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マジックソープ ベビーマイルド 236ml
マジックソープ ベビーマイルド 236ml (JUGEMレビュー »)

中年オトコが石鹸をオススメかよッ!!と言うなかれ。ワタシはコレをガロンボトルで買い込んでます。
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「ロケットマン」 エルトンのファンじゃなく、タロン・エジャトンのファンのための映画

 

 監督のデクスター・フレッチャーというのは、ようするに「ボヘミアン・ラプソディ」の完成直前にブライアン・シンガーが逃げた後、急遽後始末を任されて後始末をつけたヒトで、もう、この時点で二番煎じであることはミエミエではないか。

 

 で、二番煎じです。

 だって。

 父親に愛されない音楽をこころざす青年が自らの性的嗜好に悩みながらも成功をつかみ、ゲイのマネージャーに騙されたり酒と薬に溺れたりするけどデビュー前からの仲間は裏切らない。

 一緒じゃん。

 まあ、違うところもある。
 「ボヘミアン・ラプソディ」があくまでも「登場人物がミュージシャンだから歌うシーンが多い」だけの音楽映画であるのに対し、「ロケットマン」は明確にミュージカルである。登場人物が突然歌って踊るのである。
 なにしろオープニングから少年時代のエルトン・ジョン、レジナルド・ドワイト少年が「Bitch Is Back」を歌いながら外に出ると、そのまま街行く通行人たちと群舞になるのだ。

 ある意味「マンマ・ミーア」と同じ、一人(組)のミュージシャンの曲だけでミュージカルにする、と言う試みでもある。たまたまそのミュージシャンが、主人公も兼ねていた、と。

 ところが、ですね。
 ココにもまた問題があって、ですね。
 「マンマ・ミーア」は歌詞とストーリーが合ってる訳ですね。
 歌詞に合わせてストーリーを作ってると言ってもいい。
 ところが「ロケットマン」はいまいちそうなってない。
 冒頭の「Bitch Is Back」にしてからが、なんでエルトンはまだ少年時代なのに「あばずれさんがお帰り」になるのか全く分からない。エルトンのヒット曲の中でももっともイントロが派手なんでオープニングにふさわしくね?、とかではないか。

 特に。
 エルトンの半生を映画にする、と聞いてオールドロックファンが期待するのは例の「プリマドンナ事件」がどう描かれるのか、ではなかろうか。

 1975年の傑作アルバム「キャプテン・ファンタスティック(アンド・ザ・ブラウンダートカウボーイ)」に「僕を救ったプリマドンナ」という美しい曲がある(まあ、シングルカットされてヒットもした)。
 この「僕を救った〜」というのが誤訳である、というのは発売当時から言われていた。
 何しろ原題は「Someone Saved My Life Tonight」である。単純に訳して「今夜誰かが僕の人生を救った」にしかならない。
 歌詞の中に確かに「プリマドンナ」と言う単語が出てくるのだが、どうもよく考えると「誰かが(プリマドンナから)僕の人生を救った」と言う意味にしか思えない。

 

 と、ココまではわかるのだが、その先がよくわからない。
 オンナより仕事を取ったオトコのハナシかな、と思うが、それにしちゃ曲調が大仰で希望に満ちている。
 芸術家ってそういうものなのかな?と言う感じ。

 

 さらにタイトルの「さませいまらいとぅない♪」のあとに続く「しゅがべー♪(しゅがべーえーえー♪」という謎のコーラス。なに?シュガーベアって。砂糖熊?お菓子?

 ところが。
 それからなんと35年後の2010年にこの「プリマドンナ」が名乗り出るのである。

「あの歌のプリマドンナはワタシのことよ」
というわけだ。
 彼女は売れない頃のエルトンと相棒の作詞家バーニーが下宿していたアパートに住んでいた女性で、なぜかエルトンと「デキて」しまう。まあ、エルトンはある程度バイ・セクシャルでもあったのだろう。
 そしてエルトンは世間体も考えゲイであることを押し殺して(まあ、カモフラージュもあるだろう)彼女と婚約してしまう。
 ところが当時エルトンがバックバンドを努めていた先輩ミュージシャンのロング・ジョン・ボルドリーと飲んでいたときそのハナシになり、自身もゲイを既にカミングアウトし、エルトンもゲイであることを見抜いていたボルトリー師匠は言下に
 「ヤメろ。そんなことをしたらオマエの音楽は死んでしまうぞ」
とのたまい、エルトンはその晩、アパートを脱出する。
 そして驚いたことに、ロング・ジョン・ボルトリー師匠のあだ名は「シュガーベア」なのだという。

 えええええーーーーーーーッ!!!!!!

