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中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「万引き家族」 価値紊乱者の憂鬱

 恐らく、是枝裕和監督は今の日本映画界、いや、日本のメジャーな表現者の中で、最大の価値紊乱者なのだろう。
 「公権力とは潔く距離を保つ」という発言もむべなるかな、せっかく公権力側でも距離を取ろうとしていたのだから、判ってないのは野党だな、と思う。

 

 安倍ちゃんは判ってる。
 コイツが今の日本人にとって根源的な価値観を揺るがそうとしていること、全国民がほぼ、崩壊していることが判っているにも関わらず、崩壊の証拠を見せつけられるとヒステリックに批判だけして、一向に対策を打ち出せないでいる問題をえぐり出している、とんでもない価値紊乱者であることを。
 安倍ちゃんにもそれがわかるくらいの知性はあるのだな、と判ってちょっと安心したりする。

 

 観始めてすぐ、タイトルの「万引き」は是枝監督のミスリードかな、と思う。
 この一家は、実は万引き以上にヤヴァい事情を抱え込んでいることが、すぐに明らかになるのだ。
 万引きで生計を立てているわけでもない。一家の中で労働可能年齢に達している者は全員まっとうな収入があるのだ。
 祖母は年金、父は建設現場で日雇労働、母はクリーニング工場でパート、母の妹はJK見学店(基本的に肉体的接触は少ない風俗)でバイト。
 それだけ働き手がいれば、子供二人くらいフツーに育てられる気がする。

 

 にもかかわらず、リリー・フランキー演じる「父」は「長男」に万引きを教え込む。
 まず、この父親において、「所有」の概念が、現在の日本人の一般的な解釈からは大きく逸脱していることが示される。そして「妻」も「祖母」も次々に同様に「所有」の概念の逸脱が描写される。
 そして我々は彼らの逸脱が単に「モノ」の所有に留まらず、「ヒト」の所有にまで及んでいることを思い知らされる。
 子供は戸籍上の親の所有物なのか。
 子供とは、なにを契機にどこに帰属するのが子供にとって一番幸せなのか。
 彼らが我々に突きつける逸脱によって、我々の価値観も揺らぎだす瞬間を味わうことになる。

 

 是枝裕和監督は、価値紊乱者であると同時に今の日本映画界で最も作家性の強い映画監督だろう。
 ずっと同じテーマで撮り続けてる。
 柳楽優弥にカンヌ映画祭最優秀男優賞を史上最年少でもたらした「誰も知らない」から15年。
 「万引き家族」は「誰も知らない」の柳楽優弥が、ついに安住の地を見つけたハナシであるかのように立ち上がってくる。
 そして「誰も知らない」がそうであったように、等身大のリアルな人物像をぶつけてくる。
 柳楽優弥にカンヌ映画祭主演男優賞をもたらした演技指導が、大挙してやってくるのだ。

 

 是枝監督の独特の演出法についてくだくだしく申し述べるのはヒトに任せよう。
 我々の価値観が揺るがされるのは、つまるところ演技が胸につまされるからで有ることだけ指摘しておけばいいだろう。
 そうでなければ単なるヤヴァい一家の言行録だ。

 

 相変わらず子役と女優は素晴らしい。
 唯一のオトナのオトコであるリリー・フランキーだけが居心地悪そうにしているが、これはつまり、「いつもどこにいても居心地悪そうなオトコ」の演技なのだろう。

 

 本人はそんなつもりはなかったのだろうが、是枝監督は価値を紊乱する事によって政治的な色眼鏡で見られる事になってしまったようだ。
 願わくば映画というものがスクリーンに映し出された(この表現も揺らいでいるが)ものだけで評価されますことを。

JUGEMテーマ:映画

at 21:15, 空中禁煙者, 邦画

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「ヴァレリアン千の惑星の救世主」 アキラ・デシネとしっかり美女

 時は28世紀。
 人類は3,000を超える異星人と友好関係を結び、1,000を超える種族と巨大な膨張し続ける宇宙ステーションを営んでいた。
 主人公のヴァレリアン少佐はナンパで超チャラいが宇宙連邦No.1の腕利き捜査官。今日も今日とて相棒の超絶美女でしっかり者の助手ローレリーヌ軍曹とつかの間の休暇を楽しんでいたが、急遽上司に呼び出されて、何でも複製できる伝説の機械、転送機をめぐる陰謀に巻き込まれ、宇宙を駆け巡る羽目になるのであった、、、

