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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「旅先のオバケ」 平成最後の昭和軽薄体(の出がらし)

 

 中学生から20代の終わりくらいまで、「エッセイ集」というものを読み倒していた。
 読み倒していた、というのは、幅広く大量に読んでいた、というよりも、ごく数人の作品を繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も何度も読んでいたのであった。
 その数人とは、
 筒井康隆
 丸谷才一
 山下洋輔
 椎名誠
 の四氏である。
 もちろん、筒井先生と椎名氏に関してはエッセイ以外もほぼ100%読んでいた。
 丸谷才一先生も6〜7割は読んでたかな。
 しかしこの4氏のエッセイの面白さは突出している。
 
 まあ、一番笑えるのは山下洋輔氏なんだけど。
 正直言ってこの歳まで読んだ書物の中で一番笑ったのは山下洋輔氏のエッセイなんだけど。
 
 しかし。
 その後山下洋輔氏のエッセイがどうなったかは、「山下洋輔の文字化け日記」に書いた。
 さらに、丸谷才一氏は残念ながら亡くなってしまった。
 さらにさらに筒井先生はエッセイなんか書かなくったって小説さえ書いていただければそれで充分でもある。
 残るは椎名誠氏である。
 椎名誠氏のエッセイも、もう、舐めるように何度も何度も読んだものだ。
 あんまり読みすぎて、一時期喋る言葉が椎名口調になってしまい、結婚してから奥さんと本棚を共有するようになってから、
「アナタの使うへんな口調は全部ココ(椎名氏の書籍のコト)に書いてある。『おんなしおんなし的』とか『事実にいちゃん』とか」
などと指摘されたのも今はいい思い出です。

 そんな中、椎名誠氏2018年の新作。
 椎名誠と言えば旅である。
 そんな椎名氏が、タイトルの通り旅先で、主に宿で遭遇した恐怖体験を集めたエッセイ集。
 
 で、ですね。
 「旅先のオバケ」
 ですよ。
 
 た・び・さ・き・の・お・ば・け
 
 椎名氏のエッセイ集のタイトルと言えば、
 「さらば国分寺書店のオババ」
 である。
 「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」
 である。
 「哀愁の街に霧は降るのだ」
 である。
 
 しかるにコレはどうだろう。
 何度も言うが、
 「旅先のオバケ」。
 
 なんとなく、タイトルの変化が内容をも予感させるのだが、、、
 
 まあ、そういう意味では予想どおりだよね。
 「山下洋輔の文字化け日記」と同じ。
 もう、あの椎名誠はいないのだろう。
 そりゃそうだ。
 前記の初期エッセイは70年代の終わりから80年代の作だ。40年前だ。人間40年も生きてりゃイロイロ変わる。
 
 とは言うものの、ココまで変わるか、、、というのが正直な感想。
 ココにはもはや「読んだヒトを文章力で面白がらそう」という思いは感じられない。
 そういう意味で「山下洋輔の文字化け日記」と全く同じ印象。
 若い頃に好きだった作家が枯れちまった悲しみに、今日も小雪が降りしきる。
 夢枕獏氏にも一時同様の思いを抱いたが、バク先生はなんとか持ちこたえてもいる。
 
 むかし筒井先生のエッセイに、編集部の注文を受けて書いたエッセイがボツになったと言うハナシを書いていた。
 筒井先生としては注文通りに書いたつもりだったが、担当編集者の上司の編集長から、望んでいたものと違っていました、と言う旨の手紙が来たと言う。
 筒井先生はその手紙を読んで「あ、連絡トレテナーイ」と思ったそうだが、その編集長の考えでは、「随筆とは、心象と物象の交わるところに生じるものであると思います」ということらしい。
 筒井先生は随筆が心象物象の交わるところに生じるとは知らなかったので、「ハハァーー」と思って寝てしまったそうである。 
 
 さらに、コレももう何十年も前だが、今は亡き中島梓氏は「エッセイとは、面白くてはイケないものである」と言っていた。 面白いエッセイなどというものはまだまだ「若い」し「青い」のであって、吐き出して吐き出して、ひねり出してひねり出してスッカラカンになってからが、エッセイの真髄だ、というのだ。
 何も書くことが無くなってから、それでも書かざるを得なくなって書かれた出がらしのようなモノを楽しむのがエッセイの楽しみかたなのだという。
 
 本書はまさに心象(心霊現象)と物象(宿屋)の交わるところに生じた出がらしである。
 ワタクシ空中さんももうトシなので、本来こういうものを楽しめなければならないような気もする。
 しかしトシということは残り時間が短いということでもあって、あえてつまらないものを好んで読む時間は残されていないなぁ、、、などと思うのであった、、、

JUGEMテーマ:ノンフィクショ

at 02:31, 空中禁煙者, 書籍

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「芦屋家の崩壊」 全然シリーズものっぽくないシリーズもの

 過去に何度かレヴューさせていただいていることからもお分かりの通り、津原泰水氏の大ファンなのだが、このシリーズはちょっと敬遠していた。
あるでしょう、予定調和っていうか、まいどまいど事件を持ち込む奴がいて、ワトソン役が右往左往してホームズ役が快刀乱麻を断つ如く解決する、みたいな。
おんなじ枚数でだいたい同じ枚数のところで事件が起きてだいたい同じ枚数のところで展開してだいたい同じ枚数のところで解決する、みたいな。
いくら言葉の魔術師津原泰水先生といえど、そういうのに今更手を出すの、ちょっとしんどいな、、、みたいな。

で、ですね。
全然違いましたね。
いざ読んでみたら。

もう、全然パターン化されてない。
下手をすると全然シリーズものではない短編集「奇譚集」や「11」以上に1編の長さもパターンもテイストもバラバラ。逆にシリーズ物でこんなにバラバラで成立するんだろうか不安になるほど。

一応、公式の紹介文にはこうある。

 「定職を持たない猿渡と小説家の伯爵は豆腐好きが縁で結びついたコンビ。伯爵の取材に運転手として同行する先々でなぜか遭遇する、身の毛もよだつ怪奇現象。」

当然、
猿渡=ワトソン
伯爵=ホームズ
という図式が予想され、まあ、だいたいそのとおりなのだが、意外とそうでもない。
伯爵が全く役に立たないエピソードや、そもそも登場しないエピソードすらあったりする。

コレがどういうことか、というと、ですね。
次のエピソードを読み始めるとき、ナニを読まされるか全く予想がつかない、いつも新鮮な気持ちで読み始められる、ということである。

「反曲隧道」
二人の出会いのエピソード。
短く、軽いテイストだが、え?コレで終わり?という急転直下の終わり方が印象的な幽霊譚。

「芦屋家の崩壊」
イキナリ長くなる。
陰陽師や八百比丘尼伝説といった民俗ネタがふんだんに盛り込まれ、ラストに向けてガンガン盛り上がりドンドンスピード感も増す読み応えのあるエピソード。

