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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「ラストナイト・イン・ソーホー」 スター誕生✕2

 

  ロンドンの一流デザイン学校に合格したエリー(トーマシン・マッケンジー)は大喜びで浮かれるが、彼女と暮らす祖母には心配ごとがあった。
  実はエリーの母もロンドンのデザイン学校に通っていたが、都会のストレスに負けて自殺していたのだ。しかもエリーにはどうも亡くなった母親が見えているらしい、、、
  エリーは学校の寮に入ったものの、田舎者をバカにされることうんざりして、パブのバイトをして一人で下宿を借りることを決意する。
 しかし、ソーホーに借りた下宿で初めて眠りについた夜から、彼女は夜な夜な1966年のロンドンで歌手を夢見て足掻くサンディとなって、スウィンギング・ロンドンを闊歩するのであった、、、
 というハナシ。
 
 「ショーン・オブ・ザ・デッド」や「ホットファズ−俺たちスーパーポリスメン!」のエドガー・ライトらしい、とっても気が利いていて、とっても楽しく面白いが、決してA級感は漂わない映画。
 
 前半は豊富なアイデアと意外な展開、そして二人の女優の女優の魅力で
「ハッ、、、オレは今、傑作を観ているのではないか、、」
と思わせるが、ラストでアレよアレよとB級ホラーになってしまう。
 思い起こせば「ホットファズ−俺たちスーパーポリスメン!」もとっても気が利いていて面白かったけど、ミステリーとしてはどーでもよかったなぁ、、、
 
 コレはもう、エドガー・ライトの宿痾なのだろう。
 神は細部に宿る。
 映画全体の印象がグダっても、もう、やりたいことは出来たからいいや、ってことだと思う。
 
 というわけで、この映画の前半はとっても楽しいですぅ、、、
 
 まず、何と言っても二人の若い女優さんの魅力(なんか小学校の卒業文集みたいだな、、、)。
 
 デザイン学校の新入生エリー役に「ジョジョ ラビット」のトーマシン・マッケンジー。
 ユダヤ人少女の時から可愛くはあったが、あまり美しい印象ではなかった。本作でも冒頭の田舎ムスメ時代は可愛いだけだが、都会に染まって垢抜けてからの美しさは尋常じゃない。美人だったんだねぇ、、、
 
 そしてスウィンギング・ロンドンで歌手を夢見て足掻く少女に「スプリット」「ミスター・ガラス」の、というよりドラマ「クイーンズ・ギャンビット」の、過去が似合う女アニャ・テイラー=ジョイ。
 アニャ演ずるサンディがソーホーのパブで踊るゴーゴーの可愛いこと。スイムとかね。ちょっと若いヒトは何言ってんのかわかんないだろうけどね。
 もう、可愛いの。自由で、躍動的で。
 コレがスウィンギング・ロンドンということだろう。
 アニャ・テイラー=ジョイのあの、離れていて大きい、強い目が醸し出す自信に満ちた表情。
 いつもオトコに無言で「どう?アタシの魅力に気付ける?」と問いかけている。
 スターとはこういうことだろう。
 スターの条件とは、ド厚かましいことである。
 ド厚かましいとは、自分のプランに疑問を持っていないことである。
 いま、アニャ・テイラー=ジョイも、この映画のサンディも自分のプランに疑問を持っていないことが、魅力になっている。
 サンディは歌を歌わせても踊りを踊らせても自信満々なのだ。正直この映画の中では歌はあんまり上手いとは思えないが、何しろ自信満々で歌っているので、とりあえず惹きつけられる。こういうヒトをシーンスティーラーと呼ぶのだろう。
 サンディは結局失敗するが、アニャ・テイラー=ジョイはまだまだスター街道を駆け上っていくだろう。あの、強い目であたりを睥睨しながら。
 ああ、オレはいま、スター誕生を目撃してるんだな、という感じ。
 「クイーンズ・ギャンビット」からファンなんだけど。
 
 ところで、パブでサンディが女たらしとゴーゴーを踊っているシーンで、サンディとエリーがノーカットで入れ替わる夢のような演出が話題になっているが、ワタクシ空中さんは、つねづねこういう演出方法はいかがなものかな、と思っている次第です。
 
 もう、観ててさ、
「あ〜、ハイハイ、カメラワークとヒトの動きを計算してうまく隠れては入れ替わってるのね、、、」
と思っちゃう。
 映画の中の世界から、一気に撮影現場の風景に引き戻されてしまうのだ。
 
 コレは最近流行りの「長回し」とも合わせて難しい問題ではある。
 撮り方で変化をつけるのか(迫力が出ると思っている)、観客がカメラの存在を意識しないカメラワークに徹するべきなのか。
 一番いいのは斬新でトリッキーであるにも関わらず、観客がカメラを意識しない手法を編みだすことなのだが、このシーンはもう、カメラどころかエドガー・ライトのドヤ顔まで浮かんでくるわ。
 カット割ってサンディとエリーの顔を切り替えたほうが夢のような美しいシーンになったと思うのよ。
 
 そして、単に二人の女優のスター誕生の瞬間をフィルムに定着させるだけではなく、なんとなく、時代に目配せしたアクチュアルなテーマも扱ってたりする。。
 二つの時代生きた女性それぞれの、「女性としての生きづらさ」を描いたりもしている。
 
 サンディーは歌手を夢見て、ロンドンに出てきたが、結局、性を切り売りして生きて行くしか無くなって行く。そして、それが自分の歌手としての実力不足からなのか、逆に性の対象として扱うために歌手としての実力をスポイルされているからなのか、分からない。
 この過程のヒリヒリした恐怖と失望は現代の女性にも響くだろう。
 
 そして、現代。
 名門デザイン学校の生徒になったエリーは流石に性を切り売りせざるを得なくなるようなことはないが、こっちはこっちで現代の女性ならではの苦悩を味わうのであった、、、
 コレはコレで現代の女性にとってアクチュアルな悩みなんだろうなぁ、、、
 高校卒業して以降、田舎モンだからってハブられることって、男子は無いよね。
 イヤ、デザイン学校とかのオサレであることがアイデンティティになってるような場所特有の現象なのかなぁ、、、

 エドガー・ライトがどーもB級くせーなぁ、、と思うのは、本作で言えば例えばホラーとして成立していないところだろう。
 本作は死臭問題から逃げているのだ。

 殺人事件で犯人が一番困るのは死体の処理だ。
 死体というものは放っておくと酷い臭いを発するので、コレをどう処理するのか、は常に殺人を隠す必要がある善男善女の悩みのタネである。
 しかしこの映画はこの問題を完全にないモノとしてほっかむりしている。
 
 コレは無理でしょ。
 もう、終盤はコレが気になってどーでも良くなってきた。
 大家のおばさんが漏らすヒトコトで全てをひっくり返せると思ったのだろうが。
 コレは確かに東京でもニューヨークでも成立しない、世界中でロンドンのみで成立する名言ではあるが。
 それでは今回はこの名言とともにお別れしたいと思います。
 
「ここはロンドンよ。どの部屋でもヒトは死んでるわ」

 

JUGEMテーマ:映画

at 19:18, 空中禁煙者, 洋画

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「ゴジラvsコング」 怪獣プロレス路線の到達点

 脚本という観点から見ると、前作「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」よりだいぶマシ。キャラ設定もストーリーラインも前作ほどムチャクチャなことにはなっていない(なってるところもあるけど)。
 しかし、その分前作にあったドラッグムービーのような浮遊感は無くなったかもしれない。
 まあ、「はぁ?ナニ言ってんのこのシトたち、、、、」というムチャな設定もあるのでご安心ください。
 
 一方で明らかになってきたこともある。
 「キングコング:髑髏島の巨神」「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」と、この「モンスターヴァース」シリーズを観てきて(厳密に言うとこの前にもう一つ「GODZILLA」があるのだが、全然覚えてない)、監督も脚本も全部違うのに、ひとつ強烈な共通点があるのに気づく。
 それは
 
「出し惜しみしないこと」

 コレだ。

 このシリーズの「出し惜しみしない」感はスゴい。
 「どぅーせオマエらの観たいものはコレやんな?」とばかりに次から次へと「どぅーせオマエらの観たいもの」を繰り出して来やがる。
 もう、「完全にエヴァのパクリやん、、、」というゴジラ対コングによる船上の対決があるのだが、例の船から船へと飛び移りながら闘うバトルが、もう、コレでもかとばかりに続く。しかも単調にならず、アクションのアイデアも豊富で飽きさせない。
 前半最大の見せ場であるこのシーンで、「ああ、この映画はこの設定で見たいと思ったものが全部観れる(ら抜き言葉)映画なのね、、、」と思い知らされる。
 
