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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「ロケットマン」 エルトンのファンじゃなく、タロン・エジャトンのファンのための映画

 

 監督のデクスター・フレッチャーというのは、ようするに「ボヘミアン・ラプソディ」の完成直前にブライアン・シンガーが逃げた後、急遽後始末を任されて後始末をつけたヒトで、もう、この時点で二番煎じであることはミエミエではないか。

 

 で、二番煎じです。

 だって。

 父親に愛されない音楽をこころざす青年が自らの性的嗜好に悩みながらも成功をつかみ、ゲイのマネージャーに騙されたり酒と薬に溺れたりするけどデビュー前からの仲間は裏切らない。

 一緒じゃん。

 まあ、違うところもある。
 「ボヘミアン・ラプソディ」があくまでも「登場人物がミュージシャンだから歌うシーンが多い」だけの音楽映画であるのに対し、「ロケットマン」は明確にミュージカルである。登場人物が突然歌って踊るのである。
 なにしろオープニングから少年時代のエルトン・ジョン、レジナルド・ドワイト少年が「Bitch Is Back」を歌いながら外に出ると、そのまま街行く通行人たちと群舞になるのだ。

 ある意味「マンマ・ミーア」と同じ、一人(組)のミュージシャンの曲だけでミュージカルにする、と言う試みでもある。たまたまそのミュージシャンが、主人公も兼ねていた、と。

 ところが、ですね。
 ココにもまた問題があって、ですね。
 「マンマ・ミーア」は歌詞とストーリーが合ってる訳ですね。
 歌詞に合わせてストーリーを作ってると言ってもいい。
 ところが「ロケットマン」はいまいちそうなってない。
 冒頭の「Bitch Is Back」にしてからが、なんでエルトンはまだ少年時代なのに「あばずれさんがお帰り」になるのか全く分からない。エルトンのヒット曲の中でももっともイントロが派手なんでオープニングにふさわしくね?、とかではないか。

 特に。
 エルトンの半生を映画にする、と聞いてオールドロックファンが期待するのは例の「プリマドンナ事件」がどう描かれるのか、ではなかろうか。

 1975年の傑作アルバム「キャプテン・ファンタスティック(アンド・ザ・ブラウンダートカウボーイ)」に「僕を救ったプリマドンナ」という美しい曲がある(まあ、シングルカットされてヒットもした)。
 この「僕を救った〜」というのが誤訳である、というのは発売当時から言われていた。
 何しろ原題は「Someone Saved My Life Tonight」である。単純に訳して「今夜誰かが僕の人生を救った」にしかならない。
 歌詞の中に確かに「プリマドンナ」と言う単語が出てくるのだが、どうもよく考えると「誰かが(プリマドンナから)僕の人生を救った」と言う意味にしか思えない。

 

 と、ココまではわかるのだが、その先がよくわからない。
 オンナより仕事を取ったオトコのハナシかな、と思うが、それにしちゃ曲調が大仰で希望に満ちている。
 芸術家ってそういうものなのかな?と言う感じ。

 

 さらにタイトルの「さませいまらいとぅない♪」のあとに続く「しゅがべー♪(しゅがべーえーえー♪」という謎のコーラス。なに?シュガーベアって。砂糖熊?お菓子?

 ところが。
 それからなんと35年後の2010年にこの「プリマドンナ」が名乗り出るのである。

「あの歌のプリマドンナはワタシのことよ」
というわけだ。
 彼女は売れない頃のエルトンと相棒の作詞家バーニーが下宿していたアパートに住んでいた女性で、なぜかエルトンと「デキて」しまう。まあ、エルトンはある程度バイ・セクシャルでもあったのだろう。
 そしてエルトンは世間体も考えゲイであることを押し殺して(まあ、カモフラージュもあるだろう)彼女と婚約してしまう。
 ところが当時エルトンがバックバンドを努めていた先輩ミュージシャンのロング・ジョン・ボルドリーと飲んでいたときそのハナシになり、自身もゲイを既にカミングアウトし、エルトンもゲイであることを見抜いていたボルトリー師匠は言下に
 「ヤメろ。そんなことをしたらオマエの音楽は死んでしまうぞ」
とのたまい、エルトンはその晩、アパートを脱出する。
 そして驚いたことに、ロング・ジョン・ボルトリー師匠のあだ名は「シュガーベア」なのだという。

 えええええーーーーーーーッ!!!!!!

 シュガーベアってヒトの名前だったのか、、、

 つまりあの歌は、「(性的に不一致な)プリマドンナから僕を救ったシュガーベア」という曲だったのだ。
 と、言うような事情は町山智浩氏のブログに詳しいです。

 しかしこのハナシにはまだ謎がある。
 プリマドンナ女史はあの歌のプリマドンナが自分であることは分かるだろうが、酒場で行われた会話は知るすべがない。あの辺の事情はどこからつたわったんだろうか。
 さらに言えばロング・ジョン・ボルドリー氏のあだ名がシュガーベアであることは、当時のロンドンのポップミュージックシーン、少なくともボルドリー師匠のファンの間では知れていたのではないか。
 「キャプテン・ファンタスティック」を出した1975年当時、エルトンは既に「ビートルズ以来最大の売上」を誇るポップスターであり、彼がボルドリー師匠のバックバンドをやっていたことも知られていたはずである。
 だとすれば、当時のロンドンのポップファンたちは、この歌を聴いて「ああ、シュガーベアに諭されたのね、、、ということはエルトンも、、、」くらい思っていたのではないか。

 ココで問題になるのは曲タイトルの誤訳問題である。
 実は日本のレコード会社の担当者はエルトンがゲイであることを知っていて、「今ゲイであることがバレると売上に響くかな、、、」と思い、あえてプリマドンナとは別れない感じの邦題にしたのではなかろうか。あえての誤訳、あえてのミスリードだったのではなかろうか。

 で、ですね。
 映画ですよ。
 実を言うとこのシーンは有ることは有るのである。
 しかし、夜明けに逃げ出さないし(真っ昼間逃げ出してプリマドンナに窓から物投げられたりする)、酒場で諭すのは白人ブルースマン、ボルドリー師匠ではなく、イギリス出稼ぎ中のソウルミュージッシャンである(サミー・デイビス・ジュニアのイメージではないか)。
 そしてなにより、このシーンに「僕を救ったプリマドンナ」はかからないのである。
 エルトン=バーニーの曲の中でもコレほど実際の出来事を歌ったことが有名である曲もないのに、なぜ使わないのか、と思う。
 ことほどさようにファンを裏切るところがあるのよ、この作品は。

