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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「エル ELLE」 ミスター・グッドバーなんか探さない。

 冒頭、いきなりレイプシーンから始まる。
 この映画は、通常の映画のように、ラストのカタルシスに向けて徐々にボルテージを上げていく作りではないのだな、と思い知らされる。
 いきなりボルテージをボンッ!!と上げておいて、そのままベターっと面白い、日本で言えば相米慎二や園子温のような映画なのだ。

 

 そう。
 日本でこの映画を撮るとしたら園子温だろう。

 

 「Elle」には普通ならそれだけで一本の映画が撮れるようなテーマが二つも三つも投げ込まれている。

ー膺邑の父親は数十年前(40年位?)、ご近所さんを23人ぶち殺した有名大量殺人犯であり、主人公は未だにそのせいで差別を受けている。

 

⊆膺邑は映画の冒頭でレイプ被害にあう。

 

主人公は数十年来の親友にして会社でも右腕の女性の旦那と不倫をしている。

 

 どうです?
 どれ一つとってもそれだけで一本の映画になりそうでしょ?

 

 ところが、だ。
 コレらは全てある一つの事を表現するための背景に過ぎない。
 ある一つの事とは、主人公ミシェルの複雑かつ強靭な人間性だ。

 

 映画の中でミシェルに降りかかるすべての事象は、ただ、ミシェルの人間性を際立たせるために存在する。

 この映画はレイプ事件だの親族の殺人者だの不倫だのを通して、ミシェルの人間性を描いているのだ。

 

 事件ではなく、人間を描く、というのは、ある意味映画的というよりは文学的なあり方だ。
 しかしコレを一気にあまりにも映画的な映画に引き寄せているのが、ミッシャルを演じるイザベル・ユペールの圧倒的な、文字通り圧倒的な身体性であり、演技力であり、女優としての腰の座り方である。

 ワタクシ空中さんは当然ポール・バーホーベンの映画だと思って観始めたが、観終わってみればコレは完全にイザベル・ユペールの映画であった。

 

 多分、バーホーベンは自分の映画がイザベル・ユペールに乗っ取られていくのを見て、
「しめしめ、こりゃスゲエ映画になるぞ、、、」
とほくそ笑んでいたに違いない。
 それくらいスゴいです。

 

 ミシェルはレイプされても泣き叫んだり狂ったようにシャワーを浴びたりしない。
 淡々と割れた花瓶を片付け「寿司」のデリバリーを頼む。
 息子が訪ねてくる予定だったのに(レイプ事件のせいで)食事の準備をしておらず、デリバリーで済ますことにしたのだ。
 そして「ハマチ」を注文し、「ホリデー巻き」とはなんなのか、電話の相手に尋ねる。

 

 しかし彼女はレイプなんか大したことないと考えてるわけではない。
 スタンガンと斧を買い込み、しまいにゃ射撃の訓練を始める。
 完全に今度来たら殺すつもりなのだ。

 

 彼女が警察に頼らないのは、自分が8歳のときに起きた父親の殺人で、自分も「何らかの役割を果たしたのではないか」と疑われたことから、警察を一切信用していないのだ。

 やはりコレが彼女の原点なのかな、という気もする。

 

 そして家族でレストランで食事をしているとき、突然「レイプされた」と告白する。
 家族が慌てふためくと、
「ああ、やっぱり話すんじゃなかった。このハナシは終わり」
と一方的に打ち切ってしまう。
 普通の人間はレイプを深刻に受け止める、あるいはレイプ被害者は深刻に受け止めるはずと思っていることを忘れているのだ。

 

 こんな人物像を、魅力的に、美しく演じることができる人類が存在するとは、バーホーベンも想定外だっただろう。

 

 ワタクシ空中さんは、観ていてなんとなく1977年の傑作映画「ミスター・グッドバーを探して」を思い出していた。
 40年の時を隔てて同じように性に放埒な女性を描いているが、そのラストの違いは、この40年における女性の生き方に関する考え方の変遷を強烈に感じさせる。
 ミシェルはミスター・グッドバーなんて最初からいないことを知っている。
 だからわざわざ探さずに手近にいる男で済ませる。
 そして、暴力を振るうオトコには自らケリを付けるのだ。

JUGEMテーマ:映画

at 21:05, 空中禁煙者, 洋画

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「ブレードランナー2049」 長い。そしてしつこい。 

 リドリー・スコット監督はひとつのことにこだわり始めると延々とそればっかりやり続けるヒトで、昔は「迷宮に囚われてそこから抜け出そうと努力し続けるヒト」の映画ばっかり撮っていた。
 で、どこで転換期があったのかよく分からなくなってしまったが、最近はまた別のテーマに囚われているらしく、本作は「エイリアン:コヴェナント」と同じテーマである。

