの名のもとに、積極的に産業化してきた張本人である(この過程で実は大塚氏本人もがっつりコミットしていたことは本書で何度も言及される)。
 そしてドワンゴとは二次創作の巣窟、ニコニコ動画の母体である。
 従ってこの二社の合併は今の日本の「物語消費」に多大な影響を及ぼすものであり、本書はその影響が悪い方向に出るだろう、という予測のもとに成立しているわけだ。
 
 なぜ、この二社の合併が良くないのかは、本書にあたっていただきたい。
 ワタクシ空中さんが興味深かったのは、戦後日本に起きた二つの事件を物語消費論に当てはめて分析した行である。
 
 その二つの事件とは。
 オウム真理教事件と三島由紀夫事件である。
 
 オウム真理教事件はワタクシ空中さん世代にはやはり避けて通れない問題なのだ。
 
 以前「愛のむきだし」のエントリーにも書いたが、ワタクシ空中さんがオウムに関して最も恐怖を憶えたのは、信者たちの心に巣食う虚無であった。彼らの心は巨大な虚無で占領されていて、彼らはこの虚無に耐えられず、必死でこの虚無を埋めようとしているように思えたのだ。それは、ヘタに覗き込もうものなら、そのまま虚無の深淵に落ちて二度と帰って来れないような、恐ろしいものである。そりゃ、なんとか埋めたくもなるだろう。 この虚無を園子音監督はゆらゆら帝国の楽曲に託して「空洞」と呼んだ。
 
 当時の多く見られた分析では、オウム真理教と時を同じくして登場したいくつかの新宗教(当時は新・新宗教という呼び名があった)とそれ以前のいわゆる新宗教では、信者たちが信仰に走る理由に大きな差があるとされていた。
 それ以前の新宗教の信者たちが信仰に走る理由は、「貧・病・争」だというのだ。貧困と病気と争議である。これらに苦しむヒトビトが救いを求めて新興宗教に走るのだ、と。
 
 ところが、オウム真理教を始めとする新・新宗教の信者たちは、どうも貧困や病気に苦しんでいるように見えない。オウムで言えば上祐、土屋、村井あたりだろうか。どうも裕福な家庭に育って一流大学に進学し、将来を嘱望されたエリートの集団にしか見えない(松本智津夫自身は貧病争を絵に書いたような人物だったのは皮肉だが。イヤ、単なる皮肉じゃなくてちゃんと意味があるのかな、、、)。
 しかし、そんな、一見幸福そうな彼らの心には、ぽっかりと巨大な空洞が空いていた。
 
 ちょっと単純化して言わせてもらえば、新宗教の信者たちは心に貧病争といったナニかがプラスされ、それを取り除く(ゼロに戻る)ために信者になるの対し、新・新宗教の信者たちは、最初から心に空洞というマイナスを抱え込んでいて、それを埋めるために(ゼロにする)ために信者になるのだ。
 
 ワタクシ空中さんはこの空洞がなんなのか、なぜ彼らの心には空洞が空いていたのか、当時から不思議でしょうがなかったのだ。
 そして、本書はこの問いにひとつの答えを与えてくれる。
 
 彼らの心に空いていた空洞とは、大きな物語の喪失の結果であり、松本智津夫は彼らに大きな物語を与えることによってオルグしていた。というのである。
 
 またかよ、という気もしないことはない。
 ポストモダン以降、言論界ではなんかっつっちゃ「大きな物語の喪失」で物事を説明しようとしている感がないでもない。小林よしのりの天皇制への接近も結局コレだろう。
 しかし、松本智津夫がどうゆう「物語」を幹部たちに与えてオルグしていたかを例示されると、ああ、そうなのかな、と思わざるを得ない。
 
 さらに三島由紀夫である。
 ワタクシ空中さんにとっての三島由紀夫像は、岸田秀の「続ものぐさ精神分析」所収「三島由紀夫論」で固まってしまっている。
 
 「三島由紀夫の精神は最初から死んでいた。」
 
 という恐ろしい一文で始まる岸田氏の「三島由紀夫論」はなぜ三島由紀夫の精神は最初から死んでいたのか、なぜ精神は死んでいたのに発狂せずに生きていられたのか、そしてなぜ最後に自死しなければならなかったのか、を精神分析を用いて解き明かすこの一文を超える三島由紀夫論は読んだことがない。筒井先生の「ダヌンツィオに夢中」があるが、アレも三島由紀夫を全面的に解き明かす、という迫力において一歩劣る。
 
 そして本書は、「精神は死んでいた」を「物語は失われていた」と置き換えることで、三島の行動を解き明かしていく。
 三島がなぜ芝居に近づいていったのかの、常人には想像もつかない理由を、三島自身の証言をもとに解き明かしていくあたりの迫力で、30年ぶりに岸田氏の論を超える三島由紀夫論にであったのかな、と思う。
 
