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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「レザーフェイス 〜悪魔のいけにえ〜」 自作を汚すトビー・フーパー

 う〜ん、う〜ん、、、この映画を、
 「悲惨な生い立ちの少年がさらに過酷な運命に翻弄されて、結果殺人鬼になっちゃいました」
という映画としてみると、よく出来てる。

 

 『屋敷女』、『リヴィッド』で一気に「フレンチホラー」というジャンルを作り出したフランス人コンビ、ジュリアン・モーリーとアレクサンドル・バスティロフ監督作。

 

 さすがに色んな意味でちゃんとしてる。

 続々出てくる深みのあるキャラクター。
 ひねりのある脚本。
 独特の色彩の深い映像。
 迫力とテンポのあるカッティング。
 間然とするところがない。

 

 でも、ワタクシ空中さんはコレはぜんぜん違うと思う。
 何しろこの映画は「レザーフェイス〜悪魔のいけにえ〜」なのであって、事もあろうにあの、ホラー映画の金字塔、「悪魔のいけにえ」の前日譚であるばかりか、なななんと、あのホラー映画史上最大のアイコン、レザーフェイスがいかにしてレザーフェイスになりしか、を描くというのだ。

 

 コレはオオゴトですよ。
 なにしろ相手はホラー映画史上最大の不条理の体現者である。
 正直言って無理でしょ。
 って言うか絶対やっちゃダメでしょ、そんなこと。

 

 何回も言いますが、「悪魔のいけにえ」は、「なんの解説も無い」ところが偉大なのである。
 なんの説明もなく、ただ、不条理な虐殺だけがそこにある。
 一種の神様である。
 神が存在するのに理由はいらない。
 神は、ただそこにある(つか悪魔だけど)。
 神がそこにある理由など掘り下げて何になろう(つか悪魔だけど)。
 それはむしろ神の威厳を損ねる行為だろう(つか悪魔だけど)。
 つまりはレザーフェイスの圧倒的な不条理感及び恐怖を損ねる行為だろう。

 

 この映画は元祖「悪魔のいけにえ」の生みの親、トビー・フーパーの最後のプロデュース作でそうだ。
 トビー・フーパーといい、「ハンニバル・ライジング」のトマス・ハリスといい、なぜこういう余計なことをして晩節を汚すのだろう。

 

 だいたい、トマス・ハリスですら成功しなかったことを、そう簡単に成功するわけないと思うがどうか。

 ワンチャン、「レザーフェイスはいかにしてレザーフェイスになりしか」を描くことは可能なんだろうか。
 多分、それはワタクシ空中さんが「悪魔のいけにえ」のときに否定し去った、オカルト映画の・ようなものになるのだろう。

JUGEMテーマ:映画

at 03:16, 空中禁煙者, 洋画

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「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー 」 「答え合わせ」のための映画

 ハン・ソロとは即ち退廃の謂である。

 

 能天気を旨とし、その能天気さ故にそのハリウッド映画を一変させ、基本的には田舎の純朴な青年(少年?)と世間知らずのお嬢様を中心に展開する「新たなる希望」の中で、唯一都会の退廃を身にまとって登場したハン・ソロ。
 誰がなんと言おうと「ヤバイな、、、」と思えば交渉相手を先に発砲して射殺するハードボイルドなハン・ソロ。

 

 ほとんど「新たなる希望」の世界観を壊しかねないほどの退廃の体現者ハン・ソロの若い頃を描こうという以上、スタッフ・キャスト一同はこの退廃とどう向き合うかが最大のテーマだったハズである。
 イヤ、テーマであるべきである。
 もう、そうに決まってる。

 

 で、ですね、、、

 脚本は過去のスター・ウォーズ本編でも主要な脚本家だったローレンス・カスダン。
 監督は、作家性はあんまり感じられないが、何撮らせてもそこそこヒットさせる安定の職人監督ロン・ハワード。
 この時点で過去のスター・ウォーズシリーズで一番贅沢ではないか。

 

 キャストもハン・ソロの師にウディ・ハレルソン、その妻にタンディ・ニュートン。
 ファム・ファタール役に「ターミネーター:新起動/ジェネス」の、というよりTVシリーズ「ゲーム・オブ・スローンズ」のエミリア・クラーク。
 これまた過去のスター・ウォーズシリーズの中でも破格の豪華さ。

 

 この、超豪華なスタッフ・キャストでハン・ソロの退廃を描くにあたってで、ですね、
方法論が二つあったと思うわけです。

 

 ひとつは、20代前半で既に退廃してました、という解釈。
 これはこれで、あの退廃のハン・ソロを最初から最後までたっぷり楽しめると思えば素敵ではないか。
 もうひとつは、まさにその退廃を身にまとうに至った瞬間を描く、という手法である。

 

 で、今回脚本・演出陣が採った選択は後者であったかと思う。
 本作開幕時点でハン・ソロは、これまで辛い育ち方をしてきたことは伺えるが、基本的に元気なにーちゃんである。
 さらに劇中でいろいろな苦労をし、裏切りにも会うが、なかなかどうしてハン・ソロは持ち前の機転と明るさで切り抜ける。
 しかし、ラストで手痛い裏切りに会い、そのまま映画は終わる。

 

 多分、脚本のローレンス・カスダンとして、この手ひどい裏切りによってハン・ソロはあの退廃を身につけるに至った、と言うつもりなのだろう。
 しかしロン・ハワードは、それをどの程度意識して演出しているのか、と。

