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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「西遊記2〜妖怪の逆襲〜」 いっそ続編じゃないことにして欲しかった、、、

 メインキャストが変更、と聞いて、あまり期待してはいなかったが、ココまでヒドいとは、、、という感じ。

 イヤ、ヒドいというかなんというか、あの、「はじまりのはじまり」の続編だと思わなければ、普通にツイ・ハーク監督が西遊記モノを撮ったっていうだけだったら、そこそこ観られる映画なのかなぁ、、、

 

 そう、メインキャストだけじゃなくて、監督もツイ・ハークに替わってます。
 かつて香港映画界のスピルバーグとまで言われてた巨匠も、後輩に仕事もらって糊口をしのいでいるのか、もしくはもう、いい加減やりたいことやり尽くしたから、後輩の後始末で暇つぶししてるのか、、、

 

 「妖怪の逆襲」(原題は「伏妖篇」)というくらいで、妖怪とのバトルが三回くらいあり、どれも妖怪のイメージとアクションは良いといえば良い。
 蜘蛛女や紅孩児の不思議なヴィジュアルは素晴らしいと思う。
 一転して白骨夫人が儚げな美少女のまま、というのも変化が付いていいんだけど、、、

 

 白骨夫人は「人魚姫」のリン・ユンで、やっぱりチャウ・シンチー作品の匂いも漂わせて入るんだけどなぁ、、、

 「北京より愛を込めて!?」以来我々を驚愕させてきたシンチー先生のムチャクチャなギャグセンスも、玄奘が妖怪退治のお礼にと比丘尼国の王に送られた300人の女官が全員ブス、っていうくらいかなぁ、、、

 

 ダメ。
 もう続かない。
 つまらないです。
 ハッキリ言って。

 

 もう、「はじまりのはじまり」の正式な続編であることを証明するためだけに出てくるような、回想シーンのスー・チーさんや、玄奘の師匠、更にはエンディングの「Gメン75」のテーマが、かえって悲しい。
 いっそ、続編としてじゃなく観たかった。
 それくらい前作と違いすぎる。
 ナニがあったんだ、、、

JUGEMテーマ:映画

at 21:14, 空中禁煙者, アジア

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「ソウル・ステーション/パンデミック」 韓国のアニメ事情と社会問題について

 という訳で、「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」の前日譚。

  監督のヨン・サンホはもともとアニメ作家で本作の実写化をオファーされたが、どうせなら新作をと考え、本作のラストから始まる「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」を作ったということらしい。

 

 本作を観てわかることは、ヨン・サンホ監督に、「アニメ作家である必然性」は無いな、ということ。
 本作もフツーに最初から実写で作られるべきモノであるが、おそらくは実写よりは低予算で作れる、と言う程度の理由でアニメなのだろう。

 

 なぜなら本作にはアニメとしての楽しさなど微塵も無いから。

 

 「アニメとしての楽しさ」というのは若いヒトには通じにくい概念だろう。
 あまりにも当たり前に全てがアニメとして存在していて、「何故アニメなのか」などという問いが頭に浮かぶ隙はないと思われる。

 コレはワタクシ空中さんは、そのアニメ黎明期に手塚治虫という、内部に様々なダイナミズムを抱え込んだ大天才にして巨人を擁する日本独自の現象だろうと思っていた。

 

 手塚治虫はディズニー的なアニメの楽しさに狂おしいばかりに憧れるあまり、とにかくアニメを量産しなければならないという使命のもと、低予算でアニメを「毎週毎週」制作し続けるというムチャクチャな潮流を定着させたヒトである。

 一方で映画においては、TVアニメの罪滅ぼしのようにアニメ本来のテーマである「メタモルフォーゼ」にこだわり続け、比較的良質なアニメを作っていたが、だいたいコカしていた。

 

 何故コカしていたかも重要なテーマであるが、あまりにもヨン・サンホと関係ないので、今回は割愛します。

 

 そう。
 アニメーションとはもともと「アニミズム」と同源の言葉であり、「霊魂のないモノに霊魂が宿る」ことなのだ。
 従って、ネズミや猫や人形や車が、あたかも霊魂があるかのように歌い、踊り、暴れまわり、泣くアメリカのアニメは、「アニメとしての楽しさ」を湛えている、ということになる。

 

 日本のアニメはその後手塚治虫的な低予算量産体制を独自に克服し、世界的な(ある意味根源的な)アニメの楽しさと全く別にとんでもないレベルに達したのだが、そのハナシも今回は割愛します。

 

 そんなわけで、「実写で撮る予算がないからアニメ」で撮るアニメ作家が評価されている、というのが韓国アニメ界の現状なのだな、と思うのであった。

 