 それにつけても「大きな物語の喪失」である。
 実を言うと、ワタクシ空中さんは、この、「大きな物語に巻き取られたい」という願望が今ひとつピンと来てなかったりする。
 「オレって大きな物語に巻き取られたいのかなぁ、、、、」
 と嘆息する日々だったりする。
 確かに、例えばネットやメディアには確かに大きな物語に巻き取られたくて足掻いているヒトビトで溢れていることは理解できる。この期に及んで安倍ちゃんや日本会議に忖度するヒトたちは、結局そういうことだろう。当然、マルクス主義に巻き取られたいヒトビトも目につく。
 しかし、普通に働いて暮らして友人とあったりしていて、「あ、コイツ大きな物語に巻き取られようとしてる、、、」と思ったことがない。ワタクシ空中さんがそうじゃないヒトビトとの付き合いを無意識に拒否しているのだろうか。
 
 多分、「オマエは自ら意識しないうちに大きな物語に取り込まれているのだーーッつ!!」
 とか言われそうな気もする。
 
 あ、あと、ひとつ断っておかなきゃなりませんが、ワタクシ空中さん、三島由紀夫作品は一文字も読んだことありません。
 ざけんナーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!!!!
 

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 01:23, 空中禁煙者, 書籍

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「旅先のオバケ」 平成最後の昭和軽薄体(の出がらし)

 

 中学生から20代の終わりくらいまで、「エッセイ集」というものを読み倒していた。
 読み倒していた、というのは、幅広く大量に読んでいた、というよりも、ごく数人の作品を繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も何度も読んでいたのであった。
 その数人とは、
 筒井康隆
 丸谷才一
 山下洋輔
 椎名誠
 の四氏である。
 もちろん、筒井先生と椎名氏に関してはエッセイ以外もほぼ100%読んでいた。
 丸谷才一先生も6〜7割は読んでたかな。
 しかしこの4氏のエッセイの面白さは突出している。
 
 まあ、一番笑えるのは山下洋輔氏なんだけど。
 正直言ってこの歳まで読んだ書物の中で一番笑ったのは山下洋輔氏のエッセイなんだけど。
 
 しかし。
 その後山下洋輔氏のエッセイがどうなったかは、「山下洋輔の文字化け日記」に書いた。
 さらに、丸谷才一氏は残念ながら亡くなってしまった。
 さらにさらに筒井先生はエッセイなんか書かなくったって小説さえ書いていただければそれで充分でもある。
 残るは椎名誠氏である。
 椎名誠氏のエッセイも、もう、舐めるように何度も何度も読んだものだ。
 あんまり読みすぎて、一時期喋る言葉が椎名口調になってしまい、結婚してから奥さんと本棚を共有するようになってから、
「アナタの使うへんな口調は全部ココ(椎名氏の書籍のコト)に書いてある。『おんなしおんなし的』とか『事実にいちゃん』とか」
などと指摘されたのも今はいい思い出です。

 そんな中、椎名誠氏2018年の新作。
 椎名誠と言えば旅である。
 そんな椎名氏が、タイトルの通り旅先で、主に宿で遭遇した恐怖体験を集めたエッセイ集。
 
 で、ですね。
 「旅先のオバケ」
 ですよ。
 
 た・び・さ・き・の・お・ば・け
 
 椎名氏のエッセイ集のタイトルと言えば、
 「さらば国分寺書店のオババ」
 である。
 「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」
 である。
 「哀愁の街に霧は降るのだ」
 である。
 
 しかるにコレはどうだろう。
 何度も言うが、
 「旅先のオバケ」。
 
 なんとなく、タイトルの変化が内容をも予感させるのだが、、、
 
 まあ、そういう意味では予想どおりだよね。
 「山下洋輔の文字化け日記」と同じ。
 もう、あの椎名誠はいないのだろう。
 そりゃそうだ。
 前記の初期エッセイは70年代の終わりから80年代の作だ。40年前だ。人間40年も生きてりゃイロイロ変わる。
 
 とは言うものの、ココまで変わるか、、、というのが正直な感想。
 ココにはもはや「読んだヒトを文章力で面白がらそう」という思いは感じられない。
 そういう意味で「山下洋輔の文字化け日記」と全く同じ印象。
 若い頃に好きだった作家が枯れちまった悲しみに、今日も小雪が降りしきる。
 夢枕獏氏にも一時同様の思いを抱いたが、バク先生はなんとか持ちこたえてもいる。
 
 むかし筒井先生のエッセイに、編集部の注文を受けて書いたエッセイがボツになったと言うハナシを書いていた。
 筒井先生としては注文通りに書いたつもりだったが、担当編集者の上司の編集長から、望んでいたものと違っていました、と言う旨の手紙が来たと言う。
 筒井先生はその手紙を読んで「あ、連絡トレテナーイ」と思ったそうだが、その編集長の考えでは、「随筆とは、心象と物象の交わるところに生じるものであると思います」ということらしい。
 筒井先生は随筆が心象物象の交わるところに生じるとは知らなかったので、「ハハァーー」と思って寝てしまったそうである。 
 