 なんとなく、ロン・ハワードは「新たなる希望」を観ておらず、この後彼がどうなるのかを知らないまま作ってしまったのではないか、という気さえする。

 

 前回の「最後のジェダイ」でも思ったが、いろいろ事情もあって、

 

「あ、別に『スター・ウォーズ・サーガ』好きなわけじゃないけど。一応やっとけば映画史に名前残るじゃん?』

 

的なノリのスタッフで作っていかざるを得ないのかもしれない。

 

 まあ、あとは普通に良くできたスペース・ウェスタンですぅ、、、と言っとけば良いような気がする。

JUGEMテーマ:映画

at 01:34, 空中禁煙者, 洋画

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「スプリット」 オチにはあんまり期待しないでください、、、

 「エア・ベンダー」「プラネット・アース」と連続して大作に挑戦して連続して大コケしたシャマラン監督ではあったが、一旦低予算に戻って新規巻き返しを図った前作「ヴィジット」がかなりの良作だったためか、徐々に予算も戻ってきたようである。
 別に金かかってるなぁ、、、という感じもしないが、題材と規模がマッチしていてビンボ臭さは全く無くなった。

 

 何度も何度も書いているが、シャマラン先生は初期作品を

 「父子モノ」+「丁寧な演出でジャンル映画をひっくり返す」+「衝撃のオチ」

の三題噺で乗り切ってきたヒトである。
 しかし前作、「ヴィジット」以降、なぜか「父子モノ」要素がすっぽり抜けた。
 むしろこの二作では「父の不在」が大きなテーマになっている。
 何があったんだシャマラン、、、

 

 で、次の「丁寧な描写でジャンル映画をひっくり返す」ですが、コレは、もう、堂々とやり切ってます。
 コレがシャマランです。

 

 あえてジャンル名を一言で言うなら、「多重人格」モノ。
 映画界では「ジキル博士とハイド氏」以来、数々のヒット作を生んできたジャンルではある。
 「サイコ」とか「絞殺魔」とか「殺しのドレス」とか。
 そしていままでの多重人格モノがせいぜい二重人格くらいしか扱ってなかったのに対して、ある程度現実に即していきなり23人格という設定になっています。
 いわゆる解離性障害は一度始まるとどんどん人格が増え続けるものである、という説があるのだ。
 23人格、と言うのは「24人のビリー・ミリガン」がヒントになっているのかもしれない。

 とはいうもののの、映画の中で23人格全部描かれるわけではない。出てくるのはせいぜい、4〜5人。
 しかし4〜5人とは言えちゃんと描き分けできているのはさすが。
 安易に精神世界をビジュアル化したりせず、「会議」「照明」という言葉を使ってうまく説明している。
 そしてその演出を可能にしたジェームス・マカヴォイの演技力。
 メイクもカツラも使わず(メイクは実は使っているのかもしれないが)、女性や子供の人格を演じ分ける「演じ分けっぷり」は伝説級と言って良いのではないか。

 

 この多重人格者が、3人の女子高生を誘拐する。
 実は誘拐するつもりだったのは二人だけで、3人目は偶然くっついてきちゃった、というのがミソ。
 そして、この多重人格者はなぜ、なんのために、少女を誘拐するのか、というサスペンスで映画を引っ張る。

 

 もう一つ引っ張るフックは、もうひとりの重要登場人物、精神医学者の老嬢である。
 彼女は「解離性障害の人格は肉体に影響を及ぼす」という、学会では全く評価されていない説を唱えており、ジェームズ・マカヴォイ演ずる患者は彼女の説を立証する検体だと考えている。
 つまり彼女こそがジェームズ・マカヴォイ演ずる多重人格オトコの本質を「見極めかけている」のだが、一方で多重人格オトコは彼女に「本当の真実」、つまり彼女の想像以上に彼が「人格の変化によって肉体が影響を受ける」人間であることを悟られまいとしている。
 彼女と面接しているときに、彼女が「今自分が会っていると思っている人格」と、実際に会っている人格は実は違うのだ。
 この辺も実にスリリングで、よく描き分けているなぁ、という感じ。

 

 人格が肉体に影響を与える、という描写をあまり露骨にやっていないのもエラい。
 別に女性人格のときに胸が大きくなったりはしない。ウィッグくらいつければいいのに、と思うほど。
 しかし、9歳児の人格になっているとき、背が縮んでいるようなカットが一瞬あって、ゾクッとさせられる。

 

 そんなこんなで徐々にラストのカタルシスへと映画はひた走るわけですが、、、

 

 えーっとですね。
 世の中には、「シャマラン問題」と呼ぶべきようなものがありますよ、と。
 我々シャマラン映画のファンも含めて、全ての映画ファンは、シャマラン映画を観るとき、この「シャマラン問題」と向きあう必要がある。


 以前からワタクシ空中さんは、シャマラン映画とは、

 

 「父子モノ」+「丁寧な演出でジャンル映画をひっくり返す」+「衝撃のオチ」

であると申し上げておるわけです。
 ところが、「衝撃のオチ」については、毀誉褒貶入り乱れて複雑である、と。

 