「当時のおれの周囲といったらどれもこれもロッカーの底で黴にまみれた運動靴のような連中だったから無理もない。おれ自身もそうだった。」

ああ、オレは今津原泰水を読んでいる、と思う。

「猫背の女」
伯爵が登場しない、と言う意味でも、超自然的要素がない、と言う意味でも異色のエピソード。
猿渡一人がひどい目に遭う、一種のストーカーもの。サイコホラーと言っても良い。
延々と「カチカチ山」に関する薀蓄から始まったりする。
さらに延々と読者をミスリードするテクニックがさすが。

「カルキノス」
幻想的だったり本格推理もの風だったりした挙げ句、意外な結末に至る。
もしかすると「噴飯もののオチ」を売りにする新本格のパロディのつもりなのかもしれない。
最終的に何ネタになるか書いてしまうとネタバレになってしまうが、ココまでネタの傾向がひとつも被っていないことだけは指摘しておきたい。

「ケルベロス」
タイトルの通り西洋の民俗ネタを交えながら日本土着の恐怖へ帰結する。
「芦屋家の崩壊」以来のラストに向けてスピード感が増していくエピソードだが、ラストでシリーズ(まあ、ココまでだけど)の驚愕と恐怖と感動がないまぜになった衝撃を叩きつけてくる。
ヤられた、、、としか言いようがない。

「埋葬蟲」
モンスターもの。
一番普通のホラーっぽいとも言えるが、ラストで急に世界が広がってSFになってしまう。

「奈々村女子の犯罪」
ネタとしてはオーソドックな幽霊譚とも言えるが、メタフィクショナルな構造も兼ね合わせているところが津原泰水っぽい。
レストの一行の裏切りも含めて、オーソドックスな幽霊譚がどんどん津原泰水になっていく。

「水牛群」
オープニングの「脳内恐怖物質」に関する延々と続く屁理屈が、みうらじゅん氏の「エロネタは液体なのでアタマを揺らすとこぼれる」と言うハナシを思い出させる。
猿渡によるこういう意味のわからない薀蓄もこのシリーズの楽しみのひとつ。
本編(?)は収録作中もっとも幻想色が強く、悪夢を小説にしたかのよう。
そういう意味でもやっぱり津原泰水は筒井康隆先生に近いなぁ、と思う。

かようにテーマも趣向もバラバラであり、マンネリズムやパターナリズムに陥る心配は全く無かった。
と、同時に津原氏の持つ様々な要素が重層的に楽しめる、お得なシリーズであることが判明したのであった、、、

JUGEMテーマ:小説全般

at 01:44, 空中禁煙者, 書籍

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「七王国の騎士」 地獄世界の清涼剤

 実は「氷と炎の歌」シリーズも現在まで翻訳版が出ている「竜との舞踏」まで読んでいるのである。
しかるにこの大長編をどこで取り上げていいか分からないまま今日この日までほったらかしてしまった。
そんな中、シリーズの外伝(前日譚でもある)が電子書籍になったので、このタイミングで一回扱っておこうか、という試みです。

まず、読み始めて安心するのは、コレが紛れもなく、あの七王国の世界だな、強烈に感じることだ。
あの「氷と炎の歌」の世界にっどっぷりと浸かれる喜びがある。
それは、単純に同じ舞台、同じ世界観で展開されている、というだけではない。
ココは、あの、
「善人は悲惨な目に会い、美しい悪人が栄える」
法則が支配する、あの、ジョージ・R・R・マーティンの世界なのだ。

それは少しサム・ライミ版のスパイダーマンシリーズにも似ている。
少し思い出してみよう。
サム・ライミ版の「スパイダーマン」シリーズは、一貫して
「イケメン=悪、非モテ=善」
という法則に支配されていた。
それは、非モテだった主人公が悪い宇宙人に乗っ取られた途端にモテ期が来る、というくらい徹底していた。

「氷と炎の歌」シリーズの世界観もほぼ同じ法則に支配されている。
本編の最重要キャラクター、ラニスター家の三姉弟、セーサイ、ジェイミー、ティリオンを思い出してみよう。
二卵性双生児の姉弟、サーセイとジェイミーは七王国一と謳われる美男美女であり、ジェイミーに至っては七王国一の騎士であるが、作品世界最大の悪人でも有る。ハッキリ言って本編で起きる悲惨な出来事の8割くらいはこの二人が原因と言っても過言ではない。
そして侏儒に生まれついた末っ子のティリオンだけが、ヒトの情けが分かる、優しい心の持ち主なのだ。しかも、この三兄弟は三人ともアタマもいいが、ティリオンは特に周囲から「アタマが良すぎる」と言われるほどアタマがいい。悪人か善人かは、アタマの良さは関係ない、あくまでモテか非モテか、なのだ。

そして、七王国の世界では善人であればあるほど悲惨な目に合う。七王国きっての高潔な魂を持つ一族、スターク家のヒトビトがどれだけ悲惨な運命に突き落とされることか。それはもう、ものの見事に、ひとり残らず、徹底的にシどい目に遭う。当主から当主の奥さんから幼い子供から家来の老人まで、他の小説ではかつて読んだこともないほどの辛酸を舐め尽くすのであった。

そして、この、「ダンクとエッグ」シリーズもこの法則に支配されている。
第一話「草臥の騎士」でも主人公ダンクの味方をしてくれた善人が、もう、ホント、コレ以上無いくらい悲惨な目に会います。
読んでいて、「ああ、コレこそが七王国。オレはあの七王国に戻ってきたんだな、、、」
という感慨が有るのであった。

主人公のダンクは浮浪児だった幼い頃に老騎士に拾われて爾来10数年、従士として老師の世話と修行に明け暮れていたが、物語が始まる前夜、老師が亡くなってしまい、老師の武具を引き継いで騎士となったばかり、まだ18歳の少年である。
そしてその日のうちに騎士に憧れる8歳の子供、なぜかツルツル坊主アタマでエッグと呼ばれる少年を銃士に従え、旅をすることになる。

第一話のタイトル「草臥の騎士」とは誰にも仕えていない騎士、日本で言えば「浪人」だろうか。二人で武術大会を目指したり、臨時で誰かに仕えたりして、旅は続くのであったが、ダンク先生、修行は何年もしていたが、武術の腕はまだまだ、生まれつきの長身(ダンカン・ザ・トール、と名乗っているくらい)と腕力だけでどうにかこうにか乗り切っていく、というハナシ。

そして、ダンク先生は老師譲りで純朴、かつ誠実なお人柄。
つまり、悪のはびこりがちな七王国世界で、この一服の清涼剤のような善人、ダンカン・ザ・トールが、どこまでやっていけるのか、というのがこのシリーズの基本コンセプトだと思う。

実を言うと、昔、ジョージ・R・R・マーティンが好きではなかった。
SF作家として登場したジョージ・R・R・マーティンの名を高からしめたヒューゴー賞(アメリカの有名なSFの賞です)受賞作「ライアへの賛歌」など読んだときなど、正直、「はぁ?」と思った。異星人のほうが愛情が深いからナニ?会ったことねーし、そんな事言われてもリアリティねーし(スミマセン、詳しくは原本にあたってください)。
要はセンス・オブ・ワンダーが無いというのだ。
小説ばっかり上手くてSFの真髄たるセンス・オブ・ワンダーがない。
コアなSFファンには嫌われるパターンだが、ナニブン小説が上手いので、売れに売れたのである。
ジョージ・R・R・マーティンを中心とした一部の作家がヒューゴー賞をやたら取るので、ヒューゴー賞授賞式の日がアメリカの祝日、「労働の日」であることから「レイバーデイグループ」などと言って揶揄されていた時期もあった。