 シュガーベアってヒトの名前だったのか、、、

 つまりあの歌は、「(性的に不一致な)プリマドンナから僕を救ったシュガーベア」という曲だったのだ。
 と、言うような事情は町山智浩氏のブログに詳しいです。

 しかしこのハナシにはまだ謎がある。
 プリマドンナ女史はあの歌のプリマドンナが自分であることは分かるだろうが、酒場で行われた会話は知るすべがない。あの辺の事情はどこからつたわったんだろうか。
 さらに言えばロング・ジョン・ボルドリー氏のあだ名がシュガーベアであることは、当時のロンドンのポップミュージックシーン、少なくともボルドリー師匠のファンの間では知れていたのではないか。
 「キャプテン・ファンタスティック」を出した1975年当時、エルトンは既に「ビートルズ以来最大の売上」を誇るポップスターであり、彼がボルドリー師匠のバックバンドをやっていたことも知られていたはずである。
 だとすれば、当時のロンドンのポップファンたちは、この歌を聴いて「ああ、シュガーベアに諭されたのね、、、ということはエルトンも、、、」くらい思っていたのではないか。

 ココで問題になるのは曲タイトルの誤訳問題である。
 実は日本のレコード会社の担当者はエルトンがゲイであることを知っていて、「今ゲイであることがバレると売上に響くかな、、、」と思い、あえてプリマドンナとは別れない感じの邦題にしたのではなかろうか。あえての誤訳、あえてのミスリードだったのではなかろうか。

 で、ですね。
 映画ですよ。
 実を言うとこのシーンは有ることは有るのである。
 しかし、夜明けに逃げ出さないし(真っ昼間逃げ出してプリマドンナに窓から物投げられたりする)、酒場で諭すのは白人ブルースマン、ボルドリー師匠ではなく、イギリス出稼ぎ中のソウルミュージッシャンである(サミー・デイビス・ジュニアのイメージではないか)。
 そしてなにより、このシーンに「僕を救ったプリマドンナ」はかからないのである。
 エルトン=バーニーの曲の中でもコレほど実際の出来事を歌ったことが有名である曲もないのに、なぜ使わないのか、と思う。
 ことほどさようにファンを裏切るところがあるのよ、この作品は。

 あと、ミュージカルとしてもどうかな、と思う。
 まあ、ダンスがショボいのね。
 群舞のシーンが何度も有るのに、「あ!スゴい!!」と思うダンス、「楽しい!」と思うダンスは一箇所もなかった。
 ただ、ミュージカル中に幻想になだれ込むシーンが何箇所かあり、このなだれ込み方にけっこうハッとさせられ、このためのミュージカルなのかな、という気もする。
 アメリカに渡って最初のステージでテンションが上りすぎて宙に浮いてしまうシーン。
 プールの底で「自分」に出会うシーン。
 このふたつには確かに映像的な力がある。

 結局、エルトン・ジョンをよく知らない人が見たら面白いのかな、と思ったのである。
 最初から「こういう奴がいた」、あるいは全くのフィクション、と思って観れば、面白いのかも知れない、と思ってみれば、余計な史実や自分が知っている人物像に惑わされることなく楽しめるのかも知れない。

 しかし、ネットでエルトン・ジョンを知らない若い人たちの評判を見ると、彼らの多くは「エルトン・ジョンのファンが見たら面白いかも知れない」と言っている。
 じゃあ誰が観たら面白いんだよ、、、というハナシだ。

 イヤ。
 いた。
 この映画を楽しめるヒト。
 それは。
 ダロン・エジャトンのファンだ。
 エルトン・ジョンを知っている我々から見ると、エルトンがあんな筋肉ムキムキな訳はない、アレじゃスパイじゃねーか、と思うが、知らないヒトは気にならないだろう。
 そして確かに歌唱力はスゴい。
 タロン・エジャトンのファンは彼のムキムキ筋肉も演技力も歌唱力も楽しめて大変オトクな映画となっている。

 ただし、ワタクシ空中さん、この映画を見てから一週間、エルトン・ジョンの音源を引っ張り出して聴きまくってしまいました、、、エルトン式のラブソングはもう何十年も前に卒業したと思ってたんだけどね、、、

 

JUGEMテーマ:映画

at 00:46, 空中禁煙者, 洋画

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「復活の日」 祝!(なのか?)リヴァイヴァル上映決定!