 例えば、ですね。
 シャマラン監督の名を一気に世に知らしめて恐らくは今の所最大のヒットであろう、「シックスセンス」とか前作の「ヴィジット」とかは、「丁寧な演出でジャンル映画をひっくり返す」と「衝撃のオチ」の関係性が、「大どんでん返し」として奇跡的にうまく機能している部類であろう。

 ところが、「アンブレイカブル」とか、ワタクシ空中さんの大好きな「サイン」、或いは「ヴィレッジ」等においては、「どんでん返し」というよりは、単なる「肩すかし」担ってしまっているのではないか、と。

 

 ワタクシ空中さんの大好きな「サイン」などはですね、「妻の死によって信仰を失った牧師が、奇跡を目の当たりにして進行を取り戻すハナシ」として傑作だと思うわけですが、どうもコレ、「宇宙人が攻めてくるハナシ」として観るヒトがいるらしく、そういうヒトから観ると、このラストは「はあぁ〜?!!」となるらしい。
 なるほど言われてみればそりゃそうだろうな、と思う。

 「ヴィレッジ」にしてからが、「人里離れた村になんかバケモンが出て少女が襲われる昔バナシ」を期待してみたヒトが「はあぁ〜〜〜〜〜!?!?!」となるのは想像に難くない。

 

 シャマラン映画は常にこの危険を孕んでいる。
 ヤラレタ!と唸る大ドンデン返しなのか、はぁ〜?!と呆れる肩すかしなのか。
 成功したか失敗したかではない。
 「サイン」はアレで成功なのだ(「ヴィレッジ」はもう少しうまく出来んかと思うが)。
 受け手側の問題でもあるのだ。

 

 で、肝心の本作がどっちなんだい?ってことですが、、、

 コレがどんでん返しとして機能してるかどうかは、まさに受け手に委ねられてる感じだなぁ、、、
 ほとんど、シャマランファンにしか訴求しないオチで、一本の完結した映画として金を払った観客に対して不誠実のような気がしないでもない。
 でも、また観ちゃうんだろうなぁ、、、
 なぜならシャマランファンだから。

JUGEMテーマ:映画

at 21:23, 空中禁煙者, 洋画

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「ロスト・シティZ 失われた黄金都市」 マジメかっ!!

評価:
デヴィッド・グラン,ジェームズ・グレイ,ブラッド・ピット
¥ 3,068

 タイトル及び「インディ・ジョーンズのモデル」という宣伝から想像して、血湧き肉躍る冒険活劇かと思ったら、全然違った。

 もう、全っ然違った。
 怖いくらい違った。

 

 コレは、非っ常〜〜に真面目な伝記映画です。

 

 20世紀初頭のイギリス陸軍少佐、パーシー・フォーセットは、ブラジル、ボリビア政府から依頼された王立地理院、から依頼されたイギリス陸軍、の命令で、ブラジル、ボリビア国境をなすアマゾン川の源流の調査に赴くことになります。
 艱難辛苦の末(どれくらい艱難辛苦かといいますと、ですね、探検隊の半数以上死んじゃうくらい)、アマゾンの源流に達したパーシーさん、そこで古代の土器を見つけちゃったもんだからサア大変、コレ以降パーシーさんの人生は、「アマゾン奥地の古代都市探し」に支配されちゃいました、というハナシ。

 

 伝記映画には2種類ある。
 描かれている本人が、実際よりも映画的にエグく、ドギツく描かれている場合と、本人か遺族、或いは子孫に配慮してか、実際よりフツーの人物として描かれている場合。
 本作は明らかに後者だ。

 

 ネットでサラッとパーシー・フォーセットさんの人生をさらってみると、映画に描かれている以上にアマゾンの狂気に取り憑かれ、周りに迷惑をかけまくった厄介なヒトであることが分かる。
 なにしろ映画では3回しかアマゾンに行ってないが、実際には6、7回行ってる。ほとんど精神異常者のレベルなのだが、映画ではあくまで高潔な人物として描かれている。

 

 脚本、監督のジェームズ・グレイ氏が真面目すぎるんだろうな、という感じ。
 秘境探検のサスペンスや物珍しさに頼ることなく、むしろイギリス国内での権力闘争や家族の葛藤に時間を割いている。
 

 家族の葛藤もあまり激しいものではなく、妻のニーナはいつも(いつまでも)良き理解者である。
 長男も、家を空けてあまり意味があると思えない冒険行にうつつを抜かす父親に一時激しく反抗するが、最終的には同行を求めたりする。
 長男は実際にアマゾンに同行するのだが、実際の葛藤はこんな生易しいもんじゃすまないだろう。
 なにしろ最終的には陸軍中佐でありながら、電気も水道も来ていないあばら家に住むことを余儀なくされるのだ。アマゾンに行くための資金を捻出するために、先祖伝来の家財まで売り払ったらしい。
 こんな親父いたら溜まったもんじゃないだろう。

 

 しかし、映画はダリウス・コンジによる映像で、あくまでも美しく進む。
 イギリス国内の逆光気味のけぶったような空気感と、ギラギラとしたアマゾンの対比は見事である。

 

 この美しい映像と、抑えた演出で、ラストのアマゾンでの出来事など、かなり悲惨な状況であるにもかかわらず、なんかふわふわとして、不思議な印象をのこす不思議なラストになっている。

 

 主演は「パシフィック・リム」のチャーリー・ハナム。
 銃の名手でフォーセット氏に長年付きしたがう相棒に、ハリポのセドリック役だった、というか「トワイライト」シリーズのロバート・パティンソン。終始ヒゲモジャで誰だかわかりませんが。