その後、複数の作家と組んで「ワイルドカードシリーズ」と言う連作SFを初めてアメリカで大人気、などというハナシも伝わってきたが、「マーベル・コミック的なヒーローが戦いに明け暮れる世界」というだけでウンザリしてしまう。
イヤ、きっと、読んだら面白いだろうな、とは思うのよ。
思うけど、読む気はしない。
面白いだろうけど、SFを読むときに期待する驚きは得られないだろう。
そんな感じ。

そして、「氷と炎の歌」は、ファンタジーであり、センス・オブ・ワンダーは無くても大丈夫。
さらに言えば「ファンタジー」と言う以上、超自然的な現象も有るはずだが、それも最小限に抑えられている印象。
やはり「氷と炎の歌」の成功は、SF的な要素、センス・オブ・ワンダーを封印したところに成り立っているのだろう。

「ダンクとエッグ」シリーズに至っては超自然的要素はほぼない。
ジョージ・RR・マーティンの小説の巧さとヒトの悪さを充分に堪能できるのだ。

「ダンクとエッグ」は時代設定が本編の89年前という微妙な時代(両方の時代を生きているヒトが、ギリギリいる)。
本編の長さに恐れをなしているヒトにも、「ゲーム・オブ・スローンズ」でストーリーは分かっているよ、と言うヒトにもオススメできます。

JUGEMテーマ:小説全般

at 01:38, 空中禁煙者, 書籍

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「四十七人目の男・下」異文化摩擦を楽しもう!

 オープニングはボブ・リー・スワガーの父、アール・スワガーのシーン。
 アールが第二次大戦の英雄だったことはサーガ中で繰り返し語られているが、いきなり「イオー・ジマ」のシーンから始まるので、「アレ?コレ、やっぱり主役はボブ・リーじゃなくてアールなの?」と思う。
 イオー・ジマで日本軍と戦闘中、アールは「自分よりもしたたかな」日本兵に出会い、あっという間に部下を皆殺しにされてしまう。ひとり生き残ったアールは、果たして反撃できるのか、、、
 
 それから60年後。
 突然、隠遁中のボブ・リーのもとに、「アールよりもしたたかな日本兵」の息子が訪ねてくる。
 「もしかすると、お父上から、私の父の軍刀を預かってませんか?」
 
 そして、ボブ・リーはこの軍刀を巡って日本に行き、ヤクザと抗争を繰り広げた挙げ句、「コンドー・イサミ」を名乗るヤクザと一騎打ちせざるを得なくなるのであった、、、
 
 まず、コンドー・イサミという名前がダサい。
 当然新選組の近藤勇に憧れた挙げ句の偽名なのだが、サムライの代表として近藤勇というのはどうなのか。
 新選組限定でもサムライとして尊敬されているのは、トシゾー・ヒジカタかソーシ・オキタではないのか。
 イヤ、やっぱりそれも変かな。
 ブシドーの代表って誰だろう。
 
 宮本武蔵?
 柳生十兵衛?
 
 う〜ん、剣豪と武士道の体現者はまた違うかなぁ、、、
 コレはちょっと意外に難しい問題かもしれない。
 
 さらに、ですね、その「コンドー」は日本のAV業界のボスに雇われているのだが、このボス、なぜか
「白人女教師が日本人生徒をBlowJobするAV」などというものが流通し始めたら、日本のAV業界は壊滅する、と恐れているのである。
 
 そんな事はありません。
 
 事実ある程度それに類するAVメーカーは存在するが、一定数の固定ファンは捕まえているだろうが、大ブームということはない。
 っていうハナシを今の日本のAV事情に詳しいヒトに聞きました、、、
 
 さらにこのボス、AV業界の帝王として君臨し続けるために、「ある事」を目論んでいるのだが、コレがまた納得行かない。
 そんなことを成し遂げたからって、AV業界での尊敬を勝ち取れると思えない。つか、誰も興味ないのではないか。
 
 これらの日本文化に対する違和感を、「シラケる」と思うか、「へー、ガイジンさんからはこう見えるんだ、、、」と思えるかが、本作を楽しめるかどうかの分かれ目だろう。
 ワタクシ空中さんは、ココが(ココも)結構おもしろかったのである。
 
 しかし、スワガー・サーガの1編としては不満が残る出来なのは残念。
 このハナシの主人公は、正直言って、あの、伝説のスナイパー、ボブ・リー・スワガーじゃなくてもいい。家と言ってこのハナシ用に新たに主人公を立てたのでは、売上というものが立たないのだろう。ワタクシ空中さんにしてからが、スワガー・サーガの1編じゃなかったら読まないもんね。
 
 しかし、「伝説のスナイパーがどうやって剣の達人に日本刀の勝負で勝つか」という問題に対して、延々と伏線を張ることで答えたのはさすがだと思った。
 
 まあ、いろいろ書きましたが、最初にも書いたとおり、ワタクシ空中さんはメチャクチャ面白かったのだ。
 なんか、この、現代日本でアメリカ人が時代劇をやる、というメチャクチャな設定を楽しむ余裕があれば、あとはいつもスワガー・サーガだと言えないこともない。
 ね?そう考えると、いつものスワガー・サーガより面白そうな気さえしてこない?

JUGEMテーマ:小説全

at 01:00, 空中禁煙者, 書籍

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「四十七人目の男」ハンター先生による「趣味を生かした創作活動」シリーズ第一弾

 「極大射程」以来のレヴューとなるが、スワガー・サーガもずっと読み続けているのである。
 で、今やっとココ。
 ボブ・リー・スワガー主役三作、父親のアール・スワガー主役で三作を経て、七作目。
 ボブ・リー主役の三作は三部作になっていて、最後の「狩のとき」(コレは傑作)でかなり大団円らしい大団円を迎えていたので、多分、スティーヴン・ハンターも終わりにするつもりだったと思われる。
 とは言うものの、世の中には色んな事情というものがあって、ですね、まあ、もう一作ぐらい書いてみっか、と。
 事情といえばお金とか色々考えられますが、最大の理由はスティーヴン・ハンター先生の興味だろう。
 ハンター先生、突然「或るモノ」に激烈な興味を覚え、どうしてもそれで一本書いてみたくなって、旧知のボブ・リーに再登場願った、というところが真相ではないか。
 その「或るモノ」とは、、、、
 
 ズバリ、「サムライ」であります。
 
 実を言うと本作、シリーズの中では甚だ評判が悪い。
 曰く「シリーズ最低の愚作」
 曰く「前半陳腐なヤクザ映画」
 曰く「突出してひどい出来」
 曰く「ばかじゃないの?」
 曰く「日本ナメんな」
 と散々である。
 