 

つまり、

 

「被造物だったものが造物主になる」

 

コレである。

 

 人間はレプリカントを作った。
 コレだけならただ道具を作っただけであり、ハサミや自動車を作ったというのと本質的には変わりはない。
 そこで「ブレードランナー」ではフィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の逆を突いて「レプリカントも人間だ」と言う結論に達していた。

「なぜなら共感能力があるから」。

 

 ディックとしては共感能力の有る無しが人間の条件だ、と言いたかったのだろう。

 

 「アンドロ電気羊」のアンドロイドは人間ではない。
 「なぜなら共感能力が無いから」

 

 「ブレードランナー」のレプリカントは人間である。
 「なぜなら共感能力が有るから」

 

 多分、ディックは周囲の共感能力があるとは思えない、非人間的なヒトたちに悩まされていたのだろう。

 

 今はそんなことはどうでもいい。

 今、コレを書いていて、ン十年前の入ゼミ面接のときにこのハナシをしたことを思い出したけど。

 

 レプリカントには共感能力があった。
 人間は共感能力が有る被造物を作った。
 それはそれでいい。

 だがそれで人間は神になったと言えるのか。
 ただ、とても便利な(高度な)道具を作っただけではないのか。

 

 中学の「科学第二分野」で習ったところによると、それが生命であるためには次に挙げる3つの条件が必要である。

 

1.細胞(自他の区別)がある。
2.呼吸(代謝)している。
3.繁殖(成長)する。

 

 レプリカントは1.と2.はクリアしてそうである。
 問題は3.だ。

 「ブレードランナー2049」は、つまり3.をめぐる映画なのだが、、、

 

 30年前、ブレードランナーのデッカードと逃亡したレプリカントのレイチェルは、どうもデッカードの子供を産んだらしい、、、
 そして本作の主人公、自らもレプリカントであるブレードランナー「K」は「レプリカントの妊娠」ともし事実生まれていたなら子供はどこへ行ったのかを調査し始めるが、、、

と言うハナシ。

 

 レプリカントが繁殖するというのは、スゴいといえばスゴい。
 レイチェルの出産に立ち会ったらしいレプリカントも、「奇跡」と表現している。

 だけどですね、コレが例えば「神の御業」とか、自分たちで踏ん張って繁殖できるように改造したとかなら奇跡だけど、「タイレル社長がそう作った」って言っちゃったら、奇跡でも何でもなくね?
 いやタイレル社長はスゴいけど。

 

 なんかスジとしては「タイレル社長は何故そんなにスゴいのか」を追求すべきな気もするけど、そこはスルー。
 ただ、なんか知らんがスゴいスゴいって言ってるだけ。
 ちょっとピントがズレてる気がするけど、オレがSFマニアだからそう思うだけなのかなぁ、、、

 

 この映画がやたら長い原因は、実はこの映画にはもう一つ焦点があるせいでも有る。

 レプリカントであるブレードランナー「K」と、「市販用」AIであるジョイとの恋愛である。

 

 ジョイはそこらじゅうでCM打ってるフツーのホームインフォメーションシステム(要するにグーグルスマートスピーカーの映像有り型)なのだが、完全にKとお互いに恋愛感情を持っているように描かれている。

 なんだコレは、監督は「エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドだっけ?と思ったが違った。
 「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーブだった。

 

 実はこの、「人造人間とAIの恋愛」だけでも、映画一本撮れるだろう。
 コレを一緒に一本の映画でやろうとしたら、そら長くなるわ。

 

 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は「メッセージ」でもそうだったが、全体的に画面が白っちゃけていて平板な印象。
 極彩色を毎度おなじみの蒸気で隠して陰影の深い映像を作るリドリー・スコットとは真逆の印象でもある。

 

 実はヴィルヌーブ監督の「ボーダーライン」も観ているのだが、三作並べての共通点は

「砂っぽい」

 

コレである。

 

 全部砂漠が舞台になっていて、なんか観ていると口の中がジャリジャリしそう。

 なんでヴィルヌーブに任せたんだろうか。
 いっそ、アレックス・ガーランドに撮らせればよかったのに。

 

 あと納得行かないのは、デッカードの扱いである。
 リドリー・スコットははっきり「リック・デッカードもレプリカントである」と言っていて、そのためのディレクターズ・カットだったはずである。