 

 スピルバーグが撮ったらもっと悲惨な映画になっただろう。
 ピーター・ジャクソンが撮ったらジャングルばっかりの映画になっただろう。
 しかしそのどちらでもない。
 そんな映画。

JUGEMテーマ:映画

at 01:47, 空中禁煙者, 洋画

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「グレイテスト・ショーマン」 ミュージカル版「フリークス」

 えーっとですね、これは19世紀末に実在したアメリカの興行師、P・T・パーナムの生涯を映画化したミュージカル映画です。
 スコアは「ラ・ラ・ランド」と同じ作詞作曲コンビ。「ラ・ラ・ランド」以上に「熱い」曲を聞かせてくれる。
 そして主演はヒュー・ジャックマン。その相棒に「ハイスクール・ミュージカル」のザック・エフロン。その他デンゼイヤだのキアラ・セトルだの、歌って踊れるヒトが大挙して出演してます。
 つまり、ミュージカルとしての出来は「ラ・ラ・ランド」より全然上。
 ちょっとだけ、往年のハリウッド映画のようなワクワク感が楽しめます。

 

 で、ですね。

 今ではすっかり映画大好き中年(初老説あり)がまだ映画大好き少年だった頃、一部マニアな映画好き(サブカル好きと言っても良いかもしれない)の間で密やかに語られる一本の映画があった。

 

 その映画の名は「フリークス」。
 トッド・ブラウニング監督作。

 

 この映画の何がそんなにマニア受けしたのかというとですね、この映画、なんと、ホンモノの身体障碍者(英語でいうとフリークスね)が大挙して出演しているということなのよ。
 要は見世物小屋のハナシなのである。

 重度の身体障碍者ばかりを集めた見世物小屋。

 現在ではとても許されない興行形態だが、当時は当たり前のようにあったらしい。
 いや、現在では許されないどころか、当時でもこの映画は「不道徳」とされ、イギリスでは30年間上映禁止の憂き目にあったそうである。
 さらに当時映画監督としての評価をある程度固めていたトッド・ブラウニングはコレ一発でキャリアが破綻してしまう。
 それほどヤヴァい映画なのである。

 

 それでもこの映画がカルト映画として評価されているのは、フリークスたちが自分たちを騙して命さえ奪おうとした「健常者」に、一致団結して「ある嵐の晩に」復讐を果たす、という勧善懲悪ストーリーであり、ある意味フリークスの「魂の解放」を謳い上げているからでもあるだろう。
 一方ではシャム双生児の姉妹の片方にキスするともう一方が顔を赤らめる、など、極めて卑賤かつ不道徳な興味に訴えるための映画でもあるのだが。

 

 そして、今、何より重要なのは、ですね、この「フリークス」、実はこの「グレイテストショーマン」の舞台となっている、P・T・バーナムのサーカスがモデルなのである。
 その証拠に、「フリークス」に出ているフリークたちの殆どは、バーナムサーカスからの借り物だ。
 つまり、ミュージカル映画「グレイテストショーマン」は、あの、おどろおどろしいカルト映画「フリークス」の上に成り立っているのだ。

 

 そう考えると、「グレイテストショーマン」はなんか欺瞞に満ちているなぁ、という気もしている。
 例えば「グレイテストショーマン」で言うところの「ショー」とは、ヒュー・ジャックマンを中心とした歌って踊るブロードウェイのレヴューのような内容だが、そんな訳はない。
 実際はもっと静的な、おどろおどろしい、猟奇的で、不道徳なものだったはずだ。

 挙句の果てに、ヒュー・ジャックマンがオペラ歌手の興行に同行する間、よそから引き抜いてきた演出家、ザック・エフロンがヒュー・ジャックマンの代わりにショーの中心で歌って踊りやがる。
 演出家じゃなかったのかよっ!!

 

 さらに言えば「障碍者を見世物にしよう」と言い出すのが、パーナムの無垢な娘に設定されている、というのも欺瞞の匂いがする。
 「大人が障碍者を金儲けの道具にしようとしたんじゃないよ。無垢な少女の発想だよ」ということだろうか。

 

 劇中、パーナムがサーカスを離れてオペラ歌手の興行で大成功を収めた際、上流階級のヒトビトを集めて大規模なパーティーが行われるが、フリークスたちも我が事のように喜んでパーティーに参加しようとするが、なんとパーナムによって拒否されてしまう。
 このシーンはやはり全編の白眉だろう。
 この後のフリークスたちの絶望と怒りは、このシーンに続くフリークスたちの怒りのパフォーマンスと曲の良さによってビンビン伝わってくる。
 一瞬、この映画の欺瞞が、真実へと突き抜けそうだ。
 しかしこのパフォーマンスもまた、パーナムの復権への伏線へと回収されてしまうのだが、、、

 

 ワタクシ空中さんは、冒頭に書いたようにこの映画のミュージカルとしてのパフォーマンスと、伝記映画としての面白さを評価する。
 しかし、この映画を純粋に楽しめたとしたら、この映画に潜む数々の欺瞞を、ご自分の中でどう対象化されているのか、よくわからない。

 そして、ついでに言えば、この難しいテーマに敢えて挑戦した理由自体がよくわからない。
 障碍者たちの魂の解放を、ヒュー・ジャックマンのミュージカルスターとしての実力を借りて表現しようとしたんだろうか。