 ストーリーは前作(「キング・オブ・モンスターズ」)に続き登場のミリー・ボビー・ブラウンちゃん(要するに「ストレンジャー・シングス」のエル)が
 「地球の守護者だったはずのゴジラがなぜ再び暴れだしたのか」
を同級生のデブや陰謀論者の黒人と探るハナシと、コングが髑髏島から連れてきた原住民の少女(唯一コングとコミュニケーションが取れる)と地下世界(そこがコングの故郷だと主張する一派がいるのね)へ旅するハナシが並行して描かれる。
 脚本家としては、ココで
「個人の執念とと世界の驚異を対比させてやったぜ、フフフ」
とか思っているのだろう。

 まあ、この地球空洞説と空洞内の描写はもう、真面目に観ていると気が狂いかねないレベルのムチャクチャさ。
 百歩譲って空洞内では重力が逆転するのは判らないでもないが(スルーしてあげられるレベルではあるが)、あの、空洞内の空中で岩が浮く描写はなんなの?あそこで自分の足側にある質量と頭上にある質量が釣り合うの?
 どうも重力がナニを契機に発生するのか知らないヒトが考えている気がする。
 ちょっと子供に観せるのはマズイのではないか。
 
 この地底世界のシーンは全体的に、あの、前作で感じたドラッグムービーのようなヤヴァさに溢れている。
 「2020年代にもなってこんなムチャクチャが許されるハズはない、オレは一体ナニを観せられるてるんだ、、、コレは映画を観てるんじゃなくて夢を見てるんじゃなかろうか、、、」
的なトリップ感が味わえます。
 
 そして最後にまたたっぷりと怪獣プロレス。
 口からなんか吐く、という飛び道具があって圧倒的に有利なゴジラに対して、コング側にもちゃんと対抗策を用意して対決を盛り上げる周到さ。
 怪獣コンプライアンスにも配慮した造りになっている。
 
 東宝の怪獣映画も「ゴジラ」「モスラ」「ラドン」あたりまでは大人の向けの一種の恐怖映画であり、秘境探検モノだったりもしたが、徐々に「三大ナンチャラ大決戦」だの「○○対△△」だのばっかりになるにつれ、どんどん子供向け化が加速していった。なにしろ最終的にはゴジラが「シェー」をするところまで行ったのだから、子供を映画館に来させるためにいかに必死だったかわかる(「シェー」が分からないヒトはお父さん(お爺ちゃん?)に聞いてね?今で言えばゴジラが「そんなの関係ねぇ!」をやるようなものだろうか。それも古いな、、、)。
 そして、子供向け路線を続けた日本の怪獣映画は徐々に衰退していく。
 「ガメラ」という最初から子供向けであることを運命づけられた世界観も存在したが、これについてはいずれ語りたい。
 
 そして本作を含む「モンスターバース・シリーズ」は前前作の「キングコング:髑髏島の巨神」の時点で既に怪獣プロレスに堕しており、もう、現時点で怪獣プロレスをやり続けるしかなくなっている。
 
 だけどさ、怪獣プロレスってそんなにモたないよね。
 怪獣というなんでもアリの生き物なので、無限のパターンがありそうで、実はない。
 なにしろもともと着グルミだ。
 可動域が少ないっちゃない。
 人間同士のプロレスのようなダイナミックかつ複雑怪奇な動きはもとから無理なのだ。
 
 宇宙人だったらなんか知らんけど超科学的な武器かなんかよく判らんもので闘うだろう。
 あるいは人間同士のプロレスのような複雑怪奇な動きが可能な巨大生物が出てきても、我々はそれを「怪獣」とは認められないだろう。怪「獣」と言う以上ケモノであって、そんなに複雑をされたらそれは「前足」ではなくて「手」になってしまい、人間感が出てしまう。
 
 そして、実はこれらの条件をクリアを出来るのが類人猿であるキング・コングであり、キング・コングこそ唯一怪獣プロレスを成立せしむる怪獣なのだが、いかんせん相手はケモノである。
 ケモノ相手にどれだけ頑張ってもパターンはそんなにない。
 
 「モンスターヴァース」シリーズが今後もコング頼みのプロレス路線に頼るつもりなら、多分、次くらいでもう、飽き飽きなものしか作れないだろう。
 
 果たして怪獣映画はもう一度恐怖と科学文明への批判を取り戻せるのだろうか。
 なんとなく、アメリカ映画界でも日本映画界でも無理な気がする。

JUGEMテーマ:映画

at 01:21, 空中禁煙者, 洋画

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「イン・ザ・ハイツ」 舞台で観たら楽しいんだろうな、、、

 まあ、スゴく楽しい映画ですね。
 全編ラテン・ミュージックとダンスで綴られるワシントンハイツの日常。
 ツラいことも悲しいこともあるけれど、オレたち元気です!!
 
 ラテン系住人が多く住むワシントンハイツで、すでに亡くなったドミニカ人の両親から受け継いだコンビニを営む青年、ウスナビ。
 まあ、彼を取り巻くヒトビトが、なんとなく、それなりに、ドラマを抱えているわけです。
 コンビニを手伝ってくれている従兄弟の高校生、近所のタクシー会社で働く、ウスナビの親友の黒人青年、そのタクシー会社の社長、そしてその社長の娘は優等生でスタンフォード大学に通う地元の星だったのだが、何故か最近里がえりしている、、、
 そして、ウスナビは近所の美容院で働くネイルアーティストのバネッサを狙っているのだが、、、
 
 というようなコトをですね、楽しくてノリの良いラテン・ミュージックを歌って踊りながらお伝えしてるわけです。
 まあ、楽しいよね。
 
 みんな、ラテンのリズムにノッて歌って踊ってます。それだけで楽しいっちゃ楽しい。
 ラテンのリズムってそういうものでしょ。
 
 しかし、コレって、ワタクシ空中さんの考える「ミュージカルの楽しさ」とはちょっと気もする。
 例えば、群舞のシーンはあるのだが、踊りは揃っていない。ラインダンスではないのだ。
 ワタクシ空中さんは   ミュージカルで大勢が一斉に踊るとなれば、ある程度揃って同じダンスを、あるいは少なくともひとつの効果を生むために全員が演出がされて踊る、というイメージがあった。
 
 例えばソロ、あるいは少人数で踊るシーンも、何らかの「振り付け」を感じさせるダンスを踊るものだと思っていた。「ラ・ラ・ランド」でライアン・ゴズリングが両手広げてジャンプしながらクルクル回ってた、みたいな。「オール・ザット・ジャズ」(古っ)のベン・ヴェリーンが顔の前と体の後ろで左右の手を入れ替える(どこだか分かります?)、みたいな(まあ、ボブ・フォッシー、ベン・ヴェリーンのコンビと比べたら可哀相だけど)。
 
 なんかミュージカルを観ていると言うよりはラテン系のクラブ(今、ディスコと書きかけて、ディスコはオッサン臭いかな、と思ってクラブにしました。まあ、クラブとディスコの違いもよく分かってませんが)を覗いているみたい。
 おそらく、元になった舞台がそういうものなのだろう。かっちりとしたダンスを見せるというよりは、クラブのノリの楽しさを表現する、みたいな。場合によっては客席も踊りだすの推奨、みたいな。
 
 一応監督はなんとか舞台ではなく、映画っぽくなるように工夫はしている。
 アパートのバルコニーで踊っていた恋人同士が、いつの間にか壁に立って踊っているシーンは、多分今後いろいろなところで「ミュージカルの印象的なシーン」として紹介されるだろう。そしてその度にパネラーの誰かが「テレビ版のバットマンかッ!!」とツッコむだろう。
 
 さらに冒頭から何度も繰り返される「主人公が海辺で子どもたちにコレまでを語るシーン」も、単なるミスリードにすぎず、「はぁ?」というようなものである。このカントク、コレで「どう?驚いたでしょ?」とドヤ顔してるんだろうか。
 
  どうも、ミュージカルの伝統のなかに自分の1ページを刻むとか、あるいは逆に斬新な演出でミュージカルの伝統をぶっ壊してやる!とかいう覚悟が感じられず、「大評判の舞台をを恥ずかしくない程度に映像化してみました」という感じがしないでもない。
 ジョン・M・チュウ監督は前作「クレイジー・リッチ」に続いて人種問題がテーマなので、人種問題を扱わせるとアクチュアルな演出ができる、という評価なのかもしれない。
 