 

 コレ、メッチャ楽しそうじゃないですか?
 コレだよコレ、こーゆーのが見たかったんだよ、、、って感じ。

S Fやファンタジーに抵抗があるヒトは初手から無理だろうが、一度でもスペースオペラ的なものにハマったことがあるヒトなら、なんだか設定といいヴィジュアルといい、心惹かれるのよ。

 

 で、結局どうだったかって言うと、ですね、、、

 た、退屈、、、

 まあ、だいたい予想ついてたけど、、、

 

 リュック・ベッソンは「ニキータ」や「レオン」のような現代劇だとタイトな映画を作るが、どういうわけか「フィフス・エレメント」や「アデル/ファラオと復活の秘薬」などSF/ファンタジー作品ではダラッダラダラッダラ見せ場ばっかり繰り延べやがってからに、あんまり見せ場が続くともう、開巻30分のでもう、どーでも良くなって来るのよ、こっちは。
 根が子供だからCGで自分が見たかったものが見られて、嬉しくなっちゃって歯止めが効かなくなるんだろうか。
 ゴーグルつけなきゃ入れない、仮想空間にあるマーケット、なんてさ、面白いっちゃ面白いんだけど、途中からナニやってんだか解らないよね。

 せっかくリアーナまで引っ張り出した「ナニにでも化けられる星人」も、あー、ハイハイ、何にでも化けられるのね、ハイハイ、んじゃ、いろんなものに化けてね、という印象しかな無い。

 

 それでも最後まで見続けられるのは、とりも直さず、主役の二人の魅力でしか無い。

 相変わらずリュック・ベッソンは女優を見つけてくるのが上手い。
 カーラ・デルヴィーニュ嬢は、この長い映画の三倍くらいの時間眺め続けても飽きない美しさ。
 ちゃんとしっかり者に見えるし。

 ワタクシ空中さんは「アデル/ファラオと復活の秘薬」を思い出して、最後までカーラちゃんが乳出すんじゃないかと期待してしまった、、、

 

 ヴァレリアン少佐役のデイン・デハーンもクソ生意気そうなルックスが何故か憎めなくて意外に好感が持てる。
 途中剣戟のあるシーンで、まるでアクションができないことが露呈してしまうのは残念だが、

 

 ところでこのヒトのルックス、なんとなく、大友克洋っぽくね?
 ハッキリ言うと、「アキラ」の金田顔なのだ。
 そのせいでこのヒトの出てるカットは「アキラ」のワンカットのように見えてくる。

 「ヴァレリアン」の原作はもともとバンド・デシネと呼ばれるフランスのコミックなので、どっちかがどっちかの影響下にあるのかもしれない(テキトー)。

 

 しかしこのリュック・ベッソンのダラダラ病はどうしたらいいんだろう。
 なんとなく、ポール・ハーシュに編集させればどうにかなるような気もするが、本来的には脚本をちゃんとしろ、というハナシだ。
 でも、無理なんだろうな、、、
 誰もリュック・ベッソンに言えないんだろうな、、、
 別にコケたって生活に困らないから、コケるコケないより、自分のやりたいようになる方が大事なんだろうな、、、

JUGEMテーマ:映画

at 01:00, 空中禁煙者, 洋画

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「イコライザー2」 馬は嵐の日に蒼ざめる。

 そんなわけで御用監督アントワーン・フークアによるデンゼル・ワシントンの「クリ様ごっこ」シリーズ第三作。

 

 前作はエピソード0でTVシリーズのフォーマットに即してなかったせいか、今回はアヴァンタイトルで一発、必殺必中仕置屋稼業してる。しかもトルコまで行って。
 ご苦労なこった。

 

 前作でもなんとか文芸風味を出そうと頑張っていたが、今作でもやってます。しかも前作以上。

 前作ラストの大騒動でさすがにホームセンターにいられなくなったのか(アレ、警察にどうやって説明したんだろう、、、)、デンゼル・ワシントン演ずるマッコールさん、今はタクシードライバーをたつきの道に選んでらっしゃる。