 しかるに本作のデッカードは30歳分年を取っていて、しかもいやしくも「子供ができた」というのなら、母親ほどではないが父親のヒトとしての機能も問題になる筈であるが、どうもそのへんを気にしている様子がチョットも無い。
 要するに「人間だ」と言う方がハナシが通じやすい作りになっている。

 

 なんだコレは。
 おま、フザケンナよ、と言いたい。

 

 結果としてレプリカントの繁殖のハナシもレプリカントとAIの恋愛のハナシも中途半端で、長い上に退屈な映画になってしまった。

 もう、ジョイ役のクッソ可愛いアナ・デ・アルマスちゃんを眺めている時間しか、映画的な時間じゃなかったような気さえするワタクシ空中さんであった、、、

JUGEMテーマ:映画

at 21:06, 空中禁煙者, 洋画

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「エイリアン:コヴェナント」 願わくば、これ以上ボケる前に続編を作って完結させてほしい、、、

 リドリー・スコットは「エイリアンの起源を描く」と言って前作「プロメテウス」から始まる「前日譚三部作」を始めたそうだが、そもそも「プロメテウス」の段階で全然そうなってない。

 「プロメテウス」はエイリアンどころか人類の起源を探るハナシだったし、今作でもエイリアンの新種がどんどん出てくるが、別に起源なんか探っちゃいない。

 コレで一体全体どうやって「エイリアン」に繋げるつもりなのか、サッパリわからない。
 ていうかどう考えても繋がるわけない。

 

 コレはつまり、そもそもリドリー・スコットはエイリアンの起源なんか描くつもりはチョットも無い、ということだろう。
 最初から出資者を騙す嘘なのだ。
 コレで大予算ぶんどって堂々と自分のやりたいことやっているのだから、大したものである。
 さすが今の映画界を代表する巨匠というしかない。

 

 じゃあ、出資者に嘘ついてまで金集めて一体全体ナニをやっておるのか、と。
 コレが、ですね、

「種の起源と神」

についてやってます。

 「2001年宇宙の旅」が「進化と神」についてやってのとちょっと似ている。

 

 似ているがちょっと違う。

 「2001年」が「進化のトリガーを弾いているのは高度な宇宙人である」と言っているならば、例えば「プロメテウス」は「人類の起源は高度な宇宙人である」というようなハナシをやっていて、「コヴェナント」は「AIは人類の被造物である」というようなハナシになっている。

 

 つまり、「2001年」の「お猿」の部分がないのである。
 進化しないでいきなり出来ちゃって(作っちゃって)る。

 コレってさ、人類はお猿の成れの果てであるって峻厳な現実から目をそらしてるんじゃないの?「2001年」より一歩後退しちゃってるんじゃないの?という気がするが、そこはこの際どうでもいい。

 

 という訳で、順番的に言って次作はAIが造物主になるハナシになるんだろうな、という気がするが、それもどうでもいい。

 

 映画全体の構成として、リ、リメイク?というくらい最初の「エイリアン」に似ている。
 エイリアンもいっぱい出てきて、人間が逃げ惑って、戦って、最初の「エイリアン」と全く同じフォーマットの中で、全く違うことをやっている。

 

 何しろ今回の主役は「プロメテウス」にも出てきたアンドロイドのデヴィッド君である。
 ある意味、これは「エイリアン」に出てきたアッシュが勝つハナシなのかもしれない。

 

 この、「エイリアン」のフォーマットの中で「2001年」をやろうという試みのせいで、映画全体の印象がぼやけていることは否めない。
 どのシーンも面白いのだが、「で、ナニがしたいの?」」と言う思いがどうしてもつきまとう。

 

 そもそも「エイリアン」のフォーマットはリドリー・スコットのものではなく、ダン・オバノンのものである。

 リドリー・スコットも80歳である。黒澤明の昔から、映画監督は歳を取ると映像感覚より、まず、脚本を読む力が衰えるものである。
 リドリー・スコットも脚本で悩んで自分が表現したいテーマを描くのに、昔懐かしいダン・オバノンのフォーマットを利用したのかもしれない。
 ダン・オバノン、もう亡くなってるし(合掌)。

 

 従って、映像感覚は衰えていない。
 デヴィッドくんの部屋のシュールグロテクスな美術など、一見して圧倒される。

 

 お金が使えるんだか使えないんだか、作家性を表現したいんだかしたくないんだか、全てが中途半端なまま、次作「デヴィットくんがエイリアンと人間を合成して造物主ぶるの巻」へとなだれ込んでいくのであった、、、

JUGEMテーマ:映画

at 04:06, 空中禁煙者, 洋画

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「ハードコア」 観る前に酔い止めを飲もう。

 えーっとですね。
 今を去ること1947年に、ですね、「湖中の女」っていう映画が有ったのね。

 