 そう、この映画は人種問題という真摯なテーマを扱っている。
 さらにもうひとつ。
 分断も本作の重要なテーマだ。
 そもそもワシントンハイツを舞台にしているのは、ここがアメリカの分断の象徴だからだ。 
 1950年代からドミニカを中心としたラティーノたちが肩を寄せ合って生きてきた(犯罪も多いけど)ワシントンハイツではあったが、もう何十年も金融屋やITが引っ越してきて地価が上がり、もとからの住民が住めなくなる、という「ジェントリフィケーション」にさらされているのだ。
 そのため、この映画の登場人物(全員貧しい)たちも、望むと望まざるとに関わらず、住み慣れたこの街から出ていくことを検討している。
 
 人種差別と貧富の差という、今のアメリカが抱える大きな分断の象徴として、ワシントンハイツは存在している。
 
 しかしワタクシ空中さんはここにも疑問を感じてしまった。
 主人公のコンビニ店主ウスナビもここから出ていくコトを夢見ているが、なんと、彼の望む引越し先は、故郷のドミニカなのである。
 ワタクシ空中さんは最後までここに引っかかってしまった。
 そもそも彼の両親はドミニカから逃げ出すようにして、無一文でアメリカに渡ってきたのではないか。
 それにはそれだけの理由があった筈である。
 なぜ彼はそこを不問にして呑気にドミニカを夢見ているのか、理解できない。
 
 ウスナビの恋人はファッションデザイナーになりたくてアップタウンに引っ越そうとしている。
 その恋人が今勤めている美容サロンのオーナーは家賃の高騰から逃げるためにブロンクスに店ごと引っ越そうとしている。
 成績優秀な高校生の従兄弟はアメリカの大学に進学することを夢見ている。
 
 そんな中、ウスナビだけは両親が逃げ出した故郷、ドミニカに帰ろうとしている。
 なぜ、ウスナビは両親の決死の決断と努力を無化するのか。
 なぜ、ウスナビはそんなにドミニカがいいと思っているのか。
 ここがサッパリ分からず、もう、観ていてどうしていいかわからない。
 両親の判断を無化するのもいい。故郷に帰りたがるのもいい。
 しかし、キミが今ここにいるのはそれだけの理由があってここにいるのだから、その理由を無視する理由を説明してくれよ、と思う。
 こっちはドミニカがどんなに素晴らしいところか知らないよ。
 
 ここが納得いかないので、どうも感情移入できないまま、映画が進んでしまう。
 
 やはりラテン系のヒトが観てなんぼ、という事なのかも知れない。
 彼らにはウスナビの感情が分かるのかもしれない。
 
 全体として、ラテン系のパーティーを覗き込んでいるような楽しさはあるが、映画としてはどうかなぁ、という感じ。
 ミュージカルとしても、圧倒的な群舞も記憶に残るソロダンスもないし、そもそも後々印象に残るような曲もない。
 
 あくまで、ラテンのノリのパーティーですよ舞台で生でコレを演ってるんですよ、ということであり、そこを乗り越えることはできなかった。
 
 ところで、やはりもうちょっとドラマが必要だと思ったのか、中盤にある事件を用意している。そしてその出来事までの残り時間を
 「○○まであと○○日」
とテロップで出すのである。
 
 ある世代は「宇宙戦艦ヤマトか!」とツッコミ、またある世代は「北条時宗か!」と突っ込んだだろうが、アレ、舞台ではどうしてたんだろうねぇ、、、
JUGEMテーマ:映画

at 20:18, 空中禁煙者, 洋画

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「ヘレディタリー/継承」 シン・パラノーマル・アクティビティ

 そんなわけで、「ミッドサマー」のアリ・アスター監督のデビュー作。
 観る順番が逆になってしまったが、なんだか答え合わせみたいな楽しみ方が出来た。
 この2本、要は同じハナシなのだ。
 つまり、
 
「妹に死なれたオトコ(オンナ)がラストで王(女王)になるハナシ」

 コレである。
 
 そして、どちらもホラーと銘打っていて、たしかに怖くもあるのだが、実はホラーではない。
 いや、怖さで言ったらこちらの方が怖かったかも知れない。
 正直、観ているあいだ怖さで震えた。
 しかし、それも「いわゆるホラー」としての怖さではないのだが、、、
 
 今回も(今回から既にして)オープニングのカットが凝っていて、のっけから
 
「凡百のホラーとは違いますよ」
 
と宣言している。ナマイキだなぁ、、、

 暗い部屋の中をカメラが移動していくと、巨大なテーブルや棚に、「家のミニチュア」が置いてある。シルバニアファミリーの家みたいな、断面から中が覗けるアレである。
 やがてカメラはあるミニチュアに寄って行き、二階の部屋の中を映し出すと、いつの間にかそっくりな現実の部屋になっており、どこからともなく「起きなさーい!」という女性の声が聞こえると、部屋の中のベッドに寝ていた少年がイヤイヤ目を覚ます、という趣向。
 コレはあとから考えると、「ああ、こういうことを象徴してるのかな、、、」と思う。
 新人のくせに出だしからなんか象徴すんじゃねーよ、という感じもする。
 
 少年は、祖母の葬式に向かうために起こされた。
 この映画は、とある老婆の葬式から始まる。
 老婆の娘である少年の母親の弔辞により、祖母が極端に変わり者であったこと、しかもなんらかの宗教っぽい組織に属していたが、それを家族には語りたがらなかったこと、などが分かる。
 「ミッドサマー」が最初から最後までオカルトでもサイコホラーでもなかったのに比して、いかにもオカルト・ホラーが始まるぞ、という雰囲気。
 そうです。
 本作は堂々のオカルト・ホラーです。
 そして怖いです。
 怖いんですが、ココで全く意外なことに、オカルト・ホラーとしての怖さではなかったりもします。

 祖母が亡くなったあと、父母、高校生の息子中学生の娘の4人家族には、徐々に不思議なことが起こり始めるが、、、
 正直、「不思議なこと」はことはこの時点では大したことはない。
 それよりも、「ミッドサマー」が実は恋人同士の葛藤のハナシであったように、本作は家族の葛藤のハナシになって行く。
 そもそも「ミッドサマー」のヒロインは双極性障害を患っていて、本人もパニック障害に苦しんでいたが、本作の母親の境遇はもっとシビア。母の母は解離性同一性障害で父は統合失調症をこじらせて餓死、兄は被害妄想のあげく自殺、本人も夢遊病、という有様。
 ハッキリ言ってこの時点でオカルトより怖くね?
 
 本人は自覚的ではないのだが、主に母親の不安定さによって家族は徐々に崩壊していく。母親は必死で家族をまとめようとするのだが、徐々に明らかになる祖母の謎、自身の夢遊病などでイライラをつのらせて行く。
 この過程が怖い。 
 
 そう、この映画で怖いのは家族が崩壊していく過程なのである。
 特に、妹が死んだ後のお兄ちゃんの反応には驚愕した。
 こんな反応ってある?
 これは映画史上初と言ってもいいのではないか。
 これまでの映画の文法からは絶対に出て来ない発想だと思う。
 ワタクシ空中さんはこのお兄ちゃんの反応の後、あまりの恐怖に目を逸らしそうになるのを、歯を食いしばって耐えていたような記憶がある(何故「お兄ちゃんの反応」などというものが恐怖を呼ぶのかは、本編を見ていただくしか無い)。
 
 そして、ラスト近くなってハナシが急にオカルトに寄ってきたとき、全く意外なことに、ワタクシ空中さんはちょっとホッとしてしまった。
 こんなことってある?
 フツーは「オカルト」が怖い要素であるはずなのに、オカルトになることによってホッとしてしまう。

「ああ、コレってオカルト映画だった、、、オレはいまオカルト映画を観ているんだった、、、オカルトなら知ってるわ。なんとか対処できるわ、、、」

 それだけ、本作の恐怖はオカルティックな恐怖ではないのだ。
 
 このあと急速にオカルトになっていくが、正直、ハナシを終わらせるために「パラノーマル・アクティビティ」フォーマットを持ち出してきたな、という感じ。
 なにしろタイトルからして「ヘレディタリー 〜継承〜」だ。
 「パラノーマル・アクティビティ」だかだか回を重ねるごとにナニかを「継承」するハナシになっていったではないか。
 この圧倒的な既視感も、「オカルトであることによって安心してしまう」効果を生んでいるかも知れない。
 