 さらに、コレももう何十年も前だが、今は亡き中島梓氏は「エッセイとは、面白くてはイケないものである」と言っていた。 面白いエッセイなどというものはまだまだ「若い」し「青い」のであって、吐き出して吐き出して、ひねり出してひねり出してスッカラカンになってからが、エッセイの真髄だ、というのだ。
 何も書くことが無くなってから、それでも書かざるを得なくなって書かれた出がらしのようなモノを楽しむのがエッセイの楽しみかたなのだという。
 
 本書はまさに心象(心霊現象)と物象(宿屋)の交わるところに生じた出がらしである。
 ワタクシ空中さんももうトシなので、本来こういうものを楽しめなければならないような気もする。
 しかしトシということは残り時間が短いということでもあって、あえてつまらないものを好んで読む時間は残されていないなぁ、、、などと思うのであった、、、

JUGEMテーマ:ノンフィクショ

at 02:31, 空中禁煙者, 書籍

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「芦屋家の崩壊」 全然シリーズものっぽくないシリーズもの

 過去に何度かレヴューさせていただいていることからもお分かりの通り、津原泰水氏の大ファンなのだが、このシリーズはちょっと敬遠していた。
あるでしょう、予定調和っていうか、まいどまいど事件を持ち込む奴がいて、ワトソン役が右往左往してホームズ役が快刀乱麻を断つ如く解決する、みたいな。
おんなじ枚数でだいたい同じ枚数のところで事件が起きてだいたい同じ枚数のところで展開してだいたい同じ枚数のところで解決する、みたいな。
いくら言葉の魔術師津原泰水先生といえど、そういうのに今更手を出すの、ちょっとしんどいな、、、みたいな。

で、ですね。
全然違いましたね。
いざ読んでみたら。

もう、全然パターン化されてない。
下手をすると全然シリーズものではない短編集「奇譚集」や「11」以上に1編の長さもパターンもテイストもバラバラ。逆にシリーズ物でこんなにバラバラで成立するんだろうか不安になるほど。

一応、公式の紹介文にはこうある。

 「定職を持たない猿渡と小説家の伯爵は豆腐好きが縁で結びついたコンビ。伯爵の取材に運転手として同行する先々でなぜか遭遇する、身の毛もよだつ怪奇現象。」

当然、
猿渡=ワトソン
伯爵=ホームズ
という図式が予想され、まあ、だいたいそのとおりなのだが、意外とそうでもない。
伯爵が全く役に立たないエピソードや、そもそも登場しないエピソードすらあったりする。

コレがどういうことか、というと、ですね。
次のエピソードを読み始めるとき、ナニを読まされるか全く予想がつかない、いつも新鮮な気持ちで読み始められる、ということである。

「反曲隧道」
二人の出会いのエピソード。
短く、軽いテイストだが、え?コレで終わり?という急転直下の終わり方が印象的な幽霊譚。

「芦屋家の崩壊」
イキナリ長くなる。
陰陽師や八百比丘尼伝説といった民俗ネタがふんだんに盛り込まれ、ラストに向けてガンガン盛り上がりドンドンスピード感も増す読み応えのあるエピソード。

「当時のおれの周囲といったらどれもこれもロッカーの底で黴にまみれた運動靴のような連中だったから無理もない。おれ自身もそうだった。」

ああ、オレは今津原泰水を読んでいる、と思う。

「猫背の女」
伯爵が登場しない、と言う意味でも、超自然的要素がない、と言う意味でも異色のエピソード。
猿渡一人がひどい目に遭う、一種のストーカーもの。サイコホラーと言っても良い。
延々と「カチカチ山」に関する薀蓄から始まったりする。
さらに延々と読者をミスリードするテクニックがさすが。

「カルキノス」
幻想的だったり本格推理もの風だったりした挙げ句、意外な結末に至る。
もしかすると「噴飯もののオチ」を売りにする新本格のパロディのつもりなのかもしれない。
最終的に何ネタになるか書いてしまうとネタバレになってしまうが、ココまでネタの傾向がひとつも被っていないことだけは指摘しておきたい。

「ケルベロス」
タイトルの通り西洋の民俗ネタを交えながら日本土着の恐怖へ帰結する。
「芦屋家の崩壊」以来のラストに向けてスピード感が増していくエピソードだが、ラストでシリーズ(まあ、ココまでだけど)の驚愕と恐怖と感動がないまぜになった衝撃を叩きつけてくる。
ヤられた、、、としか言いようがない。

「埋葬蟲」
モンスターもの。
一番普通のホラーっぽいとも言えるが、ラストで急に世界が広がってSFになってしまう。

「奈々村女子の犯罪」
ネタとしてはオーソドックな幽霊譚とも言えるが、メタフィクショナルな構造も兼ね合わせているところが津原泰水っぽい。
レストの一行の裏切りも含めて、オーソドックスな幽霊譚がどんどん津原泰水になっていく。