 

 小松左京が本作を執筆したのは1964年、東京オリンピックの年である。そして、56年後、二度目の東京オリンピックの年に我々はこの作品を思い出さざるを得ない状況にいる。
何というめぐり合わせであろうか。

 思い起こせば11年前、我々は「日本沈没」を思い出していた。そして今、「復活の日」を思い出している。
 次は何を思い出すのだろう。
「さよならジュピター」だろうか。
「虚無回廊」だろうか。
 まさか、「首都消失」ということは、、、

 そして、小松左京の「復活の日」はすぐれてメッセージ小説である。
 それはストーリーから離れて、突然「ヘルシンキ大学文明史担当、ユージン・スミルノフ教授最後のラジオ講義」として語られる。
 小説全体も終わり近くなってから突然挿入されるこのラジオ講義こそが、本作を通じて小松左京が訴えたかったことなのだと思う。
 わざわざココにしか出てこないキャラを作ってまで伝えたかった小松左京のメッセージとは、、、

 純粋科学の否定

 コレである。

 「復活の日」とはコレを言うための小説なのである。
 核兵器開発に関わったアインシュタインやフォン・ブラウンを引き合いに出して、「科学は哲学とともに歩むべきである」というのである。科学者は純粋な真理への探究心のみではなく、哲学者の意見を聞きながら研究しろ、というのだ。
 本書を読んだときワタクシ空中さんはいっぱしのSFマニア気取りの学生だったが、「こんなに生硬な形でメッセージを叩きつけてくるのか、、、」と戦慄すら覚えた記憶がある。

 このメッセージに対して、
「はぁ?ナニ言ってるの?このオジさん、、、」
と思うのは今が2020年だからである。
 「政治の季節」であった1964年においてはこの思想がそれなりのリアリティを持ったのである。
 今を生きる我々にこの言葉が全く響いてこないのは、今の科学者が純粋な真理の探求などではなく、資本家とともに歩み、資本家の意見を聞きながらしか研究しないと思っているからではないか。哲学者とともに歩んでもらうためには、まず、資本家と引き離さなければならない。
 思えば、「純粋科学の否定」というのは、まず、純粋科学に対する信頼を前提にしていることに気付かされる。

 ところがだがしかし。
 映画版の「復活の日」にはこのメッセージは登場しない。
 まあ、ラジオで大学教授が哲学を語っているだけ、などというシーンを映画でやってもしょうがない。
 コレは映画的には正解だろう。
「え?じゃメッセージ性は?」
と言うなかれ。
 「復活の日」には、他にも小松左京が投げ込んだ豪速球が2球もあり、映画版は2球ともちゃんと振っている。そのうち1球は見事に打ち返してさえいるのだ。

 とはいうものの、ホワイトハウスの大統領執務室のシーンと、南極上陸を巡って二隻の潜水艦が対決するシーンは、映画ならではの迫力に満ちていて、深作欣二監督と脚本の高田宏治の手柄だろう。

 アメリカ政府首脳の中でただ二人生き残った大統領(グレン・フォード)と上院議員(ロバート・ボーン)が、二人とも間近に迫った自らの死を確信しながら最後の会話を交わしている。その、自然な会話の中で、
「アレ?南極探検隊は生きてんじゃね?」
と二人同時に気づいて顔を見合わせるシーンには、初見のときは鳥肌が立った。
 名優二人の芝居も相俟って、
「ヒトがなにか重要なことに気づく瞬間とはこういうものか、、、」
と思わせる。 