  母親役はトニ・コレット。
 「シックス・センス」や「ヒッチコック」に出ていた、というが、ゴメンナサイ全然覚えてません。
 しかし、コレは堂々たる「不安定な母親ぶり」。
 かれこれ30年近くコンスタントに映画に出ているベテラン女優さんが、海のものとも山のものとも知れない新人監督のこんな無茶な映画に出て、こんなエキセントリックな演技をしてくれるアメリカ映画界を羨むべきなのか、それともそれだけ傑出した脚本なのか、判断に迷うところ。
  
  家族の中で唯一まともな父親役が「エンド・オブ・デイズ」のガブリエル・バーンなので、どうせ最後は悪いことするんだろうと思っていたが、、、
  ガブリエル・バーンくらいになると、「この脚本はモノになる」と判断したんだろうな、という気がする。
  
  最初にも書いたが、本作と「ミッドサマー」はほぼほぼ同じハナシである。
  しかし、「ミッドサマー」には本作のようなラストの「取ってつけた」感がないだけ、成長した、ということなのだろう。
  
  まさか、三作目はもっと怖い、とでも言うのだろうか、、、
  
  ってほん呪じゃねーし。

JUGEMテーマ:映画

at 21:42, 空中禁煙者, 洋画

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「ミッドサマー」 斬新!真っ昼間ホラー

 

 はぁ〜〜〜、才能のある映画監督との出会いとはこういうものか、と思った次第でございます。
 
 通常我々は一本の映画を観るとき、全く予備知識無しで観るということはほぼないだろう。少なくともジャンルくらいは判っているのではないか。
 そうじゃないと「レンアイ映画」だの「ひゅーまんどらま」だのを観てしまう危険があるではないか(ハナシ変わるけどヒューマン・ドラマってナニ?。ドッグ・ドラマとかエレファント・ドラマとかけっこう有って、それらと区別するためなら判るけどそうじゃないでしょ。映画とかドラマの登場人物ってほぼほぼヒューマンじゃねーの?いま登場「人」物って言っちゃったけど)。
  
 本作についてもワタクシ空中さんは「ホラーである」ということは判っていた。
 さらに言えばスウェーデンの田舎が舞台である事もわかっていた。
「ああ、アメリカ人がヨーロッパの田舎でわけのわからない宗教儀式に巻き込まれてシどい目に会うハナシね、、、」
ってなもんである。
 なんとなく、「ホステル」がアタマに浮かぶ。
 アメリカ人の田舎恐怖という観点からみると、「脱出(ジョン・ブアマンの奴ね)」とか「ウィッカーマン」とか頭に浮かんでさえいる。ピーター・フォンダの「悪魔の追跡」とかね(知らんわーーーーーーーーーーッつ!!)。
 
 しかし、この映画の冒頭は、それらの予備知識から予想されるオープニングを全く裏切る。
 
 映画開巻のド頭のカットがのタペストリーはまあ、いい だろう。それっぽい。多分、タペストリの内容が映画の展開を象徴しているのだろう。
 しかし、次のカットはなにやら寒々とした森の風景。雪にまみれ緑色が全く感じられない針葉樹の、まるで静止画のようなカット。
 コレが3枚続いたあと、突然アメリカの住宅街の夜景に電話の呼出音が鳴り響く。
 
 一体全体コイツはナニを延々と書いているのか、とお思いでしょうが、なんか、全然ホラー映画のオープニングっぽくないのね。じゃあどんなんがホラー映画のオープニングっぽいんだよって困るけど。
 しかしこの映画はオープニングから「スウェーデンのミッドサマーが舞台のホラー」と言う前情報から、何となく我々がイメージするオープニングと著しくかけ離れている。
 監督の、「そこらヘンに転がってる凡百のホラー映画とはちょっと違いますよ」という決意のようなものがビンビンと伝わってくる。
 
 で、夜の住宅地に鳴り響いた電話ですよ。
 夜景からやがて一軒の家の鳴り響く受話器のアップになり、その家の中を映し出す。
 寝室で寝ている老夫婦。
 呼び出し音以外全く動きのない家の中。
 
 コレはコレでそれなりにホラーっぽいオープニングではあるのだが、我々の脳裏にはある違和感が浮かんでいる。我々はこの映画が夏のスウェーデンを舞台にしている、という予備知識を得ているからだ。
 こっからどうやって舞台を夏のスウェーデンに移すんだろう、、、
 
 電話をかけていたのは心理学を学ぶ女子大生、ダニであった。
 ダニの妹は双極性障害を患っており、ダニに不穏なメールを送ったあと携帯に連絡がつかなくなっていたのだ。
 妹の携帯も実家の固定電話も連絡がつかなくなったダニは不安になり恋人のクリスチャンに電話をする。 
 この、クリスチャンとの電話で、二人の関係性、さらにはクリスチャンの友人たちとの関係性まで判ってしまう。
 ダニは自らもパニック障害の傾向があり、精神的に完全にクリスチャンに依存していて、クリスチャンはそれを友人たちからバカにされている。
 「そんなメンドいオンナとっとと別れちまえよ!」
というわけだ。

 クリスチャンとその一味の四人組は文化人類学の院生で、論文のテーマを探している。
 仲間の一人がスウェーデン(出た!)の地図に載ってないような奥地に、キリスト教以前から続くコミューンがあることを突き止め、そこでのフィールドワークを論文にするため、クリスチャンたち仲間に協力のため同行してもらう計画を立てていた。
 そして、クリスチャンと何日も離れて暮らせないダニも同行する、と言い出すのだった、、、というハナシ。
 
 ここまで、主人公ダニのキャラクターと置かれた状況、恋人やその仲間との関係性をたっぷりと描いている。
 スウェーデンに出発するまで(出発してもある程度の時間)、ホラー要素一切なし。
 凡百のホラー映画とは違いますよ、と宣言している。
 まだ監督二作目の新人としてコレをやりきる実力と度胸には恐れ入る。やはり才能とはセンスだけじゃない、度胸も必要なのだ。
  
 そして彼らは問題のコミュニティにやってきた。
 彼らの他にも単純に観光目的のようなカップルもいたりして、村人は外部からの訪問者を熱烈歓迎。
 しかし、訪問者たちは、本番の「ミッドサマー」、夏至祭の前に、前哨戦のような行事を見せられ、激甚なショックを受ける。
 
 キリスト教的な、あるいは近代的な価値観と無関係な世界で育まれ、継続されてきた宗教儀式であり、人間の命というものに対する考え方が、まるで違うのだ。条件さえ揃えば、当たり前のように、淡々と自分の命を捨てる。それは自爆テロのようなものとも違う、「ナニかのため」必要だから、と熱い思いで、いうことではなく、ただ、淡々と、そういうものだから、と死を受け入れていく。
 
 おそらくは観光目的だったカップルはこの出来事にショックを受けて村から出ていこうとするが、クリスチャン達一行、つまり文化人類学の徒はこの出来事に大興奮、クリスチャンは本来有事の研究に協力するだけのつもりだったが、自分もこの村をテーマに論文を書く、と言い出す始末。
 つまり、ここでもダニは帰りたい気持ちとクリスチャンと一緒に居たいという気持ちに引き裂かれている。
 
 ホラーと言えば普通夜のシーンが多そうだが、本作はこのあと夜のシーンがない。なにしろ白夜だから。寝るときは窓を板で塞いで暗くするが、隙間から光が漏れている。
 夜のシーンが無いホラー映画というのも前代未聞ではあるまいか。
 
 あくまでも明るい陽光の下、住民たちも明るく、やさしい中、徐々にダニたちは住民のペースに巻き込まれていく。
 
 本作はホラーではあるが、オカルトではない。サイコホラーでもない。
 住民たちは、あるいはダニたちを襲う者たちは、この世ならざる存在でも、殺しに酔う狂人でもない。ましてや犯罪者集団でもない(少なくとも自覚的には)。
 彼らはある意味善良で正常な人間である。
 ただ、現代では通用しない価値観に従っているだけだ。
 彼らの宗教がドルイド教だとすれば、かれこれ4000年近くアタリマエのこととして続けてきた行動様式を守っているだけなのだ。
 
 実はこの陽光の中繰り広げられるホラーが、凡百のホラーより怖いのはココだろう。  全く悪気のない善良なヒトビトによって徐々に追い詰められていく。
 一体このシト達はナニを考えているのだろう、、、
 とっても明るくて優しいシトたちなのに、、、
 