 あと、ミュージカルとしてもどうかな、と思う。
 まあ、ダンスがショボいのね。
 群舞のシーンが何度も有るのに、「あ!スゴい!!」と思うダンス、「楽しい!」と思うダンスは一箇所もなかった。
 ただ、ミュージカル中に幻想になだれ込むシーンが何箇所かあり、このなだれ込み方にけっこうハッとさせられ、このためのミュージカルなのかな、という気もする。
 アメリカに渡って最初のステージでテンションが上りすぎて宙に浮いてしまうシーン。
 プールの底で「自分」に出会うシーン。
 このふたつには確かに映像的な力がある。

 結局、エルトン・ジョンをよく知らない人が見たら面白いのかな、と思ったのである。
 最初から「こういう奴がいた」、あるいは全くのフィクション、と思って観れば、面白いのかも知れない、と思ってみれば、余計な史実や自分が知っている人物像に惑わされることなく楽しめるのかも知れない。

 しかし、ネットでエルトン・ジョンを知らない若い人たちの評判を見ると、彼らの多くは「エルトン・ジョンのファンが見たら面白いかも知れない」と言っている。
 じゃあ誰が観たら面白いんだよ、、、というハナシだ。

 イヤ。
 いた。
 この映画を楽しめるヒト。
 それは。
 ダロン・エジャトンのファンだ。
 エルトン・ジョンを知っている我々から見ると、エルトンがあんな筋肉ムキムキな訳はない、アレじゃスパイじゃねーか、と思うが、知らないヒトは気にならないだろう。
 そして確かに歌唱力はスゴい。
 タロン・エジャトンのファンは彼のムキムキ筋肉も演技力も歌唱力も楽しめて大変オトクな映画となっている。

 ただし、ワタクシ空中さん、この映画を見てから一週間、エルトン・ジョンの音源を引っ張り出して聴きまくってしまいました、、、エルトン式のラブソングはもう何十年も前に卒業したと思ってたんだけどね、、、

 

JUGEMテーマ:映画

at 00:46, 空中禁煙者, 洋画

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「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」 シャロン・テートへの鎮魂歌

 

 タランティーノにしか作れない映画であると同時に、タランティーノにしか許されない映画。
 例えば、この映画の脚本を、タラちゃん以外が持ってきたとして、金を出すヤツ、監督するヤツ、出演したがるヤツ、ドレもコレもひとりもいないだろう。
 しかし、「コレをタラちゃんが演出するとすると、、、」と考え始めた瞬間、アッという間に100億円の制作費は集まるわ(ちなみに収益は現時点でその4倍)、デカプーは出るわブラピは出るわアル・パチーノは出るわと言う騒ぎである。
 
 しかしこの映画、2時間半の間、ラスト直前に至るまでほとんど事件らしい事件は起きない。
 ただ、仲の良いオッサン二人の日常を淡々と描いているだけだ。
 
 オッサンの一人は、デカプー演じるもともと映画スターだったがやがてテレビの人気者になって、今はやや落ち目で悩んでいる中堅俳優。
 もうひとりはブラピ演じるその映画スター専属のスタントマン。
 この二人の大した事件が起きるでもない友情の日々がこの映画のメインである。
 決して「熱い友情」でもホモっぽくもない。
 かと言って決して離れ離れにはなれない、コレまた淡々とした不思議な友情。
  
 イヤ、もうひとりいた。
 三人目の主役はシャロン・テート。
 まあ、みんな知ってるだろうけど、この映画はあの「シャロン・テート事件」を前提にしていて、もう、シャロン・テートが大々的にフィーチャーされている。
 シャロン・テート事件についてくだくだしく説明するのはやめておくが、要は1969年6月8日から9日の深夜、新進女優にして当時新進気鋭の映画監督ロマン・ポランスキーの奥さん(妊娠8ヶ月)であったシャロン・テートは、自宅で友人たち数人とヒッピーの集団に惨殺される(もう、ココに書けないくらいの惨殺)のである(説明してもうた、、、)。
 この、もうすぐ亡くなってしまうシャロン・テートさんをたっぷり描いている、というのもこの映画の仕掛のひとつなのだ。
 パーティーではしゃぐシャロン。家ではしゃぐシャロン。
 極めつけは、街を一人で散策していて、自分が出演している映画を上映中の映画館を見つけ、もぎりの女性に「アタシ、この映画に出てるのよ?」
 と名乗ってしまうシーンだろう。
 普通に考えたらタダのイヤミなバカ女だが、タランティーノ監督は決してそうは描かない。
 客席で自分が出演する映画を観ながら、撮影時の苦労に思いを馳せるシャロン。
 まるで天使のようである。
 タラちゃんは、ココではあくまでシャロン・テートを「時代を象徴する天使」として描いている。
 
 そして、我々は、1969年の8月9日、シャロン・テートが惨殺されることを知っている。
 さらに、映画の最初で、シャロン・テートとロマン・ポランスキー夫妻は、デカプー演じるスターが住んでいるハリウッドの超高級住宅街、シエロドラブの隣の家に引っ越してきたことが描かれる。
 この三人の運命が、やがて交差するであろうことは、観客にはわかっている。 
 
 いっぽうデカプー演じるスターは、自分が落ち目であることに悩んでいる。
 映画スターからテレビのスターに落ちたものの、それでも一時は大人気シリーズの主役だった。それが今では後輩スターのためのシリーズの悪役が主な仕事であり、当然のことながら専属スタントマンのブラピの仕事も減っている。
 
 仕事のランクが落ちていることに悩むデカプーと、仕事がないブラピ。
 この二人の、それなりにイロイロなことが起きはするが、どう考えても映画にするほどでもない日常。
 しかし、コレが面白い。
 例によってダラダラとした会話を交えてこの、ある意味役者やスタントマンとしては当たり前の日常を描いて面白くできるのは、やはりタラ坊だけなのだ。
 