 かと思うと、新たに設立された南極連邦の首脳会議中に、突然近海を航行中のロシアの潜水艦から交信が入る。
 船内に感染者が蔓延していて、上陸させてほしい、というのだ。
 当然拒否する南極連邦ではあったが、ロシア潜水艦も命がかかっている(と思っている)から無理やり上陸しようとしてくる。
 そこに突然割って入る第二の潜水艦からの交信。
「必要なら撃沈しますが?」
というのだ。
 ココからこの三つ巴の交渉が決着をみるまでの緊迫感はさすが深作欣二という感じ。
 なんか潜水艦絡みはライブラリー映像を使ってるような気がしなくもないが、とにかく編集でどうにかできちゃく深作の面目躍如の名シーンだと思う。

 とりあえず映画版の美点を指摘しておいて(疫病の災禍と戦う日本の医療現場のシーンで誰もマスクをしていないのは流石に今の目で見ると違和感があるが)。
 小松左京の豪速球の件ですが。

 まあ、世界で唯一生き残った南極の住民たちで今後の世界を作っていかなきゃいけないわけですけどね、問題は、その男女比であります。
 小説版ではオトコ10,000人対オンナ15人。
 映画版では850対8。
 小説版と映画版でなんでこんなに住人の数が違うのかちっともわからないが(16年で南極観測の規模が大きく変わったんだろうか)、いずれにしてもとんでもない男女の不均衡である。
 彼らは地球最後の人類であり、人類の未来は彼らにかかっているのである。
 当然、ここに「子孫繁栄」、だの「恋愛感情」だの、あまつさえ「性欲処理」などという問題が発生してくるのである。

 地獄である。

 しかし小松先生はこの問題にあっさり回答を与えてしまう。
 なんと、女性隊員たちはくじ引きで順番に男性隊員たちの相手をし、妊娠することを義務付けられ、女性隊員たちも基地内の平和と人類存続のために意外にあっさりこの条件を受け入れるのである。

 この展開は16年後に作られた映画版でも(人口の差はあれ)踏襲される。
 コレ、今じゃ無理じゃね?
 お笑い芸人が「可愛い子が風俗に来る」ことを期待する発言をしただけで大炎上する今の日本でこんな設定が可能なのだろうか。
 それとも「人類存続のためならしょうがなくね?」と言うハナシになるのだろうか。
 今の私はこの小松左京の豪速球を見逃すことしかできない。

 そしてもうひとつ。
 実を言うとなにしろ56年前の小説、40年前の映画なので、さすがにもうオチを書いてもいいだろうと思っていたのだが、なんと、このコロナ禍にあわせてリヴァイヴァル上映されることが決まったと言う。
 一応、オチに関わる最後の豪速球は、次のページで。
 しっかし「リヴァイヴァル上映」って懐かしい言葉だなぁ、、、
 映画界としても何年ぶりだろうか。

続きを読む >>

at 20:41, 空中禁煙者, 邦画

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「ほんとにあった!呪いのビデオ 82」 KANEDA氏初見切れ?

 

 本作のとあるエピソードを観ていて、ハタと気づいたことがある。
 「ほん呪」シリーズは「呪いのビデオ」っちゅうくらいで呪いが映像化されているわけだが、たいていの場合、呪いの主体として人間の姿が顕在化される。たまに、音声だけとか、人間以外のものが映像として姿を表すこともあるが、ほとんどの場合、人間の姿をして現れる(多少、あるいは大幅に変形している場合が多いが)。
 しかるに、「ほん呪」シリーズを観ていて、その、顕在化された人体(まあ、亡霊とか言っても良い)の、亡くなった時代性、というものを意識したことがない。
 多くの場合は、中村氏のナレーションで「数年前、、、」とか「○○年前、、、」とか、比較的最近のその場所、その投稿者(かその関係者)に関する由来が語られるが、調査しても(あるいは調査なしの場合もある)因縁がわからない場合は、語られない場合もある。
 その場合、顕在化した呪いの主体としての人物が、亡くなった時代によっては、ヘアスタイルやファッションにかなりの差が出るはずである。
 例えば1960年だと平成令和では、特に男性のファッションが、女性以上に変わっている。
 端的に言ってピッピーファッションの幽霊とかいてもイイような気がするが、そういう霊は、じゃなかった例は見たことがない気がする。
 例えば落ち武者の幽霊、などというものも世間ではよく聞くが、「ほん呪」ではそういう時代モノも現れたことがないような気がする。
 