 そしてラストのたったワンカットで、前半さんざん振って来た伏線を回収することによって、ホラーですらなくしてしまう。
 ああ、コレがやりたかったのか、、、
 結局、ホラーというフォーマットを利用して、オトメ心を描いているのだ。
 監督二作目にしてなかなかのやりたい放題ぶりではないか。
 
 あえて文句を言うと後半に「サラッと出したつもり」のドルイド教周辺のアレコレが、「サラッと出したつもり」なだけに、ウザい。
 「あ、コレ、キミたちが観ても意味分かんないだろうけど、ちゃんと裏付けあるから。
  興味あったら調べてみれば?」
 という感じ。
 
 うるへー!(←調べた奴)

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at 21:30, 空中禁煙者, 洋画

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「アス」 「我々」はどちらの側なのか。

 

 正直言ってこの映画の設定はメチャクチャです。全然説明がつかないし、筋が通らない。
 この映画は後半に向けて脚本・監督のジョーダン・ピールのメッセージが強烈に出てきて、もう、設定の整合性とかよりメッセージを展開するほうが大事になっている。
 
 ふつう、そんな設定の整合性よりメッセージ臭優先の映画はつまらないと相場が決まっているのだが、、、
 けっこー面白かったですぅ、、、
 
 なんで面白かというと、主要登場人物たちの具体的な行動の描写がしっかりしてるから。
 
 アデレードは子供の頃、両親と訪れた海辺の遊園地で迷子になり、迷い込んだミラーハウスで自分のドッペルゲンガーに会う、という体験をしていた。この時のショックでしばらく失語症になっていたが、今は克服して結婚し、子供も二人いる立派なお母さんである。
 ある日、夫の友人一家と待ち合わせて海辺のリゾートへ行くが、そこはアデレードが迷子になったあの遊園地がある土地であった。
 到着当日から周辺で不可解な事件が起こり、アデレードは夫に少女時代の事件を告白し、帰りたい、と頼むが、その夜、家の前に謎の人影が4体。男と女、そして子供二人。アデレードの家族と同じ構成だが、、、
 はたして彼らは家に侵入して来るのだが、なんと、彼らは4人ともアデレードの家族にそれぞれそっくりだった。そして、彼らは(ある意味予想どおり)アデレードの家族に成り代わるため、アデレード達を殺そうとするのだった、、、
 というハナシ。
 
 殺しに来ているのだから、こっちも殺していかないと殺されちゃう、、、という訳で、ここからは家族対偽家族の殺し合いになります。
 一旦撃退して夫の友人一家に助けを求めに行くが、友人一家は不意を突かれて既に全員死んでいた。そして、そこには友人一家にそっくりな襲撃者が、、、
 
 どうもそっくりさんがいるのはアデレードの一家だけではなかったらしい。
 コレはおおごとでっせ、、、感がハンパない。
 
 見事だな、と思うのは、誰が、誰を、どうやって倒したか、ちゃんと判るように描いていることだ。さらに、それまでフツーの暮らしをしていた一家が、なんだかわからない殺人者たちをなぜ倒せたのか、納得の行くように描くことに成功している。
 コレはスゴイことだよ。
 何しろ子供がいるのだ。ただの中学生女子だの小学生男子がどうやって殺人に禁忌をもたない奴らを倒せるのか、あるいは少なくとも逃げおおせるのか。
 「ああ、なるほど、コレなら可能かな、、、」
と思える展開にちゃんとなっている。
 コレはスゴイことだよ2。
 ストーリー上必要な展開を具体的なアクションに落とし込めるって脚本術って意外に貴重なのだ。
 
 最終的に主人公のアデレードとそのソックリさんの二人はソックリさんのアジトに到達し、その中でタイマンを張るハメになる。
 この辺の上手く二人だけになる展開も自然で上手。
 
 そしてこのアジトの中での死闘中、ソックリさんは徐々に「自分たちがなぜ、どのようにして存在するのか」を語り始める。
 
 語り始めるが、まあ、細かいことはどうでもいい。全然筋通らないし。無理だし。
 要するに彼らはどうも政府が何らかの実験のために作ったクローン人間らしい。
 しかし、コレまで生活していた食費、光熱費等どうやって捻出していたのか、最終的にどうするつもりだったのか、一体全体どの程度の規模で行われてた実験なのか、一切不明なママ。
 「そのヘンは細かくツッコまないで、、、」
という脚本・監督のジョーダン・ピールの祈りが聞こえてきそう。
 
 この映画は、劇中何度か「ハンズ・アクロス・アメリカ」に関する映像が出てくる。
 「ハンズ・アクロス・アメリカ」とは、1986年にアメリカでちょっとだけ話題になったイベント。
 Wikipediaによると

「1986年5月25日、15分間にわたり、アメリカ合衆国本土で人々が手をつないで人間の鎖をつくったチャリティー・イベントである。」

となっている。
 要するに「ウィ・アー・ザ・ワールド」の流れらしい。
 「金を払ってアメリカ東海岸から西海岸まで手を繋いでつなげよう」という、なにが楽しんだかサッパリ分からないこのイベントの趣旨は、結局、「アメリカ合衆国のホームレスと飢えを救済するために、」であった。救いたきゃ黙って金だけ払えばいいと思うが、それじゃ集まらないのが金というものであり、チャリティとはそういうものなのだろう。
 
 この、なんだか良くわからないいかにも偽善的なイベントは、案の定はなはだ盛り上がりに欠ける結果に終わったのだが、この映画に出てくるクローンたちは、なぜかこのイベントの再興を目論んでおり、地下アジトからゾロゾロ出てきては、なんだか知らないけどみんなで手を繋いでいくのであった。
 
 脚本・監督のジョーダン・ピールは、「ハンズ・アクロス・アメリカ」の失敗が腹立たしかったのだろう。

「なんだ。結局無視されたヒトビトは無視されたママじゃねーか」

 これはつまり、無視されたヒトビトによる復讐劇なのだ。
 自らも黒人であるジョーダン・ピールは「いつか、オマエらが(我々が)無視してきたヒトビトに復讐されるぞ」と言っている。
 地下世界に閉じ込められてきたクローンたちは、自らがハンズ・アクロス・アメリカを再演することによって「オマエら、なんか忘れてねーか?」と問うている。
 
 と、言うようなメッセージがあるのだが、メッセージの提出の仕方ははなはだ生硬である。しかし、そこまでの展開がちゃんと描けているので、結果、映画としてはとても面白いですぅ、、、
 
 ところで映画のタイトルは「US」である。コレはUnited Statesのことでもあるだろうが、要は「我々」である。
 果たして「我々」とはどっちの側なのだろう。
 無視する側なのか。
 無視される側なのか。
 その答えがラストのどんでん返しなのだ。
 「我々」とは、無視している側だと思っていたが、実は無視される側だった、われわれのことなのだ。

 

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at 21:12, 空中禁煙者, 洋画

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「イエスタデイ」 ビートルズを必要とする不幸について

 

 やっぱダニー・ボイルってスゴイなぁ、、、と思うのである。
 実は私空中さんは、ロンドン・オリンピックの開会式に感動してしまったのだ。

 「前回のロンドンオリンピックから今回までの期間、イギリスが生み出した世界に誇れるものはロックだ!」

というオリンピックの開会式史上まれに見る明解なコンセプトに貫かれ、イギリスの全体像を無視して延々とロックが流れ、ロックスターが登場し続ける大胆さ。
 そしてオープニングのVTR部分にピンク・フロイドをフィーチャーし、ヒプノシスのイメージを織り込む「解ってる感」。
 VTRパートのラスト、ロンドン中を駆け巡っていたカメラがピンク・フロイドの「Eclipse」に乗せてスタジアムに到達するシーンなど、ワタクシ空中さんはほとんどイキそうなっていた。
 ワタクシ空中さんの青春はブリティッシュ・ロックと共にあった。
 もう、涙なくしては観れません、、、(それだけにTOKYO2020」とやらの意味不明でショボい開会式は恥ずかしかった、、、)。
 
 そんなダニー・ボイル監督作品。
 テーマはビートルズ。
 もう、素晴らしくないわけがないよね。
 
 いや、解るよ。解りますよ。
 曰く、「ビートルズで重要なのはその先進性である」
 曰く、「あのハーモニー無くしてなんのビートルズか」
 曰く、「ビートルズとはカウンター・カルチャーのオピニオンリーダーである」
 これらの理由を持ってこの映画を認めないヒト達がいる。
 ビートルズってこんなもんじゃないよ、と。
 