 しかし、ですね。
 あえて傑作「狩のとき」をスルーをしたワタクシ空中さんが、なにゆえ本作に限って扱おうと思ったか、というと、ですね、、、
 
 メチャクチャ面白かったからですぅ、、、
 
 本作が不評な理由は主にハンター先生がチャンバラ映画にのめり込むあまり、ボブ・リーを日本に行かせるのみならず、なんと真剣によるチャンバラでケリがつく、という無理筋に挑戦したことが主な、というか唯一の理由だろう。
 
 なるほど本作はチャンバラ映画に対する深い理解と、日本文化に対する大いなる誤解で出来ている。
 しかし。
 そこを飲み込んでしまえば、むしろその誤解をこそ楽しめるのだ。
 もう、楽しも。
 あー、なるほど、ガイジンさんから見ると日本ってこんな感じなのねー、フムフムってなもんである。
 
 一方で新宿の地理などよく調べてあって、ちょっとドキドキする。
 個人的に馴染み深い歌舞伎町の遊歩道が重要なシーンに出てきたりして、臨場感満点。
 そういう、妙に詳しいところと完全に誤解してるところが混在しているところが、全体にチグハグな印象を与えて迫力を削いでいる原因なのだろう。
 
 だけど、ですね。
 コレ、オレたちが日本人だからそう思うんであって、アメリカ人は全然気にならないだろう。
 オレたちだって普段アメリカが舞台のスワガー・サーガ読んでアメリカのことなんか分かっちゃいないのに、分かったフリして読み続けてるんだから、日本が舞台になったときだけ文句言うのは不公平ってもんだろう(そうか?)。
 別にハンター先生だって「正しい日本文化を伝えるために」小説書いてるわけじゃないもんね。

JUGEMテーマ:小説全般

at 21:19, 空中禁煙者, 書籍

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「町山智浩・春日太一の日本映画講義 時代劇編」 観てから読めば、確かに100倍くらい面白い。

 「時代劇で博士号を取ったオトコ」春日太一のハナシを町山智浩が聞く、という構成。
 町山さんの時代劇に対する熱い思いを春日氏が受け止める。
 もう、なんぼでも受け止める。
 受け止めた上で、広げまくる。
 圧倒的な知識と愛情に、読んでる方も驚嘆する(町山氏はあんまり驚嘆してない。「コイツならコレくらい知ってて当然だろ」くらいのノリ。知ってるヒトたちにとってはそういうものなのだろう)。
 
 とは言うものの、今回は「時代劇」全般ではなく、かなり時代とテーマを絞った内容になっている。
 この辺が、町山氏の時代劇に対する興味の中心ということなのだろう。
 
 その時代とはズバリ、黒澤明の「七人の侍」以降。
 黒澤によってそれ以前の舞踏的で様式的なチャンバラを脱し、リアルで「痛みを伴った」殺陣へと進化していく過程を追う、と言うのがテーマなのだろう。
 このテーマに沿って、黒澤明→内田吐夢→三隅研次→原田芳雄→五社英雄、と進んでいく。
 
 まあ、だいたいワタクシ空中さんも観ている映画ばかりで良かった。「剣」三部作も黒木和雄の「浪人街」も観ていた。まあ、ワタクシ空中さんは五社英雄がちょっと苦手なんだけど、、、

 そんな中、やっぱりお二人とは違う感想を持った映画も多々ある。
 例えば、、、
 
 嵐寛寿郎というヒトがいた。
 まあ、いわゆる鞍馬天狗の「アラカン」だが、要するに本書で扱われている三船、萬屋、若山といった剣豪役者たちの一世代前のNo.1剣豪役者だ。
 そのアラカンさんが竹中労に「若手で(殺陣が)巧いのは誰ですか?」と問われて曰く、
「まず錦之介。次に勝・若山の兄弟」
とお答えになったそうである。
 前にも書いたと思うが、ワタクシ空中さんは若山富三郎先生の大ファンなのである。
 したがってこの近衛先生のお言葉を読んだワタクシ空中さんは、「え?萬屋錦之介って若山先生より殺陣のできるヒトなの?」とノケゾったのである。
 ワタクシ空中さんの世代では萬屋錦之介と言えば、TV版「子連れ狼」や「破れ傘刀舟」のやたら辛気臭いおっさん、というイメージしかない。
 かろうじて昔の時代劇の大スターであることは知っていたが、なんとなく、アイドル的な役者さんだと思ってた(美空ひばりの相手役、みたいな)。
 その、錦之介が、こともあろうに、わ、わ、若山先生より上だとぉ〜〜〜〜〜!!
 どんだけ上だかコノ目で確かめたろうやんけ!!
 
 と、いうわけで、萬屋錦ちゃんの「宮本武蔵」五部作を観たのである。ワタクシ空中さんは。
 
 で、ですね、延々と五部作観ての感想が、ですね。
「あー、この内田吐夢ってヒト、チャンバラには興味ねーんだなー」
であります。

 宮本武蔵のハナシだから当然、チャンバラは有ることは有るんだが、「面白いチャンバラを観せよう」という演出にはなってない。
 それよりも、全五部作通してみて印象深かったのは、武蔵をめぐる数奇な人間模様であった。
 例えば、第一作で武蔵を散々苦しめる池田家の家臣花沢徳衛の息子が、いつの間にはお互いにそうとは知らず師匠と弟子として一緒に旅をしているのである。
 そして、遠く離れた江戸で既に脱藩して放浪の僧侶になっている花沢徳衛は遠くから武蔵と我が息子を見てハラハラと落涙する、とか。
 数奇すぎてむしろ伝奇的、と言えるほど、様々な人生が絡み合っては離れていく。
 おそらくは内田吐夢監督が主に興味があるのはその辺なのだろうな、思う。
 
 さらに内田吐夢監督が興味があるのは、「人間が悩んで成長する姿」である。
 一作目の錦ちゃんは開巻からほぼ終盤まで、まあ〜やんちゃくれで、ギャーギャー騒いでいるだけのガキンチョで、「コレがあの辛気臭い破れ傘刀舟かッ!」と目を疑うほどだ。
 まあ、つまりは「バガボンド」だ。
 ところが、姫路城の天守閣で三年の幽閉生活のあいだ読書に明け暮れた武蔵は、ラストのワンカットでコレまた驚嘆すべき成長を遂げている。
 それまでのやんちゃくれ芝居から、一転してドエラく深みのある人間の芝居をしてみせた錦ちゃんにも感服するが、ラストのバストショットワンカットで一本の映画をひっくり返した(ひっくり返せると読んだ)内田吐夢監督の彗眼には感服する。
 このカットのあいだ、「ああ、この映画はこのワンカットのためにあったのだな、、、」と痛感させられる。 なかなか有りそうで無い映画体験ができるのだ。
 
 で、ですね。
 思わず「宮本武蔵」について延々と書いてしまいましたが、本題はもちろん「日本映画講義」です。
 ワタクシ空中さんが感じたこれらのことどもは、本書では一切触れられていません、、、
 
 しかし共通点もある。
 本書でも、内田監督の興味が「チャンバラ」に向けられていない、という点では一致している。
 なぜなら本書でもせっかく萬屋錦ちゃんに地上最高の剣豪役をやらせているにも関わらず、「殺陣」についてのハナシは殆ど出てこないからだ。
 