「水牛群」
オープニングの「脳内恐怖物質」に関する延々と続く屁理屈が、みうらじゅん氏の「エロネタは液体なのでアタマを揺らすとこぼれる」と言うハナシを思い出させる。
猿渡によるこういう意味のわからない薀蓄もこのシリーズの楽しみのひとつ。
本編(?)は収録作中もっとも幻想色が強く、悪夢を小説にしたかのよう。
そういう意味でもやっぱり津原泰水は筒井康隆先生に近いなぁ、と思う。

かようにテーマも趣向もバラバラであり、マンネリズムやパターナリズムに陥る心配は全く無かった。
と、同時に津原氏の持つ様々な要素が重層的に楽しめる、お得なシリーズであることが判明したのであった、、、

JUGEMテーマ:小説全般

at 01:44, 空中禁煙者, 書籍

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「七王国の騎士」 地獄世界の清涼剤

 実は「氷と炎の歌」シリーズも現在まで翻訳版が出ている「竜との舞踏」まで読んでいるのである。
しかるにこの大長編をどこで取り上げていいか分からないまま今日この日までほったらかしてしまった。
そんな中、シリーズの外伝(前日譚でもある)が電子書籍になったので、このタイミングで一回扱っておこうか、という試みです。

まず、読み始めて安心するのは、コレが紛れもなく、あの七王国の世界だな、強烈に感じることだ。
あの「氷と炎の歌」の世界にっどっぷりと浸かれる喜びがある。
それは、単純に同じ舞台、同じ世界観で展開されている、というだけではない。
ココは、あの、
「善人は悲惨な目に会い、美しい悪人が栄える」
法則が支配する、あの、ジョージ・R・R・マーティンの世界なのだ。

それは少しサム・ライミ版のスパイダーマンシリーズにも似ている。
少し思い出してみよう。
サム・ライミ版の「スパイダーマン」シリーズは、一貫して
「イケメン=悪、非モテ=善」
という法則に支配されていた。
それは、非モテだった主人公が悪い宇宙人に乗っ取られた途端にモテ期が来る、というくらい徹底していた。

「氷と炎の歌」シリーズの世界観もほぼ同じ法則に支配されている。
本編の最重要キャラクター、ラニスター家の三姉弟、セーサイ、ジェイミー、ティリオンを思い出してみよう。
二卵性双生児の姉弟、サーセイとジェイミーは七王国一と謳われる美男美女であり、ジェイミーに至っては七王国一の騎士であるが、作品世界最大の悪人でも有る。ハッキリ言って本編で起きる悲惨な出来事の8割くらいはこの二人が原因と言っても過言ではない。
そして侏儒に生まれついた末っ子のティリオンだけが、ヒトの情けが分かる、優しい心の持ち主なのだ。しかも、この三兄弟は三人ともアタマもいいが、ティリオンは特に周囲から「アタマが良すぎる」と言われるほどアタマがいい。悪人か善人かは、アタマの良さは関係ない、あくまでモテか非モテか、なのだ。

そして、七王国の世界では善人であればあるほど悲惨な目に合う。七王国きっての高潔な魂を持つ一族、スターク家のヒトビトがどれだけ悲惨な運命に突き落とされることか。それはもう、ものの見事に、ひとり残らず、徹底的にシどい目に遭う。当主から当主の奥さんから幼い子供から家来の老人まで、他の小説ではかつて読んだこともないほどの辛酸を舐め尽くすのであった。

そして、この、「ダンクとエッグ」シリーズもこの法則に支配されている。
第一話「草臥の騎士」でも主人公ダンクの味方をしてくれた善人が、もう、ホント、コレ以上無いくらい悲惨な目に会います。
読んでいて、「ああ、コレこそが七王国。オレはあの七王国に戻ってきたんだな、、、」
という感慨が有るのであった。

主人公のダンクは浮浪児だった幼い頃に老騎士に拾われて爾来10数年、従士として老師の世話と修行に明け暮れていたが、物語が始まる前夜、老師が亡くなってしまい、老師の武具を引き継いで騎士となったばかり、まだ18歳の少年である。
そしてその日のうちに騎士に憧れる8歳の子供、なぜかツルツル坊主アタマでエッグと呼ばれる少年を銃士に従え、旅をすることになる。

第一話のタイトル「草臥の騎士」とは誰にも仕えていない騎士、日本で言えば「浪人」だろうか。二人で武術大会を目指したり、臨時で誰かに仕えたりして、旅は続くのであったが、ダンク先生、修行は何年もしていたが、武術の腕はまだまだ、生まれつきの長身(ダンカン・ザ・トール、と名乗っているくらい)と腕力だけでどうにかこうにか乗り切っていく、というハナシ。

そして、ダンク先生は老師譲りで純朴、かつ誠実なお人柄。
つまり、悪のはびこりがちな七王国世界で、この一服の清涼剤のような善人、ダンカン・ザ・トールが、どこまでやっていけるのか、というのがこのシリーズの基本コンセプトだと思う。