 それはそうよ、それはそうなのよ。でも、そうじゃない。そうじゃないんだよ。
 コレは、ダニー・ボイルによる、

 「ビートルズの楽曲の詩とメロディーだけ取り出しても、名曲として通用するのか」

という思考実験なのだ。
 そして、ダニー・ボイルの結論は

 「通用する」

である。
 そしてダニー・ボイルはさらに壮大な仮説を披瀝してみせる。
 
 全く売れないシンガーソングライター、ジャックは、マネージャー以上恋人未満の幼馴染エリーに支えられてバイトしながら音楽活動を続けていたが、
 「そろそろ潮時かな、、、」
などと思っていた。
 そんなある日、夜中自転車で走っていた(貧乏だからクルマがない)ジャックは、突然辺り一帯が停電したことに驚き、おそらく同様に驚いたバスと接触、交通事故にあってしまう。
 ジャックは大怪我をして入院するが、退院後に仲間が開いてくれた退院パーティで、エリーに新しいギターをもらう(前のは事故で壊れた)。
 そして、「ギターにふさわしい曲を演ろう」と「イエスタデイ」を弾くと、その場にいた友人たちが全員、「なんて美しい曲だ、、、」と驚く。
 エリーまで「こんないい曲、なんで今まで演らなかったの?」と言い出す始末。
 
 アレ?みんなビートルズの「イエスタデイ」知らないの?
 家に帰って「Beatles」でネット検索しても「Beetle」(カブトムシね)しか引っかからない。
 アレアレ?ビートルズってオレの記憶の中にしかいないの?
 
 つまり、ジャックはビートルズが「生まれなかった」平行世界へ転生したのだ。
 
 世界中の誰もビートルズを知らないのをいいことに、ジャックはビートルズの曲を自作の曲として歌い始めたらさあ大変。
 自主制作CDを作れば大評判になるわ、地元のニュース番組に呼ばれるわ、その番組を観たエド・シーランにオープニング・アクトを任されるわ、アメリカから大物マネージャーがスカウトに来るわ、もう、大騒ぎ。
 かくしてジャックは長く面倒を見てもらったエリーを捨てて狂乱の巷アメリカへと渡るのであった。
 しかし、名声が高まれば高まるほど、ジャックは疑問を感じ始める。
 「オレ、こんなことしてていいんだろうか、、、どんなに売れても、ホントはオレが作った曲じゃないのに、、、」
 というハナシ。
 
 ま〜〜あ面白いよね。
 だいたい、「興亡史」のうち、「興」の部分はどんな映画でも(小説でも)面白くなりやすいが、さすがダニー・ボイル先生、小ネタもふんだんに散りばめて、おおむね予想の範囲内のことしか起きないにも関わらず、全く飽きさせず、「興」のワクワクを持続させる。。
 主人公やその友達のとぼけたキャラ、一転してギョーカイ人たちのエグいキャラなどを織り交ぜ、ちゃんとコメディとしても成立してるし。
 
 しかし、我々は映画が進むうちにある「違和感」を感じるようになる。

「アレ?この世界のヒト達、ちょっとヘンじゃね?」

 まあ、たいしてヘンじゃないんだけど、どっかヘン。ビミョー二にヘン。
 なんかこの世界のヒト達、ミョーに物分りが良くない?
 
 この映画はエド・シーランが本人役で出演し、全面協力している。
 ローカルテレビに出て歌っていたジャックを観て、イキナリ自分のワールドツアーの前座に抜擢してしまうという役まわり。
 そしてロシア公演が終わった夜、バックメンバーやスタッフとたむろしていたとき、エドはジャックに作曲勝負を挑む。

「前に作った曲はダメだよ。今この場で作った曲をみんなに聞いてもらって、投票でどっちがいいか決めてもらおう」

 そしてジャックはおもむろにピアノを弾きながら「Long and winding road」を歌い出すのだ。
 聞き終わった後、エドは言う。

「投票の必要はない。新しいスーパースターの誕生ってことだ」
 
 あっさり負けを認めてしまう。
 物分り良すぎじゃね?
 フツーの映画の文法としては、一応投票はしたものの忖度する奴がいてジャックの惜敗、しかしエド本人は自分の負けを知っていて、、、的な展開もあり得ただろう。
 しかし、あえてそうはならない。
 なんてもの解りがいいんだろう、、、
 
 実は、あの停電の夜、「ビートルズがいた世界」からこの世界に転生してきたのジャックだけではない。
 少なくとも二人は劇中に登場して、ジャックに会いに来るのである。
 ジャックは今日の観客の中にビートルズを覚えている奴がいると知って恐怖する。
 ついに自分が盗作で名声を得ていることを糾弾される日が来たか、と。
 しかし実際に対面した二人は驚くべきことを告げる。
「ビートルズの音楽がない世界は少しつまらなかったわ。これからも頑張ってね」
 な、なんて物分りがいいんだろう、、、
 
 そして、この違和感は、ラスト近く、恋人が元カレのもとに戻ると言い出した今カレの反応で決定的になる。
 明日から愛し合った彼女がいなくなるというのにそんなにニコヤカに二人を祝福できる奴がいるか?
 い、いくらなんでも物分りよすぎじゃ、、、
 
 映画のラストで、ジャックも物分りが良すぎる選択をする。
 つまり、ジャックと先の転生組の三人は、おそらくはこの世界にふさわしい物分りの良さ」を備えていたからこそ、この世界に転生してきたのだろう。
 
 「ビートルズがいない世界」の住人は、「ビートルズがいた世界」の住人より、極端に物分りがいいのである。
 
 おそらくはコレがダニー・ボイルがこの映画に託した映画のテーマだろう。

 ビートルズが生まれなかった、と書いたが、それは、ジョン・ポール・ジョージ・リンゴのの4人がこの世に生を受けなかったということではない。彼らは生まれているのだ(そのうち1人は登場する)。
 しかし、ビートルズは生まれない。
 
 つまり、ヒトビトが物分りがよく、我々の世界より優しい世界ではビートルズは生まれないのだ。
 なぜなら、ヒトビトが物分りがよく、優しければ、ジョン・レノンは「HELP!」と叫ぶ必要がないから。
 
 かつて渋谷陽一は「ポップスターとは大衆の不幸の集積だ」と喝破した。
 ビートルズがいない世界では、我々が今いる世界より、不幸が少ないのだ。ヒトビトが物分りがよく、優しいから。
 つまり、ビートルズという偉大なポップスターを必要とした我々の世界は、ビートルズを必要としない世界より不幸なのだ。
 その不幸を、ビートルズを始めとするポップスター達が埋めようと必死になっている。
 コレは、大衆芸術全般の機能と言ってもいいかも知れない。
 
 イヤ、解るよ、解りますよ。
「そんな理由でビートルズが生まれないくらいヒトビトの心象が違う世界だったら、もっと違う世界になってるんじゃね}
 まあ、そうなんだけどさ、そこはいいじゃない。映画だし、思考実験なんだからさ、、、
 
 実は「ビートルズがいない世界」には、我々の世界と比べて、他にもないものがある。
 例えばタバコだ。
 多分、ヒトビトがもっともの解りが良くて優しければ、我々はタバコを必要とするほどイライラしないのかも知れない(え?今でも必要ない?あ、そう、、、)。
 
 ハリー・ポッターが存在しないのは、、、
 やっぱりヒトビトが物分りがよくて優しいと、スリザリンは成立しないからかな、、、
 
 ビートルズの楽曲を使った楽しい映画として成立させながら壮大な思考実験をしてみせたダニー・ボイルの才能には恐れ入る。
 
 ところでちょっと不思議なんだけどさ、この映画を、ビートルズの先進性やハーモニー、そして歌唱力を含めた演奏力を理由に認めないヒトたちって、ビートルズの楽曲だけでは大したことないって思ってるのかな。
 例えば、ビートルズのカバー曲なんて認めないのかな。
 ワタクシ空中さんはスティーブ・ヒレッジの「IT’S ALL TOO MUCH」なんて原曲より好きなんだけどな、、、
 
 あ、あと、この世界にはビートルズのパクリじゃね?と言われるあるバンドも存在しません。
 まあ、コレは本人たちも怒らないだろうね、、、
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at 19:53, 空中禁煙者, 洋画

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「脱走特急」 ロシアの大地に ふたりの愛は 芽生えて・・・♪

 

 フェイク邦題シリーズ第二弾。
 驚いたことに脱走もしないし特急でもない。
 しかもそもそも「脱走特急」ってシナトラの名作があるし。
 観てないけど。
 観てないけどね。あるのよ。
 
