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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「ジュラシック・ワールド」 「ジュラシック・パーク」-SF+アクション

 シリーズ映画というものは三部作で一巡しちゃって、4作目あたりで最初に戻りたくなるものなかもしれない。
 ほとんどリメイクと言ってもいいくらい1作目の「ジュラシック・パーク」と同じである。

 

 そんな訳で、逆に1作目との違いを思い出していくと、この映画のことが判るかもしれない。

 

 一作目は一応マイクル・クライトン原作のマジメなSFであり、「純粋科学の否定」とか、「自然をナメるな」とかシリアスなメッセージが横溢してたりしていたし、作品全体を覆うテーマは当時流行りだったカオス理論だったりする。

 

 なにしろ主人公(古生物学者、サム・ニール)もヒロイン(古植物学者、ローラ・ダーン)も科学者である。
 ハイテク=悪、過去から学ぶ科学=善という図式が、なんとなく、ある。

 

 4作目ともなるとそういうシリアスな部分はすっかり抜け落ちて(ちょっとはある)、よりエンターテインメントとして純化されている様である。
 なにしろ主人公は元軍人(クリス・プラット)で、ヒロインはパークの管理責任者(ブライス・ダラス・ハワード)だ。
 ブライス・ダラス・ハワードは一応科学者という設定なのだが、劇中科学者らしいことはまるでせず、管理者として汲々としている。

 

 エンターテインメントとして純化された分、サスペンス描写やアクションが増えている、
 暴走したハイブリッド恐竜と討伐部隊の対決の緊迫感(と絶望感)など、一作目にはなかった要素だろう。

 

 もうひとつ、一作目と比して明らかな美点がある。

 いくつかギャグが効いている箇所があるのだ。

「手を握り合ってね」といわれ弟だけが手を出す、とか、管制室の若い二人の恋模様とか、なんか妙に生臭いというか、人間臭い笑いどころがあって、ちゃんと効いている。

 コレはスピルバーグ演出ではあまり見られないことだ。
 コリン・トレヴォロウ監督の功績なのだろう。

 スピルバーグ監督、自作のリメイク(のような続編)の演出を他人に任せたせいで、はからずも自らの欠点をさらけ出してしまったのかもしれない。

 

 ラストの暴走ハイブリッド恐竜への対処法など、よく考えられていて視覚的迫力も充分(ちゃんと伏線が引いてあるのも感心した)、監督二作目とは信じられないくらい良く出来てる。「スター・ウォーズ エピソード9」の監督に決まっていたのに降りてしまったのはちょっと残念。

 このシリーズの最大の魅力は、やはり「動く恐竜」にあると思う。CGと判っていても、生き生きと動く恐竜たちの映像には、未だにちょっとドキドキする。
 特に人間と一緒に写り込んでいるとドキドキ感が増すのだが、その辺の見せ方にもうちょっと工夫というかしつこさが欲しかった恨みもある。
やはり「空間の演出」は難しいのだろうな、と思うが、モササウルスのド迫力にだけは、正直ちょっとチビリました。

JUGEMテーマ:映画

at 23:51, 空中禁煙者, 洋画

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「怒り」 この原作を映画化することの難しさから逃げている

 映画はまず、殺人事件の現場検証から始まる。

 

 そして唐突に、東京、千葉、沖縄の三カ所に現れた、3人の素性の知れないオトコ達と、その周辺ののヒトビトの人生を描き出す。

 

 テンションの高いエリートサラリーマンではあるが、ゲイであることを隠そうともしない妻夫木聡が引っ掛けた翳のある青年綾野剛。

 

 家出中に歌舞伎町の風俗店で働いてボロボロになっている娘、宮崎あおいを救い出した父親、渡辺謙のトコロで最近働き出した松山ケンイチ。

 

 身持ちが悪くオトコと問題を起こした母親と沖縄に逃げてきた広瀬すずが、家の近くの無人島で出会った森山未來。

 

 映画はこの三人の周辺を並行して描き、観客は

「ああ、この三人の中の1人が冒頭の殺人事件の犯人なんだな、、、」

と判っていく仕組みになっている。

 

 3人のウチの1人が犯人なら、残りの二人はなんなんだと言うことになるが、コレは

「犯人に間違われたヒト」

である。

 コレもまたひとつの殺人事件に狂わされた人生ということだろう。

 

 で、ですね、この3つのストーリーを平行して描く手腕に、ホトホト関心しましたね。
 ちょっと「クラウド アトラス」を思い出した。
 セリフや効果音のぶら下がりを多用して別の空間に飛ぶ。
 それぞれのストーリーのちょっとした共通項を媒介にして(帽子とか)ジャンプする。