実を言うと、昔、ジョージ・R・R・マーティンが好きではなかった。
SF作家として登場したジョージ・R・R・マーティンの名を高からしめたヒューゴー賞(アメリカの有名なSFの賞です)受賞作「ライアへの賛歌」など読んだときなど、正直、「はぁ?」と思った。異星人のほうが愛情が深いからナニ?会ったことねーし、そんな事言われてもリアリティねーし(スミマセン、詳しくは原本にあたってください)。
要はセンス・オブ・ワンダーが無いというのだ。
小説ばっかり上手くてSFの真髄たるセンス・オブ・ワンダーがない。
コアなSFファンには嫌われるパターンだが、ナニブン小説が上手いので、売れに売れたのである。
ジョージ・R・R・マーティンを中心とした一部の作家がヒューゴー賞をやたら取るので、ヒューゴー賞授賞式の日がアメリカの祝日、「労働の日」であることから「レイバーデイグループ」などと言って揶揄されていた時期もあった。

その後、複数の作家と組んで「ワイルドカードシリーズ」と言う連作SFを初めてアメリカで大人気、などというハナシも伝わってきたが、「マーベル・コミック的なヒーローが戦いに明け暮れる世界」というだけでウンザリしてしまう。
イヤ、きっと、読んだら面白いだろうな、とは思うのよ。
思うけど、読む気はしない。
面白いだろうけど、SFを読むときに期待する驚きは得られないだろう。
そんな感じ。

そして、「氷と炎の歌」は、ファンタジーであり、センス・オブ・ワンダーは無くても大丈夫。
さらに言えば「ファンタジー」と言う以上、超自然的な現象も有るはずだが、それも最小限に抑えられている印象。
やはり「氷と炎の歌」の成功は、SF的な要素、センス・オブ・ワンダーを封印したところに成り立っているのだろう。

「ダンクとエッグ」シリーズに至っては超自然的要素はほぼない。
ジョージ・RR・マーティンの小説の巧さとヒトの悪さを充分に堪能できるのだ。

「ダンクとエッグ」は時代設定が本編の89年前という微妙な時代(両方の時代を生きているヒトが、ギリギリいる)。
本編の長さに恐れをなしているヒトにも、「ゲーム・オブ・スローンズ」でストーリーは分かっているよ、と言うヒトにもオススメできます。

JUGEMテーマ:小説全般

at 01:38, 空中禁煙者, 書籍

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「四十七人目の男・下」異文化摩擦を楽しもう!

 オープニングはボブ・リー・スワガーの父、アール・スワガーのシーン。
 アールが第二次大戦の英雄だったことはサーガ中で繰り返し語られているが、いきなり「イオー・ジマ」のシーンから始まるので、「アレ?コレ、やっぱり主役はボブ・リーじゃなくてアールなの?」と思う。
 イオー・ジマで日本軍と戦闘中、アールは「自分よりもしたたかな」日本兵に出会い、あっという間に部下を皆殺しにされてしまう。ひとり生き残ったアールは、果たして反撃できるのか、、、
 
 それから60年後。
 突然、隠遁中のボブ・リーのもとに、「アールよりもしたたかな日本兵」の息子が訪ねてくる。
 「もしかすると、お父上から、私の父の軍刀を預かってませんか?」
 
 そして、ボブ・リーはこの軍刀を巡って日本に行き、ヤクザと抗争を繰り広げた挙げ句、「コンドー・イサミ」を名乗るヤクザと一騎打ちせざるを得なくなるのであった、、、
 
 まず、コンドー・イサミという名前がダサい。
 当然新選組の近藤勇に憧れた挙げ句の偽名なのだが、サムライの代表として近藤勇というのはどうなのか。
 新選組限定でもサムライとして尊敬されているのは、トシゾー・ヒジカタかソーシ・オキタではないのか。
 イヤ、やっぱりそれも変かな。
 ブシドーの代表って誰だろう。
 
 宮本武蔵?
 柳生十兵衛?
 
 う〜ん、剣豪と武士道の体現者はまた違うかなぁ、、、
 コレはちょっと意外に難しい問題かもしれない。
 
 さらに、ですね、その「コンドー」は日本のAV業界のボスに雇われているのだが、このボス、なぜか
「白人女教師が日本人生徒をBlowJobするAV」などというものが流通し始めたら、日本のAV業界は壊滅する、と恐れているのである。
 
 そんな事はありません。
 
 事実ある程度それに類するAVメーカーは存在するが、一定数の固定ファンは捕まえているだろうが、大ブームということはない。
 っていうハナシを今の日本のAV事情に詳しいヒトに聞きました、、、
 
 さらにこのボス、AV業界の帝王として君臨し続けるために、「ある事」を目論んでいるのだが、コレがまた納得行かない。
 そんなことを成し遂げたからって、AV業界での尊敬を勝ち取れると思えない。つか、誰も興味ないのではないか。
 