 原題は
 
「Коридор бессмертия」。
 
 イヤ読めんわ!(ロシア語表示されてる?)
 Google翻訳によると。

「不死の回廊」

だそうである。
 なるほどね。
 ソ連軍がナチスドイツによるレニングラード包囲線を突破したのち、レニングラードに物資を運ぶため、慌てて線路を引いて鉄道を通し、蒸気機関車で物資を命がけで運ぶ7人のハナシ。
 まあ、「不死の回廊」じゃ訳わからないから「不滅のレール」とか良くね?ダサいか。
 
 やっとの思い出ドイツ軍によるレニングラードの包囲線を突破したものの、レニングラード市内は絶望的に物資が不足していた。なにしろ包囲戦を突破しただけで、あたりはまだまだドイツ軍だらけなのだ。
 ソ連は「トラック100台分」の輸送量を誇る鉄道敷設の必要に迫られるが、物資のみならず人材も不足してた。
 仕方なく線路の敷設から列車の運行に至るまで、女学生の力さえ借りざるを得なくなっていたのだ。日本で言えば「学徒動員」ですね。
 
 で、列車運行のため駆り出された音楽学校の女学生、ソーニャとマーシャが主人公。
 もともと音楽学校で楽器を習っていたが、食事がが目当てで(なにしろ列車が動くまでは物資が絶望的に不足している)「車掌」の応募に応じる。
 しかし車掌とは名ばかり、なんと少女の身で線路の敷設から荷物運びまでやらされる雑用係であった。
 とはいうものの、一回目の運行を乗り越えたあと、7人の乗員たちには仲間意識も芽生え、辛いながらも任務をこなしていた。
 が、ある日、「孤児院の荷物」と偽装した軍の機密物資とカモフラージュ用の孤児たちを輸送する任務で、彼らは絶体絶命のピンチに追い込まれるのであった、、、
 というハナシ。
 
 で、ですね。
 ロシア映画なんてタルコフスキーの「惑星ソラリス」と「ストーカー」以来(つかソビエト社会主義共和国連邦じだいですな)なので、なんとなく、美しくもやや退屈な映画かな、と思ったが、そうでもなかった。
 ハリウッド映画を見慣れた目にも比較的面白く観ていられる映画でした。
 まず、フツーに役者さんがみんな巧い。若いソーニャとマーシャも含めて。
 きっとロシアではみんな評価の高い役者さんなのだろう。
 
 そして当時のソ連の生活を挿みながら、鉄道敷設から物資輸送の様子、そしてラストのピンチまで持っていく展開も過不足を感じさせず上手いな、と思った。
 特に、ピンチを脱するべくマーシャが突然取った行動など、「ああ!その手があったか!!」と感心してしまった。
 
 とは言うものの、欠点もあります。
 演出にちょっと雑なところがあって、解りにくいところが頻出するのね。
 
 例えば、女学生ふたり、ソーニャとマーシャが主役と言いましたが、もう、このふたりの区別が最後までつかない。
 アレ?機関士に惚れたのはどっちだっけ?
 お母さんの病院を訪ねたのは?
 フルートを吹くのは?
 なんとなく、オープニングの時点ではキリッとした美少女がソーニャでこまっしゃくれた美少女がマーシャ、という区別があったのだが、何分ロシアのこととて終始寒さよけの被り物をしているし、どういうわけか身長体重ともにほぼ同じような女優さんをつかっているので、映画が進むほどにどっちがどっちが判らなくなってくる。
 ココはなにか区別がつきやすくなる工夫が欲しかったなぁ、、、
 どっちか背が低いとか。
 いっそどっちかデブかブスとか。
 
 あと列車の運行について位置関係がよく解らないところがある。
 ソーニャは助けを呼びに前方のいる筈の機関車に向かって走ったはずなのに、なぜ機関車の前方にいたの?
 あと映画のラストで描かれる運行には他にも車両がいたはずなのにどこに行ったの?
 
 ことほど左様に演出が荒い。
 もしかすると、アメリカ映画のテンポでロシア映画を作ろうとすると、こうなるのかも知れない。
 
 そして最後にもう一つ。
 この映画には第二次世界大戦中のソ連の生活を伝える描写が二つあり、映画にグッと深みをもたらしている。
 
 一つは爆撃について。
 この映画は最初から最後まで、常に主人公達の周囲で爆撃が起きている。
 しかしもう、登場人物たちはいちいち怯えたりしない。淡々と「ああ、来たな、、、」「近いな、、、」とか受け入れてしまっている。
 別に安全なことが判っているわけではない。
 線路敷設のシーンでは主人公たちが働いている敷設現場そのものに落ちて、作業員に死者が出たりする。
 それでも大騒ぎするでもなく、淡々と死者を悼み、作業を続行する。
 
 そこには「爆撃」と、「爆撃による死者」が当たり前になった世界がある。
 この映画で一番怖いのはココかも知れない。
 コレが戦争のリアルというものなのだろう。
 
 そしてもうひとつ。
 主人公たちの活躍によって物資の状況が改善したレニングラードでは食料の配給が増える(ここで配給がどうなったのかは語られるが、それが今までと比べてどれくらい増えたのかは判らないあたり、また演出が足りないのだが、、、)。
 そしてこの配給が増えたことを、以上に喜ぶのである。
 任務を遂行し続ける事によって家族のような絆を獲得した主人公たち7人は揃っての夕食の最中、話題が配給増に及ぶと、喜びのあまり単なる夕食が飲めや歌えのパーティーになってしまう。
 ああ、御飯の量が増えるのがそんなに嬉しいのね、、、
 いままでよっぽど少なかったのね、、、ひもじかったのね、、、
 
 コレまた戦争のリアルというものを突きつけてくる演出ではないか。
 
 という訳で、戦争のリアルを伝える印象的な描写はあったものの、エンターテインメントしては惜しい映画になってしまったなぁ、という感じ。
 ラストに用意されれ、劇中ではついに明かされることのなかった「軍の機密物質」の正体が、今となってはどーでもいー、というのもある。
 アレ、劇中で主人公たちに正体を明かしてサスペンスを盛り上げるんじゃなかったら、ラストで字幕で明かされても意味無いよね。観客は大体わかってるし。完全に扱いを間違えたな、、、
 こういうところがアメリカ映画のメソッドにかなわないところということなのだろう。
 

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at 20:11, 空中禁煙者, 洋画

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「ウィンストン・チャーチル /ヒトラーから世界を救った男」 「英国王のスピーチ」と「ダンケルク」の間。

 

 エンドクレジットが始まった瞬間強烈に思ったのは、
 
「エ?コレで終わり?」

でした。

 邦題は「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 」だが、別に世界を救うところは描かれていない。
 そもそもヒトラーから世界を救ったのがチャーチルかどうかも議論があるところだろうが、まあ、そこは置いとこう(メンド臭いし)。しかしそこまでハナシが進んでいないのに、タイトルにするのはいかがなものか。
 原題は「DARKEST HOUR」。
 最も暗い時間。
 イギリスが、ヒトラーにどう対処するかを巡って、最も迷っていた時期を「暗黒の期間」と表現しているのだろう。
 邦題のキモは「〜男」のところか。
 この邦題は「世界を救った」に力点があるのではなく、「男」に力点があるのだろう。
 この映画はとある「男」を描いているんですよ、別に歴史を描いてるんじゃありませんよ、ということなのかも知れない。
 
 1940年5月、英国首相である保守党党首チェンバレンは、ナチス政権に対する弱腰を議会で責められ、野党労働党と連立政権を組まなければ政権が持たなくなっていた。
 そして労働党が首相として指名したのは保守党の海軍大臣チャーチルであったが、実はチャーチルは保守党内部で嫌われていた。
 それ以前のいくつかの失策もあったが、なにより傲慢でイヤミな性格が嫌われていたのだった、、、
 そんなチャーチルさんが党内闘争を勝ち抜いて対独戦のイニシアティブを握れるのだろうか、、、というハナシ。

 つまり、チェンバレン首相が辞任する5月10日からダンケルクの戦いを経てチャーチルが下院で歴史に残る大演説をするまでのたった4週間ほどしか無いのね、映画の中で流れる時間が。
 しかし、この4週間がイギリスの歴史の中で最も激動の4週間なのだろう。
 なにしろ上映時間が2時間10分もあるのに、「え?もう終わり?」と思わせるのだから。
 