 ワタクシ空中さんにはどうにも対象化出来ない映画であった。
 そして、自分の中でうまく対象化出来ないことと、面白い面白くないは、また別だったりするから、難しい、、、

JUGEMテーマ:映画

at 20:58, 空中禁煙者, 洋画

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「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」 ヨーダ師匠がCGからマペットに戻りました。

 えーっとですね、過去にワタクシ空中さんがそのハードボイルドな演出力をホメちぎった、「Looper/ルーパー」のライアン・ジョンソン監督作品なわけですが、、、

 ついに、「スター・ウォーズ」を全然好きじゃないヒトが「スター・ウォーズ・サーガ」の脚本、監督をする時代が来たのかな、と言う印象。

 

 ワタクシ空中さんはコレからもライアン・ジョンソン監督に注目するつもりではいるが、多分、ライアン・ジョンソン監督はコレまでリアルタイムでスター・ウォーズを追っかけるような層ではなかったのではないか。
 下手をすると過去作なんて観てなくて、誰かから口頭で「コレまでのイキサツ」を聞いただけで脚本に取り掛かったような印象さえある。

 

 結局、我々オールドタイマーはエピソード検平靴靴ご望)とエピソード后閉觜颪竜媾院砲箸里箸の興奮を懐かしんでいるだけであって、年若いヒト、取り立ててスター・ウォーズを観てこなかったヒトには関係のないハナシである。

 そもそもルーカス自身で監督したエピソード機↓供↓靴あの体たらくなのだから、ルーカスさえ手を引いてしまった第三期に期待するほうが無理なのだろう。

 

 要するに、コレはマーチャンダイジングのためにある映画なのだろう。

 結果的に、なんのために存在するのかわからないキャラやストーリーラインで飽和している映画になった。

 

 なんのためにいるのかわからないキャラは前作から満載だったが(その代表がポー・ダメロン)、今回も次から次へと出るわ出るわ。
 フィンと一緒に冒険に出る新キャラ整備士のローズもなんのために出てくるのかわからないが、コレはそもそも二人の冒険自体の意味がよく分からないからでもある。
 二人の冒険行自体がさんざん尺とったあげくに無駄になるのもいかがなものかと思うが、そもそもスグ眼前に迫っている敵の攻撃を食い止めるために別の星系までいく、という時間感覚がわからない。瞬間移動装置でもなければ、あんな小型の宇宙船に乗ってえっちらおっちら出掛けていって間に合うわけ無いではないか。
 更にこの冒険の途中で出会ったベネチオ・デル・トロに至っては、まるで無駄である。そりゃベネチオ・デル・トロだってスター・ウォーズ一本出ておきたかったろうけどさ。

 

 もう、いちいち言っててもしょうがないけどさ、ローラ・ダーンも無駄でしょ?突然出てきて消えていくっていう、そりゃローラ・ダーンもスター・ウォーズ一本(以下略

 

 そして、これだけは言っておきたい。
 スター・ウォーズサーガ最大のヒーローであるルーク・スカイウォーカーと、スター・ウォーズサーガ最後の悪役であるカイロ・レンとの対決が、あんなくだらない理由で行われて良いのか。
 ファースト・オーダー側には当然、そう、当然のごとく飛行機械があるわけで、あんなことで時間稼ぎしてもブゥ〜ン!って飛んで探しに行けばすぐバレね?

 小学生が秘密基地から脱出するんじゃないんだから。

 

 要するに、おそらくは第三期の大きなストーリーラインは出来ているのだろう(多分、J・J・エイブラムスの手によって)。
そして、そのストーリーラインでは、映画三本埋められるだけのダイナミズムがないのだろう。
 だから仕方なく、ダラダラとどーでもいいエピソードで時間を埋めているのだろう。ついでにマーチャンダイジングも発生するし。

 そうとでも思わないと理解できない映画でした。

JUGEMテーマ:映画

at 20:56, 空中禁煙者, 洋画

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「エル ELLE」 ミスター・グッドバーなんか探さない。

 冒頭、いきなりレイプシーンから始まる。
 この映画は、通常の映画のように、ラストのカタルシスに向けて徐々にボルテージを上げていく作りではないのだな、と思い知らされる。
 いきなりボルテージをボンッ!!と上げておいて、そのままベターっと面白い、日本で言えば相米慎二や園子温のような映画なのだ。

 

 そう。
 日本でこの映画を撮るとしたら園子温だろう。

 

 「Elle」には普通ならそれだけで一本の映画が撮れるようなテーマが二つも三つも投げ込まれている。

ー膺邑の父親は数十年前(40年位?)、ご近所さんを23人ぶち殺した有名大量殺人犯であり、主人公は未だにそのせいで差別を受けている。

 

⊆膺邑は映画の冒頭でレイプ被害にあう。

 

主人公は数十年来の親友にして会社でも右腕の女性の旦那と不倫をしている。

 

 どうです?
 どれ一つとってもそれだけで一本の映画になりそうでしょ?