 ではナニが出てくるか、というとですね。
 お二人にとって「宮本武蔵」は、内田吐夢監督の自伝である、と。
 映画のために妻子を捨て、挙句の果てに戦争で人を殺めざるを得なかった、内田監督の贖罪のための映画になっていく、と。
 あまつさえ、内田監督が満州で出会った甘粕正彦(どうも友人だったらしい)の思いまで反映されていると言う。
 この辺まで来ると映画のストーリーどころか制作の背景まで伝奇的である。
 さすが「背景批評」を標榜する町山氏の面目躍如といったところ。
 
 次に「七人の侍」「宮本武蔵」についで扱われるのは「剣」三部作や「子連れ狼」の三隅研次。
 ワタクシ空中さんは三隅研次も大好きな映画監督の一人だが、ここでもやっぱりお二人の評価とは食い違ってたりして、、、
 
 ワタクシ空中さんにとって三隅研次とは、
「過激なまでのカメラワークを使って時代劇情緒豊かな絵を撮るヒト」
である。
 「過激なカメラワーク」と「時代劇情緒」。
 この一見そぐわなそうな要素を同時に成立させるヒト。
 コレが三隅研次である。
 
 ところが、町山氏にとって三隅研次はあくまで「切り株映画」(各人でググるように)のヒトであり、「日本刀で人体を切断することにこだわり続けたヒト」である。
 
 う〜ん、、、ワタクシ空中さんはやっぱりこの意見には与することはできないなぁ、、、
 確かに「子連れ狼」で時代劇におけるスプラッタ描写を確立したヒトでは有るんだけど(そもそも「切り株映画」という言葉は「子連れ狼」を指して町山氏か少なくとも町山氏在籍当時の「映画秘宝」が作った用語だったような気がする)。
 町山氏がこだわっている剣三部作の「斬る」で有名な人体が左右に真っ二つに切断されてペロっと「めくれる」カットにしても、凄いロングのしかも河原のススキ舐めで撮っていて、よく見ていないと判らないようなものであったではないか。
 
 どの「座頭市」だったか忘れたが、ゲッとのけぞるくらい印象的なカットがあった。
 シーンのアタマ、画面はほぼ真っ暗だが、中央に縦長長方形の光の「枠」だけが見える。
 最初はなんだかわからないのだが、すぐに「ガラッ」と音がして「枠」だけだった光が長方形に広がり、自分が見ていたものが、農家の内側から引き戸を撮っていた映像だと判る。そして外に座頭市が立っているのだが、何故か座頭市は「逆さま」に立っていて、観客が「座頭市が逆さまに立っている」ということを認識したタイミングで、カメラが180度回転し、正の位置に戻る。つまり、カメラをひっくり返して撮っていたのだ。
 
 なんだコレは。
 なんの意味があるのだ。
 
 一軒の家全体でひと間しかない(部屋という概念がまだ無い)江戸時代の農家を、「光の枠」だけで表現するという過激さ。しかもなぜか上下逆さま。「光の枠だけだったら、上下どっちかわかんないじゃん?」と言っているようだ。
 
 ワタクシ空中さんにとっては、コレが三隅研次である。
 
 しかし、春日氏によると、三隅研次はあくまでも「フツーの絵」を撮りたがった人だそうである。
 そして、三隅作品に見られるトリッキーなカメラワークは、なんと、大映映画の技術陣、つまり撮影監督の賜物なのだそうだ。
 えーーーー、、、、
 三隅研次、若山富三郎の「子連れ狼」コンビが東宝で撮った現代劇、「桜の代紋」(コレも傑作)でも、会話を天井の照明の金属部分に写った反射で撮る、とか超過激映像満載だったじゃん、と思ったが、調べてるみると撮影はやっぱり大映出身の森田富士郎であった、、、、う〜ん、、、
 
 というわけで、全体的に町山氏流の「背景批評」が春日太一の知識を借りて爆発している書物になっている。 そう、町山智浩と言えば背景批評である。
 町山氏のモットー「映画は、何も知らずに観ても面白い。でも、知ってから観ると一〇〇倍面白い。観てから知っても一〇〇倍面白い!」の前半部分はそういうことだろう。
 しかし、ワタクシ空中さんは、別にこういう映画の背景が映画を観たときの面白さに影響するとは思ってない。
 ヘタすると、「関係なくね?」とすら思っている。
 じゃあなぜ、町山氏の本を読むのかといえば、後半部分「観てから知っても一〇〇倍面白い!」が真実だからだ。
 実際、観ないで読んでも全然面白くないもんね。
 
 ところで、五社英雄映画の殺陣って、ダサくないですか?

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at 21:30, 空中禁煙者, 書籍

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「キマイラ 14 望郷変」格闘伝奇SF

 ワタクシ空中さんは洋の東西を問わず、いつ終わるとも知れない物語をいくつも読み続けている。なんだかいつの間にか読んでいる小説のほとんどが「ナンチャラカンチャラ 第〇〇巻」だの「△△編」ばっかりになってしまったような気もする。
 そんなわけで大長編の中の1巻を逐一扱うのは予想と思っているのだが、あんまり面白かったのでヒトコト言いたくなってしまった。
 
 前巻でキマイラ世界唯一のつっころばしヒロイン織部深雪がルシフェル教団に攫われているので、主人公である大鳳吼とその親友九十九三蔵が救出に向かうわけですが、、、
 この、二人が救出に向かった地点に、本筋とは何ら関係のない、しかし魅力的な登場人物、龍王院弘が現れた時点で、本筋などどこへやら、あっという間に龍王院弘とフリードリッヒ・ボックの因縁の対決が、延々と繰り広げられるのであった、、、
 
 で、この二人の死闘が、ですね、滅法面白いです、、、
 人間同士の肉体のぶつかり合いを、これだけ細密に描写してなおかつ素晴らしい緊張感に溢れているというのはただ事ではない。
 獏先生が何十年も追い続けてきた「新しい肉体論」の一つの到達点なのだろう。
 何かが完成した、あるいは獏先生が追求してきた文学的営為がついに実を結んだ、と思わせるような迫力に満ちていて読んでいるほうも異様な高揚感がある。
 例えば、男性同士のルール無用な肉弾戦には「睾丸」という問題が常に付きまとうが、この問題に対する攻防戦など、新鮮にして衝撃的。
 まさに肉体というものを徹底的に突き詰めたものだけが到達できる地点を見たという感じ。
 