 コレは実は「幽霊とは何なのか」に関わる重大な問題のような気がする。
 なぜヒトは幽霊を見るのか。
 それは、今生きている人間の「記憶」と関係があるのかもしれない。
 
「ナイトサファリ」
 文字通りサファリパークの夜のツアー。
 暗闇の動物たちを写していると、体の一部がない飼育員が立っている。
 そして、その一部は別の場所に写っている。
 猛獣(ガオー!)→飼育員(恐る恐る)→体の一部(バクッ!)、と言う連想が効くところが面白いといえば面白いが、正直、体の一部の方は何度目を凝らしても見えない。
 
「佇む者」
 KANEDA氏は筒井康隆のファンかもしれない。
 それはそれとしてコレはちょっと面白い。
 ヘルメットにカメラを付けてバイクで延々と走る映像。
 雨の町並みを疾走するバイクのライダー目線で捉えてる映像だけでなかなかの迫力なのだが、挙句の果てにバイクごと転倒してしまうという、なかなか見ごたえのあるアクション風味の映像となっている。
 現象としては一度交差点にいたオンナがしばらく走った後の交差点にも、、、バイクより走ってきた、とでも言うのだろうか、、、というもの。
 オンナは例によって黒髪長髪白装束の貞子スタイル。
 多分、ショートカットだとオンナだとわからないからだろう。
 
「初日の出」
 冒頭の「幽霊の時代スタイル」はこのエピソードを見て思いました。
 出てくる「この世ならざるもの」が長髪真ん中分けのオトコで、サングラスをしていないみうらじゅん氏みたいなのだ。
 コレはアッ!と思った。
 その手があったか!!
 しかし、中村氏のナレーションは「数年前、この山の麓で、、、」とワタクシ空中さんの予想を冷たく打ち砕くのであった、、、
 
「何を呼ぶ」
 KANEDA氏はエピソードタイトルの付け方が変。
 彼女と温泉旅行に行って卓球してたら卓球室の窓の外に、、、
 というハナシ。
 正直、このエピソードは窓の外の映像より、音声と、のちの調査で判明するネット上の情報がメイン。
 窓の外の映像ほとんど見えないし。
 正直、あんなもん普通に見てて気づくわけない。
 そしてタイトルの「何を」が示すとおり、誰が、誰を、どちらに呼んでいるのか、よくわからない。
 
「マジシャン」
 ストリート・マジシャン、というのは初めて見た。
 このエピソードも、映像自体より
「後ほどこのマジシャンに映像を見せると急に怯えだした、、、、」
という後日談頼み。
 なぜマジシャンに映像を見せようと思ったのか、なぜストーカーが病死したと知っているのか、いろいろと謎は残るが中村氏のナレーションベースで解決。
 
「切断」
 外国モノ。
 ヨーロッパのとある国。
 まあ、オンナが這いずってくるわけですが。
 ナレーションで「近くの踏切で電車と自動車が衝突する事故があり、自動車を運転していた女性が投げ出され、、、」伝えられるが、踏切は写っておらず、どれくらいの距離があるかわからない。
 どれくらいの距離をああやって移動してきたのだろう。
 なんでそんなに移動する必要が有るのだろう。
 
 あと、このヒトは半透明。
 「この世ならざるもの」に半透明タイプと不透明タイプがいる理由についてもそのうち考察してみたい。
 
「静止する身体」
 今回の長編。
 コレはまたシンプルすぎて変なタイトル。
 
 投稿者は友人が引っ越したのというので新居に訪ねる(ふたりとも20代後半の女性)。
 投稿者はカメラを廻しながら新居のココがどーでアソコがどーなどというハナシをしているが、撮られた映像を見ると、部屋の中を撮っていたカメラが、しばらく友人に戻ったとき、友人が「話し声はフツーに聞こえているにも関わらず」友人は椅子の上で死んだように背にもたれかかり、斜め下を向いている。
 話し声と映像がまるで合っていない。
 