 で、ですね、「アニメである必然性が無い」ことに目をつぶれば、本作も「新感染」同様よく出来てます。
 やはりメインは人間ドラマに置かれているが、ちゃんとパニック下における人間の反応をドラマ化できていて、巧いなぁと思う。

 

 特に感心するのは、ゾンビを使って、韓国の、他人に対する無関心、ホームレスから無職、売春するしか生きるすべがない少女に至る貧困層の問題を抉り出すことに成功していることだ。

 

 「新感染」はスター俳優を使った初の実写ということで、ある程度ヒットを狙った娯楽作品だったのだな、と分かる。
ゾンビ映画としては珍しく救いがあった「新感染」に比べ、本作にはほとほと救いがない。
 なにしろ恋人に売春を強要されてる少女がホームレスに紛れて逃げるハナシである。
 生き延びても生き延びられなくても行く手には絶望しか無い。
 監督の感じている絶望感がヒシヒシと伝わってくるではないか。
 ヨン・サンホ先生、ハッキリと社会派なのだ。

 

 で、ですね。
 「アニメ作家であること」が金の問題に過ぎなかった証拠に、ヨン・サンホ先生の次回作「サイコキネシス」も実写だそうです。
 さもありなん。

JUGEMテーマ:映画

at 21:21, 空中禁煙者, アジア

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「新感染〜ファイナル・エクスプレス〜」 今日もマ・ドンソクはヒトを殴る2

 あ〜、コレはもう、呆れるくらい良く出来てますねー、、、
 ほとほと感服した。
 もう、今回はのっけから完敗宣言。

 

 ナニがスゴいってさ、コレ、驚いたことに正確にはゾンビ映画じゃないのね。
 コレは、父と娘、夫と妻、恋人同士などといった家族の絆、さらには極限状況で生まれた男同士の友情、などを描いた人間ドラマです。

 

 イヤイヤイヤ分かってる分かってる。
 分かってるって。
 基本的にゾンビものって全部そうだっていうんでしょ?
 それはそうなの。
 それは分かってるの。

 要はどっちがどっちに奉仕してるかって問題なのよ。

 

 ゾンビってシチュエーションが、人間ドラマに奉仕してるのか、
 人間ドラマがゾンビの恐怖に奉仕してるのか、と。

 

 この映画を作った奴らが、最初から「ゾンビを使って人間ドラマを際立たせよう」と思って作り始めたかどうかは分からない。
 むしろ、最初は「本格的なゾンビものを作ってやろう」と思っていたのだろう。
 「高速列車の中でゾンビウィルス蔓延し始めたら面白くね?」ってなもんだ。
 しかし、作ってるうちに、自然と人間ドラマメインになっちゃう。
 コレが作家性というものだろう。

 

 本作が、ゾンビ映画としては珍しく、やや救いのある(全人類の滅亡を覚悟させない)ラストを用意しているのも、そういうことだろうと思う。

 

 ぞしてここからが真に驚くべきところなのだが、人間ドラマメインであるにもかかわらず。ゾンビものとして驚異的に良く出来ているのだ。

 本作は、ゾンビものであると同時に列車モノでもあるので、「大陸横断超特急」だの「暴走特急」だのの記憶を流用してもいるのだが、アイデア満載の映画なので、そういう流用が気にならない。
 特に、一度下車した挙げ句、命からがら列車に戻ってきた主人公たちが、後部車両からゾンビの蔓延する車両を突破して、家族のいる前部の車両に移動しなければならないシークエンスなど、登場人物達が必死で考えたアイデアで乗り切る有り様が、まるで「隠し砦の三悪人」のようでもある。

 

 脚本もアイデアが豊富だが、演出面でもなかなかアイデア豊富で飽きさせない。
 蹴っつまづいた人間のカットに、一瞬、蹴っつまづいた本人の目線の映像を混ぜる、だの、主人公の印象的な行動を、彼の影だけで見せるだの、さりげなく、「通り一遍の撮り方はしませんよ」と思い知らせてくる。

 

 人間ドラマで泣かせるのは簡単なのだ。愛し合ってる者同士に別れが来れば泣く。
 しかし本作は、中年男のビルドゥングス・ロマン、などという隘路にも挑戦して、驚くべきことに成功している。

 韓国の西島秀俊ことコン・ユは冷徹な証券マンである。ゾンビ列車などという極限状況に置かれても、他人は差し置いて自分と娘だけ生き残ればいいと思っている。
 しかし、マ・ドンソクやその妻、野球部の高校生や、韓国の若き木南晴夏ことアン・ソヒ演ずるその恋人のマネージャー、そしてナニよりも自分の娘と協力して窮地を切り抜けていくうちに、徐々に自分を犠牲にしても他人を助ける人間性に目覚めていく。
 コレを、声高に謳わないでちゃんと描けているのは素晴らしいと思う。