 

 そして、例によって大小の人助けにいそしんでらっしゃる。
 近所のばーさんの花壇を守る仕事から、のちのちストーリにーに絡んでくる、画家志望の黒人青年がヤクの売人になるのを防いだり。
 なかでもタクシーの運ちゃんとして送り迎えしてるおじいちゃんの家族を捜すハナシは、ソレだけで一本の映画になりそう。

 

 とは言うものの、今回の事件も別に依頼があったわけではななく、前作でも登場していた旧知の人物の仇を打つハナシ。
 なんかもう、ほとんど「イコライザー」を名乗る必然性が無いんだけど、大丈夫なんだろうか。

 

 そんな中、懐かしのTVシリーズの人気だけ利用しつつ、今回ナニをやってらっしゃるのかと言うと、ですね、まあ、クリ様の「ペイルライダー」をやってらっしゃいます。

 

 どの辺が「ペイルライダー」かというと、ですね、悪役全員がマッコールさんを見ると「死んだ筈じゃ、、、」というところです。
 そして、「ペイルライダー」である以上、前回のホームセンターのような人の大勢いるところで対決するわけには行かない。
 やはり西部劇で対決と言ったらゴーストタウンだろう。
 フークワ監督はわざわざ「ハリケーンの接近のために住民を避難させた」という設定でゴーストタウンを作り出してまで西部劇の設定にこだわる。
 そしてそのゴーストタウンで、マッコールさんに「ペイルライダー」のクリ様のような神出鬼没の活躍をさせる。
 「蒼ざめた馬の騎手」は嵐とともにやってくるものなのよ。

 

 今回はアヴァンタイトルからアクション満載で、アクション映画としてはサービス満点なのだが、前作ほどノれないのは、やはり悪役が前作ほどの迫力で描かれてないからだろう。
 一応今回の悪役はマッコールさんの昔の仲間なので、同等の実力の持ち主、という設定も可能だったはずなのだが、残念ながら全員マッコールさんの実力を尊敬していて、「オマエさえいてくれたらこんなことにはならなかった」的なことをのたまう。
 もう、最初から勝負はついてる。
「さ、さすがにマッコールさんもかなわないんじゃ、、、」

というスリルがなく、盛り上がりに欠けることおびただしい。

 マッコールさんの守護天使とも言うべき旧友が死んでしまったことや、ラストの雰囲気から、なんとなく、このシリーズもコレで終わりかな、という感じはある。
 デンゼル・ワシントン=アントワーン・フークア組がナニをやりたかったかは、二回に渡り書かせてもらったが、なぜ、「イコライザー」というフォーマットを借りたのかは、最後までわからなかった。
 単に見て育ったから好きだった、とかそんな感じだろうか。

 なんとか、もう一度おっかない悪役を捻出してスリルを味あわせてほしいとおもうのであった。

JUGEMテーマ:映画

at 03:03, 空中禁煙者, 洋画

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セブンイレブンはE電に乗って

 セブンイレブンを「セブン」と呼ぶ奴が嫌だ。

 

 ワタクシ空中さんはかねてより、セブンイレブンの略称は

「セビレ」

であると主張してやまないのである。

 

 イヤイヤイヤイヤ、「セビレ」て。

 

「セビレの『ビ』はどっから湧いて出たんだよ、という意見もお有りでしょうが、

 

セブ○・イレ〇〇→セブイレ→セヴィーレ→セヴィレ→セビレ

 

と活用しているのである。

 

 そんなわけでかねてからワタクシ空中さんは、誰かがセブンイレブンのことを「セブン」と呼んだ際は、直ちに「セビレ」と呼ぶよう、提言させていただいている。

 