 これらの日本文化に対する違和感を、「シラケる」と思うか、「へー、ガイジンさんからはこう見えるんだ、、、」と思えるかが、本作を楽しめるかどうかの分かれ目だろう。
 ワタクシ空中さんは、ココが(ココも)結構おもしろかったのである。
 
 しかし、スワガー・サーガの1編としては不満が残る出来なのは残念。
 このハナシの主人公は、正直言って、あの、伝説のスナイパー、ボブ・リー・スワガーじゃなくてもいい。家と言ってこのハナシ用に新たに主人公を立てたのでは、売上というものが立たないのだろう。ワタクシ空中さんにしてからが、スワガー・サーガの1編じゃなかったら読まないもんね。
 
 しかし、「伝説のスナイパーがどうやって剣の達人に日本刀の勝負で勝つか」という問題に対して、延々と伏線を張ることで答えたのはさすがだと思った。
 
 まあ、いろいろ書きましたが、最初にも書いたとおり、ワタクシ空中さんはメチャクチャ面白かったのだ。
 なんか、この、現代日本でアメリカ人が時代劇をやる、というメチャクチャな設定を楽しむ余裕があれば、あとはいつもスワガー・サーガだと言えないこともない。
 ね?そう考えると、いつものスワガー・サーガより面白そうな気さえしてこない?

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at 01:00, 空中禁煙者, 書籍

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「四十七人目の男」ハンター先生による「趣味を生かした創作活動」シリーズ第一弾

 「極大射程」以来のレヴューとなるが、スワガー・サーガもずっと読み続けているのである。
 で、今やっとココ。
 ボブ・リー・スワガー主役三作、父親のアール・スワガー主役で三作を経て、七作目。
 ボブ・リー主役の三作は三部作になっていて、最後の「狩のとき」(コレは傑作)でかなり大団円らしい大団円を迎えていたので、多分、スティーヴン・ハンターも終わりにするつもりだったと思われる。
 とは言うものの、世の中には色んな事情というものがあって、ですね、まあ、もう一作ぐらい書いてみっか、と。
 事情といえばお金とか色々考えられますが、最大の理由はスティーヴン・ハンター先生の興味だろう。
 ハンター先生、突然「或るモノ」に激烈な興味を覚え、どうしてもそれで一本書いてみたくなって、旧知のボブ・リーに再登場願った、というところが真相ではないか。
 その「或るモノ」とは、、、、
 
 ズバリ、「サムライ」であります。
 
 実を言うと本作、シリーズの中では甚だ評判が悪い。
 曰く「シリーズ最低の愚作」
 曰く「前半陳腐なヤクザ映画」
 曰く「突出してひどい出来」
 曰く「ばかじゃないの?」
 曰く「日本ナメんな」
 と散々である。
 
 しかし、ですね。
 あえて傑作「狩のとき」をスルーをしたワタクシ空中さんが、なにゆえ本作に限って扱おうと思ったか、というと、ですね、、、
 
 メチャクチャ面白かったからですぅ、、、
 
 本作が不評な理由は主にハンター先生がチャンバラ映画にのめり込むあまり、ボブ・リーを日本に行かせるのみならず、なんと真剣によるチャンバラでケリがつく、という無理筋に挑戦したことが主な、というか唯一の理由だろう。
 
 なるほど本作はチャンバラ映画に対する深い理解と、日本文化に対する大いなる誤解で出来ている。
 しかし。
 そこを飲み込んでしまえば、むしろその誤解をこそ楽しめるのだ。
 もう、楽しも。
 あー、なるほど、ガイジンさんから見ると日本ってこんな感じなのねー、フムフムってなもんである。
 
 一方で新宿の地理などよく調べてあって、ちょっとドキドキする。
 個人的に馴染み深い歌舞伎町の遊歩道が重要なシーンに出てきたりして、臨場感満点。
 そういう、妙に詳しいところと完全に誤解してるところが混在しているところが、全体にチグハグな印象を与えて迫力を削いでいる原因なのだろう。
 
 だけど、ですね。
 コレ、オレたちが日本人だからそう思うんであって、アメリカ人は全然気にならないだろう。
 オレたちだって普段アメリカが舞台のスワガー・サーガ読んでアメリカのことなんか分かっちゃいないのに、分かったフリして読み続けてるんだから、日本が舞台になったときだけ文句言うのは不公平ってもんだろう(そうか?)。
 別にハンター先生だって「正しい日本文化を伝えるために」小説書いてるわけじゃないもんね。

JUGEMテーマ:小説全般

at 21:19, 空中禁煙者, 書籍

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「町山智浩・春日太一の日本映画講義 時代劇編」 観てから読めば、確かに100倍くらい面白い。