 

 本作は、前にも述べたが、「大陸横断超特急」のような列車モノ、そしてもちろんゾンビもの等、様々な映画の記憶を流用している。
 が、最大の映画的記憶の流用は、本作でも相変わらずヒトを(イヤゾンビだけど)殴りまくっているマ・ドンソクだろう。
 他の仲間がバットだの棒っ切れだのなんとか武器らしきものを手にするのに対し、マ・ドンソクだけはひたすら素手で殴る。

 コレである。

 殴り続けるマ・ドンソクこそ、このような傑作をも生み出す韓国映画界の最大のアイコンなのかもしれない。

JUGEMテーマ:映画

at 00:17, 空中禁煙者, アジア

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「おじいちゃんはデブゴン」 ユン・ピョウ見せ場無い、、、

 若いヒトには「デブゴン」ってなんだよってハナシだろう。

 

 昔、ブルース・リーに憧れていたサモ・ハンは、ブルース・リー映画へのオマージュに満ちた「燃えよデブゴン」と言う映画を作り、コレが大ヒットしたために、70年代末から80年代初頭にかけて、サモ・ハン主演の映画は全て「燃えよデブゴン なんちゃらかんちゃら」と言う邦題をつけて「放映」されたのだ。

 

 そう、テレビ放映時のハナシではある。
 映画公開時の邦題が違っても、テレビ放映時には「燃えよデブゴン」なのだ。当時のサモ・ハンの人気がうかがい知れる。

 そしてこの映画は、ちょっとだけその頃を知るものの心の琴線に触れる作りになっていたりする。

 

 一人暮らしの孤独なオトコ(実はムチャクチャつおい)が、近所に住む顔見知りの少女のためにアバレる、という、つまりは「レオン」フォーマットのハナシ。

 同じ「レオン」フォーマットの「アジョシ」のウォン・ビンが、自分の仕事のせいで妻が殺される、と言うくらい過去を背負っていたように、サモ・ハンもムッチャクチャ暗い過去を背負っている。
ちょっと、一本の映画の主人公の「過去」としては暗すぎるのではないかというくらい暗い。普通はこれだけで一本の映画にするだろ。

 

 そして、この暗い過去が関係しているのかどうか、サモ・ハン演じる元軍人(要人警護に当たっていた超エリート)ディンは若年性認知症(まだ66歳なので若年性と言っていいだろう)を患い、全ての記憶が曖昧になっていく、と言う設定。

この、サモ・ハンがナニを覚えていてナニを覚えていないのか、が観客にとっても曖昧な設定と、周囲にサモ・ハンに協力的(サモ・ハンの正体を知らないにもかかわらず)な人物を数人配したせいで、映画全体が、なんとなくボンヤリ、フンワリした印象になっている。

 

 そして、この、ボンヤリ、フンワリした雰囲気を、突如サモ・ハンの見せる超絶アクションが春の雷鳴のごとく切り裂く、と言う趣向になっている。

 

 サモ・ハンと言えば、デブのくせに飛ぶ、というのがウリだったが、さすがによる年波には勝てず飛んではいない。
 しかし、元要人警護のプロらしく、接近戦に特化した戦術で、向かってくる敵を関節技でボッキボキにしてしまう。

 その描写の激しさは、「困ったおじいちゃんを描くホームドラマ」だと思って観ていたヒトがいたら、思わずチビってしまうのではないかと思われる程である。

 中国の国境の町にたむろするチンピラだろうと、その背後に控えるロシアン・マフィアだろうと委細構わず骨折りまくって不具者を大量生産していくさまは、さすが老いてもサモ・ハン・キンポーと頭が下がる。

 

 サモ・ハンと心を通わせる少女のどうしょうもないダメ父になんとアンディ・ラウ。
 サモ・ハンのハナシを聴いてやる地元の警察署長にな、な、なんとユン・ピョウ。
 要するにサモ・ハン20年ぶりの監督作品を盛り上げようと皆協力しているのだろう。

 

 なかでもユン・ピョウがほぼワンカットなのに対し、アンディ・ラウは全編に渡ってダメ人間ぶりを晒し続ける。
 よく引き受けたなぁ、、、と思ったが、よく見るとアンディ・ラウは制作にも噛んでいた。

 要はサモ・ハンのために一肌脱いだのだろう。
 アンディ・ラウ、オットコ前だねえ、、、

JUGEMテーマ:映画

at 20:00, 空中禁煙者, アジア

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「ドラゴン×マッハ!」 緊密なシナリオの意味を履き違えてる。