 そんなある日の、ワタクシ空中さんと、当年とって22歳の若い部下との会話である。

「空中さん、ちょっとセブン寄ってっていいですか?」
「だからセブンって言うんじゃねえ!セビレだっつってんだろーが!!」
「またそのハナシですか、、、もう、セブンでいいじゃないですか、、、」
「じゃ100歩譲ってオマエが今後ファミマを『ファミリー』、スタバを『スター』って呼ぶんなら、セブンって呼ぶことを許す」
「・・・、、、アッ!!ちょっ、ちょっと空中さんアレ見てください!!セブンの入口の上!!『朝セブン』って書いてありますよ!!セブンサイドも『セブン』って言ってほしいんですよ!!」
「ほう、、、じゃなにか?オマエはコカ・コーラのこと『コーク』って呼ぶのか?東京トームのこと『ビッグエッグ』って呼ぶのか?国電のこと『E電』って呼ぶのか?そこに愛はあるのか?」
「・・・なんすかソレ?」

 

 さもありなん。
 どれも当年とって22歳の彼が生まれる前に死語だ。
 知ってるわけがなかった。

 

 しかし、ワタクシ空中さんはこの時点でもっと重要なことに気づいたのである。

 

「こ、国電ってナニ?」

 

 イヤ、ワタクシ空中さんとて国電を知らないわけではない。
 ワタクシ空中さんが子供の頃、大人たちは山手線や中央線のことを「国電」と呼んでいたのだ。ワタクシ空中さんは今も昔も三多摩地区(コレも死語だな、、、)在住なのであまり意識していなかったが、恐らく大人たちは総武線も京浜東北線も国電と呼んでいただろう。

 

 試みにWikipediaを見てみると、

 

>国電(こくでん)とは、日本国有鉄道(国鉄)の電車で、

>大都市周辺で運転された近距離専用電車または近距離専用電車線を指した。

 

とあり、だいたいワタクシ空中さんの記憶と合っている。

 

 しかし、ここには致命的な問題が潜んでいる。
 それは、「そもそもなんで大都市周辺の近距離専用線を長距離線と区別して呼ぶ必要があったのか」という問題である。

 

 ここで注意してほしいのは、「コーク」という愛称はコカ・コーラボトリングの意に反して普及しなかったが、ヒトビトは普通にコカ・コーラと呼んでいる(ワタクシ空中さんの印象では、現状ヒトビトはコカ・コーラを「コーラ」、ペプシ・コーラを「ペプシ」と呼んでいる気がする)し、「ビッグエッグ」も別にフツーに東京ドームと呼んでいることだ。

 

 しかし、E電は?E電という名称が普及しなかったことは有名だが、普及しなかった結果、今なんと呼ばれてるの?
 「国電」?
 そんなはずはない。
 国電でもE電でもない第三の愛称が発明されたの?
 聞いたこと無い。

 コレはどういうことだろう。

 

 「E電」という新愛称が定着せずにスグ廃れた、という話題は当時からよく出ていたが、それではE電の代わりに、イマ、なんと呼ばれているのか。

 

 なんとも呼ばれていない気がする。

 

 て言うか、そもそも、あえて「大都市周辺で運転された近距離専用電車」を総称して呼び表す必要性が何ら見いだせない。

 

 コレは要するに、単に新愛称が人口に膾炙しなかったという問題ではなく、そもそも国電(=E電)という概念自体が無くなってしまったということであり、「コーク」や「ビッグエッグ」とはちょっとレベルの違うのだろう。

 さいわい、コカ・コーラも東京ドームもまだあるし。

 

 当然、ここで気になるのは、なぜ「国電=E電」という概念は無くなってしまったのか、ということだろう。
 イヤ、実は概念としては無くなっていないのだ。
 もともと、国電→E電は、国鉄→JR内部に存在する概念であり、実はJR内部的には有効な概念で、たまに告知文などに登場しては

「JRまだE電って使ってたのかよッつ!!」

などと話題になってたりする。

 

 しかし、一般市民のあいだでは、完全に「死語」のような「死概念」になっている。

 なぜ死概念になってしまったのか、つらつら考えるに、結局、Wikipediaにあった定義のうちの、「大都市周辺」と「近距離線」が問題なのだろう。

 大都市周辺には近距離を走る「JR線では無い」鉄道が存在する。
 そう、私鉄線である。
 もともと国鉄内部でも私鉄と対抗するために「国電」という区別が必要だったのだ。
 「国電」と呼ばれる区間は料金体系も車体番号の付け方のルールもソレ以外とは違っていたらしい。