 これが、ですね、世界初の「全編一人称映画」ですよ。
 カメラが主人公の目線になってて、主演のロバート・モンゴメリーは主人公が鏡を見たときくらいしか映らないわけ。
 普通だったら「イヤ監督、主演って聞いてたのに、オレの出番少なくないっすか?」となるところだが、実は監督もロバート・モンゴメリーなんで問題なし、と。

 

 で、「湖中の女」と言えばレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウものですよね。
 この時期のいわゆるハードボイルド私立探偵小説は、創始者のダシール・ハメットのコンチネンタル・オプものから、チャンドラーのマーロウもの、ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーものに至るまで、基本的に一人称で書かれている。
「俺は、、、した」というアレである。

 

 ね?
 一人称小説だから一人称カメラ。
 ロバート・モンゴメリーとしては、一人称小説ってこういうことじゃねーの?と言うつもりだったろう。

 

 ところが、ですね。
 このあと、例えばフィリップ・マーロウものも何度か映画化されているが、この手法を取り入れた作品はない。
 ダシール・ハメットでもない。
 ロス・マクドナルドでもない。
 原作が一人称小説だろうがなんだろうが、どんな映画もこの手法を取り入れてはいない。

 

 要はつまんなかったんでしょうね。
 だって、「主人公が映ってない」んだもん。
 ボギーが映ってない「マルタの鷹」を考えてみれば、面白いかどうか分かりそうなもんだ。

 

 で、「ハードコア」ですよ。
 70年ぶりの全編一人称映画です。

 まあ、驚愕の映像体験ですよ。
 70年前とは技術が違う。
 カメラの大きさが違う。

 二階から飛び降りるわ、爆発でふっとばされるわ、一体全体どうやって撮影してるのか、サッパリわからない。

 ストーリーのノンストップぶりといい、アクション、破壊の激しさといい、観ている間それなりに面白い。
 面白いけれど、やっぱりこの手法は定着しないだろうな、と思う。

 

 70年ぶりの「完全一人称映画」と書いたが、実はほぼ同じ手法が20年くらい前にホラー映画で復活している。
 「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以来のいわゆるPOVと言う奴だ。
 もう、ホラー映画はほとんどこの手法に占領されていると言ってもいい。

 一人称映画とPOVの違いは、一人称映画が一応主人公視点だろうがなんだろうが「完成されたカメラワークである」という前提なのに対し、POVは映画の中で登場人物の一人(つまりシロート)がカメラが持っているという前提が観客に対して明かされている、と言うことだが、それは今はそれほど重要じゃない。

 

 じゃ何が重要かと言うと、「ホラー映画は主人公がカッコよくなくてもいい」と言うことだ。
 コレに対してハードボイルドミステリーの主人公は(そしてアクション映画の主人公も)、カッコよさが絶対条件だということだ。

 

 本作「ハードコア」でどんなに激しいアクションが繰り広げられようと、我々はその主人公の体技や表情がカッコいいかどうか分からない。
 アクションの後どんな見えを切っているのか分からない。
 コレでは観ている間面白くっても心に残るアクション映画にはなりようない。

 

 ストーリーについてちょっと。
 この映画はストーリーもそこそこ面白い。
 ラストのどんでん返しはともかくとして、途中でチョコチョコ姿を変えて神出鬼没の「ジミー」と言うキャラクターの正体など、考えたなぁ、、、と言う感じ。
 ただ、悪のラスボスがサイコキネシスが使える、と言うのが唐突過ぎて意味不明。
 アレ、必要ある?

JUGEMテーマ:映画

at 21:48, 空中禁煙者, 洋画

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「エクス・マキナ」 ほぼ、ソノヤ・ミズノの映画

 世界最大の検索エンジン運営会社に勤めるケイレブは、社内の懸賞に当選して、「誰も会ったことのないカリスマ社長の自宅に一週間招かれる」と言う栄光に浴する。

 

 そんなもんどこが嬉しいのかと思うだろうが、なにしろ「大統領でも会えない」と言われるほどの、天才、カリスマ、大富豪なのだ。

喜び勇んで「ヘリコプターで2時間以上社長の敷地の中」を飛んで大邸宅にたどり着いたケイレブだったが、実は懸賞のハナシはウソで、社長は最初から優秀で若く独身の男性社員であるケイレブを、ある目的のために呼び寄せたのだった。

 

 ある目的とは「チューリングテスト」。
 

 機械をを人間と対話させて、人間が機械と見破るかどうかで、機械がAIになったかどうか見破る、というテストだが、社長が用意したAI、エヴァは顔こそ人間だが、顔面以外は機械丸出しで、人間とは間違えようがない。
 そこで、若い女性型のAIであるエヴァと、ケイレブの間に恋愛感情が芽生えるかどうかで、チューリングテストにしよう、というハナシ。