 「時代劇で博士号を取ったオトコ」春日太一のハナシを町山智浩が聞く、という構成。
 町山さんの時代劇に対する熱い思いを春日氏が受け止める。
 もう、なんぼでも受け止める。
 受け止めた上で、広げまくる。
 圧倒的な知識と愛情に、読んでる方も驚嘆する(町山氏はあんまり驚嘆してない。「コイツならコレくらい知ってて当然だろ」くらいのノリ。知ってるヒトたちにとってはそういうものなのだろう)。
 
 とは言うものの、今回は「時代劇」全般ではなく、かなり時代とテーマを絞った内容になっている。
 この辺が、町山氏の時代劇に対する興味の中心ということなのだろう。
 
 その時代とはズバリ、黒澤明の「七人の侍」以降。
 黒澤によってそれ以前の舞踏的で様式的なチャンバラを脱し、リアルで「痛みを伴った」殺陣へと進化していく過程を追う、と言うのがテーマなのだろう。
 このテーマに沿って、黒澤明→内田吐夢→三隅研次→原田芳雄→五社英雄、と進んでいく。
 
 まあ、だいたいワタクシ空中さんも観ている映画ばかりで良かった。「剣」三部作も黒木和雄の「浪人街」も観ていた。まあ、ワタクシ空中さんは五社英雄がちょっと苦手なんだけど、、、

 そんな中、やっぱりお二人とは違う感想を持った映画も多々ある。
 例えば、、、
 
 嵐寛寿郎というヒトがいた。
 まあ、いわゆる鞍馬天狗の「アラカン」だが、要するに本書で扱われている三船、萬屋、若山といった剣豪役者たちの一世代前のNo.1剣豪役者だ。
 そのアラカンさんが竹中労に「若手で(殺陣が)巧いのは誰ですか?」と問われて曰く、
「まず錦之介。次に勝・若山の兄弟」
とお答えになったそうである。
 前にも書いたと思うが、ワタクシ空中さんは若山富三郎先生の大ファンなのである。
 したがってこの近衛先生のお言葉を読んだワタクシ空中さんは、「え?萬屋錦之介って若山先生より殺陣のできるヒトなの?」とノケゾったのである。
 ワタクシ空中さんの世代では萬屋錦之介と言えば、TV版「子連れ狼」や「破れ傘刀舟」のやたら辛気臭いおっさん、というイメージしかない。
 かろうじて昔の時代劇の大スターであることは知っていたが、なんとなく、アイドル的な役者さんだと思ってた(美空ひばりの相手役、みたいな)。
 その、錦之介が、こともあろうに、わ、わ、若山先生より上だとぉ〜〜〜〜〜!!
 どんだけ上だかコノ目で確かめたろうやんけ!!
 
 と、いうわけで、萬屋錦ちゃんの「宮本武蔵」五部作を観たのである。ワタクシ空中さんは。
 
 で、ですね、延々と五部作観ての感想が、ですね。
「あー、この内田吐夢ってヒト、チャンバラには興味ねーんだなー」
であります。

 宮本武蔵のハナシだから当然、チャンバラは有ることは有るんだが、「面白いチャンバラを観せよう」という演出にはなってない。
 それよりも、全五部作通してみて印象深かったのは、武蔵をめぐる数奇な人間模様であった。
 例えば、第一作で武蔵を散々苦しめる池田家の家臣花沢徳衛の息子が、いつの間にはお互いにそうとは知らず師匠と弟子として一緒に旅をしているのである。
 そして、遠く離れた江戸で既に脱藩して放浪の僧侶になっている花沢徳衛は遠くから武蔵と我が息子を見てハラハラと落涙する、とか。
 数奇すぎてむしろ伝奇的、と言えるほど、様々な人生が絡み合っては離れていく。
 おそらくは内田吐夢監督が主に興味があるのはその辺なのだろうな、思う。
 
 さらに内田吐夢監督が興味があるのは、「人間が悩んで成長する姿」である。
 一作目の錦ちゃんは開巻からほぼ終盤まで、まあ〜やんちゃくれで、ギャーギャー騒いでいるだけのガキンチョで、「コレがあの辛気臭い破れ傘刀舟かッ!」と目を疑うほどだ。
 まあ、つまりは「バガボンド」だ。
 ところが、姫路城の天守閣で三年の幽閉生活のあいだ読書に明け暮れた武蔵は、ラストのワンカットでコレまた驚嘆すべき成長を遂げている。
 それまでのやんちゃくれ芝居から、一転してドエラく深みのある人間の芝居をしてみせた錦ちゃんにも感服するが、ラストのバストショットワンカットで一本の映画をひっくり返した(ひっくり返せると読んだ)内田吐夢監督の彗眼には感服する。
 このカットのあいだ、「ああ、この映画はこのワンカットのためにあったのだな、、、」と痛感させられる。 なかなか有りそうで無い映画体験ができるのだ。
 
 で、ですね。
 思わず「宮本武蔵」について延々と書いてしまいましたが、本題はもちろん「日本映画講義」です。
 ワタクシ空中さんが感じたこれらのことどもは、本書では一切触れられていません、、、
 