 なんともミもフタもないタイトルを付けられたものだが、原題は「殺破狼2」となっている。

 エ?え?エ?「2」ってナニ?
 何かの続編なの?と思ったら、一応、「SPL 狼よ静かに死ね」の続編ということになっているらしい。

 

 なっているらしいが、ストーリー的にはなんの関連もない。
 かろうじて、サイモン・ヤムが同じ「チャン」と言うなの刑事で出て来るくらい。

 

 そして、「SPL 狼よ静かに死ね」のドニー・イェンとの一騎打ちでワタクシ空中さんのド肝を抜いたウー・ジンが今回は主役。

 

 出世したねーーー。前回はセリフもない殺し屋役だったのに、今回は潜入刑事役で堂々の主役。
 前回ワタクシ空中さんは「まだ役者というよりは武道家」などと失礼なこと書いているが、申し訳ありませんと言うしかない。

 

 しかしですね。
 タイトルで「マッハ」っつってる以上は、トニー・ジャーが出てるわけです。
 タイトルから言っても堂々のダブル主演です。


 なんとも緊密な脚本で、一瞬も気が抜けない。
 しかし気が抜けない一方で、緊密すぎてイデオットプロットに陥ってもいる。

 

 ウー・ジンは香港の人身売買組織に潜入している刑事だが、組織に馴染むために麻薬に手を出して苦しんでいる。
 しかもウー・ジンの情報によって取引の現場に乗り込んできた警察がウー・ジンを撃たなかった事で潜入デカであることがバレてしまい、タイで組織が商品(つまり人間)を一時保管してる場所に送られてしまう。
 コレがマックス・チャンが所長を務める刑務所なのだが、ココにトニー・ジャーが看守として働いているんである。
 つまり、トニー・ジャーが働くタイの刑務所にウー・ジンが送られてくる訳だ。

 

 ココまではまあ、いい。
 ココまではイデオットプロットでもなんでもない。

 

 しかし、トニー・ジャーの白血病の娘の骨髄移植ドナーリストの筆頭がウー・ジン、というのはいかかがなものか。
 さらに言うなら、(いろいろあって)命からがら脱出してきたウー・ジンとサイモン・ヤムとトニー・ジャーの先輩が病院が、トニー・ジャーの娘が入院している病院、というのもますますいかがなものか。

 

 このあと、トニー・ジャーの娘とウー・ジンがお互いのことを「ああ、このヒトが、、、」と認識し合うシーンが美しいだけに、このご都合主義っぷりは残念。

 登場人物たちの運命が錯綜するのが緊密なシナリオ、と思っているではないか。

 

とはいうものの、トニー・ジャーのアクションがふんだんに観れるだけで感謝すべきなのかもしれない。
今回は打撃技も関節技も使いこなすこれまでの集大成のようなアクションが見れます。

トニー・ジャー、出家までして心を入れ替えたかいあって、今度こそほんとうにピンゲーオ監督から独り立ちできるのかもしれない。

JUGEMテーマ:映画

at 03:36, 空中禁煙者, アジア

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「九龍猟奇殺人事件」 コレ、遺族は激怒するんじゃないの?と心配になる実話の映画化

 WOWOWで放映+ブルーレイ発売に合わせてミもフタもない邦題を付けられてしまったが、原題は「踏血尋梅」、英語タイトルは「Port of Call」である。
 「踏血」は劇中「鑑識」だか「検死」と字幕が入っていたようなきがするが、尋梅はなんだかわからない。「死体に聞け」ということだろうか。
 Port of Callは成句で「立ち寄り点」である。主人公の少女が中国本土から香港にやってきて、やがて黄泉の国へ旅立ってしまったことを指して、「香港は立ち寄り点に過ぎなかった」ということだろうか。

 

 とはいえ実際に起きた猟奇殺人事件が元になっているので、ミもフタもない邦題もしょうがないと言えばしょうがない。
 どの辺が猟奇的かというと、被害者の遺体をバラバラにして、捨てきれなかった肉を九龍城の肉屋に並べた、と言うのだ。
 「八仙飯店事件」の再来か!と香港中を震撼させたが、映画は「八仙飯店之人肉饅頭」のような猟奇趣味主体の映画にはなっていない(アレはアレで大好きですが)。

 

 撮影のクリストファー・ドイルによる美しい映像と、時間軸を徹底的にバラした構成により、どちらかと言うとアート寄りの映画になっている(ただし、犯人役のマイケル・ニンは写真で見る実際の犯人にクリソツでちょっと笑う。もしかすると香港人は恐怖するかもしれない)。