 コレだけだとちょっと不思議は不思議だが、別に「呪い」ってほどのことは無くね?とも思う。
 しかし、この後投稿者は件の友人を伴って『ほん呪」製作委員会にやってきて、並んで座ってインタビューを受けるのだが、このときのサブカメラの映像で、やはり友人に同じ現象が起こっている。
 サブカメラの映像だけ、新居での映像のように、友人が斜めしたを向いて死んだように動かなくなっている。 このときの様子を、メインカメラとサブカメラの映像を並べて再生する映像はなかなか迫力がある。
 投稿者は全く同じ動きをしているのに、サブカメラの友人だけ全く動かないのだ。
 
 で、ですね。
 数日後、友人の方から「投稿者が怪我をした」と言う連絡が入るのだが、このとき、ですね、何故か、新人演出補、中田亮くんのアップから入るのね。
 突然、何故か中田くんがアップで写っていると、画面の外で電話がかかってくる。で、「あくまで」画面の外でおそらくはKANEDA氏が出て会話している。そしてKANEDA氏から中田くんに、投稿者が怪我した旨伝えられる。
 
 ナニコレ。
 このときなんで中田くんをアップで撮ってたの?
 
 だいたい、KANEDA氏は「電話」を撮りたがる傾向にある。
 前巻でも謎のヒゲデブライター氏や、霊能力者のおねいさんにハナシを聞いている最中に電話がかかってくる、と言う演出を繰り返していた。
 臨場感を狙っているのかもしれないが、あんまり繰り返すと嘘くさいからヤメたほうがイイのではないか。
 今回も全然なんのつもりだか解らないし。
 
 この後、怪我をした二人(友人の方も軽傷ながら怪我をしている)を呼んでハナシを聞いた結果、投稿者が「勤務先の大学でおかしな目にあったことが有る」と言い出す。
 
 イヤイヤ、友人側の問題かと思ったら、投稿者側の問題なのかよ。
 
 結果、大学までロケに行くのだが、何も起こらない。
 しかし、何故か大学側から監視カメラ映像を借りるとそこには、、、というハナシ。
 
 一方では友人が頑なに新居にスタッフを入れるのを拒否するといういかにも怪しい言動もあり、もう、どこにフォーカスを当てればいいのかわからなくなってくる。
 正直、コレ、今後面白くなるの?という不安を残しつつ、次巻以降に続くのであった。
 
 まさか、監視カメラ映像に写り込んだ短髪短パンに何やら腰に巻いたチャラい人物がKANEDA氏である、とでも言うのだろうか、、、

JUGEMテーマ:ノンフィクショ

at 00:27, 空中禁煙者, 邦画

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「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」 シャロン・テートへの鎮魂歌

 

 タランティーノにしか作れない映画であると同時に、タランティーノにしか許されない映画。
 例えば、この映画の脚本を、タラちゃん以外が持ってきたとして、金を出すヤツ、監督するヤツ、出演したがるヤツ、ドレもコレもひとりもいないだろう。
 しかし、「コレをタラちゃんが演出するとすると、、、」と考え始めた瞬間、アッという間に100億円の制作費は集まるわ(ちなみに収益は現時点でその4倍)、デカプーは出るわブラピは出るわアル・パチーノは出るわと言う騒ぎである。
 
 しかしこの映画、2時間半の間、ラスト直前に至るまでほとんど事件らしい事件は起きない。
 ただ、仲の良いオッサン二人の日常を淡々と描いているだけだ。
 
 オッサンの一人は、デカプー演じるもともと映画スターだったがやがてテレビの人気者になって、今はやや落ち目で悩んでいる中堅俳優。
 もうひとりはブラピ演じるその映画スター専属のスタントマン。
 この二人の大した事件が起きるでもない友情の日々がこの映画のメインである。
 決して「熱い友情」でもホモっぽくもない。
 かと言って決して離れ離れにはなれない、コレまた淡々とした不思議な友情。
  