 もっともワタクシ空中さんは獏先生のいわゆる「格闘技もの(「餓狼伝」とか「獅子のなんちゃら」とか)を全然読んでいないので、あっちではこういうことが日常的に行われている可能性はある。
 そして本書の前半はほとんどこの戦いに費やされてしまう。
 本筋と関係ない人物の格闘シーンで一巻の半分使ってしまう、というのもいかにも獏先生らしいではないか。
 では後半はどうなっているのかというとですね。
 数巻前からチラチラ出てきていた赤須子さんのハナシである。
 既に前巻まででシッダールタと修業し、老子と語り合った赤須子さん。
 本巻では徐福さんと一緒に秦の始皇帝に会ったりします。
 獏先生は徐福伝説好きだなぁ、、、
 単にキマイラ化するだけではなく、かなりの長寿(千年単位?)であることも判明した赤須子さん。いよいよキマイラ現象の根幹にかかわる人物であることが分かってきて、「大昔の出来事が現在に繋がっている」という半村良先生以来の「伝奇SF」の神髄を堪能できます。
 前半の格闘小説ぶりとは打って変わっていかにも伝奇的な展開の後半。
 この辺の構成の妙もあるが、やっぱり獏先生の古代中国を舞台にした伝奇物は面白いなぁ、、、と思う。
 結局、獏先生も書いててこれが一番楽しいんじゃないかなぁ、、、
 
 で、結果的にメインストーリーは一っっ歩も進んでまへん。
 そろそろ物語を収束させようとしている先からこの逸脱ぶり。
 やっぱり、この物語は絶対に面白い。

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at 01:04, 空中禁煙者, 書籍

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「絶滅の人類史 なぜ『私たち』が生き延びたのか」 ルーシーとイブの間に

 松本零士氏はアニメで大金を得るようになってから、やや作風が変わってしまったが、それ以前は非常にこだわりの強い作風で、別の作品に同じテーマのエピソードを何度も繰り返し挿入するようなヒトだった。
 そんな松本零士氏がこだわっていたテーマの一つが、「ネアンデルタール」。
 ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑によりホモ・サピエンスのDNAに眠るネアンデルタールのDNAが何かの拍子に目覚め、ネアンデルタール人としての自覚と記憶(松本氏の作品世界ではネアンデルタール人は先祖の記憶を全て継承していることになっている)を取り戻した学者が、自らの先祖を滅ぼしたホモ・サピエンスに復讐を企てる、というのが主なモチーフだった。
 彼の激しい復讐心は、先祖から受け継いだ「(ホモ・サピエンスに)男は殺され喰われ、女は犯され」た記憶による。
 つまり、このモチーフにおいては、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに「暴力的に」滅ぼされたことになっている。
 
 毎度毎度無知を晒してますが、松本零士氏のこのモチーフの作品を読んだ時点で、ワタクシ空中さんは
 
「ホモ・サピエンス以外にも人類と呼ぶに値する種がいた」

ことには気が付いていた。
 しかしそこまで。
 
 あるじゃん?
 アウストラロピテクスとか。
 シナントロプス・ペキネンシスとか。
 ホモ・エレクトスとか。
 ああいうの。
 
 アレ、ワタクシ空中さんは、要するにお猿とホモ・サピエンスの共通の先祖からホモ・サピエンスに至る過程なんだと思ってた。
 あの、よく見る、コブシついて歩いてたお猿が徐々に立ち上がって最後サラリーマンになる、アレ。
 要はあの途中にのどこかにみんな収まるんだと思ってた、ネアンデルタール人以外は。

 しかし違うのである。
 本書によれば、ネアンデルタール人以外にも人類と呼ぶに値する種は20種以上もいたのである。
 しかしそのほとんどは絶滅し、ホモ・サピエンスだけが生き延びた。
 コレがタイトルの「絶滅の人類史」の意味である。
 ここでいう「人類」とは我々ホモ・サピエンスのみを指すのではなく、コレら滅びていったホモ・サピエンスとは別の「人類」のことなのである。
 
 我々現代人にとってはほぼ、人類=ホモ・サピエンスなのでこの辺はすごくこんがらかるが。
 
 ではなぜネアンデルタール人を含むホモ・サピエンス以外の人類は滅びていったのか、が本書のテーマであると言っていいだろう。
 松本零士氏の言うように、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに殺戮されて絶滅したのだろうか。
 
 残念ながら、というか、幸か不幸か違います。
 詳しくは本書にあたって欲しいが、「殺戮しなくてもある種が他の種を滅ぼすことはある」ということだろうか。
 結局のところ、ホモ・サピエンスが滅ぼしたには違いないんだけど。
 別に殺戮しなくても他の種が滅びる要因になりうるよっていう。
 
 ところで、ですね。
 本書を読んでいてふと気づいたんですけど、本書を読んでいると、岸田秀先生的な、というか高野信夫的な「白人は黒人に差別されてヨーロッパに渡った黒人の白子である」的な言説って成り立たなくなるのかなぁ、、、という気がしてきた。
 
 別に差別されて追いやられなくても、原人の段階でどんどんヨーロッパにもアジアにも渡っているではないか。
 もちろんこんなことは本書を読まなくてもとっくに気づいていてしかるべきなのだが(「白人白子説」を支持するかどうかはまた全然別の問題)、ここに気づいて今後この説の信憑性に気を付けて読書しようと思えただけでも本書を手に取った価値はあったというものだろう。
 読書ってそういうものだと思います。
 
 あと、加藤隆先生には申し訳ないが、加藤先生の著作のあとに読んだせいか、本書のリーダビリティの高さは尋常じゃない。
 まあ、年齢的な問題もあるだろう。
 更科功先生はビートルズ世代であり、たとえ話がビートルズである(と言っても60近いお歳だが)。
 有名なアウストラロピテクスの化石が発見された際、発掘隊がテープレコーダーでビートルズの「Lucy In The Sky With Diamond」を聴いていたこと因み「ルーシー」と名付けられた、という故事に始まって、この学会にはビートルズファンが多いのかもしれない(ていうか、発掘隊はLSDでキマってたんじゃ、、、)。

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at 21:40, 空中禁煙者, 書籍

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「旧約聖書の誕生」 モーセ五書はなぜ律法と呼ばれるのか。

 無知とは恐ろしい。
 旧約聖書はいつどのようにして出来たのだろう。
 なんとなくわかっていたつもりでいたが、ちっともわかってなかった。
 
 なんとなく、イスラエル定住後だろうな、というのは分かる。
 恐らく、出エジプト以前に「自分たちが一つの民族である」という自覚はなかっであろうから。
 そして旧約聖書の最初のほう、アダムとイブで始まる創成期から、モーゼによるエジプト脱出までは、19世紀くらいまではモーゼが書いたと思われていて、「モーセ五書」と呼ばれていたが、今では完全に否定されている。
 否定されていはいるものの、モーゼが亡くなった直後あたりから、まとめられ始めたのだろう、と思っていた。なんとなく。
 
 しかし、エジプトを脱出してカナンに定住し始めたのが紀元前12世紀頃、本書によればエズラによりモーセ五書がまとめられたのがバビロン虜囚が終わってイスラエルがペルシアの支配下に入った紀元前5世紀頃である。
 700年も何をしていたのだろうか。
 経典的なものが何もなくて信仰を守れるのだろうか。
 
 いや、700年間どうやって自分たちの信仰を守っていたかは、今はどうでもいい。
 問題は、なぜその時点でエズラは言い伝えを一冊の本としてまとめようと思ったのか、だ。
 