 このパートのクライマックスは、デカプーが8歳の美少女(マジ美少女)子役との交流の中で演技開眼するシーンと、ブラピがヒッピー女に連れられて、「スパーン映画牧場」に行くシーンはある意味クライマックスだろう。
 デカプーが「演技開眼する演技」ができているかどうかは、ご自分の目で確かめていただきたいが、ブラプが「スパーン映画牧場」に乗り込むシーンは、そこが惨殺事件の犯人グループ、チャールズ・マンソン一味のアジトであったことを知っていると知らないとでは、サスペンスが全然違うので、一応知っておいたほうがよろしからんと思い、ココにも書いてみました。
 
 そんなこんなで、映画は運命の1969年8月9日に向け、ゆっくりと進んでいく。
 この映画、ラスト直前までタラ坊の映画としては画期的に暴力沙汰が少ないが、ラストにはそれなりにカタストロフが用意されている。
 どういうカタストロフになるかは実際に観ていただきたいが、コレはやはりタランティーノにしか許されないラストだろう。
 そういう意味ではちょっと「イングロリアス・バスターズ」にも似ている。
 
 ラストのワンカットにいたり、我々は
 「ああ、このためにシャロン・テートを天使のように描いたいたんだな、、、」
 と深く首肯するのであった。

 

 ところでブラピの奥さんの件ってなんなの?

JUGEMテーマ:映画

at 01:34, 空中禁煙者, 洋画

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「チャッピー」 笑いあり涙ありアクションありの身体性論

 「エリジウム」がダサかったのでなんとなくニール・ブロムカンプ監督に興味を失っていて、本作もすっかりスルーしていたが、観たら観たでコレは面白かったです。

ひょっとしたら傑作かもしれない。

 「エリジウム」と比べると予算規模はやや縮小している気もするが、「エリジウム」のマット・デイモンやジョディ・フォスターにつづいて、ヒュー・ジャックマンとシガニー・ウィーバーと大スターが二人も出ているので、安っぽさはない。

 ストーリーはいわば逆「ロボコップ」。
 というか明らかに「ロボコップ」の影響下にある。
 メインアクトのロボットの敵役で大型のヒト型じゃないロボット(というか二足歩行の戦車みたいな)と警察への採用競争がある辺りは完全に流用しちゃってる。

 しかしテーマの扱い方はある意味対照的。

 「人間に近いもの」を描くことによって人間を掘り下げる、というのは古典的なSFの手法だが、「ロボコップ」が、堂々と「ロボ」と名乗りながら実はサイボーグであり、もともと人間だったのに身体性を失った主人公がどこまで人間であり得るか、という掘り下げ方なのに対し、「チャッピー」はもともと身体性を持たない機械が人間になり得るのか、という掘り下げ方である。
 この精神と身体の独立性と依存性に関する議論は、映画のラストまで徹底的に追求される。
 コメディだったりハートウォーミングだったりハードなアクションがあったりしながら、なかなかどうして堂々たる思弁的なSFなのだ。

 いま、「AI」」と言う言葉は世の中では結構誤解されている。
 巷ではえーあいの美空ひばりだの、えーあいの手塚治虫だのとかまびすしいが、あんなものはAIではありません。
 あの辺はだいたい素材を取捨選択してアルゴリズムを構築してプログラミングしたりなんかしたヒトたちの作品であって、AIの作品では全然ありません。
 実は、「AIを利用して」とか、「AIの力を借りて」とか言うレベルですらない。せいぜい、「AIの開発途中の成果を使って」程度ではないか。
 ちょっと古くさい言い方をすれば、
「チューリングテストに合格した奴だけがAIやっちゅうねん!!」
ということだ。

 そして、本作に登場するチャッピーこそがAIなのである。

 舞台は「第9地区」と同じ、ニール・ブロムカンプ監督の地元ヨハネスブルグ。
 南アフリカ政府に警察用ロボットを納入している大手兵器メーカーの設計者ディオン(「スラムドッグ・ミリオネア」のデーブ・パテール)は密かにAIの研究をしていて、警察用ロボットにAIを組み込むことを経営者(シガニー・ウィーバー)に提案するが、女社長は「AIは危険よ!」と

 諦めきれないディオンは廃棄処分になったロボット警官をこっそり持ち帰り、自ら開発したAIを組み込もうするが、輸送途中にギャングに誘拐され、行きがかり上、ギャングのアジトでAIを組み込むことになり、さらには、そのロボットをギャングのもとに残していかざるを得なくなる。
 そして、三人組のクソろくでもないギャング達のもとで、AIを備えたロボット警官、チャッピーは目覚めるのであった、、、

 つまり、赤子のように目覚めたばかりのAI、チャッピーはクソろくでもないギャングのもとで世の中のよしなしごとを学んでいくのである。
 この辺のロボットがアホの不良化していく過程が笑える。

 そしてさらにはギャングの夫婦をパパ、ママと認識し、「ママ」の方でもギャングとはいえ母性が溢れ出してしまい、とってもハートウォーミング。
 この辺から「母性とはなにか」から身体と精神の独立性というものを掘り下げている。
 ヒトは、機械にも母性を発揮できるのか。
 身体性と母性は関係ないのか。

 このあと、アクションシーンがあって、究極の身体性論へなだれ込んでいきます。
 そうなのか?
 それで正しいのか?
 そういうことなのか?
 将来世界はこういう事になっていくのか?

 それは分からない。
 わからなけど、思弁することには意味がある。
 面白いしね。

JUGEMテーマ:映画

at 03:49, 空中禁煙者, 洋画

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「スカイライン -奪還ー」 いい意味でフツーの映画になった。

 「スカイライン -征服-」の続編。
 前作の時点でワタクシ空中さんは続編のあり方をある程度予想しているが、まあ、見事に外れましたね。
 ていうかコレ、別の続編である必要なくね?