 イヤ、もうひとりいた。
 三人目の主役はシャロン・テート。
 まあ、みんな知ってるだろうけど、この映画はあの「シャロン・テート事件」を前提にしていて、もう、シャロン・テートが大々的にフィーチャーされている。
 シャロン・テート事件についてくだくだしく説明するのはやめておくが、要は1969年6月8日から9日の深夜、新進女優にして当時新進気鋭の映画監督ロマン・ポランスキーの奥さん(妊娠8ヶ月)であったシャロン・テートは、自宅で友人たち数人とヒッピーの集団に惨殺される(もう、ココに書けないくらいの惨殺)のである(説明してもうた、、、)。
 この、もうすぐ亡くなってしまうシャロン・テートさんをたっぷり描いている、というのもこの映画の仕掛のひとつなのだ。
 パーティーではしゃぐシャロン。家ではしゃぐシャロン。
 極めつけは、街を一人で散策していて、自分が出演している映画を上映中の映画館を見つけ、もぎりの女性に「アタシ、この映画に出てるのよ?」
 と名乗ってしまうシーンだろう。
 普通に考えたらタダのイヤミなバカ女だが、タランティーノ監督は決してそうは描かない。
 客席で自分が出演する映画を観ながら、撮影時の苦労に思いを馳せるシャロン。
 まるで天使のようである。
 タラちゃんは、ココではあくまでシャロン・テートを「時代を象徴する天使」として描いている。
 
 そして、我々は、1969年の8月9日、シャロン・テートが惨殺されることを知っている。
 さらに、映画の最初で、シャロン・テートとロマン・ポランスキー夫妻は、デカプー演じるスターが住んでいるハリウッドの超高級住宅街、シエロドラブの隣の家に引っ越してきたことが描かれる。
 この三人の運命が、やがて交差するであろうことは、観客にはわかっている。 
 
 いっぽうデカプー演じるスターは、自分が落ち目であることに悩んでいる。
 映画スターからテレビのスターに落ちたものの、それでも一時は大人気シリーズの主役だった。それが今では後輩スターのためのシリーズの悪役が主な仕事であり、当然のことながら専属スタントマンのブラピの仕事も減っている。
 
 仕事のランクが落ちていることに悩むデカプーと、仕事がないブラピ。
 この二人の、それなりにイロイロなことが起きはするが、どう考えても映画にするほどでもない日常。
 しかし、コレが面白い。
 例によってダラダラとした会話を交えてこの、ある意味役者やスタントマンとしては当たり前の日常を描いて面白くできるのは、やはりタラ坊だけなのだ。
 
 このパートのクライマックスは、デカプーが8歳の美少女(マジ美少女)子役との交流の中で演技開眼するシーンと、ブラピがヒッピー女に連れられて、「スパーン映画牧場」に行くシーンはある意味クライマックスだろう。
 デカプーが「演技開眼する演技」ができているかどうかは、ご自分の目で確かめていただきたいが、ブラプが「スパーン映画牧場」に乗り込むシーンは、そこが惨殺事件の犯人グループ、チャールズ・マンソン一味のアジトであったことを知っていると知らないとでは、サスペンスが全然違うので、一応知っておいたほうがよろしからんと思い、ココにも書いてみました。
 
 そんなこんなで、映画は運命の1969年8月9日に向け、ゆっくりと進んでいく。
 この映画、ラスト直前までタラ坊の映画としては画期的に暴力沙汰が少ないが、ラストにはそれなりにカタストロフが用意されている。
 どういうカタストロフになるかは実際に観ていただきたいが、コレはやはりタランティーノにしか許されないラストだろう。
 そういう意味ではちょっと「イングロリアス・バスターズ」にも似ている。
 
 ラストのワンカットにいたり、我々は
 「ああ、このためにシャロン・テートを天使のように描いたいたんだな、、、」
 と深く首肯するのであった。

 

 ところでブラピの奥さんの件ってなんなの?