 基本的な認識。
 キリスト教の経典として新約聖書と旧約聖書の二種類がある。
 このうち旧約聖書は実はユダヤ教の経典でもあるが、当然、ユダヤ教サイドでは「旧約」などと呼んでいない。
 「なんでウチの経典が旧いねん!ウチらいまでもこれでもやっとんねん!!」
 てなもんである。
 じゃあ何と呼んでいるかというと、一応、「タナハ」という呼び名がある。
 この辺はすごくメンド臭いんで深入りはしないが、一応「トーラー(モーセ五書)」「ネイビーム(預言者)」「ケトゥビーム(諸書)」の三つを合わせて(三つを合わせると、キリスト教の旧約聖書とほぼ同じ内容になる)「タナハ」というらしい。
 まあ、われわれ異教徒としては、「ヘブライ語聖書」といえば大体ユダヤ教の経典だな、という認識でいいのではなかろうか。
 新約はギリシャ語で書かれているので、ヘブライ語で書かれているといえば、まあ、ユダヤ教から見た旧約聖書、タナハのことだな、とわかることになっている。
 
 で、ですね、なんとなく、トーラーだけでもヘブライ語聖書のことを指すような場合もあってメンド臭いわけですが、まあ、そこはどっちでもいい、問題は「トーラーってどういう意味?」ということなのよ。
 
 モーセ五書ならモーセ五書でいいじゃん、トーラーってナニ?ということですが、これが、なんと、日本語にすると「律法」である。
 コレはわたくし空中さんも昔から不思議だった。
 え?律法?律法ってどういうこと?律法っつったら法律じゃん?
 モーセ五書っつったらあれじゃん?
 アダムとイブから始まって、アブラハムが子供殺しかけたり、ノアが船に乗ったりロトの奥さんが塩になったりモーセが海割ったりするヤツじゃん?
 あれが何で法律なの?
 どうみても「物語」じゃん?
 物語をなんで法律って呼ぶの?
 
 驚いたことに本書にはその答えが書いてある。
 なぜ、物語を律法と呼ぶのか。
 呼ばざるを得なかったのか。
 その答えが書いてある。
 これは驚くべきことではないか。
 
 但し、コレについては作者自身「そう考えるのが自然ではないか」と書いているように、学会で定まった定説ではないようである。
 むしろ、作者の唱える新説なのかもしれない。
 しかし、一度聞かされてしまうと、それを否定する説を聞かされるまでは、それが真実になってしまう。
 というか、もう、そうとしか思えない。
 なるほどねぇ、、、思ってもみなかったけど、そう言われてみるとそうとしか思えないねぇ、、、
 
 あ。肝心の「答え」については本書をあたっていただきたいが、ヒントはある。
 これは秘密でも新説でも何でもない、新約聖書成立にも同じような事情があったではないか。
 それは、
 「新約聖書を作ったのは、ローマ帝国である」
 ということだ。
 
 本書は全体としては、旧約聖書の成立に合わせて古代イスラエル人たちの歴史をたどる、という構成になっている。
 なるほど旧約聖書はだいたい、ユダヤ人と神のかかわりの歴史書なので、
「ここココ、ここの時期にこういう必要があって旧約のこの部分が成立したのよ」
と言う構成はヤラレてみれば有効だなぁ、、、と思う。
 
 作者の加藤隆先生はもともと新約が専門だが、本書以降(2009年)旧約に関する著作も増えている。
 そして、ハッキリと「神学者」である。
 
 ワタクシ空中さんの中で、「神学者」と「宗教学者」は違う。
 「神学者」は多分研究しているその宗教の信者である。
 「宗教学者」は多分どの宗教の信者でもない。
 「宗教学者」が何かの宗教の信者だったらその説はあまり信用が置けない気がするが、「神学者」であればその限りではない。
 
 つまり、加藤隆先生はハッキリとキリスト教の信者であると思われる。
 またしても全く無知をさらして申し訳ないが、ワタクシ空中さんのような門外漢には、特定の宗教の信者がその宗教について批評的な見解を発表する、という行為に対してのスタンスがうまく取れない。
 もとより聖書に対して比較宗教学的な研究が進んだ現代では、福音派の一般信者のように聖書に書いてあることを頭から丸呑みするなどという研究は、学者としての立場が許さないだろう。
 しかし、本書のように曲がりなりにも「聖なる書」である旧約聖書にたいして「旧約聖書もつまりその時々の時代の要請に応じてその時々のヒトビトが成立せしめたものである」という研究をしていて、「信者」としての心の平衡がとれるんだろうか。
 この辺、同じ神学者の田川健三氏は割とスッキリ解決されていたようにも思うが、加藤先生がどうやって解決しているのかは分からない。
 まあ、当然研究者の皆さんの間ではとっくに解決されている問題なのだろうが、シロートとしてはこの辺はケッコー気になるのよ。
 しかし加藤先生はマジメな学者さんである。
 マジメな学者さんである、ということとリーダビリティの高い文章を書く、ということはイクォールではない。
 加藤先生の文章は決して晦渋ではないものの、ややリーダビリティが低く、
「アレ?この一説は何を説明するためにこの文章があるんだっけかな?」
とわからなくなることが度々あった。

 巻末で加藤先生は「聖書を分かりたければ最低限ヘブライ語とギリシャ語は勉強するように」などとおっしゃる。
 あくまでもマジメに聖書に取り組んでらっしゃるのであった。

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at 05:02, 空中禁煙者, 書籍

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「イエス・キリストは実在したのか?」 答え:実在したけど、あんまり重要じゃない。

 邦題がくだらない。
 もちろん「ナザレのイエス」は実在する。そんなことは問題になっていない。
 邦題の力点は「キリスト」にかかっているのだろう。
 「ナザレのイエス」は「キリスト」、つまり救世主だったのか、と。
 救済者としてのイエスは実在したのか、と。

 

 原題は「Zealot ナザレのイエスの生涯とその時代」で、Zealotについては本書の記述も曖昧で良くわからない。
 普通「熱心党」と訳される事が多い「ゼロテ党」と言うのがイエスの時代のイスラエルにはいたが、著者は「イエスはゼロテ党ではなかった」と言っているのだ。
 熱心党ではなかったが熱心党と同じくらい熱心だった、くらいの意味だろうか。

 

 が。

 

 そんなことはどうでもいい。

 本書は、ワタクシ空中さんが長年キリスト教徒に抱いてきた疑問に対するヒントを与えてくれそうな、ある意味画期的な書籍であった。

 

 ではその、ワタクシ空中さんが長年キリスト教徒に抱いてきた疑問、とは何か。

 

 それは、

 なぜキリスト教徒はキリストの「教え」にちょっとも従わないのか。

ということだ。

 

 イエスは言っている。
 「もし、あなたが完全になりたいのなら、帰って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

「富めるものが神の国の門を通るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」(空中さん注:ラクダはアラム語の「網」の誤約説あり)

 

 コレらの言説をもとにして、イエスはつまり原始共産主義者だったと言うことも可能である。
 ヨハネ教団とはすなわち原始共産コミューンだったということも可能である。
 つまるところ、イエスの教えに最も忠実な人間とはマルクスであり、共産主義とはキリスト教の鬼っ子である、ということも可能である。

 

 いや、共産主義うんぬんのハナシは忘れてくれ。
 そこまで言わなくていい。

 

 しかし、コレらのイエスの言説からは、少なくとも、

 