 場面もほとんど変わらない。
 国会とチャーチルの自宅と首相官邸と王宮くらい。
 あ、あと地下鉄の中がちょっとあったか。
 
 せっかく映画にもなったダンケルクの戦いがチャーチルの指示で進行しているのに、戦場のシーンはない。
 で、ナニをヤッているかと言うと、ですね、ゲイリー・オールドマンによるウィンストン・チャーチル地獄、しかも特殊メイクアップ付き、ということですね。
 
 たしかにコレはスゴい。
 まず、ゲイリー・オールドマンがわざわざ業界に呼び戻した辻一弘による特殊メイクアップがスゴい。チャーチルに似ているかどうかはどうでもいい。要するに太ったおじいちゃんなのだが、完璧に太ったおじいちゃんに見えるうえに、ちゃんと表情が動くのである。ほとんど言われなければゲイリー・オールドマンであることが判らないほどの特殊メイクであるにも関わらず、ゲイリー・オールドマンの精妙な演技がちゃんと表現できている。
 コレはやはり特殊メイクの歴史を変える出来だろう。つかアカデミー賞獲ったんだけど。
 
 そしてその特殊メイクが可能にしたゲイリー・オールドマンの演技。
 単純に役になりきる、という以前にその全身を使った老人っぷりが素晴らしい。
 背を丸めて小股で杖を突きながらヨロヨロ歩く。
 なんかっつーと咳き込むが自分が言いたいことがあると饒舌になる。
 コレが老人と言うもんだ。
 「ホテル・アルテミス 〜犯罪者専門闇病院〜」のジョディ・フォスターといい、ベテラン名優の老人ぶりっ子が流行っているのだろうか。
 コレもアカデミー主演男優賞が納得の、「金の取れる演技」を超えた「賞の取れる演技」。
 
 結局この二つのための映画でしかなくて、それでいいんだと思う。
 それ以外のことは望んでない。
 
 監督は「ハンナ」のジョー・ライト。
 従ってアクションもやろうと思えば出来るのだが、敢えてココはゲイリー・オールドマンの演技を観せるための演出に徹している。
 抑制の利いたヒトだ。
 
 演技陣ではあと「英国王のスピーチ」でも有名なジョージ六世役のベン・メンデルゾーンがコレまた国王役らしい抑制の効いた演技で印象に残る。ジョージ六世の特徴である吃音も自然に表現して好印象。
 
 ラストのついてはイロイロご意見もあるでしょう。
 単なる好戦映画じゃねーか、と。
 主戦派を美化しすぎじゃねーか、と。
 まあ、そこに疑問を持ってないのは気になるが、最終的にはゲイリー・オールドマンの演技と特殊メイクと陰鬱なイギリスの雰囲気のための映画、ということで気にしないことにします。
 

 

 

 

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at 02:01, 空中禁煙者, 洋画

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「ボーダー 二つの世界」 コレは恋愛映画だ!

 

 この映画は、映画の文法は崩していない。むしろ文法的には正統的な手法を貫いていると言って良い。
 しかし、同時にこの映画は100年以上映画界が築き上げてきた価値観を破壊している。
 揺さぶっているなどという生易しいものではない。
 木っ端微塵に破壊しているのだ。
 
 映画は短いアバンタイトルの後、ヒロインのアップから始まる。
 この顔が露骨に特殊メイクアップ。
 特殊メイクアップで「とてつもなくブッサイクなオンナ」を表現している。
 全体的にまんまるっちくって肌はガッサガサ、細い奥目に額から一旦ヘコむことなく蛇の鼻(?)のように伸びる太い鼻梁、そして口は閉じているつもりなのだろうが常に少し歯が覗いている。

 この時点でワタクシ空中さんは思ったのである。

 「ハハァ、わざわざ女優さんを特殊メイクアップまで使ってブサイクにする、ということは、いずれこのキャラはメイクアップを取って絶世の美女に変身するのだろう、そして映画の中でブサイクと美女を行き来するのだろう。ブサイクと美女の境目がタイトルの「ボーダー」であり、境目の両側の「二つの世界」を行き来する映画なのだろう」

 全然違った。
 彼女は最後までブッサイクのままである。
 二つの世界とは、彼女(達)の世界と、それ以外、つまりは我々の世界なのだ。
 つまり、ボーダーは彼女(達)と我々の間に存在する。

 さらに驚いたことには、この映画は彼女をヒロインとした恋愛映画なのだ。
 
 ただ誰かと一緒じゃないと寂しいからという理由で愛のない無職オトコと同棲していたヒロインが運命のオトコと出会い結ばれるが、実は彼にはヒロインが納得できない裏の顔があった、、、
 
 いつの時代のメロドラマだよ、というくらいベタな恋愛映画ではないか。
 
 イヤイヤイヤイヤイヤ、恋愛映画とは美男美女が繰り広げるものである、というのが映画130年の歴史ではないのか。
 ありえないほどブサイクな男女が繰り広げる恋愛映画などというものがあっていいものか。コレは映画の歴史の破壊ではないのか。
 
 そして、映画の歴史を破壊しながらベタな異形の恋愛を美しく描ききっているのだ。
 この手腕と映像センスには恐れ入った。
 
 おそらく世間的にこの映画は「差別されるものの心情に寄り添った」とか言う文脈で語られるのだろう。
 
 しかしそんなことはどうでもいい。
 差別がイケないくらい、差別される側のこころに寄り添わなければイケないくらい、映画に教えて貰わなくても分かってる。
 映画がなにかのメッセージを伝えていないと納得できない、あるいは映画がなにかのメッセージを伝えていると大喜びする層のためにそういうのも必要なのだろうが、ワタクシ空中さんは正直そういうのどうでもいいのよ。

 どうでも良くないのは驚嘆すべき映像センスだろう。
 まず、ヒロインとその運命のオトコの造形が素晴らしい。
 もう、ギリギリのラインを攻めてる。
 「二つの世界」の両方でギリギリ通用する容姿。
 このバランス感覚には恐れ入る。
 ギリギリこちら側の世界の住人として許容されるが、もう一つの世界の住人と言われれば納得してしまう、絶妙なバランスの特殊メイクは、多分、特殊メイクの歴史に刻まれるだろう。
 
 そしてその異形の恋愛が、反則的なまでに美しいスウェーデンの自然の中で繰り広げられるのだ。
 不勉強なのでスウェーデン国民が平均的にどの程度の自然の中で暮らしているのか分からないが、本作のヒロインは勤め先の港の税関までクルマで通勤する途中、平気で鹿に出会ったりする。
 ヒロインの家の裏は鬱蒼とした森が広がっており、ちょっと奥には小さな湖すらある。
 そして、夜になると窓辺にキツネが訪ねてきたりする。
 キツネのシーンはヒロインの今後を象徴する重要なシーンなのだが、美しく、神秘的でさえある。
 
 この、神秘的なまでに美しい自然ととてつもない異形の恋愛が、見事にマッチしている。
 この映像センスには恐れ入る。
 
 もう一つ印象的だったのは、「こちら側」つまりヒロインにとっての「あちら側」のキャラクターの描き方である。
 港の税関に勤めていた彼女は特殊能力をかわれて警察の捜査に協力する。
 そして彼女は邪悪な犯罪者を見つけ出すのだが、問題はその時一緒に捜査した警察側のキャラである。
 彼女と一緒に現場を回る刑事は太っちょのおっさんで、最初は絶対警官でもないのに捜査にしゃしゃり出てきて、彼には理解できない方法で犯人を特定しだす彼女に悪印象を持っていると思っていた。
 しかし、一緒に上司に報告する段になると、完全に彼女の説を支持して彼女の味方になるのだ。
 実は偏見のない公平な人物だったのだ。
 そしてその上司。
 上司は背の高い年配の女性で凄く厳しい人物として造形されているが、彼女もヒロインの特殊な能力をきちんと冷静に評価する、偏見のない人物として描かれている。
 
 こういうところをちゃんとしているので、単純な「二つの世界」の対立構造に堕さず、重層的なストーリー展開を可能にしているのだ。
 
 なんだか今回書き方がエラく抽象的になってしまったが、本作はちょっと詳しく説明すると致命的なネタバレになってしまう危険があるのである。
 宣伝で「ファンタジー映画」と名乗っているので、イイかな、とも思うが、一応ネタバレしない程度に抑えて書きました。
 
 そこで最後にヒロインとその彼氏に一冊の本を読んで欲しい。
 「絶滅の人類史 なぜ『私たち』が生き延びたのか」
である。
 ホモ・サピエンス以外の人類が滅びたのは、ホモ・サピエンスによる虐殺ではない。
 出産率の差なのである。

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at 21:09, 空中禁煙者, 洋画

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