 

 どれかひとつのカットでもひっこ抜くとガラガラと音を立てて崩れ落ちそうなほど精緻な構造物であるかのように、微塵も乱れること無く3つのストーリーを描ききった手腕には恐れ入った。

 

 役者の演技を引き出したという意味でもスゴい。
 渡辺謙のような超大物や、松山ケンイチ、森山未來といったクセ者俳優のみならず、広瀬すずやオキナワの少年のような新人まで、リアリティのない演技をしている奴が1人もいないのだ。

 宮崎あおいが出ると、だいたい宮崎あおいの巧さだけが目立ってあとは目立たなくなる気がするが、それすら感じさせない。

 

 巷間ブッキーの熱いゲイっぷりが話題になっているが、ブッキーは元々コレくらい出来るだろう。
 それより池脇千鶴の堂に入ったおばさんぶりと、ラストにワンシーンだけ出てくる高畑充希の繊細な芝居に舌を巻いた。

 

 と、さんざん持ち上げたので、安心して苦言を呈しますが、この映画はほぼ致命的と言ってもいい構造上の欠陥を抱えてるのね。
 世の中には読んで面白かったからと言って映画にしてはいけない小説もあるわけで、このハナシは優れた小説になったとしても映画にしてはいけない、っていうかほんらい映画にはならないハナシだと思う。

 

 日本の3ヶ所で繰り広げられる、良い話ではあるが比較的地味なハナシを観客が興味を持って観ていられるのは、3人のうち誰が犯人なのかと言う興味で引っ張られているからだろう。
 従って、この映画は構造的に誰が犯人であるかは最後まで伏せられていなくてはならないのだ。
 小説であればコレを隠すのは簡単だが、映画で役者演じるとなると、コレは格段に難しくなる。

 

 犯行シーンで犯人の顔をカメラワークでごまかしているのはいい。コレは映画として当然の手法だ。
 しかし整形手術後の防犯カメラ映像やモンタージュ写真になるともうイケない。

 

 ネタバレになるので3人の素性の知れないオトコを演じる役者を記号化してA,B,Cとすると、防犯カメラ映像はA、モンタージュ写真はBの役者を使っていて、犯人は実はCが演じるオトコなのである。
 つまり映像を使って観客をミスリードしている。
 コレはダメなのではないか。

 

 細かいことを言うと、防犯カメラの映像はAの周辺の人物が、モンタージュはBの周辺の人物がそれぞれテレビを通して知る、と言うカタチで提示される。

 コレはつまり犯人はA(B)なのではないか、不安に思っている人物の目にはA(B)に見えるものだ、という演出のようにも思える。

 もし、Aが防犯カメラの映像を演じる時、監督に「なぜ犯人じゃない僕がこのシーンを演じるんですか?」と訊いたとしたら、そんなようなことを言ってそうな気がする。

 

 しかしそれならそれで、A、B、C三人でそれぞれ防犯カメラのシーンを撮っておいて、それぞれの周辺の人物がA、B、Cによる防犯カメラ映像を見る、という演出もありえたのでないか。

 当然、モンタージュ写真も同じことをすればいい(つかコレ、ネタバレになってね?)。

 

 さらに言えば、この映画は犯人の内面を描くことが許されない。犯罪者にふさわしい内実など描いてしまえばすぐに誰が犯人がわかってしまうからだ。
 しかるにこの映画のタイトルは「怒り」であり、犯行現場には「怒」の文字が血文字で残されていた。
 犯人の怒りが重要なテーマであることは明らかなのだが、何にそんなに怒っているかは、「構造的に」描くことが許されない。
 コレを「吉田修一の『怒り』」の映画化、として発表するのはマズイのではないか。

 

 李相日監督の作品に関しては、前作「許されざる者」に関しても「コレは映画にしちゃダメなんじゃ、、、」と思った。
イーストウッド作品にしても、吉田修一作品にしても、観て(読んで)感動したから映画にしていいというものではない。或いは無理そうなものを敢えて映画化するなら相当な工夫が必要なはずである。

 

 描写力がトンデモ無いレベルに達しているのにとても残念。「悪人」の成功で錬成な判断力を失っているのでは無いことを望みます。

JUGEMテーマ:映画

at 01:32, 空中禁煙者, 邦画

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「ホワイト・バレット」 中島哲也風、ジョニー・トー

 多作な天才と言う人種がいる。

 

 すぐ思いつく代表例は手塚治虫先生だろう。
 もう神さまなんだから、描きたい作品を描きたいようにじっくり描けばいいと思うのだが、常に週刊誌で多数の連載を抱えて、「納税額No1漫画家」でいないと生きた心地がしなかったそうである。