 

 ところが、だ。
 コレらは全てある一つの事を表現するための背景に過ぎない。
 ある一つの事とは、主人公ミシェルの複雑かつ強靭な人間性だ。

 

 映画の中でミシェルに降りかかるすべての事象は、ただ、ミシェルの人間性を際立たせるために存在する。

 この映画はレイプ事件だの親族の殺人者だの不倫だのを通して、ミシェルの人間性を描いているのだ。

 

 事件ではなく、人間を描く、というのは、ある意味映画的というよりは文学的なあり方だ。
 しかしコレを一気にあまりにも映画的な映画に引き寄せているのが、ミッシャルを演じるイザベル・ユペールの圧倒的な、文字通り圧倒的な身体性であり、演技力であり、女優としての腰の座り方である。

 ワタクシ空中さんは当然ポール・バーホーベンの映画だと思って観始めたが、観終わってみればコレは完全にイザベル・ユペールの映画であった。

 

 多分、バーホーベンは自分の映画がイザベル・ユペールに乗っ取られていくのを見て、
「しめしめ、こりゃスゲエ映画になるぞ、、、」
とほくそ笑んでいたに違いない。
 それくらいスゴいです。

 

 ミシェルはレイプされても泣き叫んだり狂ったようにシャワーを浴びたりしない。
 淡々と割れた花瓶を片付け「寿司」のデリバリーを頼む。
 息子が訪ねてくる予定だったのに(レイプ事件のせいで)食事の準備をしておらず、デリバリーで済ますことにしたのだ。
 そして「ハマチ」を注文し、「ホリデー巻き」とはなんなのか、電話の相手に尋ねる。

 

 しかし彼女はレイプなんか大したことないと考えてるわけではない。
 スタンガンと斧を買い込み、しまいにゃ射撃の訓練を始める。
 完全に今度来たら殺すつもりなのだ。

 

 彼女が警察に頼らないのは、自分が8歳のときに起きた父親の殺人で、自分も「何らかの役割を果たしたのではないか」と疑われたことから、警察を一切信用していないのだ。

 やはりコレが彼女の原点なのかな、という気もする。

 

 そして家族でレストランで食事をしているとき、突然「レイプされた」と告白する。
 家族が慌てふためくと、
「ああ、やっぱり話すんじゃなかった。このハナシは終わり」
と一方的に打ち切ってしまう。
 普通の人間はレイプを深刻に受け止める、あるいはレイプ被害者は深刻に受け止めるはずと思っていることを忘れているのだ。

 

 こんな人物像を、魅力的に、美しく演じることができる人類が存在するとは、バーホーベンも想定外だっただろう。

 

 ワタクシ空中さんは、観ていてなんとなく1977年の傑作映画「ミスター・グッドバーを探して」を思い出していた。
 40年の時を隔てて同じように性に放埒な女性を描いているが、そのラストの違いは、この40年における女性の生き方に関する考え方の変遷を強烈に感じさせる。
 ミシェルはミスター・グッドバーなんて最初からいないことを知っている。
 だからわざわざ探さずに手近にいる男で済ませる。
 そして、暴力を振るうオトコには自らケリを付けるのだ。

JUGEMテーマ:映画

at 21:05, 空中禁煙者, 洋画

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「ブレードランナー2049」 長い。そしてしつこい。 

 リドリー・スコット監督はひとつのことにこだわり始めると延々とそればっかりやり続けるヒトで、昔は「迷宮に囚われてそこから抜け出そうと努力し続けるヒト」の映画ばっかり撮っていた。
 で、どこで転換期があったのかよく分からなくなってしまったが、最近はまた別のテーマに囚われているらしく、本作は「エイリアン:コヴェナント」と同じテーマである。

 

つまり、

 

「被造物だったものが造物主になる」

 

コレである。

 

 人間はレプリカントを作った。
 コレだけならただ道具を作っただけであり、ハサミや自動車を作ったというのと本質的には変わりはない。
 そこで「ブレードランナー」ではフィリップ・K・ディックの原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の逆を突いて「レプリカントも人間だ」と言う結論に達していた。

「なぜなら共感能力があるから」。

 

 ディックとしては共感能力の有る無しが人間の条件だ、と言いたかったのだろう。

 

 「アンドロ電気羊」のアンドロイドは人間ではない。
 「なぜなら共感能力が無いから」

 

 「ブレードランナー」のレプリカントは人間である。
 「なぜなら共感能力が有るから」

 

 多分、ディックは周囲の共感能力があるとは思えない、非人間的なヒトたちに悩まされていたのだろう。

 

 今はそんなことはどうでもいい。

 今、コレを書いていて、ン十年前の入ゼミ面接のときにこのハナシをしたことを思い出したけど。

 

 レプリカントには共感能力があった。
 人間は共感能力が有る被造物を作った。
 それはそれでいい。

 だがそれで人間は神になったと言えるのか。
 ただ、とても便利な(高度な)道具を作っただけではないのか。

 

 中学の「科学第二分野」で習ったところによると、それが生命であるためには次に挙げる3つの条件が必要である。

 

1.細胞(自他の区別)がある。
2.呼吸(代謝)している。
3.繁殖(成長)する。

 

 レプリカントは1.と2.はクリアしてそうである。
 問題は3.だ。

 「ブレードランナー2049」は、つまり3.をめぐる映画なのだが、、、

 

 30年前、ブレードランナーのデッカードと逃亡したレプリカントのレイチェルは、どうもデッカードの子供を産んだらしい、、、
 そして本作の主人公、自らもレプリカントであるブレードランナー「K」は「レプリカントの妊娠」ともし事実生まれていたなら子供はどこへ行ったのかを調査し始めるが、、、