 

 そもそも前作はCGだけはやたら得意な奴ら(グレッグとコリンのストラウス兄弟)がそこそこ緊密な脚本とギリギリの役者でどうにかこうにか面白い映画になりました、というようなもんであった。
 しかし今回は監督を弟分(っていうかストラウス兄弟の会社の社員)のリアム・オドネルに譲ってみたら、前作のパニック・サバイバル映画とは打って変わって、なんと、エイリアン相手に人類が「肉弾戦」を繰り広げるアクション映画になってしまいましたとさ、というハナシ。
 弟分にヤりたいことヤラせるに当たり、一応ヒット作である前作のネームバリューを使わせてやった、というところか。

 

 で、ですね。
 結論として、ケッコウ面白かったですぅ、、、

 

 アクション映画になってしまった、っていうかアクション映画にすることが出来たのにはワケがある。
 前作が全然無名の役者ばっかりだったのに比して、今回は次世代アクションスター(もう54歳だけど)のフランク・グリロと、世界的に大ヒットしたインドネシアののストップアクション映画「ザ・レイド」シリーズのイコ・ウワイスとヤヤン・ルヒアンをブッキングできたのだ。
 特に「ザ・レイド」組の二人がいれば、まあ、「なんかメカメカしいエイリアンVS生身の人間」という無茶なアイデアもあり得るかな、と思ったのも無理はない。
 事前に人間同士で超絶アクションをちゃんと披露している手堅い展開のせいで、いざエイリアン相手に刃物で戦い始めても、「ま、まあ、アリかな、、、」という気持ちにさせる。

 なにしろアメリカで刑事だったフランク・グリロがエイリアンに誘拐された不良息子を「奪還」すべく宇宙船に潜入して、イロイロやってるうちに宇宙船不時着したから外に出てみたらそこは既にラオスでした、という安直な展開。
 もう、「ザ・レイド」組ありきの映画であることがミエミエ。

 

 しかも今回、父と子の交流だの男同士の友情だのエイリアンに改造されても揺るがない男女の愛だのアタマはいいけどヘンな奴だの、色んなものが過不足なく自然な流れで描かれていて、なかなかどうして飽きさせない盛り沢山な映画になっていて、それはつまり一言でいうと「ある意味フツーの映画」になっている。

 前作の「金はないけど技術と知恵だけでここまでヤッてやったぜ!!」という先鋭感と潔さは薄れ、「B級映画にあるべきものがしっかりとある」という、やや安っぽいテイストになりながらも「フツーの面白い映画」になったのだが、コレはコレで素晴らしいことだ。
 なにしろ「面白いB級映画に必要なもの」がなんだか解っているのだから。
 コレはかなりの手練じゃないと出来ませんよ。

 とりあえずリアム・オドネルくんは、特撮屋の分際でこれだけちゃんとした脚本・演出をこなしたのだから、今後の注目株かもしれない。

 

 で、スカイラインってナニ?3作目で判るの?(判んないんだろうなぁ、、、)

JUGEMテーマ:映画

at 20:45, 空中禁煙者, 洋画

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「ミスター・ガラス」 アメコミが世界を変える奴を覚醒させるハナシ

  ちょっとシャマランの「レディ・イン・ザ・ウォーター」を思い出してみよう。
 アレは、「世界を救うヒトを覚醒させる本を書くヒトを覚醒させるために現れたオンナ」の話だった(しかもその「本を書くヒト」の役はシャマラン先生自身)。
 つまり、シャマラン先生は、「書物が世界を救うヒトを覚醒させる事があり得る」と思っているのだ。

 

 そして、「アンブレイカブル」「スプリット」と三部作をなす、シリーズ最新作にして最終話(多分)、「ミスター・ガラス」であります。
 作中しきりに「19年前の列車事故」が言及される。
 そうか、「アンブレイカブル」も19年前か、、、(つまり、映画の中と現実で同じ時間が流れている)
 そらオレも年取るはずだわ、、、
 なにしろ「アンブレイカブル」で小学生だったブルース・ウィリスの息子が、すっかり社会人になって親父の仕事を手伝ってたりする。奥さん亡くなってるし。

 

 そして、サミュエル・L・ジャクソン演ずるミスター・ガラスは可哀想にこの19年間医療刑務所に閉じ込められていたわけだ、、、

 

 そして本作は、「書物が世界を救うヒトを覚醒させること」つまり、「書物が世界を変える事がある」と考える、M・ナイト・シャマラン監督による、「アメコミが世界を変える」様を描いた映画なのだ。

 

 本作に出てくる三人の超人、アンブレイカブルなオトコ、デヴィッド・ダン(ブルース・ウィリ)、悪の天才ミスター・ガラス(サミュエル・L・ジャクソン)、23の人格を持つオトコが生み出した究極の悪、ビースト(ジェームズ・マカヴォイ)は、3人共アメコミの読者(ミスター・ガラスに至ってはアメコミ専門の書店の経営者だった)であり、自らの能力や活動にも、コミックからの影響があることが描かれている。
 つまり、彼ら三人はアメコミが生み出したのであり、アメコミが世界を変えるヒト(主に今回のタイトル・ロールのミスター・ガラス)を覚醒させたのだ。

 コレがシャマラン監督の答えなのだろう。

 

 「アンブレイカブル」から19年。
 ハリウッド映画ではアメコミ映画がハバを利かせている。
 しかしオマエらは本当にアメコミを愛しているのか。
 CG使って派手な映像観せときゃ客入ると思って作ってねーか?
 アメコミが、スーパーヒーローが、世界を変えるってこういうことじゃねーの?

 

 本作はシャマラン監督が初期作品で見せていた三題噺

 

「父子モノ」+「丁寧な演出でジャンル映画をひっくり返す」+「衝撃のオチ」

 

を久々にすべてクリアした作品でもある。
 精神科医が、三人とも一同に集めて
「あなた達は特殊能力者なんかじゃないの。
 あなた達のしてきたことは全て通常の能力として説明できるのよ」
と説得し始めるあたりはちょっとハラハラする。
「え?そっち?そっちに行くの?」
という感じ。
 観てる方も完全にこの精神科医の説得力に押されてしまう。

 

 但し、この精神科医が「アメリカン・ホラー・ストーリー」のサラ・ポールソン。
 やっぱり、「アメリカン・ホラー・ストーリー」みたいな役でした。


 久々にシャマラン映画を観たな、という気がして懐かしかった。
 シャマランとしても、20年越しで自分のやりたいことをやりきったな、という思いが伝わってくる。
が、正直言って「ヴィジット」のほうが面白かったかな、、、
 結局、日本人のこととてアメコミ全く興味ないしなぁ、、、

JUGEMテーマ:映画

at 00:30, 空中禁煙者, 洋画

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「ボヘミアン・ラプソディ」 フィクションとしてのフレディ・マーキュリー

 まず、フレディ以外の三人が似すぎ。
 ほとんど笑っちゃうレベル。
 遠目に三人並んで映ってたりすると、もう、本物にしか見えない。
 特にジョン・ディーコンは最初長髪で途中一回短髪になり、その後アフロにしちゃったりするタイミングも併せて異常な似かた。本人のカメオ出演ではないか、と疑いたくなる。