 

 離婚した母に連れられて本土から香港に出てきた16歳の少女。学校に馴染めずモデルを夢見て事務所に所属するが、スカウトに回されてしまい、やがて援助交際に手を染め始める。
 そんなときに客として出会った29歳のトラック運転手。
 少女の孤独と男の孤独が共鳴してしまい、、、
 と言うハナシ。

 

 おそらく、脚本・監督のフィリップ・ユンはこの事件の被害者と加害者の二人になんらかのロマンを見てしまったのだろう。キーワードは「孤独」だ。

 

 犯人は早々に自首しているので、犯人探しの興味はない。
 代わりに、事件の担当になった妻に逃げられてショボクレた刑事にアーロン・クォックを配して、丹念に二人に「孤独」を追う。
 いつもバリッとした二枚目のイメージのアーロン・クォックを白髪頭にデカメガネ、実用本位のダサいベストの疲れた刑事にして、上から目線になるのを避けている。
 つまり、彼もまた「孤独」なのだ。

 

 トンデモ無いグロ描写があったりして、バランスを取ってもいるが、映画全体としてみた時、「実話」の扱い方がコレで問題ないのか、という気もする。
 いくらなんでもセンチメンタリズムに振りすぎているのではないか。
 例えば、遺族はこの映画を見て激怒するのではないか。
 そういう意味では、日本では無理な映画だなぁ、、、という気もする。

 

 同時に、コレだと殺した理由は説明できても、その後の遺体損壊の理由が判らない。
 フィリップ・ユンが幻視したロマンを映画化するのはいいが、その後はグロい映像見せて「ハイ、コレでいいでしょ。グロいの見たかったんでしょ」と言う態度は、観客をナメているのではないか。

 

 しかし、アーロン・クォックの扱いといい、初監督作にして全てをぶっちぎってやりたいことをやったフィリップ・ユンの度胸には、今後を期待してしまうが。

JUGEMテーマ:映画

at 20:00, 空中禁煙者, アジア

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「ホワイト・バレット」 中島哲也風、ジョニー・トー

 多作な天才と言う人種がいる。

 

 すぐ思いつく代表例は手塚治虫先生だろう。
 もう神さまなんだから、描きたい作品を描きたいようにじっくり描けばいいと思うのだが、常に週刊誌で多数の連載を抱えて、「納税額No1漫画家」でいないと生きた心地がしなかったそうである。

 

 現代の日本映画界で言えば三池崇史だ。
 三池崇史は自覚的にはハッキリと「金のため(三池組の面々を食わせるため)」と思っているようだが、それだったらもっと一作一作を大事に溜めて作って、作品数は半分以下になっても大ヒット作を連発するという選択肢もあるはずである。その方が一作ごとの単価が上がり金は儲かるのではないか。
 しかしそうはならないのである。
 もう、寝る間もないほどドタバタと忙しくしていないと、生きている実感が感じられないのだろう。

 

 で、ジョニー・トーである。
 ジョニー・トーはなんでこんなに映画を撮りまくるんであろうか。
 手塚治虫や三池崇史のように、マグロが泳ぎ続けないと死ぬがごとく、狂ったように作り続けていないと死ぬのであろうか。

 どうも、天才ジョニー・トーとワタクシ空中さんのような凡人とでは、
「ナニをもってこのアイデアで一本の映画を作るに値すると思われるか」
の判断が完全に食い違ってしまったような気がする。

 

 例えばこの「ホワイト・バレット」の脚本は、フツーの映画監督が、
「この脚本で一本撮ろう!」
と思っても、到底許されるものではない。

 

 原題は「三人行(THREE)」と言うくらいで、3人の登場人物の苦悩を中心に描かれる。
 1人は若くして優秀な脳外科医であるヴィッキー・チャオ。「少林サッカー」では美少女と言う感じだったが、すっかり疲れた大人のキャリアウーマンである。
 彼女の優秀さは脳外科部長も認めているが、手術の結果が思わしくなかった患者から回診の際に罵倒を浴びせられ、訴えられそうになっている。

 

 二人目はその外科医のところに担ぎ込まれる、警察に頭部を銃撃された強盗殺人犯ウォレス・チョン。頭蓋骨内に銃弾が残ったままだが、上手く脳を傷つけずに留まったので、フツーに動いたり喋ったりできる(たまに痙攣の発作に襲われる)。

 

 3人目はそのウォレス・チョンを拷問(発砲を含む)するように部下に命じた警部ルイス・クー。発砲した本人は警察署に避難させているが、報復と拷問の事実がバレるのを恐れて、さらに証拠の捏造を命じたりする。