 

 現代の日本映画界で言えば三池崇史だ。
 三池崇史は自覚的にはハッキリと「金のため(三池組の面々を食わせるため)」と思っているようだが、それだったらもっと一作一作を大事に溜めて作って、作品数は半分以下になっても大ヒット作を連発するという選択肢もあるはずである。その方が一作ごとの単価が上がり金は儲かるのではないか。
 しかしそうはならないのである。
 もう、寝る間もないほどドタバタと忙しくしていないと、生きている実感が感じられないのだろう。

 

 で、ジョニー・トーである。
 ジョニー・トーはなんでこんなに映画を撮りまくるんであろうか。
 手塚治虫や三池崇史のように、マグロが泳ぎ続けないと死ぬがごとく、狂ったように作り続けていないと死ぬのであろうか。

 どうも、天才ジョニー・トーとワタクシ空中さんのような凡人とでは、
「ナニをもってこのアイデアで一本の映画を作るに値すると思われるか」
の判断が完全に食い違ってしまったような気がする。

 

 例えばこの「ホワイト・バレット」の脚本は、フツーの映画監督が、
「この脚本で一本撮ろう!」
と思っても、到底許されるものではない。

 

 原題は「三人行(THREE)」と言うくらいで、3人の登場人物の苦悩を中心に描かれる。
 1人は若くして優秀な脳外科医であるヴィッキー・チャオ。「少林サッカー」では美少女と言う感じだったが、すっかり疲れた大人のキャリアウーマンである。
 彼女の優秀さは脳外科部長も認めているが、手術の結果が思わしくなかった患者から回診の際に罵倒を浴びせられ、訴えられそうになっている。

 

 二人目はその外科医のところに担ぎ込まれる、警察に頭部を銃撃された強盗殺人犯ウォレス・チョン。頭蓋骨内に銃弾が残ったままだが、上手く脳を傷つけずに留まったので、フツーに動いたり喋ったりできる(たまに痙攣の発作に襲われる)。

 

 3人目はそのウォレス・チョンを拷問(発砲を含む)するように部下に命じた警部ルイス・クー。発砲した本人は警察署に避難させているが、報復と拷問の事実がバレるのを恐れて、さらに証拠の捏造を命じたりする。

 

 映画はほぼ全てが病院内、しかもほとんどはICUと医局とナースステーションが一体になったような不思議な部屋を舞台に繰り広げられる。
 なぜそんな不思議な部屋があるかというと、最終的にココでこの映画のキモというべき銃撃戦を繰り広げるためである。
 この銃撃戦で三人の苦悩も何もかもケリを付けるつもりなので、全てが一室に集まっていないと困るのである。

 

 普通の脚本ならこの三人の苦悩をドラマの展開でどうにかすると思うが、ジョニー・トーはそんなことはしないのである。
 ラストでトンデモ無い銃撃戦があって、終わり。
 要するに銃撃戦がやりたいだけなのである。

 

 たしかにこの銃撃戦は見ごたえがある。
 要するに中島哲也監督の「温泉卓球」的なスローモーションとCGを多用して、壮絶な銃撃戦が始まってから数分後(10数分後?)に終わるまでを、延々とカメラが動き回ってワンカットで抑えているのだ。

 つまり、今回ジョニー・トーが映画一本作ってやりたかったのはこの延々とワンカットで続く銃撃戦なのだ。

 

「あ!10分位続く銃撃戦をワンカットでスローモーションとCG使って撮ろう!!」

と思いついてから、

「えーっと、、、10分位続くためにはいろんな登場人物が必要だな、、、
いろんなドラマを抱えた登場人物が一堂に会する場所といえば、、、
そうだ!!病院だ!!」

と言う感じで脚本を書き始めたのではないか。

 

 たった数分間の銃撃戦(の撮り方のアイデア)のために映画を一本作る。
 コレが許されるのがジョニー・トーの天才なのだが、同時にそれを許す香港映画界もちょっと羨ましいな、と思うのであった。

JUGEMテーマ:映画

at 01:35, 空中禁煙者, アジア

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「レジェンド 狂気の美学」 実話によるトム・ハーディ地獄。

 「真田十勇士」が中村勘九郎のための映画だとすると、コレはトム・ハーディのための映画。
 しかし舞台作品の映画化じゃない分、コチラの方が好感が持てる。
 なにしろトム・ハーディは一人二役だ。中村勘九郎だろうとトム・ハーディだろうと、舞台で一人二役は難しいだろう。

 