 

 同じ「ロックバンドの伝記映画」というジャンルに、オリバー・ストーンの「ドアーズ」があったが、アレはメンバーのルックスを似せる、という意味ではある程度諦めていた。ヘアスタイルさえ合わせてりゃ、あとは演技力でどうにかしてよ、みたいな。
 まあ、ドアーズは短命だったし、活動期間がミュージックビデオ流行のはるか以前なので、露出がクイーンと比べるとだいぶ少ない、という違いはあるが。

 

 その一方で時系列にオールドロックファンの記憶と違うところがあり、混乱させられる。
 例えば、ジョン・ディーコンの車を売って作り始めた(コレは知らなかった)ファーストアルバムで、歌入りの「輝ける七つの海」を録音しているが、歌入りの「輝ける七つの海」はセカンド・アルバムの曲で、ファーストではインストの短いヴァージョンだけである。
 更に最初のテレビ出演で「キラー・クイーン」を演っているが、「キラー・クイーン」は三枚目のアルバムの曲であり、最初のテレビ出演はそれこそ「輝ける七つの海」ではなかったか。なんか書いてて訳がわからなくなってきたし、、読んでる方もわけわからないだろうと思うとは思うが。

 さらに言えば、大喜びで初めてのアメリカツアーに出かけているが、最初のアメリカツアーはモット・ザ・フープルだかディープ・パープルだかの前座だったはずだが、その辺はバッサリ切られて、まるでメインアクトであるかのような演出がされている。

 

 これはつまり、「この映画は史実に忠実じゃありませんよ」ということだろう。
 「この映画はクイーン(というかフレディ・マーキュリーというオトコ)を題材にしたフィクションですよ」と言う覚悟で観ないと、イロイロ問題が発生してくる。

 

 意外なことだが、ブライアン、ロジャー、ジョンの三人があまりにもクリソツであることに比して、フレディが一番似ていない。
 フレディだけは見た目より演技力で選ばれているのだろう。
 ただ、口元をモゴモゴ動かす動きが、出っ歯を隠そうと格闘している動き、というよりは、馴染まない義歯を馴染まそうと格闘している動きに見えてしまうのは残念。
 「ワイドナショー」で松ちゃんが「あんなに出っ歯強調する必要ある?」と言っていたが、あの時代を知っているヒトは知っている。実物はもっと出っ歯なのである。

 

 そして、この映画のフレディは、我々の記憶にあるフレディと比べると、徹底的にナイーヴで、センシティブで、精神的にひ弱な人間として造形されている。
 身長も体格も、態度もか弱そうで、あの、自信満々で、ド厚かましそうなフレディとは思えない。
メンバー間での話し合いや、レコード会社との交渉場面では自信満々でド厚かましいが、それも三人のメンバーに甘えて、守られていて、初めてできる、という雰囲気を感じてしまう。
 メンバー三人だけで罵り合いを始めるが、大人らしく解決してしまう、というシーンが有るだけにそう感じてしまう(このシーンのシーン終わりのカッティングは素晴らしいと思う)。
 スタジオでのレコーディングで、あんなに堂々と、ヌケヌケと、「HEYHEYHEYYYYYY!!!」
などと叫べるヒトが、こんなに精神的にひ弱である筈は無い、などと思ってしまう。

 

 コレも、ブライアン・シンガー監督の考える、この後の展開も含めたフレディ像なのだろう。

 当然、後半の主題はフレディがゲイであった事になって行くのだが、ゲイとしてのフレディも、常に受け身で甘えたがりである。
 自分から行くことはなく、突然キスされて戸惑ったりする。
 結婚相手(当然女性)のメアリー・オースティンにはあんなに積極的だったのに。

 多分、ゲイとしてのフレディを忠実に描こうとすると、あまりにも生々しく、エグい映画になってしまうので、フレディの人格と併せて脚色しているのだろう。
 それが、この映画が開巻当初からフィクションですよ、と宣言していることの本当の意味なのだろう。

 

 史実として価値があったのは、フレディ・マーキュリーの三大コンプレックスである、ゲイ、出っ歯、インド出身、のうち、インド出身、を正面から描いたことかな。
 ゲイと出っ歯は誰が見てもひと目で分かるが、インド出身であることは、語られてはいたが、ある程度謎に満ちていた。
 なんとなく、家族をインドに残して単身イギリスに出てきたようなイメージが合ったが、あんなに明確に「ゾロアスター教徒」であることを表明する両親と暮らしていたとは。

 

 しかし、いくつかの点で逃げていることは、やはりオールドロックファンとしては許せないところもある。
 バンドに「Queen」という名前をつけた時点で、絶対フレディは自分がゲイであることに自覚的だったはずである。
 そして、映画自体のタイトルにもなっている「ボヘミアン・ラプソディ」は初めてフレディがゲイであること世間にカミングアウトするための楽曲であるはずである。
 小林克也氏によれば(ワタクシ空中さんにはその発言を無条件で信じてしまう人物が数人いて、洋楽における小林克也氏はその一人である)、 「Mama, just killed a man,」で殺されたa manとはストレートとしてのフレディ自身であり、これからは自分がゲイという現実に向き合って生きていくことの決意表明だった筈である。
 しかし映画では、この歌を作った時点ではフレディ自身まだゲイの自分とストレートの自分が未分化であるような描写がされている。

 

 更に許せないのはフレディ自身がエイズに罹患した経緯を逃げている点だ。
 同じ「主人公がエイズで死ぬ」テーマの映画に、ジョナサン・デミ=トム・ハンクスの「フィラデルフィア」があったが、「フィラデルフィア」はここを逃げていなかった。
 トム・ハンクスはちゃんとゲイのステディがいるにも関わらず、ハッテンバの映画館で浮気をして罹患するのだ。
 マネージャーのポールがエイズ患者であるシーンが無い以上、フレディもどこかで放埒な性を楽しんでいたはずなのだが、そういう描写は一切なく、いつの間にかエイズ患者になっている。

 