 

 映画はほぼ全てが病院内、しかもほとんどはICUと医局とナースステーションが一体になったような不思議な部屋を舞台に繰り広げられる。
 なぜそんな不思議な部屋があるかというと、最終的にココでこの映画のキモというべき銃撃戦を繰り広げるためである。
 この銃撃戦で三人の苦悩も何もかもケリを付けるつもりなので、全てが一室に集まっていないと困るのである。

 

 普通の脚本ならこの三人の苦悩をドラマの展開でどうにかすると思うが、ジョニー・トーはそんなことはしないのである。
 ラストでトンデモ無い銃撃戦があって、終わり。
 要するに銃撃戦がやりたいだけなのである。

 

 たしかにこの銃撃戦は見ごたえがある。
 要するに中島哲也監督の「温泉卓球」的なスローモーションとCGを多用して、壮絶な銃撃戦が始まってから数分後(10数分後?)に終わるまでを、延々とカメラが動き回ってワンカットで抑えているのだ。

 つまり、今回ジョニー・トーが映画一本作ってやりたかったのはこの延々とワンカットで続く銃撃戦なのだ。

 

「あ!10分位続く銃撃戦をワンカットでスローモーションとCG使って撮ろう!!」

と思いついてから、

「えーっと、、、10分位続くためにはいろんな登場人物が必要だな、、、
いろんなドラマを抱えた登場人物が一堂に会する場所といえば、、、
そうだ!!病院だ!!」

と言う感じで脚本を書き始めたのではないか。

 

 たった数分間の銃撃戦(の撮り方のアイデア)のために映画を一本作る。
 コレが許されるのがジョニー・トーの天才なのだが、同時にそれを許す香港映画界もちょっと羨ましいな、と思うのであった。

JUGEMテーマ:映画

at 01:35, 空中禁煙者, アジア

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「殺されたミンジュ」 今日もマ・ドンソクはヒトを殴る。

評価:
キム・ギドク,キム・ギドク,キム・ギドク,キム・ギドク
¥ 3,175

 開巻いきなり、少女が殺される。拉致されてアジトで、とかではなく、 ただ、路上で捕まって、アッサリ殺されてしまう。
 この冒頭から次の、恋人と別れたオトコが謎の集団に拉致されて拷問され、「5月9日」の自分の行状を書かされて開放されるまでのシークエンスの激しさ、テンポの良さには圧倒される。
「ああ、スゲぇ映画が始まったぞ、、、」
と言う期待に身を打ち震わせるに充分。

 

 そして映画は基本的には謎の集団にオトコが拉致されて拷問される、の繰り返しになり、そのフォーマットの中で、ある程度イロイロなことが判ってくる。
 次々に拉致されるオトコ達は実は冒頭で少女を殺した犯人グループであること。
 謎の集団は専門的な集団ではなく、実はリーダー(TVシリーズ「バッド・ガイズ」のマ・ドンソク)に雇われただけの一般市民の集まりであること。
 ここまでが設定の問題であり、仮に第一段階としておこう。

 

 第二段階として、双方のグループ個々のメンバーの事情が描かれる。
 犯人グループも犯罪者集団というよりは「上司の命令に従っただけ」の組織人(国家情報院の工作員と言ったところか)であり、それぞれ家庭を持っていて、自分の職業を家族に明かせず苦しんでいること。
 謎の集団はそれぞれが「抑圧された一般人」であり、日常では犯人グループ以上に苦しんでいる。DVオトコと暮らしていたり、客にいじめられるウェイターであったり、高圧的な社長のもとで働いていたり。

 

 ココでこの映画の恐ろしく前衛的な趣向が明らかになる。
 謎の集団の面々を抑圧するヒトビトの役は全部、最初に拉致拷問された犯人グループの1人、キム・ヨンミンが演じているのである。
 最初はコレが分からず、時間の経過が判らないせいもあり、開放された工作員がやがてDVオトコになってたまたま謎の集団の紅一点と暮らしているのかと思った。

 

 同時に映画の表現はどんどん象徴的になり、通常のサスペンス映画の枠組みを大きく離れている。
 イヤ、普通の映画であることを自己否定し始めると言うべきか。

 

 殺された少女の名はタイトルに有る通り、ミンジュであり、コレは韓国語で「民主」の意味だそうである。
 つまり、この映画は「(韓国の)民主主義は殺された」と訴えているのだ。