 1960年台のロンドンに実在した一卵性双生児のギャング、クレイ兄弟を描いた実話。
 兄のレジーは凶暴なところもあるが商売に理解があり切れ者で洒落者。
 一方、弟のロンは常に精神安定剤を飲ませないとナニをするかわからない統合失調症一歩手前の不安定なオトコであり、平然とゲイであることをカミングアウトし、兄に輪をかけて凶暴で冷酷という、手のつけられない厄介者であった。

 この両者をトム・ハーディが演じるわけである。特に兄よりデブなロンを演じるにあたってほっぺに綿は詰めるわなかなかの気合いの入りよう。

 

 なにしろギャング映画なので、それなりに突然の激しい暴力とか、カタギの彼女のギャング家業を諦めるように要求されたりとか、このジャンルにあるべきものはちゃんとある。
 ロンドンのイーストエンド(よくわからないが、兵庫県で言えば尼ヶ崎みたいな感じかな?)の風景も当時のファッションも良く描きこんで、下町からのし上がろうとするギャングのを描いた映画として過不足無い。

 

 しかしこの映画の狙いはそこにはない。
 あくまで「アタマのおかしい厄介者の弟を抱え込んだヤリ手ギャングの苦悩」がこの映画のテーマだ。
 そしてそのために、双子なのに正反対な兄弟を1人で演じ分ける、コレがトム・ハーディがこの映画を作った理由だろう。

 

 兄のレジーだけ観ていると普通のギャングの成り上がりストーリーだが、いちいち弟のロンがぶち壊しに来る。
 精神に不安定なものを抱えるロンはロンで悩みがあり、行動に自分なりの理由はあり、兄のジャマをするつもりはないのだが、裏目裏目に出てしまい、いよいよ兄を怒らせ、さらに追い詰められていく。

 「狂気の美学」と言う日本語のサブタイトルはなかなか巧い。

 あくまで「狂気」とその付き合い方を描いた映画なのだ。

 

 象徴的なシーンがある。
 レジーはアメリカのギャングと組んでロンドンにカジノを作っているが、ある日、アメリカンギャングの現地代理人に「ロンを消せないか」と言われてしまう。
 ドン・マイケル・コルレオーネは、ファミリーのためなら大好きな兄貴も殺していいたっけな、、、と、ふと思う。

 実際にレジーがロンを切れたかどうかは、本編でご確認ください。

JUGEMテーマ:映画

at 19:54, 空中禁煙者, 洋画

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「真田十勇士」 偉大な父を持った者のアガきにしか見えない。

 くどいようだが、堤幸彦というのは、「悪ふざけをカネの取れる芸にまで高めたヒト」であって、逆に言うとそれ以外は出来ない(やってもロクなもんにならない)ヒトでもある。
 実際にはイロイロやっているが、正直言ってどれもロクなもんじゃない。

 従って、売れているからと言って堤カントクにまかせておけば痛快時代劇になるほど世の中甘くないのである。

 

 一応アクション「コメディ」でもあるので、オープニングから観るものをして
「アレ?オレ間違ってアニメ映画見始めちゃったかな?」
と不安になるほど延々とアニメ映像を見せて絶妙のタイミングで
「本作はアニメ作品ではありません」
とテロップを出すなど、それなりに超弩級の悪フザケをブッ込んでもいるのだが、やはり、まず、痛快時代劇であることが先にたつので、いかにも中途半端なものにならざるを得ない。

 

 提カントク主導の提作品がまず「芸としての悪フザケ」を提示するためにあるとすれば、中途半端なこの映画はなんのためにあるのかというと、おそらくは、
「中村勘九郎が父親と同じように歌舞伎に囚われない『軽み(かろみ)』を身につけている」
事を証明するためにあるとしか思えない。
 スタッフ・キャスト一同そんな事に付き合わされてご苦労様としか言いようがないが、金払って観せられた方もなかなかツラい。。

 

 こういうことはワリと舞台でありそうな気がする。
 舞台のほうが予算規模が少ないし。
 興行価値全体の比率の中で役者が占める割合多そうだし。
 いわゆる「映画は監督のモノ、ドラマは脚本家のモノ、舞台は役者のモノ」理論である。
 舞台を観に来るのは中村勘九郎のファンだらけとお言うこともありうるが、映画じゃそうは行かないのよ。それとも全国何百ヶ所の映画館を同時に一日何回も埋めるほど自分のファンがいると思ってるんだろうか。

 

 舞台を映画化する際はくれぐれも気をつけていただきたいというハナシであった。

JUGEMテーマ:映画

at 20:14, 空中禁煙者, 邦画

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