 しかし一方で、まあ、音楽映画としては楽しい出来だよね。
 「ボヘミアン・ラプソディ」レコーディング時の楽しそうな雰囲気や、「WE WILL ROCK YOU」や「ANOTER ONE BITES THE DUST」などの名曲が生まれる瞬間は、やはり映画ならではの興奮に満ちている。
 全てをライブ・エイドの集約させたストーリーも、まあ、感動的な脚色だろう。
 実際にはこの後アルバムはを3枚も作るが、正直言って全くパワーの感じられないものだったのだから(ある程度美しはあったが)。

 

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「ヴァレリアン千の惑星の救世主」 アキラ・デシネとしっかり美女

 時は28世紀。
 人類は3,000を超える異星人と友好関係を結び、1,000を超える種族と巨大な膨張し続ける宇宙ステーションを営んでいた。
 主人公のヴァレリアン少佐はナンパで超チャラいが宇宙連邦No.1の腕利き捜査官。今日も今日とて相棒の超絶美女でしっかり者の助手ローレリーヌ軍曹とつかの間の休暇を楽しんでいたが、急遽上司に呼び出されて、何でも複製できる伝説の機械、転送機をめぐる陰謀に巻き込まれ、宇宙を駆け巡る羽目になるのであった、、、

 

 コレ、メッチャ楽しそうじゃないですか?
 コレだよコレ、こーゆーのが見たかったんだよ、、、って感じ。

S Fやファンタジーに抵抗があるヒトは初手から無理だろうが、一度でもスペースオペラ的なものにハマったことがあるヒトなら、なんだか設定といいヴィジュアルといい、心惹かれるのよ。

 

 で、結局どうだったかって言うと、ですね、、、

 た、退屈、、、

 まあ、だいたい予想ついてたけど、、、

 

 リュック・ベッソンは「ニキータ」や「レオン」のような現代劇だとタイトな映画を作るが、どういうわけか「フィフス・エレメント」や「アデル/ファラオと復活の秘薬」などSF/ファンタジー作品ではダラッダラダラッダラ見せ場ばっかり繰り延べやがってからに、あんまり見せ場が続くともう、開巻30分のでもう、どーでも良くなって来るのよ、こっちは。
 根が子供だからCGで自分が見たかったものが見られて、嬉しくなっちゃって歯止めが効かなくなるんだろうか。
 ゴーグルつけなきゃ入れない、仮想空間にあるマーケット、なんてさ、面白いっちゃ面白いんだけど、途中からナニやってんだか解らないよね。

 せっかくリアーナまで引っ張り出した「ナニにでも化けられる星人」も、あー、ハイハイ、何にでも化けられるのね、ハイハイ、んじゃ、いろんなものに化けてね、という印象しかな無い。

 

 それでも最後まで見続けられるのは、とりも直さず、主役の二人の魅力でしか無い。

 相変わらずリュック・ベッソンは女優を見つけてくるのが上手い。
 カーラ・デルヴィーニュ嬢は、この長い映画の三倍くらいの時間眺め続けても飽きない美しさ。
 ちゃんとしっかり者に見えるし。

 ワタクシ空中さんは「アデル/ファラオと復活の秘薬」を思い出して、最後までカーラちゃんが乳出すんじゃないかと期待してしまった、、、

 

 ヴァレリアン少佐役のデイン・デハーンもクソ生意気そうなルックスが何故か憎めなくて意外に好感が持てる。
 途中剣戟のあるシーンで、まるでアクションができないことが露呈してしまうのは残念だが、

 

 ところでこのヒトのルックス、なんとなく、大友克洋っぽくね?
 ハッキリ言うと、「アキラ」の金田顔なのだ。
 そのせいでこのヒトの出てるカットは「アキラ」のワンカットのように見えてくる。

 「ヴァレリアン」の原作はもともとバンド・デシネと呼ばれるフランスのコミックなので、どっちかがどっちかの影響下にあるのかもしれない(テキトー)。

 

 しかしこのリュック・ベッソンのダラダラ病はどうしたらいいんだろう。
 なんとなく、ポール・ハーシュに編集させればどうにかなるような気もするが、本来的には脚本をちゃんとしろ、というハナシだ。
 でも、無理なんだろうな、、、
 誰もリュック・ベッソンに言えないんだろうな、、、
 別にコケたって生活に困らないから、コケるコケないより、自分のやりたいようになる方が大事なんだろうな、、、

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「イコライザー2」 馬は嵐の日に蒼ざめる。

 そんなわけで御用監督アントワーン・フークアによるデンゼル・ワシントンの「クリ様ごっこ」シリーズ第三作。

 

 前作はエピソード0でTVシリーズのフォーマットに即してなかったせいか、今回はアヴァンタイトルで一発、必殺必中仕置屋稼業してる。しかもトルコまで行って。
 ご苦労なこった。

 

 前作でもなんとか文芸風味を出そうと頑張っていたが、今作でもやってます。しかも前作以上。

 前作ラストの大騒動でさすがにホームセンターにいられなくなったのか(アレ、警察にどうやって説明したんだろう、、、)、デンゼル・ワシントン演ずるマッコールさん、今はタクシードライバーをたつきの道に選んでらっしゃる。

 

 そして、例によって大小の人助けにいそしんでらっしゃる。
 近所のばーさんの花壇を守る仕事から、のちのちストーリにーに絡んでくる、画家志望の黒人青年がヤクの売人になるのを防いだり。
 なかでもタクシーの運ちゃんとして送り迎えしてるおじいちゃんの家族を捜すハナシは、ソレだけで一本の映画になりそう。

 

 とは言うものの、今回の事件も別に依頼があったわけではななく、前作でも登場していた旧知の人物の仇を打つハナシ。
 なんかもう、ほとんど「イコライザー」を名乗る必然性が無いんだけど、大丈夫なんだろうか。

 

 そんな中、懐かしのTVシリーズの人気だけ利用しつつ、今回ナニをやってらっしゃるのかと言うと、ですね、まあ、クリ様の「ペイルライダー」をやってらっしゃいます。

 

 どの辺が「ペイルライダー」かというと、ですね、悪役全員がマッコールさんを見ると「死んだ筈じゃ、、、」というところです。
 そして、「ペイルライダー」である以上、前回のホームセンターのような人の大勢いるところで対決するわけには行かない。
 やはり西部劇で対決と言ったらゴーストタウンだろう。
 フークワ監督はわざわざ「ハリケーンの接近のために住民を避難させた」という設定でゴーストタウンを作り出してまで西部劇の設定にこだわる。
 そしてそのゴーストタウンで、マッコールさんに「ペイルライダー」のクリ様のような神出鬼没の活躍をさせる。
 「蒼ざめた馬の騎手」は嵐とともにやってくるものなのよ。