JUGEMテーマ:映画

at 01:34, 空中禁煙者, 洋画

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「旅先のオバケ」 平成最後の昭和軽薄体(の出がらし)

 

 中学生から20代の終わりくらいまで、「エッセイ集」というものを読み倒していた。
 読み倒していた、というのは、幅広く大量に読んでいた、というよりも、ごく数人の作品を繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も何度も読んでいたのであった。
 その数人とは、
 筒井康隆
 丸谷才一
 山下洋輔
 椎名誠
 の四氏である。
 もちろん、筒井先生と椎名氏に関してはエッセイ以外もほぼ100%読んでいた。
 丸谷才一先生も6〜7割は読んでたかな。
 しかしこの4氏のエッセイの面白さは突出している。
 
 まあ、一番笑えるのは山下洋輔氏なんだけど。
 正直言ってこの歳まで読んだ書物の中で一番笑ったのは山下洋輔氏のエッセイなんだけど。
 
 しかし。
 その後山下洋輔氏のエッセイがどうなったかは、「山下洋輔の文字化け日記」に書いた。
 さらに、丸谷才一氏は残念ながら亡くなってしまった。
 さらにさらに筒井先生はエッセイなんか書かなくったって小説さえ書いていただければそれで充分でもある。
 残るは椎名誠氏である。
 椎名誠氏のエッセイも、もう、舐めるように何度も何度も読んだものだ。
 あんまり読みすぎて、一時期喋る言葉が椎名口調になってしまい、結婚してから奥さんと本棚を共有するようになってから、
「アナタの使うへんな口調は全部ココ(椎名氏の書籍のコト)に書いてある。『おんなしおんなし的』とか『事実にいちゃん』とか」
などと指摘されたのも今はいい思い出です。

 そんな中、椎名誠氏2018年の新作。
 椎名誠と言えば旅である。
 そんな椎名氏が、タイトルの通り旅先で、主に宿で遭遇した恐怖体験を集めたエッセイ集。
 
 で、ですね。
 「旅先のオバケ」
 ですよ。
 
 た・び・さ・き・の・お・ば・け
 
 椎名氏のエッセイ集のタイトルと言えば、
 「さらば国分寺書店のオババ」
 である。
 「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵」
 である。
 「哀愁の街に霧は降るのだ」
 である。
 
 しかるにコレはどうだろう。
 何度も言うが、
 「旅先のオバケ」。
 
 なんとなく、タイトルの変化が内容をも予感させるのだが、、、
 
 まあ、そういう意味では予想どおりだよね。
 「山下洋輔の文字化け日記」と同じ。
 もう、あの椎名誠はいないのだろう。
 そりゃそうだ。
 前記の初期エッセイは70年代の終わりから80年代の作だ。40年前だ。人間40年も生きてりゃイロイロ変わる。
 
 とは言うものの、ココまで変わるか、、、というのが正直な感想。
 ココにはもはや「読んだヒトを文章力で面白がらそう」という思いは感じられない。
 そういう意味で「山下洋輔の文字化け日記」と全く同じ印象。
 若い頃に好きだった作家が枯れちまった悲しみに、今日も小雪が降りしきる。
 夢枕獏氏にも一時同様の思いを抱いたが、バク先生はなんとか持ちこたえてもいる。
 
 むかし筒井先生のエッセイに、編集部の注文を受けて書いたエッセイがボツになったと言うハナシを書いていた。
 筒井先生としては注文通りに書いたつもりだったが、担当編集者の上司の編集長から、望んでいたものと違っていました、と言う旨の手紙が来たと言う。
 筒井先生はその手紙を読んで「あ、連絡トレテナーイ」と思ったそうだが、その編集長の考えでは、「随筆とは、心象と物象の交わるところに生じるものであると思います」ということらしい。
 筒井先生は随筆が心象物象の交わるところに生じるとは知らなかったので、「ハハァーー」と思って寝てしまったそうである。 
 
 さらに、コレももう何十年も前だが、今は亡き中島梓氏は「エッセイとは、面白くてはイケないものである」と言っていた。 面白いエッセイなどというものはまだまだ「若い」し「青い」のであって、吐き出して吐き出して、ひねり出してひねり出してスッカラカンになってからが、エッセイの真髄だ、というのだ。
 何も書くことが無くなってから、それでも書かざるを得なくなって書かれた出がらしのようなモノを楽しむのがエッセイの楽しみかたなのだという。
 
 本書はまさに心象(心霊現象)と物象(宿屋)の交わるところに生じた出がらしである。
 ワタクシ空中さんももうトシなので、本来こういうものを楽しめなければならないような気もする。
 しかしトシということは残り時間が短いということでもあって、あえてつまらないものを好んで読む時間は残されていないなぁ、、、などと思うのであった、、、

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at 02:31, 空中禁煙者, 書籍

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