と言うハナシ。

 

 レプリカントが繁殖するというのは、スゴいといえばスゴい。
 レイチェルの出産に立ち会ったらしいレプリカントも、「奇跡」と表現している。

 だけどですね、コレが例えば「神の御業」とか、自分たちで踏ん張って繁殖できるように改造したとかなら奇跡だけど、「タイレル社長がそう作った」って言っちゃったら、奇跡でも何でもなくね?
 いやタイレル社長はスゴいけど。

 

 なんかスジとしては「タイレル社長は何故そんなにスゴいのか」を追求すべきな気もするけど、そこはスルー。
 ただ、なんか知らんがスゴいスゴいって言ってるだけ。
 ちょっとピントがズレてる気がするけど、オレがSFマニアだからそう思うだけなのかなぁ、、、

 

 この映画がやたら長い原因は、実はこの映画にはもう一つ焦点があるせいでも有る。

 レプリカントであるブレードランナー「K」と、「市販用」AIであるジョイとの恋愛である。

 

 ジョイはそこらじゅうでCM打ってるフツーのホームインフォメーションシステム(要するにグーグルスマートスピーカーの映像有り型)なのだが、完全にKとお互いに恋愛感情を持っているように描かれている。

 なんだコレは、監督は「エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドだっけ?と思ったが違った。
 「メッセージ」のドゥニ・ヴィルヌーブだった。

 

 実はこの、「人造人間とAIの恋愛」だけでも、映画一本撮れるだろう。
 コレを一緒に一本の映画でやろうとしたら、そら長くなるわ。

 

 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は「メッセージ」でもそうだったが、全体的に画面が白っちゃけていて平板な印象。
 極彩色を毎度おなじみの蒸気で隠して陰影の深い映像を作るリドリー・スコットとは真逆の印象でもある。

 

 実はヴィルヌーブ監督の「ボーダーライン」も観ているのだが、三作並べての共通点は

「砂っぽい」

 

コレである。

 

 全部砂漠が舞台になっていて、なんか観ていると口の中がジャリジャリしそう。

 なんでヴィルヌーブに任せたんだろうか。
 いっそ、アレックス・ガーランドに撮らせればよかったのに。

 

 あと納得行かないのは、デッカードの扱いである。
 リドリー・スコットははっきり「リック・デッカードもレプリカントである」と言っていて、そのためのディレクターズ・カットだったはずである。

 しかるに本作のデッカードは30歳分年を取っていて、しかもいやしくも「子供ができた」というのなら、母親ほどではないが父親のヒトとしての機能も問題になる筈であるが、どうもそのへんを気にしている様子がチョットも無い。
 要するに「人間だ」と言う方がハナシが通じやすい作りになっている。

 

 なんだコレは。
 おま、フザケンナよ、と言いたい。

 

 結果としてレプリカントの繁殖のハナシもレプリカントとAIの恋愛のハナシも中途半端で、長い上に退屈な映画になってしまった。

 もう、ジョイ役のクッソ可愛いアナ・デ・アルマスちゃんを眺めている時間しか、映画的な時間じゃなかったような気さえするワタクシ空中さんであった、、、

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at 21:06, 空中禁煙者, 洋画

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「エイリアン:コヴェナント」 願わくば、これ以上ボケる前に続編を作って完結させてほしい、、、

 リドリー・スコットは「エイリアンの起源を描く」と言って前作「プロメテウス」から始まる「前日譚三部作」を始めたそうだが、そもそも「プロメテウス」の段階で全然そうなってない。

 「プロメテウス」はエイリアンどころか人類の起源を探るハナシだったし、今作でもエイリアンの新種がどんどん出てくるが、別に起源なんか探っちゃいない。

 コレで一体全体どうやって「エイリアン」に繋げるつもりなのか、サッパリわからない。
 ていうかどう考えても繋がるわけない。

 

 コレはつまり、そもそもリドリー・スコットはエイリアンの起源なんか描くつもりはチョットも無い、ということだろう。
 最初から出資者を騙す嘘なのだ。
 コレで大予算ぶんどって堂々と自分のやりたいことやっているのだから、大したものである。
 さすが今の映画界を代表する巨匠というしかない。

 

 じゃあ、出資者に嘘ついてまで金集めて一体全体ナニをやっておるのか、と。
 コレが、ですね、

「種の起源と神」

についてやってます。

 「2001年宇宙の旅」が「進化と神」についてやってのとちょっと似ている。

 

 似ているがちょっと違う。

 「2001年」が「進化のトリガーを弾いているのは高度な宇宙人である」と言っているならば、例えば「プロメテウス」は「人類の起源は高度な宇宙人である」というようなハナシをやっていて、「コヴェナント」は「AIは人類の被造物である」というようなハナシになっている。

 

 つまり、「2001年」の「お猿」の部分がないのである。
 進化しないでいきなり出来ちゃって(作っちゃって)る。

 コレってさ、人類はお猿の成れの果てであるって峻厳な現実から目をそらしてるんじゃないの?「2001年」より一歩後退しちゃってるんじゃないの?という気がするが、そこはこの際どうでもいい。

 

 という訳で、順番的に言って次作はAIが造物主になるハナシになるんだろうな、という気がするが、それもどうでもいい。

 