 

 今回はアヴァンタイトルからアクション満載で、アクション映画としてはサービス満点なのだが、前作ほどノれないのは、やはり悪役が前作ほどの迫力で描かれてないからだろう。
 一応今回の悪役はマッコールさんの昔の仲間なので、同等の実力の持ち主、という設定も可能だったはずなのだが、残念ながら全員マッコールさんの実力を尊敬していて、「オマエさえいてくれたらこんなことにはならなかった」的なことをのたまう。
 もう、最初から勝負はついてる。
「さ、さすがにマッコールさんもかなわないんじゃ、、、」

というスリルがなく、盛り上がりに欠けることおびただしい。

 マッコールさんの守護天使とも言うべき旧友が死んでしまったことや、ラストの雰囲気から、なんとなく、このシリーズもコレで終わりかな、という感じはある。
 デンゼル・ワシントン=アントワーン・フークア組がナニをやりたかったかは、二回に渡り書かせてもらったが、なぜ、「イコライザー」というフォーマットを借りたのかは、最後までわからなかった。
 単に見て育ったから好きだった、とかそんな感じだろうか。

 なんとか、もう一度おっかない悪役を捻出してスリルを味あわせてほしいとおもうのであった。

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「マグニフィセント・セブン」 西部劇の集大成でイーストウッドへショートカット

 前作「イコライザー」でクリント・イーストウッドなることを宣言した(もう、勝手に決めつけてますけど)デンゼル・ワシントンではあったが、じゃあ、

 

「今のオレに無くってクリント・イーストウッドにあるものってなに?」

 

と考えた結果、

 

「ソレは、西部劇である」

 

という結論に達したかどうかわからないが(ワタクシ空中さんは完全にそう思い込んでる)、なんとデンゼル先生、イキナリ西部劇史上最も人気の高い名作のリメイクに挑んできました。
 コレ一発でクリ様の西部劇キャリアを自分でも対抗できるものとして精算するつもりだろうか。

 そんな思惑も踏まえつつ、映画の出来について考えたい。

 

 皆さん御存知の通り、この映画は1954年の黒澤映画「七人の侍」のリメイク、の1960年のジョン・スタージェス映画「荒野の七人」のリメイク、となっている。
 このリメイクの連鎖ですが、「侍」だけが3時間20分の長尺、「荒野」と「セブン」はおおよそ2時間なのだが、どういうわけ、後に行くほど「悪役の描写」が多くなる。

 3時間20分ある「侍」は実は、正義の武士対悪の野伏(「のぶせり」って読んでね)の戦いであるにも関わらず、野伏の描写はほとんどない。その描写の少なさは、悪い人間の集団というよりは、移動するパニックのようである。
 ココまで徹底的に悪役の描写を配したアクション映画というのは、当時としては珍しい、と言うか殆ど無かったのである。
 しかしこの手法はこの後増えてくる。黒澤はこういうイロイロなことを発明しているのである。

 

 ところが。
 そのリメイクであるはずの「荒野」「セブン」は、どんどん悪役の描写が増えてくるのである。
 なぜならその方が盛り上がるから。

 

 普通はそうなのだ。
 フツーに考えて、悪役を憎々しく描いておいたほうが、盛り上がるではないか。
 より憎々しい奴をやっつけた方がスッとするではないか。

 逆に言うとコレをやらずに盛り上げまくった黒澤ってやっぱスゴい、ということでもあるのだが、、、

 

 で、ですね。
 ここまでをまとめると、ですね。
 要は、後発2作は時間が1/3近く短くなっているにも関わらず、悪役の描写は増えている、ということであり、ソレは取りも直さずこのストーリの持ちネタとも言うべき、

「7人が集まる過程」とか、

「村人との交流(訓練)」とか

「ラストの大銃撃戦」とかが、

どんどん削られているということになる。

 

 特に一番新しい「セブン」は、悪役が今までのような野盗ではなく、コレまでにもいくつもの金鉱を暴力で乗っ取って来た悪徳実業家、つまりは権力者である。
 なかなか描き甲斐があるではないか。

 そうやって悪役を描いているうちに、どんどん正義の味方を描く時間は時間が減っていく。

 

 このネタはオールスターキャストが持ち味であり、最初のリメイクでもある「荒野」にしてからが、ユル・ブリンナー、スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンと七人うち5人もメジャーなハリウッド映画で主役を張れる役者が揃っているが、「セブン」はデンゼル・ワシントンとクリス・プラットとイーサン・ホークくらいではないか(まあ、イ・ビョンホンもいるけど)。
 当然、ひとりひとりの個性を描く余裕はどんどん無くなっていく。

 

 そして「七人の個性描き分け問題」にもまして重要なのは、そもそも「なんでこの七人は命がけで村人を守るのか」問題である。

 「侍」の七人が村人を守るのは、つまるところ彼らが「武士」だからだ。
 もともと民人を守って戦うのが武士の努めだからである。

 

「米の飯なら腹いっぱい食える」

 

などというのは言い訳に過ぎない。

 ところが西部のガンマンにはもともと罪なき市民を守る定めなど無い。
 彼らはなぜ、「多分ほとんど全員死ぬであろう」判っているミッションに自ら参加するのだろうか。
 「荒野」もここは苦しんでいる。ほぼ、ゴマカシている、と言ってもいいだろう。

 そして、「セブン」はココを逃げていない。
 一応、「侍」には無かった新たな説明を付けている。

 

 デンゼル・ワシントン演じる主人公、サム・チザムは、かつてこの悪徳業者に家族を殺されているのだ。
 つまり、彼にとっては復讐劇なのである。

 さらに言えば、ガンマンを探しに出る村人は悪徳業者に夫を殺され、コレまた復讐に燃える勇敢かつ美貌の人妻、ヘイリー・ベネットなのである。
 ヘイリー・ベネットは前作「イコライザー」は添え物程度だったが、今回は堂々のヒロイン、荒くれオトコどもを村まで引っ張るファム・ファタールぶりにシビレる。