1.イエスは貧しきものが好きである。
2.イエスは富めるものが嫌いである。

 

 この二つは明らかだろう。

 しかるに現代のキリスト教徒たちは、イッコーに貧しくなろうとはしない。
 帰って持ち物を売り払ったりしない。
 聖書に書いてあることはすべて真実である、とする福音主義者ですら、イッコーに私有財産を捨てようとはしない。
 むしろ自分たちの財産を守ってくれる奴に投票さえする。

 

 ナンだコレは。
 なぜイエスの教えを守らないのだ。
 全世界のキリスト教徒を標榜するヒトたちは、全財産をワタクシ空中さんにクレ、今スグ。

 

 理由は簡単だ。
 貧乏がイヤなのだ。
 贅沢がしたいのだ。

 

 神の国なんて、贅沢の楽しさに比べたら、大したことはないのだろう。
 しかし、できれば贅沢もして神の国にも行きたいから、キリスト教徒を標榜するのはやめないのだろう。

 彼らが富めるものであり続けてもキリスト教徒でありたがる理由はわかるが、わからないのは、

 

 なぜそれでいいと思っているのか。

 

 だ。

 

 そして、なぜそれでいいと思っているのか、のヒントを、本書を読んで得たのだ。

 もっとも、その理由が本書に書いてあるわけではない。あくまでもヒントを得た、というだけである。
 したがって、これから先に書くことは、ほぼワタクシ空中さんの勝手な妄想である。
 そんなわけで、以下の文章中のワタクシ空中さんの妄想と、本書に書かれていることを区別するために、本書に書かれていることは『』で括っておくことにする。

 

 えーっとですね。
 旧約聖書、というものがありますね。
 コレは、一応キリスト教の聖典ということになっているが、トーラーと呼ばれるほぼ同じものが、ユダヤ教の経典にもなっている。
 つまり、もともとユダヤ教の経典を、キリスト教徒が勝手に「旧い契約」とかいって、自分たちの聖典にもしているのである。

 

 で、ですね。

 この、旧約聖書に出てくる神様というのは、もう、「そこに住んでる異教徒を皆殺しにしてその地をイスラエルの民のものにせよ」とか言ってるわけです。
 ユダヤ教徒以外にはたまったもんじゃない。

 ところが、コレが一応普遍宗教であり、世界中のなにびとも信仰していいことになってるキリスト教の聖典にもなっているのは、まずいのではないか、と。

 

 コレに対するキリスト教側からの回答は、

「まあまあ、いいじゃないですか、アレはなにぶん、旧い契約なもんで、、、
新しい契約ではそんな事ないですよ?
でも、一応同じ神様なんで昔のことも抑えておこうかな、的な、、、」

 

 という感じだろう。

 

 この辺は、まあ、常識の部類だろう。
 キリスト教徒は日曜学校で旧約聖書を読むたびにこう思っているのだろう。

 

 そして、本書を読んでわかったのは、おそらく新約聖書の内部でもコレにた対立が起こっている、ということだ。
 その対立は、一応

 

福音書VSパウロの神学

 

 と単純化できるだろう。

 実は新約聖書は、『パウロの神学中心に編纂されている』。

 イエスの死後、初期キリスト教徒は、イエスの弟、『義人ヤコブ』を中心にエルサレムで活動していたが、ローマにいたパウロは、義人ヤコブ率いる初期キリスト教団と激しく対立していた。

 イエスの死後信徒となったパウロの神学は、生前のイエスと活動をともにしていた直弟子であるヤコブやペテロの神学から見れば『突拍子もない』ものであったからだ。

 なにしろ『パウロは生前のイエスに全く興味がない』。
 じゃあなにに興味があるのかというと、イエスが十字架刑にかかって亡くなったこと、及び死後、パウロの前に顕現したイエスの言葉のみである。

 

 ココで注意してほしいのは、イエスは死後、復活という形で直弟子や家族の前に顕現していて、コレは当然、複数の人間が目撃している(事になっている)。
 しかし、パウロの前に顕現したイエスは、あくまでパウロしか見ていない。
 にもかかわらず、パウロにとってはそれが全てなのだ。

 いや、だからこそというべきなのかもしれない。
 パウロにとってはあまり生前のイエスを重視されると立つ瀬がないではないか。ここはあくまで自らの前に顕現したイエスのみが重要であるとしなければ。

 

 そして、ここが何より重要なのだが、パウロが布教しようとしていた、イスラエル以外のヒトビト(つまり、ローマ帝国のヒトビト)にとっては、パウロの神学のほうが受け入れやすかった。
 生前のイエス及びその直弟子の段階では、イエスの神学はあくまでユダヤ人のためのものである。『イエスは異教徒の救済にはほとんど興味がなかった』。

 コレではイスラエル以外に住む非ユダヤ人には訴求しないではないか。
 ここはひとつ、なにがなんでもイエスはユダヤ人以外にも門戸を広げた、ということにしおかないと、ホラ、いろいろアレじゃん?みたいな。

 

そして、パウロとはまさに、この『義人ヤコブ』率いるガチガチのイスラエル人キリスト教徒と、ユダヤ人以外(主に当時の宗主であるローマ帝国のヒトビト)を結ぶのにふさわしい、「ヘレニスト」と呼ばれる層の出身であった。

 

 『ヘレニストとは、離散ユダヤ人がから生まれた、主要言語はギリシャ語を話すユダヤ人であった』

 

 コレが同時に「新約聖書」が「何故か」ギリシャ語で書かれていることの理由なのだ。
 新約聖書は最初からイエスと言語を共にしていたアラム語圏やヘブライ語圏のヒトビトのためには書かれていない。
 最初からギリシャ語を話すローマ人向けに書かれているのだ。
 イヤ、あえてギリシャ語を選ばなくても、パウロの神学に従った物語を書こうとすれば、ギリシャ語になるのが自然なのだ。

 

 ちなにみ、なぜ新約聖書がイエスが使っていたアラム語や、イスラエルの標準言語であるヘブライ語ではなく、ギリシャ語なのか、というのもワタクシ空中さんにとって長年の疑問であったが、コレも本書によって解決したわけだ。

 

 結局の所、実際のイエスの生涯と、新約聖書には、パウロというフィルターを通した断絶があるのだ。
 そして、この断絶があるからこそ、キリスト教は普遍宗教なり得たのだろう。

 したがって、現在の(新約聖書を拠り所とする)キリスト教徒は、イエスがナニを言っていたとしても、あまり重要視していないのだろう。

 

 問題は、パウロの神学であり、「イエスは原罪を背負って十字架にかけられた」という信念なのだ。

 

 当たり前の話だが、ワタクシ空中さんのような浅学非才が本書の価値を十全に理解したとは言わない。
 本書にはもっと面白いことが書いてあり、ワタクシ空中さんはその一部を勝手読みした結果を元に自分の疑問を晴らす役に立てたに過ぎない。
 多分、10年後にまた読んだら、また新たな疑問を晴らしてくれるのでは、と思わせる、良書だと思います。

JUGEMテーマ:ノンフィクション

at 21:00, 空中禁煙者, 書籍

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