 

 ね。
 コレは上手いよね。
 ちゃんとリアル目のSFにもなってるし、恋愛映画としても成立する。

 

 で、ここから衝撃のラストまで、脚本はすごくよく出来てると思う。

 AIを巡る哲学的な会話から、社長がAIを作りながら「何故」検索エンジンの会社をやっているかについての衝撃的な事実の開示まで、さすが手練の脚本家だなと思わせる。

 

 しかしですね。
 この映画、ひとつ致命的な誤算があるよね。

 

 社長がハウスメイドとして使ってるエヴァの一つ前のAIであるキョウコの存在である。
 この、キョウコ役のソノヤ・ミズノが美しすぎる。

 

 エヴァ役のアリシア・ヴィキャンデルも、顔面だけ人間であとは機械部分が丸見えの段階では美しいが、皮肉なことに皮膚と髪と服をまとって人間らしい格好になると、「なんかショボいな、、、」という印象。

 

 それに対してソノヤ・ミズノは終始完璧な美しさ。
 さらに、ちょっとだけダンスを踊るシーンが有るのだが、このダンスがまた素晴らしすぎ。
 30秒ほどのシーンだが、最初の2秒で、

「あ!このヒトのダンススゴい!!」
とわかってしまう。

 

 ダンスとはつまり芸術である。
 眼の前で堂々と芸術を創作している奴がいるのに、チューリングテストとはなんとバカな話だろう。
 人間以外の誰に芸術を作れるというのだ。

 

 調べてみると、ソノヤ・ミズノはなんとロイヤル・バレエ学校出身のダンサーであった。
 そらスゴいはずだわ。

 

 せっかくソノヤ・ミズノが出てくれたのだから、ダンスも撮っとこうくらいのつもりで入れたのかもしれないが、ほとんど映画全体をぶち壊す誤算であった。

 

 せめて人間に化けたアリシア・ヴィキャンデルがソノヤ・ミズノを上回る美しさだったら、、、と思わざるを得ない。

JUGEMテーマ:映画

at 01:44, 空中禁煙者, 洋画

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「メッセージ」 「タコ入りばかうけ」が世界を変える

 まず、よくこんなハナシをVFX満載の大予算SF映画にしたな、と思うのである。

 それともイマドキCGのおかげでこの程度はたいした予算をかけずに出来るのであろうか。

 

 原作は有名な短編SF小説だが、コレは非常に形而上学的なハナシであり、小説自体の構成もはなはだメタフィクショナル、というか文章自体がSFのアイデアを表現しているような厄介なハナシなのだ。
 そんなものを映像化してどうするのか、と思う。

 

 全体的に落ち着いた、ある意味暗い、と言ってもいいペースの映画であり、決して原作をバカにする、というか原作のいいところだけパクっちゃえばいいや、というナメた映画化ではないことは十分伝わる。

 

 さらに言えば、ヘプタポッド(宇宙人をこの映画ではこう呼ぶのね)の「文字」を映像化してそれらしく見えているのは、素晴らしいことだと思う。

 決して「原作乗っかり企画」ではなく(そもそも原作自体SFファン以外にはほとんど知られていないだろう)、プロデューサーだか監督だか脚本家の誰かが、

 

「コレは映画にしてもイケる!」

 

という、勝算というか確信があって、映画化しているのだな、という意気込みは伝わる。

 

 多分、この映画の評価は、前半から頻出している主人公と娘との関わりを描くシーンを、大胆と感じるか、訳がわからないと感じるかで、この映画の評価は分かれるのだろう。

 

 ところで、ですね。
 ワタクシ空中さんはこの映画を見て、原作小説の長さと映画化、という問題にもう一度考えさせられましたね。

 通常、(映画サイドから見た場合)長編小説よりも短編小説のほうが、映画化に適している、と思われている。

 長編小説を映画化すると、どうしてもダイジェスト的にならざるを得なく、それよりは短編を脚本家なり監督なりが膨らませたほうが傑作映画になる可能性が高い、というのだ。

 

 しかしこの論理は、もう何十年も短編小説を読むヒトが減り続けており、原作小説のネームバリューを当て込んで映画化しようとすると、どうしても長編小説に頼らざるを得ない、という現象により、ほぼ、無効になっているようでもある。 

 しかし本作の原作は短編であり、その意味では「映画化の原作は短編小説有利」の法則に則っているようにも思える。

 