 

 その昔、国鉄にはどうしても私鉄に対抗しなければならない理由があったのだ。

 そして、私鉄に対抗するべく「国電」という区別を編み出した国鉄ではあったが、世のお父さんたちは、国鉄の思惑とは逆の意味で「国電」という概念を扱っていた。

曰く、

 

「やっぱ、国電は高ぇなあ、、、私鉄で行くか、、、」
「また国電ストだってよ!!バスで私鉄まで出なきゃ!!早く朝メシ!!」

 

等である。

 要するに、「国電」という概念が生きていた頃、お父さんたちの国電に対するイメージは、
「料金がクソ高い(2倍くらい違った)」
「しょっちゅうストライキして停まる」
であり、「国電」という単語もこの文脈でお父さんお母さんたちが口にすることが多かったと言うか、今となってはほとんどこの文脈でしか口にすることはなかったような気さえする。

 

 そんな中、、莫大な赤字を抱えつつ国鉄は破綻(子供の頃、国鉄車両内部の吊り広告で、「まさに借金地獄」という表現で自らの窮状を訴えていたのが異様に印象に残っている)、民営化されてJRになった際に、勢いで国電をE電と呼び替えてみたものの、よく考えたら自分も私鉄になっていた。
 その後のJR東日本の成功は言うまでもないだろう。
 あっという間に黒字化(北海道と四国はもともと「国電」がないのでノーカンね)死、ストライキは無くなった。
 そうこうするうち料金的にも私鉄と差が縮まって(私鉄の値上げのせいもあるが)、いつしか世のお父さんたちの口にもE電という呼称で私鉄と区別する必要もなくなってきたのであった、、、

 

 と、いうことではないかと思うのよ。
 確証はないけど。

 

 愛称問題についてはまだまだ問題が山積みである。
 そもそもなぜコークもビッグエッグも普及しなかったのか、とか。
 TBS新社屋ビッグハット問題とか。
 マックとマクド問題とか。
 コレらの問題についてもいつか考察と思っているが、とりあえず今日の結論。

 

「セブンイレブンはセビレと呼べ」

at 21:13, 空中禁煙者, 雑感

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「マグニフィセント・セブン」 西部劇の集大成でイーストウッドへショートカット

 前作「イコライザー」でクリント・イーストウッドなることを宣言した(もう、勝手に決めつけてますけど)デンゼル・ワシントンではあったが、じゃあ、

 

「今のオレに無くってクリント・イーストウッドにあるものってなに?」

 

と考えた結果、

 

「ソレは、西部劇である」

 

という結論に達したかどうかわからないが(ワタクシ空中さんは完全にそう思い込んでる)、なんとデンゼル先生、イキナリ西部劇史上最も人気の高い名作のリメイクに挑んできました。
 コレ一発でクリ様の西部劇キャリアを自分でも対抗できるものとして精算するつもりだろうか。

 そんな思惑も踏まえつつ、映画の出来について考えたい。

 

 皆さん御存知の通り、この映画は1954年の黒澤映画「七人の侍」のリメイク、の1960年のジョン・スタージェス映画「荒野の七人」のリメイク、となっている。
 このリメイクの連鎖ですが、「侍」だけが3時間20分の長尺、「荒野」と「セブン」はおおよそ2時間なのだが、どういうわけ、後に行くほど「悪役の描写」が多くなる。

 3時間20分ある「侍」は実は、正義の武士対悪の野伏(「のぶせり」って読んでね)の戦いであるにも関わらず、野伏の描写はほとんどない。その描写の少なさは、悪い人間の集団というよりは、移動するパニックのようである。
 ココまで徹底的に悪役の描写を配したアクション映画というのは、当時としては珍しい、と言うか殆ど無かったのである。
 しかしこの手法はこの後増えてくる。黒澤はこういうイロイロなことを発明しているのである。

 

 ところが。
 そのリメイクであるはずの「荒野」「セブン」は、どんどん悪役の描写が増えてくるのである。
 なぜならその方が盛り上がるから。

 