 こういう改変を寂しがる、場合によってはお怒りになる向きもあるだろうが、時間を短縮するには、まあ、有効だろう。所詮、ガンマンと武士は違う。テーマが変わるのもしょうがないだろう。

 

 こういう時短策を用いることによって、この映画はたっぷり西部劇らしい銃撃戦を描くことに成功している。
 最初に街に居座っていた用心棒どもを一掃するシーンから、もう、銃撃戦に関してはお腹いっぱい堪能できる。

 

 こういうことを書くと怒られるかも知れないが、この映画に対する関心のひとつに、「黒人監督に『西部』が描けるのか」(うわ、やっぱ怒られそう、、、)という問題があった。
 開巻直後、メンバーを集めながら大自然の中を旅するシーンなどのヌケの良い絵で、ほう、、、と思ったが、やはり「西部情緒」というものが感じられるほどではなかった。
 しかしコレは日本でも時代劇情緒の撮れる演出家がどんどん減っているのと同じく、人種の問題ではなく世代の問題なのかも知れない。

 デンゼル・ワシントンの「我、黒人のイーストウッドたらん」という目的のためには、やはりイーストウッド監督の西部劇を都会のアクションに換骨奪胎する、という戦略が正解なのかも知れない。

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at 21:29, 空中禁煙者, 洋画

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「イコライザー」 「許されざる者」の現代版リメイク

 アントワーン・フークア監督は黒人監督には珍しく、「ザ・シューター/極大射程」や「エンド・オブ・ホワイトハウス」など、白人が主演の普通のアクション映画も撮れるヒト。
 しかし、ココ数年はデンゼル・ワシントンの御用監督のようになっている。
 コレはその「アントワーン・フークア御用監督シリーズ」の一作目。
 デンゼル・ワシントンとのコンビは2001年の「トレーニング・デイ」以来13年ぶり(2014年作品です)。

 

 もともとは「ザ・シークレット・ハンター」という80年代アメリカのTVドラマだったらしい。
 フォーマットとしては「引退した元CIAの凄腕工作員が悪い奴をやっつけて人助けする」という至ってシンプルなもの。
 TV版では新聞広告を出しているという設定らしいが、映画ではそこまで行ってない。エピソード・ゼロ的なつもりなのだろう。

 

 ところで「ザ・シークレット・ハンター」というのは日本でテレビ放映した時のタイトルで、もともとはTVシリーズのタイトルも

 

「The Equalizer」。

 

 辞書的な意味だとEqualizeは「等しくする」「平等にする」となっていて、なんかどエライ大げさなハナシになっている。

 

 なにしろ元は1時間(実質45分?)のテレビシリーズでシンプルなフォーマットである。デンゼル・ワシントンといえど、90分くらいのB級アクションになりそうだが、、、

 どういうわけか全然そうなってない。
 2時間10分超えの長尺を使って、なんか悠揚迫らざるペースのアクション映画になっている。

 

 例えば。
 デンゼル・ワシントン演じるマッコールさんは、現状ホームセンターで働いているのだが、若いデブの同僚が警備員の資格を取る手助けをしている。
 デブのダイエットや筋力トレーニングを指導したり、デブママがひとりで切り盛りする食堂が放火にあってデブがホームマートを休んでると見るや、放火犯をボコボコにしたりする。

 

 一方でマッコールさんを殺しにロシアからやって来たトラブルシューターの描写も延々と続く。コイツがいかに有能かつイカれた奴であるのか、コレでもかと見せつけてくる。

 

 もう、この両者の丁寧な描写はまるで文芸作品を見せられているようである。

 ただ、誤解なきように言っておくが、この映画決して退屈ではない。
 アクションシーンのキレは素晴らしい。
 思えば「ザ・シューター/極大射程」も「エンド・オブ・ホワイトハウス」も素晴らしかった。
 前半で、ロシアン・マフィアの巣窟に素手で乗り込んで、数十秒で全員倒すシーンなど、格闘が始まる前、部屋の中に何があるかマッコールさんが探している描写を、カメラがマッコールさんの眼球に入り込んで映し出す演出や、いざ超ハードアクションが始まってからのあまりの無敵ぶりなど、おそらくマッコールさんは、この映画では神の役を振られているのだろうな、と思う。

 

 ところでこの映画、そもそもストーリーが動き出すきっかけは、深夜のダイナーにおける、マッコールさんと、クロエ・グレース・モレッツ演じる少女娼婦の交流である。
 そして、この少女との会話の中で、マッコールには死別した妻がいることが明かされる。
 さらに、上記の殺戮の後、マッコールさんはボソッとひとコト、

 

「すまない、、、」

 

とのたまうのである。

 

 コレらの事どもをまとめると、ですね、この映画はつまり、

「昔はさんざん悪いことをしてきたが、今は亡き妻の言葉を守って真面目に暮らしている男が、娼婦を守るためにもう一度暴力装置としての自分を発動させる」

というハナシである。

 

 お気づきであろうか。

 コレはつまり、クリント・イーストウッドの「許されざる者」と同じである。

 ハッキリ言って、コレはデンゼル・ワシントンによる「許されざる者」のリメイクのつもりなのではあるまいか。

 

 「許されざる者」は、キレの良いアクションのある西部劇であるとともに、クリント・イーストウッドが描き続けているテーマ、「人間と罪」を描いた、深みのある文芸作品でもあった。
 コレがつまりB級アクションのような題材にも関わらず、まるで文芸作品のように人物描写が多い理由でもあるだろう。
 例えばマッコールさんに、わざわざロシアからやって来たトラブルシューターの生い立ちまで語らせるのも、「人間と罪」を追求してるのだろう。

 

 さらに言えば。
 ほとんど神のような存在であるマッコールさんは、ひとつだけ神にあるまじきミスを犯している。彼とクロエ・グレース・モレッツの共通の友人がひとり死んでいるのだ。
 コレもつまり、「許されざる者」におけるモーガン・フリーマンのしと対応しているのだろう。

 

 「許されざる者」のような文芸作品として成功しているかどうかは分からない、
 が、多分アカデミー賞は獲らない(まあ、獲ってない)。

 

 しかし、ハッキリしてることはある。
 デンゼル・ワシントンが、

 

「我、黒人のイーストウッドたらん」

 

とハッキリ宣言宣言したことだ。

 

 我々はそのことを、、アントワーン・フークア監督と組んだ次作、次次作でも思い知らせることになるのであった、、、、

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