 しかし共通点もある。
 本書でも、内田監督の興味が「チャンバラ」に向けられていない、という点では一致している。
 なぜなら本書でもせっかく萬屋錦ちゃんに地上最高の剣豪役をやらせているにも関わらず、「殺陣」についてのハナシは殆ど出てこないからだ。
 
 ではナニが出てくるか、というとですね。
 お二人にとって「宮本武蔵」は、内田吐夢監督の自伝である、と。
 映画のために妻子を捨て、挙句の果てに戦争で人を殺めざるを得なかった、内田監督の贖罪のための映画になっていく、と。
 あまつさえ、内田監督が満州で出会った甘粕正彦(どうも友人だったらしい)の思いまで反映されていると言う。
 この辺まで来ると映画のストーリーどころか制作の背景まで伝奇的である。
 さすが「背景批評」を標榜する町山氏の面目躍如といったところ。
 
 次に「七人の侍」「宮本武蔵」についで扱われるのは「剣」三部作や「子連れ狼」の三隅研次。
 ワタクシ空中さんは三隅研次も大好きな映画監督の一人だが、ここでもやっぱりお二人の評価とは食い違ってたりして、、、
 
 ワタクシ空中さんにとって三隅研次とは、
「過激なまでのカメラワークを使って時代劇情緒豊かな絵を撮るヒト」
である。
 「過激なカメラワーク」と「時代劇情緒」。
 この一見そぐわなそうな要素を同時に成立させるヒト。
 コレが三隅研次である。
 
 ところが、町山氏にとって三隅研次はあくまで「切り株映画」(各人でググるように)のヒトであり、「日本刀で人体を切断することにこだわり続けたヒト」である。
 
 う〜ん、、、ワタクシ空中さんはやっぱりこの意見には与することはできないなぁ、、、
 確かに「子連れ狼」で時代劇におけるスプラッタ描写を確立したヒトでは有るんだけど(そもそも「切り株映画」という言葉は「子連れ狼」を指して町山氏か少なくとも町山氏在籍当時の「映画秘宝」が作った用語だったような気がする)。
 町山氏がこだわっている剣三部作の「斬る」で有名な人体が左右に真っ二つに切断されてペロっと「めくれる」カットにしても、凄いロングのしかも河原のススキ舐めで撮っていて、よく見ていないと判らないようなものであったではないか。
 
 どの「座頭市」だったか忘れたが、ゲッとのけぞるくらい印象的なカットがあった。
 シーンのアタマ、画面はほぼ真っ暗だが、中央に縦長長方形の光の「枠」だけが見える。
 最初はなんだかわからないのだが、すぐに「ガラッ」と音がして「枠」だけだった光が長方形に広がり、自分が見ていたものが、農家の内側から引き戸を撮っていた映像だと判る。そして外に座頭市が立っているのだが、何故か座頭市は「逆さま」に立っていて、観客が「座頭市が逆さまに立っている」ということを認識したタイミングで、カメラが180度回転し、正の位置に戻る。つまり、カメラをひっくり返して撮っていたのだ。
 
 なんだコレは。
 なんの意味があるのだ。
 
 一軒の家全体でひと間しかない(部屋という概念がまだ無い)江戸時代の農家を、「光の枠」だけで表現するという過激さ。しかもなぜか上下逆さま。「光の枠だけだったら、上下どっちかわかんないじゃん?」と言っているようだ。
 
 ワタクシ空中さんにとっては、コレが三隅研次である。
 
 しかし、春日氏によると、三隅研次はあくまでも「フツーの絵」を撮りたがった人だそうである。
 そして、三隅作品に見られるトリッキーなカメラワークは、なんと、大映映画の技術陣、つまり撮影監督の賜物なのだそうだ。
 えーーーー、、、、
 三隅研次、若山富三郎の「子連れ狼」コンビが東宝で撮った現代劇、「桜の代紋」(コレも傑作)でも、会話を天井の照明の金属部分に写った反射で撮る、とか超過激映像満載だったじゃん、と思ったが、調べてるみると撮影はやっぱり大映出身の森田富士郎であった、、、、う〜ん、、、
 
 というわけで、全体的に町山氏流の「背景批評」が春日太一の知識を借りて爆発している書物になっている。 そう、町山智浩と言えば背景批評である。
 町山氏のモットー「映画は、何も知らずに観ても面白い。でも、知ってから観ると一〇〇倍面白い。観てから知っても一〇〇倍面白い!」の前半部分はそういうことだろう。
 しかし、ワタクシ空中さんは、別にこういう映画の背景が映画を観たときの面白さに影響するとは思ってない。
 ヘタすると、「関係なくね?」とすら思っている。
 じゃあなぜ、町山氏の本を読むのかといえば、後半部分「観てから知っても一〇〇倍面白い!」が真実だからだ。
 実際、観ないで読んでも全然面白くないもんね。
 
 ところで、五社英雄映画の殺陣って、ダサくないですか?

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 21:30, 空中禁煙者, 書籍

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