 しかし本作は、図らずも「短編有利の法則」が、意外にもSFにはあてはまらない場合があることを露呈してしまっているようでもある。

 

 SFの必要条件の一つに、「ストーリーの始まりと終わりでは世界の(人類の)あり様が変わっている」というものがある。
 長編SFでは世界のあり様が徐々に変っていく様か、変わった後の有り様か、その両方が描かれている。
 コレに対して、世界のあり様が変わる瞬間を描いているのが短編SFであると、大雑把に言えば、言える。

 

 本作の原作はまさに「世界のあり様が変わる瞬間」を描いていて、その後に来る大混乱は示唆するにとどめられている。

 

 しかし。
 翻って長編映画で「瞬間を描く」だけ、と言うのは難しい。「世界のあり様」が変わった後の大混乱をも描いた映画と同じ金を払った観客は、物足りなさを感じるかもしれない。

 本作はそこから逃れるために、若干、その後の世界を描いているが、そのせいで逆に「世界のあり様」の変化が、中途半端になってしまっている。
 世界はもっと大混乱に陥るはずなのだ。

 

 それは、「あなたの人生」が変わるだけ「の物語」ではすまないだろう。

JUGEMテーマ:映画

at 23:30, 空中禁煙者, 洋画

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「ラ・ラ・ランド」 彼女が「パリへ行く」と言い出したらご用心

 冒頭、オープニングのワンカット目でとんでもない長回しにド肝を抜かれる。

 

 しかもミュージカル。
 しかもハイウェイの上。

 

 ハイウェイの上で、反対車線まで巻き込んで歌って踊るヒトビトとそれを捉えるカメラ。
 技術的にも大変だろうが、一体全体どうすればこんなシーンが頭の中で構成できるのか、想像もつかない。

 

 その後も、丸ワイプの多用や、脚本においてもハイウェイの渋滞やカフェでの会話などオープニングとエンディングが繋がる構成等、この映画が全盛期のハリウッド・ミュージカルを超絶テクニックを駆使して再現しようという試みであることが、画面の隅々から横溢している。

 

 ちょっとワクワクするよね。
 ひょっとして、夢のような時間が過ごせるのかな、と、ふと思ったりもする。

 

 で、ですね、、、


 まあ、主演はライアン・ゴズリングとエマ・ストーンですわ。
 まあ、売れてますわ。
 まあ、美男美女で、演技も定評ありますわ。

 ですけどね。
 ですけど、ですよ。
 ミュージカルの主演としてはどうなん?っていうハナシが、ココでにわかにアタマをもたげてこざるを得ないわけですよ。

 

 まあ、ミュージカル映画として観た場合の全編のハイライト、例の駐車場のシーンね。
 ポスターやパッケージのメインヴィジュアルにもなってるアレですけどね。
 まあ、なんていうのか知らないけど、ミュージカルのダンスでよく出てくる両手を広げてジャンプしながらターンするアレね。
 もう、ライアン・ゴズリングのアレで、吹き出しましたね。
 イヤイヤイヤイヤイヤイヤ、やっとこさっとこじゃん、っていう、、、
 もっと華麗にキメてよ、っていう、、、

 

 まあ、歌もたいして褒められたもんじゃないしさ。
 エマ・ストーンのラスト近くの決意表明のソロだけは
「ああ、マトモに歌えることは歌えるんだな、、、」
と思ったけどさ、、、

 

 一方で、ライアン・ゴズリングがピアノを弾くシーンで、本当に弾いているように見えるのは驚異的なことだ。
 一応公式には「三ヶ月特訓して全てのパートを実際に弾いている」ということになっているが、実際に弾いているかどうかはたいした問題じゃない。
 「実際に弾いているように見える」だけで充分スゴいのだ。

 

 ピアノでコレが出来るんだったらさぁ、ダンスも歌ももうちょっと特訓してよ、っていうね、、、

 

 正直、ピアノなんてどうでも良くね?吹き替えで良くね?
 ヒトはピアノを弾いている指を見ていてもたいして楽しくない。
 しかし、上手なダンスを見たり歌を聞いたりするのはそれだけで楽しいのだ。
 ミュージカルってそういうことでしょ?
 ピアノ練習してる暇あったらダンス練習してよって思う。

 

 ラストのライアン・ゴズリングの前髪などハラリと垂らした顔のアップだけで全てを語るカットなど観ると、どうしてもライアン・ゴズリングでやりたかったというのも分からないでもない。
 この映画に見合う歌と踊りが出来るイケメンや美女など、ブロードウェイに行けばいくらでもいるような気がするが、それではストーリーの説得力というものが出ないのだろう。