 謎の集団は少女を殺した理由を犯人グループの黒幕を拷問して白状させようとするが、最後までわからない。
 つまり、マクガフィンかと思いきや、さにあらず。
 少女が殺された理由は判らないが、民主主義が殺された理由は、実は映画の中で繰り返し描かれている。
 そしてそれはミンジュを殺した犯人グループのみならず、犯人グループを追い詰める謎の集団を通じても描かれているのだ。
 キム・ヨンミンが1人8役演じることで、単純な善悪の構図をくるりとひっくり返してしまう。

 謎の集団のリーダー、マ・ドンソクはおそらく韓国一、いやアジア一、もしかすると世界一ヒトを殴るのが似合う役者で、本作でも殴りまくっているが、映画の中でもヒトを殴る(かつて殴っていた)ことがテーマと結びついてくるあたり、ああ、やっぱりキム・ギドク監督もこのヒトは「ヒトを殴る」と言う行為のアイコン足りうると思っているのだなぁ、、、と言う感じ。

 

 全体的に脚本も撮影も、悪くいえば粗雑、良く言えば即興的な映画である。
 幾つかのアイデアや、個々のシーンの演出力は見事であり、キム・ギドク監督の映画作家としての底力を感じさせるが、言いたいことを伝えるのにこの手法でよかったのどうかの判断は難しい。
 この方が監督の怒りを叩きつける様な効果があるような気もするが、もっとじっくり描いて欲しかったような気もする。

 ある映画が良い映画であるかどうかの基準が、「その監督の他の映画(次回作)も観たくなるかどうか」だとすれば、ワタクシ空中さんは他の映画も観てみたくなりました。
 が、もうひとつの基準、「その映画を繰り返し何度も観たいか」で言えば、別に二度観たくはない。
  そんな映画でしょうか。

 :映画

at 01:17, 空中禁煙者, アジア

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「誘拐捜査」 誘拐実話シリーズ第三弾

 あ!中国映画にアンディ・ラウが出てる!と思ったら「香港から来た映画スター」の役だった。なるほど。

 

 この映画が、傑作が生まれることが多いとされる「誘拐映画」にあえて一石を投じる価値があるとすれば、まさに「誘拐されるのが映画スター」だという点にあるだろう。

 しかし舞台は中国北京のこととて、被害者が映画スターであることは、あまり捜査や事件の展開に影響を与えない。富や名声があまり影響力を持たない、という極めて共産主義的な理由なのか、むしろ情報と富の偏在という上手く行っていない共産主義に特有の事情なのか分からない。

 

 しかし、どこか意識の中で「映画スター=立派なヒト」という公式が成立しているのか、単に実在の被害者に考慮しているのか分からないが、誘拐されたアンディ・ラウは、終始椅子に縛り付けられていて身動きできない状況であるにかかわらず、ヒーローである。

 

 ともに誘拐された一般人を励ます。
 誘拐犯のリーダーが外出すると、下っ端を説得にかかる。
 しまいにゃ歌まで歌って大サービスである。

 

 この役は実際は呉若甫というヒトで、日本では全く知られていないが、中国では主演作がいくつもある大スターらしい。エンドクレジットのバックでこのヒトらしき人物がステージで歌っている模様も映るので、歌がうまいことも踏まえてアンディ・ラウに歌わせているのだろう。

 

 この映画で意外なのは、中国警察の意外な有能さだ。
 わずかな手がかりをもとにテキパキと手を打って、どんどん犯人に迫っていく。
 中国共産党のもとで警察がこんなに有能なわけはないと思うが、我々にうかがい知れない地殻変動が(いい意味で)始まっているのかもしれない。

 

 さて、アンディ・ラウ演じるヒロイックな被害者、意外なほど有能な中国警察、と揃えておいて、実はこの映画の主役はワン・チエンユエン演じる犯人グループのリーダーである(もちろんピリングのトップはアンディ・ラウだけど)。
 この、粗暴で、無慈悲で、それでいて陽性で、どこか屈折して、と言う複雑な人間性を表現したワン・チエンユエンなる役者さんのしたたかさは素晴らしいと思った。
 アンディ・ラウがほとんど動けない以上、このヒトの屈折した演技がなければ途中で退屈していたかもしれない。

 

 この役は比較的早めに(中国警察の有能さゆえに)捕まってしまい、あとは警察との条件闘争を繰り広げるのだが、自分の圧倒的に不利な状況に全く臆すること無く、取調官と丁々発止の駆け引きを続けた挙句、最後の望みは「恋人に会いたい」なんて、泣かせるではないか。

 