 普通はそうなのだ。
 フツーに考えて、悪役を憎々しく描いておいたほうが、盛り上がるではないか。
 より憎々しい奴をやっつけた方がスッとするではないか。

 逆に言うとコレをやらずに盛り上げまくった黒澤ってやっぱスゴい、ということでもあるのだが、、、

 

 で、ですね。
 ここまでをまとめると、ですね。
 要は、後発2作は時間が1/3近く短くなっているにも関わらず、悪役の描写は増えている、ということであり、ソレは取りも直さずこのストーリの持ちネタとも言うべき、

「7人が集まる過程」とか、

「村人との交流(訓練)」とか

「ラストの大銃撃戦」とかが、

どんどん削られているということになる。

 

 特に一番新しい「セブン」は、悪役が今までのような野盗ではなく、コレまでにもいくつもの金鉱を暴力で乗っ取って来た悪徳実業家、つまりは権力者である。
 なかなか描き甲斐があるではないか。

 そうやって悪役を描いているうちに、どんどん正義の味方を描く時間は時間が減っていく。

 

 このネタはオールスターキャストが持ち味であり、最初のリメイクでもある「荒野」にしてからが、ユル・ブリンナー、スティーブ・マックィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンと七人うち5人もメジャーなハリウッド映画で主役を張れる役者が揃っているが、「セブン」はデンゼル・ワシントンとクリス・プラットとイーサン・ホークくらいではないか(まあ、イ・ビョンホンもいるけど)。
 当然、ひとりひとりの個性を描く余裕はどんどん無くなっていく。

 

 そして「七人の個性描き分け問題」にもまして重要なのは、そもそも「なんでこの七人は命がけで村人を守るのか」問題である。

 「侍」の七人が村人を守るのは、つまるところ彼らが「武士」だからだ。
 もともと民人を守って戦うのが武士の努めだからである。

 

「米の飯なら腹いっぱい食える」

 

などというのは言い訳に過ぎない。

 ところが西部のガンマンにはもともと罪なき市民を守る定めなど無い。
 彼らはなぜ、「多分ほとんど全員死ぬであろう」判っているミッションに自ら参加するのだろうか。
 「荒野」もここは苦しんでいる。ほぼ、ゴマカシている、と言ってもいいだろう。

 そして、「セブン」はココを逃げていない。
 一応、「侍」には無かった新たな説明を付けている。

 

 デンゼル・ワシントン演じる主人公、サム・チザムは、かつてこの悪徳業者に家族を殺されているのだ。
 つまり、彼にとっては復讐劇なのである。

 さらに言えば、ガンマンを探しに出る村人は悪徳業者に夫を殺され、コレまた復讐に燃える勇敢かつ美貌の人妻、ヘイリー・ベネットなのである。
 ヘイリー・ベネットは前作「イコライザー」は添え物程度だったが、今回は堂々のヒロイン、荒くれオトコどもを村まで引っ張るファム・ファタールぶりにシビレる。

 こういう改変を寂しがる、場合によってはお怒りになる向きもあるだろうが、時間を短縮するには、まあ、有効だろう。所詮、ガンマンと武士は違う。テーマが変わるのもしょうがないだろう。

 

 こういう時短策を用いることによって、この映画はたっぷり西部劇らしい銃撃戦を描くことに成功している。
 最初に街に居座っていた用心棒どもを一掃するシーンから、もう、銃撃戦に関してはお腹いっぱい堪能できる。

 

 こういうことを書くと怒られるかも知れないが、この映画に対する関心のひとつに、「黒人監督に『西部』が描けるのか」(うわ、やっぱ怒られそう、、、)という問題があった。
 開巻直後、メンバーを集めながら大自然の中を旅するシーンなどのヌケの良い絵で、ほう、、、と思ったが、やはり「西部情緒」というものが感じられるほどではなかった。
 しかしコレは日本でも時代劇情緒の撮れる演出家がどんどん減っているのと同じく、人種の問題ではなく世代の問題なのかも知れない。

 デンゼル・ワシントンの「我、黒人のイーストウッドたらん」という目的のためには、やはりイーストウッド監督の西部劇を都会のアクションに換骨奪胎する、という戦略が正解なのかも知れない。

JUGEMテーマ:映画

at 21:29, 空中禁煙者, 洋画

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