 

 フレッド・アステアもジーン・ケリーもいない、ジンジャー・ロジャースもレスリー・キャロンもいない現代では、いい役者をある程度鍛えてヤラせる、というのが、デイミアン・チャゼル監督の結論なのだろう。

 

 ところでこの映画の切ないラストは、ネット上では「秒速5センチメートル」に似ていると言う説が猖獗を極めているが、ワタクシ空中さんは、「横道世之介」に似ているな、と思った(「秒速5センチメートル」を観ていないせいもあるが)。

 

 ラスト直前、二人はラブラブなので、カノジョが「パリへ行く」と言い出しても、カレはさほどショックを受けない。二人の絆は堅いので、何の心配もない。よろこんでパリへ送り出す。
 ココから数年後のラストへ至る展開は「横道世之介」とそっくりだ。

 

 カノジョの行き先がパリであること。
 その後の展開の理由が提示されないこと。

 「横道世之介」とまるで同じではないか。
 パリにはオンナを狂わせるなにかがあるようだ。

JUGEMテーマ:映画

at 21:13, 空中禁煙者, 洋画

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「キングコング 髑髏島の巨神」 秘境探検映画の終焉

 実を言うと以前ピーター・ジャクソンの「キングコング」を観て、ちょっと感動してしまった事があるワタクシ空中さんではありましたが、今回はそんな心配はありません。

 コレは、我々の知っている、巨猿がニューヨークに連れてこられて見世物にされて、美女をさらってエンパイアステートビルに登る、あのキングコングではない。
 そもそもコングは髑髏島を出ないのだ。

 

 「ローグ・ワン」の監督、ギャレス・エドワーズの前作、(何度目かの)ハリウッド版「ゴジラ」に出ていたケン・ワタナベは「MONARCH」という訳のわからない組織に属していたが、本作のジョン・グッドマンもMONARCHのヒトである。
 つまり、シリーズ物なのだ。

 本来のキングコングのテーマも捨てて、摩天楼を登るエテ公、という魅力的な絵も捨てて、何をやっているかというと、まあ、プロレスです。

 エテ公とヘリコプターのプロレス。
 エテ公とわけの分からん後ろ足のないトカゲとのプロレス。

 要はこの映画はコレだけです。

 

 で、コレがつまらないかというと、けっこう面白かったのね。
 プロレスとして面白い。

 

 モーションキャプチャーを使ったコングの動きが、もう、ダイナミック。
1 975年のラウレンティス版(ジョン・ギラーミン版とも言う)「キングコング」で、「ロボットコングが動く!」とか言ってて操り人形以下の動きが5カットくらいしかなかったの比べると、隔世の感がある(そりゃそうだ、およそ半世紀前だもの)。

 

 例えばさ、ジャンプしたコングが振り下ろした拳でヘリを叩き落とすシーンでさ、モーションアクターがただ、拳を振り下ろしただけじゃダメなわけじゃん?
 インパクトの瞬間、振り下ろすスピードが一瞬落ちてるはずじゃん?
 そのへんまで含めてやってる感がある。

 

 横からスタッフがモーションアクターになんかヘリ的なものを放り投げてるんだろうか。
 なにを放り投げてるんだろうか。
 プラモのヘリだろうか。
 わざわざそのために組み立てたんだろうか。
 ・・・どうでもいい。

 

 あとコレは昔から不思議なんだが、時間的には充分あるはずなのに、どうしてもうちょっと秘境探検モノ的なワクワク感が出ないんだろう。
 昔の怪獣映画はもっと短い上映時間で秘境探検モノのワクワク感が醸し出せていたようなきがする。
 コレが「世界が狭くなった」ということだろうか。
 この世界から秘境が無くなったということだろうか。

 

 この1973年が舞台の映画にしてからが、髑髏島は衛星画像で発見されるのである。

 なんとなく、現代において怪獣映画が不可能になってしまった事を予感させる一本ではある。

 

 DVDのジャケットも、必死で「懐かしい秘境探検怪獣映画」感を出そうとしているが。

 秘密機関「MONARCH」を題材にしたこのシリーズ、次はいよいよ「ゴジラ対キングコング」だそうだが、大丈夫なんだろうかと思わざるを得ない。

 

 つか大昔の東宝映画じゃん!!