 映画全体の構成として、リ、リメイク?というくらい最初の「エイリアン」に似ている。
 エイリアンもいっぱい出てきて、人間が逃げ惑って、戦って、最初の「エイリアン」と全く同じフォーマットの中で、全く違うことをやっている。

 

 何しろ今回の主役は「プロメテウス」にも出てきたアンドロイドのデヴィッド君である。
 ある意味、これは「エイリアン」に出てきたアッシュが勝つハナシなのかもしれない。

 

 この、「エイリアン」のフォーマットの中で「2001年」をやろうという試みのせいで、映画全体の印象がぼやけていることは否めない。
 どのシーンも面白いのだが、「で、ナニがしたいの?」」と言う思いがどうしてもつきまとう。

 

 そもそも「エイリアン」のフォーマットはリドリー・スコットのものではなく、ダン・オバノンのものである。

 リドリー・スコットも80歳である。黒澤明の昔から、映画監督は歳を取ると映像感覚より、まず、脚本を読む力が衰えるものである。
 リドリー・スコットも脚本で悩んで自分が表現したいテーマを描くのに、昔懐かしいダン・オバノンのフォーマットを利用したのかもしれない。
 ダン・オバノン、もう亡くなってるし(合掌)。

 

 従って、映像感覚は衰えていない。
 デヴィッドくんの部屋のシュールグロテクスな美術など、一見して圧倒される。

 

 お金が使えるんだか使えないんだか、作家性を表現したいんだかしたくないんだか、全てが中途半端なまま、次作「デヴィットくんがエイリアンと人間を合成して造物主ぶるの巻」へとなだれ込んでいくのであった、、、

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at 04:06, 空中禁煙者, 洋画

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「ハードコア」 観る前に酔い止めを飲もう。

 えーっとですね。
 今を去ること1947年に、ですね、「湖中の女」っていう映画が有ったのね。

 

 これが、ですね、世界初の「全編一人称映画」ですよ。
 カメラが主人公の目線になってて、主演のロバート・モンゴメリーは主人公が鏡を見たときくらいしか映らないわけ。
 普通だったら「イヤ監督、主演って聞いてたのに、オレの出番少なくないっすか?」となるところだが、実は監督もロバート・モンゴメリーなんで問題なし、と。

 

 で、「湖中の女」と言えばレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウものですよね。
 この時期のいわゆるハードボイルド私立探偵小説は、創始者のダシール・ハメットのコンチネンタル・オプものから、チャンドラーのマーロウもの、ロス・マクドナルドのリュウ・アーチャーものに至るまで、基本的に一人称で書かれている。
「俺は、、、した」というアレである。

 

 ね?
 一人称小説だから一人称カメラ。
 ロバート・モンゴメリーとしては、一人称小説ってこういうことじゃねーの?と言うつもりだったろう。

 

 ところが、ですね。
 このあと、例えばフィリップ・マーロウものも何度か映画化されているが、この手法を取り入れた作品はない。
 ダシール・ハメットでもない。
 ロス・マクドナルドでもない。
 原作が一人称小説だろうがなんだろうが、どんな映画もこの手法を取り入れてはいない。

 

 要はつまんなかったんでしょうね。
 だって、「主人公が映ってない」んだもん。
 ボギーが映ってない「マルタの鷹」を考えてみれば、面白いかどうか分かりそうなもんだ。

 

 で、「ハードコア」ですよ。
 70年ぶりの全編一人称映画です。

 まあ、驚愕の映像体験ですよ。
 70年前とは技術が違う。
 カメラの大きさが違う。

 二階から飛び降りるわ、爆発でふっとばされるわ、一体全体どうやって撮影してるのか、サッパリわからない。

 ストーリーのノンストップぶりといい、アクション、破壊の激しさといい、観ている間それなりに面白い。
 面白いけれど、やっぱりこの手法は定着しないだろうな、と思う。

 

 70年ぶりの「完全一人称映画」と書いたが、実はほぼ同じ手法が20年くらい前にホラー映画で復活している。
 「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以来のいわゆるPOVと言う奴だ。
 もう、ホラー映画はほとんどこの手法に占領されていると言ってもいい。

 一人称映画とPOVの違いは、一人称映画が一応主人公視点だろうがなんだろうが「完成されたカメラワークである」という前提なのに対し、POVは映画の中で登場人物の一人(つまりシロート)がカメラが持っているという前提が観客に対して明かされている、と言うことだが、それは今はそれほど重要じゃない。

 

 じゃ何が重要かと言うと、「ホラー映画は主人公がカッコよくなくてもいい」と言うことだ。
 コレに対してハードボイルドミステリーの主人公は(そしてアクション映画の主人公も)、カッコよさが絶対条件だということだ。

 

 本作「ハードコア」でどんなに激しいアクションが繰り広げられようと、我々はその主人公の体技や表情がカッコいいかどうか分からない。
 アクションの後どんな見えを切っているのか分からない。
 コレでは観ている間面白くっても心に残るアクション映画にはなりようない。

 

 ストーリーについてちょっと。
 この映画はストーリーもそこそこ面白い。
 ラストのどんでん返しはともかくとして、途中でチョコチョコ姿を変えて神出鬼没の「ジミー」と言うキャラクターの正体など、考えたなぁ、、、と言う感じ。
 ただ、悪のラスボスがサイコキネシスが使える、と言うのが唐突過ぎて意味不明。
 アレ、必要ある?

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at 21:48, 空中禁煙者, 洋画

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