 何度も言うがこの映画は実在する映画スター呉若甫誘拐事件を元にしていて、つまりアンディ・ラウは呉若甫の役を演じている、ということになるのだが、この犯人グループのリーダーは、アンディ・ラウに向かって「『ゴッド・ギャンブラー』に出てたくせに」とか、刑事向かって「チョウ・ユンファかと思ってた」とか言いやがる(アンディ・ラウは「ゴッド・ギャンブラー」でチョウ・ユンファの弟子の役なのだ)。
 これ、どうもワン・チエンユエンのアドリブじゃないかと思うがどうだろう。

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「極秘捜査」 ある意味タイムリーな実話映画

 「極秘捜査」と言うタイトルで、たしかに主人公のコン刑事は警察上層部の意向に逆らって極秘捜査にこだわり続けるが、このハナシのキモはそこじゃない。

 韓国では有名な実話であるらしいこの誘拐事件は、事件の構造としては以外に単純であり、さほど目新しくも強烈でもない。。
 にも関わらず敢えて映画にする価値があると思われたのは、おそらくはひとりの占い師が絡んでくるからだろう。

 

 朴槿恵大統領弾劾のキッカケとなった「親友」なる人物が実は占い師であることもあり、韓国では占いと言う行為がどう受け取られているのか、我々日本人には興味深いところではあり、ある意味タイムリーな映画でもある。
 我々日本人には、一種のカルチャーショックを体験できる映画としても機能しているのだ。

 

 1978年、釜山。
 水産会社社長の娘、小学生のウンジュが誘拐される。犯人からの接触はないが、防犯カメラの映像や一緒に下校した友人の証言から誘拐は明らかだった。
 占い狂の社長の妹は義姉を連れて占い師をたずねるが、何人に訊いても「ウンジュは既に亡くなっている」と言われてしまう(コレも日本の常識で言うとどうかと思うが、、、)。
 そんな中、ソウルでエラい導師についての修行を終わらせて釜山に帰ってきたばかりのキム導師だけは「ウンジュは生きている」と断言する。
 しかし同時に「ウンジュを生きて救出するためには、釜山警察のコン刑事を捜査に加える必要がある」と言い出す。
 コン刑事は確かに過去に誘拐事件を解決したことがある腕利きだったが、今は収賄の疑いをかけられて機動隊に左遷されている。
 キム導師にすがるしかない社長夫妻はカネとコネを使ってコン刑事を捜査に加えようとするが、肝心のコン刑事は、「人質が死ねば責任を押し付けられる損な役回りだ」と協力を拒む。
 しかし、偶然にもウンジュの同級生だった長男の「ウンジュは金持ちじゃない子とも仲良くしてた」と言う言葉を聴いて、捜査に協力することを決意するのであった、、、

 

 当初は自分を厄介事に巻き込んだキム導師を恨み、「なんで占いなんてタワゴトに付き合わなきゃならないんだ!」と怒っていたコン刑事だったが、キム導師が犯人が初めて連絡してくる日、更には連絡してくる時間まで当てるのを目の当たりにし、徐々に見方が変わってくる。
 やがて犯人の身代金受け渡し要求場所がソウルに移るにつれ、ソウル警察、釜山警察との三つ巴の手柄争いの中、卑劣な釜山警察班長の罠に落ちて信用を失ったコン刑事は、キム導師の唱える見通しにすべてを掛けざるを得なくなる、、、

 

 制作陣が実際にどう思っているは判らないが、少なくとも映画の構造としては、観客が占いに対して肯定的な感情を持つように作られているわけだ。
 この点は、ご丁寧に「アメグラ」式の後日談まであり、さらに強調される。

 それはまるでロートル刑事が馴染めない新しい捜査手法であるかのようだ。例えばプロファイリングとかDNA鑑定とか。

 

 韓国のヒトたちと日本人ではこの映画に対する感情がまるで違うのだろうか。
 ワタクシ空中さんさはこの映画における占いの扱いについてどういうスタンスで望めばいいのかよく解らないまま映画が終わってしまった。
 そしてこの映画における占いの扱いについて迷っていると、この映画を楽しみそこねてしまう。
 刑事たちの捜査ドラマとしても、犯罪を巡る人間ドラマとしてもある程度レベルはクリアしているのだが、だからこそなおさら中途半端な印象になってしまう。

 

 コン刑事はご贔屓「チェイサー」のキム・ユンソク。相変わらず、どこか醒めていながらしつっこい人物像を好演。韓国映画はこういう枠にはめるキャスティングが多いのかもしれない。

 

 キム導師にユ・ヘジン。このヒトはネット上では吉本新喜劇の「ドリルされる方」に似ていると評判だが、ワタクシ空中さんは観ている間中、元ハローバイバイの金成に似ていることが気になってしょうがなかった。
判らないヒトは「プープー星人」でググってください。

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at 20:44, 空中禁煙者, アジア

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