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at 21:02, 空中禁煙者, 洋画

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「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」 ラストでダースベイダーが全部持って行きます。

 この作品を観ると、スター・ウォーズ本編が、

 

・フォースをめぐる云々
・スカイウォーカー家の血統をめぐる云々

 

の二点によって、冒険活劇としてはかなりいびつな構造になっていることに気付かされる。

 

 第一作「新たなる希望」こそ古今の冒険活劇のエッセンスを集めた様な作りだったが、二作目の「帝国の逆襲」を観た我々は、実はコレが血統をめぐるストーリーであることに驚かされ、さらに前作にもチラリと出てきてはいた「フォース」が思いの外重要なファクター、いや、むしろ主要なテーマである事を思い知らされた(そして不思議な事だが、その「帝国の逆襲」こそが今のところ全シリーズの中で一番面白い)。

 

 そして、以後のシリーズは徹底的にスカイウォーカー家の血統とフォース(とそれを使いこなすジェダイ)のハナシとして展開していくのだった。

 

 そんな中、本作はスカイウォーカー家の血統からもフォースからも自由であり(ある程度影は落としているが)、シンプルな、正しい冒険活劇になっている。

 

 コレはあくまでも不良娘が親の仇と銀河の平和のために、たいして仲良くもない仲間と共に命がけで悪の帝国と戦うハナシなのである。

 

 ミッションとしては「デススター設計図の奪取」であるが、一応主人公の不良娘にはこのミッションを遂行する必然性があるのが、ストーリーをドライブするエンジンになってはいる。

 

 こういうハナシは手練の監督に任せると「帝国の逆襲」のような傑作になるのだが、2014年のハリウッド版(レジェンダリー版と言うべきか)「GODZILLA」のギャレス・エドワーズ監督は、まだまだ「手練」と呼ぶには遠い。

 

 が、ところどころアッと驚く手腕を見せて熱くさせることも確か。

 

 どういうわけかチャンバラに光るところがあり、途中にあるドニー・イェンによる剣戟が素晴らしいのはドニー・イェンの実力もあり当然としても、ラストのダースベイダーのライトセーバーによる制圧劇は、シリーズ屈指の強さ恐ろしさ。フォースの使い手がこんなに怖いのはシリーズでも初めてではなかろうか。

 

 って結局フォース出てきてるやないかいッ!!

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at 21:29, 空中禁煙者, 洋画

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「パッセンジャー」 スター(映画) イン スターシップ

 キャッチコピーは

「乗客5000人 目的地まで120年 90年も早く 2人だけが目覚めた 理由は1つーー。」

 

 セックスしたいからです。

 

 とは言うもののコレはけっこう重いテーマのSFである。
 主人公は何度も生と死に関する選択を強いられる(筈である)。

 

 例えば。

 

 5,000人の乗客は目的地到達の4ヶ月前に目覚めて準備をする予定だが、1ヶ月を30日間として、4×30×5,000でのべ600,000日分の食料が用意されている計算になる。
 ところが二人であと60年船内で生きるとしたら、60×365×2で48,300日分の食料を消費してしまう。
 コレを5,000人で割ると、、、

 アレ?8.76日分かぁ、、、節約すればなんとかなるかな、、、
 着いていきなり自給自足出来ないだろうから、予備の食料積んでるだろうし、、、

 

 イヤイヤイヤイヤイヤイヤ、まだ負けてへんで、、、

 た、例えばですね、この2人がすぐに子供を作ったとして、子供が適齢期になった時にどうするのか。
 他の住人が目覚めるにはまだ70年近くある。
 誰か起こすのか。
 それとも男女が揃うまで生み続けて近親相姦させるのか。
 それとも自分が息子(娘)と近親相姦するのか。
 それともそもそも子供は作らないで、二人だけで老いて死ぬことにするのか。
 それはそれで重要な生と死に関する選択だろう。

 

 この映画、どうも最初の脚本では、そういう問題は全部キレイにクリアされていたらしい。
 ある意味スパルタンではあるが、非常にSF的な方法でちゃんと解決されていたのだ。

 しかし出来上がった作品では、全然そうなってない。
 むしろ曖昧にして逃げている。
S F的には非常によろしくない態度と言わざるをえない。

 

 しかしですね、コレ、多分そういうことが目的の映画じゃないだろうな、、、

 コレは実はハッキリとジェニファー・ローレンスちゃんとそのファンのためのスター映画なのだ。
 相手役のクリス・プラットのファンも見込めるし。
 少なくともこの2人の魅力が堪能できる作りになっていることは否定できない。

 

 美男美女が無機的だが美しい世界(巨大宇宙船の斬新な外見と曲線を多用した内部は素晴らしい)で繰り広げる愛と憎悪と絆の物語、として観れば非常に良く出来てる(ような気がする)。

 

 ただ、ラストカットの曖昧さだけは「ちょっと逃げすぎじゃね?」と思う空中さんであった。

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at 04:23, 空中禁煙者, 洋画

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